詩編9編2-11節
ルカによる福音書21章1‐4節
2023年1月29日
Ⅰ. やもめの献金
イエス様は、エルサレムの神殿で毎日神について語っていたのです。そこで、貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を神殿の献金箱に投げ入れたのをイエス様は御覧になっていました。レプトン銅貨二枚というのは今の価値では百円ほどだそうです。一方で「あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金した」とあるので、裕福な人たちが多くのお金を献げている様子も見ておられたのです。現代のように女性が働いてお金を得る事は難しい時代でしたから、やもめの生活は厳しかったでしょう。彼女にとっては貴重で、ありったけのお金だったのです。裕福な者が「有り余る中から」献金したのに対して、やもめは「生活費を全部入れた」と。ここでは金額を比べている訳ではありませんが、たくさん献金することが神様に喜ばれることだと示しています。献金の目的は祭司たちの生活であったり、 神殿の維持管理ではないのです。もしそうであったら、会員制クラブの会費や、税金と同じになってしまいます。しかし献金は信仰によって自主的に払うものですし、何よりも神様に感謝して捧げるものです。
Ⅱ.旧約と新約にみられる献金
献金の源流は、創世記からはじまります。カインとアベルという兄弟がいました。兄のカインは土地の実りを供え物として、神様に捧げ、弟のアベルは「羊の初子、その中でも肥えた羊を持って来た」(創 4:4)とあるのです。これが神様への捧げもの、献金の源流です。二人の捧げもののうち、神様はアベルの羊の初子、その中でも肥えた羊に目を留められたのですが、カインの土地の実りの供え物は喜ばなかったのです。アベルの捧げた羊は初子の羊、最初の羊の子ですから、自分より先に神様に捧げたのです。しかも肥え太った高価な羊でした。自分にとって精いっぱいの捧げものだったのに対して、カインの捧げものはそうではなかった。捧げものは神様への感謝と信頼を現わしているのです。
新約聖書では、使徒パウロが経済的に困窮していたエルサレム教会のために献金を集める活動が記されていました。(コリントの手紙二8章4-5節)そこでマケドニアの教会はすすんで協力したのです。エルサレム教会に献金することは恵みにあずかることだと、喜んで捧げたのです。しかも、自ら奉仕をしたいと申し出たのです。献金も奉仕も神様に捧げるものです。それを彼らは恵みにあずかるのだと言いましたし、パウロは「恵みの業」といったのです。献金、奉仕は、神様に捧げることができる「恵みの業」なのです。
やもめの献金は、アベルが初子の肥えた羊を捧げたように、マケドニアの教会が「恵にあずかりたい」と言って捧げたように、やもめにとって精いっぱいの捧げものを献金箱に入れた。それをイエス様は見ていて、弟子たちに教えたのです。
Ⅲ. 「やもめ」と「律法学者」
ところで、このやもめの女性の神様に対する姿勢と正反対にあるのが、一つ前の箇所ルカ20章45-47節にでてくる「律法学者」です。
イエス様は、彼らは立派な服を着て町を歩いて、人々にうやうやしく挨拶されること、周りの目を気にして人に見えるように祈りをしていた。そんな心を見て、弟子たちに注意するようにと教えたのです。確かに彼らは礼拝を守り、祈りも熱心にしていたでしょう。それらは決して悪いことではありません。しかし、自分を良く見せたいという欲が潜んでいるのです。20章47節の「見せかけ」という言葉が示しています。自分は正しいと見せかける、信仰深いと見せかける、他人の評価を気にして見せかける心の姿勢です。イエス様は「人の前で善行をしないように注意しなさい」(マタイ6:1)と山上の説教で言われました。そしてイエス様は目を上げて金持ちと、やもめが献金している姿を見たのです。見せかけの律法学者とやもめは正反対です。やもめは、周りの目など気にしていませんでした。神様だけを見てレプトン銅貨二枚をささげました。その心の様子をイエス様は御覧になっていたのです。
Ⅳ. 「見せかけ」の生き方
この話を聞いて、素直にやもめを見習いたいと思える人は少ないかも知れません。私も、やもめの女性より、律法学者の方に近いところがあります。中学の時、私は新設校で新しく作った野球部のキャプテンになったのです。キャプテンになると全校生徒の前で挨拶をしたり、目立っていたのでしょう、いろんな人から「野球部のキャプテン」と声を掛けられるようになりました。大会が終わって野球部を引退した時、ふと「ああ、ただの人になった・・」と感じてしまったのを覚えています。勿論、もともと、ただの人なのですが、キャプテンというアイデンティティが強くて夢中になっていましたから、役割が終わったとたんに気が抜けてしまったのです。振り返ると自分がキャプテンとしてどう見られているのだろうか?他の部活のキャプテンと比べてどうだろう。同級生から、下級生から、先生方から見てどう映っているのかと意識していて、いつも気を張っていたように思います。その頃は教会にも行っておりませんでしたから、信仰もなかったのです。人の目を気にしてばかりいた、それは社会人になってからも同じでした。やがて教会に来るようになった時、東日本大震災のボランティアで気仙沼に行きました。現地で奉仕する牧師や宣教師たち。がっしりとした体格で泥かきをする牧師もいれば、アメリカから、はるばるやって来た宣教師は、体力がなくて腰を痛めて泥かきを眺めていました。それでも彼は、みんなを和ます賜物を持っていた。誰が一番泥かきができたかではなくて、それぞれの賜物で奉仕をしていた、それでみんなが喜んでいた。神の国がここにあるのだと思いました。信仰は、私の目線を人の評価から、少しづつ神様の御心を求めるように変えていきました。
Ⅴ. 誰よりもたくさん
本当の自分らしさは他人の顔を見ることからは見つかりません。あなたは高価で貴いとおっしゃる神様を見ることで、自分の価値を認識できるのです。私のように罪深く、人の目を気にしている、自己中心的な人間でも神様は愛してくださっている。神の愛は決して変わることがありません。やもめの女は、その神様への信頼がしっかりとしていたのでしょう。惜しげもなく、周りの目を意識せずに献金していたのです。イエス様は「この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた」と言ってますが、誰よりもたくさんとは、金額ではなくて、誰よりも喜んで入れたということなのです。誰よりも恵みにあずかっているのだという信仰です。「持っている生活費を全部」というのも、生活費をすべて使い果たして献金したから良いのではなくて、彼女の生活のすべてにおいて、神様を信頼した生活であって時間や賜物においても捧げていたのです。生活全部が奉仕であって、恵です。ですから、本当の意味で自分を神様に献げていた。だから彼女は、他の人と自分を比較することから解放されていました。見せかける必要はまったくない、自由でいられるのです。本当の自由が与えられているのです。自分の第一のものを、第一の方へ、それを承認してもらうために、他人の目を必要としません。神様からの目で喜ばれているだろうか、それだけで十分なのです。
今日は、やもめが献金する姿から、献金、献身、奉仕、それら全てにおいて大切な心を考えてきました。第一のものを、第一の方へ、神様から喜ばれるものを、この一週間捧げていきましょう。
お祈りをいたします。