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主日共同の礼拝説教 敬老感謝礼拝

私を強めてくださる方のお陰で―敬老感謝礼拝

松本雅弘牧師
イザヤ書46章3-4節
エフェソの信徒への手紙2章19-22節
2021年9月19日

Ⅰ.歳を重ねることの意味を聖書からとらえ直す

私たちは天国に向けての旅人、巡礼者同士です。お互いのペースで天国への旅をしています。決して歩く速さを競い合っているのではないのです。ゴールに着いて主と直接まみえる日を待ち望みつつ、そしてまた先に天に召された、愛する家族や親しい仲間たちとの再会を楽しみにしながら、巡礼の旅を味わい歩むのです。
そこには私たちにとって、もう一つの楽しみが待っています。ヨハネの黙示録を見ますと、ゴールにおいて、神は、私たちそれぞれに新しい名を用意して待っておられると書かれている御言葉があるのをご存じでしょうか。黙示録2章17節です。
「耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。(次ですね)また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほか誰も知らない新しい名が記されている。」(黙示録2:17)
名前、それはその人にしか与えられないものです。アブラムにアブラハムという新しい名前、サウルにパウロという新しい名前が神さまに用意されたように、私のための名前、実は、巡礼の歩み、この地上でのクリスチャン生活は、その名にふさわしい正体へと信仰の成長をいただくためのプロセスでもあったでしょう。聖書によれば、私たちは最後の日に、新しい名をいただく。キリストに似た松本雅弘に変えられる。小石に記された新しい名をいただくということは、その名が表す新しい正体に変えられる、ということでしょう。
どんなに歳を重ねて、若い時のように体が言うことを聞かなくなってきたとしても、あるいは、様々な責任を若い者に譲り、具体的な働きが亡くなって行ったとしても、神に愛されている子としての私の身分は誰も取り去ることはできない。
聖書によるならば、私たちの価値とは、その人が何を持っているか、他人がその人を何と言っているかで決まるのではなく、一人ひとりは御子イエス・キリストの命と引き換えに神の子とされた尊い存在なので す。勿論、旅の最後には多少疲れも出て来ます。身体的な色々な部分も傷んでくるでしょう。しかし、最後、死を通して復活のキリストと同じように、新しい体に甦る時に、そこにあってすべてが新しくなることを覚えたいと思うのです。ですから、不都合なこと、それはもう少しの辛抱です。
私たち高座教会では、毎年この時期に、敬老感謝礼拝を捧げますが、歳を重ねることを聖書から、神さまの視点でとらえ直すことに敬老感謝礼拝の意義があるように思うのです。そして、敬愛する信仰の先輩、人生の先輩が、これからも健やかに、与えられた信仰の旅路をまっとうすることができるように、祝福を祈り求めることをしています。
今日、敬老感謝礼拝のために選びました聖書箇所から、神さまの目に映っている私たちの本質。自分が自分をどう評価しようと、神さまがあなたや私をどのような存在として愛しておられるのか、ということに焦点を絞って見ていきたいと思います。

Ⅱ.私たちは「聖なる者たちと同じ民」

19節をご覧ください。パウロはここで、あなたがたは「よそ者/外国人でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民である」と言いました。これは、キリストの十字架と復活を通して救いの恵みに与り、神の国の市民となった私たちが、もはや外国人専用の列ではなく、神の国の民の列に並ぶことが許され、「お帰りなさい。お疲れさま」と、無審査、無条件で神の国への入国が認められる存在とされたのだ、ということを言わんとしているのです。しかも、この地上にあって、すでに国籍を天に持つ者として、プライドを持って生きることが許されている。そして、もう一つ、「聖なる民」とあります。聖書で「聖なる」とは、「神さまのもの/神さまの所有になった」ということです。それが私たちです。

