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主日共同の礼拝説教

神の愛を実感する交わりづくり

和田一郎副牧師
ヨハネの手紙一4章19節
2020年12月27日

Ⅰ.コロナウイルスが変えたもの

今日は2020年最後の礼拝の日となりました。毎年この日は、その年の主題聖句から一年を振り返っています。今年の主題は「神の愛を実感する交わりづくり」でした。「交わりづくり」そのことを大切にしようとした年に起こったのが新型コロナウイルスでした。あっという間に世界中に拡大して世界で170万人の命が失われていますが、これは広島の原爆で命を落とした方の数の12倍。つまり原爆12個分以上の命が世界で失われると誰が予測できたでしょうか。私たち高座教会でも、かつてない特別な一年であったと思います。3月末から約3か月はオンラインだけの礼拝となり、日曜日に教会がひっそりとしているというのは教会始まって以来の特別な経験でした。礼拝堂に集まることを禁止せざるをえないことで私たちは悩み、オンラインでいいのだろうかという葛藤を続けてきました。
しかし聖書を見ますと状況に応じて礼拝を守っていたことを知ることができます。たとえば礼拝の場所について、旧約聖書の人々はいつもエルサレムの神殿での礼拝が本当の礼拝だと当たり前に思っていた。しかし、バビロン捕囚となって外国に連れて行かれた人々は、行ったその国で礼拝を続けました。それは、やがてキリスト教の教会の元となっていきました。また、ダビデが命からがら逃亡している時、祭司の他には食べてはならない礼拝用のパンを分け合って命をしのぎました。それをイエス様は「人が安息日のためにあるのではない。安息日は人のために定められた」といって安息日の規定より、人の命を優先されました。これらのことからも、私たちは伝統的なスタイルを守ることよりも、まず尊い命を優先します。神様から預かっている尊い命を大切にしながら、どのような礼拝と信仰生活を守っていけばよいのか、考え続けなければなりません。
新しいスタイルを柔軟に考えることは、宣教の機会を広げるきっかけとなることを感じています。特にコロナ渦とは関係なしに、礼拝に行くことが困難となった高齢の方や、健康、仕事、家庭の事情で思うように礼拝に行くことのできない方もいて、その事情は多様化しています。ですから、この機会に宣教のスタイルを工夫することによって、宣教の幅が広がっていくのではないかと思います。

Ⅱ.今年の主題「神の愛を実感する交わりづくり」

しかし、教会では変えることのできないものも多くあります。その中の一つが、教会における交わりづくりです。今年の主題は、「神の愛を実感する交わりづくり」です。そして聖書箇所はヨハネの手紙第一4章19節です。「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです」
この御言葉で鍵となる言葉が「まず」という一言です。私たちの愛と、神様の愛には違いがあります。私たちの愛には不完全さがありますが、神の愛は完全な愛です。その神の愛が「まず」先にあるというのです。人間は生まれてから親の愛の中で育ちます。幼い時の親の愛がなければ自分を愛することも、他人を愛することもできません。同じように、神様は、私たちが生れる2千年も前に、ご自分の独り子イエス様をこの世に送り、十字架にお掛けになりました。私たち人間の罪を取り除くためでした。つまり、私たち人間を救うために大切な独り子を犠牲にしたのです、そこに私たちに対する愛がありました。
私たちはこの愛に触れるまでは本当の愛を知りませんでした。男女の愛とか親子の愛とは違うさらに深遠な愛、すなわちイエス・キリストの犠牲において神が私たちを愛してくださった。その本当の愛が、まず先にあるから私たちは神を愛し、自分を愛し、他人を愛することができるのです。世の中には神の愛を知らずとも、隣人に愛を示している善良な人がいます。しかし、人間の中からでる愛は不完全です。なぜなら人間は自己中心という罪、自分という不完全なものから出てくるからです。
「まず、神がわたしたちを愛してくださった」それを知るところから本当の愛が現れていきます。隣人を愛すること、交わりを大切にすることは、信仰において愛するということです。これが聖書に記されている神の掟です。
隣人への愛の第一歩はその人に関心を持つことですし、もう一歩先にあるのが共感を持つということです。共感というのは同情ではありません。「同じことが、私にもありうるな」と考えることです。今年は、まさに他人に関心をもち共感することの大切さを知った年ではないでしょうか。「神の愛を実感する交わりづくり」というテーマはコロナがなくても大切なテーマでしたが、コロナ渦にあって「神の愛を実感する交わりづくり」がないと生きていけないと思わされるのです。「人が独りでいるのは良くない」と神様が言われたように、交わりの中で生きるということは、命に関わることなのだと思わされるのです。
私は施設や病院を訪ねることが、すべてできなくなりました。入院、入居されている方は家族との面会もできない状況にあります。しばらくの我慢だと思いましたが、人と会えない寂しさが一層深刻になってきていると思わされます。今年もいくつかの葬儀がありましたが、施設に入居していた方が、家族と面会ができなくなってから元気がなくなっていったという話を聞きました。逆に、教会では祈り会とか家庭集会という小グループがたくさんあります。メンバーとの付き合いが、数十年続いているグループがあります。コロナになって人とはなかなか会えないけれども、教会の小グループの仲間が連絡をくれる、時々訪ねて来てくれる。それがかけがえのない、大切な生きる力になっているという話を耳にします。まさに神の愛を、交わりの中で実感されているのではないでしょうか。

