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あなたは私に従いなさい―ペトロの再献身

<イースター>
松本雅弘牧師
ヨハネによる福音書21章15-25節

2022年4月17日

Ⅰ.ペトロの挫折

ペトロ、主イエスが十字架にお架かりになる前夜、「主よ、なぜ今すぐ付いて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」(13:37)と威勢の良いことを語っていたのですが、そのペトロに対し主イエスは、「私のために命を捨てると言うのか。よくよく言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」(13:38)とお語りになりました。この予告どおり、ペトロは三度にわたって、「イエスを知らない」と告白してしまう。大きな挫折を経験してしまうのです。

Ⅱ.「作業途中」のペトロ

さて、今日の聖書の箇所は、そうした挫折を経験した弟子のペトロと、復活の主イエス・キリストが再会した時のことを伝えています。
場面は、ティベリアス湖畔。「ティベリアス」とはガリラヤ湖の別名です。そこは元々漁師であったペトロが生まれ育った湖畔です。思えば三年前、この湖で漁をしている時、「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と主イエスに声をかけられ(マタイ4:19)、弟子としてスタートを切った、その出発点が、このティベリアス湖でした。ある意味で、弟子としての原点とも言える記念の場所だったのです。
そうした思い出ぶかい場所で、復活の主イエスが「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」(21:15)と問われたのです。
この時、主イエスは「ペトロよ」とは呼ばず、「ヨハネの子シモン」と呼びかけています。御自身がお付けになった名前でなく、敢えて元の名前で問われたのは、この同じ場所で「私に付いて来なさい」との招きに応えた時の初心に立ち返ることを促されたのではないでしょうか。三年前、「私に付いて来なさい」と招かれ、網を捨て、イエスさまに従って来た。ところが、いつの間にか、新鮮さが色あせて来て、逆に、この三年の間に犯した数々の失敗、そして何よりもつい先日、予告通り、愛しているはずの主を三度も「知らない」と否んでしまった。これまで自分は何のために主イエスに従って来たのか、その全ての営みが水の泡となってしまうような決定的な挫折を経験していたのが、この時のペトロだったのです。
でも復活の主イエスは、「取り返しのつかない失敗」をしてしまったと思うどん底状態にあったペトロに対し、「その“取り返しのつかない失敗”を取り返す、その失敗を償うためにこそ、私は十字架にかかり復活した。あなたは、私の赦しの愛の中でもう一度、いや何度でも、やり直してごらんなさい」。そのように、主イエスの方から手を差し伸べてくださっているのです。
イザヤは、「私たちは粘土、あなたは陶工。私たちは皆、あなたの手の業です。」(イザヤ64:7)と語ります。主イエスさまも弟子のペトロに対して、そのように関わってこられたのではないでしょうか。様々な出会いや出来事を通し、どっしりとした、岩のような信仰の人ペトロへと練り上げようとして来られたと思うのです。
この時のペトロは、〈もう駄目だ。取り返しがつかない〉と、この世の終わりが来たような思いでいたのではないかと思いますが、主イエスはペトロをそうは見ておられなかった。もっと長い目で私たちを見ていてくださる。「私たちは粘土、あなたは陶工。私たちは皆、あなたの手の業」だからです。
パウロはフィリピの信徒への手紙(1章6節)で、「あなたがたの間で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までにその業を完成してくださると、私は確信しています。」と語りました。主イエスが、あることを始めたならば、必ずそれを完成される。イエス・キリストってそういうお方なのだという約束の言葉です。先ほどの陶工と粘土の関係で言い表すならば、ティベリアス湖で「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と招かれたイエスさまが、その時、シモンをいう名の粘土を、人間をとる漁師に造り上げるための「作業」を開始してくださった。そしてそのお方は始めたことを完成される方ですから、必ず完成へと導かれるのです。
この時のペトロも作業途中なのです。ところが、どういう訳か自分を完成品のように錯覚してしまった。そして傲慢にも、「私はどこまでも付いて行きます。いや、行けます。あなたのためなら命を捨てることもできます。その覚悟があります」と豪語したのです。その結末を私たちは知っています。
ただ、私たちの主イエスは、こうした失敗の出来事も用いて、ペトロという粘土をさらに練り上げ、完成作品へと導いて行くこともできるお方でした。それが、「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」という、今日の箇所、15節の主イエスの問いかけの狙いでしょう。これに応答する時、自らの内側に始めてくださっている、主の御業の進展に協力することになるのです。

