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主日共同の礼拝説教

祈祷会 音声メッセージ

教会祈祷会

6月24日(水)

宮城 献 副牧師
『 苦難の中での喜び 』ペトロの手紙一 1章6-7節(428頁)

 

6月17日(水)

宮城 献 副牧師
『 神の力により、信仰によって守られています 』ペトロの手紙一 1章3-5節(428頁)

 

6月10日(水)

宮城 献 副牧師
『 生き生きとした希望 』ペトロの手紙一 1章3-5節(428頁)

 

6月3日(水)

宮城 献 副牧師
『 父子聖霊なる神様によって 』ペトロの手紙一 1章1-2節(428頁)

 

5月20日(水)

宮城 献 副牧師
『 選ばれた寄留者として 』ペトロの手紙一 1章1-2節(428頁)

 

5月13日(水)

宮城 献 副牧師
『 真理へと連れ戻す 』ヤコブの手紙 5章19-20節(427頁)

 

4月22日(水)

宮城 献 副牧師
『 祈りには大きな力がある 』ヤコブの手紙 5章16-18節(427頁)

 

4月15日(水)

宮城 献 副牧師
『 信仰に基づく祈り 』ヤコブの手紙 5章12-15節(426頁)

 

ペンテコステ特別祈祷会

5月27日(水)

宮城 献 副牧師
『 キリスト者の自由 』 コリントの信徒への手紙二 3章17節(328頁)

 

受難週祈祷会

4月6日(月)

和田一郎副牧師
『 弟子の足を洗う 』ヨハネによる福音書13章1-17節

 

4月7日(火)

宮城 献 副牧師
『 心を騒がせるな 』ヨハネによる福音書14章1-21節

 

4月8日(水)

松本 雅弘 牧師
『 わたしは世に勝っている 』ヨハネによる福音書16章25-33節

 

4月9日(木)

和田一郎副牧師
『 大祭司の祈り 』ヨハネによる福音書17章1-26節

 

4月10日(金)

宮城 献 副牧師
『 十字架の死 』ヨハネによる福音書19章16前半-30節

 

受難週祈祷会

祈祷課題

受難週の日々、私たちのために、キリストが担われたご受難と十字架を覚え、悔い改めの祈りをおささげ致しましょう。
それとともに、私たち一人ひとりの苦難を神様に祈り、キリストのご受難を見つめてみましょう。そして、この世界の苦難にも目を留め、祈りをおささげ致しましょう。
私たちは、新型コロナウィルスの感染拡大の中、不安と恐れの日々を歩んでいます。しかし、私たちのこの苦難を、キリストが先だって担われました。今なおそうです。
そして、十字架から復活されたキリストの希望に立って、思い煩いを神様に委ね、ともに歩んでいきましょう。

1) キリストのご受難と十字架を覚え、悔い改めの祈りをおささげしましょう。
2) 自分の苦しみ、悲しみを神様に祈り、キリストのご受難と十字架を覚えましょう。
3) 困難の中にある、愛する兄弟姉妹・家族・友のために祈りましょう。
4) 病いが終息し、共に集い礼拝をささげることが出来ますよう、祈りましょう。
5) 病いと闘う、全世界の友のために祈りましょう。
6) 病いと闘う、全世界の医療従事者のために祈りましょう。
7) 病いと闘う、全世界の為政者のために祈りましょう。

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主日共同の礼拝説教

神の前での善

和田 一郎 副牧師
テサロニケの信徒への手紙二1章11-12節
2020年10月25日

Ⅰ.善い行い

今日与えられている聖書箇所は、パウロがテサロニケの教会の人たちのために、祈っている箇所です。11節に「善を求める」とあります。テサロニケの人々が、今現在、善を行っている、またこれからも善を行おうとしている、その願いが成就しますように、というパウロの祈りになっています。わたしたちの生活の中でも、善い行いをすることは広く奨励されています。昔から日本の中でも大切にされてきたことです。ですからクリスチャンでなくても善い行いをしているという人は沢山いるでしょう。では仏教や学校で教えていることと同じですかと聞かれれば、それは、行っていることは同じに見えるかも知れませんが、クリスチャンは、すでに神様から頂いている恵みに対して応答しているのです。その応答として神様に喜ばれることをしています。と答えることになります。
今日の説教題は「神の前での善」としました。テサロニケの手紙は、終末の時について多く書かれています。生きている者も死んだ者も、すべての人がイエス・キリスト前で審判を受ける。自分の生き方を裁かれる、その時、神様に喜ばれ、「善」とされる事とは、いったいどんな生き方なのでしょうか。イエス様の求める善について考えていきたいと思います。

