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主日共同の礼拝説教

真夜中の賛美

和田一郎副牧師
詩編32編1-7節
使徒言行録16章16-34節
2022年6月22日

Ⅰ. 使徒言行録について

今日の聖書箇所は使徒言行録です。使徒言行録を書いたルカは新約聖書の中で二つの書を書きました。第一巻はルカによる福音書、その続きとなる第二巻が使徒言行録です。ルカ福音書の主人公はイエス・キリスト、第二巻 使徒言行録の主人公は「聖霊」です。ペトロやパウロたちに聖霊が働きかけて、福音の広がりがエルサレムからローマへと広がっていきました。聖霊はまずエルサレムに教会を建てました。迫害を受けた教会が、聖霊によってエルサレムから世界へと働きを広げ、聖霊を受けたアンティオキア教会は、使徒パウロの働きを教会の中から外へと送り出し、宣教の働きがアジアのみならず、ヨーロッパへと広がっていく様子が描かれています。
今日の聖書箇所は、聖霊に促された使徒パウロが、いよいよヨーロッパに渡りフィリピという町で宣教の働きをしていた時の話しです。この16章の文章に「私たち」という言葉がでてきます。ここまではパウロたち一行のことを「彼らは」と表現してありました。しかし、この章から「私たち」となっている。つまりこの使徒言行録を書いたルカがパウロと出会って合流したのがこの16章であるとされているのです。今日の聖書箇所の少し前16章8節にトロアスという町に滞在したことが書かれています。ここでパウロとルカは出会い、行動を共にしたので今日の聖書箇所も「私たちは」と始まっていてルカもパウロと一緒にいたことが分かります。この二人の出会いが、やがて『ルカによる福音書』を書くことに繋がっていくわけですから運命の出会いと言っていいでしょう。パウロとルカを出合わせたのも聖霊の働きによるものです。

Ⅱ. 聖霊の働き

今日の聖書箇所はフィリピにおける聖霊の働きを見ることができます。16節「私たちは、祈りの場に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った」。ここに聖霊ではなくて、占いの霊がでてきます。占いの霊に取りつかれている女性が、幾日もパウロたちの後に付いてきて「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と、宣伝してくれるのです。宣伝してくれるのならいいじゃないかと思われるかも知れませんが、相手は占いの霊に取りつかれている女性です。それを聞く人はどう受けとめたでしょうか。その神は、ギリシャ神話の神とか他の神々とも、受け取れるからです。パウロは占いの霊の働きを見破って
いました。それはパウロに宿っている聖霊の存在に、この女性の中にいる占いの霊が反応していると分かっていたからです。
イエス様が宣教をされている時も、「ああ、ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」(ルカ4章34節)。と男に取りついていた悪霊が反応したことがあります。その時の悪霊と同じように、女性の中にいた占いの霊は、パウロの中にいる聖霊に反応して、パウロの後から付きまとったのです。パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言いました「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」。すると、悪霊は即座に彼女から出て行った。パウロは、女に言ったのではなくて、悪霊に対して言いました。パウロは、この女の叫びが、悪霊によるものであることを見抜いていたわけです。

Ⅲ. 真夜中の賛美

しかし、ここで一つ問題が起こりました。それは、この女が奴隷であり、主人たちはこの女の占いによって多くの収入を得ていたのです。彼らにとって、金もうけの源がいなくなってしまった。そこでパウロとシラスを捕らえて、高官たちに引き渡したのです。
22節「高官たちは、二人の衣服を剥ぎ取り、鞭で打つように命じた。そして、何度も鞭で打ってから二人を牢屋に入れ、看守に厳重に見張るように命じた」。
これは、勿論不当な扱いです。当時からユダヤ人に対する迫害があったようです。ユダヤ人は他の人達とは一緒に食事をしないといった閉鎖的に見られる文化をもっていましたから摩擦があったようです。高官たちは、パウロとシラスに弁明する機会も与えず、一方的に彼らを鞭打ちの刑にして牢に入れたのです。
二人はこの不当な扱いにさぞ悔しい思いや恨みをもったことでしょう。ところが、その晩パウロとシラスの牢から賛美の声が聞こえてきたのです。他の囚人たちは驚いたと思います。そして、思わず聞き入ってしまったのです。牢屋とは罪を犯した者が入れられる世の中からはじき出された人達がいる所です。牢の中の生活には、何かに感謝したり誰かを褒め称えるといったことはないのです。その牢でパウロとシラスは神をほめたたえていた。パウロとシラスは、神に向かって不満を言ったり、嘆いてもよかった。けれども、彼らは、真夜中の牢屋の中で神を賛美したのです。
二人はどんな思いでいたのでしょう。彼らは全く不当な扱いを受けました。想定外の出来事です。このような出来事には、神様が関わっていると思ったのでしょう。不思議な出来事には神様が関わっている。自分たちが鞭で打たれ、投獄されたことには、何らかの神のご計画があったに違いない。この出来事を通して、神様が何かを成そうとしておられることを信じる。この出来事には神様の何らかのご計画がある。きっと、すべてを益としてくださるに違いない。それに感謝、そして賛美。さらに、二人が歌う歌に他の囚人たちは「聞き入っていた」とあります。神をたたえる歌に、心が癒やされるような思いがしたのではないでしょうか。そうして囚人たちの心に変化が起こっていったのです。
歌には力があります。先日、うちの4歳の息子が動画で映画「サウンド オブ ミュージック」のドレミの歌を歌っているシーンを繰り返し見ていました。山々に囲まれた緑の草原で、歌を歌う主人公のマリア。この物語は暗い時代でした。ナチスドイツがオーストリアを併合して進駐してきた時でした。まさに真夜中の暗闇のような状況で、あの美しい歌の数々が歌われていたのです。映画の中で歌われた曲に「すべての山に登れClimb every mountain」という歌があります。「すべての山に登りなさい、すべての川を渡って、すべての虹を追いかけて、あなたの夢をつかむまで」という歌詞です。マリアがトラップ家から飛び出して、もといた修道院に戻って懺悔した時、修道院の院長がマリアを励ました歌です。私は「すべての山に登れ」とは、あの山もこの山も、くまなく山を登れという意味だと思っていました。しかし調べましたら、山があったら、「Every その都度」登りなさい。つまり人生は山もある、谷もある、山が来たらその都度、山に登りなさい、谷が来たらその都度、谷を渡りなさい。人生は止まらない、自分の愛を与え続けて、山を越えて、谷を越えなさい。という意味だと知りました。院長はそうして苦難にあったマリアに一歩踏み出すように励ましたのです。この歌は映画のラストシーンでも使われています。トラップ大佐と結婚し、子ども達の母親になったマリアと家族たちが、自由を求めて国境の山を越えるシーンです。戦争が忍び寄る暗闇のような中でマリアの愛は歌を通して家族を一つにしました。山を越えて、その先に希望があるというメッセージが伝わってきました。