Ⅲ.あなたは、私に従いなさい

さて、この個所を読むたびに〈本当に面白いな〉と思うことがあります。日ごろ、私たちも経験することでしょうが、一つの問題をクリアすると、不思議とまた、新たな心配や思い煩いに直面することがあります。そのようにして、いつも心配や思い煩いに悩まされる。実は、この時のペトロもそうだったのです。この時、ペトロからしたら、愛するイエスさまとの関係が回復したわけですから、その恵みを喜び感謝していればいいところでしょう。ところが早速、彼の心の隙間に誘惑の手が伸びたのです。新しい歩みをしようとした矢先、振り向くと、そこに「イエスの愛しておられた弟子」の姿が目に飛び込んできた。弟子のヨハネ、この福音書を書いた使徒ヨハネです。前から彼のことが気になっていた。そして今ふたたび、ヨハネの存在が気になってしまったのです。
そういう人、いませんか?職場や学校に。いや、教会の中にも居てもおかしくないでしょう。こういうことを、私たちもよく経験すると思います。その人が気になってしようがない。どう云う訳か、自分と比較し、何か上手くやっているように見えて、私だけが損をしているようで、その人の一つ一つの言動が鼻につく。気になってしょうがないのです。
でも、そのように思うペトロに対し主はこう言われる。「私の来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい。」それぞれに負うべき「十字架」がある、とおっしゃるのです。
主の赦しの愛の中で、その人に託された人生を引 き受け、一生かけてキリストに似たペトロ、キリストに似たヨハネ、キリストに似た私へと、陶工である主は、その手の業を進めておられるのです。だとするならば、ペトロの傍に、気になるヨハネが置かれていること。そうしたヨハネとの出会い、ヨハネとの葛藤も実は、神さまがペトロを成長させるために、いやヨハネと一緒に成長するようにと、用意してくださった、大切な交わり、主にある交わりだということでしょう。

Ⅳ.献身をあらたに

最後にもう一つだけ、注目して終わりにしたいと思います。ここで主イエスが焚き火を用意しておられたのです。ペトロは、焚火にあたりながら何を考えたでしょう。大祭司の中庭で主を否んだ時の、あの情けない自分のことも心に浮かんできたかもしれません。あの時も焚き火に当たっていましたから…。
そして火の上には魚が載せてあってパンもありました。振り返ってみれば主イエスと共なる三年間を懐かしく思い起こしたのではないかと思います。そう言えば、あの「五つのパンと二匹の魚の給食」も、同じ湖近くで起こった出来事だったと、しみじみ思い浮かべていたのではないかと思います。
あの奇跡の時は、自分たちは宣教旅行から帰って来た直後で、心身共に疲れ果てていた。群衆の存在はいい迷惑だった。でも、疲れた体を押してパンと魚を配る中、人々の顔に笑みがこぼれる。「ペトロさん、ありがとう!」という感謝の言葉が返って来た。いつの間にか我をも忘れ真剣に配給していた。そして終わってみると、十二の籠が一杯になる程のパンの残りにあずかった。「十二」とは、まさに自分たち十二弟子の数だった。
ペトロは、イエスさまに従うことこそ、本当の祝福の道なのだということを、あらためて思い起こし、ここで再献身したのではないでしょうか。
今日、主は、私たちのためにも食卓を整えてくださいました。パンとぶどう液に与ることを通して、ペトロや弟子たち同様に、主イエスに付いていくことこそ、実は本当に恵まれた道なのだということを、今までの歩みを振り返りつつ、思い起こしたい。
そして、「あなたは、私に従いなさい」と私たち一人ひとりに声を掛けておられる。その招きに、「主よ、あなたはご存知です」と応答し、主を愛し主に従う決心を新たにしていきたいと願います。
お祈りいたします。

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あるがままの私を

<受難節第6主日>
松本雅弘牧師
ルカによる福音書15章8-10節
2022年4月10日

Ⅰ.はじめに―「残りの日々を数えるすべを教え」

今日は歓迎礼拝ということで旧約聖書からの朗読はしなかったのですが、でも、一か所、旧約聖書の言葉にふれてから、今日のお話をしたいと思います。詩編第90編です。
「あなたは人を死の眠りに落とされる。/人は朝に萌え出づる草のよう。朝には咲き誇り、なお萌え出づるが/夕べにはしおれ、枯れ果てる。」(5-6)とあります。ここで詩人は、しみじみと、私たちの人生のはかなさを歌っています。さらに、9節の後半から10節には、「私たちは吐息のように年月を終える。私たちのよわいは七十年/健やかであっても八十年。/誇れるものは労苦と災い。/瞬く間に時は過ぎ去り、私たちは飛び去る。」とあります。
つまり「うつろいやすい」だけではなく「吐息のように、ため息のように」あっという間に七十年、八十年経ってしまう。それが、この詩編90編を書いた詩人の実感でした。あっという間に過ぎてしまう人生ですから、詩人は真剣になって神に祈りを捧げるのです。その祈りが、12節、「残りの日々を数えるすべを教え/知恵ある心を私たちに与えてください。」です。
今日は、2022年4月10日です。考えてみれば、今日は、私の残りの生涯の最初の日です。しかも、私の人生の中で一番若い日でもあります。明日になったら一日、歳を取ってしまうわけですから…。でも心配なさらないでください。明日になりましたら、明日が私の人生の中でもっとも若い日であり、残りの人生の最初の日です。「残りの日々を数えるすべを教えてください/生涯の日を正しく数えるように教えてください」という祈りは、まさに今日、この日を、どのように受け止め、どのように生きるかを教えてください、という祈りです。実は、この祈りに応えてくれるのが、聖書に出てくる知恵であり主イエスの教えなのです。今日も、人生の日を正しく数えることができるように、悔いのない日々を送るための知恵の言葉をいただきたいと思います。

Ⅱ.背景

当時のユダヤ社会にあって、「罪人」扱いされていた徴税人等と共に時間を過ごしていた主イエスを見た、ファリサイ派の人々や律法学者たちが、主イエスを指さし、「この人は罪人たちを受け入れ、一緒に食事をしている。けしからん!」と非難していたというのです。そこで主イエスは、そうした彼らに対し立て続けに三つの譬え話を話されました。それが先週の「見失った羊の譬え」、今日の「無くした銀貨の譬え」、そして、「いなくなった息子の譬え/放蕩息子の譬え」でした。では「無くした銀貨の譬え」を共に読み進めていきましょう。