Ⅱ.旧約聖書 「それは極めて良かった」

旧約聖書、創世記1章には、天地創造の出来事の中で、ある言葉が繰り返し使われています。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった(創世記1章31節)。「善」という文字はありませんが、「神はこれを見て、良しとされた」と繰り返されていて、7日目には「それは極めて良かった」という言葉で終わります。原語では「良しとされた」という言葉が「善」と同じ言葉で書かれています。天地創造で造られた海や山などの自然も人間も「良し」とされた。しかし、大切なポイントは、それら、そのものが本来的に良いとか善なのではなく、善である神が作られたから「善」とされたのです。神様は、「愛」そのものであり、「聖なるもの」そのものであり、「善」そのものの神です。善はなによりもまず神御自身であり、神のなされる業を意味しています。
わたしたちカンバーランド長老教会の信仰告白にも次のような言葉があります。
「人間とすべての被造物に対する神の意思は、全く賢く善なるものである」(信仰告白1.08)。今を生きる私たちが、命を与えられた時「それは極めて良かった」と言って造られた、神の善が表わされています。

Ⅲ.新約聖書 金持ちの青年

「神様にとっての善とはいったい何だろう」と同じ疑問をもった人が新約聖書においてもいました。あの「金持ちの青年」と呼ばれる人です。
「さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである」(マタイ福音書19章16-17節)。
ここで、青年は「どんな善い行いをすれば?」と聞いたのに対して、イエス様は「善いお方は神様だけです」と答えたのです。答えになっていないようですが、それが核心です。行いではなくて在り方だとイエス様はおっしゃった。それがこの話のポイントです。
この青年は言うなれば、世間一般の善い行いをする人と同じ考えで良いことをしてきたと言っていいと思います。少し違うのは、彼はユダヤ人でしたから、十戒という律法を守っていて、父母を敬いなさい、嘘をついてはならない、隣人を自分のように愛しなさいなどの律法に従って、善い行いをしていました。青年は自分のことばかり見ていたのです。自分が善いことに積み重ねてきたこと、そしてもっと積み重ねていくことです。悪いことではありません、とても良い考えです。しかし、それは不完全です。人はどんなに賢くて経験を積んでいても不完全であることに変わりはありません。不完全な自分ばかりを見つめているこの青年の目を、イエス様は、全き善である神様の御心に向けさせようとしたのです。自分がどういう善い行いをすればいいのか?ではなくて、ただ一人の善い方である神様を見つめ、その御心を求めていかなければならない。それが「なぜわたしを善いと言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」といわれた言葉の意味です。
さらにこの後、イエス様は、あなたがもっている財産を全て放棄しなさい、と言うのです。そうすれば「天に富を積むことになる」と言われました。つまり、本当の善というものは、神様の御心を求めるところから与えられるからです。
しかし、そうは言われても、神の御心を求めるということは本当に難しいことです。

Ⅳ.子どものように

その点でこの話は、この金持ちの青年の話の前の所で、イエス様が言った言葉と繋がりがあります。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マタイによる福音書19章13-15節)。子どもたちは、神の国に入るために、十戒に定められているような、「嘘をついてはならない」とか、「隣人を自分のように愛しなさい」といったことができません。隣人を愛するというよりは「わがまま」です。人の世話をするより、世話をやかせる存在です。そのわりに、走り回って遊んでいる時、時々振り向いて親の存在を探します。親の顔を見ると安心して遊びだす。親がいないと分かると泣き出す。それが子どもです。イエス様は私たちに「子どものようになって神の国を受け入れなさい」と言っておられるのです。それが、善を行なおうとするなら、子どものように善いお方の御心を求める、ということに繋がっていきます。
「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい・・・・・これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」(ルカによる福音書10章20―21節)
この御言葉どおり、わたしたちの存在が、天国に書き記される、それは知恵ある者や賢い人には隠されて、幼子のような人に示される。幼子のように純粋に神を求めることが神の御心だと言うのです。

Ⅴ.「知りませんでした」

先日、テレビドラマを見ていると戦争のシーンが映し出されました。主人公は歌謡曲の作曲家。彼は日本が戦争に入ると、作る曲も戦争に影響されるようになります。ある友人が「戦いに行く人の心に近づきたいと願いながら詞を書いた」と詩を渡されて、「お国のために頑張っている人たちを励ましたい」という思いが湧いてきました。音楽を通じて、戦う人の力になりたい、それが自分の使命だと思い込みます。そして「あなたの歌に励まされました、ありがとう」と感謝されて、次々と、戦地に赴く人を励ます曲を作曲していきます。そんな主人公は、自分が作った歌に影響を受けて戦地へ赴いた人たちに近づきたいと思い自分も戦地に行きたいと決めます。兵士を励ます慰問という形で向かった先はビルマの激戦地でした。その前線で、自分に音楽を教えてくれた学校の恩師に出会うのです。そして、楽器を使える兵士を集めて小さな音楽会をやることになりました。敬愛する先生や、兵士たちとの楽しいひと時、ところが、そこに敵軍の襲撃があり、一緒に練習をしていた兵士、そして、先生が銃弾に倒れる姿を目の当たりにします。静まり返った戦場には、若者たちの死骸がありました。生き残った主人公は、泣きながら「知らなかった」「僕は何も知りませんでした、ごめんなさい」と泣き叫んでいました。主人公が目の当たりにしたのは、生きるか死ぬか、それ以外に何の意味もない戦争の現実でした。人を励ますためにしたことが果たして良かったのか。あれは果たして善だったのか、知る術がありません。
今の世の中でも、良かれと思ったことが、人を傷つけているかも知れない。不完全な人間が言えることは「知らなかった」という言葉ぐらいではないでしょうか。
「正しい者はいない。一人もいない・・・善を行う者はいない。ただの一人もいない」(ローマ書3章11-12節)。そうであるならば、善を行う意味がどこにあるのでしょうか。
今日の聖書箇所、11節には「神が・・その御力によって・・・善を求める、あらゆる願い・・・を成就させてくださいますに」とパウロは祈っています。神が成就させてくださると言っているのです。不完全な人間は、その善い行いにおいても不完全です。成就してくださるのは、全き善である神でしかない。その神に委ねる。子どものように、しがみついて藁にもすがる思いで御言葉に従っていく先で、わたしたちの善は成就します。
イエス様は金持ちの青年に、行いではなくて神に目を向けさせました。人としての在り方を求めました。子どものように、神にしがみつく者、御言葉にすがりつく者でありたいのです。善い方はお一人である、その方の前に立った時、わたしたちの歩みを「それは極めて良かった」と、成就されることを願って、パウロの祈りに心を合わせて求めていきましょう。
お祈りをします。