Ⅳ. 「主イエスを信じなさい」

パウロとシラスの賛美にも希望がありました。鞭を打たれて牢獄に入れられた、それでも二人は前を向いて賛美していました。すると突然、大地震が起こります。そして、たちまち牢の戸がみな開き、すべての鎖が外れてしまうのです。この大地震で目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人が逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとしました。死んで責任を取ろうとしたのです。けれども、パウロは大声で叫びました。28節「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる」鍵が開いているにもかかわらず、囚人たちは誰一人逃げていませんでした。なぜ、逃げなかったのだろうか。それは他の囚人たちがパウロとシラスの歌声に聞き入っていたので、神がパウロとシラスと共におられることが他の囚人たちにも分かったからです。二人が賛美する神様が真の神であると感じたのです。死のうとしていた看守は、震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出してこう言いました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」。パウロの答えは明確です。「主イエスを信じなさい」。そうです。イエス・キリストこそ、私たちが信頼すべきお方です。全てのものは移り変わって行きますが、このお方は決して変わることがありません。「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ人への手紙13:8)
「主イエスを信じなさい」。イエス・キリストを信じるとは、いったいどういうことでしょうか?この看守はイエス様の姿を見ることはできません。それは私たちも同じです。そのイエス様を信じるとは何を意味するのでしょうか。それは、キリストが十字架で死なれたのは、私たちの為に死んでくださったと信じること。復活されたことで、私たちが永遠の命に預かることができると信じること。キリストは今も生きておられ、聖霊によって、私たちに苦難があったとしても、その先に最善の道へと導いてくださるということです。つまり、主イエスを信じるということは、自分とイエス様が今も関わりがある、救い主であることを信じるということです。自分とイエス様との関係が今も、しっかりあるからこそ、不当な扱いをされても、痛い思いをしても、それが高い山を登るような、深い谷を渡るようなことであってもイエス・キリストとの関係において、神様は最善を成してくださると信じることができるのです。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」(ヨハネ福音書16:33)
山があったら山をこつこつと登ろう、谷があったら一歩一歩渡って行こう、山も谷も、神様が成される最善の道への一部なのです。
苦しい時、試練に出会った時に神に感謝するのは難しいことです。そんな時、賛美歌が役に立つと思います。パウロとシラスも讃美歌を歌って励まし合っていました。ですから、なかなか感謝できない時は、まず讃美歌を歌うといいと思うのです。
苦しい時にこそ、神を賛美し感謝する。そうして、神様が何をなしてくださるかを期待していきましょう。
お祈りをいたします。

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主日共同の礼拝説教

天を見上げて

和田一郎副牧師
創世記15章1-6節
ヨハネ福音書17章1-5節
2022年5月29日

Ⅰ. 最後の晩餐で

今日の聖書箇所は、先週に続いて「最後の晩餐」の出来事です。イエス様は弟子たちとの最後の語らいの中で、いったい何を祈られたのか。この箇所を皆さんと見ていきたいと思います。

Ⅱ. 神の栄光

1節に「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」とあります。「時が来た」というのは、イエス様がこの世から、天の父のもとへ移る時が来たということです。翌日には十字架につけられて死ぬのです。そして復活して天に昇る、その時が来たということです。その時に「栄光を与えてください」とイエス様は祈りました。12章23節でも「人の子が栄光を受ける時が来た」と言っておられました。イエス様が、死んで復活されることは、人の子としてこの世を生きてこられたイエス様が、神の子としての栄光を受けるということです。
「あなたの子が、あなたの栄光を現すために、子に栄光を現してください」と祈ったのは、イエス様ご自身が栄光を受けることによって、私たちキリストを信じる者たちの救いが実現するからです。ですからイエス様が、自分のために祈っているように聞こえますが、私たちの救いを実現するための、ご自分の使命を果たすための祈りなのです。
栄光を現わすというのはいったい、どのような意味なのでしょうか。栄光について、4節で「私は、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」とあります。イエス様が地上で栄光を現わした出来事を、いくつか振り返ってみます。まずイエス様が誕生した時、羊飼いたちが夜空に見た「光」、これは「主の栄光が周りを照らした」(ルカ2:9)とあります。次いで、カナの婚礼の出来事で、樽に入った水を、ぶどう酒に変えた時「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」(ヨハネ福音書2:11)とありました。そして、もっとも強く栄光を現わしたのが、イエス様の十字架と復活です。復活の後エマオへの途上で弟子たちに「ああ、愚かで心が鈍く・・・信じられない者たち、メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか」(ルカ 24:25‐26)と言いました。「これらの苦しみを受けて、栄光に入る」つまり十字架の苦しみを受けて「栄光に入る」と示しました。そして、イエス様が神としての栄光を完全なものにするのは再臨の時です。イエス様は「・・・人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来る・・・」(マルコ8:38)と、再臨の時は、キリストが父の栄光に輝く時だと説明していました。
最初の羊飼いたちの反応を見ると、夜空の光を見て「恐れた」とあるのです。つまり「恐ろしくなるほど驚いた」のです。ある人が栄光が現れることを「神様は素晴らしい!と感動することだと説明していました。それらは、単なる奇跡ではなくて「神の素晴らしさ」が現わされているものを「神の栄光」としているのです。まさしく羊飼いは光を見て「神様は素晴らしい!」と感動して、家畜小屋のイエス様を見に行ったのです。水をブドウ酒に変えた業も「神の業とは素晴らしい」ですし、十字架の死と復活も「神様は素晴らしい」と感動し、驚き、恐れおののくほどの誉れ高い出来事が成されたのです。
神の栄光は、人にも現わされますし、自然の中にも神の栄光が現わされます。人が現わす愛や、芸術、勇気ある行動などの中に神の栄光を見ることができます(2コリント4:6)。自然の美しさの中にも神の栄光を見ることができます(詩編19:2)。それは、例えるなら、神の栄光を映し出す惑星のような輝きです。自分自身で輝く太陽のような恒星の輝きではなく、月のように太陽の光を反射させて輝く、惑星のような輝きが、人間や自然に現わされているのです。人間の素晴らしさ、自然の美しさ、それに驚き感動することは、言うなれば「神様は素晴らしい」と感動することであり、それが神の栄光なのです。イエス様は「私は、人からの栄光は受けない」(ヨハネ福音書5:41)と言われました。人からではない、父なる神の栄光を「子に栄光を与えてください」とイエス様は1節で祈りました。
2節「あなたは、すべての人を支配する権能を子にお与えになったからです。こうして、子が、あなたから賜ったすべての者に、永遠の命を与えることができるのです」と話されましたが、具体的にはすべての者に「永遠の命を与える」権能を与えたのです。これは聖書の中の聖書と言われるヨハネ福音書3章16節の「御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という言葉を完成するための権能です。

