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主日共同の礼拝説教

和解の手を差し伸べて

2016年5月22日
松本雅弘牧師
レビ記13章45~46節
マタイによる福音書8章1節~4節

Ⅰ.「あの時以来」

イエスさまというお方は、私たちが人としての自分を取り戻すために、様々な語りかけを通して、出会ってくださるお方ですね。今日もそうしたイエスさまとの出会いを経験した人が登場します。
山上の説教を終えられたイエスさまが山を下りると、重い皮膚病を患った人が近寄ってきました。聖書に出てくる「重い皮膚病」は、長い間、今で言うところの「ハンセン病」とされてきました。ハンセン病の感染力は非常に弱いと言われます。なおかつ、それは遺伝病ではありません。しかし、日本でも患者が隔離され、子どもをもうけることも禁じられてきた過去があります。そして現在にいたっても、完治する病気でありながらも、社会的差別がなおも残っているのです。
つい先ごろ、4月25日でしたか、日本において、かつてハンセン病患者の刑事裁判などを、隔離された療養施設などに設けた「特別法廷」で開いていたという問題で、最高裁判所が、その調査報告書を公表し、「社会の偏見や差別の助長につながった。患者の人格と尊厳を傷つけたことを深く反省し、お詫びする」と謝罪した出来事がありました。このように、今の日本においても現在進行形の問題であることを思います。

Ⅱ.和解の手を差し伸べるイエス・キリスト

この人の苦しみ、この人を苦しめていたものは、肉体的苦痛であると共に、「汚れた者」というレッテルを貼られるという意味で、宗教的な断罪であり、そして、社会的な疎外でもありました。そのような意味で、この人は三重の苦しみを背負わされていた人だったと思います。
この同じ出来事を記録したルカによる福音書を見ると、この時の彼の様子を「イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた」(ルカ5:12)という言い方で伝えていました。「居てはいけない人がそこに居た」というニュアンスで、その状況を記録しています。しかも、「そこに居た」ということは、本来、その人にあてがわれた場所から、移動してやってきて、そこに居たということでしょう。
当時、この病の人は「汚れた者、汚れた者」と言い、患部を見せながら、人々と接触をしないように移動しなければならないことになっていましたから、そうした犠牲を払ってやって来たのでしょう。そして、ひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願っています。
ここで、ただ1つ気になることがあります。それは、この時の彼は、単純に「主よ、清めてください!」とは言っていないことです。彼の中に、どうしても心配なことがあったのではないでしょうか。それは、「果たしてイエスさまが私を癒そうと思うかどうか/そうした気持ちになるかどうか」と言う事でした。ですから単純に「主よ、清めてください!」とは言っていないのです。いや、言えなかったのでしょう。その代りに「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願ったのではないかと思います。
厳しい世間によって、彼はどれだけ傷ついてきたことでしょう。やっとつかんだ幸せのときを、また、その世間が奪っていく。そうしたことの繰り返しが彼の毎日でした。ですから、何か起これば過剰に反応してしまいます。もう傷つけられたくありませんから、とても防衛的になってしまう……。イエスさまだけは違うと期待しながらも、でも、もしかしたら、と思ってしまう誘惑との戦いだったのではないでしょうか。見るからに普通の人の肌の色とは違っていました。ですから、聖書に出てくるこの人も、自分の病気は、相手の同情をかきたて、人の心を揺さぶるような病ではなく、見た目にも嫌悪感を抱かせるものだと知っていたと思います。また、現代医学では治せる病で、感染力も弱いことは分かっているわけですが、二千年前のこの時代のことです。
そんなことを考え始めたら、ほんとうに自信が無くなって来るのではないでしょうか。ですから、彼の心の中には、「イエスさまは果たして自分を癒そうと思ってくださるかどうか?」 これが唯一、そして決定的に彼の心を支配していた不安だったと思います。
ところが、イエスさまの前にひざまずいている彼に、イエスさまは手を伸ばして触れられた、のです。口をお開きになる前に手を伸ばし、全身重い皮膚病に犯されている人に触わってしまわれたのです。当時、誰もが近づくことさえ恐れる病人です。イエスの周囲にいた人々は、その人が重い皮膚病を患っていると知った瞬間に、後ずさりしたのではないかと思います。しかしイエスさまだけは、逆に前に進み出ながら、手を差し伸べて、その人に触れたのです。
ここで1つ、覚えておきたいことがあります。福音書を見ますと、イエスさまは多くの病人を癒されました。ただ、誰かを癒される時に、常にその人に触れて癒されるわけではない、ということなのです。
例えば、この出来事の後、百人隊長の僕が癒される出来事が紹介されますが、そこでは約束の言葉を与えただけ、僕の姿を見てもいません。主イエスさまは、言葉だけで癒すことができた、ということを福音書は伝えているのです。ところが、この時は、わざわざ重い皮膚病を患った彼の体に触れておられるのです。
それには理由があったと思います。それは、この人の体に触れることが、この人にとってどんなに大事なことかを、イエスさまは良く知っておられたからだと思うのです。思うに、彼の負っていた病、また深い傷は、単に体の病気によるものだけではありませんでした。誰からも相手にされず無視される。バカにされる。
しかも先ほどのレビ記にありましたように、自分自身に対しても「わたしは汚れた者です」と言わねばならない。いや、叫ばねばならない。そのような者として自覚し、そうしたアイデンティティーを刷り込まれていた人です。そこに、彼の心の傷、痛みがあったと思います。
私たちの主イエスさまは、そうした彼の深く痛む傷を、力強く、そして優しく、温かな主の手を置いて癒そうとなさった。癒してくださったのです。
いかがでしょう。この人からすれば、もう、何年も、いや、もしかしたら何十年も経験できなかった感触だったと思います。この彼にイエスさまの手が触れた時、本当に久しぶりの手の感触に、病に犯された彼の肌はどのように反応したのでしょうか?! きっと鳥肌が立ったのではないかと思います。
そして、「よろしい。清くなれ」と言われたイエスさまの言葉。この「よろしい」という言葉の意味は「私はそれを欲する」という意味です。「あなたが欲しさえすれば」という、彼の言葉に対する主イエスさまの答えです。
それだけではありません。「手を差し伸べてその人に触れる」ということは、ユダヤの習慣では仲直りの行為でした。「和解の手を差し伸べる」という意味のある言葉です。
何年もの間、聖なる所から一番遠い場所に閉じ込められていました。人間として生きる権利を奪われるような生活でした。生命と身体はあるのです。いや、心もありました。もしかしたら、彼の心は普通の人とは比べものにならない程、敏感によく働いたかもしれません。でも、そうした心を持っている人間であったにもかかわらず、身の置き場がなかったのです。
そうした彼に、感染するかもしれないのに触ってくれた。友が仲直りの手を差し伸べるように、彼を虐げていた人間社会を代表するかのように、「赦してくれ」と、イエスさまの方から和解の手を差し伸べてくださったのです。そうした上で、彼の手を取って、神さまの恵みの中心へと彼を招き入れてくださったわけなのです。その結果、重い皮膚病はたちまち癒されます。