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歴史上、最も重大な夜

松本 雅弘 牧師
イザヤ書42章1-10節、マタイによる福音書26章36-46節
2020年10月18日

Ⅰ.ゲッセマネの祈り

最後の晩餐の後、主イエスはゲッセマネに向かわれました。弟子の中から特別にペトロおよびゼベダイの子2人、ヤコブとヨハネの兄弟です。その3人だけを連れて園の奥に進んで行かれたのです。それは祈りのためでした。マタイはその所で主イエスは悲しみもだえ始め弟子たちに向かって「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」とおっしゃったと伝えています。

ところで主イエスは以前も彼ら3人だけを連れて山に登られたことがありました。そこで主イエスの姿が変わり、「神の子」の栄光の姿になったことがありました。ところが、ゲッセマネでの姿はあの時とは対照的なのです。恐怖におびえ弱さをさらけ出している。あの時のお姿が栄光に満ちた「神の子」イエスの姿であったならば、ゲッセマネでのお姿は「人の子」イエスのお姿でした。でも弱さを備えた「人の子」としての側面こそ、私たちにとって大きな慰めとなってくれるのではないでしょうか。何故なら主イエスが人間としての恐れや不安、悩みを、自らも味わっておられたからこそ、私たちが日々経験する様々な怖れや困難を分かってくださり、共に苦しみ悲しんでくださると信じることができる。まさにヘブライ書にあるように、「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(ヘブライ4:15)そういうお方ということでしょう。

Ⅱ.歴史上、最も重大な夜

聖書の中の聖書と呼ばれるヨハネ3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とありますが、まさに私たちを滅びから救うために、神の子イエス・キリストが十字架にかけられ殺される。それが避けられないものとして、この夜、このゲッセマネの園において最終的に確認された。人類の歴史を決定するとてつもなく重大なことが、天の父なる神とイエス・キリストの間で語り交わされて
いたと考えられるのではないでしょうか。

私事で恐縮ですが1月に初めての孫が与えられました。その子が生まれて3月経ったころ、物凄い高熱が続き病院に搬送され、そのまま入院したのです。普段でしたら、乳児の入院ですから母親も一緒です。でもコロナのことがあり、母親は泊まることも出来ない。面会も許されません。我が子がどうなっているのか、きっと心配しているだろうから、と看護師さんが気を利かして赤ん坊の様子を写メに撮って送ってくれた。哺乳瓶からミルクを貰っている様子。あてがわれた玩具で遊んでいる様子。そしてその傍らに看護師さんがいる。でもその看護師さんは青い防護服に身を包んでいるのです。家にいる時は、泣けば母親や父親がすぐに飛んできて抱き上げたり、あやしたり、おむつを替え、ミルクを飲ませて貰えた。でも病院では他の患者さんがいますから、すぐには対応して貰えなかったに違いない。その内、泣き疲れて眠ってしまう。どんなに淋しかったか、どんなに辛かったか。想像するだけで、もう胸が熱くなりました。ただ孫の場合は、元気になって退院できたのですが、報道によるとコロナ禍で病院で亡くなる方たちは、最後、お別れもできなかったとお聞きします。ご本人もご家族も、本当に大変な経験をされたのだと思うのです。

この時、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と告白し、頼りになりそうもない弟子たちに向かって、「どうか、私のために、ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていて欲しい」と訴える我が子イエスの姿をご覧になった父なる神さまはどうお感じになったかと思います。すぐにでも走り寄って抱きしめてやりたかった。そうしましたら今度、その子が自分に向かって訴えてくるのです。「お父さん、どうぞできることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」この時、父なる神にとっても、苦しみ悶えるほどの闘いだったと思うのです。我が子イエスを「世の罪を取り除く小羊」として十字架に掛けなければならない。親子の親しい愛の交わりが断絶し、神不在の地獄に落ちていく我が子を見殺しにしなければならないのは、はらわたのちぎれるような決心であったことだと思います。でも、私たち人類を救うにはこれしかなかった。父なる神さまは、そう決断された。私たちの神は愛のお方です。そして全能の神さまであられます。そのお方が、愛を尽くし、思いとお考えを尽くして選び取られた道、それが十字架の御子の死をもって私たちを生かすための道、唯一の道だったわけです。