Ⅲ. キリストを知ること

3節には「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」とあって、永遠の命とは、キリストを知ることだと言うのです。
永遠の命というのは、死んだ後の話ではありません。今を生きる私たちが、キリストの栄光を反射した惑星のように輝きを放って生きることが永遠の命です。それは神様に与えられた、本来の自分らしい自分を生きることですし、キリストに似た者へと変えられていく生き方です。それが永遠の命でありキリストを知ることなのです。キリストを知るというのは、知識としてキリストを知るとか、聖書の勉強をするということだけではありません。
先週、エクササイズ修養会という黙想会がありました。その時の学びで次のようなものがありました。
パウロが、コリント教会の人々に「最も大切なこと」を手紙に託して伝えたのです(1コリント15:3-11)。それは「振り返ること」です。つまり「神様がこの自分に何をして下さったか」と振り返ることです。パウロはイエス様の十字架の死と復活、そして自分に働きを与えてくださったことを、立ち止まって、振り返ってみた時、「神の恵みによって、今の私があるのです」と言ったのです。これから先にやることではないのです。この自分に神様が成してくださった恵みを知ること、それが「最も大切なこと」なのだとパウロは言ったのですが、それこそが「キリストを知る」ことだと思いました。実は、その修養会に行くために東名高速道路を走っていてスピード違反で捕まってしまいました。自分としては周りとあまり変わらないスピードのつもりでした。しかし、それはあくまでも自分の感覚です。しかし、神様の視点からすれば「ちょっと待ちなさい」ペースを落として、立ち止まって振り返りなさいと言われたように思いました。そして修養会では、この自分に神様が成してくださった栄光を振り返ったのです。私は、パウロの言葉を借りれば「月足らずで生まれた」未熟なクリスチャンです。そのようなわたしに、イエス様はまさしく栄光を現わしてくださいました。キリストを知るとは、そういうことではないでしょうか。キリストが自分に成してくださった恵み。それを大切にすることが「キリストを知る」ということだと思うのです。

Ⅳ. 天を見上げる

ヨハネ福音書に戻りますが、これらの祈りを、イエス様は1節にあるように「天を見上げて言われた」とあります。イエス様は、天におられる父を見上げて、話しをするように祈っておられたのです。わたしたちが祈る時は下を向くことが多いのですが、イエス様の祈りは父との人格的関係を表していると思いました。
人と人とが、相手への信頼をもって話し合う時、相手に目を向けます。互いの存在、互いの人格を認め合いう事です。父なる神とイエス様の関係は、この天を見上げて祈る姿に現れていると思いました。

教会のAさんに、お孫さんとの辛かった思い出を聞きました。Aさんには息子さんと、その孫が二人いるそうです。息子さんの奥さんは事情があって居なくなり、別の女性が家にやって来て、姉妹と同じ敷地に4人で生活を始めたそうです。祖母にあたるAさんは孫を幼稚園に送ったりして子育てを手伝っていました。孫たちもお祖母ちゃんに懐いていたのですが、新しく来た嫁が自分達で育てるといって自由に会うことができなくなってしまった。しかし、新しい嫁には自分が生んだ子ではない二人の幼児を育てる気持ちがなかったのです。幼子の体にはアザができて、食事もしっかり与えられなくて痩せていたそうです。Aさんは孫たちの状況を見かねて警察や児童相談所とも相談し続けたのです。祖母には親権がありませんから自分ではどうにもできない。児童相談所とも相談して、遠方にある児童養護施設に預けることになったのです。ようやく空腹や虐待から逃れられた二人の兄弟ですが、Aさんとは会えない施設の環境は淋しい思いがあったのだと思います。Aさんは孫たちのことが、どうしても気がかりで、遠くにあるその施設に行ったのだそうです。しかし、児童相談所からは、決して会ってはいけない。遠くから様子を見るだけだと厳しく言われましたが、施設の祭りの日に出かけていって孫たち二人の様子を遠目に見ているだけでした。しかし、孫たちはお祖母ちゃんたちが来ているのを察したので、施設の保母さんと一緒に駅まで追いかけて来た。お祖母ちゃんに会いたい。しかし、Aさんは会ってしまったら、児童相談所から二度と会ってはいけないと言われるかも知れない。保母さんが「一目会ってください」と言われても、その一目会うことができなかった。
トイレの奥に閉じこもって「いいんです。いいんです」と言うしかなかったそうです。本当は目を合わせて会いたかった。目を合わせることと、遠くから眺めることとは大違いです。心を互いに向けること、相手がいて、わたしがいる。祈るということは、神がいて、わたしがいる。それぞれの存在を認めたところで交わされる会話が、神に祈るということです。イエス様は、父と目を合わすかのように天を見上げて祈ったのです。5節「父よ、世が造られる前に、私が御もとで持っていた栄光で、今、御前に私を輝かせてください」。天地創造という素晴らしい栄光が現わされた時の栄光で、今わたしを輝かせてください、とイエス様は祈りました。そして、わたしたちも、その栄光の輝きを、神様を見上げて、神様の御前で、わたしたちも輝かせていただきたいと思うのです。
人からではなく、周りからの栄光ではなく、天を見上げて神の栄光を放つ者として歩んでいきましょう。
お祈りをいたします。

