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主日共同の礼拝説教

キリストの前に喜び集う交わり


2016年2月7日
松本雅弘牧師
コヘレトの言葉4章9~10節
フィレモンへの手紙1~25節

Ⅰ.「 信仰生活の基本」としての主にある交わり(小グループ)に生きること

聖書の神、私たちをお造りくださった神は三位一体の「交わりの神」です。その交わりの神がご自身に似せて人間を創造されましたから、私たちは本質の深くに、交わりの中で初めて人間らしく生きることができるようにと、もともと造られているということでもあります。その交わりとは、神との縦の交わりであり、そしてもう1つ、クリスチャン同士の横の交わり、すなわち「主にある交わり」なのです。

Ⅱ.フィレモンへの手紙の背景

 今日はフィレモンへの手紙を取り上げました。この手紙が書かれた時代は奴隷の身分がありました。そして、オネシモは奴隷でした。ところがオネシモは主人の物を盗みローマに逃亡します。その逃亡先でパウロに出会い、信仰へと導かれました。話を聴けばオネシモは、パウロの宣教の支援者フィレモンの奴隷であったことが分かったのです。当時の習慣によれば奴隷はあくまでも主人の所有物です。ですからパウロは機会を見て、オネシモを主人フィレモンの許へと送り返そうと思い、この「フィレモンへの手紙」を書いたのです。
 私はこの手紙を読み返す中で、パウロの願いの仕方が、実に丁寧であることに気づかされました。パウロは、「どうか、かつての奴隷オネシモを、『奴隷』というよりは、むしろ主にある『愛する兄弟』として迎えて欲しい。そしてオネシモに負債があるならば、わたしが彼に代わって支払いたい!」と願い、そして「オネシモを赦し受け入れるように強制するつもりはない。あくまでもあなたの思いを尊重したい」という姿勢で、フィレモンの自発的な愛の応答を求めています。
また、この手紙から当時の奴隷の置かれていた厳しい状況が透けて見えてくるようにも思います。神さまを信じていると言っても、私たちは、しばしば自分自身の感情の処理がうまく行かない現実があります。「互いに赦し合いなさい」と言われていても、赦せない現実があります。正確な言い方をすれば赦したくない思いがあるのです。そうした土の器としての弱い私たちが抱え持つ現実を踏まえた上で、パウロは、細心の注意を払ってフィレモンに呼びかけていることに、私は深い感動を覚えました。

Ⅲ.主にある交わり(小グループ)としての家の教会の持つ解放の力

この時代、主にある交わりの多くは、「家の教会」と呼ばれていました。大きな礼拝堂があったわけではなく、むしろ家ごとに、クリスチャン同士、その交わりの単位で礼拝が捧げられ、交わりがなされていました。そして、クリスチャンになった奴隷たちの身分を、しばしば「家の教会」単位で買い取り、彼らを自由の身にしていったそうです。
コリントの信徒にあてた手紙の中で、パウロは「あなた方は代価を払って買い取られたのだ」と書いています。自分たちのために「罪の奴隷から贖うために、キリストの命という代価が払われた」のだ。だから、そうした神さまの救いの恵みに対する具体的応答として、教会のメンバーであるが社会的身分としては奴隷である人々のために、当時の教会は実際にお金を出して彼らを自由の身にしていったのだと言われています。現実のローマ社会にあって、このようにして新しい神の国の価値観に生きている人々がいました。そうした交わりがあったのです。それがキリストの教会でした。パウロは、私たちは神の家族同士なのだから、神の前では平等なのだと、このようにはっきりと打ち出しているのです。
いかがでしょうか? 今の私たちにとっては当たり前のことかもしれませんが、2千年前の当時のローマ社会の、いわゆる「家父長制社会」では当たり前ではありませんでした。パウロは、当時の習慣からすれば、決して当たり前でない仕方、すなわち、家族の1人ひとりを、神さまの御前にあって、皆同じく尊い人間、神さまの形に造られたものとして受けとめるようにと呼びかけていることが分かります。
当時、この手紙を読んだ人々にとって、書かれている内容はとても新鮮だったと思います。ものの本によれば、こうした「家の教会」を積極的にリードしていたのは女主人であった、と言われます。しかも、ここでは食事作り、食事の提供だけではなくて、イエスさまとの出来事を話し合うこと、また、「主の晩餐、聖餐」にあずかることも行われていたと記録にあります。ガラテヤ書に、「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:28)と書かれています。このとおりのことが実践されていました。
また、ある時イエスさまは、家族とは誰か、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マルコ3:35)と言われました。そのイエスさまの言葉の中には、「父・お父さん」という言葉が入っていません。それは、「天にいます方」だけを「父」とするからだと言われています。つまり、初代教会の「主にある交わり」の様子を伝える様々な記録や資料を読めば、イエスさまのこの言葉が男性を中心とするローマ社会で、まさに現実として機能していたことが分かるのです。
私たちは、御言葉に促され、人生における「出エジプト」、すなわち、罪の奴隷状態から、あるいは、洗礼を受ける前の古い生き方の奴隷状態から解放されました。そのために、神が用意してくださった神の小羊、イエス・キリストが十字架にかかって肉を裂き、血を流してくださったのです。そのようにして、私たちを縛る「古い物語」から自由にされ、神さまを礼拝する者、神さまと人々との交わりを喜び、楽しめる者へと解放されました。そして、このことを常に確認する場、それが、この時代の人々にとっては、「家の教会」であり、私たちにとっては教会の中の「主にある交わり」なのです。