Ⅲ.山を下りられるイエスさま

ボンヘッファーは、「苦しむ神だけが助けを与えることができる」と言いました。主イエスさまは、誰もが触れない彼に触れられた。和解の手を差し伸べられた。そのようにして、神との間の仲保者になり和解をなしとげてくださったのです。
この憐れみの極地が十字架の死でした。キリストは体を張って、私たちの生きる「居場所」を備えてくださったのです。ご自分の命と引き換えに、私たちに命を与えてくださいました。
最後に8章1節に注目しましょう。「イエスが山を下りられると」と出て来ます。聖書の世界では、山とは神さまに近い場所を意味すると言われます。逆に、海は世俗の世界を象徴します。
ある先生が、「この『イエスが山を下りられる』というひと言の中に、すでに大きな福音があると思います」と語っていましたが、まさにそうだと思います。
学生の時、信州の山の上で行われた修養会に参加し、本当に恵まれた時を過ごしました。上野に戻り、人々の雑踏を通り抜けるに従い、その「恵み」が色あせて来るのを感じたことです。確かに「山の上」は恵まれている。御言葉を聞くことができる。でも私たちは必ず「日常」へと戻って行くのです。
主イエスさまも自分1人が山に留まるのではなく、山から日常に戻る私たちと共に、この世の真っただ中へと進んで行かれるのです。大変さや辛さや、誘惑の多い日常のただ中に、です。
このイエスさまが、そのところで私たちと出会い、出会った私たちは、その出会いを通して本当の自分を取り戻すことができる。そして、安心して主に従う歩みを進めることができるのです。
お祈りします。

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ペンテコステ礼拝 主日共同の礼拝説教

あなたがたは力を受ける


2016年5月15日  ペンテコステ礼拝
松本雅弘牧師
ヨエル書3章1~5節
使徒言行録1章6~14節、2章1~4節

Ⅰ.はじめに

ペンテコステ、おめでとうございます。2千年前の過ぎ越しの祭に、世の罪を取り除く神の小羊イエスさまが、十字架の上で贖いの死を遂げ、その3日の後に復活なさったのです。その後、40日間にわたって弟子たちに姿を現し、昇天されます。
今日の聖書個所には、昇天される直前の、イエスさまと弟子たちとの間で交わされた会話、そして、イエスさま昇天後、ペンテコステまでの10日間の弟子たちの姿が記録されています。
彼らは、「父なる神さまの約束」を、主の教えの通りに待ち望んでいました。このようにして、2千年前のペンテコステに、父なる神さまが約束された聖霊がくだり、そして、私たちが霊を宿す神殿となりました。こうして私たちは、復活の主の証人となったのです。