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キリストの名によって

和田一郎副牧師
詩編25編1-7節
ヨハネによる福音書16章16-24節
2022年5月22日

Ⅰ.最後の晩餐で

教会では天に召される方を見送る機会があります。その中で印象的なのは穏やかに召されて行く方の姿です。信仰のゆえに心が穏やかにされているのだと思いますが、それに加えて愛する人に見送られているという平安があると思いました。頼れる人が、自分との思い出や大切にしたものを覚えていてくれるというのは素晴らしいことですし、そう思えるからこそ、穏やかに召されていけるのではないかと思いました。
イエス様もそうでした。十字架に向かって死を意識していた時、残された愛する弟子たちに、全身全霊をかけて残したいものがありました。そのために、イエス様は死の直前になって、弟子たちだけを集めて「最後の晩餐」の時をもちました。その様子がヨハネ福音書13章から17章にかけて記されています。その最初のところに次の言葉がありました。
「イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」(ヨハネ福音書13:1)。この「最後の晩餐」での話しの中心は何かというと、イエス様ご自身は去って行くことになるが、それは弟子たちにとって喜びとなるということでした。

Ⅱ.去ることが喜びとなる、二つの理由

弟子たちにとって喜びとなる理由は二つあります。一つは自分が去って行けば、聖霊をお遣わしになるからです。聖霊が来ると、信仰者は聖霊に満たされ、その人の内に留まり、神の御心を分かる者へと導いてくださる。聖霊が降るという恵みです。もう一つ、イエス様が去っていくことは、父なる神様に直接祈る関係になれるというのです。それまでの旧約時代に生きていた信仰者たちは、人間が神様と直接に接すると、死んでしまうと信じられていました。確かにそれまではモーセのような預言者という特別な仲介者を通して神の御言葉を聞くしかありませんでした。しかし、イエス様が去って行くことによって、神様との関係は、直接祈ることができる関係になると話されたのです。
この二つのこと、聖霊との関係と、父なる神との関係が、自分がこの世を去っていくことによって、弟子たちにとって素晴らしい喜びとなると、「最後の晩餐」で伝えたかったのです。今日の聖書箇所は、特に父なる神との関係について弟子たちに伝えています。
16章16節「しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる」とあります。しかし、弟子たちはイエス様の言っている意味が分からなかったのです。実際、死んだ人が復活すること自体が、弟子たちにとって信じられないことでしたから理解するのは難しかったでしょう。18節「何のことだろう。何を話しておられるのか分からない」と、彼らは不安になっていったのです。神様は絶対的な存在ですが、人は相対的です。神様は揺るぎない存在ですが、人は神様や隣人との関係の中で自分を認識するという相対的に生きる存在ですから、信頼しているイエス様がいなくなると聞いて不安になってきました。イエス様が「しばらくすると、私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる」と言われた意味は、イエス様は十字架に向かわれて死んで葬られれば「見なくなる」。3日目に復活すれば「見えるようになる」、これから起こることを、イエス様は前もって弟子たちに伝えたのです。
20節「よくよく言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、世は喜ぶ。あなたがたは苦しみにさいなまれるが、その苦しみは喜びに変わる」。イエス様が死んでしまったら、弟子たちは泣き悲しみます。しかし世は喜ぶ。イエスを殺そうと願った者たちは、ユダヤのファリサイ派や律法学者、祭司だけではない、民衆も「イエスを殺せ」と言ったのです。そのことで弟子たちは苦しむが、その苦しみは喜びに変わる、なぜなら三日目によみがえり、再び弟子たちの前に現れてくださるからです。その衝撃と喜びは弟子たちの人生を変えました。いや世界の在りようを変える出来事でした。歴史が変わったのです。その大きな喜びは、その後奪い去られることはない。なぜならばイエス様は復活した後に天に戻られますが、代わりに聖霊が送られてきて、聖霊によって永遠に神と共にいられる新しい時代が来るからです。
23節「その日には、あなたがたが私に尋ねることは、何もない」と言われました。その日とは、イエス様が復活して天に戻られた後のことでしょう。その日以降、イエス様の姿を見ることがなくても、聖霊の力によって、天の神様に直接祈れるようになるからです。
「最後の晩餐」の席で弟子たちに語られた大事なことが二つあると言いました。「聖霊」と「父なる神」との新しい関係をイエス様の十字架の死と復活がもたらしたのです。その喜びというのは、父なる神、子なるキリスト、聖霊という三位一体の神の交わりに、私たち人間が加えられるということなのです。
「私たちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせるのは、あなたがたも、私たちとの交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(1ヨハネ手紙 1:3)
これは「最後の晩餐」の席にいたヨハネが、後に書いた手紙の言葉です。「御父と御子イエス・キリストとの交わり」とあって、聖霊が抜けているのは御父と御子の関係を強調したからのようですが、勿論これに聖霊も加わって、三位一体の神の交わりの中に加えられて生きる喜びを得るです。12弟子の一人であるヨハネは、イエス様の話されたとおりのことを体験したのです。聖霊に満たされて、父なる神に直接祈ることができる恵みを手紙に書いたのです。

