松本雅弘牧師
イザヤ書46章3―4節
ヨハネによる福音書10章7―14節
2020年9月13日
Ⅰ.敬老感謝礼拝の意義
今年はコロナの影響で、普段のような敬老感謝礼拝ができませんが、しかし、このようにオンライン礼拝ではありますが、私たちの信仰の先輩、人生の先輩方のことを覚えながら、礼拝を捧げることが出来る恵みを感謝しています。
ところで聖書にはたくさんの若者が登場します。モーセやヨシュア、そして士師記の時代に入りますと、ギデオン、サムソン、エフタといった指導者、さらにダビデも若き日の活躍が記録されています。新約に入っても主イエスの12弟子も若い時代に召され、パウロやテモテも青年の時にイエスとの出会いを経験した者たちです。しかし一方でまた、聖書には実に多くの重要な場面で年を重ねた人々が登場し大切な役割を果たしていることを知らされます。罪と悪とがはびこった時代に恵みを受けつぐ者として選ばれたのは年老いたノアでした。アブラハムとサラが祝福を受け約束の子イサクを授かったのも老人になってからです。確かにモーセは若い日に召命を受けましたが実際に出エジプトの大事業の担い手として用いられたのは80歳の時です。少年ダビデを見いだし油を注いだのは既に年老いた預言者サムエルでした。新約の時代に入り御子イエスの誕生を喜ぶ輪の中にはザカリアとエリサベトの老夫婦がおり、年を重ねたシメオンやアンナもおりました。確かに聖書は「天国は幼子のような者の国だ」と幼子性の大切さを教えますが同時に、教会は長老を敬うことによって成り立つ共同体であることを明確に説いています。
Ⅱ.背負ってくださる神さま
今日、選びました聖書個所は有名なイザヤ書46章3節と4節です。「わたしに聞け、ヤコブの家よ。イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」
この個所は「老後」に関しての教えというよりも、「神さまがどのようなお方なのか」ということについて語っています。私たちは、主の日に集い、神を礼拝し、「私たちが信じ、従う神さまは、このようなお方なのだ」と1週間を始めます。実際、今はコロナ禍で共に集って礼拝を捧げることができず、各家庭で動画を観ての礼拝となっていて大変残念なのですが、それでも日曜日に時間を聖別して、神さまをほめたたえる時を持つ。一週間の慌ただしい日々の生活のなかで、いつしか私を取り巻く出来事や生活のなかに起こって来る心配や問題の方が、神さまよりもっと大きなものに見えてしまう誘惑がある中で、もう一度、チャンネルを合わせるように、神さまに心のチャンネルを合わせ、新しい1週間をスタートするためにも、日曜日の礼拝は本当に大切な時間なのです。
詩編には、「神をほめたたえなさい!」とか「神さまを礼拝しなさい!」と勧める言葉がたくさん出て来ます。それは、神さまが礼拝されるにふさわしいお方であると同時に、「主をあがめることは、あなたの力です。賛美をささげることは、あなたの力です」と賛美しますように、礼拝することが生きる上での力になるからなのです。
日々の生活で、様々なことが起こります。健康の不安、経済的な問題、職場での人間関係、進路の問題、子育ての問題、もうありとあらゆる問題が、いつの間にか神さまよりも大きくなってしまう。心の全体を支配してしまう。まるで神の力の範囲を越えているかのように思えてしまい、神さまに期待せずに、自分でどうにかしようと思い煩いの淵に落ち込んで行ってしまう。ですから、主イエスは、こうした思い煩いの中に沈み込む私たちに向かい、「思い悩むな」とおっしゃるのです。
「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈りいれもせず、倉に収めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。あなたがたの天のお父さんは、そういうお方だから、思い悩まないでいいとおっしゃるのです。
主イエスと3年間、寝食を共にしたペトロも、「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけてくださるからです」と勧めていますが、何故、お任せできるのか、お任せしてよいのか。それは神さまがあなたのことを本当に心配していてくださる方だからです。しかも心配するだけでなく、問題から逃れる道を備えてくださる方だからです。その神さまが、「あなたたちの老いる日まで、白髪になるまで背負って行こう」と約束しておられるということなのです。ここに「負う」とか、「担う」とか「背負う」という言葉が出てきます。3つとも違う単語です。でも意味は同じようなものです。今日の新約の朗読箇所にもありますが、イエスさまが私たちの羊飼いとして、羊を養ってくださる。迷子になったら肩に背負って連れ戻してくださることが約束されているのです。
神さまは、私たちが小さい時に経験する、両親や家族に「抱かれ、おぶわれた」と同じように、私たち1人ひとりを背負ってくださるお方だ、と教えるのです。 この礼拝動画をご覧になっている75歳以上の兄弟姉妹が多くおられることと思います。年齢を重ね体力の衰えを感じる時に、神さまによって背負われるという信仰を持つことが出来たら、何と素晴らしいかと思います。
Ⅲ.「足あと」
こうしたテーマの説教をすると、いつも心に浮かぶのが、「足跡」という詩です。
「ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に2人のあしあとが残されていた。1つはわたしのあしあと、もう1つは主のあしあと。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには1つのあしあとしかなかった。わたしの人生で一番辛く、悲しい時だった。このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。『主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生の一番辛い時、1人のあしあとしかなかったのです。一番あなたを必要とした時に、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしには分りません。』
主は、ささやかれた。『わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとが1つだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた』」
神さまは背負ってくださる。共におられるだけではなく、歩けなくなる時、背負ってくださる。私に代わって、しっかりと大地を踏みしめて歩んでくださる。ですから本当に安心なのです。
Ⅳ.主は羊飼い
今日の説教に、「主は羊飼い」と付けました。でも聖書をよく読みますと、「わたしは羊飼い」とだけおっしゃったのではなく、「わたしは、…羊のために命を捨てる」とまで言われるのです。
「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(Ⅱコリント8章9節)使徒パウロの言葉です。
詩編23編を見ますと、私たちの羊飼いである神と共に歩む時、試練や苦しみの時期も含め、「死の陰の谷を行くときも・・わたしは災いを恐れない」とあるように、人生全体が善いものであり、憐みそのものとして見ることができる。私の羊飼いである、主イエス・キリストの神に、これからもずっと導かれ歩んで行きたいと願います。「わたしに聞け、ヤコブの家よ。イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」お祈りいたします。