Ⅲ.「人が独りでいるのは良くない」

ローマ皇帝フリードリッヒ二世の実験というエピソードを知りました。生まれたばかりで捨てられた赤ちゃんを、話しかけたり、あやしたり、目を合わせたり人間的な接触を禁じたら、どんな言語を話すのだろうと実験したというのです。しかし、赤ちゃんたちは、大きくならないうちに全員死んでしまったというのです。愛情や人間的出会いがないと、人間は生きることができない。「人が独りでいるのは良くない」という、創世記にある神の言葉の意義深さを認識させられます。
イエス様は、ある町に来られた時に、ザアカイという人を見つけました。ザアカイはお金はあるが友だちがいなかった。町の嫌われ者だったのです。そんな状態から、這い上がろうとしていたと思います。そんなザアカイにイエス様は声をかけた。「今日、あなたの家に泊まることになっている」と言われてザアカイの友人になられた。ザアカイと友人になるということは、彼に共感して共に重荷を負うことです。
ザアカイがもっていた寂しさを、自分も受けるということです。ザアカイはキリストの愛を受けました。そして、他人を愛する心が芽生え、人生に変化が起こりました。町の嫌われ者の心の奥に隠れていた寂しさ、それを知ってくださり、関心をもち、共感してくださったのは、その日初めて町にやって来て声をかけてくれたイエス様でした。神が、まず、私たちを愛してくださった。

Ⅳ.寂しさへの関心、共感、愛

私はいつも3歳の息子とお風呂に入ります。ある日、楽しく風呂に入っていると息子が急に静かになりました。思い詰めたような顔をしているのです。「どうしたの?」と聞くと「なんでもない」とポツリと言って、泣くのを我慢していたのですが、風呂から出ると大声で泣き出してしまったのです。「どこか痛いの?」「怖いの?」「嫌なことあったの?」あらゆる質問をしていって、やっと「寂しいの?」という言葉に初めて「うん」と言いました。何が寂しいのだろうと聞いていきました。すると「幼稚園が寂しい」と言うのです。来年の春から幼稚園に入るために保護者の説明会に行った時、息子はてっきり楽しく遊べると思っていた幼稚園で、保護者との入園手続きなどの話を横で聞かされるだけで、自分が置いてきぼりになった気がして寂しかったようなのです。春から幼稚園に行ったらまた、そんな寂しい思いをさせられると思ったのでしょうか。記憶の中にある出来事で、心がいっぱいになるというのを見たのは、親としては初めてで、心が育っているのだと思いました。これから大人になっても、寂しいという感情は続きます。寂しさは周りに人がいても感じるものです。いや、人の中にいればこそ、自分は関心をもたれてない、共感してくれる人が、誰もいないと感じた時に、寂しいという感情は湧いてきます。
今、私たちの周りには、たくさんの「寂しい」という思いがあるのではないでしょうか。コロナによって、その寂しさは精神的にも肉体的にも厳しさを増しています。イエス様はザアカイの寂しい思いを知って、声をかけてくださいました。ザアカイはその愛を実感した時、他人を気遣う思いが湧いてきました。それが、神の愛を実感する交わりづくりの第一歩です。私たちは、信仰において寂しい思いに関心をもつことができるはずです。信仰において共感する、信仰において愛することができます。イエス様が愛したように、私たちも愛し合いたいと思うのです。「私たちが愛するのは、神がまず 私たちを愛してくださったからです」。お祈りしましょう。

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聖書と生きる

和田一郎副牧師
申命記6章1-9節 テサロニケの信徒への手紙二2章1-2節
2020年11月22日

Ⅰ. 動揺の原因

パウロは、テサロニケの町に行った時に、再臨の時がくると説明していました。町を離れてからも手紙で再臨について教えていました。テサロニケの人々は、その時がいつ来るのかということが気がかりでした。多くの人がその日は近いと思い、中にはもう再臨の日が来るのだから働く必要はないという人までいました。一方で、再臨はもうすでに起こったと言う者さえ現れたとあります。パウロは動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしいと、噂話に扇動されて驚かないようにと、この手紙で伝えています。
確かにパウロはローマ書や、フィリピの手紙で「主の日が近い」といったことを伝えています。しかし、それは現実の時間的な近さというよりも、その日が必ず来ること、そして、その日が来るまでに今やるべきことを強調していたのです。しかし、それでもそのことを正しく理解しない人がいました。再臨の時が「すぐ来る、すぐ来る」と言いながら、いつまでたっても来ないとなれば、それはやがて失望となるでしょう。ですから、正しい聖書の読み方、解釈の仕方というものはとても大切なことです。
信仰生活は、聖書の言葉を正しく理解して、理解した教えに従って生きていくということです。しかし、そもそも聖書の解釈に誤解や間違いがあるならば、それはとんでもないことになってしまいます。テサロニケの人々の中には、そのように聖書の正しい理解が足りなくて、動揺したり分別を無くす人があったのです。