Ⅱ.一民族国家であるイスラエル王国の復興

ではなく神の国の実現のために
弟子たちは昇天前の主に尋ねています。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と。考えてみれば、この質問は、単に彼らの個人的な関心ではなく、国家を失って以来、すでに数百年経っていた、イスラエル民族の「悲願」を代弁する「問いかけ」でした。
この質問に対する復活の主イエスさまの答え、 それはイスラエル民族国家の復興ではなく、今までイエスさまが宣べ伝えて来られた「神の国の到来」だったわけです。
福音書を読む時、イエスさまは、この神の国の到来の福音を伝えるためにやってこられたことが分かります。マルコによる福音書の1章15節に、公生涯の最初にイエスさまが語られた、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉があります。
この「福音」という言葉は「良き知らせ」という意味です。ただ、ここで改めて〈「良き知らせ」とは何を意味するのか〉という素朴な疑問を持つのではないでしょうか。
ある人は、「福音」とは十字架の出来事の意味を語ることだと考えます。しかし、イエスさまがこの「福音」という言葉を用いた時には、もう少し広い意味で使われたように思います。このことを考える上で、マルコが、イエスさまのメシアとして第一声(マルコ1:15)を記す直前に記録している2つの出来事を覚える必要があると思うのです。
その1つは、洗礼を受けられた時に、天から語られる神さまの声を聴き、イエスさまご自身が、神さまの愛を体験したということです。そして、この出来事に続く40日間、断食の祈りを通して、イエスさまは神さまと親しく交わる経験をしました。これらの体験によって、ご自身に対する神さまの愛を深く味わい悟られました。イエスさまは、これを公生涯の始まりになさったのです。
そして2つ目のこととは、神さまのご自分に対する無条件の愛をもって、イエスさまは悪魔の誘惑に勝利したのだ、ということです。つまり、マルコによる福音書は、イエスさまの、メシアとしての第一声の前に、「神さまはわたしを愛してくださっている」ということ、そして「神の愛によって悪魔に勝利した」、この2つの出来事を記しているのです。
ですから、私たちは、主キリストに倣う者として、キリストのこの2つの体験を追体験していくこと、そのことが、私たちキリスト者にとって、大切なクリスチャンとして歩みとなるということです。
まずは、イエスさまが父なる神さまの無条件の愛を、深く感じたように、私たちも神の愛を深く味わうことができるように。そして、その愛に満たされることで、様々な誘惑から自由にされる経験をすることです。
もう一度、マルコによる福音書1章15節に戻ります。ここでイエスさまは、「悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。「悔い改める」というギリシャ語は「メタノイア」という言葉です。「ノイア」というのは「考え・考え方」のことです。「メタ」というのは「ひっくり返す」という意味です。「メタノイア」、すなわち、「考えを変える」、「今、自分が持っている信仰や信念をひっくり返す」。そうした上で、神さまの無条件の愛を、また、神さまの憐みによって悪魔に打ち勝つ力を与えられるという恵みを、言い換えれば〈「福音」を信じなさい〉、とイエスさまは招いておられるということなのです。

Ⅲ.聖霊が与えられていることの恵み

 しかし、ここでもう1つ、大きな課題がありました。それは私たち人間に備わった自然の力では、こうした歩みを進めることができないということです。そのために神さまが用意してくださったことがあります。それが、聖霊を私たちに与える、という聖霊のプレゼントです。
ヨハネによる福音書16章には、父が約束された聖霊のお働きについて、イエスさまが丁寧に説明された言葉があります。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」(ヨハネ16:7~15)
 私たちがイエスさまを信じ、クリスチャンとして生きていく力を与え、また、聖書の言葉を悟らせ、自分のものにできるようにしてくださるのが、この聖霊なる神さまの働きなのだ、とイエスさまは教えてくださっていたのです。先ほどの言葉を使うならば、私たちが父なる神さまの無条件の愛を深く味わうことができるようにし、そしてまた、この愛に満たされることで様々な誘惑から自由にされる経験を、導き支えてくださるお方、それが聖霊なる神さまなのです。さらに言えば、パウロは、コリントに宛てた手紙の中で、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(Ⅰコリント12:3)と語っていますように、この聖霊によって、初めて私たちは「イエスさまを主」と告白できるのです。そしてまた、この聖霊の働きによって、主の御心を求めるような私に変えられていく。「御心のままに望ませ、行わせておられる」のも、私たちに与えられている聖霊のお働きだからです。
 さらに、パウロはフィリピ教会に宛てた手紙の中で、次のように語っています。「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(フィリピ1:3~6)
 聖霊は、私たちの中で善い業を始め、なおかつ、その業を成し遂げてくださる、完成してくださるのだ、自分はそのことを確信している、とパウロは語っているのです。そして、その善い業の完成のプロセスにおいて、私たちが、ぶどうの木であるイエスさまにつながる時に、聖霊の恵みの樹液が流れて来て、私たちの内側に、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という聖霊の実を結び(ガラテヤ5:22~23)、キリストに似た私たちへと導いて行かれるのも、この聖霊のお働きによるのです。
このように考えていくと、本当に、この聖霊のお働きというのは、救いの始まりから完成に至るまで、私たちの全てを覆い尽くすほどのお働き、いや、私たちをキリスト者として育て成長させるお方であることを教えられます。

