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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

主にあって集い喜び分かち合う交わりの中で

松本雅弘牧師
ゼカリヤ書8章3~4節  使徒言行録2章14~21節
2019年9月15日

Ⅰ.敬老感謝礼拝とは

今日は敬老感謝礼拝です。今年の週報を見ますと、75歳以上の方たちのお名前がぐっと増えたように感じるのは私だけでしょうか。
テレビのコマーシャルを見ると世界には若者しかいないかのような錯覚に襲われます。でも、そうではありません。4世代が共に集い礼拝する教会では普通は経験できない、世代を超えた交わりがあります。そうした交わりのことを、「主を囲む交わり」、今年の主題である「主にあって集い喜び分かち合う交わり」と呼んでもよいのではないかと思います。
これからも信仰の先輩、人生の先輩が、主イエスの恵みと平安の内、健やかに信仰の旅路をまっとうされますようにと、感謝と祈りを捧げるのが、この敬老感謝礼拝の時です。今日は、そのようなことを覚えながら、御言葉を学んでいきたいと思います。

Ⅱ.預言者ゼカリヤの遣わされた時代

今日のために選んだ御言葉はゼカリヤ書です。この預言をしたゼカリヤは、今から2500年程前に活躍をしていた預言者でした。
ゼカリヤの活躍した時代は、ちょうど、世界を治めたペルシャのキュロス王の時代でした。彼は諸国の栄枯盛衰の歴史に学び、1つの結論に到達しました。それは、国が滅びるには理由があるということ。その理由とは、征服した国の人々が拝んでいた神を大事にしなかったからだ。故に、〈ペルシャの国が今後安泰であるためには、諸国の神々を怒らせ、敵に回してはならない〉ということでした。
そこでキュロスは、ユダヤ人達をバビロン捕囚から解放し、祖国に戻し、神殿を再建させ、そこでペルシャ帝国の繁栄と安寧を祈るようにと命令を出したのです。
ところがエルサレムに帰還したユダヤ人を待ち受けていたのは荒廃した都エルサレムと再建不可能なほどメチャメチャに破壊された神殿でした。ですから、再び絶望の底に落とされるような経験をしたのです。そうした時に、エルサレムの町の復興と再建を預言したのが、今日、取り上げたゼカリヤという預言者だったのです。
さて、ここでゼカリヤは、「エルサレムの広場には、再び、老爺、老婆が座するようになる」(ゼカリヤ8:4)と預言しています。
考えてみるとこれはたいへん不思議な内容です。今日はお歳を召した方々も大勢いらっしゃいますので多少失礼にあたるかもしれませんが、聞いていただきたいのです。普通、国や町の復興のために力となるのは老人パワーというよりも若い人の力でしょう。ところがゼカリヤは長寿のゆえに手に杖を持つ老人や老女たちが、道端に座っている姿を預言しているのです。
問題は、神さまの御心はどこにあったのかということですが、その手がかりとして、アモス書の次の言葉を思い出しました。「それゆえ、知恵ある者はこの時代に沈黙する。まことに、悪い時代だ」(アモス5:13)
「知恵ある人々が、黙り込んでしまう」というのです。理由は、「悪い時代だからだ」というのです。聖書は終始一貫して、老人は知恵ある者の代表として描かれています。お年寄りは家族や部族の中で、人生経験豊かであるがゆえに尊敬され、尊ばれてきました。ところが、その知恵ある年長者が沈黙する。
何故でしょう。「沈黙する」とは言い換えれば、知恵を語る場がなくなること。その時代の人々が聞く耳を持たなくなる、ということでしょうか。確かに、知恵者の知恵が時代の流れについていけなくなる、時代遅れとなるということも理由の1つかも知れません。
同時に、若者の側に、へりくだった思いが薄れ、知恵者に耳を傾けなくなって来る、と言った理由もあるかもしれません。どちらが先か分かりませんが、いずれにしても、老人が沈黙してしまう。年寄りの声が聞えなくなってくる。聖書によれば、「それは悪い時代の特徴だ」と教えるのです。
こうしたことを踏まえた上で、今日のゼカリヤ書の御言葉にもう一度注目したいのです。ゼカリヤは言います。「エルサレムの広場には、再び、老爺、老婆が座するようになる」と。神さまの恵みが行き届き、神さまの赦しの恵みが支配し、神さまの平安が覆っている世界にあって、まず老人が生き生きとして、広場に居場所が確保されているのです。
ここに「座する」という言葉が出て来ますが、もう若い人と同じように立っていなくてもいいのです。しゃがんでいてもよい。ゆっくりとした時間の流れの中で座る場所がある。そして皆で集まって語る。
そこの交わりの中に若い人が入って来て、何かを得ていくかどうかは、それは若い人の問題です。しかし、たとえそうでなくても、「エルサレムの広場には、再び、老爺、老婆が座するようになる。」つまり、そこに「オアシス」があったということです。