Ⅱ. 聖書の読み方【聖書は神の言葉】

聖書をどのように読むのか、どのように解釈するのか、キリスト教会はそのことを2千年のあいだ、ずっと取り組んできました。聖書を正しく理解するうえで大切にしたいことの中で、今日は二つのことを考えたいと思います。
1つ目は「聖書は神の言葉である」ということです。聖書には聖書が神の言葉であると書いてあります。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(テモテへの手紙3章16節)。聖書は神の言葉だと言っても書いたのは人間です。しかし、その著者一人一人は神の霊に導かれて、神の知恵によって書かれた書物だということです。これはイエス様も、おっしゃっていました、最後の晩餐の席で弟子達に、そうなると話していたのです。「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ福音書14章26)と弟子たちに言いましたが、その通りに弟子達は聖霊の力をかりて、イエス様がおこなったこと、言われたことを思い起こして書き残し、それが聖書になりました。
しかし、疑い深い人達はいつの時代でも存在します。聖書をただ神の言葉として鵜呑みにするのではなくて、もっと人間個人の独自性を尊重した読み方をしようとする人たちがいました。明治時代、日本にもそういった神学が入ってきました。例えば創世記や出エジプト記などモーセが書いたモーセ五書も、別々の資料を後の人たちがまとめたものだとして、聖書を分解して解釈しようとする研究があります。唯一の神の御言葉であるという、上からの啓示としての聖書観とは違うアプローチです。研究としてはとても大事な取組みですが、そういったことから派生して、聖書をここは神の言葉、ここは間違っているというように、聖書の読み方が研究者ごとに多様になってしまいます。宇田進先生という神学者は、そういった聖書批評について「知的な深まりと、エリート性が、それと引き換えに一般の人々との接点を失ったばかりでなく、宣教のスピリット、信仰のエネルギーを喪失させてしまった」と評していました。つまり、聖書を研究資料にしてしまって、わたしたちの救いや日常生活とは関係ないものにしてしまうのです。パウロも主張しています、「あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです・・・事実それは神の言葉であり、信じているあなたがたの中に現に働いている」(テサロニケの信徒への手紙一2章13節)。聖書の言葉は神の言葉として受入れて、はじめて心や体の中で生き生きと働き始めるのです。

Ⅲ.聖書の読み方【聖書は文脈で読む】

もう一つ聖書の読み方で大切にしたいのは、「聖書は文脈で読む」ということです。文脈というのは、前後の文章の流れのことです。つまり、どこか一部の言葉をつまみ出して理解してはいけないということです。もっと言うならば、その書を書いた著者の意図や著者がその書全体で言わんとしていること、そして当時の時代背景などから理解するということを、文脈から理解するといいます。その書を書いた著者の立場に立って、その場所や時代の背景や文章の前後で語られている内容から解釈しないと、間違った理解をすることになります。そうでなければ、人は自分が感じたままに理解しようとします。それも実は大切なのですが、しかし、人は大抵自分の経験に引き込んで理解しようとします。そして、何よりも文脈から理解しようとしなければ、聖書のある部分の言葉を、自分勝手に利用しようとします。
パウロは今日の聖書箇所で、どのような背景から何を言わんとしたのでしょうか。2節を読んでみましょう、再臨についてです。「主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」。つまり、再臨がいつ来るのか、ということで動揺している人たちに向けた、パウロのメッセージです。それは、第一のテサロニケの手紙にその背景があります。テサロニケの手紙一5章1節でパウロは再臨について言いました。「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。・・・(6節)従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」というメッセージをパウロは手紙で送っていました。イエス様もマルコによる福音書13章の最後の晩餐の席上で、再臨について語った教えがあります。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。・・・(35)だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」(マルコによる福音書13章32-37節)。
いかがでしょうか、どちらもここで言わんとしているメッセージは、「目を覚ましていなさい」ということです。再臨の日がいつ来るのかではなく、目を覚まして、今を生きることがメッセージのポイントです。イエス様は、ご自分がまた来られる、その再臨までの間、わたしたちの生活の在り方を教えてくださいました。パウロのメッセージも同じです。実はマルコによる福音書を書いたマルコとパウロは、一緒に第一次宣教旅行に行きましたから、イエス様が伝えた再臨についての教えも、パウロは聞いていたのではないかと思いました。