Ⅳ.私たちにも与えられている聖霊

 ペンテコステとは、この聖霊が与えられた日です。そして、今もなお、イエス・キリストを救い主、主として信じた者に与えられる、神さまからのプレゼントです。
プレゼントをいただきながら、そのことを知らないでいたコリントの教会の兄弟姉妹もいました。パウロはその人たちに対して語りました。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:19~20)
 この聖霊が私たちにも与えられています。イエスさまが、聖霊に導かれて神さまの無条件の愛を深く感じたように、私たちも、この聖霊に導かれて神さまの愛を深く味わうことができるように。その愛に満たされることで、様々な誘惑から自由にされ、力を受けて、復活の主の証人として、神さまの素晴らしさを証ししていく私たち、聖霊が豊かに息づく教会として育てていただきたいと願います。
お祈りします。

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福音の信仰


2016年5月8日 夕礼拝
和田一郎伝道師
イザヤ書43章1節
ガラテヤの信徒への手紙1章1~5節

今日から、第2、第4主日の夕礼拝で「ガラテヤの信徒への手紙」というパウロの手紙から、御言葉を受け取っていきたいと思います。この手紙を書いたパウロという人に、みなさんはどのような印象をもっていらっしゃるでしょうか?

Ⅰ.パウロという人

新約聖書27の文書のうち、13の文書がパウロによって書かれました。おおよそ半分がパウロの書簡です。神学的内容の手紙を書いたことは事実ですが、あくまで宣教する現場で活躍しながら、多くの教会、伝道者を牧会し、次々に生じる課題、問題に取り組んだ人です。
パウロという名はギリシャ語名で、ヘブル語名ではサウロといいます。サウロはイスラエルの最初の王サウルに由来します。パウロはユダヤ人(ヘブル人)で、系図をたどるとベニヤミンの部族の出身です。ベニヤミン族は12部族で最も小さい部族でした。恐らく、パウロとサウロの名前を、状況によって、使い分けていたと思います。エルサレム教会では「サウロ」と呼ばれていただろうし、異邦人教会では「パウロ」と呼ばれていたのではないでしょうか。使徒言行録13章9節でパウロは「サウロ」から「パウロ」に名前を変えた訳ではありません。それは著者のルカが、最初はユダヤ人として描写し、第一次伝道旅行から、ギリシャ語を話す、地中海周辺の伝道に従事するようになったので、呼び名を変えたのです。
聖書ではイエス様の公生涯が終ってから、パウロが登場しますので、以外に思う方もいるかも知れませんが、パウロはイエス様より10歳程若いぐらいで、ほとんど同じ世代を生きた人です。イエス様や12弟子達がユダヤのガリラヤ地方出身だったのに対して、パウロは、現在のトルコの南部タルソスという町の出身でした。タルソスはガリラヤの田舎とは違って、ローマ帝国の中でも文化の発達した3大学術都市と呼ばれた都市の一つです。その土地柄もあって、パウロはヘブル語、ギリシャ語、恐らくラテン語も話せた国際人でした。その後、エルサレムに移り住んで有名な学者ガマリエルの元で律法を学んだエリートです。そして、とても熱心なファリサイ派でした。しかし、パウロはダマスコへの途上で、イエス様が生きて目の前に現れた事実を、受け入れて頭の中で整理する必要に迫られました。イエス様と出会って、目が見えない状態で自ら学んできた旧約聖書の解釈を、再構築するために頭の中で葛藤していたことでしょう。これらの経験を通して、書かれたのがパウロの書いた手紙で、今日お読みしたガラテヤの信徒への手紙もその一つです。
このガラテヤ書はパウロの書いた手紙でも一番早い時期に書かれたものとされています。
ですから、キリスト教が生まれて、まだ間もない頃に起こった問題を、ガラテヤ書は取り上げているのです。その問題が示されているのが、今日お読みした聖書箇所の1章1節に表されています。