Ⅲ.イエス・キリストの名によって

しかし、そのためには大事な条件がありました。それが23節後半にある「よくよく言っておく。あなたがたが私の名によって願うなら、父は何でも与えてくださる」ということです。つまり「わたしの名によって願う」「イエス・キリストの名前によって祈れば」三位一体の交わりに加えられている者の願いは、必ず叶えられるというものです。イエス様は「私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか」(ヨハネ福音書14:10)とおっしゃいました。父が私の内にいる。父と御子イエスは一体、そして聖霊の力によって私たちは祈れる。それで私たちは今祈っているのです。「イエス・キリストの御名によって祈ります」と。それは、三位一体の神の交わりに加えられて祈り願っていることを意味するのです。
イエス・キリストの名前。イエスという名前は、ヨセフとマリアが考えたものではありませんでした。天使から告げられたものです。「その子をイエスと名付けなさい」(マタイ福音書1:21)と。イエスとは、ヘブル語ではヨシュア「ヤハウェは救う」という意味です。「イエス」という名前は、当時のユダヤにおいてはとても一般的な名前でした。「ナザレのイエス」と言わなければ他のイエスと区別がつきませんでした。きわめて平凡な名前を天使、つまり神様があえてつけたのには意味があります。イエスという名は、神の子としての使命・性質である「謙遜」を表わしています。イエス様は、神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようと思わず、僕(しもべ)の形をとり、人となられました。イエスとは、その平凡な名前ゆえに神の謙遜を意味しています。へりくだって、人となられて十字架に至るまで従順であった、その人の人格を表しています。
イエス様の名前は、父なる神様から与えられていた、特別な使命も表していました。イエスというヘブル語でヨシュアという名は、旧約聖書のヨシュア記にでてくるイスラエルの勇士の名前と同じです。ヨシュアはイスラエルの民を解放して、約束の地に導きました。同じようにイエス様は罪と死に囚われてしまった人間を、奴隷状態から解放してくださった救い主です。
「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ福音書1:21)その名の通り、救い主となられました。

Ⅳ.名は人を表す

聖書において、名前はその人の実体や性質をもっていると見なされましたが、名は人を表すという言葉を耳にすることがありますね。わたしの母は、頼るという字に子と書いて頼子(よりこ)という名前でした。神様に依り頼む子になって欲しいという意味です。癌で闘病の末に天に召されたのですが、入院中に、自分が死んだ時の葬儀の準備をしていました。受付や食事の担当などを「この方に頼もう」「あの人にお願いしよう」と書き残していたのです。息子としては複雑な思いで見ていました。弟子たちが、イエス様が「わたしを見なくなる」と言って不安になったのと同じような気持ちでした。その時の母の言葉を覚えています。「人に頼ることも大事なコミュニケーションだからね」と。その何気ない言葉は、わたしの心にずっと残りました。私がまだ20代で自立すること、仕事で認められることに夢中だった頃に聞いた言葉でした。人に頼らないで切り開いていくことが立派でカッコいいと思っていたころでした。母は名前のごとく神様にも、人にも依り頼む人であったと思います。人に頼れる賜物がありました。隣人にも神様にも、依り頼み、頼られる人だったな、そういう母の生き様を見て育ったと実感したので、その言葉が心に残ったのだと思います。私は息子に母の「頼」という字をつけました。今の時代、人に頼むということが難しい時代です。人に頼みごとをしない、できない、苦手な人が多い。頼み、頼まれることが難しい社会になっているようです。誰にも相談しないで孤立している人が多い時代だからこそ、神様にも、隣人にも頼って生きるという信仰をもって欲しいと思うのです。「人が一人でいるのはよくない」と言われた神様の御心に従って生きて頂きたいのです。
今日の聖書箇所24節後半。イエス様は「願いなさい」と十字架に架かる前日に語られました。「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」。イエス様は、あらゆる人々が、どこにいようとも神に直接願い求めることができるために、救いのために十字架の死を受けてくださいました。イエス・キリストの名前によって願うことが、父なる神に願うことであり、聖霊の力をかりて願うことができるようになるためです。
「願いなさい」主イエスに、終わりの時まで、従っていきましょう。お祈りをします。

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主日共同の礼拝説教 歓迎礼拝

生きる意味ってなんだろう

和田一郎副牧師
ルカによる福音書15章11-24節
2022年4月24日

Ⅰ.はじめに

イエス様は今日の聖書箇所で「神様がどんな方なのか」それを譬え話しで教えてくださっています。 今月の歓迎礼拝ではルカ福音書15章から、3つの譬え話を続けて見てきました。3つに共通しているテーマは「あなたがいなくなったら、熱心に探してくださるのが神様。そして見つかったら心から喜んでくださる。聖書の神様はそのような方ですよ」と、イエス様は伝えているのです。
今日の譬え話しは、とんでもないドラ息子でも、いなくなったら神様は探してくださっている、自分にそっぽを向いて、どこかに行ってしまっても、また自分のもとにもどって来ることを諦めない、そんな神様の性質が描かれています。また、この話には二人の息子がでてきて、前半と後半に分けることができます。今日は前半だけをお話ししますが、前半は弟、後半は兄を通して、わたしたち人間が自己中心的な罪の性質をもっていることが短い話の中に織り込まれています。