Ⅳ.「ウィズバイブル ウィズコロナ」

そして、この「目を覚ましていなさい」というパウロのメッセージは、テサロニケの人々を越えて、今を生きる私たちにも向けられているメッセージです。今日の聖書箇所の2節後半にあるように、動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないで欲しい、とありますが、コロナ渦にあっても動揺しないで聖書からのメッセージを正しく受け取って生活していきたいと思うのです。
今日のパウロのメッセージを受けて、ぜひ皆さんにお勧めしたいのが聖書を通読することです。通読は自分の意思とは関係なく、上から降りてくる啓示が、その日その日で与えられると思います。このコロナ渦にあって是非チャレンジしてみてはいかがでしょうか。
「聖書と生きる」ということは「目を覚まして生きる」ということの大きな土台になります。そして、目を覚まして生きるキリスト者には、このパンデミックを収束につなげる役割も期待されているのではないでしょうか。大切な人を失う悲しみに世界が覆われている中で、信仰による心の救いは、今このとき、いつにも増して重要です。
「ウィズバイブル、ウィズコロナ」ウィズバイブルがあってこそ、ウィズコロナという新しいスタイルの生活にも光が灯ります。聖書の力に確信をもって生活の場で目を覚まして生きていきましょう。お祈りをいたします。

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神の前での善

和田 一郎 副牧師
テサロニケの信徒への手紙二1章11-12節
2020年10月25日

Ⅰ.善い行い

今日与えられている聖書箇所は、パウロがテサロニケの教会の人たちのために、祈っている箇所です。11節に「善を求める」とあります。テサロニケの人々が、今現在、善を行っている、またこれからも善を行おうとしている、その願いが成就しますように、というパウロの祈りになっています。わたしたちの生活の中でも、善い行いをすることは広く奨励されています。昔から日本の中でも大切にされてきたことです。ですからクリスチャンでなくても善い行いをしているという人は沢山いるでしょう。では仏教や学校で教えていることと同じですかと聞かれれば、それは、行っていることは同じに見えるかも知れませんが、クリスチャンは、すでに神様から頂いている恵みに対して応答しているのです。その応答として神様に喜ばれることをしています。と答えることになります。
今日の説教題は「神の前での善」としました。テサロニケの手紙は、終末の時について多く書かれています。生きている者も死んだ者も、すべての人がイエス・キリスト前で審判を受ける。自分の生き方を裁かれる、その時、神様に喜ばれ、「善」とされる事とは、いったいどんな生き方なのでしょうか。イエス様の求める善について考えていきたいと思います。

Ⅱ.旧約聖書 「それは極めて良かった」

旧約聖書、創世記1章には、天地創造の出来事の中で、ある言葉が繰り返し使われています。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった(創世記1章31節)。「善」という文字はありませんが、「神はこれを見て、良しとされた」と繰り返されていて、7日目には「それは極めて良かった」という言葉で終わります。原語では「良しとされた」という言葉が「善」と同じ言葉で書かれています。天地創造で造られた海や山などの自然も人間も「良し」とされた。しかし、大切なポイントは、それら、そのものが本来的に良いとか善なのではなく、善である神が作られたから「善」とされたのです。神様は、「愛」そのものであり、「聖なるもの」そのものであり、「善」そのものの神です。善はなによりもまず神御自身であり、神のなされる業を意味しています。
わたしたちカンバーランド長老教会の信仰告白にも次のような言葉があります。
「人間とすべての被造物に対する神の意思は、全く賢く善なるものである」(信仰告白1.08)。今を生きる私たちが、命を与えられた時「それは極めて良かった」と言って造られた、神の善が表わされています。

Ⅲ.新約聖書 金持ちの青年

「神様にとっての善とはいったい何だろう」と同じ疑問をもった人が新約聖書においてもいました。あの「金持ちの青年」と呼ばれる人です。
「さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである」(マタイ福音書19章16-17節)。
ここで、青年は「どんな善い行いをすれば?」と聞いたのに対して、イエス様は「善いお方は神様だけです」と答えたのです。答えになっていないようですが、それが核心です。行いではなくて在り方だとイエス様はおっしゃった。それがこの話のポイントです。
この青年は言うなれば、世間一般の善い行いをする人と同じ考えで良いことをしてきたと言っていいと思います。少し違うのは、彼はユダヤ人でしたから、十戒という律法を守っていて、父母を敬いなさい、嘘をついてはならない、隣人を自分のように愛しなさいなどの律法に従って、善い行いをしていました。青年は自分のことばかり見ていたのです。自分が善いことに積み重ねてきたこと、そしてもっと積み重ねていくことです。悪いことではありません、とても良い考えです。しかし、それは不完全です。人はどんなに賢くて経験を積んでいても不完全であることに変わりはありません。不完全な自分ばかりを見つめているこの青年の目を、イエス様は、全き善である神様の御心に向けさせようとしたのです。自分がどういう善い行いをすればいいのか?ではなくて、ただ一人の善い方である神様を見つめ、その御心を求めていかなければならない。それが「なぜわたしを善いと言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」といわれた言葉の意味です。
さらにこの後、イエス様は、あなたがもっている財産を全て放棄しなさい、と言うのです。そうすれば「天に富を積むことになる」と言われました。つまり、本当の善というものは、神様の御心を求めるところから与えられるからです。
しかし、そうは言われても、神の御心を求めるということは本当に難しいことです。