Ⅲ.無くした銀貨の譬え

あるところに、一人の女性がいました。十枚の銀貨を持っている女性です。ところが、どういうわけか、大切な銀貨の一枚を無くなってしまったのです。
すると彼女は本当に必死になって無くした一枚の銀貨を捜し始めます。薄暗い家の中でしたので、まず灯りをともし見つけようとします。次に、ほうきを引っ張り出してきてテーブルがあればそれをどかし、箪笥があれば、その下にほうきを突っ込んで掃き出そうとします。つまり、灯をともして目で捜し、ほうきを手に持って、そこいら中を掃きながら、ひょっとすると無くなった銀貨がほうきの先にひっかかるかもしれない。そして「チャリン!」と音でもしないかと、手と耳に神経を集中して捜すのです。そうです。全身を使って見つけるまで念入りに捜すのです。何故、ここまでするのでしょう?
ところで、このドラクメ銀貨ですが、一デナリオンの価値があると言われます。労働者一日分の賃金に相当する額です。だとすれば、結構な値打ちです。無くしたら、当然、探します。ただ、ここまで必死になって捜す理由が実はもう一つありました。当時、ユダヤでは、花嫁が嫁いでいく時に、十枚のドラクメ銀貨を髪飾りのように用いたと言われます。そう考えると、今でいう結婚指輪のようなものだったかもしれません。
私も、この指輪、丸38年もはめています。結婚当初はピカピカでツルツルで、とても綺麗でした。しかし今はもう表面はザラザラで光ってはいません。でもどうでしょうか。「新しいものと交換しよう」と思うでしょうか。「買った時と同じ値段で引き取りますから譲ってください」と言われて手放すでしょうか。そうしない。いや出来ないと思います。あの時、あの場面で交換した指輪であることに価値があるからです。つまり、他のもので代用することはできないものだからです。
彼女にとって無くした銀貨も同じでしょう。「あと九個残っているし」と気持ちを切り替えることなどできません。十個揃っていて初めて意味がある。いや、一つひとつに、今まで歩んで来た、その日々を象徴するような品物だった。だから彼女は必死になって捜しているのです。

Ⅳ.見出される喜び

ところで、説教の準備をしていて興味深い発見がありました。3節に「イエスは次のたとえを話された」とありますが、この「たとえ」と訳されたギリシャ語の言葉が単数形で書かれているのです。厳密に訳すならば「次の一つのたとえ」となります。このため専門家の間では3節の「次のたとえ」とは、「見失った羊の譬え話」だけを指すのか、それともその後に続く二つの譬え話も含むのかと議論が分かれています。ただ私は、この「一つのたとえ」という「一つ」ということにヒントをいただいたように思ったのです。
実は、先週の「見失った羊の譬え話」の中の「見失う」という言葉、「アポルーミ」というギリシャ語ですが三つの譬え話に共通して使われていることが分かりました。今日の8節では「無くした」という言葉が「アポルーミ」、放蕩息子の譬えの中では24節の「いなくなっていた」と訳されている言葉が「アポルーミ」です。三つの譬えそれぞれに出て来る単語です。
数学的に考えるならば、最初は百分の一の価値、無くした銀貨は十分の一の価値。そして最後の譬えでは、二人兄弟の物語ですから二分の一の価値となることでしょう。しかし、その分母が大きい小さいにかかわりないのです。「多くの中の一つ」「幾つかある中の一つ」、英語で言えば、「ワン・オブ・ゼム」ではない。そうではなく、私たち一人一人は神さまの目から見たら、見失ったり、無くなったり、いなくなったり、すなわち「アポルーミ」されては困る、掛け替えのない宝物、「オンリー・ワン」。そのような存在なのだ、ということを共通して伝えようとしている。ですから、捜し当てた神さまは大喜びなのです。
そしてもう一つ、この銀貨が見つかった時、どのような状態で見つかったでしょうか。見つけられる前に、お風呂に入って、シャワーを浴びて、綺麗になってから見つけて欲しいと、銀貨がそう思って小奇麗にしていたでしょうか。そんなことはありません。今日の説教のタイトル「あるがまま/そのままの姿」で見つかったのです。当時のユダヤの家の床は「石地」ですから埃だらけ、真っ黒だったと思います。
神さまは、ここにいる私たちを捜しておられる。それも必死になって!私たちが探し求める呼び掛けの声がする方向に向き直った時、そこに居てくださるお方の懐に、あるがままの姿で飛び込んでいけばいいのです。
水野源三、という名の詩人がいました。「まばたきの詩人」と呼ばれていました。その源三の詩の中で、私自身大好きな詩があります。
たくさんの星の中の一つなる地球/たくさんの国の中の一つなる日本/たくさんの町の中の一つなるこの町/たくさんの人間の中のひとりなる我を/御神が愛し救い/悲しみから喜びへと移したもう
源三は九歳の時に赤痢にかかり、高熱で脳性まひになって、見ることと聞くこと以外の機能を全部失ってしまいました。しかし十三歳の時、自分を捜しておられる神さまの呼びかけに気づいたのです。それ以来、お母さんの作った、「あいうえお」の書かれた「50音表」を、まばたきで合図しながら、一つずつ言葉を拾いながら詩を作りました。
たくさんの星の中の一つなる地球/たくさんの国の中の一つなる日本/たくさんの町の中の一つなるこの町/たくさんの人間の中のひとりなる我を/御神が愛し救い/悲しみから喜びへと移したもう
源三は、どうにもならない《自分の小ささ》という自分のありように、圧倒されていたのだと思います。でも、そのような自分をあるがままに愛して捜し出してくださった神さまに出会い、心の中の悲しみが大きな喜びへと変えられていくことを経験した。そんな時に歌った詩がこの詩なのです。
私たち誰もが、神さまに捜されている、神さまの宝物です。そのお方に出会う時、初めて百分の一、十分の一に過ぎない私ではなく、掛け替えのない私であることを知らされるのです。
お祈りします。

