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主日共同の礼拝説教

独り子を与えるほどの愛

松本雅弘牧師 説教要約
イザヤ書63章15-19節
ヨハネによる福音書3章10-21節
2022年1月8日

Ⅰ.「小聖書」

 今日の聖書箇所を読みますと、「聖書の中の聖書」とか、宗教改革者マルチン・ルターが「小聖書」と呼びました聖句、ヨハネ福音書3章16節が出て来ます。私たちカンバーランド長老教会にとっても、この御言葉は特別で、『信仰告白』の冒頭に掲げられています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
よく「飼い葉桶と十字架は最初から一つ」と言われていますが、神さまが独り子をお与えになったということは、死に引き渡すことを覚悟で遣わされた。いや、十字架の死に引き渡すために遣わされた。それがクリスマスの出来事でしょう。そして、そのことを通して、信じる人が一人も滅びないで、永遠の命を得る。御子の命と引き換えに、私たちは命を得るというのです。

Ⅱ.ヨハネ3章16節の位置づけ

 ところで、このヨハネ福音書3章16節は、あまりにも聞きなれた御言葉です。作家の三浦綾子は、「この『世』のところに、あなた自身の名前を入れて読んで御覧なさい」と勧めています。自分に結び付けて、自分のこととして、この福音の言葉を聞いてみましょう、というのです。

Ⅲ.「救い」と「滅び」

 私は若い頃、「永遠の命」という言葉が、「終わることのない、永遠に続く長い長い命」を思い浮かべるようになり、どこか退屈さを感じ、心のワクワク感が消えていくような経験をしたことを覚えています。みなさんはいかがでしょうか。
 実は新約聖書には「命」と訳せる三種類のギリシャ語があります。一つは最近もよく「バイオ、バイオ」という言葉を耳にしますが、「生物学的な意味での生命」を意味する言葉「ビオス」です。もう一つは「プシュケー」。エジプトに居たヨセフに「幼子の命を狙っていた人たち、死んでしまった」とお告げがありましたが、この時の「幼子の命」の「命」が「プシュケー」というギリシャ語です。
そして三つ目が3章16節で使われている「ゾーエー」というギリシャ語です。神との関わりにあってこそ意味を持つ命という意味の「命」です。ヨハネ福音書には、主イエスがこの言葉の意味を説明している箇所がありますので、そこも確認しておきたいと思います。ヨハネ福音書17章に出て来る、「大祭司の祈り」と呼ばれる祈りの中に出て来ます。
 ここでイエスさまは、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と、「永遠の命」イコール、「神と主イエスを知ることだ」とおっしゃいました。つまり、主イエスを通して神との親しい交わりに生きている状態が命に生かされていることなのだ、と語っておられるのです。
今日の箇所に戻りますが、16節に続く続く17節でも「救い」に関する言葉が語られます。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。そして、その直後の18節では「救い」と矛盾する「裁き」を伝える次のような言葉が続きます。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子を信じていないからである。」
 ヨハネは「救い」を伝えると同じに、それと矛盾するような「裁き」を語っています。でもどうでしょう。「永遠の命」をもたらす「救い」とは、まさに先週の礼拝での言葉を使えば、ぶどうの木であるキリストにつながること、命そのものであられる主イエスとの親しい交わりの中に生きるときに、主イエス・キリストの「救い」に与って生きることができる。
まさに主イエスが、「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。」と言われる通り、主イエスを離れたら、私たちは何もできない。つまり命の源から切り離されては、本当の意味で生きることはできないとおっしゃるのです。そのことを語っているのが18節の言葉でしょう。命の源なる主イエス・キリストに繋がっていない状態がヨハネの語る「裁き」です。逆に言えば、イエス・キリストを知って生きることの中に、裁きからの解放があり、喜びがあるということでしょう。