Ⅲ.オアシスとしての教会

ここでゼカリヤは、青年たちや元気な人々、軍人たちの姿にエルサレム再建の希望を見たのではありません。むしろ、道端に座りこみ、その日、その時を、何もしないで過ごしているように見える「老人や老女たち」の中に、再建されるエルサレムの姿を見ていたのです。
何故なら私たち人間はそのままで受け入れられる時に、不思議な力を経験する。喜びが湧いてくるからです。子どもたちやお年寄りが、神さまからすっぽりと受け入れられ、温かく大きな御手に守られて生きている姿を通し、周囲の人々は自分のことのように安心するからなのです。
会社で現役の人、子育て真っ最中のお母さん、お父さんは、今、まさに忙しく動きまわらなければならない年齢かもしれません。そして毎日、やることが一杯ある、若者たちは、一線を退かれた人生の先輩、信仰の先輩の方々が、最後の最後まで喜んで生きる姿を通して、その背後におられる神さまの恵みに触れて、自分の心も癒され、潤いをいただいていくのです。

Ⅳ.主にあって集い喜び分かち合う交わりの中で

ポール・トルニエは、『老いの意味』という本、その他たくさんの本を書いています。その中に『人生の四季』という本があります。
トルニエによれば、人生にも、この自然界同様に、春夏秋冬という四季がある、と言います。
「春」は「種まきの季節」です。「春」の時期に生きる人は、「種まきという生き方」が求められる。そして、その「春」に蒔いた種が育つのが「夏」です。夏は「収穫の秋」に向けて一生懸命、汗を流す季節です。そして「実りの秋」を迎えて、「冬」へと移行していきます。
そのように、「私たちの人生には四季があり、その時期にふさわしい生き方がある」と、トルニエは聖書から説いていました。4世代が集う教会の交わりに居ますと、その4つのシーズンを同時並行して見ることができる幸いに与れます。
子育て最中の人は、思春期の子どもたちを抱えている兄弟姉妹の姿を見て学ぶことができます。「今が一番よ」という先輩の言葉を、ちょうどその先輩が語ってくださった年齢に自分もなった時に、初めてその意味の深さを噛みしめるものでしょう。そして、先輩たちがどのように締めくくっていかれるのかを、年若い者たちが見せていただけるのも、教会の交わりの中にいることの特権だと思います。
先ほど「人生の諸段階」、そしてその「季節」にあった生き方があるのだ、と聖書は教えている、とお話ししましたが、現実の自分自身の歩みを振り返ってみる時、必ずしも、自分は「春」になすべきことが出来ていなかった。その「しわ寄せ」が「夏」に持ち越され、そして「秋」へと引き継がれ、正に今の自分がここにいる。まさに「蒔いた負の種の刈り入れ」をすることもたくさんあるように思います。
でも、どうでしょう。私たちの神さまは信仰の創始者であると共に、完成者でもあると聖書は教えています。つまり、私たちの人生で始めてくださったことを、必ず完成へと導いてくださるご意思と御力をお持ちのお方が神さまだ、というのです。
自分自身を振り返りますと、実に中途半端で、種蒔きも、働きも、その人生の諸段階で十分には出来ていないような負い目を感じることがあります。でも、そうした私に対して聖書は次のように語ります。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(フィリピ1:6)
神さまは、私の中に始めてくださった善き業を、必ず完成させてくださるお方であることを、このみ言葉は思い起こさせているのです。
今日は、「主にあって集い喜び分かち合う交わりの中で」というタイトルを付けさせていただきましたが、私たちの交わりの中に、私たちの人生の中に、主イエスがいてくださる時、そのお方は、その交わりの中で、またその交わりに与る私たちの中に、善き業を始め、それを必ず完成へと導いて下さる。そのお方が、高座教会の交わりのただ中に、そしてご高齢の方々、とくに人生の一区切りとして75歳を迎えられた方々の生活の中に居てくださるのです。
その恵みを、心から味わい、感謝したいと願います。お祈りします。