Ⅳ.神の赦しを実体験する場としての主にある交わり(小グループ)

この時、法律に従えばフィレモンは、罰としてオネシモをそれなりに処分してよかったでしょう。しかし、パウロはオネシモを兄弟として愛し迎え入れるようにとフィレモンに執り成しています。しかも、それを口でお願いするだけではなく、自分を代わりに罰し、その人を赦してやってくださいと言っています。私たちが毎週、礼拝の中で祈る「主の祈り」の一節のようです。
このパウロが深く愛し、心から従っていたお方が主イエスさまでした。よく考えて見ますと、このイエスさまこそ、実はパウロが犯した罪を、父なる神さまに赦していただくために、自ら罪の償いとなって十字架にかかってくださったのです。パウロは、このことがよく分かっていました。
私たちが大切にしている「主にある交わり」って何でしょうか。イエス・キリストの罪の赦しの恵みを常に確認し合う場、それが主にある交わりです。イエスさまが命をかけて、「どうか彼らをお赦しください」と神様に願い、私たちの身代わりとして十字架の上で命を捧げてくださった、そのお蔭で、私たちは赦されたのです。
出エジプトの際、イスラエルの民は1歳の羊を殺して家の鴨居にその血を塗るようにと神さまから命ぜられました。そして、その血を塗った家庭は守られたのです。ちょうどそれと同じように、イエス・キリストが過ぎ越しの祭りの小羊として十字架にかけられて血を流し、その血によって私たちを的外れの生き方から救い出そうとされたのです。
「主にある交わり」、それは私たちの心の鴨居にキリストの十字架の血潮が塗られていることを確認し合う場です。その交わりに与った者同志が、キリストの十字架によって愛され、赦されて、新しくスタートを切らせていただいたことを互いに確認し合うようにと、神さまが与えてくださった恵みの場です。そして、私たちがそのことを覚えて生きるために、そして互いに助け、愛し合って信仰生活を全うするようにと、主にある兄弟姉妹、信仰の友が与えられているのです。
フィレモンの家のように奴隷が居るなら、その人が自由な身になれるように。ハンディーを持つ人が居るなら、その人があたかもハンディーがないかのように。外国の人がいるなら、「寄留者」ではないかのように。そして小さな子どもがいるなら、みんなも神さまの子どもなのですから・・。そして社会的な問題と真剣に取り組む人がいるならば、それを共有することができるように。そうした振る舞いや生き方が自然な形で現実に起こる場、それが主にある交わりであり教会なのです。
この交わりを実体験するために、主は具体的な、顔の見える兄弟姉妹を私たちの周囲に置いてくださっているのです。独りぼっちのクリスチャンは居ません。礼拝に来てお仕舞いではなく、ぜひ何らかの仕方で、具体的な小グループの中に一人ひとりが自分の居場所を求めていきたいと願います。お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

キリストを知る喜び


2016年1月17日
松本雅弘牧師
詩編23編1~6節
ヨハネによる福音書2章1~11節

Ⅰ.キリストを知るということ

今日から、私たちの「信仰生活の基本」についてご一緒に学んでいきたいと思います。その第1回目の今日は、「キリストを知り、キリストを伝える」ということについてご一緒に考えてみましょう。