Ⅱ.放蕩息子のたとえ話

弟は、とんでもないドラ息子で、兄は父の仕事を手伝う真面目な人でした。ある日弟が言うのです「お父さん、私に財産の分け前をください」と。まだ元気に働いている父親がいるのに、関心があるのは父が死んだ後に分けられる遺産のことでした。それを先に欲しいという。失礼なことを言う、とんでもないドラ息子だと思うのです。しかし、彼の姿は私たちの姿と重なるのではないでしょうか。私たちは、心の底で自分の人生は自分のものだと思っています。だから自分の思い通りにして何が悪いだろうと思いながら生きています。しかし、聖書は天地万物を造られた神様が、わたしたちひとり一人を造られたと告げています。わたしたちは自分の力や意思で、この世に生れてきたのではありません。人生における時間も、出会いも、神様に与えられた物です。しかも、いつかこの世の人生は終わってしまう、神様のもとに帰る時がくるのです。ですからこの地上の人生は神様から預かっている貴重な時間なのです。弟が父親に、「わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言いました。それは、神様から預かっている貴重な預かり物を自分勝手に使いたいという、人間の自己中心という性質を表しているのです。
しかし、この父は弟息子の望み通りに財産を与えるのです。すると彼は、それを全部お金に換えて、父のもとを離れて、自分勝手に生活しはじめたのです。
彼はそこで放蕩をつくして、一文無しになってしまい、ついに豚の世話をするようになりました。豚の飼育というのはユダヤ人にとって最もしたくない仕事の代表です。弟はどん底の生活まで落ちてしまったのです。その時、彼には友達が一人もいませんでした。お金があった時には、いろんな人が集まってきました。しかし、お金もなく、家畜の世話で食いつなぐ生活をしている彼を助けようとする友は一人もいなかった。そこまで追い詰められた時、彼は「我に返った」とあります。自分は取り返しのつかないことをしてしまった。自分が本当に生きることのできる場所はあの父の家だった。父の所に帰ろうと決意します。しかし、今さら帰っても門前払いで、「お前など息子ではない」と言われるかも知れない。自分は息子と呼ばれる資格はない、だから雇い人の一人にしてください、とでも言おう、もうそうする他ないと思ったのです。弟息子は身も心もボロボロになって帰って行きます。
一方で、彼の姿を、まだ遠く離れていた父は見つけました。そして走り寄って来た。首を抱き接吻したのです。「まだ遠く離れていたのに見つけた」ということは、この父がいつも息子の帰りを待っていて、常に息子が出て行った方角を、見つめていたと分かるのです。そんな慈愛に満ちた父のもとに帰ることができた。父は弟息子のために良い服を着せ、靴を履かせ、美味しい食事の用意をしてくれます。そのようにしてくださるのが聖書の神様です。天地万物を造られた唯一の神様は、私たちのことを、いつも待っていて下さり愛する子として歓迎して下さる。神様の愛に触れた時、そこに私たちの救いがあります。この神様の愛の中で生きる時、人生は変わっていきます。
この聖書箇所には見出しに「いなくなった息子」とあります。「いなくなった」というのは「神様のもとから離れている」という意味なので、まだ神様を信じていない、信仰をもっていない人のことも含めて、いつも探してくださり、神様のもとに来るのを、まだかまだかと待っていてくださる、帰ってきたら温かく迎え入れてくださる神様です。この放蕩息子の話を読んで、神様の愛の大きさ、憐れみ深さを知って欲しいというのが、この譬えを話された、イエス様の思いなのです。

Ⅲ.『赤毛のアン』

わたしが最近読んでいる本の主人公も、神の愛に触れて人生が変わった人だと思いました。それが小説「赤毛のアン」の主人公のアンです。数年前に「花子とアン」という朝ドラが話題になりましたが、赤毛のアンを書いた、著者モンゴメリという人は、厳格なクリスチャンの祖父母に育てられ、後に牧師と結婚した人です。牧師夫人として教会学校で聖書を教え、多忙な教会奉仕をしながら「赤毛のアン」シリーズを書いた人なので、物語の中にはキリスト教の要素が沢山あります。「赤毛のアン」の主人公アン・シャーリーも、神様の愛に触れて人生が変わった人だと思います。
アンは生れてすぐ両親を病気で亡くしてしまって、孤児院で育ちました。孤児院の生活はひどいもので、愛を感じる家族的な関係もなく、教会や信仰とも無縁の生活でした。神様から見れば、放蕩息子がどん底にいた時のような環境で育ちました。アンが11歳の時、カナダのプリンスエドワード島に、マシュウと、その妹のマリラという年老いた兄妹がいて、二人は畑仕事を手伝ってくれる男の子を養子にしようと考えていました。ところがちょっとした手違いで、やってきたのは、11歳の赤毛の女の子、アンでした。最初は孤児院に返そうと思っていたのですが、極端に恥ずかしがり屋で口下手なマシュウは、アンの明るさ、率直なおしゃべりに、何か惹かれるものを感じて、アンを家族として受け入れるのです。
アンはそれまで、ありのままの自分を受けいれられることがありませんでした。ですから自分が自分でいるために想像力を働かせて、よくしゃべりました。赤毛のことをからかわれると、猛然と立ち向かいました。でも年老いたマシュウはありのままのアンを受けいれたのです。マシュウと妹のマリラは、町にある長老教会の信徒でした。アンに「この家にいる間はお祈りをしなければなりませんよ」と言って、形式を気にせず自分の言葉で祈ることを勧めたのです。はじめて祈ったアンのお祈りが、「・・・二つだけ大事なお願いを申し上げます。どうか私をこの家に置いてください。それから私が大きくなったら美人にしてください。かしこ。あなたを愛するアン・シャーリーより」と祈るのです。クリスチャンでしたら、「かしこ」ではなくて「アーメン」と言わなければいけないところなので、聞いたマリラはビックリするのですね。「この子はお祈りもしたことがないのか?」と。アンの祈りはいつも率直でした。そして、マリラは「主の祈り」をアンに教えて、アンはそれを気に入って暗唱できるようになっていきます。
赤毛のアンの第1巻は、アンが11歳から16歳までの成長が書かれています。その中で著者モンゴメリは、アンがキリスト教の信仰によって変わっていったという描き方はしていません。孤児院では得られなかった「愛」を体験して変わっていった様子が描かれています。しかし、神様の愛は人を通して働かれるものです。神様はアンを探していたと思うのです。自分が自分でいるために、想像力の翼を広げてがんばっていたアンに愛を知ってもらいたいと働きかけていたと思うのです。プリンスエドワード島の町に来て、祈る人になって、神を愛する人たちの中で成長して欲しい。彼女はそれを受けいれました。なぜなら自分が、まず受け入れられたからです。アンは成長するにつれて以前の半分もしゃべらなくなり、大げさの言葉遣いもしなくなったのです。自分が、ありのままで受け入れられる幸せを知ったからです。
そんなアンにも悲しみの別れがやってきます。第1巻の終わりに、いつも静かに優しく受け入れてくれた、育ての父とも言えるマシュウが突然亡くなります。物静かなマシュウの愛情にはムラがなかった、いつも同じようにアンを受けいれる人でした。まるで放蕩息子を待つ父のような人、変わらぬ愛、父なる神様を思わせるような人でした。口下手でしたが、ありのままを受けいれる、それがマシュウの愛でしたが、その人を失ってしまった。それでも、ここまで成長してきたアンの心の中には、見えない将来に希望を持てる力がありました。信じるという心は、目に見えないものを受けいれる謙虚な心です。それがマシュウが残してくれた愛の力でした。次の将来に一歩踏み出そうとするアンはつぶやきます。「神は天に在り、この世はすべてよし」。最初に出版された村岡花子訳では、「神、天にしろしめし、世はすべてこともなし」という訳でした。「神様は天におられる、この世はすべてこともなし、すべてよし」。人生はいろいろあります。それでも神様は天におられる、この世はすべてこともなしと信じる人に、アンは成長していました。

