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主日共同の礼拝説教

祝福の祈り

和田一郎副牧師
詩編37編21-31節
2テサロニケ1:1-2節
2020年8月23日

1、テサロニケの町と使徒パウロ

パウロがこの第二のテサロニケの手紙を書いたのは、第一の手紙を書き送ってから、間もなく書いたようです。テサロニケという町は、今でもギリシャの中ではアテネに次いで2番目に大きい都市でテッサロニキと呼ばれています。当時はマケドニア州の主要都市でした。マケドニアというのは、世界史に出てくるアレキサンダー大王が世界帝国を築き上げた国です。パウロの時代にはマケドニア王国はローマ帝国の支配下になっていて、ローマ帝国の支配下にあるマケドニア州となっていました。ローマの影響を強く受けてローマ皇帝に対する尊敬と忠誠心が強かったのです。皇帝の銅像が置かれ、ローマ皇帝を祭る神殿がありました。つまり皇帝礼拝が行われていました。ですからクリスチャンたちが、皇帝礼拝を拒否したならば、反社会的な人々とも思われかねないことでした。
パウロはかつてそのテサロニケの町に行って宣教をしました。その時ヤソンというユダヤ人と出会って、彼の家に滞在したのです。パウロは彼の家やシナゴーグと呼ばれる会堂で説教をしてイエス・キリストの福音を伝えました。誰にも経済的負担をかけまいとして、昼も夜も天幕作りの仕事をしながら生計を立てて伝道しました。テサロニケの教会の中には、イエス・キリストの再臨の時は近い、この世の終末は近い、だからコツコツと働く必要はないと、仕事を怠ける者がいたのですが、パウロは自分が模範となって天幕作りの職人をしながら伝道したのです。そこから「働こうとしない者は、食べてはならない」という言葉が第二の手紙に書かれていて、それが「働かざる者、食うべからず」という諺となりました。これは、再臨の時まで自分に与えられた仕事をしっかりして、信仰生活を守りなさいという教えです。
パウロがテサロニケの町で、福音を伝えたことによって教会が形成されました。しかし、それを妬んだのはユダヤ教のユダヤ人たちでした。ユダヤ人たちはパウロを滞在させていたヤソンの家を襲撃したのです。しかし、ヤソンはパウロをかくまいました。そのおかげでパウロたちはテサロニケの町から逃げてきました。パウロたちがコリントの町にたどり着いてしばらく滞在している頃「テサロニケの信徒は、迫害にあってもパウロの教え通りにしっかり教会が保たれているらしい」という知らせを聞いて、いてもたってもいられずに書いた手紙が、この二つのテサロニケの信徒への手紙です。
この二つの手紙は何について書かれているのでしょうか。それは、キリストが終末の時に、再び地上に来られる「再臨」について書かれているのが特徴です。ですから二つの手紙は「再臨書簡」と呼ばれています。再臨の時までにキリスト者がどのように生きていくべきか。その信仰生活について述べられています。
よく「人は生まれたときから、死に向かって歩んでいる」と言います。人生のゴールは死であると。しかし、この手紙は死に目を向けながらも、今をしっかり生きること、再臨というゴールの時、主イエス・キリストが来られて永遠の休息、平安に入るという信仰をしっかりともちながら、今を生きなさいというパウロの教えです。
パウロは具体的に「働きたくない者は、食べてはならない」しっかり自分の仕事をしなさいと教えました。「仕事」は「仕える」という字を使います。仕えることが仕事です。他者に仕える、世の中に仕える、そして何よりもイエス・キリストに仕える者としてこの世を生きて、死の先にある再臨の時に平安の報いを受けなさいと、パウロはこの手紙で教えています。

2、祝福の源 アブラハム

今日の聖書箇所の2節は、祝福の祈りです。パウロがテサロニケの人々のために、祝福を祈っている箇所です。ここで「祝福」という言葉に注目したいと思います。祝福とは「神の愛によって恵みを与えられること」をいいます。神様に「祝福の源」と言われたアブラハムに与えられた祝福の言葉があります。
「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る』」(創世記12章1節‐3節)
この箇所では、「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」と書かれています。アブラハムによってすべての人々が祝福に入るというのです。確かにアブラハムに与えられた祝福はイサク、ヤコブ、そしてその子孫である12部族に及びました。そして、霊的なアブラハムの子孫である私たちにも、その祝福は受け継がれています。
パウロもキリスト者を迫害する呪う者から、キリストに出会って祝福する者となりました。パウロは説教や手紙で、人々を祝福しながら旅をしたのです。そして、テサロニケの教会は祝福され、今や他の教会の模範となって祝福する者となりました。祝福が周辺の町に受け継がれていったのです。
聖書が言っていることは、祝福はそこに留まらない、受け継がれていくということです。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(1ペトロの手紙3章9節)

たとえば祝福が受け継がれる例に幼児洗礼があります。神様はアブラハムに言いました。
「・・・あなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける」(創世記17:10)。契約とは「あなたによって祝福に入る」とアブラハムと交わした約束です(創世記12:3)。その「しるし」として割礼を受けなさいというもので、幼児洗礼は割礼が原型になっています。新約の時代には、神とアブラハムの約束(契約)の子孫として祝福の中に入る、その「しるし」が幼児洗礼によって表されています。教会と家族は、その子が「神の家族」となっていく責任を担うという大切な働きです。幼児洗礼も「あなたによって祝福に入る」という営みの一つとなっています。