Ⅱ.カナの婚礼

 今日の箇所にはイエスさまがなさった奇跡が出て来ます。場所はガリラヤのカナの村です。名前は出て来ませんが、ある人の結婚式がおこなわれました。そこでイエスさまは水をぶどう酒に変えて彼らの人生の門出を祝福し、メシアとしての最初のしるしを行なわれたのです。
当時ユダヤでは結婚の祝いは1、2週間続き、そこでは、心のこもった料理とぶどう酒が振舞われたそうです。さて、そこに母マリアがおりました。イエスさまと弟子たちは招かれた客であったのに対し、マリアは台所に入って切り盛りする裏方さんでした。
誕生したばかりのカップルはあまり裕福ではなかったのでしょうか、マリアをはじめとする裏方さんたちは最小限の予算を最大限に生かして準備する必要がありました。ところが、計算違いか初めから足りなかったのか、ぶどう酒が底をついてしまうという緊急事態が発生したのです。
当時のユダヤ社会では、ある人の息子が結婚し、その式に招かれた場合、自分の息子が結婚する時には、招いてくれた人を、必ず招待することが厳格に義務付けられていました。しかもその場合、同程度の食卓をもって招待し返さなければならないという習慣があり、それが守られないために訴えられ処罰されたという記録があるそうです。ですから、ぶどう酒が底をつくとは一大事でした。不足したのは事もあろうに一番大切なぶどう酒です。ラビの格言に「ぶどう酒なくば、喜びなし」というものがあったほどですから・・。ただ1つ付け加えますが、当時のラビたちが酒飲みであったということではありません。むしろその逆で、酒に酔うことについてはとても批判的で、ぶどう酒が濃すぎる場合は「3倍の水で薄めるように」と教えていたほどです。
当時は今のようにお茶やコーヒー、様々な清涼飲料水があったわけではありません。水かぶどう酒という、2つに1つの選択しかありませんでした。いずれにしても、ぶどう酒が不足したことは、招いた側にとっても招かれた客にとっても重大事であったことは確かだったわけです。
今まで、様々な出来事を経験してきたマリアは、息子イエスがメシア・キリストであるということを次第に感じつつあったことでしょう。ですから、母親としての極めて自然な感情に導かれるように、もう既に何人かの弟子たちを引き連れて歩く息子イエスが、自分はメシアであることを、1日も早く公言して欲しい、そのことをあらわして欲しいという思いを、心に抱いていたのではないかと思うのです。
ですから「さあ、どうぞ御業を」という思いを込めて、背中をそっと押すように、「ぶどう酒がなくなりました」と言って、イエスさまに水を向けたのです。ところが、これに対してイエスさまは、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と言われたのです。
この言葉を聞いたマリアはショックを受けたかもしれません。でも、そうした私たちの心配をよそに、マリア自身はイエスさまの言葉を、叱責とは受け取らず、言われた通りのことを全てするようにと、召し使いたちに指示を出したのです。そのようにしてイエスさまの御言葉に従った時に、水がぶどう酒に変ったのです。
そして世話役はぶどう酒に変わった水の味見をしました。それがあまりにも素晴らしかったのでしょう。わざわざ主役の1人、花婿を呼び出して「最後の最後まで、よくも最良のぶどう酒を残しておいた」と絶賛しました。水がめ6つ分、1つに80リットルから120リットルほど入りますから、量においても質においても申し分のない最高のぶどう酒だったわけです。

Ⅲ.主のみ業を目の当たりにする

 ここから3つのことに注目したいと思います。
1つは、イエスさまご自身が私たちにとっての最良のぶどう酒であるということです。
旧約の時代は、神の御業を経験しつつも、自らの都合や願いを優先させ、〈いつか従いますから〉と言って神さまを待たせ続けた歴史でした。神さまはそんなイスラエルの民に預言者を遣わし続けます。
今日の聖書を見る時に、この時のぶどう酒こそ、神から次々と遣わされた預言者を表わしているように読むことが出来るのです。神さまは人を愛されたがゆえに、ずっとぶどう酒を差し出し、与え続けてこられました。ところが人は変りません。そこで最後に、最良のぶどう酒であるイエス・キリストを差し出し、人にお与えになったのです。
 2つ目に注目したい点は、そのことの「しるし」である最良のぶどう酒を巡る人々の反応です。ここには様々な人が登場します。マリアと召し使いたち。家の主人、宴会の世話役。花婿と花嫁です。
彼らは水がぶどう酒に変わったことを知りました。しかし、それだけで満足しました。福音書記者ヨハネによれば、彼らは誰一人として、その「しるし」の意味を悟らなかったようなのです。これはちょうど、結婚した相手よりも「しるし」である指輪に心奪われ満足してしまっている状態と変りありません。
しかし水を汲んだ召し使いたちは「しるし」の意味を理解しました。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(11節)とある通りです。彼らは主に従う弟子となり、主への信仰が増していきました。
 ところで、最後の晩餐の席上、イエスさまは次のようにお語りになりました。「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」(ヨハネ15:8)。
私たちが、御言葉を聞くだけの者から、御言葉に従って生きる者、主の弟子へと変わる時、私たちが主の御業を目の当たりにするだけではなく、そのことを通して、父なる神さまが栄光をお受けになる、というのです。これが3つ目のポイントです。

Ⅳ.キリストを知り、キリストを伝える者へ

いかがでしょうか。高座教会に集う私たちは、すでに様々な仕方で「ぶどう酒に変えられた水」の恵みにあずかっています。そして、それは神さまの素晴らしさを示す結果であり「しるし」です。 
主イエスは、私たちを恵みの深みへと導きたいと願っておられます。それは、その「しるし」が指し示しているキリストご自身との交わりにあるのです。キリストを深く知るという恵みです。そして、主イエス・キリストと交わることにより、今度は、私という水が、主の奇跡の結果としてキリストに似た者へと変えられるという恵みです。
多くの人々は、イエスさまの奇跡の御業、その御業の結果にあずかります。この時の彼らも、御業の結果としての美味しいぶどう酒を味わうことができました。でも、それだけでした。
これに対して、御言葉に従って水を汲み続けた召し使いたちは、もっと素晴らしいこと、すなわち主イエス・キリストを体験したのです。具体的には、貧しい若いカップルの門出を、水をぶどう酒に変えることによって祝うイエスさまの愛の深さを知ったのです。この結果、イエスさまへの彼らの信頼と愛が深まったことだと思います。
これらのことから、今年、私たちのなすべきことが、はっきりと見えてくるのではないでしょうか。第1に、礼拝や日々の御言葉と祈りの生活を通して、主の御心を求めることです。そして第2に、その御心に従って生きることです。
歴代誌下16章9節に次のような御言葉があります。「主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる」。
「私が何をしたい」、それを1度、主に明け渡しましょう。次に「主が私に何を願っておられるのか」、そのことを祈り求めましょう。
祈り求めた結果、積極的に証しをするようにと導かれるかもしれません。あるいは、ある習慣を止めるようにと示されるかもしれません。もっと教会の働きに参与するようにとチャレンジなさるかもしれません。教会学校の奉仕を通して「水を汲みなさい」と言われるかもしれないのです。
また、静まる時を確保しなさいと導かれるかもしれません。1人1人に対して導きは異なるでしょう。でも共通することが1つあります。それは、どのような場合であっても、イエスさまは私たちとの親しい愛の関係を通して、私たちに御心を示されるということです。
いつもお話していますが、実を結ばせてくださるのはぶどうの木であるイエスさまのなさることです。それは、私たち枝にとっての責任ではありません。枝の責任は、ぶどうの木であるイエスさまに繋がる、ということです。イエスさまとの関係を深めていくということです。
ぜひとも、私たち一人ひとりが、この1年、主の日ごとの礼拝、また今年のテーマである「御言葉と祈りに生きる」生活を大切にして、主イエスさまとの生きた交わりに生きる1年となりますように。
そして主との生きた関係の中で御心が示される時、この召し使いのように、それに従い「水を汲み」続けましょう。
それによって主の御業を目の当たりにする恵みへ、主ご自身を深く知る者へと導かれていきたいと願います。お祈りいたします。