Ⅲ.祈りの日常性

さて、今日の箇所は私たちに祈りとは何かを改めて教えているように思います。同じ出来事を記したルカ福音書を読みましたら、興味深い記述があるのに気づかされます。「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、…」と。「いつものように」、「いつもの場所」という言葉が出て来るのです。たぶん、主イエスは過越の祭でエルサレムを訪れる度ごとに、このゲッセマネの園でいつものように祈っていた。そう考えますと、確かに福音書にはいつもひとりで祈る主イエスのお姿が出て来ます。そうした上で、もう一度、今日の箇所に戻り44節を見ますと、「三度も同じ言葉で祈られた」と書かれてあります。三度、「同じ言葉」で祈られた。その祈りの言葉が、39節、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」そして42節、「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」「御心のままに」、「御心が行われますように」、御心を求める祈りです。そうです。これは弟子たちにお教えになった、あの「主の祈り」の言葉であることに気づかされます。

これまで主イエスは、常に人に囲まれて生活しておられました。人々の願いやニーズを肌で感じて暮らしてきました。ですからご自分でも彼らのためにやりたいことがおありだったと思います。しかしそうした中、主イエスが求めたのは、父なる神が願っておられること、すなわち、「御心」です。それを求めるために祈ってやって来られた。
祈りとは、神さまを操作し、私にとって好ましい結果を引き出すための手段ではないのです。祈りとは神との会話、神さまと交わりです。祈りの中で神さまの御考え、ご計画、そのお方の願いに触れる。考えてみれば、全知全能のお方のお考えが最終的には一番素晴らしいわけですから、その方の御心を求める祈りを、最終的には私自身がさせていただくように私が変えられていく。それが祈りの体験だと思うのです。

Ⅳ.主イエスに倣い、委ね任せること

ここまでマタイ福音書を読んで来て気づかされるのは、もうすでに主イエスは十字架が神のご計画であることを知っておられた。それが御心だと知っておられた。その証拠に、繰り返し十字架のことを弟子たちに語っておられたのです。でも主イエスの祈りの姿を通して、「御心を知っていること」と「その御心に明け渡すこと」とは別問題だと教えられます。
この時、主イエスは父の御心が何であるかを知っていました。しかし十字架を前に恐れに満たされた。「御心のようになりますように」と祈る前に、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と素直に心の中にある恐れを口に出して祈っておられます。御自分の弱さを包み隠さず祈った上、最後の最後に、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と全てを神に委ねていかれた。

どのようにして委ねることができたのでしょう?「いつものように」「いつもの場所」での祈りを積み重ねる中で、父なる神というお方が、どういうお方であるかが本当に分かって来る。日々、そのお方と共に歩む中で、神さまは善いお方であることを知ります。そのお方は、この者を決して見捨てるようなことはなさらない。必ず助け守り導いてくださる。それを経験的に知らされていくからです。全知全能の愛の神が、深く心にかけ心配してくださったのなら、必要な時に必ず事を動かしてくださる。私たちは祈りを通し、この神さまの御心に触れ、御心に委ねて歩んで行きたいと願います。お祈りいたします。

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主日共同の礼拝説教

主の晩餐

松本 雅弘 牧師
詩編27編1-14節
マタイによる福音書26章26-35節
2020年10月11日

1、過越祭

「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。『あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。』」(26:1-2)マタイ福音書26章の最初に出てくる主イエスの言葉です。主イエスの十字架は過越祭の時に起こった出来事だったわけです。
過越祭については出エジプト記12章に詳しく述べられています。イスラエルの民は、かつてエジプトにおいて奴隷でした。差別や迫害、奴隷としての過酷な暮らしの中、彼らは自分たちの父祖の神、神さまに叫びをあげました。そうした彼らイスラエルの叫びを神は聞き、モーセという解放者をお立てになり、様々な仕方でエジプト王ファラオにイスラエルの民の解放を迫ります。ところが、いつまで経ってもファラオは民の解放に応じようとしないのです。ついに神は、最後の計画の実行をモーセに告げます。それは、ある夜、神が、全てのエジプト人の家の長男や動物の家畜の初子を殺すというものでした。ただし、イスラエルの民に対しては事前に災いから逃れる道を伝えたのです。それは小羊を屠りその血を家の入口の柱と鴨居に塗るというものでした。その結果、血が塗られている家は小羊の犠牲に免じて災いが「過ぎ越し」た。そうしなかったファラオから奴隷の家に至るまで、ことごとく長男が犠牲となり家畜の初子が死んでしまった。その大混乱に乗じイスラエルの民はエジプトを脱出する。それが出エジプトでした。それ以来毎年イスラエルの民は過越祭を祝い、神の救済の出来事が自分たちに示された神の恵みの原点だとして子々孫々に伝えていたわけです。
この時、主イエスと12弟子たちは、まさにその過越の食事を祝うために集まっていたのです。さらに説教の冒頭で読みましたが、主イエスは、この歴史的な意味を持つ過越祭の時に、自分は十字架にかかり死ぬのだと、心に決め、明言しておられたということなのです。