Ⅱ.神によって

この1章1節は、なんでもないような、手紙の前文ですけれども、人から任命されたわけではない、人を通して認められたのでもなく使徒とされた、このパウロ。と、強調されている文章です。ここに当時のキリスト教会の問題が示されています。パウロは第1回伝道旅行でガラテヤ地方へ訪問して、建設されたガラテヤの教会が、その後、パウロとは違う、間違った教えを持つ人たちに、教会が影響されてしまった事実が伝わってきました。彼らは、人が救われるには、キリストを信ずる信仰だけではなく、割礼も受けてモーセの律法のすべてを守らなければならないと、ガラテヤ教会の人たちに広めていました(使徒15章1~5節)。さらに、パウロの教えを否定しただけに留まらず、彼らはパウロの「使徒」という称号も否定したのです。彼らの言い分はこうです「パウロは使徒と自称しているが、本物の使徒ではない。彼はエルサレムの教会からも、ペトロや、イエス様の兄弟ヤコブたちからも任命されてはいない。したがってパウロは公認の使徒ではなく、彼の教えている、割礼も律法も必要としない福音には何の権威も裏付けもない。」と言うものでした。しかし、パウロはこの攻撃に対しても動じないで、この手紙を書きました。自分の使徒職はどんな意味においても人間的なものでなくて、神的なものだと強く主張しているのです。ペトロを中心とする十二使徒や、アンテオケ教会のような人々によって任命されたのではない。アナニヤやバルナバのような人を通して任命されたのでもない、パウロは人間的なものは何一つ、自分の任命とは、かかわりがなかった。直接的にも間接的にも人間によるものではなく、ただ神によるものでした。パウロの表現を借りるならば、それは「イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって」の事である。ここでは「よって」という一つの言葉にパウロの強い主張が込められています。

Ⅲ.福音の真理

1節の文章の「キリストを死者の中から復活させた父である神とによって」という箇所に注目したいのですが、パウロはダマスコで、復活したイエス様と出会いましたが、もともとファリサイ派であったパウロは、この事をどのように理解していたのでしょうか。今日は召天者記念礼拝ですが、このイエス・キリストの復活というのは、パウロにも、私たちにとっても、どんな意味があるのでしょうか。
まず一つ目に挙げられることは、復活することによって、死に打ち勝った勝利者であることです。もし、十字架の死だけで終わっていたならば、いくらイエス様が、自分から父である神様の意志を果たしたとしても、人から見れば失敗として映って、イエス様の存在は歴史から消えてしまっていたことでしょう。しかし、復活という出来事を通し、十字架の死が、完成された救いであることを示されたのです。また、このことはパウロにも、私たちに対して大きな喜びと希望を与えるものとなりました。イエス様が復活されたように、私たちもやがて復活して、永遠の命を得るという希望です。
キリスト教の考えの中には、生まれ変わりという考え方がありませんから、この私が「私」として、いつか復活するということになります。そうなると、今までに亡くなった方とも、また出会えるということです。そうなると、葬儀のとらえ方も違ってくることになるはずです。単なるお別れではないのです。そしてもう一つは、わたしたちが死によって無になってしまったり、別のものに生まれ変わったりしないわけですから、今の生き方に応じて復活した状態も変わってくるということになります。復活するという信仰をもって、今を一生懸命に生きていこうとするのが、私たちキリスト者の生き方です。パウロはフィリピ書で「生と死」について、このように記しています。
「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。」(フィリピ1:21~22)
パウロにとって、この世は決して楽しいだけではありませんでした。むしろ死には、生きる事の苦しみから解放される要素もありました。神様を目の当たりにしていられる場所に行くことの方が利益がある。一方で、この世で生きていれば、やりがいのある仕事もある。どちらがいいか私には分からない、とパウロはいいます。「死んだらおしまい」という観念はパウロにも、私たちキリスト者にもないわけです。それが私たちに与えられた「イエス・キリストが復活した」意味です。復活が私たちの希望となりました。この希望をこの私に与えて下さったのは、誰によるものなのか?と問われれば、パウロの表現を借りればこうなるでしょう。「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって」与えられた希望なのです。復活の恵みは人からではない、神による永遠の希望です。私たちに与えられた福音の真理、変わることがない、永遠の恵みとして。ガラテヤ書1章4節をお読みして終わります。
「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」

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ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教

現代を生き抜くための黄金律


2016年5月8日 
ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
申命記10章19節
マタイによる福音書7章12節