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愛されています

受難節第5主日
松本雅弘牧師

ルカによる福音書15章1-7節
2022年4月3日

Ⅰ.徴税人と罪人

今日から春の歓迎礼拝が始まりました。今日、初めてキリスト教の礼拝に来られた方、初めて聖書の言葉に触れた方もおありかと思いますが、心から歓迎いたします。
私も中学生の時に初めて聖書を買いました。神田に三省堂という本屋がありましたが、そこに行くと入り口の一番近いところのショウウィンドウに並べてあったのが聖書で、そこに行くたびにいつも気になっていました。そして、ある日、「買おう」と心に決めてお店に行きました。ところが、聖書を見ましたら、旧約聖書と新約聖書が一冊になったものと、新約聖書だけのものと二種類ある。どういうわけか私は、旧約聖書は、旧教、すなわちカトリックの聖書、そして新約聖書は、学校で新教と習っていましたので、プロテスタントの聖書と思い、「旧教で行くか、新教で行くか」と、自分で勝手に勘違いして、そんな大きな問いの前に立たされ、聖書一冊買うのにドキドキしたことを今でも覚えています。結局、「今、結論は出せない」と思って、ひとまず旧約聖書と新約聖書の両方が一緒になっているものを購入したのです。でも、買ったことでほっとしてしまって、そのまま読まずに、しばらくの間、本棚に置いたままになってしまいました。
聖書の中に、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口からでる一つひとつの言葉によって生きる」という有名な言葉があります。肉体を維持するのに糧が必要なように、私たちの心にもエネルギーとなる糧が必要です。この歓迎礼拝に参加することで、私たちにとっての大切な心の糧である聖書の言葉に触れ、神さまから生きる力をいただけたら、どんなに幸いかと思います。
さて、先ほどの続きですが、一大決心して購入した聖書でありましたが、中学生のときは、もうそのまま本棚に飾ってあるだけでした。でも、高校生になったとき、初めて聖書の言葉と真剣に向かい合うことを始めました。それはきっかけがありまして、学校での生活が思うように行かなくて、毎日、何か虚しいものを感じながら過ごしていたからです。「自分なんかいてもいなくてもよい」と真剣に思いましたし、悩みました。この「自分なんか、いてもいなくてもよいのではないか?」という心の奥底にある問いかけに対して、はっきりと「そうではない!」とのメッセージを伝えているのが聖書の言葉、神の言葉であると思います。
今回の歓迎礼拝では、新約聖書の中のルカ福音書の15章に出てくるイエス・キリストの譬え話から、御言葉に込められた神さまの私たちに対する熱い思いをお伝えできたらと願っています。その熱い思い、それは、「あなたがいなくなったら、あなたを捜す方がおられる。いや、今、すでに捜されている」とある牧師は語っていましたが、まさにそれが、神さまの熱い思いであり、この歓迎礼拝でお伝えしたいメッセージです。
ではルカ福音書15章1節から3節をご覧ください。1節に「徴税人」という言葉が出てきますが、徴税人は、当時、ユダヤを支配していたローマ帝国の手先となって、同胞のユダヤ人から税金を徴収する人のことです。ですから、そうした徴税人を当時は、十把一からげにして「罪人」と呼んでいました。2節の不平の言葉の中に、「罪人」しか出てこないのは、そうした背景があります。そうした人々が、話を聞くためにイエスさまの周囲に集まってきていたのです。
何故でしょう?イエスさまは相手にしてくださったからです。世間の人々は、徴税人や罪人とレッテルを貼られた人々を、相手にしないのですが、イエスさまだけはちがっていた。彼らがイエスさまと接する時に、「自分はこの方から相手にされている。いや、この方は私に関心を持って下さっている」。そうしたことが、彼らには、ちゃんと分っていたのです。そして私たち誰でも、関心を寄せてもらえると生きることができます。イエスさまというお方は、そのように私たちと接せられるお方なのです。

Ⅱ.不平

さて、そこに「ファリサイ派の人々や律法学者」と呼ばれる人々がいました。当時の宗教指導者、社会のリーダーたちです。その光景を見ていた彼らが不平を言ったのです。どんな不平不満を言ったのでしょう。
一つは、イエスさまが、自分たちが罪深いと見定めた人々と共にいること、ましてや食卓を囲むことなどは、律法に照らし合わせて絶対にあってはならないことだと考えていたことです。二つ目は、イエスさまを、神さまによる罪の赦しが簡単に与えられると吹聴する説教者だと決め付けていたことを挙げることができます。

