イザヤ書63章15-19節
ヨハネによる福音書3章10-21節
2022年1月8日
Ⅰ.「小聖書」
今日の聖書箇所を読みますと、「聖書の中の聖書」とか、宗教改革者マルチン・ルターが「小聖書」と呼びました聖句、ヨハネ福音書3章16節が出て来ます。私たちカンバーランド長老教会にとっても、この御言葉は特別で、『信仰告白』の冒頭に掲げられています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
よく「飼い葉桶と十字架は最初から一つ」と言われていますが、神さまが独り子をお与えになったということは、死に引き渡すことを覚悟で遣わされた。いや、十字架の死に引き渡すために遣わされた。それがクリスマスの出来事でしょう。そして、そのことを通して、信じる人が一人も滅びないで、永遠の命を得る。御子の命と引き換えに、私たちは命を得るというのです。
Ⅱ.ヨハネ3章16節の位置づけ
ところで、このヨハネ福音書3章16節は、あまりにも聞きなれた御言葉です。作家の三浦綾子は、「この『世』のところに、あなた自身の名前を入れて読んで御覧なさい」と勧めています。自分に結び付けて、自分のこととして、この福音の言葉を聞いてみましょう、というのです。
Ⅲ.「救い」と「滅び」
私は若い頃、「永遠の命」という言葉が、「終わることのない、永遠に続く長い長い命」を思い浮かべるようになり、どこか退屈さを感じ、心のワクワク感が消えていくような経験をしたことを覚えています。みなさんはいかがでしょうか。
実は新約聖書には「命」と訳せる三種類のギリシャ語があります。一つは最近もよく「バイオ、バイオ」という言葉を耳にしますが、「生物学的な意味での生命」を意味する言葉「ビオス」です。もう一つは「プシュケー」。エジプトに居たヨセフに「幼子の命を狙っていた人たち、死んでしまった」とお告げがありましたが、この時の「幼子の命」の「命」が「プシュケー」というギリシャ語です。
そして三つ目が3章16節で使われている「ゾーエー」というギリシャ語です。神との関わりにあってこそ意味を持つ命という意味の「命」です。ヨハネ福音書には、主イエスがこの言葉の意味を説明している箇所がありますので、そこも確認しておきたいと思います。ヨハネ福音書17章に出て来る、「大祭司の祈り」と呼ばれる祈りの中に出て来ます。
ここでイエスさまは、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と、「永遠の命」イコール、「神と主イエスを知ることだ」とおっしゃいました。つまり、主イエスを通して神との親しい交わりに生きている状態が命に生かされていることなのだ、と語っておられるのです。
今日の箇所に戻りますが、16節に続く続く17節でも「救い」に関する言葉が語られます。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。そして、その直後の18節では「救い」と矛盾する「裁き」を伝える次のような言葉が続きます。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子を信じていないからである。」
ヨハネは「救い」を伝えると同じに、それと矛盾するような「裁き」を語っています。でもどうでしょう。「永遠の命」をもたらす「救い」とは、まさに先週の礼拝での言葉を使えば、ぶどうの木であるキリストにつながること、命そのものであられる主イエスとの親しい交わりの中に生きるときに、主イエス・キリストの「救い」に与って生きることができる。
まさに主イエスが、「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。」と言われる通り、主イエスを離れたら、私たちは何もできない。つまり命の源から切り離されては、本当の意味で生きることはできないとおっしゃるのです。そのことを語っているのが18節の言葉でしょう。命の源なる主イエス・キリストに繋がっていない状態がヨハネの語る「裁き」です。逆に言えば、イエス・キリストを知って生きることの中に、裁きからの解放があり、喜びがあるということでしょう。
Ⅳ.独り子を与えるほどの愛
ちょうど成人式をお祝いした直後の春休みに、私はキリスト者学生会の春期学校に参加しました。その時、講師を務めた先生が私たち学生に向けて熱く語ってくださいました。「創世記2章7節に、『神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。』とある。『鼻から命の息を吹き入れる』という姿を想像してみてください。…『鼻から命の息を吹き入れる』というのは、鼻と鼻とをすり合わせるような、まさに夫婦のような交わりを意味します。私たち人は、神さまとそのような親しい交わりを通して、初めて生きることができる者として、この世界に存在させられたのです。…」。私も若かったのでドキドキしながら聞いたことを今でも思い出します。
主なる神さまと本当に親しい交わり、絆の中に生かされた時、人間は生き生きしていた。神を喜び、自分の存在を喜び、与えられた人生の同伴者である神さまを喜びました。 ところが、そのお方との関係が失われた時に、自らを「恥ずかしい」と思い始め、隣人と、そしてこの世界と上手くかかわることができなくなった。愛と信頼に基づく人と人との結びつき、社会でのかかわり方が、「強い者の支配に対する弱い者の隷属という秩序」にとって代わってしまった。「あなたのゆえに、土は呪われてしまった。…土があなたのために生えさせるのは/茨とあざみである」と先生の言葉を使えば、「自然界の反逆」(創世記3:17、18)を経験します。食物を得ようとして土を耕しても、「茨とあざみ」が生え育つことになる。「予期せぬ副産物」を生じさせる。それ以来私たちは、聖書が言うところの「裁き」の現実を嫌というほど味わってきたわけでしょう。
先週、お正月ということもあって牧師間の横の駐車場にクルマをとめていたこともあったので、〈そう言えば、幼稚園はいつから始まるんだっけ〉と思い、HPを開いたところ、「あなたは大切な人です」というキャッチコピーが目に飛び込んできました。改めてその言葉を読み、心の中に温かなものが流れたのを感じました。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。言い換えれば、神さまは私たち一人ひとりに「あなたは大切な人です」と真剣に語りかけておられる。その「オリジナル・ラブ」の具体的な形としてイエスさまを与えてくださったのです。しかし、この神さまの愛が分からなくなると、自分の大切さを確認するために、一生懸命に何かを成し遂げたいと思うようになります。あるいは、それが出来ない自分に打ちのめされます。そして今、私たちの社会の至るところで起こっている、「大切にされないことの悪循環」、そうしたことの「連鎖」が私たちの社会を覆っているように思うのです。
だからこそヨハネは、光としての主イエスを示し、「この光の方に来てみなさい。ここにこそ救いがある」と招いている。
ヨハネは、私たちを光そのものであられる主イエス・キリストへと導こうとしています(19-20)。私たちは光なるお方の許に来る時に、初めて本来の自分を取り戻していく。人々の目に大切な人に映るように、一生懸命努力をするのとは違う世界です。すでに大切な人として神の瞳に映っている。その喜び、その慈しみの目に映る自分を確認し、周囲の人々を見、この世界を見ていく。
この世界に目を転じる時に、圧倒されるような問題が山積です。闇が深いです。
よくクリスマスの時に語られますが、闇を追い出すために、私たちは戸を開けて、一生懸命、箒で掃きだそうとするでしょうか。窓を開けて追い出すことができるでしょうか。その闇を消し去るために出来ることは、その所に光を灯すことでしょう。すると不思議と、その周りから闇が見えてなくなるからです。
私たちは、その光の下に招かれ、その光に照らされ、自らが小さな光となって歩んでいく。いま、遣わされているその場所にあって、与えられている責任を果たすことだったり、子どもとの時間を大切にすることだったり、学校の課題に忠実に取り組むことであったり、神さまから示されている、場合によっては取るに足りないと思わされるようなことを、〈イエスさまだったら〉と問いながら、イエスさまと共に向き合っていく。そのように私たちはキリストの光を灯す者として召され生かされている。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
お祈りします。