Ⅳ.子どものように

その点でこの話は、この金持ちの青年の話の前の所で、イエス様が言った言葉と繋がりがあります。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マタイによる福音書19章13-15節)。子どもたちは、神の国に入るために、十戒に定められているような、「嘘をついてはならない」とか、「隣人を自分のように愛しなさい」といったことができません。隣人を愛するというよりは「わがまま」です。人の世話をするより、世話をやかせる存在です。そのわりに、走り回って遊んでいる時、時々振り向いて親の存在を探します。親の顔を見ると安心して遊びだす。親がいないと分かると泣き出す。それが子どもです。イエス様は私たちに「子どものようになって神の国を受け入れなさい」と言っておられるのです。それが、善を行なおうとするなら、子どものように善いお方の御心を求める、ということに繋がっていきます。
「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい・・・・・これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」(ルカによる福音書10章20―21節)
この御言葉どおり、わたしたちの存在が、天国に書き記される、それは知恵ある者や賢い人には隠されて、幼子のような人に示される。幼子のように純粋に神を求めることが神の御心だと言うのです。

Ⅴ.「知りませんでした」

先日、テレビドラマを見ていると戦争のシーンが映し出されました。主人公は歌謡曲の作曲家。彼は日本が戦争に入ると、作る曲も戦争に影響されるようになります。ある友人が「戦いに行く人の心に近づきたいと願いながら詞を書いた」と詩を渡されて、「お国のために頑張っている人たちを励ましたい」という思いが湧いてきました。音楽を通じて、戦う人の力になりたい、それが自分の使命だと思い込みます。そして「あなたの歌に励まされました、ありがとう」と感謝されて、次々と、戦地に赴く人を励ます曲を作曲していきます。そんな主人公は、自分が作った歌に影響を受けて戦地へ赴いた人たちに近づきたいと思い自分も戦地に行きたいと決めます。兵士を励ます慰問という形で向かった先はビルマの激戦地でした。その前線で、自分に音楽を教えてくれた学校の恩師に出会うのです。そして、楽器を使える兵士を集めて小さな音楽会をやることになりました。敬愛する先生や、兵士たちとの楽しいひと時、ところが、そこに敵軍の襲撃があり、一緒に練習をしていた兵士、そして、先生が銃弾に倒れる姿を目の当たりにします。静まり返った戦場には、若者たちの死骸がありました。生き残った主人公は、泣きながら「知らなかった」「僕は何も知りませんでした、ごめんなさい」と泣き叫んでいました。主人公が目の当たりにしたのは、生きるか死ぬか、それ以外に何の意味もない戦争の現実でした。人を励ますためにしたことが果たして良かったのか。あれは果たして善だったのか、知る術がありません。
今の世の中でも、良かれと思ったことが、人を傷つけているかも知れない。不完全な人間が言えることは「知らなかった」という言葉ぐらいではないでしょうか。
「正しい者はいない。一人もいない・・・善を行う者はいない。ただの一人もいない」(ローマ書3章11-12節)。そうであるならば、善を行う意味がどこにあるのでしょうか。
今日の聖書箇所、11節には「神が・・その御力によって・・・善を求める、あらゆる願い・・・を成就させてくださいますに」とパウロは祈っています。神が成就させてくださると言っているのです。不完全な人間は、その善い行いにおいても不完全です。成就してくださるのは、全き善である神でしかない。その神に委ねる。子どものように、しがみついて藁にもすがる思いで御言葉に従っていく先で、わたしたちの善は成就します。
イエス様は金持ちの青年に、行いではなくて神に目を向けさせました。人としての在り方を求めました。子どものように、神にしがみつく者、御言葉にすがりつく者でありたいのです。善い方はお一人である、その方の前に立った時、わたしたちの歩みを「それは極めて良かった」と、成就されることを願って、パウロの祈りに心を合わせて求めていきましょう。
お祈りをします。

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神の正義

和田一郎副牧師
創世記18章17-19節
テサロニケの信徒への手紙二1章6-10節
2020年9月27日

1、信仰をもったばかりのテサロニケの人々

パウロの宣教によって真の信仰をもったテサロニケの信徒たちは、町の人々から迫害されるという、苦しみを受けていました。しかし、いかがでしょうか。信仰をもったとたんに、苦しみを受けるというのは、本来の信仰を持つという動機からするとおかしなことになっていると思うのです。何らかの救いを求めて信仰をもったのに、この神様を信じたが故に、苦しみを受けてしまっては本末転倒のように思われます。わたしたちにも心当たりがあります。クリスチャンになったとたんに、家族や友人との関係がギクシャクしてしまうということも、あるのではないでしょうか。