Ⅲ.「見失った羊」の譬え

さて、こうした頑ななファリサイ派の人々や律法学者の硬い心を解きほぐすかのように、身近な出来事を例にとりながら譬えをお語りになったのです。それは一匹の羊を失くした羊飼いの譬えです。
ここでイエスさまは、見失った一匹の羊を捜し求める羊飼いとして、神さまのことを教えています。迷子になったこの羊は、どちらかというと自分の失敗の故に、自分の愚かさの故に、迷子になってしまいました。自業自得と言われてもしょうがないでしょう。しかし、羊飼いからしたら、その羊は、「見つけ出すまで捜し歩くほど」、いなくなっては困る尊い存在なのです。
ある人は、「百匹いるから、一匹くらいいなくなってもいいではないか。百分の一に過ぎないのだから」と言うかもしれません。聖書の別のところを読んでみますと、当時のユダヤの羊飼いは、羊一匹一匹に名前をつけて、自分の子どものように大切に養い育てている姿が出て来ます。私たちに当てはめて言うならば、ペットのような存在です。
私もペットを飼って初めて知ったのですが、明らかに家族の一員です。ましてや野宿しながら移動生活をしている羊飼いと羊たちは、まさに運命共同体のような関係でしょう。「その羊が一匹でも欠けてしまえば、見つけるまで捜すでしょう」とイエスさまは言われるのです。そこに居合わせたユダヤの人々は皆、うんうんとうなずいたと思うのです。

Ⅳ.見失われたものの大切さ―「あなたは高価で尊い」

いかがでしょうか。一人の人が失われる。一人の人が居なくなる。それは神さまからしますと大きな喪失、そして痛みが伴う悲しみだ、とここでイエスさまは、そうおっしゃるのです。そして仮に、その人が回復されたならば、それはとてつもなく大きな喜びなのだ、と言われるのです。
もう少し考えてみたいのですが、ここでイエスさまが仰っているのは、見つかるまで捜し求める羊飼いは、羊一匹を貨幣に換算し、一匹分の財産を失って損をしたので悲しんでいるのとは違い、ただ、そのまま、その羊が羊飼いからしたら、かけがえのない存在、大切な宝物だから失って悲しんでいる。つまり悲しみの理由は、その羊に対する羊飼いの思い、神さまの愛の心なのです。
先ほどお話しましたが、若い頃、私は、「自分なんて、居ても居なくてもいいのではないか」と真剣に思い悩んだことがありました。その時のことを振り返ると、「そうではない!」としっかり否定してくれる言葉が欲しかったのだと思います。
今日の譬え話、そして今月、一つひとつ読んでいく譬え話を通して、イエスさまはこれでもか、これでもかと、「自分なんて、居ても居なくてもいいのではないか」と言う心の叫びや諦めの思いに対して、「そうではない!そうではない!あなたは、神さまから捜されている、尊い存在なのだ」と訴えているのです。
「自分なんて」と思う時、価値のない私が何で生きなければならないのか、と思うことがあります。それに対して聖書は何と言うかと言えば、「神さまに捜されているから、生きなければならない」というのが答えです。聖書は、その神さまを信じるように、それが本当に生きる上で力になることを説いています。
聖書の教える神への信仰とは何でしょうか。ある人が言いました。「信仰とは、この自分も捜されている、主イエス・キリストによって神の愛のうちに捜されているのだということを認めること、受け容れることだ」と。
自分を振り返る時、自分は神からほど遠い生活をしている、とお感じになる方があるかもしれません。また、自分が身を置いているところには神さまなどやって来てはくれない、と言われるかもしれません。いや、実際に洗礼を受けた後でも、何度も何度も神さまが分らなくなることもあるでしょう。
でも、そんな時に、ぜひ、今日のイエスさまが語られた物語、譬え話を思い出していただきたい。私を捜し続けておられる神さまがおられるということ。いや、今、そのお方は私を捜しておられるということ。ぜひ、このことを心に留めていただきたいと願います。
お祈りします。

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礼拝の帰り道

和田一郎副牧師
申命記18章15-22節
マルコによる福音書9章2-10節

2022年3月27日

Ⅰ.「人のこと」から「神のこと」へ

今日の聖書箇所は、イエス様の伝道活動が一つの方向転換になった箇所です。それまでイエス様は病人を癒やしたりして奇跡を行ってきたのですが、弟子たちは、はたしてこのイエス様は何者であるのか、明確ではなかったのです。イエス様が言われるように神の国の到来が近いと感じつつも漠然としていたのです。果たしてイエス様が何者で、自分達の活動がどこに向かっていくのかはっきりしていませんでした。イエス様の存在が明確になるには、十字架、復活、ペンテコステの出来事を経験していかなければならないのですが、今日の箇所も一つの転換期になっています。
一つ前の章、8章29節で「あなたがたは、私を何者だと思うのか?」という問いに、ペトロは「あなたは、メシアです」と答えました。メシアとは油そそがれた者という意味です。かつてダビデ王も、神様に油注がれた者として特別に聖別されたイスラエルの王でした。おそらくペトロのメシア像とは、そのようなイスラエル民族を導くユダヤの王のようなイメージだったのでしょう。しかし、それはあくまでも人としての権威でした。イエス様は「サタン、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」と言われたのです。「神のこと」「人のこと」ここが一つの転換点です。「人のこと」ではなく「神のこと」です。 イエス様は続けて9章1節で、ここにいる者は、神の国が力に溢れて現れるのを見ると言われ、それから1週間ほどが経ったのが今日の聖書箇所です。