Ⅳ.独り子を与えるほどの愛

 ちょうど成人式をお祝いした直後の春休みに、私はキリスト者学生会の春期学校に参加しました。その時、講師を務めた先生が私たち学生に向けて熱く語ってくださいました。「創世記2章7節に、『神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。』とある。『鼻から命の息を吹き入れる』という姿を想像してみてください。…『鼻から命の息を吹き入れる』というのは、鼻と鼻とをすり合わせるような、まさに夫婦のような交わりを意味します。私たち人は、神さまとそのような親しい交わりを通して、初めて生きることができる者として、この世界に存在させられたのです。…」。私も若かったのでドキドキしながら聞いたことを今でも思い出します。
 主なる神さまと本当に親しい交わり、絆の中に生かされた時、人間は生き生きしていた。神を喜び、自分の存在を喜び、与えられた人生の同伴者である神さまを喜びました。 ところが、そのお方との関係が失われた時に、自らを「恥ずかしい」と思い始め、隣人と、そしてこの世界と上手くかかわることができなくなった。愛と信頼に基づく人と人との結びつき、社会でのかかわり方が、「強い者の支配に対する弱い者の隷属という秩序」にとって代わってしまった。「あなたのゆえに、土は呪われてしまった。…土があなたのために生えさせるのは/茨とあざみである」と先生の言葉を使えば、「自然界の反逆」(創世記3:17、18)を経験します。食物を得ようとして土を耕しても、「茨とあざみ」が生え育つことになる。「予期せぬ副産物」を生じさせる。それ以来私たちは、聖書が言うところの「裁き」の現実を嫌というほど味わってきたわけでしょう。
 先週、お正月ということもあって牧師間の横の駐車場にクルマをとめていたこともあったので、〈そう言えば、幼稚園はいつから始まるんだっけ〉と思い、HPを開いたところ、「あなたは大切な人です」というキャッチコピーが目に飛び込んできました。改めてその言葉を読み、心の中に温かなものが流れたのを感じました。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。言い換えれば、神さまは私たち一人ひとりに「あなたは大切な人です」と真剣に語りかけておられる。その「オリジナル・ラブ」の具体的な形としてイエスさまを与えてくださったのです。しかし、この神さまの愛が分からなくなると、自分の大切さを確認するために、一生懸命に何かを成し遂げたいと思うようになります。あるいは、それが出来ない自分に打ちのめされます。そして今、私たちの社会の至るところで起こっている、「大切にされないことの悪循環」、そうしたことの「連鎖」が私たちの社会を覆っているように思うのです。
だからこそヨハネは、光としての主イエスを示し、「この光の方に来てみなさい。ここにこそ救いがある」と招いている。
 ヨハネは、私たちを光そのものであられる主イエス・キリストへと導こうとしています(19-20)。私たちは光なるお方の許に来る時に、初めて本来の自分を取り戻していく。人々の目に大切な人に映るように、一生懸命努力をするのとは違う世界です。すでに大切な人として神の瞳に映っている。その喜び、その慈しみの目に映る自分を確認し、周囲の人々を見、この世界を見ていく。
この世界に目を転じる時に、圧倒されるような問題が山積です。闇が深いです。
よくクリスマスの時に語られますが、闇を追い出すために、私たちは戸を開けて、一生懸命、箒で掃きだそうとするでしょうか。窓を開けて追い出すことができるでしょうか。その闇を消し去るために出来ることは、その所に光を灯すことでしょう。すると不思議と、その周りから闇が見えてなくなるからです。
私たちは、その光の下に招かれ、その光に照らされ、自らが小さな光となって歩んでいく。いま、遣わされているその場所にあって、与えられている責任を果たすことだったり、子どもとの時間を大切にすることだったり、学校の課題に忠実に取り組むことであったり、神さまから示されている、場合によっては取るに足りないと思わされるようなことを、〈イエスさまだったら〉と問いながら、イエスさまと共に向き合っていく。そのように私たちはキリストの光を灯す者として召され生かされている。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
お祈りします。

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主日共同の礼拝説教 新年礼拝

新しいぶどう酒は新しい革袋に

<新年礼拝>
松本雅弘牧師 説教要約
イザヤ書30章15-22節
ルカによる福音書5章33-39節
2023年1月1日

Ⅰ.はじめに

 新年あけましておめでとうございます。

昨年一年を振り返りますと、ウクライナ危機、さらに先月末には、日本でも増税により軍事費を拡大し、「専守防衛」という前提が骨抜きにされてしまいました。

コロナ・パンデミックも三年目を迎えた年でした。「地球号」という同じ乗り物に乗っている者同士ですから遠く離れた所で起こったことでも、「対岸の火事」では済まされません。物価の高騰があり、本当に身近なところでそうした現実を知らされます。また私たち教会の歩み、そして一人のキリスト者としての歩みを振り返る時に、どうだっただろうか、と思います。

そうした中、今年、最初の礼拝の招きの言葉は、使徒パウロがコリント教会の兄弟姉妹に送った手紙の一節です。「だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。」(Ⅱコリント5:17)と宣言してくださる。「にもかかわらず」の愛をもって、私たちの中で始めてくださった救いの御業を完成へと導いてくださる。

私たちの神さまは「事を始めるお方」であるとともに、「始めたことを必ず完成なさるお方」でもあります。私たちの内に働きかけ、思いを起こさせ、かつ実現に至らせるお方です。ですから、2023年という今日始まったこの年も、そのお方と共に歩んでいきたいと願います。この恵みに支えられ、自らを、兄弟姉妹を、世界を、この新しい年を喜んで受け入れて、歩むことができますように、祈り求めていきたいと思います。

Ⅱ.新しいぶどう酒は新しい革袋に

 今日は今年最初の礼拝ですので、今年の主題聖句を含む箇所を読みました。

 ところで、ユダヤでは昔から断食の習慣がありました。元々断食は、祈りに集中するための手段の一つでした。ところがファリサイ派の人々を中心に、宗教的な熱心さのゆえから、年に数回だった断食の回数が、月曜日と木曜日の週二回になっていたようなのです。それも、神さまの恵みを味わう目的で行う手段だったにもかかわらず、神の御前に高く評価されるべき功徳として断食を位置づけ、手段である断食が目的化して行った実情があった。人に比べ多くの回数、断食をしていることを、ファリサイ派の人々は誇りに思っていたわけです。

 このような中、「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」と断食をしていない主イエスの弟子たちのことを問題視した人たちが質問したのです。

当時の人々の目からすれば、主イエスの振る舞いや行為が、どこか宗教的伝統をおろそかにしていると映った、それで批判の対象となっていたのです。

私たちの社会でも、また教会の中でも同じようなことが起こると思います。一方に古い伝統をしっかり守り、それから決して反れないように、と考える人たちがいるかと思うと、他方では形式にとらわれず、むしろ古い伝統には反発して新しい生き方を求めようとする動きもある。こうした彼らの疑問に対する応答が34節からの言葉でした。

ここで主イエスは「婚礼の譬え」を語られました。イエスさまはよく婚礼のことを譬えとして用いられます。その場合、終末的な救いの喜びを象徴するものとして語られていました。つまりそこでは、メシアを花婿に譬えてお話されるのです。この時も同様でした。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」。これが主イエスの教えのポイントでしょう。