Ⅰ.はじめに

 私たちが生きていく上で、こういうやり方をすればうまくいく、間違いないという知恵やルールがあれば、どんなに助かることでしょう。世の中が目まぐるしく変わり、しかもそうした私たちの周りには様々な情報が溢れている中、今、どう生きたらよいのか、子どもの教育をどうしたらよいのか、皆、わからなくなっているからです。
「永遠のベストセラー」と呼ばれ、最近では、クリスチャンでない方も手にする人が多くなったと言われるこの聖書を見ますと、主イエスは、こうした私たちに対して、「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。」といった語りだしで始まる「山上の説教」と呼ばれる一連のお話をしておられますが、こうした言葉を読み、また聞く時、不思議な安らぎを感じるものです。目先のことで、気持ちが一杯一杯になっていたとしても、そうした言葉をゆっくりと味わうことで、本当に不思議なのですが、周囲の人たちのニーズに思いを向ける、「心のゆとり」のようなものが与えられる経験をします。
今日お読みした、マタイによる福音書7章12節の言葉、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」というイエスの言葉は、今、お話しました「山上の説教」に出てくる言葉です。
キリスト教会の中では、18世紀頃から、これを「ゴールデン・ルール/黄金律」と呼ぶようになったと言われています。なぜなら、「これこそが、人生を生きていく上で、忘れてはならない知恵だ」と多くの人が認めたからです。
今日は、この「黄金律」と呼ばれる聖書の言葉をご一緒に味わい、私たちの生活、子どもの教育、人間関係に生かす知恵をいただきたいと思います。

Ⅱ.聖書の教えのエッセンス

ここでイエスさまは、「これこそ律法と預言者である」と、私たちにとっては、少し聞きなれない言葉を使っていますが、当時は旧約聖書を指して、そのように呼んでいました。つまりイエスさまは、膨大な旧約聖書の内容を一言で言い表すと次のようになるのだ、と言って、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と言われたのです。
調べてみますと似たような格言は洋の東西を問わず、結構あるようです。でも、1つ、注目したいのは、この12節の言葉の冒頭に出てくる「だから」という接続詞です。
つまり、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」ということの理由、また、その前置きが、イエスさまの教えのユニークな点だと言われています。
「だから」と語り始めたその前には、次のようなイエスさまの言葉が出て来るのです。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタイ7:9~11)

Ⅲ.天の父なる神さまの愛

ここでイエスさまは、人間の親と天の父なる神さまを比較しながら語っています。当然ですが、人間の親は不完全です。イエスさまは、完璧な親などいないことを百も承知の上で、親である私たちの模範、モデルとしての神さまのことを思い巡らすようにと勧めているわけなのです。
よく言われることですが、「私たちは人にされたようにする。育てられたように育てる」と言われます。ですから「子育て」は、基本的に「育てられたようにする」、あるいはちょっとネガティヴな言い方をすれば、「育てられたようにしてしまう」ことが多いのです。私を育ててくれた大人の影響をもろに受けている場合が多いわけです。
当然、その親や大人も完璧ではないわけですから、突き詰めて考えていくと、親である私たちにとって、親として適切なモデルが周囲にはあまりないのではないかと思うことがあります。
こうした中で幸いだと思わされるのは、自信のない新米の親に対して、いや、今にいたってもどうしてよいのか分からずおろおろしてしまう私たちに対して、聖書は、親にとっての最高のモデルは神さまですよ、と教えている点なのです。
つまり、本当の親心の持ち主である神さまが、私たちに、親子関係にもっとも必要な、子どもを育む心、大切にする心を教えてくださるのです。そして、教えるだけでなく、私たちにその心を与えてくださるお方だ、ということです。
いかがでしょう? 私たちにとって大切なことは、知識やスキルと共に、心ではないでしょうか。いくら知識やスキルがあったとしても、それを子どもたちや周囲の人たちのために使いたいと思う心がなければ、宝の持ち腐れです。逆に、心があっても、知識やスキルがなければ、その思いは空回りしてしまうでしょう。
ですから、ここで問題にしたいのは、神さまは、具体的に愛する術を教えてくださると共に、私たちに、人を大切にする心をも与えてくださるお方なのだ、ということなのです。
このことを前提にして、イエスさまは、ここで「黄金律」つまり「ゴールデン・ルール」と呼ばれる、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」という教えを、私たちの親子関係、人間関係を豊かにする根本的なルールとして示してくださったのです。つまり、子どもに対しても、そして隣人に対しても、この精神で接すべきです、と教えてくださっているのです。
自分が困った時、私たちは人から助けてもらいたいと思うように、人様が困っていたら、その人がしてもらいたいと願っていることは何だろうか、と思いやる、察してあげる。そして出来ることをさせていただく。「これが隣人愛であり、これこそが、聖書を一言で言い表す教えなのだ」とイエスさまは語られたわけです。
何故なら、人を大事に思い、人を大切にするという隣人愛の根底には、この神さまの親心があるからです。
こうしたことを知った上で聖書の言葉を読む時に、聖書には、私たちにとってほんとうに必要な具体的な指針がたくさんあることに気づきます。そして、そのどれをとっても、そのベースには、神さまには本当の親心があり、私たちがその親心に触れる時に、私たちも同じ思いを持って、子どもや周囲の人たちに接することが出来るのだということを伝えているのです。
私に対する神さまの親心に触れる中で、私たちの心に、不思議と人を大切にしたいと思う思いが育まれていくのだ、と聖書は教えるのです。
説教の準備をしながら、先週の木曜日、その日は「こどもの日」でしたが、その朝に配信した「みことばメール」のことを思い出しました。そのメールに、精神科医の海原純子さんがその著書の中で、子育てのことについて書いてある文章を紹介しました。「自分の生き方は、自分で決めたい。親だからといって子どもの進路を決定してはいけない。とりあえず学歴を、とりあえずいい会社へ、とりあえず高収入の道を、という親の期待が子どもの人生を空虚にすることも多いのだ。希望しない道に進んで、空虚さを抱える悩みにかかわってきた私としては、親は子どもが本当にしたいことを見つけ、実現できるように手助けしてほしいと思うばかりである。そのためには、まず親自身が納得いく人生を送る必要があるのである。」(『大人の生き方、大人の死に方』)
子育てのことを考えると、常に子どもに焦点が当たりますが、実は、その背後に親自身の問題が見え隠れしているのです。心が充電されて初めて放電することができるように、私たちの心が神さまの愛によって温かくされて初めて、人に対して温かくできるということです。