Ⅳ.神の愛

ところで、放蕩息子のその後はどうなったでしょうか。最後は、「あの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか」と、父親が言って終わるのです。放蕩息子は、自分のことを受け入れて喜び祝ってくれる、父の愛に触れて変えられていったと思うのです。
神様の視点から見れば、放蕩息子も赤毛のアンも、神の愛から離れてしまっている者たちでした。神様はいつも探しておられる、神のもとに来るように待っておられ、彼らをありのままで受け入れてくださる、そのような神様であることを物語は表しています。
今月の礼拝は歓迎礼拝として、教会に初めて来られる方、ふだんは礼拝に来ていない方々を歓迎したいという思いでメッセージをしてきました。それはメッセージをする者だけではなく、教会員の皆さんの思いでもあります。しかし、誰よりもこの教会に来て下さる方を歓迎しているのは神様でしょう。その神様を一人でも多くの人に知っていただきたいと願います。
お祈りいたします。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

礼拝の帰り道

和田一郎副牧師
申命記18章15-22節
マルコによる福音書9章2-10節

2022年3月27日

Ⅰ.「人のこと」から「神のこと」へ

今日の聖書箇所は、イエス様の伝道活動が一つの方向転換になった箇所です。それまでイエス様は病人を癒やしたりして奇跡を行ってきたのですが、弟子たちは、はたしてこのイエス様は何者であるのか、明確ではなかったのです。イエス様が言われるように神の国の到来が近いと感じつつも漠然としていたのです。果たしてイエス様が何者で、自分達の活動がどこに向かっていくのかはっきりしていませんでした。イエス様の存在が明確になるには、十字架、復活、ペンテコステの出来事を経験していかなければならないのですが、今日の箇所も一つの転換期になっています。
一つ前の章、8章29節で「あなたがたは、私を何者だと思うのか?」という問いに、ペトロは「あなたは、メシアです」と答えました。メシアとは油そそがれた者という意味です。かつてダビデ王も、神様に油注がれた者として特別に聖別されたイスラエルの王でした。おそらくペトロのメシア像とは、そのようなイスラエル民族を導くユダヤの王のようなイメージだったのでしょう。しかし、それはあくまでも人としての権威でした。イエス様は「サタン、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」と言われたのです。「神のこと」「人のこと」ここが一つの転換点です。「人のこと」ではなく「神のこと」です。 イエス様は続けて9章1節で、ここにいる者は、神の国が力に溢れて現れるのを見ると言われ、それから1週間ほどが経ったのが今日の聖書箇所です。

Ⅱ.イエスの姿が変わる

2節、六日がたちました。イエス様は弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山に登られました。「すると、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、衣は真っ白に輝いた。それは、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほどだった」のです。いつも一緒に旅をして寝食を共にしていたイエス様が別人のように輝いたのです。さらにエリヤとモーセが現れて語りはじめた。モーセは創世記や出エジプト記など、モーセ五書といわれる、書を書いた人物です。エリヤも旧約聖書の預言者の代表です。つまり旧約聖書の預言を成就する方としてイエス様が話しているのを弟子たちは見たのです。そこに雲の中から声がしました。「これは私の愛する子。これに聞け」という天からの声です。ペトロたちは、この時に初めて天からの声を聞いたのだと思います。人からの声ではなく天からの声が「これは私の愛する子」と言った、そして「これに聞け」と言ったのです。
弟子たちは慌てて見回すと、そこにはイエス様が一人立っておられました。
これまで一緒に過ごしてきたイエス様が、この世のものと思われない姿で、旧約聖書の預言者と話しをしている。天の声が「これは私の愛する子」と言われた。これまで「人のこと」を思っていた弟子たちに、「神のことを思いなさい」と教えたイエス様は、人であると同時に神の子メシアです。このイエス様の言葉を聞きなさいと、天の声はメシアについて明確に示されたのです。