断食という宗教的な伝統や形式にしがみついて生きることより、キリストと共に生きることこそが大切だとおっしゃる。断食の目的もそこにあったわけですから…。

 そうした上で、今年の主題聖句が続きます。38節、「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない」。私たちがいただいている救いは、古い服の仕立て直しではない。私たちの救いとは、新しい人間の創造なのだ、と主イエスはおっしゃるのです。

主イエスを信じて生きることは、質的な新しさをもたらす。古い伝統や古い習慣によって信仰を補強しようとするようなことは逆戻りすることで、そのようなことをし続けていったら革袋は張り裂け、ぶどう酒も革袋もだめになってしまう。まさに今日の礼拝への招きの御言葉の意味するところでしょう。

Ⅲ.ウィズ・コロナ時代と教会

 昨年、アメリカで開かれた総会に出席した際、改めて、コロナ感染症がアメリカの教会に与えているダメージの大きさ、深刻さを知らされました。会場で食事をしていますと、牧師が、同席していいか、と声を掛けて来ます。席につくなり「コロナの影響はどうか」と尋ねるのです。何人かの牧師がそうでした。

牧師たちの話によれば、コロナ感染症のパンデミックが起こり、素早くオンライン礼拝に切り替えた。そしてパンデミックが落ち着き、社会全体が正に「ウィズ・コロナ」の生活に移行し始めた。しかしそうした中、元に戻らないままなのが教会なのです。礼拝に教会員が戻ってこない。その結果、活動も活動を支える捧げ物も深刻な状況に置かれている。「日本は、どうか?」というのが、総会会場で、何人かの牧師たちから訊かれた質問でした。今後、日本社会はどのようにコロナと付き合っていくのか分かりませんが、仮にアメリカのように、以前とまったく同じように社会全体が動き始める中、果たして日本の教会、また高座教会はどうなのだろうか…。それ以来ずっと考えさせられていることです。

確かにコロナを経験した私たちは、オンラインというツールを駆使し、今まで届かなかった方たちに御言葉を届けたりすることが出来ました。会議の効率化や、会議に出席するための行き来の時間が劇的に短縮されました。コロナを経験し丸三年が経とうとする今、こうした経験をふり返り、今後に生かすことが出来るかを考える、また一方でオンラインではどうしても実現できないことは何かを確認する。そうしたことが、今年、「ウィズ・コロナを見据えて」をテーマとして掲げて歩む私たちにとって、大切なこととなるのではないかと思います。

Ⅳ. 私にとっての「新しいぶどう酒は新しい革袋へ」

 先日、自然豊かなところを歩いていましたら、道の横に綺麗に咲いているアザミの花に目が留まりました。とても美しい。しっかりと咲いている。喜んで咲いている。創り主なる神さまを讃美している姿として、私の目に映ったことです。

以前、山道を歩いていてそんな小さな花を見つけた時は、〈こうした所に咲いている花は誰の目にも留まることもなく、枯れていくのだろう…〉と、そう思った時に、何か悲しい、そしてその花に対して「気の毒な思い」を持ったことを思い出しました。そしてふと、「誰の目にも留まらない」、裏を返せば、誰かの目に留まることが、私にとってとても大切だったのだなぁ、と私の心の中にあった「物語」に気づかされました。

ヘンリ・ナウエンが次のようなことを語っています。

“多くの声が私たちの注意を促します。「おまえがよい人間だということを証明しろ」と言う声があります。別の声は「恥ずかしいと思え」とささやきます。また「誰もおまえのことなんか本当には気にかけちゃいない」と言う声もあれば、「成功して、有名になって権力を手に入れろ」という声もあります。

けれども、これらの非常にやかましい声の陰で、静かな、小さな声がこうささやいています。「あなたは私の愛する者、私の心にかなう者」と。それは、私たちが最も聞くことを必要としている声です。しかしその声を聞くには、特別な努力を要します。孤独、沈黙、そして聞こうとする強い決意を必要とします。

それが、祈りです。それは、私たちを「私を愛する者」と呼んでいる声に耳を傾けることです。“

アザミは、私に気の毒がられようが、あるいは美しさを賞賛されようが、そうしたことに関わりなく、真っすぐに主を讃美し咲いている。それは、日常、周囲の、非常にやかましく、大きく、響き聞こえて来る様々な多くの声の中にあって、ナウエンが「私たちが最も聞くことを必要としている声」と表現した、静かで、小さく囁く「あなたは私の愛する者、私の心にかなう者」という神の声を強い意志をもって聞き続けていたのだと思わされされたことでした。

私たちを取り巻く世界から、今年も様々な声が聞こえて来ます。また自分自身の中からも囁きが聞こえてくることでしょう。しかしそうした中で、愛する神さまの御声を聴くために、まずは神さまの御前に出て、神を礼拝する時が「ウィズ・コロナ」の時代に入った今でも、いや、今だからこそ、大切になってくるのではないでしょうか。そのことを再吟味させていただき、私にとっての「新しいぶどう酒は新しい革袋へ」を考える一年にさせていただきたいと思います。 

「神よ、変わることのないものを守る力と、変えるべきものを変える勇気と、この二つを識別する知恵を与え給え」とニーバーが祈りましたが、この祈りを、私たち一人ひとりの祈りにさせていただきたい。識別の知恵を神さまから頂きたいと願います。