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ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教

子どもが育つということ―成長させてくださる神

2016年1月10日 
ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
ルカによる福音書2章41~52節

Ⅰ.はじめに

 今日の聖書の箇所には成人式を翌年に控えたイエスさまが登場します。ユダヤ人の社会では、男子は13歳で、律法を守る成人として迎えられました。今日はここから「子どもが育つ」ということの意味についてご一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.あらすじ

過越祭が終わり、ヨセフもマリアもナザレへの帰路についていました。ところが1日分の道のりを行ったところで息子がいないことに気付き、慌てて引き返したところ、神殿で教師たちと会話しているイエスを発見したわけです。イエスを見つけたマリアは当然叱ります。普通でしたら、「御免なさい」という場面です。ところが、これに対してイエスさまは、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と、よく分からない答えをしたのです。
聖書はイエスさまが12歳になったことを伝えています。両親にしてみれば、ここまで育て上げるのに結構苦労があったと思うのです。
思い返してみると、マリアはイエスを授かったことで、普通では考えられないような経験を数多くしてきました。婚約者から疑われ、ナザレの村人たちや、親戚からも白い目で見られるようなことがありました。さらに、しばらくの間エジプトで難民生活もしました。それもこれもイエスを授かった故でした。
マリアにしてみれば、ここまで育てるのにどれだけ苦労したことでしょう。この年の過越祭に来て「あと1年で、この子は成人する」と考えただけで、何か内側からこみあげるものがあったと思います。そのイエスが迷子になり、しかも親に向かって意味不明のことを語ったのです。
 このエピソードを、ルカ福音書は「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」という言葉で締めくくっていることに注意したいと思います。つまり、イエスが全人的に成長している姿をあらわすエピソードとしてこの出来事を伝えているということです。
これはとても大事な視点だと思います。その証拠に、同じ出来事に遭遇した両親以外の人々は、「イエスの賢い受け答えに驚いていた」のです。つまり、彼らの目には逞しく成長した姿として映っていたわけなのです。子どもが育つということは、こういうことなのではないでしょうか。私たち親がそれに気づけるかどうか、ということだと思うのです。