Ⅲ.神の家族、神の住まい

第2番目は何でしょうか。19節の続きを見ますと、そこでパウロは私たちのことを「神の家族の一員」と呼んでいます。
聖書が教える家族とは何でしょう。それは「ありのままの自分で居ていいところ」、何故なら、神さまが私たちをありのまま、そのままで受け入れ、愛してくださっているからです。色々な弱さや欠けを持ち、傷や痛みを抱える私たち一人ひとりの居場所、一人ひとりが大切にされる場、それが神の家族が集う教会という家庭。もっと言えば、面倒をかけたり、かけられたりすることが許されるところです。
「神の家族」には子どもも居るでしょう。若者たちも当然、居ます。働き盛りの現役世代、一線を退いたご高齢の兄弟姉妹。教会という神の家族は、そのような意味で、四世代ですから、各世代のニーズや興味関心も異なるでしょう。様々な意味で違う者同士の私たちが、教会の中でどのように交わるのか。そのことで、高座教会という「神の家族」の真価が問われているように思います。今、まさにKMOが取り組んでいる課題です。
そして3番目に、パウロはクリスチャンのこと、教会のことを「神の住まい」と呼んでいます。そして、その住まいの土台が、「使徒や預言者」、つまり新約と旧約からなる聖書が土台、さらに「隅の親石」が「キリスト・イエスご自身」だとパウロは教えています。
建物にとって土台は重要です。少なくとも次の2つの点で、そう言えます。第一に、土台が重要なのは、いざとなる時に物を言うから。そして第二に、土台は建物全体の将来を決定づけるから大事です。つまり土台を見れば、工事中の建物でも、完成時にどの程度の規模の建物になるのかを知ることが出来ます。
ところが、残念ながら、そんな大切な土台に私たちはあまり関心を払わないのですが、パウロは、「人目からは見えない隠された生活」、言い換えれば、「使徒や預言者」つまり、その人がどれだけ御言葉に根ざした生活の土台を持っているのかに注目し、なおかつ大事に考えています。
そして、「隅の親石」がキリストです。これは土台の角に置かれる大きなもので建物の方向性と大きさを左右する石です。その石がキリストですから、「ぶどうの木であるキリストと、どのような関係にあるか」が私たちの歩みの方向性、またその豊かさを、大きく左右するということでしょう。そして私たちは「神の住まい」です。神さまが私の心に、また私たちの交わりの中心に臨在しておられる。そのお方と共に生きる生活をどう楽しむのか、味わうのかが私たちクリスチャンに与えられた特権なのではないでしょうか。21節を見ますと、「神の住まい」という言葉に代わって「主の聖なる神殿」という表現が出て来ます。私たちは何者なのか。そうです!聖なる民、神の家族、そして聖霊が宿る神の住まいなのです。

Ⅳ.「心の目を開いてください」との祈り

最後になりますが、この時のパウロは、ローマの獄中にいました。ですから囚人です。しかも病を患っていた。肉体的にも精神的にも不自由を経験し、不満や不平を言い出したら切りがないような状況に置かれていたわけですが、不思議とパウロは不平や不満の塊ではなかったのです。なぜなのでしょう?結論から言えば、彼は囚人である以前に天に国籍がある神の国の市民であり、病人以前に神の家族に属する神の子としての誇りが心を支配していたからです。
神の子であり、神の民であり、神の住まいであることが、パウロにとっての第一義的アイデンティティ、囚人である以前に、そうした一つひとつのことが、全てに優先していたのです。この時、パウロは60歳を過ぎていたと言われます。当時、60歳というと、敬老のお祝いをされる年齢だったそうです。しかしパウロは、神さまの力を受けて霊的にみずみずしく若々しく、老人である以前に愛されている神の子、囚人である以前に神の恵みの全財産の相続者として生きていた。
私たちは年を重ねるにしたがって、様々な不自由を経験するでしょう。色々なところでの痛みや弱さを覚えます。ある人は頭角を現してきた若者を見て、自分が脅かされるような不安を経験するかもしれません。しかし、パウロと同じように、そうした1つひとつのことを、祈りを通して、神さまに委ねていきましょう。神さまが、私たちのことを心にかけていてくださるからです。
パウロは、エフェソの信徒への手紙の中で「心の目が照らされ、神の招きによる希望がどのようなものか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、また、私たち信じる者に力強く働く神の力が、どれほど大きい物かを悟ることができますように。」(エフェソ1:18-19)と祈りましたように、何よりも神さまに心の目を照らしていただきたい。そしてこの恵みがいかに大きいものなのか、生活の中で味わいたいと思います。本日、敬老のお祝いを迎えられた御一人ひとりの上に主の祝福が豊かでありますようにとお祈り申し上げます。