Ⅳ.神さまに愛されている者として

今日は、「黄金律」と呼ばれる聖書の言葉を取り上げました。それは、自分自身が、まずは神さまの親心に触れ、神さまに大切にされていることを知らされていく、そして、そのことがこの「黄金律」を自分のものとして実行する力となるということです。
最後に、この「黄金律」の支えとなる聖書の言葉をご紹介して終わりにしたいと思います。ヨハネの手紙第1の4章19節の御言葉です。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

岩の上に家を建てる


2016年5月1日
松本雅弘牧師
詩編62編2~13節
マタイによる福音書7章24~29節

Ⅰ.復習

 今日の聖書の箇所は「山上の説教」の結論部分の教えです。今日はここから、岩の上に人生の家を建てることについてご一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.2つの生き方

 ここでイエスさまは2つの生き方を比較検討します。砂の上に家を建てるような生き方と、岩の上に家を建てるような生き方です。その2つの生き方に共通する点があります。当たり前のことですが、「自分の家を建てた」ということです。
そうして2つ目の共通点が起こります。それぞれの家に「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかか」りました。ところが、その結末が正反対なのです。片方はびくともしない。ところが片方は倒れた。しかもその「倒れ方がひどかった」のです。どこが違うかと言えば、それは「土台」でした。
ここでイエスさまは、私たちの一度限りの人生を、家を建てることにたとえてお話されました。そして賢い人は岩の上に人生設計する人であり、逆に愚かな人とは、砂の上に人生という家を建てる人のことだと語っています。
いかがでしょう。イエスさまはこの「山上の説教」の締めくくりに当たって言われます。私たちの人生という家が建っている土台、つまり普段は目に見えないこの土台が、何か起こる時に物を言うのだと。そして、この「岩を土台として家を建てる生き方」とは、具体的には「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」ことなのだと、イエスさまは言われるのです。