2、神の正義

今日の聖書箇所6節でパウロは「神は正しいことを行われます」といってます。聖書には「正義」とか「義」という言葉がよくでてきます。キリスト教用語といってよい言葉です。聖書において「義」というのは道徳的な正しさや、社会正義という意味を越えて「神の正しさ」という意味で使われます。神は、「良いこと」と「悪いこと」を正しく聖別してくださる。神様がよしとされることを「神の義」といいます。
6節―7節「神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださる」。とあるように、神様は正しいことをするので、報いてくださいます。それも、苦しめる者には苦しみをもって報いてくださるというのです。わたしたちは「悪をもって、悪に報いてはなりません」という信仰をもっています。悪に対して悪をもって抵抗してはならない、ではその悪は野放しなのかというと、そうではない。
良いことを良しとし、悪いことを悪と定める神様は、正しく悪を裁かれます。裁くのは人ではない、神さまが相応しい時に、相応しい形で裁いてくださいます。
「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」(ローマの信徒への手紙12章19節)
そして、苦しみを受けている人への報いは「休息」が与えられるといっています。それも「わたしたちと共に休息」を得られるのですから、遠く離れているパウロたちと共に、同じように苦労の報いとして休息が与えられる。
しかし、その報いとは、いったい何時になるのでしょうか。それが書かれているのが7節後半、「主イエスが、力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現」するのです。つまり、再臨の時、終末の時に報いが実現するとされているのです。
イエス様がもう一度来られることを「再臨」と言います。ちなみに、再臨に対して最初に来られた時は「初臨」と言います。家畜小屋でお生まれになった、最初にイエス様が来られた時は「初臨」。そしてもう一度、来られる時を「再臨」。私たちは今、「初臨」と「再臨」の間に生きています。「初臨」の時は、家畜小屋にひっそりと貧しさの中に来られましたが、「再臨」の時は8節にあるように「燃え盛る火の中を来られる」とあります。つまり、栄光を帯びて来られるという輝かしい出来事として来られるのです。イエス・キリストご自身が言いました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くといったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」(ヨハネによる福音書14章1節―3節)、と言われました。行ってあなたがたのために場所を用意したら戻って来る、それが再臨です。
その時になされることは最後の審判です。義なる神様が、最終的に良いものを良しとし、悪いものを悪として罰する時です。8節にあるように、主イエスの福音に聞き従わない者に、罰を与えます。彼らは、イエス・キリストの前から退けられ・・・切り離され・・・永遠の破滅という刑罰を受けるという厳しい裁きです。わたしたちが信仰する主イエス・キリストは、正しいことを行われます。これが神の正義です。

3、終末の希望

この再臨の知らせを、送られたのは、迫害に苦しんでいるテサロニケの人々に対してでした。彼らは救いを求めて、キリストを信じる信仰を持ったと思ったら、それ故に苦しみを受けてしまった。そこで彼らは信仰を捨てたのでしょうか。そうではありませんでした。それどころか3-4節にあるように、テサロニケの人々は、迫害と苦難の中で忍耐と信仰を示していた。信仰が大いに成長し、豊かになっていたのです。
わたしたちキリスト者が信仰を守ろうとする時、サタンの妨害があります。二千年もの教会の歴史を通して、時代を問わず、国や地域を問わずありました。そして、2020年を生きる私たちの生活の中でも、信仰生活を阻もうとするものがあります。今年の教会の主題は「神の愛を実感する交わりづくり」です。交わりを求めて、歩み始めたところでコロナ渦という事態が起こりました。ある牧師がいったのです。「私たちの住むこの世界というものは、川上にあるキリストに逆らって流れる川の流れのようなもの。流れに乗って楽にいこうとすれば、下流に向かって流れていく。川上のキリストに向かって進もうとすれば、一生懸命に漕がねばならない。頑張って漕ぐ必要がある、そこには闘いがある、闘いがあるというのは、それだけ私たちが神から離れているからだ」というのです。闘いや苦難のない信仰生活をしようとすると、私たちは下流に流されます。この世に流されて堕落していきます。イエス様は言いました「あなた方は世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい」(ヨハネによる福音書16:33)。わたしたち人間の堕落は、むやみに苦難を避けて楽な方を選ぼうとするところから起こります。川の流れに乗っかって、聖書から離れていく、教会から離れていくようにサタンは働きます。苦難や患難の中で、神を信じていくことはどうすればできるのでしょうか。パウロは主の再臨を信じなければできることではないといいます。10節「かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。それは、あなたがたがわたしたちのもたらした証しを信じたからです」。それは、テサロニケの人々が、パウロたちのもたらした再臨の希望を信じたから、その日、全世界が主の御名を褒めたたえ、彼らも聖なる者として加わることができるのです。イエス・キリストが再び地上に臨まれる時、キリストの前に立つことが赦されている、神の栄光に加わることができる、その信仰だとパウロは言うのです。