お祈りします。

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クリスマス礼拝 主日共同の礼拝説教

神に栄光、地に平和

<クリスマス礼拝>
松本雅弘牧師 説教要約
イザヤ書33章2-6節
ルカによる福音書2章1-20節
2022年12月25日

Ⅰ.信仰をいただいたことの恵み

クリスマス、おめでとうございます。クリスマスを迎え、改めて思いますのは、信仰を持つということは、考えてみれば、とても不思議なことなのではないでしょうか。信仰をいただきイエスさまを愛する者になること、言い換えれば、イエスという方と関わりを持つことです。これは本当に不思議であり、恵みでもあります。
今日、こうして共にクリスマスの礼拝を捧げているお一人おひとりにとっても、それぞれに与えられたお導きの不思議さを振り返ることができるのではないでしょうか。

Ⅱ.天使の知らせた福音

さて、福音書記者ルカは、クリスマスの出来事を淡々と事実だけを伝えているように見えますが、実はとても大切なことを伝達しようとする彼の意図を感じます。ルカが語っていることは、「ダビデの町」と呼ばれたベツレヘムで生まれた、イエスという名の赤ん坊こそ、私たちにとっての「真の王/メシア」なのだという信仰を明らかにしている点です。この点についてルカは、そしてもう一つ、ルカが伝えたかったのは「イエスの誕生を当時の人々は誰も知らなかった」という事実です。
当時は、ローマ皇帝アウグストゥスの時代です。その治世は長きにわたって平和が続きました。一般に「アウグストゥスの平和」と呼ばれます。人々は、「戦争のない、こうした平和な状態が続くのは、皇帝アウグストゥスのお蔭なのだ」と、彼を「救い主」と呼び、「神」と崇める人々も出たそうです。それ故、そうした皇帝アウグストゥスの誕生日を「福音」と呼んだ人々もいました。
そうした中、ルカは「今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった」。ここでルカは、当時、皇帝アウグストゥスを呼ぶ時に用いていた「救い主/メシア」の「呼称」を「イエス」に当てて使っている。飼い葉桶に眠る赤ん坊を指さしながら、「アウグストゥスではない、こちらのお方こそがまことの救い主/メシアなのだ。ダビデの町に誕生し、布にくるまって飼い葉桶の中に寝かされている乳飲み子こそ、真の皇帝なのだ。最強の王、名君と褒め称えられた皇帝アウグストゥスの治世に、実は、もう一人の王、いや真の王が誕生した。この方こそメシア/キリスト・イエスなのだ」、そう確信を持って記しているのです。

Ⅲ.福音書記者ルカによるスクープ記事

ところで現在、聖書外の文献や最新の考古学の裏付けによれば、この時の「住民登録」がシリアで実施されたのは紀元前7年、もしくは紀元前4年頃なのではないか。したがってイエス・キリストは紀元元年を遡ること7年前、もしくは4年前にベツレヘムで誕生されたのかもしれないと考えられるようになってきています。
さて、そうした中、この福音書を読む時に、ルカが私たちの目を向けさせようとしている点があります。それはアウグストゥスによる世界規模の歴史的人口調査が実施される最中に、世界の片隅で、本当にひっそりとした夜に、もう一人の王、いや真の王である救い主イエスが誕生した。当時、人々は皇帝アウグストゥスの力を称賛し、その平和を喜んだ。だから彼の誕生日を「福音」とまで呼んでお祝いしていた。しかし、その同じ時、その同じ世界にもう一人の王、いや真の皇帝として「イエス」という名のメシア・救い主が誕生した。当時の誰も知らない。それ故、誰からも祝われない仕方で誕生した。その出来事を歴史的出来事としてスクープした新聞記者のように、「ところが、彼らがそこにいるうちに、マリアは月が満ちて、初子の男子を産み、産着にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである」と興奮を抑えつつ、しかし確信を持ってここに記録しているわけなのです。