Ⅲ.大人になるための課題

―アイデンティティーの確立
心理学者エリクソンは、人間の成長を8つのライフサイクルに分けて説明しています。その中で、大人になるために、「自分が何者なのか」を受けとめることの大切さを説いています。
イエスさまも、青年期に誰もが経験する、「自分が誰か」という問いを抱えながら生きておられたのではないかと思うのです。
この時期になると誰もが経験することですが、子どもの頃には絶対的なモデルであった両親の姿の中に弱さや欠点を見出すようになります。大人であるはずの両親の言動に、「子どもじみたもの」を感じてしまい、失望感を味わう経験をするものです。
また社会との接点も拡がり始め、様々な大人との出会いを経験し、今まで抱いていた「大人」というモデル自体が崩れていく、そうしたプロセスを経て次第に人間として自立していきます。それがユダヤ社会において成人式を控えた人間イエスの心の中にあった葛藤、課題だったのではないかと思います。
このことを踏まえてイエスさまの言葉の背後にある、その思いに注目したいのです。この時イエスさまは、神殿を指して「自分の父の家」と呼んでいます。つまり両親に訴えたいことは、「神殿こそが自分の父の家、自分の父は神であり、自分は父の子なのだ」ということです。
先ほどの青年期に持つ課題という切り口で言い直すならば、イエスさまのこの発言は、自分にとっての本当の父親が神さまであり、その神さまと自分との関係の中で、自分が一体何者なのかを、神殿において改めて確認されたのです。ご自分を受け取り直したのです。
成人式との関連で言えば、この時、まさに1年後に成人式を迎える若者として、イエスさまは、自分はいったい何者なのかという青年期の課題に、1つの大きな解決を見出し、イエスさまが自らのアイデンティティーを確立した時の発言のように聞こえて来るわけなのです。
聖書はイエスさま誕生の経緯を伝えています。ヨセフも最初はマリアの妊娠の事実を受け入れられずに苦しみました。人口調査のための長旅。やっと到着したヨセフの故郷ベツレヘム。ところが親戚も居たはずのベツレヘムの人々の冷たさ。聖書は、それを「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と表現しています。
ベツレヘムの人々の冷たさは、すでにそこにまで届いていたマリアの妊娠をめぐる噂のせいだったかもしれないと、聖書学者は言います。遠く離れたベツレヘムでそうだったとしたら、ナザレの人々はどうだったのでしょうか。彼らがイエスさまの出生の真実を理解していたかどうかは怪しいものでしょう。
聖書学者は、マリアの妊娠はナザレの村においてスキャンダルとして受けとめられたのではないかと考えます。そうした噂の様なものが少年期のイエスさまの耳にも入っていたかもしれません。マリアは実の母親でも、ヨセフはそうではありません。イエスさまはそれをどう知らされ、どう受けとめていったでしょうか。それを知った時、イエスさまはどれほど心に動揺を覚えたことでしょう。
ヨセフが実の父親ではないと知った後、仕事に精を出すヨセフを見、ふと「僕の本当のお父さんではない」と感じたなら、次の問いは、「じゃあ一体、誰が本当のお父さん」というものでしょう。この問いこそ、成人式を1年後に控えたイエスさまにとって切実な問いだったのではないかと思うのです。
こうした背景の中で、イエスさまが、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と言われたのです。マリアもヨセフもこの言葉の意味が全く分かりませんでした。親から見て、子どもが育つ、成長するとは、こうしたことなのではないかと思うのです。

Ⅳ.子どもの自立を助けるために

親が出来ること
 最後に、この箇所から2つのことをお話します。1つはこの出来事に遭遇した親としてのマリアの姿勢に子育ての知恵を学びます。聖書はマリアが、「これらのことをすべて心に納めていた」と伝えます。彼女は分からないことがあると、それを反芻するように、時間をかけて受けとめていきます。そのプロセスの中で何が起こるかというと、親である自分の側に変化が起こって来る、親という器として成長させられていくのです。
真珠貝は自分の体の中に異物が入ってきたことにより、それを受け止めようと、少しずつ少しずつ体全体で触れていく。その結果、その異物が美しい真珠となっていきます。同様に、子どもとの関係の中で、今まで思っても見なかった出来事と遭遇し、戸惑ったり、悩んだりすることがあるのではないでしょうか。そうした出来事の中で、時間をかけて受けとめていくプロセスを通して、実は、親である私自身の人格の中に、何か美しい物が作られていく。そうして、次第に親の器へと変えられていくのです。
もう1つのこと、それは親自身が子離れしていくことです。結婚カウンセラーで津田塾大学講師の村瀬幸治さんは、最近の親の子どもに対する過干渉に触れ、次のように記します。「ではなぜ親はそんなに子どもに執着するのか。それは親が1人の大人として、安心して生きていないからではないか。子どもとのかかわりのなかでしか、自分の存在感を感じることができないとか、親自身が自己肯定的な展望を持っていない、そんなふうに思えるのです。夫婦の間で、楽しい将来が待っているというふうになかなか感じられないから、子どもが離れていくことに耐えられないのでしょう。下宿している大学生の娘に、親が毎晩10時に電話をかけてくるといったようなことが実際にあって、親は親で楽しく生きていてくれないと、子どもは大変迷惑します。」
つまり、親自身が自分自身のあり方に満たされない思いがある時に、子どもを通してその満たされないものを満たそうとすることがあるというのです。本来、夫婦間で満たすべきニーズを、子どもとの関係の中で満たす夫婦もあります。そのことによって子どもの心は不安になり、安心して自分のことに向かうことが出来ないということが起こるのです。
今日は子どもが育つということについて聖書から考えて来ました。
今年、子どもにとっても、また、親の器となるためにも、人生の旅路を生きていく上での最高のガイドブックである聖書から知恵をいただきながら、まずは、自分自身の課題と取り組み、歩みを進めていきたいと思います。お祈りいたします。

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主日共同の礼拝説教

わたしはそのために遣わされた


2016年1月3日
松本雅弘牧師
エステル記4章12~17節
ルカによる福音書4章42~44節

Ⅰ.はじめに

 今年最初の主の日の礼拝を、ご一緒に捧げることができます幸いを心から感謝いたします。私たちは礼拝の民として生かされています。今年も主の日ごとに捧げられる礼拝を大事にしながら、ご一緒に歩んで行きたいと思います。