Ⅲ.神の性質に触れる

二性一人格という言葉があります。イエス・キリストは「神の性質」と「人の性質」の二つの性質をもたれる方です。100%「神」であり100%「人」です。
そのことが今日のこの短い出来事の中に描かれています。イエス様は人として三人の弟子を山に連れて行く、山に登ると姿が変わり神としての姿をまとってエリヤ、モーセと語りあっています。そこで天からの声が「これは私の愛する子」と、神の性質(神性)がはっきりと示されました。その後「イエスだけが彼らと一緒におられた」といって、再びいつもの人としてのイエス様が描かれています。この出来事は「六日の後」とありました。9章1節でイエス様が、ここにいる人が「神の国を見る」と言ってから六日です。それはおよそ一週間で、毎週日曜日の主日礼拝に行くことを指しているかのようです。一週間ごとの礼拝に山を登るように教会へと行って、旧約聖書・新約聖書に語られている「これを聞け」と説教を聞くわけです。ペトロたち三人の弟子たちは、山で礼拝に与るような恵を体験したのです。
9節以降には、礼拝の帰り道、イエス様と弟子たちが、今見たことを語り合っている様子があります。イエス様の言葉を心に留めて、復活のことを話し合いました。ペトロたちは礼拝によって心のどこかに変化が起こったのです。イエス様の姿が変わったように、人知を超えたイエス様の神という超越性に触れると、人の心の何かに変化をもたらします。1節でイエス様が、ここにいる人が神の国が力に溢れて現れるのを見る、つまり「神の国を見る」とおっしゃったのですが、それがこの山上で起こった出来事です。ペトロは「ここにいることは素晴らしいことです」と、神の超越性に触れた礼拝の素晴らしさを告白しています。力に溢れる神の国、それが礼拝です。わたしたちの信仰生活の中心である主日の礼拝は、私たちに変化をもたらす素晴らしいものです。
しかし、この2年は礼拝に集うことが難しい2年間でした。神の国を味わうことが難しかったのではないでしょうか。コロナウイルスによって教会に行かない日曜日を過ごすことが増えました。オンラインだけの礼拝の日々が続きました。今日の聖書箇所にイエス様と弟子が「高い山に登られた」とありますが、教会が「高い山」になっている人が多いのではないでしょうか。家にいた方が見やすいし、聞きやすいし、移動もしなくていいから、教会という山が高く感じてしまっているかも知れません。特別な事情を補う意味でのオンライン礼拝は必要なのですが、神の呼びかけで人が集まるというのが、「エクレシア」(ギリシャ語)という教会の本来の意味です。コロナが収束した後の課題として、教会に集うこと、礼拝の意味を見つめ直す必要があるように思いました。

Ⅳ.「出ておいでよ」

金曜日のノア会という集会で作家、三浦綾子さんの代表作『氷点』の話をしました。小説の主人公の名前は陽子といいます。小説の最後の所で陽子は自殺を図ってしまうのです。当時、この小説は新聞に連載されていて「陽子を死なせないでくれ」という投書が殺到したそうです。小説では陽子の命はなんとか食い止められたのですが、それは投書とは関係なく著者は陽子の命を亡くしたくなかったそうです。実は三浦綾子さんの実の妹の名前が陽子なのです。妹の陽子ちゃんは6歳の時に結核にかかって容態が悪くなった時、当時13歳だった三浦綾子に「お姉ちゃん、陽子死ぬの?わたし死ぬの?」と呟きながら死んでいった。姉の綾子さんは胸が潰れるような痛みを拭い去ることができなくて、妹への愛おしさのあまり幽霊でもいいから陽子に会いたいと思って、家の近くの暗い所に行っては「陽子ちゃん出ておいで」と呼んでいたそうです。
妹に出て来て欲しい、その思いが小説の中に織り込まれていたそうです。「出ておいで」というのは三浦綾子さんの口癖のようなものだったそうです。小説家になる以前は小学校の先生をしていました。教え子のある生徒が学校に行けなくなった時期があったそうです。その子の家へ三浦綾子先生が大福餅を持ってやって来て「出ておいでよ、学校に出ておいでよ」と言ってくれたそうです。教会で家庭集会に誘う時の口癖が「家庭集会があるから、出ておいでよ」と誘っていた。
三浦綾子さんは結核にかかり13年も闘病していました、まさに病室にこもっていたのです。そこに、あるクリスチャンの男性がやって来てキリストと出会わせてくれた。まさにそれは三浦綾子にとって、神様からの「出ておいでよ」の声でした。

わたしの妻にも『氷点』にまつわる話があります。妻は中学生の時バスケット部に入っていてキャプテンだったのです。自分はバスケット部のキャプテンという責任感とアイデンティティが強すぎて、部活が終わった中学3年の時バーンアウトしてしまって、生きる意味を見失ってしまったのです。そんな時、家でお姉さんが持っていた本を、ふっと手に取って読んでみた、それが小説『氷点』で「そうだ部活に夢中で、最近教会に行っていなかったから、また教会に行こう」と立ち返ったというのです。また教会に行こうとしたきっかけが『氷点』でした。それが妻にとっては、バスケが終わったら教会に「出ておいで」という呼びかけだったのです。

Ⅴ.礼拝の恵み

ペトロとヤコブ、ヨセフの三人は、山上でイエス様の姿が変わる様子を目の当たりにしました。それは旧約の預言がイエス様によって成就するという素晴らしいものでした。「これは私の愛する子、これに聞け」という言葉に従って御言葉の真理を受け取る礼拝を体験したのです。人としてのイエス様との関係から、神としてのイエス様に触れる転換点となりました。その礼拝の帰り道、三人はイエス様を囲んで御言葉を分かち合いました。そして次の一週間の生活の場へと遣わされて行くように、山を下りていきました。
今日は礼拝についてイエス様の変容の出来事を分かちあってきました。神様の求める礼拝というのは、頭や心の中だけのことではありません。神様からの「出ておいで」という呼びかけにこたえて、この体で献げていきたいと思うのです。最後に使徒パウロの御言葉を分かち合って終わります。
「こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによって あなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる 聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかを わきまえるようになりなさい」(ローマの信徒への手紙12章1‐2節)
お祈りをいたします。