Ⅳ.「神に栄光、地に平和」

最スクープはさらに続きます。その知らせを受けた最初の人が羊飼いたちだったというのです。「羊飼い」、彼らは最初から住民登録の対象外の人でした。だから世間が人口調査でごった返している最中にいつもと変わらずベツレヘムの野で羊の番をしていたのです。
ではなぜ神は、最初に彼ら羊飼いたちに御子の誕生を知らせたのでしょうか?結論を言えば、誰よりも彼らこそ、一番イエスさまを必要とする人たちだったからでしょう。ルカは、主イエスの誕生に飼い葉桶が使われた理由として「宿屋には彼らの泊まる所がなかったから」と伝えます。「泊まる所がなかった」とは、「迎え入れてはくれなかった」ということです。これは日常的に羊飼いたちが経験していたことです。
イエスさまがおられた場所は家畜小屋でしたから、きっと臭かったに違いない。しかも「飼い葉桶」の中に寝かされたわけですから。考えてみれば「飼い葉桶の臭い」こそ羊飼いが身にまとっていた「香水」だった。羊飼いたちからしたらホッとできるような香りだった。羊飼いたちが恐れることなく近寄ることができるように、、「野原の香水」をたっぷり浴びるように、家畜小屋の飼い葉桶に生まれて来た。しかも赤ん坊の姿です。神さまって何と優しいお方なのでしょう!
イエス・キリストはひっそりとお生まれになりました。それは、ひっそりと生きることしかできない人、片隅にしか居場所を見つけることができない、私たち一人ひとりの救い主になるために、忘れ去られるような仕方で、本当に静かに生まれてくださったのです。
そして、羊飼いたちに喜びの知らせを告げた天使たちは、「いと高き所には栄光、神にあれ/地には平和、御心に適う人にあれ。」と歌ったのです。
今年二月末からのロシア軍のウクライナ侵攻が今も行われています。二週間ほど前に、ロシア国内の空軍基地がドローンの攻撃を受け、その結果、三人が死亡、軍用機二機が破損したという報道がありました。それに対する報復とも思える爆撃が現在ウクライナで続いています。この危機に乗じて、あれよ、あれよという間に、私たちの国でも、増税による軍事費の増額が閣議決定され、今まで積み上げてきた安全保障に関する合意が、あっという間に骨抜きになってしまいました。何か危うさを感じます。
預言者イザヤの時代、当時、イスラエルの周囲にはたくさんの強国があり、イスラエル国内世論は、「自分たちは他の国に負けないくらい国力を増強し、いざという時に備えなければならない」というもので、そう考える人が大勢いました。ところが、イザヤは「神の御心に従って、剣を鋤に、槍を鎌に変えるように!」と人々に訴えたのです。
子どもの頃、近所に鍛冶屋さんの工房があり、職人さんが燃えさかる炉に向かって一生懸命仕事をしていました。鉄の棒を炉に入れ、真っ赤になったところで、ハンマーで何度も何度も、丁寧に叩いていくうちに、その棒が新しい道具に生まれ変わっていくのです。
この時イザヤが使った言葉は、私にとって、そうした鍛冶屋さんの仕事風景を思い出させる言葉です。「剣を鋤に、槍を鎌に変える」。武器を打ち直し、別の物に変えてしまう。そのためには一度炉の中に入れなければなりません。つまり根本的な変化、私たちの考え方に変化が起きることが、どうしても必要となります。
イザヤは「剣を鋤に、槍を鎌に変えなさい」と語り、「もはや、戦うことを学ばない」とも言い切りました。言い換えればそれは、「武器に頼らない、もっと別のやり方・新しい考え方の枠組みで平和を実現することを学んでいこう!探っていこう!」と呼びかけました。
聖書を読みますと、その後ゼカリアという預言者が現れました。イザヤから平和のバトンを受け継ぎ、「エルサレムの広場に、老爺老婆が杖を持って座し、わらべとおとめが広場に溢れ、笑いさざめく」と、ごく普通のありふれた日常を語りました。実はこの姿こそゼカリアが示した「神の平和」です。
飼い葉桶に誕生されたイエスさまは成人し、人々に向かって「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」と語られました。
「神の子」とは神の愛を知っている者のことです。私たちは愛される経験をする中で愛の人に変えられていきます。人に優しくされ、人として尊重されていく時、不思議と人に対して優しくなれる。人を大切にする人になっていくものです。逆に、おどされ、恐怖心をあおられ、力で抑えつけられれば、心は卑屈になります。最初は我慢していますが、復讐心や敵意を心の内に燃やすことだって起こるのです。今、私たちの世界は、正にこの報復の連鎖に巻き込まれています。
神さまは、この悪の連鎖を断ち切るために独り子イエスさまを飼い葉桶に誕生させてくださったのです。そのイエスさまを心に迎え入れることによって、私たちの内面を神の愛、神から来る平安で満たそうとされたのです。
私たちは、この王なるイエスさまの平和を実現する闘いに参与するように招かれています。その光栄と喜びを今日、もう一度、共に確認し、「いと高き所には栄光、神にあれ/地には平和、御心に適う人にあれ。」と賛美しながらの歩みを進めて行きたいと願います。
お祈りします。

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アドベント 主日共同の礼拝説教

マリアの賛歌

<第4アドベント>
松本雅弘牧師
詩編147編1-11節
ルカによる福音書1章39-56節
2022年12月18日

Ⅰ. 喜びに溢れるマリア

先週「受胎告知」の箇所をご一緒に読みました。若い娘のマリアが、幼子イエスさまの母親として召された出来事を思い巡らしたことです。
「受胎告知」はマリアにとって「大事件」だったと思います。マリアには婚約者ヨセフがいました。まず彼のところに急いで行って話を聴いてもらってもよかったかもしれません。あるいは家族か、彼女の属するナザレの村の会堂長でもいいでしょう。ところが、ルカ福音書は、そうしたことを一切伝えずエリサベトの許に急いだことを伝えています。
私もふと気づくと急ぎ足で歩いている自分を発見するようなことがあります。そのような時、何か急き立てるような思いが心の内側にあることに気づきます。でも、全く逆の場合もあります。向かった先に楽しみや喜びが待ち受けているような場合です。「少しでも早く、そこに行きたい」、そうした思いからつい急ぎ足になってしまう。この時のマリアはそうだったのではないでしょうか。

Ⅱ. エリザベトとの再会

マリアは山里に向かって急いでいます。何が彼女を急がせたのでしょう?それを解く鍵が、46節から始まる「マリアの賛歌」の歌い出しにあります。「私の魂は主を崇め」。
この「崇める」という動詞は原文を見ると現在形で書かれていて、「私の魂は主をずっと崇め続けています」という意味です。一方、「私の霊は救い主である神を喜びたたえます」の「喜びたたえる」は不定過去形で「私の霊は救い主である神を喜んでいた」、「もう喜んだ」という訳になります。
マリアはすでに喜んでいたのです。不安だったので確かめようとしてエリサベトの許に急いだのではありませんでした。喜びに急き立てられていたから、足が小走りになっていたのです。それが、ここでルカが伝えようとしているマリアの姿でした。