Ⅱ.エステルの場合

 エステル記の時代は、紀元前5世紀、ユダヤ人たちがバビロンに捕囚となり、その後、バビロンからペルシャに覇権が移ります。そのペルシャの王、クセルクセス王の治世の時代に、神の摂理の内にユダヤ人であるエステルが王妃に選ばれたのがエステル記の始まりです。
ある時、国の高官ハマンという人物が、外国からやってきたユダヤ人撲滅を謀るのです。当時、ハマンには政治上のライバルがいました。それは、ユダヤ人であるにもかかわらず王宮に仕える高官モルデカイという人物です。
このモルデカイの実の子のようにして、小さい頃からモルデカイに育てられた女性、それがクセルクセス王の妃として召されたエステルでした。
実はこの時、ハマンは、モルデカイを失脚させたいとの思いから密かにユダヤ人撲滅の企てをしていたのですが、その情報がモルデカイの耳にも漏れ聞こえてきたわけです。
事前にその情報を掴んだモルデカイは祈り考えた末に、1つのアイデアが心に浮かびました。それは王宮にいるエステルを動かし、彼女から直接クセルクセス王にかけあう、ということでした。
この時代、王妃といえどもそうした行動に出ることは許されてはいませんでした。でもユダヤ民族存亡の危機に際し、そのようなことを言ってはおれません。モルデカイは当時の王宮のルールを百も承知の上でエステルにチャレンジしていったわけです。
その時の言葉が、エステル記4章14節です。「この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」と。
そもそもエステルがモルデカイの子として育てられたこと。そしてまた、美しい娘であったという事実。その結果、王妃になったこと。そのタイミングでユダヤ人撲滅計画が発覚したこと等。このように、プラスのこともマイナスと思えることも、このエステル記を読み進めていきますと、全ての事柄が相働いて益として用いられている様子を知らされるのです。
この時、ユダヤ民族撲滅計画を知らされたモルデカイはエステルに言いました。「今、ユダヤ民族を救うことが出来るのはあなたしかいない。この時のためにこそ王妃の位にまで達したのではないか」、つまり「今、あなたが与えられている賜物や恵みを用いて、主の御業のために、立ち上がる時なのではないだろうか」と迫っているのです。
これはエステルに限らず、私たちクリスチャン1人ひとりに当てはまることなのではないでしょうか。私たちは新年礼拝で、神さまの御心を聴く祈りについてご一緒に考えました。
私たちが願う以前に、神さまが私たちに願っていることがある、という事実に目が開かれる必要があります。私たちが偶然、たまたま、と思っている出来事の背後に、実は、神さまの摂理、神さまの御計画がある、ということに心の目が開かれていくことです。
今年も、私たちは家族と共に生活をします。家族の中にはまだ神さまのことを知らない人もいるかもしれません。私たちは、学生としてある学校で学んでいます。会社や職場においてもそうです。そしてまた、ある地域で生活をしています。それら1つひとつは偶然であり、たまたま、かもしれません。しかし聖書は、そこに神さまの必然があると教えます。つまり、偶然、たまたま、そこで暮らしたり、学んだり、仕事をしていることの背後に、実は、神さまがそこに私たちを遣わされたという事実があるのです。
モルデカイはエステルに向かって「今、ユダヤ民族を救うことが出来るのはあなたしかいない。この時のためにこそ王妃の位にまで達したのではないか」と語りましたが、「この時のためにこそ」という、その言葉に込められた神さまの願い、ご計画、御心を行わせるために、私を家族の中に学校や職場に、そして地域に派遣してくださっているのが、私たちの神さまです。
さらに続けて、モルデカイはエステルに語ります。「この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こる」と。
これは、どういう意味でしょうか。あなたが、そこに遣わされている使命を引き受けないならば、そのことを本当にやりたい、そのことを、本当にやらなければと思っておられる神さまは、あなた以外の別の人を用いて、その大切な働きをなさるでしょう、とモルデカイが迫った、ということです。あなたに与えられている王妃という地位も、また美しさも、実はこの大切な時のために、この大切な働きのためにと、神さまが託された賜物なのだ。だから、もしあなたが、その責任を引き受けず、そのために与えられた賜物を用いないのならば、それらの賜物はあなたから取り上げられ、それを目的のとおりに用いる別の人に賜物自体も託されていくでしょう、というのです。
「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」とは、そうした意味の言葉です。

Ⅲ.イエスさまの場合

 さて、今朝はもう1カ所読ませていただきました。新約聖書のルカによる福音書4章42節から44節の御言葉です。
 イエスさまが祈るためにちょっと席を外したのです。すると、カファルナウムの人々は、イエスさまはどこにおられるのか、と言って必死に探し回ります。そして、「自分たちから離れて行かないように」(42節)と願っています。そして願っただけでなく、「しきりに引き止めた」と聖書に出てきます。つまり、「自分たちが病気になった時に癒してくださるイエスさまがいなくなったら困ります。自分たちが恵まれるために、御言葉を取り次いでくださるイエスさまがおられなければ困ります。自分たちだけのイエスさまでいてください」と熱心に願い、イエスさまをしきりに引き止めるのです。しかし、どうでしょう。私たちの願いもありますが、神さまの願いもあるのでず。私たちが良かれと思って立てている計画もありますが、全き愛と義であるお方が、最善だと考えてお立てになっている御計画が一方にあるわけです。
「しかし、イエスは言われた。『ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ』」(43節)とあります。イエスさまは、「わたしはそのために遣わされたのだ」と言われ、そして、その言葉の通りに、ユダヤの諸会堂に出て行って宣教をなさったのです。
クリスチャンの抱える難しさは、私の計画と神さまの御計画が1つでない、という場合です。その時、神さまに折れてもらうのか、それとも私の側で折れるのか、ということが信仰者としての葛藤です。色々な願いがあり、ニーズがあります。しかし最終的には、誰によってその場に遣わされ、生かされているのか、という意識を持つ必要があるということです。キリスト教は、これを「召命」と言います。そのことがはっきりしていましたので、イエスさまは、人々の熱心な求めにもかかわらず「優先順位」を付けることが出来ました。