2、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」

そうした背景で祝われたのが、この時、主イエスと弟子たちが囲んだ過越の食卓でした。「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」
これは、私たちにとっては聞き慣れた文言、聖餐式の時に牧師が読み上げる聖書の一節です。これこそ主イエスが聖餐を制定された時の言葉なのです。
現在、コロナ禍で聖餐式が中止となっているわけですが、通常の聖餐式では、この制定の言葉だけが読まれます。改めて今日の聖書箇所を味わうとき、まさにこの言葉は、弟子たちとの過越の食事の最中にお語りになった言葉であることが分かります。
この時、主イエスは、過越の食卓を囲みながら愛する弟子たちと一緒に、過去一度限り起こった大救出劇、出エジプトの出来事の恵みを味わうように導かれたのです。しかし、それだけではなく出エジプトを想起する過越の食卓を囲みながら、その食事に新しい意味をお加えになった。イスラエルの民の「過越」をはるかに超えて、主イエスはイスラエルの民に限らず、全ての民、全ての人々が、神さまの大いなる恵みを確認する、新しい主の食卓を用意してくださった。その恵みの食卓を制定してくださった。それが聖餐式なのです。
主イエスは、この過越の食事の夜、弟子たちを前にして、「パンを取り」「賛美の祈り」を捧げ、それを「裂き」弟子たちに与えながらおっしゃった。「取って食べなさい。これはわたしの体である」と。十字架を目前に主イエスはこの時、間違いなく十字架の上で裂かれていくご自身の体のことを考えておられた。ですから、これは命を捧げることを覚悟して語った言葉です。私たちの教会の聖餐式では、すでに綺麗に切り整えられたパンが配られますが、もっと少人数の例えば中会会議の礼拝などでは、一つのパンを司式の牧師が会衆の目の前に高く掲げ、そのパンを、みんなが見ている前で裂くのです。ちょうど主イエスが、みなの目の前で十字架にかかり、肉体を裂かれて行かれた。ちょうどそのようにです。次に杯です。この杯も弟子たちの前に高く掲げ、「これは多くの人のために流される、契約の血です」と言って分かち合われた。この時、主イエスが「取って食べなさい。これはわたしの体である」と言われ、そして、ぶどう酒の入った杯を取って、「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」とおっしゃった、そのパンとぶどう酒が指し示す、神の小羊の裂かれた体、流された血潮を想起するのです。神の小羊の犠牲によって神の裁きが私たちの上を過ぎ越した恵みを味わうのです。

3、ペトロの離反

さて、この後、私たちの聖書には「ペトロの離反」という小見出しのついた物語が続きます。主イエスが弟子たちの躓きを予告すると、ペトロが「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。」と言います。これに対して主イエスは、「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と予告する。するとペトロは、たぶんもっと力を込めて、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と断言します。でも数時間もしないうちに彼の決心は崩れ去っていく。そしてペトロだけではありません。「同じように言った」他の弟子たちもみな、躓いていきました。どのような強い人間的な確信も、「決して」とか「絶対に」とかいう言葉によっては決して確かにされるものではない。私たちが神さまに赦されるということは、私の側の頑張りや強さによらず、まさに一方的な恵み、神の憐れみによることを、改めて知らされる思いがするのです。

4、主イエスの約束に支えられて

ところで、この場面、主イエスの受難週の場面です。十字架の前夜の出来事です。弟子たちの口からは気負いや強がり、精一杯の言葉が飛び交う最中です。まさに闇が覆っているようなときです。でも聖書を丁寧に読み進めていく時、そこは決して真っ暗ではない。希望の光が洩れ注いでいることに気づかされるのではないでしょうか。その一つが29節にある、主イエスの不思議な言葉です。「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
よく言われることです。後に、この食事をレオナルド・ダヴィンチは「最後の晩餐」と名付けた絵にしました。ここで主イエスは「これが最後です」と明らかにおっしゃっている。でもさらに味わっていくと、「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲む。そうした日が来る。これが最後の最後ではないのだ」とはっきりと聞こえてくるのです。
今、この地上で、聖餐にあずかるということは、「わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日」に行われる天の食卓に連なる招待状をいただいていることの目に見えるしるしなのです。
確かに主イエスは弟子たちの躓きを予告されました。でも同時に「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と約束を語っておられる。これは耳に入っていなかったのではないでしょうか。躓いてお終いではない。その先がある。「復活がある。その復活の後がある。あなたがたより先にガリラヤへ行っているから、そこで会おう」。このような暗闇が覆うような現実にあって、人生の新しいステージに、主は先回りして、待っていてくださる。強がりを言うペトロに対して主イエスは、先回りしておっしゃるのです。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)私たちのガリラヤで主は待っておられる。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(Ⅱコリント12:9)。この恵みの力に支えられ、弱さを超えて、いや弱さを通して働いてくださる、キリスト・イエスに信頼して歩んでいきたいと願います。お祈りします。