Ⅲ. マリアの賛歌

喜び溢れた、そのマリアを迎えたのが親類のエリサベトでした。エリサベトのところに行って、喜びを感じている者同士、神の恵みを数えながら、共に賛美し、祈りを捧げたいと願ったからです。そして不思議なのですが、エリサベトと会う時点までマリアの心の中にあった喜びはまだ歌になってはいません。エリサベトと挨拶を交わし、互いに抱き合って喜んだ時、その時初めて賛美の歌が口からあふれ出た。そのようにして歌われたのが「マリアの賛歌」でした。
この「マリアの賛歌」ですが、聖書の専門家たちは、この時のマリアは全く白紙の状態から「マリアの賛歌」を歌い上げたのではない。幾つもの聖書の言葉が、この「賛歌」にはちりばめられている、と語っています。
1章5節によれば、エリザベトは「アロン家の娘の一人」です。そのエリザベトの親類がマリアだとしたら、彼女も家も祭司だった可能性が高いでしょう。マリアは子どもの頃から詩編を唱え、祈る家庭の中で、信仰を育まれてきたのではないかと思います。
賛美礼拝でお話したことがありますが、こんな思い出もあります。ヨベル館に行こうとする私に、「あした、クリスマスの劇やるんだ」と嬉しそうに話しかけてきた年長さんの女の子がいて、私が「誰の役?」と訊くと、「マリアさん」と答えると、隣にいた子が「私もマリアさん」と嬉しそうに言った。そして私が「マリアさん何人?」て訊いたら、「八人。でもイエスさまは三個しかないの」と答えた。みどり幼稚園らしくて大好きです!
その年の劇に八人のマリアさんが居たように、実のマリアも自分一人で与えられた恵みを独占しなかったのです。「私だけではないあなたにも、このような神さまの恵みが与えられている」と、その恵みを数えながら「信仰の歌」を、それも旧約聖書の昔からの歌い継がれた賛美の歌を、新たな思いを込めて歌った。それがこの「マリアの賛歌」でした。

Ⅳ. 主を喜ぶことは力となる

ところで、今日も私たちは神を礼拝しに集まって来ました。この礼拝で賛美歌を歌い、神をほめたたえます。そして「マリアの賛歌」から私たちは、神を礼拝すること、ほめたたえることとはイコール、神さまを喜ぶことだと知らされます。でも果たして礼拝に集う私たち、賛美歌を歌う私の心の中に、どれだけの喜びがあるのだろうか、神さまを喜んでいるだろうか、と考えさせられます。喜ぶことは当たり前のようで、実はそう簡単ではないことに気づかされます。
ある牧師が、「神の存在を十分に信ずることができる理由を捜すより、神の存在を疑わせる理由を捜す方がたやすい」と記していました。自分自身の内側、教会員の方たちの生活、そして世界に目をやっても「なぜ?」と訴えたくなるような現実や出来事の方が多いからです。そのような日々を送りながら、七日たつと主をほめたたえる日、主を喜ぶ日が再び巡って来るのです。
静岡県の牧ノ原にある榛原教会は、重い知的障がいを持つ子ども達の施設「やまばと学園」を創設して運営しています。そこに元理事長の長沢巌という牧師がおられましたが、お姉さんも知的障がいを持つ人だったそうです。長沢牧師は「精薄者の姉をもつ私」という文章の中でこう語っています。
「このような姉と二人姉弟でこの世に生を受けたということが、私の人生に決定的な意味を与えたと思われます。まず、私は、精薄として生まれたのが姉であって、私ではないということに恐れを感ずるのです。…この事実から、私は自分たちの知能が神から与えられたものであって、それによって誇ったり、人を見下げたりする理由がまったくないことを思わされます。…私はこういう『伴侶』を与えられた為に、少年時代から苦悩の意味について考えないではいられなかったのです。現在もなお考え続けているのであって、それが完全に分かったといえる日は、地上にある限りこないでしょう。ただ一つ言えることは、イエス・キリストの十字架に、苦悩の問題を解く鍵があるということです。イエスはこの世に苦難が存在する理由を説明されはしなかったのですが、ご自分の身をもってその苦難を負われました。…私たち人間の真に意味のある生き方も、やはり苦難を負うところにあることを、キリストの十字架から教えられます。神から与えられた賜物を、苦しむ者たちと共に分け合う時に、私たちは初めて神の愛の内に生きたということができるでしょう。」
抱え切れないような悩み、担え切れない苦しみ、呻かざるを得ないような痛みがあったからこそ、私たちに代わって苦しむ為に生まれてこられ、十字架にかかり復活された、イエス・キリストの愛が分かったという証しです。
説教の準備をしながら、もうお一人のことを思い出しました。今年の4月末に101歳で天に召されたK姉のこと、その姉妹の大好きな聖句の一つが「主を喜ぶことはあなたがたの力です」という御言葉だったということです。
葬礼拝の準備のために、ご遺族からいただいたK姉の半生を綴った文書を読みますと、喜びも多かったのですが、それ以上に様々な辛い経験をされたことが分かります。ご自分の病、家族の病、そして何よりも愛する息子を五十代の若さで天に送らなければなりませんでした。そうしたK姉だったからこそ、「主を喜ぶことはあなたがたの力です」という御言葉で自分を支え、そして主に支えられて生きて来られたのでしょう。
ある人が、「神に示すことのできる最高の敬意とは、神に愛されていることを知ることにより、私たちが喜んで生きることである」と語っていましたが、ケイコさんも長い信仰生活を通して、まさに神さまに愛されていることをことあるごとに確認し、その結果、神を喜んで日々を送っておられたと思います。私たちもそのような証人に囲まれながら、今、この時、信仰生活を送っているのだとつくづく思わされました。
マリアは、「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌います。神さまを礼拝することは神さまを喜ぶこと。神さまを礼拝することにより私たちの心に喜びが満たされるからです。
マリアの喜びの源泉はここにありました。身分でもない、性別でもない。今まで偉大な神さまだから、偉大な人々にしか目をお留にならないと思っていたのに、そうではなかった。身分の低い、この私に目を留めてくださった。そして偉大なことをしてくださった。神さまは、そのように、この私を愛してくださった。マリアはそれを実感した。そしてそのことが、彼女にとっては驚きであり、そしてまた大きな喜びとなったのです。
そしてどうでしょう。私たちも、その同じ神さまの恵みを数えることができる。その神さまに目を留めていただいている現実の中に置かれている。
私たちに必要なことは、この恵みの現実の中に自分自身をしっかりと置いて、その恵みが、つま先や髪の毛の先まで浸透し実感することができるようになることです。何故なら、「神に愛されていることを知ることにより、私たちが喜んでいきる」からです。
マリアとエリサベトはこの神さまの愛を深く受け止めた。それゆえに喜びに満たされた。喜べない厳しい現実、悲しい出来事に囲まれていたとしても、神さまに愛されている恵みに浸り、その恵みに立ち続けようとした。
そして今日、ここに礼拝に集った私たちも、マリアやエリサベトと一緒に主を賛美し礼拝して生きることが許されている礼拝に集う時、教会には、私と共に喜びや悲しみを分かち合える信仰の友エリサベトがいる。この恵みの中、クリスマスに向けて歩む私たちでありたいと願います。
お祈りします。