Ⅳ.私たちに託されたミッション

 私たちの週報に、毎週、「高座教会ミッションステートメント」が印刷されています。高座教会とは私たちのことですが、私たちが、この地域で共に集い、礼拝を捧げ、様々なミニストリー、働きを展開しているのは、神さまが願いをもって、私たちを救い、ここに集めてくださったからです。と同時に、この高座教会につながる私たち肢々は、神さまの深い愛の御計画の中で、それぞれの家庭、学び舎、職場、地域に遣わされているのです。
モルデカイが、「この時のためにこそ王妃の位にまで達したのではないか」とエステルに語ったように、私たち1人ひとりが、「この時のためにこそ、家族で最初に洗礼を受けた者として」とか、「この時のためにこそ、この職場の新しいポストに着任した」、また「この時のためにこそ、この大学に合格することが許された」のではないかと受けとめていく必要があるのです。
そしてまた、イエスさまご自身が、「わたしはそのために遣わされたのだ」と言われたように、神さまとの祈りの生活の中で、今、ここに自分は神さまから遣わされているのだという意識、召命を大切にしながら、この年、主に豊かに用いていただきたいと願います。お祈りいたします。

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主日共同の礼拝説教

神の語りかけの中に生きる年

2016年1月1日 新年礼拝
松本雅弘牧師
詩編119編105節

Ⅰ.はじめに

 新年、あけましておめでとうございます。今年私たちは「御言葉と祈りに生きる」というテーマで、詩編119編105節の御言葉を主題に歩んでまいります。年の初めに、御言葉と祈りの生活が意味することを、ご一緒に考えるところから始めていきたいと思います。

Ⅱ.御言葉とは

 ところで、聖書で「御言葉」と言う場合、通常3つのことを指して使われています。1つは、イエスさまのことを御言葉と呼びます。イエスさまご自身が御言葉そのものですね。「肉体となった御言葉」と言われます。2つ目は聖書のことを御言葉と呼びます。聖書とは「書かれた御言葉」です。3つ目に、聖書の説き明しである説教のことも御言葉と呼びます。つまり「語られた御言葉」としての説教です。そして、この3つの関係が大事なのです。
洗礼者ヨハネがイエスを見た時に、「見よ、罪を取り除く神の小羊」と言って、イエスというお方が誰であるのか指し示したように、聖書も説教も究極的には、御言葉そのものであられるキリストを指し示すものなのです。
ですから「御言葉と祈りに生きる」と言った時、御言葉自体が御言葉そのものであるイエス・キリストを証しするものですから、御言葉と祈りを通して、ぶどうの木であるキリストにつながり、キリストに出会うということ、それが、今年のテーマが指し示す恵みだと思うのです。