4、新しい旅立ちの時

再臨というできごとは、わたしたちが生きているうちに起こるかも知れませんし、死んだ後のことかも知れません。わたしが、まだ幼かった時「人間はいつか死ぬ」ということを知って落ち込んでいたことがあります。ある夏休みに、いとこのいる親戚の家に泊まりに行きました。叔父が、子どもたちを連れてレストランで夕食を食べようといってくれました。当時、わたしの家では、家族そろって外食するということが、ほとんどなかったので、何か特別で贅沢なことのように思いました。食事が運ばれてきて嬉しいどころか、幸せだなと心がいっぱいになっていました。あまりに幸せな思いになったせいか、その頃心の中に引っかかっていた「人間はいつか死ぬ」ということを思い出したのです。人間は誰でもいつか死んでしまう。それが自分の死のことではなくて、母親もいつか死んでいなくなってしまう日が来るのだろうか、と思ってしまったのです。そして、レストランで自分だけ幸せな思いをしていいのだろうか、嬉しくて胸がいっぱいになって泣き出してしまったのです。困ったのは叔父さんだったと思います。なんで泣きだしたのか分からなかったでしょう。人は死んだらなにもない、暗闇のようだと子どもの頃から、教えられるでもなしに、そう思っていました。
私が「母親もいつか死んでいなくなってしまう」と泣いていた、その母は私が25歳の時に病気で亡くなりました。しかし、母は強い信仰をもって天に召されました。母は自分の死のことを「天国への新しい旅立ちの時」と記していました。そこに、死んでいなくなるという思いはありません。死を目の前にしても誰よりも穏やかに、誰に対しても優しく、死の先にも希望があるという信仰に生きていました。
神は正しいことを行われます。苦しめている者には苦しみを、苦しめを受けている者には休息を。正しく報いてくださる神様。神は正しいことを行われます。 お祈りをいたします。

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主日共同の礼拝説教

祝福の祈り

和田一郎副牧師
詩編37編21-31節
2テサロニケ1:1-2節
2020年8月23日

1、テサロニケの町と使徒パウロ

パウロがこの第二のテサロニケの手紙を書いたのは、第一の手紙を書き送ってから、間もなく書いたようです。テサロニケという町は、今でもギリシャの中ではアテネに次いで2番目に大きい都市でテッサロニキと呼ばれています。当時はマケドニア州の主要都市でした。マケドニアというのは、世界史に出てくるアレキサンダー大王が世界帝国を築き上げた国です。パウロの時代にはマケドニア王国はローマ帝国の支配下になっていて、ローマ帝国の支配下にあるマケドニア州となっていました。ローマの影響を強く受けてローマ皇帝に対する尊敬と忠誠心が強かったのです。皇帝の銅像が置かれ、ローマ皇帝を祭る神殿がありました。つまり皇帝礼拝が行われていました。ですからクリスチャンたちが、皇帝礼拝を拒否したならば、反社会的な人々とも思われかねないことでした。
パウロはかつてそのテサロニケの町に行って宣教をしました。その時ヤソンというユダヤ人と出会って、彼の家に滞在したのです。パウロは彼の家やシナゴーグと呼ばれる会堂で説教をしてイエス・キリストの福音を伝えました。誰にも経済的負担をかけまいとして、昼も夜も天幕作りの仕事をしながら生計を立てて伝道しました。テサロニケの教会の中には、イエス・キリストの再臨の時は近い、この世の終末は近い、だからコツコツと働く必要はないと、仕事を怠ける者がいたのですが、パウロは自分が模範となって天幕作りの職人をしながら伝道したのです。そこから「働こうとしない者は、食べてはならない」という言葉が第二の手紙に書かれていて、それが「働かざる者、食うべからず」という諺となりました。これは、再臨の時まで自分に与えられた仕事をしっかりして、信仰生活を守りなさいという教えです。
パウロがテサロニケの町で、福音を伝えたことによって教会が形成されました。しかし、それを妬んだのはユダヤ教のユダヤ人たちでした。ユダヤ人たちはパウロを滞在させていたヤソンの家を襲撃したのです。しかし、ヤソンはパウロをかくまいました。そのおかげでパウロたちはテサロニケの町から逃げてきました。パウロたちがコリントの町にたどり着いてしばらく滞在している頃「テサロニケの信徒は、迫害にあってもパウロの教え通りにしっかり教会が保たれているらしい」という知らせを聞いて、いてもたってもいられずに書いた手紙が、この二つのテサロニケの信徒への手紙です。
この二つの手紙は何について書かれているのでしょうか。それは、キリストが終末の時に、再び地上に来られる「再臨」について書かれているのが特徴です。ですから二つの手紙は「再臨書簡」と呼ばれています。再臨の時までにキリスト者がどのように生きていくべきか。その信仰生活について述べられています。
よく「人は生まれたときから、死に向かって歩んでいる」と言います。人生のゴールは死であると。しかし、この手紙は死に目を向けながらも、今をしっかり生きること、再臨というゴールの時、主イエス・キリストが来られて永遠の休息、平安に入るという信仰をしっかりともちながら、今を生きなさいというパウロの教えです。
パウロは具体的に「働きたくない者は、食べてはならない」しっかり自分の仕事をしなさいと教えました。「仕事」は「仕える」という字を使います。仕えることが仕事です。他者に仕える、世の中に仕える、そして何よりもイエス・キリストに仕える者としてこの世を生きて、死の先にある再臨の時に平安の報いを受けなさいと、パウロはこの手紙で教えています。