Ⅲ.ベン・ジェイコブとジョン・ウーデン

 この4月から「エクササイズ」の2年目が始まりました。2年目の学びの内容は何かと言えば、まさに、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」生活、つまり、「山上の説教」を土台とした生活を身につけることにあるのです。
この学びの最初に出てくるお話が、ベン・ジェイコブとジョン・ウーデンという名の2人の実在の人物の物語でした。この2人は幾つもの共通点を持っていました。共に1910年生まれ、そして25歳から社会で働き始めます。そして2人ともある意味で成功を収める働きをするのです。ところが、その最後のところで、ジェイコブはとても孤独で寂しい老後を迎え、もう一方のウーデンは人々から慕われる晩年を過ごしたことが紹介されていました。
 もう少し2人のお話を続けます。ジェイコブは、25歳で働き始めるのですが、なんとその年に、日本円で年俸1億円の所得を得ます。その後もビジネスで成功をおさめ、彼の会社には実に多くの従業員が働きました。さらに彼は、居住していた州の中で高額所得番付のトップになったのです。一方、私生活においては、3度の結婚をします。当初、彼はそれを失敗だとは考えていませんでした。美しい女性が現れるとその女性を自分の妻とすることこそ、人生における成功と考えていたからです。その結婚生活で1人の娘を授かります。ビジネスで成功を収め、一緒に生活したい女性と生活を共にする。やりたい放題の生活を送ってきました。
ところが、75歳になった今、高齢者施設で暮らすジェイコブは、本当に惨めでした。財産はたくさんありました。使いきれないほどのお金を持っていました。でも、家族からも相手にされず、一人娘も彼には近寄らず、周りからは煙たがられ、疎んじられ、結局、訪ねて来る友人もなく、老人ホームの中で本当に寂しい人生を送ることになったのです。
彼は成功を手に入れたと思っていたのですが、でもその成功の定義、成功の意味するところが間違っていたことに気づき始めていました。
 さて、もう1人の人物、ウーデンも1910年生まれで、25歳の時に社会で働き始めますが、その時、つまり25歳の時に、自分の人生をキリストの教えに従って建て上げて行こうと決心したというのです。つまり、彼にとっての成功は、ビジネスで成功すること、高額所得者リストに名前を連ねること、好きな女性と好きなように暮らすことではなく、神さまが願うようなウーデンになること、それを人生における成功、人生のゴールと決めたのです。
彼も、この世的に見て成功者でありました。UCLAバスケットボールチームの伝説のコーチと呼ばれる成功を収めるわけです。しかし、それ以上に、彼は、自分が面倒を見た若者たちに、イエスさまの山上の説教に従って生きる生き方が、実は、本当の意味での成功を手に入れる秘訣なのだ、と説き続けていきました。
私生活においては、53年間、妻のネリーさんと連れ添い、愛し続けました。そのネリーさんに先立たれましたが、75歳、すなわち人生の最期のステージにあって、彼は、イエスさまとの再会、そして先に天国への引っ越しをしたネリーさんとの再会を楽しみにしながら暮らしているのです。だからと言って、天国の待合室にただ座っているだけの生活か、と言えば決してそうではありません。彼のところには、常に教え子たちが入れ替わり立ち代わり、彼を慕って訪ねてきていました。ウーデンは、そうした日々を送っていたのです。
 ジェイコブもウーデンも同じ年に生まれ、同じ年に働き始め、それぞれの仕事において成功を収めるのですが、その最後のところで、ジェイコブは巨万の富を築いたにもかかわらず孤独で寂しい老後の時を過ごし、もう片方のウーデンは人々から慕われ、また将来への希望をもって晩年を過ごしているのです。
その違いは何でしょう。今日の聖書で語られるイエスさまの教えによるならば、人生の土台にかかっているというのです。イエスさまの言葉を聞いて行うかどうか、ということです。私は改めて、自分が75歳になった時、ウーデンのようでありたいと切に願わされたことでした。

Ⅳ.私たちの責任

キリストの言葉、聖書という岩を土台として私たちの人生設計をしていくのか、それとも別のものを頼りに生活の安定を図るのか、私たち1人ひとりに、選択すべきこととして示されます。どちらを選択するのか、それは私たちの側の責任です。私は、先ほどお話しした2人の例でいえば、ウーデンのようでありたいと思います。そして、イエスさまも岩を土台とする生き方を選び取るようにと切に勧めているのです。
 キリストの言葉を土台として選ぶことをしなかったジェイコブの、その後のことに触れて終わりにしたいと思います。
ジェイコブは、本当に幸いなことに晩年になってイエス・キリストを信じ、そのお方に従って生きる決心をしたのです。つまり、岩を土台とする生き方を選び直したのです。88歳で召されるまでの13年間、クリスチャンになって彼は本当に変えられた人生を送りました。仲たがいしていた一人娘とも和解することが出来たのです。娘は「晩年の父は、別人のようになって過ごした」と言いました。
ジェイコブにとっての最初の75年間は、確かに世間の物差しでは成功を収めた人の生き方に見えました。しかし、本人にとっては、焦りや不安、敵意や怒りで心が休まる暇もないような、暗い人生の終わりの時を過ごすことになっていたのです。
放蕩息子であったその彼が、75歳になった時に、ようやく父なる神さまのもとに立ち返ることができたのです。神さまのもとに立ち返った彼にとって、地上での最後の13年間こそ、何物にも代えられない神さまに祝された本当に豊かな人生となったのです。何故でしょう? それは、キリストに出会い、キリストの言葉を土台として生きたからです。
「エクササイズ」のテキストでも触れていますが、ジェイコブのような生き方を知らされる時、キリストを信じるのに遅すぎることはないということに、改めて気づかされます。
召されるまでの13年という年月は、88年の生涯の中のほんの僅かな期間だったかもしれません。しかし、永遠というスパンで考えるならば、75年も13年もあまり変わらないのではないかと思います。キリストの言葉を土台として生きることへと導かれた時間の豊かさは、決して、遅すぎること、短すぎることなどないからです。
私たちは過去を変えることはできません。やったことをやらなかったことにすることは出来ないのです。けれでも、これからのことについて、これからどう生きるかについては、私たちの選択にかかっているのです。その選択の結果によって、どのようにでも変わり得るわけですから。
イエスさまは、権威をもって言われます。「賢い方の生き方を選び取りなさい。わたしのこれらの言葉を聞くだけであってはならない。聞いて行う者になりなさい。その人こそ、岩の上に家を建てた賢い人なのだ」と。お祈りいたします。