Ⅲ.祈りは聴くこと

次に祈りについて考えてみたいと思います。祈りとは基本的に神さまに向けられるものです。私たちは祈りを通して神さまに様々な願い事をします。また神さまと親しくなるにつれて、不満や悩みを打ち明けたりもします。でもそれは祈りの入り口です。そこから入って、次のステージに進まなければならないでしょう。それは何かと言えば「聴く」ということ、「聴く祈り」です。
サムエル記上の3章には、祭司エリから、祈りについて学ぶ少年サムエルの様子が出てきます。
サムエルは祭司エリに教えられたように、「お話ください。僕(しもべ)は聞いております」と主に祈りました。これが、聖書の教える祈りの基本的な態度です。祈りは主なる神さまに聴くことです。しかし、洗礼を受けて何年経っても、私の側の願いや要求を言葉にしてあげ連ねることで終わってしまうことが多いように思います。もし、そうしたことに気づいた時には、まず、時間を取って、私の側にある思いを、神さまに向かって全部はき出してみましょう。神さまは愛のお方ですから、じっくりと腰を据えて、私の思いのたけを聴いてくださいます。ですから、まずは私の側の気持ちを全部神さまにはき出し、空っぽになったところで、次にゆっくりと神さまの語りかけに耳を傾けて聴いていきましょう。その結果として、神さまに聴く姿勢が整っていくのです。
 聴く祈りとは、具体的にはどのようなものでしょうか。そのことを考えてみたいと思います。この点についてイエスさまは、「聞く耳のある者は聞きなさい」と、独特な表現をお使いになりました。まずは私の側で「聞く耳を持つ」ことです。耳を澄まして、心を静めてよくよく聴かなければ分からないのが、神からの語りかけだからです。
不思議なことですが、大事な話になると、私たちは急に声が小さくなります。そしてさらに不思議なことに、語る側の声が小さくなると同時に、聴く側の耳はダンボのように大きくなります。つまり心を静めて、耳を澄ますのです。
昨年から「エクササイズ―生活の中で神を知る」の学びを始めています。そのことを通して教えられてきたことですが、呼吸を整えて心が静まると、不思議と私たちの心は開いてくるのです。そして、心が開かれ、聴く姿勢になった時、つまり「聞く耳を持った」時、私たちは聖書を通して、神さまの呼びかけ、神さまの語りかけを聴くことができるようになっていきます。そして、そうした静けさの中で自分を見つめ直すことができるようになるのです。
神さまは聖書や説教という御言葉を通してだけではなく、様々な出来事を通して働きかけてくださいます。ですから、心が開かれ、聴く姿勢を持つ時、そうした日常の出来事の中からも、神さまからのメッセージやサインを敏感にキャッチできるようになるわけです。
列王記上19章には、預言者エリヤが、カルメル山でバアルの預言者を相手に勝利をした後、物凄い虚無感に襲われた出来事が出てきます。あれだけ勇敢に闘ったエリヤがイゼベルを恐れ、一目散に逃げていくのです。そして、神さまに向かって「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」と訴えるエリヤの姿がそこに描かれています。
神さまがそのエリヤをどうお取扱いになるか、その様子が記されています。神さまは、御言葉それ自体をエリヤにお語りになる前に、彼の側に聴く姿勢を整えようとされています。具体的に言えば、まず、エリヤ自身の疲れを癒し、体力を回復させることから始めているのです。何故なら、神さまは人間が肉体を持ち、それ故に弱さや限界を持つ者であることをご存知だからです。ここで神さまは、エリヤが安心して休めるように、彼を覆い隠すことができ、また日陰を提供できるように、「えにしだの木」を備えてくださいました。ある程度睡眠を取ったところで、主は、御使いを通してエリヤに触れ「起きて食べよ」と言われました。そこには、「枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があった」とあります。つまり、出来立ての手作りパン、そして十分な水がエリヤのそばに、それも枕もとに置かれていたのです。神さまからの「おもてなし」、ホスピタリティーをエリヤは感じたのではないでしょうか。
そして、食事をした後、再び横になってしばらく休んだエリヤを起こす際にも、ただ言葉かけをしているのではありません。「御使いは…エリヤに触れ」という言葉が出てきます。神さまは御使いを通して手を当ててくださる、タッチしてくださるのです。神さまの愛が体にしみこむように、優しく触れてくださるのです。疲れたエリヤにとっては大きな、本当に癒される経験だったのではないかと思います。
このようにして、エリヤ自身が「聞く耳」を持つ状態へと導かれた上で、神さまは初めて御言葉を与えておられるのです。そして、この御言葉は、激しい風や地震、火を通してではなく、「静かにささやく声」として、エリヤに大事な御心を伝えていかれるのです。
このように神さまの語りかけは、様々な方法で、しかも静かであり、微妙なのです。だからこそ耳を澄まして、よくよく聴かなければ聞こえてこないのです。
私が心を静めた時、その静けさの中で、神さまはそっと語ってくださいます。同時に、「神さまの語りかけは様々な方法で」と申しましたが、エリヤのために用いられた、「えにしだの木」、「出来たての温かな手作りパン、水」。しかも、それらが枕もとに置かれていたこと、そして、体に触れていただいたことなど、それらすべてが、神さまの自分に対する取扱いであることをエリヤは受けとめていったと思うのです。

Ⅳ.神に愛されていることを実感するために

 最後にもう1つのことをお話しします。それは、神の語りかけを待つことについてです。
これまでご一緒に考えてきましたように、神さまが、いつ語ってくださるのかそれは分かりません。私たちが時を決めることはできないからです。ですから、そのために私の側では「待つ」姿勢が大事です。時に「なんで?」と思うような出来事や悩みの中で、なかなか答えが見つからないようなことが起こります。そのために必要な私たちの姿勢は、じっくりと待つこと、その待つこと自体が祈りとなる、ということです。
イエスさまのお母さん、マリアの姿にその良い例を見ることが出来ると思います。マリアは、その生活の上で起こる様々な出来事の意味をすぐには理解できずにおりました。そうした中で彼女は分からないことから逃げることなく、それを心に納めてゆっくりと思い巡らしていたのです。
私たちもこのマリアの態度を見倣いたいと思います。すぐに答えが分からないことに対して、絶望し焦ったりするのではなく、その出来事をゆっくりと味わってみるのです。それが神さまの語りかけを待つこと、祈りになるからです。こうした祈りのプロセスこそが何よりも大切です。そうした時間をかけての思い巡らしによって、今まで気づかなかったことに気づき、見えなかったことが見えてきたりするものです。自分にとってマイナスだと思ってガッカリしていた出来事、それ自体が、実は、自分を成長させる貴重な経験だったということが、後になって分かることもあるのです。まさに、御言葉と祈りの生活の目指しているところは、このようにして、神さまは私を本当に大切にしてくださっている、そのことに気づくことです。神さまの愛を実感することなのです。
 今年、御言葉ご自身であるイエスさまと深く交わることを通して、2016年に私たちが歩むべき道を照らす光、そして灯である御言葉に導かれていきますように。神さまが願う私たちの歩みとなりますように、神さまの語りかけの中に生きる1年でありたいと心から願います。お祈りいたします。