2、祝福の源 アブラハム

今日の聖書箇所の2節は、祝福の祈りです。パウロがテサロニケの人々のために、祝福を祈っている箇所です。ここで「祝福」という言葉に注目したいと思います。祝福とは「神の愛によって恵みを与えられること」をいいます。神様に「祝福の源」と言われたアブラハムに与えられた祝福の言葉があります。
「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る』」(創世記12章1節‐3節)
この箇所では、「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」と書かれています。アブラハムによってすべての人々が祝福に入るというのです。確かにアブラハムに与えられた祝福はイサク、ヤコブ、そしてその子孫である12部族に及びました。そして、霊的なアブラハムの子孫である私たちにも、その祝福は受け継がれています。
パウロもキリスト者を迫害する呪う者から、キリストに出会って祝福する者となりました。パウロは説教や手紙で、人々を祝福しながら旅をしたのです。そして、テサロニケの教会は祝福され、今や他の教会の模範となって祝福する者となりました。祝福が周辺の町に受け継がれていったのです。
聖書が言っていることは、祝福はそこに留まらない、受け継がれていくということです。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(1ペトロの手紙3章9節)

たとえば祝福が受け継がれる例に幼児洗礼があります。神様はアブラハムに言いました。
「・・・あなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける」(創世記17:10)。契約とは「あなたによって祝福に入る」とアブラハムと交わした約束です(創世記12:3)。その「しるし」として割礼を受けなさいというもので、幼児洗礼は割礼が原型になっています。新約の時代には、神とアブラハムの約束(契約)の子孫として祝福の中に入る、その「しるし」が幼児洗礼によって表されています。教会と家族は、その子が「神の家族」となっていく責任を担うという大切な働きです。幼児洗礼も「あなたによって祝福に入る」という営みの一つとなっています。

3、イエス・キリストによる祝福

しかし、この祝福はイエス様が来られるまでは限られた人にしか与えられないものだと思われていました。人間的な目で見て立派な人、成功している人しか神様の祝福を受けられないと、神の御心を誤って理解されていました。そこにイエス様が地上に来られて、山上の説教で8つの祝福について話されました。「心の貧しい人々は、幸いである」と始まった言葉は「八福」と呼ばれている祝福の言葉です。「幸いである」とは、「祝福がある者」と訳していい言葉です。「心の貧しい人、悲しむ人々は、祝福があります」となります。「柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人、わたしのためにののしられ、迫害される人、あなたがたは祝福されています」と、イエス様は宣言されました。当時の常識では考えられない祝福の理解でした。人間の目で見て良い人も、悪い人でも、成功して見える人も、苦しんでいる人にも「祝福があります」と言われました。しかし、大事なのは理屈よりも、イエス様が「祝福がある、幸いがある」とされたから、幸いがあるということです。人から見れば不幸に見えても、イエス様が「幸いである」と言われるなら、それは幸いな人です。山上の説教では自分には幸いなどない、祝福には入れないと思ってきた人たちが祝福されたのです。彼らは祝福を受け取り、やがて祝福を受け継ぐ者となっていきました。

4、生きた祝福

わたしは山上の説教を聞いていて、今年の春に天に召されたN兄のことが思い出されました。N兄はずっと一人暮らしをされて、歳を重ねてからは施設に入居されていました。若い頃から脳梗塞の障害が残ってしまったので不自由が多かったと思います。Nさんが初めて行った病院で、「あらNさん?」と声をかけられたそうです。初めての病院でしたが、そこに他の病院でNさんの看護をしたことのある看護師さんが覚えていたというのです。Nさんはどこに行っても人気者でした。笑顔を絶やさずに、周りを和やかにする賜物がありました。長い間、障害を抱えて暮らしていたNさんは、人の目には豊かな人生には見えなかったかも知れません。しかし、ずっと信仰をもっていてイエス・キリストのゆえに「あなたは幸いです」と祝福された人でした。私はお見舞いに行った時、生きた祝福を見る思いでした。
山上の説教に集まった人たちのように、イエス・キリストを見上げて、キリストの言葉を受け入れる者は、その人の心の中に「幸いです」とイエス様は宣言してくださいます。その幸いは、自分に与えられた仕事を守り、死の先にある最終的な平安を信じて生活していく時、わたしたちの幸いは、隣人に受け継がれていくものです。
神様はアブラハムに「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」とおっしゃいました。私たちクリスチャンが、祝福に入った者として正しく立つ時、家族や周囲の多くの人を幸いなる者、祝福された者として導くようになります。この祝福を受け継ぐ者でありたいと願います。 お祈りをいたします。