3、イエス・キリストによる祝福

しかし、この祝福はイエス様が来られるまでは限られた人にしか与えられないものだと思われていました。人間的な目で見て立派な人、成功している人しか神様の祝福を受けられないと、神の御心を誤って理解されていました。そこにイエス様が地上に来られて、山上の説教で8つの祝福について話されました。「心の貧しい人々は、幸いである」と始まった言葉は「八福」と呼ばれている祝福の言葉です。「幸いである」とは、「祝福がある者」と訳していい言葉です。「心の貧しい人、悲しむ人々は、祝福があります」となります。「柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人、わたしのためにののしられ、迫害される人、あなたがたは祝福されています」と、イエス様は宣言されました。当時の常識では考えられない祝福の理解でした。人間の目で見て良い人も、悪い人でも、成功して見える人も、苦しんでいる人にも「祝福があります」と言われました。しかし、大事なのは理屈よりも、イエス様が「祝福がある、幸いがある」とされたから、幸いがあるということです。人から見れば不幸に見えても、イエス様が「幸いである」と言われるなら、それは幸いな人です。山上の説教では自分には幸いなどない、祝福には入れないと思ってきた人たちが祝福されたのです。彼らは祝福を受け取り、やがて祝福を受け継ぐ者となっていきました。

4、生きた祝福

わたしは山上の説教を聞いていて、今年の春に天に召されたN兄のことが思い出されました。N兄はずっと一人暮らしをされて、歳を重ねてからは施設に入居されていました。若い頃から脳梗塞の障害が残ってしまったので不自由が多かったと思います。Nさんが初めて行った病院で、「あらNさん?」と声をかけられたそうです。初めての病院でしたが、そこに他の病院でNさんの看護をしたことのある看護師さんが覚えていたというのです。Nさんはどこに行っても人気者でした。笑顔を絶やさずに、周りを和やかにする賜物がありました。長い間、障害を抱えて暮らしていたNさんは、人の目には豊かな人生には見えなかったかも知れません。しかし、ずっと信仰をもっていてイエス・キリストのゆえに「あなたは幸いです」と祝福された人でした。私はお見舞いに行った時、生きた祝福を見る思いでした。
山上の説教に集まった人たちのように、イエス・キリストを見上げて、キリストの言葉を受け入れる者は、その人の心の中に「幸いです」とイエス様は宣言してくださいます。その幸いは、自分に与えられた仕事を守り、死の先にある最終的な平安を信じて生活していく時、わたしたちの幸いは、隣人に受け継がれていくものです。
神様はアブラハムに「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」とおっしゃいました。私たちクリスチャンが、祝福に入った者として正しく立つ時、家族や周囲の多くの人を幸いなる者、祝福された者として導くようになります。この祝福を受け継ぐ者でありたいと願います。 お祈りをいたします。

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キリストの恵み

和田一郎副牧師

ヨブ記19章25-26節
1テサロニケ5章28節
2020年7月26日

1、恵みに始まり、恵みに終わる

今日は、テサロニケの信徒への手紙一の最後の一節です。「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように」という祝福の御言葉から、「恵み」という言葉を中心にパウロの手紙を見ていきたいと思います。「恵み」という言葉はキリスト教の専門用語でもあります。日本語の辞書を見ると「めぐむこと」「なさけをかけること」とありました。哀れな人に対して、恵みを与えるといった心遣いとして使われます。聖書においても同じニュアンスで使われることもあるのですが、信仰的な使われ方においては、神から人へ与えられるということが前提になっています。「神から人へ与えられる恵み」です。
たとえば旧約聖書では、有名な詩編23編の最後の句でも「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う」とあり、恵みと慈しみが神から一方的に来ることを意味しています。しかし、新約聖書で使われるギリシャ語には、そのような神から一方的に受ける恵みといった概念の言葉がなかったようです。ギリシャ語では恵みのことを「カリス」といいます。それは当時「親切な」とか「感謝」と言ったニュアンスで一般的に使われていて、聖書の中でもそのように使われている箇所もあります。そのカリスという言葉に「神様から無条件で与えられるもの」「相手を分け隔てしないで、神様から一方的に与えられるもの」という信仰的な概念を加えたのが、使徒パウロと言われています。パウロはローマ書に次のように記しています。
「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ書3章24節)。恵みというのはイエス様がいるからこそ与えられる、善い知らせ(福音)ですから、イエス・キリストそのものを表すと言っていいかも知れません。そして、神様から一方的に与えられるものです。何が一方的かというと、何か良い事をしたとか、捧げ物をしたとかは関係ない。善人であろうと悪人であろうと関係なく、ただ信仰さえあれば与えられるという良いものです。あのアブラハムがそうでした。アブラハムは何か良いことをしたのでもなく、ただ神の言葉を信じました。その信仰によって義とされた、それが大いなる恵みです。