Ⅱ.イエスの姿が変わる

2節、六日がたちました。イエス様は弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山に登られました。「すると、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、衣は真っ白に輝いた。それは、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほどだった」のです。いつも一緒に旅をして寝食を共にしていたイエス様が別人のように輝いたのです。さらにエリヤとモーセが現れて語りはじめた。モーセは創世記や出エジプト記など、モーセ五書といわれる、書を書いた人物です。エリヤも旧約聖書の預言者の代表です。つまり旧約聖書の預言を成就する方としてイエス様が話しているのを弟子たちは見たのです。そこに雲の中から声がしました。「これは私の愛する子。これに聞け」という天からの声です。ペトロたちは、この時に初めて天からの声を聞いたのだと思います。人からの声ではなく天からの声が「これは私の愛する子」と言った、そして「これに聞け」と言ったのです。
弟子たちは慌てて見回すと、そこにはイエス様が一人立っておられました。
これまで一緒に過ごしてきたイエス様が、この世のものと思われない姿で、旧約聖書の預言者と話しをしている。天の声が「これは私の愛する子」と言われた。これまで「人のこと」を思っていた弟子たちに、「神のことを思いなさい」と教えたイエス様は、人であると同時に神の子メシアです。このイエス様の言葉を聞きなさいと、天の声はメシアについて明確に示されたのです。

Ⅲ.神の性質に触れる

二性一人格という言葉があります。イエス・キリストは「神の性質」と「人の性質」の二つの性質をもたれる方です。100%「神」であり100%「人」です。
そのことが今日のこの短い出来事の中に描かれています。イエス様は人として三人の弟子を山に連れて行く、山に登ると姿が変わり神としての姿をまとってエリヤ、モーセと語りあっています。そこで天からの声が「これは私の愛する子」と、神の性質(神性)がはっきりと示されました。その後「イエスだけが彼らと一緒におられた」といって、再びいつもの人としてのイエス様が描かれています。この出来事は「六日の後」とありました。9章1節でイエス様が、ここにいる人が「神の国を見る」と言ってから六日です。それはおよそ一週間で、毎週日曜日の主日礼拝に行くことを指しているかのようです。一週間ごとの礼拝に山を登るように教会へと行って、旧約聖書・新約聖書に語られている「これを聞け」と説教を聞くわけです。ペトロたち三人の弟子たちは、山で礼拝に与るような恵を体験したのです。
9節以降には、礼拝の帰り道、イエス様と弟子たちが、今見たことを語り合っている様子があります。イエス様の言葉を心に留めて、復活のことを話し合いました。ペトロたちは礼拝によって心のどこかに変化が起こったのです。イエス様の姿が変わったように、人知を超えたイエス様の神という超越性に触れると、人の心の何かに変化をもたらします。1節でイエス様が、ここにいる人が神の国が力に溢れて現れるのを見る、つまり「神の国を見る」とおっしゃったのですが、それがこの山上で起こった出来事です。ペトロは「ここにいることは素晴らしいことです」と、神の超越性に触れた礼拝の素晴らしさを告白しています。力に溢れる神の国、それが礼拝です。わたしたちの信仰生活の中心である主日の礼拝は、私たちに変化をもたらす素晴らしいものです。
しかし、この2年は礼拝に集うことが難しい2年間でした。神の国を味わうことが難しかったのではないでしょうか。コロナウイルスによって教会に行かない日曜日を過ごすことが増えました。オンラインだけの礼拝の日々が続きました。今日の聖書箇所にイエス様と弟子が「高い山に登られた」とありますが、教会が「高い山」になっている人が多いのではないでしょうか。家にいた方が見やすいし、聞きやすいし、移動もしなくていいから、教会という山が高く感じてしまっているかも知れません。特別な事情を補う意味でのオンライン礼拝は必要なのですが、神の呼びかけで人が集まるというのが、「エクレシア」(ギリシャ語)という教会の本来の意味です。コロナが収束した後の課題として、教会に集うこと、礼拝の意味を見つめ直す必要があるように思いました。

Ⅳ.「出ておいでよ」

金曜日のノア会という集会で作家、三浦綾子さんの代表作『氷点』の話をしました。小説の主人公の名前は陽子といいます。小説の最後の所で陽子は自殺を図ってしまうのです。当時、この小説は新聞に連載されていて「陽子を死なせないでくれ」という投書が殺到したそうです。小説では陽子の命はなんとか食い止められたのですが、それは投書とは関係なく著者は陽子の命を亡くしたくなかったそうです。実は三浦綾子さんの実の妹の名前が陽子なのです。妹の陽子ちゃんは6歳の時に結核にかかって容態が悪くなった時、当時13歳だった三浦綾子に「お姉ちゃん、陽子死ぬの?わたし死ぬの?」と呟きながら死んでいった。姉の綾子さんは胸が潰れるような痛みを拭い去ることができなくて、妹への愛おしさのあまり幽霊でもいいから陽子に会いたいと思って、家の近くの暗い所に行っては「陽子ちゃん出ておいで」と呼んでいたそうです。
妹に出て来て欲しい、その思いが小説の中に織り込まれていたそうです。「出ておいで」というのは三浦綾子さんの口癖のようなものだったそうです。小説家になる以前は小学校の先生をしていました。教え子のある生徒が学校に行けなくなった時期があったそうです。その子の家へ三浦綾子先生が大福餅を持ってやって来て「出ておいでよ、学校に出ておいでよ」と言ってくれたそうです。教会で家庭集会に誘う時の口癖が「家庭集会があるから、出ておいでよ」と誘っていた。
三浦綾子さんは結核にかかり13年も闘病していました、まさに病室にこもっていたのです。そこに、あるクリスチャンの男性がやって来てキリストと出会わせてくれた。まさにそれは三浦綾子にとって、神様からの「出ておいでよ」の声でした。