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驚くべき主の恵み

松本 雅弘 牧師
ホセア書11章8-11節
マタイによる福音書26章14-25節
2020年10月4日

1、はじめに

「そのとき、12人の1人でイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。」今日の語り出しです。すでにこの時、主イエスご自身と祭司長たちの双方が十字架の時期についてそれぞれ違ったことを考えていました。そして今日の箇所では、さらにもう一人、主イエスの十字架への道行きに決定的な役割を果たした人物が登場する。それが、「12弟子のひとりのイスカリオテのユダ」でした。マタイは、他でもない主イエスの12弟子のひとりのイスカリオテのユダが敵の手に主イエスを引き渡した。それもお金で売ることを、ユダの側から持ちかけたという衝撃的な事実を私たちに伝えています。

2、あらすじ

ユダが訪ねていった相手は祭司長たちでした。ユダが持ちかけてきた話は祭司長たちにとっては正に「渡りに舟」、混乱を起こさず、いや最小限に抑えたうえで、イエスを逮捕できる最高の提案でした。しかも「あの男をあなたたちに引きわたせば、幾ら貰えますか」と報償金の額の交渉まで持ちかけ、ユダの本気具合が伝わったと思います。
ところで、主イエスの「12弟子」は主が選んだ者たちです。ルカ福音書によれば徹夜の祈りをもって使徒となるべき12人をお選びになりました。そう考えると、ユダがイエスを裏切ったわけですから、そのユダを選んだ主イエスの選び方に責任はなかったのでしょうか。
しかも同じ12弟子の選びの箇所、マルコ福音書3章14節によれば、選びの目的が宣教に派遣することに加え、「彼らを自分のそばに置くため」だと書かれています。「彼らを自分のそばに置く」とは、主イエスが弟子を訓練するときに用いられた訓練方法です。そのように育てた弟子たちの中から、イスカリオテのユダのような弟子が出てしまったということは、主イエスの弟子訓練に問題があったともとられかねないわけです。

さらに私たちが混乱させられるのは23節からのやり取りにある主イエスの発言です。ユダを弟子にした主イエスの口から「生れなかった方が、その者のためによかった」という言葉が飛び出した。これは取り方によっては、とても悲しく、淋しい思いにさせる言葉なのではないでしょうか。

3、ユダのことについて

少しユダのことを考えてみたいと思うのです。この過ぎ越しの食事の席にユダがいたという背景には、主イエスを来るべきメシアとして心に迎えていたからでしょう。でも、主イエスと寝食を共にしながら、どこか違和感を覚えるのです。ユダ自身が描くメシア像と実際の主イエスとの間にズレが見えてきた。ここまで全てを投げうって主イエスについて来たのです。ユダにしれみれば、自分が裏切る前に、主イエスに裏切られた。そうした思いが募り、期待が恨みに変わり憎しみとなって行ったのではないかとも想像できます。

「あなたがたのうちの1人がわたしを裏切ろうとしている」という主の言葉を聞き、弟子たちは非常に心を痛め、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めます。つまりユダだけではありません。他の弟子たちの心の内側にもユダと同じような主イエスに対する「がっかり感」があったのではないかと思うのです。勿論、ペトロのように「いや、自分だけは大丈夫」と思ったとしても誰もが経験済みですが、自分の努力や確信の強さなどはいかにあやふやで疑わしいものか。実際、ペトロ自身がそのことを証明して見せてくれました。他の弟子たちもみんな同じでした。主イエスが逮捕されるや否や、蜘蛛の子を散らすようにして主イエスを捨てて逃げてしまった。ですから弟子たちは誰一人として主イエスを裏切らないという確信を持つことが出来ていなかった。ユダも含め12弟子全てが、五十歩百歩なのです。そう考えますと、人が神さまに赦されるということは、まさに一方的な恵みの出来事であることを、改めて知らされる思いがするのです。

4、驚くばかりの主の恵み

これまで礼拝ごとにマタイ福音書を読み進めてきました。主イエスがお語りになった神の国の福音は、無条件の愛、無条件の赦しです。当時のユダヤ社会では、罪人が無条件で赦されるはずなどあり得なかった。いや、当時のユダヤ社会だけではなく、現代もそうでしょう。それが常識です。ところが、主イエスは繰り返し、「そうではない!神の赦しは無条件、無条件の愛なのだ」とおっしゃり続けるのです。私は、神の赦しを考えると心に浮かぶ主イエスの教えがあります。マタイ福音書18章に出てくる1万タラントンの借金を主人から免除されたにもかかわらず、たった百デナリオン、労働者百日分の賃金に当たる借金をしていた仲間の家来を赦すことが出来なかった、という譬え話です。普通は、「7回の70倍赦しなさい」、言い換えれば「何度でも赦してやりなさい」と言われたら、「そんなことしたら、神の義が立たないじゃないか!その人をダメにしてしまう!」と考える。ところが、あたかも神の側に立つようにして、そう反論する私たちに向かって、「実はあなたこそ巨額の借金を帳消しにされている存在なのですよ。そのように赦されていながらどうして百万円の借金を赦せないのですか。徹底的に赦されているのは実はあなた自身ではないか。そんなにまでも赦されているのに、“無条件に赦したら、赦された方はダメになる”などとまるで他人事のように心配するのですか」、そう言われるのです。