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アドベント 主日共同の礼拝説教

神のご計画

<第3アドベント>
松本雅弘牧師
イザヤ書30章15-22節
ルカによる福音書1章24-38節
2022年12月11日

Ⅰ. 「神にできないことは何一つない」?

先週、新聞を読んでいましたら、「ロシア本土攻撃か―ウクライナ戦闘激化の恐れ」という見出しの記事が載りました。ロシア国内の二つの空軍基地が、ウクライナ軍のドローン攻撃を受け、三人が死亡、軍用機二機が破損したと発表された。その結果、戦闘激化への懸念が強まっている、という記事の内容でした。ロシア軍によるウクライナ侵攻が開始され、すでに十か月弱が過ぎました。なかなか出口が見えない状況が続きます。そして依然、コロナ感染症も完全には収まらず、現在、私たちは第八波に襲われています。「神にできないことは何一つない」という御言葉と、この現実を私たちはどのように折り合いをつけたらいいのでしょう。
先日、日本中会の会議に挨拶に来られたTCU学長の山口陽一先生は、停滞期に入っていた日本のキリスト教会は今や衰退期に突入した、という衝撃的な発言をされました。そうした教会の現状にある中、今日の「神にできないことは何一つない」という言葉はどのような意味を持つ言葉なのだろうか、と改めて考えさせられました。
私たち信仰者は、神さまは全能のお方であることは分かっています。当たり前のことのように受けとめています。逆に、全能でない神ならば、それは神の名に値しないと考えるでしょう。だからこそ私たちは、神さまが全能であるならば、何でこんなひどいことがこの世界に、社会に、いや私や私の家族、子どもたちの上に起こるのか、と複雑な思いにさせられるのだと思います。
この時、天使ガブリエルはマリアに現れ、「神にできないことは何一つない」(37節)と語るわけですが、そのメッセージを通して神さまは何をなさろうとしていたのだろうか、と思います。今日は、そのあたりからご一緒に考えてみたいと思います。
ところで、37節の「神にできないことは何一つない」という言葉を原文で読みますと、もう少し丁寧に訳すべき言葉であるように思わされました。私なりに訳してみますと、「神にとっては、その語られた全ての言葉は不可能ではない、不可能になるようなことは決してない」という意味です。この時、天使を通して必ず実現する言葉として語られたのは31節の非常に具体的な言葉です。「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」という、この言葉です。そうした「神のご計画」、「神さまのお約束」と呼んでもよいかもしれません。これに対してマリアは、「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)と答えました。この「お言葉どおり」の「お言葉」とは、31節の言葉、「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」という、神のご計画を言い表す言葉です。
打ち明けられたマリアは大変でしたが、それでも「自分は主なる神さまの仕え女です。神さまに従う者です。ですから、あなたがなさいました決断、あなたが立てられたご計画に、私はひとりの仕え女として、それに加わり、そこに生きていきたいと願います」と答えたのです。ある人が、このマリアの言葉こそ、「信仰と献身の崇高な表現である。彼女はそれの意味する犠牲をも甘んじて受け入れようとしている」と解説していましたが、まさにマリアは腹をくくった。神さまから打ち明けられた計画に参加することを受け入れたのです。残された時間、マリアのこの姿勢に学んでみたいと思います。