わたしの妻にも『氷点』にまつわる話があります。妻は中学生の時バスケット部に入っていてキャプテンだったのです。自分はバスケット部のキャプテンという責任感とアイデンティティが強すぎて、部活が終わった中学3年の時バーンアウトしてしまって、生きる意味を見失ってしまったのです。そんな時、家でお姉さんが持っていた本を、ふっと手に取って読んでみた、それが小説『氷点』で「そうだ部活に夢中で、最近教会に行っていなかったから、また教会に行こう」と立ち返ったというのです。また教会に行こうとしたきっかけが『氷点』でした。それが妻にとっては、バスケが終わったら教会に「出ておいで」という呼びかけだったのです。

Ⅴ.礼拝の恵み

ペトロとヤコブ、ヨセフの三人は、山上でイエス様の姿が変わる様子を目の当たりにしました。それは旧約の預言がイエス様によって成就するという素晴らしいものでした。「これは私の愛する子、これに聞け」という言葉に従って御言葉の真理を受け取る礼拝を体験したのです。人としてのイエス様との関係から、神としてのイエス様に触れる転換点となりました。その礼拝の帰り道、三人はイエス様を囲んで御言葉を分かち合いました。そして次の一週間の生活の場へと遣わされて行くように、山を下りていきました。
今日は礼拝についてイエス様の変容の出来事を分かちあってきました。神様の求める礼拝というのは、頭や心の中だけのことではありません。神様からの「出ておいで」という呼びかけにこたえて、この体で献げていきたいと思うのです。最後に使徒パウロの御言葉を分かち合って終わります。
「こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによって あなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる 聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかを わきまえるようになりなさい」(ローマの信徒への手紙12章1‐2節)
お祈りをいたします。

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主日共同の礼拝説教

貪欲の罪―第十戒

<受難節第3主日>
松本雅弘牧師
出エジプト記20章17節
エフェソの信徒への手紙5章1-5節

2022年3月20日

Ⅰ.はじめに

今日は、十戒の学びの最終回、第十番目の戒めです。出エジプト記20章17節に出て来ますが、「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛とろばなど、隣人のものを一切欲してはならない。」とありますが、今日は貪りの罪について考えてみたいと思います。

Ⅱ.ハイデルベルク信仰問答の受け止め方

さて、今日も最初にハイデルベルク信仰問答を参考にさせていただきたいと思います。ハイデルベルク信仰問答の第113番目の問答が、第十番目の戒めを扱っています。
問い:第十戒は、何を、求めていますか。
答え:神のどんな戒めにも背く、最も小さな、快楽や思いも、もはや、決して、われわれの心に、起こることがなく、かえって、絶えず、心から、すべての罪の敵となり、あらゆる正しいことを、喜びとするように、なることであります。
この問答は、第十戒は何を語っているかではなく、第十の戒めそれ自体がどのような生き方を求めているかを問うています。それを一言で言えば、心からすべての罪の敵となること。あらゆる正しいことを、喜びとするようになることなのだと示しています。
実は今回の問答の後に続く聖句の中には出てこないのですが、エフェソの信徒への手紙に5章1節から5節に、貪る罪に関する具体的な教えが出て来ます。今日は、その箇所を読みながら、十戒が戒める貪る罪について考えてみたいと思います。
1節と2節でパウロは、「ですから、神に愛された子どもとして、神に倣う者となり、愛の内に歩みなさい。」と語り、私たちに与えられている招きが神に愛されている者として生活することへの招きであることを明らかにしています。さらに3節では、「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく歩みなさい」と語り、その招きが聖なる者にふさわしく生きることなのだと教えています。ここに「聖なる者にふさわしく」とありますが、これは神の子とされた者にとっての「ふさわしさの基準」と言えます。
ここでパウロは、一般的なこの世の基準に照らしての良いこと/悪いことでなく、神さまの愛にふさわしく生きているかどうかなのだということを説いています。
主イエスが、洗礼者ヨハネから洗礼を受けることを願った時、最初ヨハネは洗礼を授けることを辞退しようとしました。なぜなら、ヨハネからしたら自分の方こそ、主イエスから洗礼を受けて当然だし、そのほうがふさわしい、と考えたからでしょう。ところが、これに対し主イエスは、本当にへりくだり、「今はあなたから洗礼を受けることが、ふさわしいことなのだ」とおっしゃった。何故でしょう?
主イエスはまことの神の独り子だったのですが、へりくだって人間の姿をとり、ベツレヘムの家畜小屋にお生まれになりました。飼い葉桶に寝かされ、公の生涯で枕する所もなく、僕のように人々に仕え、最終的には十字架にまでへりくだられたお方だからでしょう。
ですから、本来、罪人が受けるにふさわしい洗礼を受けるために、順番を待つ罪人たちの長蛇の列のしんがりに並び、罪人の代表として洗礼を受けられることが、実は神さまの愛にふさわしいことだった、と聖書は私たちに示しているのです。
こう考えて来ますと、主イエスの生涯は、善悪の基準や、この社会の理屈で計ったとしたらふさわしいことなど一つもない。むしろふさわしくないことの連続だったと思います。そもそも何で神の子が飼い葉桶に誕生しなければならなかったのか。十字架にかからなければならなかったのでしょう。私たちの方こそ十字架にかかって当然。理屈の上ではそうなります。善悪の基準で言ってもそうでしょう。けれども、罪のない神の独り子が十字架にかかることが、神の愛から見てふさわしいことだったのです。
3節、4節にある、この「ふさわしさ」とは、私たちの理屈に合う、この世の基準における「ふさわしさ」ではなく、神の愛にふさわしく生きているかを問題にしているのです。ここに神さまに愛されている神の子としての、私たちクリスチャンとしての生き方の基準、「ふさわしさ」の基準があるのです。