再びマタイ26章に戻りますが、この時すでに祭司長たちとの取引は成立していました。残っていたのは実際にイエスの身柄の引き渡しだけです。主イエスはユダが成した全てを、十分ご存じの上で、過ぎ越しの食事にユダを招かれた。そして弟子たち一人ひとりの足を洗うと共にユダの足をも洗われた。最後までユダは12弟子の1人だったのです。

私は説教の準備をしながら、葬礼拝の式文の中にある祈りの言葉が心に浮かびました。今まで様々な方たちの葬礼拝をさせていただきました。最後まで礼拝を大切にし、召されていった方もいれば、洗礼を受けたのですが礼拝から離れていった方。とっても長く求道生活をしながら、ニコデモのように、最後の最後まで洗礼に至らなかった方。もう人様々です。そして葬礼拝の前にご家族が書いた生前のエピソード等、そしてまた時間の限り教会に残された資料を読み返しながら、葬礼拝の説教の準備をいたします。そして当日、開式直後に毎回祈る祈りの言葉に、このようなくだりがあります。「神さま。あなたは独り子、主イエス・キリストの死によって私たちの死を滅ぼし、そのよみがえりによって私たちに命を与え、復活の希望を与えてくださいました。主イエスは十字架の上で、『わたしを思い出してください』と言う者に、『あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われました。今、私たちの目を開き、あなたがキリストの死をもって備えられた、天の住処を仰ぎ見させてください。」

主イエスが、共に磔にされている囚人に向かって、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と宣言された直前、福音書によれば、十字架の上の主イエスが苦しみながら、私たちのために父なる神さまに執り成してくださった。その祈りが、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という祈りなのです。
私は、そこに本当に平安をいただきます。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」十字架の上で両手を広げて祈られた、その主イエスの大きな赦しの中に、召されたその方、いつか召されるこの者をも、大きく広げた、そのお方の赦しの御腕の中に委ねることが出来る。
勿論、現実の社会において、蒔いた種の刈り取りを求められ、場合によっては生涯、やってしまったことの責任を果たすように迫られることもあるでしょう。しかし私たちは、究極的に主の赦しの愛の中におかれている。その無条件の愛、赦しの中に、今、この時も生かされている。だからこそ、私たちは生命をかけて赦しを与えてくださった方が悲しまれるようなことはしない、むしろこの驚くばかりの恵みに与った者として、もっと積極的に、そのお方が喜ぶ生き方、赦され、愛された者としての道を選び取って生きていくのです。お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

神の正義

和田一郎副牧師
創世記18章17-19節
テサロニケの信徒への手紙二1章6-10節
2020年9月27日

1、信仰をもったばかりのテサロニケの人々

パウロの宣教によって真の信仰をもったテサロニケの信徒たちは、町の人々から迫害されるという、苦しみを受けていました。しかし、いかがでしょうか。信仰をもったとたんに、苦しみを受けるというのは、本来の信仰を持つという動機からするとおかしなことになっていると思うのです。何らかの救いを求めて信仰をもったのに、この神様を信じたが故に、苦しみを受けてしまっては本末転倒のように思われます。わたしたちにも心当たりがあります。クリスチャンになったとたんに、家族や友人との関係がギクシャクしてしまうということも、あるのではないでしょうか。

2、神の正義

今日の聖書箇所6節でパウロは「神は正しいことを行われます」といってます。聖書には「正義」とか「義」という言葉がよくでてきます。キリスト教用語といってよい言葉です。聖書において「義」というのは道徳的な正しさや、社会正義という意味を越えて「神の正しさ」という意味で使われます。神は、「良いこと」と「悪いこと」を正しく聖別してくださる。神様がよしとされることを「神の義」といいます。
6節―7節「神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださる」。とあるように、神様は正しいことをするので、報いてくださいます。それも、苦しめる者には苦しみをもって報いてくださるというのです。わたしたちは「悪をもって、悪に報いてはなりません」という信仰をもっています。悪に対して悪をもって抵抗してはならない、ではその悪は野放しなのかというと、そうではない。
良いことを良しとし、悪いことを悪と定める神様は、正しく悪を裁かれます。裁くのは人ではない、神さまが相応しい時に、相応しい形で裁いてくださいます。
「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」(ローマの信徒への手紙12章19節)
そして、苦しみを受けている人への報いは「休息」が与えられるといっています。それも「わたしたちと共に休息」を得られるのですから、遠く離れているパウロたちと共に、同じように苦労の報いとして休息が与えられる。
しかし、その報いとは、いったい何時になるのでしょうか。それが書かれているのが7節後半、「主イエスが、力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現」するのです。つまり、再臨の時、終末の時に報いが実現するとされているのです。
イエス様がもう一度来られることを「再臨」と言います。ちなみに、再臨に対して最初に来られた時は「初臨」と言います。家畜小屋でお生まれになった、最初にイエス様が来られた時は「初臨」。そしてもう一度、来られる時を「再臨」。私たちは今、「初臨」と「再臨」の間に生きています。「初臨」の時は、家畜小屋にひっそりと貧しさの中に来られましたが、「再臨」の時は8節にあるように「燃え盛る火の中を来られる」とあります。つまり、栄光を帯びて来られるという輝かしい出来事として来られるのです。イエス・キリストご自身が言いました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くといったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」(ヨハネによる福音書14章1節―3節)、と言われました。行ってあなたがたのために場所を用意したら戻って来る、それが再臨です。
その時になされることは最後の審判です。義なる神様が、最終的に良いものを良しとし、悪いものを悪として罰する時です。8節にあるように、主イエスの福音に聞き従わない者に、罰を与えます。彼らは、イエス・キリストの前から退けられ・・・切り離され・・・永遠の破滅という刑罰を受けるという厳しい裁きです。わたしたちが信仰する主イエス・キリストは、正しいことを行われます。これが神の正義です。