Ⅱ. マリアが示した信仰者としての模範―主のはしためとして生きる

まず注目したいのは、彼女が自分を「主の仕え女」と呼んだ点です。「仕え女」とは、「僕」という言葉の女性形のギリシャ語です。
改めて教えられたのは、神さまのご計画、神さまの御働きは必ず主の僕、仕え女の参加を必要としているということでしょう。「あなたのご計画通り私をお用い下さい、生かしてください。私たちを通してあなたの御心が実現しますように」という祈りに導かれて初めて、神さまのご計画が実現する道が拓かれていく。誤解を恐れずに言えば、マリアのような仕え女や僕たちの参与なしに、ご計画は実現しないと言えるかもしれません。マリアはそのようにして、私たち信仰者の先駆けとなった女性です。
先週、洗礼式がありました。洗礼の時に、イエスさまを罪から私たちを救い出してくださるお方としてだけではなく、救い出された後、「人生の導き手」、つまり「主人なるお方」として従っていきますか、という問いかけますが、それは、イエスさまに対して自分は「僕、仕え女」であることを告白することであり、もっと言えば、「主よ、お言葉どおり、この身になりますように」、「生活の全ての領域であなたの御心がなりますように」と献身を表明する告白でもあるのです。ここにマリアが示してくれた信仰者としての模範があるように思います。
先週、祭司ザカリアの人生を神が妨害されたことを観ました。十か月の沈黙を経て、ザカリアはその出来事を恵みとして受け留めることができました。。マリアも同様なのです。彼女の人生に邪魔が入った。神さまが邪魔されたのです。そしてマリアは「あなたのなさる通りで結構です」と答えた。「私も自分の将来を思い描いて来ました。でもあなたが私のためにと準備してくださったご計画の方が、私にとって最善のものです。ですから、あなたのなさる通りで結構です」と告白し、自らを神に明け渡したのです。その結果マリアは、自分の思い通りにならない経験を幾つもしていくことになります。「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」と、最善の神さまのご計画が自分の人生を通して実現するようにと祈ったからです。

Ⅲ. 信仰の冒険

そして二つ目のことは、この祈りは、大きな犠牲を伴うものだったということです。
私たちカンバーランド長老教会の「信仰告白」では、リスクを伴う信仰の決断のことを「信仰の冒険」と呼んでいます。
マリアは神に従いつつ信仰の冒険を始めたのです。冒険というのは一から十、全てが分かって踏み出すのではありません。冒険に招かれる神さまだけを信頼して招きに答えることでしょう。マリアはそうしたのです。その結果、全人類のための救いの計画が大きく動き出して行くことになりました。
さて天使はマリアに向かって、「おめでとう。恵まれた方」と呼びかけています。「恵まれた方」とは「既に恵みを受けた方」という意味です。
ある人がこんなことを語っていました。この時すでに恵みを受けているということは、この時すでに神がマリアをお選びになっていた、彼女の決断に先立って、すでに神さまの側での決断があったことということ。何かの賞を受賞する時のように、まずは選ばれることが先。そのあとに受賞が決まったその人に、私たちは「おめでとう」と祝福の挨拶を送るものです。
この「おめでとう」という言葉も、ギリシャ語を直訳すれば、「喜びなさい」という意味です。「おめでとう!あなたに喜びがありますように。」
「おめでとう」、日本語のこの「めでる」という言葉は、「実際に自分の目で見て本当にいとおしい」という意味がある言葉ですが、神さまがマリアを、すでに慈しみをもって、いとおしいと感じながら見ていてくださっている。このようにマリアは、神さまが慈しみをもって選び、めでられた女性だったのです。
ただ一般常識からすれば、御子を宿すことは、この時のマリアにとっては喜びであったとは言い切れなかったと思います。この後ルカ福音書を読み進めていくと、2章でシメオンという不思議な老人が登場し、御子を連れて宮参りにやって来たマリアを待ち構えるように、「苦しみと悲しみの預言」とも呼ばれる不吉な言葉を伝えています。
そうした預言を聞き、マリアは本当に複雑な思いにされたことでしょう。それが頭を離れない中で子育てを始めなければなりませんでした。でも、この福音書を記したルカは、そうしたことをよく承知の上で、いや、そうであったとしても、今日のところで、「マリア、神さまの愛の中に選ばれている者よ、おめでとう。あなたも喜びなさい」と、その天使の「喜びなさい」という言葉を、それだけの思いを込めて、このところに記録しているのだと思います。
神さまの恵みの決断、喜びを知らせる決断が、まず初めにあって、それを受けるように、私たち信仰者が、そうした神さまの恵みに応答して信仰の冒険に足を踏み出していく。たとえどのような決断をする時にも、38節のマリアの表現を使えば、まずは「神の言葉」が先だって在る。その「お言葉」を心の耳を澄ませて聞いた者が、「あなたのお言葉どおり、この身に成りますように」と心からの祈りをもって応答していくのです。

Ⅳ. 神さまの決断に支えられ

神さまが始めてくださった、神さまが手を付けられたお働きは、神さまの定めた時に、必ず実現する。世界の片隅で始まった小さな幼子の物語、これが世の終わりまで揺らぐことなく続いて行きます。そして救いの完成にまで至る。その最初の一頁、おとめマリアの決断をもって、神さまは救いの実行に移られました。
神さまがマリアを見るように、私たちをご覧になっている。すでに慈しみをもって、いとおしいと感じながら見ていてくだる。そして私たちのために御言葉を用意し、私たちも、私たちの家庭や学校、職場、そして地域にあって、神さまの救いのご計画の一端に参加するように召されています。私たちも「私は主の仕え女、私は主の僕です。お言葉どおりこの身になりますように」とマリアのように、神さまの召しに心から応答する者として生かされて行きたいと願います。
お祈りします。