Ⅲ.貪欲の罪と偶像礼拝

5節をご覧ください。ここに今日の貪欲の罪が戒められています。しかも大事なことは、この貪欲の罪などが実は偶像礼拝から来ているとパウロが指摘している点です。
ところで、偶像とは何でしょう。預言者イザヤは、「人間は木を刻んで像を作りそれを『神だ』と言って拝む」と語っています。木を刻んで作った物は当然、木に変わりなく、決して神さまではありません。交わることもできませんし、モノ言うこともありません。ですから偶像礼拝の宗教観とは「一方的に私の方から神さまに対してお願いするだけ」となります。道端のお地蔵さんが口を利いて、「あなたはもう少し悔い改めたほうがいいよ」とは決して言いません。耳の痛いことは一切言わないわけです。つまり、偶像は私たちに嫌なことや耳の痛いことを言わないのです。その代わりに、神に造られて私たちが一番必要とする「人格的な愛」も与えてはくれないのです。当然、次に起こることは何かと言えば、心の虚しさ、空虚さです。そして、その空虚さを埋めようとありとあらゆる物をその穴めがけて投げ込んでいく。ある人にとってはお金を貯める事が一時的に虚しさを忘れさせることになるかもしれません。ある人にとってはセックスであったり、ある人にとっては仕事だったり、ある人にとってはお酒やギャンブルであったりする。色々な人がありとあらゆる物をもって心の隙間を埋めようとしますが、残念ながらその虚しさは消えません。心の隙間は本来、その創り主なる神さまだけしか満たすことのできない隙間だからです。
世界的大富豪だったジョン・D・ロックフェラーにまつわる有名な話があります。ある記者会見で、「自分は本当は幸せではなく、満足もしていない」と話したところ、ある記者から「では、あとどれほど、お金を持てば幸せで満足しますか」と質問がありました。ロックフェラーはどう答えたと思いますか?「あともうほんの少しあれば」と答えたそうです。心や生活の中から神を締め出してしまおうとする時、それだけでは決して終わらない。先週、悪魔は隙を伺っているとお話しましたが、神さまが締め出された後の心や生活のスペースが、正に悪魔が働く場となるから怖いのです。具体的には、神以外の物で自分を満たそうとする。「自分、自分」という極めて自己中心的な生き方が始まり、何かを手にするとそれに依存し、「もっと、もっと」と禁断症状すら起こす。何故なら真の神さまを神としない人間は、心の虚しさのゆえに、神でないものを神とせざるを得ないからです。これが偶像礼拝です。
元々は必要なもの、本来、良いものであったとしても、神さまの代用となっていくときに、それはれっきとした偶像でしょう。お金や仕事や学業、アルコールや賭け事、そしてセックスなどが、神のような存在になり、自分を満たし自分を慰めること自体が生きる目的となってしまう。傍から見ると極めて「自己中心」、しかも〈どこにエネルギーがあるのか〉と思えるほど「もっと、もっと」と要求の仕方は貪欲なのです。逆に言えば、それだけ「心の渇き」が強いから。どうしようもない悪循環、まさに地獄です。

Ⅳ.どこから始めるか

では、偶像礼拝の悪循環を断ち切るために、どこから始めるべきなのか。結論から言えば、自分のことから始める。それも物事を語る、この私の口から始めるようにと、ここでパウロは不思議なことを勧めています。3節をご覧ください。「あなたがたの間では、淫らなことも、どんな汚れたことも、貪欲なことも、口にしてはなりません」。そう語った上で、さらに続けます。「むしろ、感謝の言葉を口にしなさい。」私たちの口/唇自体も神からの賜物なわけですから、「ふさわしくないもの」から離れ「むしろ、感謝の言葉を口にしなさい」と言うのです。神さまの恵みを数え感謝し、賛美するところから始めなさい。その口で御言葉を読み、祈ることから始める。主の恵みを証しするところから始めていきなさい。それが貪欲の罪の予防となり、そこから解き放つ生き方となるのだとパウロは教えています。なぜなら、悪魔に隙を与えない。神さまが働くスペースを確保するからです。
エジプトから出た奴隷の民はエジプトの偶像礼拝の奴隷状態から解放されて、たとえそこが荒野であったとしても、まことの神さまを礼拝する自由な民になりたい、と心から願ったことです。神さまを心の中心に迎え入れる時に、私たちは解放されるのです。
私を取り巻く環境は変わらないかもしれません。でも私自身が神さまとの関係において、全く変えられた新しい存在とされている。そこから、神さまの愛で本当に満足した、神に愛された神の子としての生き方が始まっていくのであります。
お祈りいたします。