3、終末の希望

この再臨の知らせを、送られたのは、迫害に苦しんでいるテサロニケの人々に対してでした。彼らは救いを求めて、キリストを信じる信仰を持ったと思ったら、それ故に苦しみを受けてしまった。そこで彼らは信仰を捨てたのでしょうか。そうではありませんでした。それどころか3-4節にあるように、テサロニケの人々は、迫害と苦難の中で忍耐と信仰を示していた。信仰が大いに成長し、豊かになっていたのです。
わたしたちキリスト者が信仰を守ろうとする時、サタンの妨害があります。二千年もの教会の歴史を通して、時代を問わず、国や地域を問わずありました。そして、2020年を生きる私たちの生活の中でも、信仰生活を阻もうとするものがあります。今年の教会の主題は「神の愛を実感する交わりづくり」です。交わりを求めて、歩み始めたところでコロナ渦という事態が起こりました。ある牧師がいったのです。「私たちの住むこの世界というものは、川上にあるキリストに逆らって流れる川の流れのようなもの。流れに乗って楽にいこうとすれば、下流に向かって流れていく。川上のキリストに向かって進もうとすれば、一生懸命に漕がねばならない。頑張って漕ぐ必要がある、そこには闘いがある、闘いがあるというのは、それだけ私たちが神から離れているからだ」というのです。闘いや苦難のない信仰生活をしようとすると、私たちは下流に流されます。この世に流されて堕落していきます。イエス様は言いました「あなた方は世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい」(ヨハネによる福音書16:33)。わたしたち人間の堕落は、むやみに苦難を避けて楽な方を選ぼうとするところから起こります。川の流れに乗っかって、聖書から離れていく、教会から離れていくようにサタンは働きます。苦難や患難の中で、神を信じていくことはどうすればできるのでしょうか。パウロは主の再臨を信じなければできることではないといいます。10節「かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。それは、あなたがたがわたしたちのもたらした証しを信じたからです」。それは、テサロニケの人々が、パウロたちのもたらした再臨の希望を信じたから、その日、全世界が主の御名を褒めたたえ、彼らも聖なる者として加わることができるのです。イエス・キリストが再び地上に臨まれる時、キリストの前に立つことが赦されている、神の栄光に加わることができる、その信仰だとパウロは言うのです。

4、新しい旅立ちの時

再臨というできごとは、わたしたちが生きているうちに起こるかも知れませんし、死んだ後のことかも知れません。わたしが、まだ幼かった時「人間はいつか死ぬ」ということを知って落ち込んでいたことがあります。ある夏休みに、いとこのいる親戚の家に泊まりに行きました。叔父が、子どもたちを連れてレストランで夕食を食べようといってくれました。当時、わたしの家では、家族そろって外食するということが、ほとんどなかったので、何か特別で贅沢なことのように思いました。食事が運ばれてきて嬉しいどころか、幸せだなと心がいっぱいになっていました。あまりに幸せな思いになったせいか、その頃心の中に引っかかっていた「人間はいつか死ぬ」ということを思い出したのです。人間は誰でもいつか死んでしまう。それが自分の死のことではなくて、母親もいつか死んでいなくなってしまう日が来るのだろうか、と思ってしまったのです。そして、レストランで自分だけ幸せな思いをしていいのだろうか、嬉しくて胸がいっぱいになって泣き出してしまったのです。困ったのは叔父さんだったと思います。なんで泣きだしたのか分からなかったでしょう。人は死んだらなにもない、暗闇のようだと子どもの頃から、教えられるでもなしに、そう思っていました。
私が「母親もいつか死んでいなくなってしまう」と泣いていた、その母は私が25歳の時に病気で亡くなりました。しかし、母は強い信仰をもって天に召されました。母は自分の死のことを「天国への新しい旅立ちの時」と記していました。そこに、死んでいなくなるという思いはありません。死を目の前にしても誰よりも穏やかに、誰に対しても優しく、死の先にも希望があるという信仰に生きていました。
神は正しいことを行われます。苦しめている者には苦しみを、苦しめを受けている者には休息を。正しく報いてくださる神様。神は正しいことを行われます。 お祈りをいたします。