2、テサロニケの信徒への手紙における恵み

このテサロニケ第一の手紙で「恵み」という言葉は2か所にしかありません。手紙の一番最後の箇所と、もう一つは1章の1節最初の箇所です。つまり、最初と最後に恵みという言葉が書かれ、恵みに始まり恵みに終わっている手紙です。この手紙においてパウロが言う「恵み」とは何でしょうか。
まず一つは、テサロニケの信徒たちが迫害に耐えて守ってきた「信仰」です。彼らがイエス様を信じる信仰をもっていること自体、特別な恵みでした。テサロニケの信徒の多くは異邦人でした。それはかつてあり得なかったことです。神の救いはユダヤ人だけ、割礼を受けて、律法を守るユダヤ人だけが救われるとされていました。しかし、そうではなく、すべての人々が救われることを神様は望んでおられる。そのことを教え、道を開いたのがイエス様であり、それがキリストの恵み福音です。キリストの恵みがなければテサロニケの人々が救いに与ることなどなかったのです。聖なる生活をしながら、再臨の希望を持てるようになったのです。この再臨の希望もまた、キリストを通して与えられた恵みです。キリストはまたこの地上に来られる、そして完成した神の国に生きることができます。これは大きな希望であり恵みです。

3、恵みという概念の完成者パウロ

先程、恵みというギリシャ語「カリス」の信仰的な概念を完成させたのがパウロだと話ました。福音書の中でも「恵み」という言葉はルカによる福音書で使われ始め、福音書の続編として書かれた使徒言行録の後半になって「イエスの恵みによって救われる」といった言葉が書かれます。ルカはパウロの伝道旅行に一緒に同行した人ですので、パウロの働きを支えながらパウロが語る「恵み」の意味を、福音の中心を示す言葉として理解していったのではないでしょうか。
さて、そのパウロはどのようにして「キリストの恵み」という概念をもっていったのでしょうか。パウロが書いたコリントの手紙には次のような言葉があります。
「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」(コリントの信徒への手紙一15章9-10)
これはパウロの実体験から証をしている言葉です。パウロはクリスチャンを迫害する人でした。12人の弟子達とは違って、イエス様と旅をした経験もありませんし、ペンテコステの出来事の時もその場にはいませんでした。しかし、パウロはダマスコという町に行く途上で復活したイエス様と出会ってしまって、すべてが変わったのです。それは突然起こったイエス様からの一方的な出来事でした。イエス様から異邦人へキリストの名を伝える使徒になるように示されましたが、そのような難しい使命をパウロは「今あるのは神の恵みだ」と言ったのです。諸外国の異邦人への伝道という苦労は並大抵のことではありませんでした。しかし、それも恵みとして働き「働いたのはもはや自分ではなく、神の恵みそのものが働いたのだ」と、告白するのです。自分を誇るのではなく、あくまでもキリストの恵みが自分の働きを成したのだと言うのです。そのように生きてきた経験から、福音の中心は「キリストの恵み」であると確信したのです。十字架で死んでしまったと思っていたナザレのイエス、そのイエス・キリストとダマスコの途上で会ってしまった。復活したイエス様と会ってしまった。その生けるキリストが自分の中で働いている。働いたのは、わたしと共にある神の恵みキリストなのだ。これがパウロの「キリストの恵み」に生きているという証しです。
パウロがこのように「キリストの恵み」について手紙で書き、行く町々で説教をしながら「恵み」という言葉がキリスト教会の大事なキーワードになっていったようです。
先ほど福音書のマタイ・マルコの福音書には「恵み」という言葉が使われていないと話ました。四つの福音書の中で最後に書かれたとされているヨハネによる福音書には「恵み」という言葉が、深遠な表現によってキリストそのものを言い表す言葉になっています。ヨハネによる福音書1章14-17節「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。・・・(16節)わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」
14節には「キリストは恵みと真理に満ちていた」とあります。神であられる方が、人となってわたしたちの間に住んでくださった。その方には、すべての人に与える救いがあり永遠に続く真理となる。キリストを通してそのことが成されるというのです。そして16節に「恵みの上に、更に恵みを受けた」とあります。旧約聖書の時代には律法が、神様から与えられた救いの手段でした。しかし、キリストによって律法という恵みの上にさらなる恵み、分け隔てせずすべての人が救われるという恵みが増し加えられた。律法の成就がキリストによって成されたのです。ヨハネによる福音書が書かれた頃には、福音の核心として「恵み」という言葉が記されています。

4、恵みをかぞえる

今日はテサロニケの信徒の手紙の最後の一節から、「キリストの恵み」について分ち合ってきました。恵みは神様から一方的に与えられるものだと言いました。しかし、選び取るのはわたしたちです。わたしたちは生活の中で自己中心であったり、人を妬んだり、批判をしたりすることを選ぶこともできます。普通に生活をしていれば、自己中心になってしまうのが自然なことでしょう。しかし、求められていることは、何を選び取りましたか?ということです。本来、目を向けなければならない、いつも降り注ぐキリストの恵みを受け取っているだろうか、それとも自己中心や批判することを選び取っていないだろうか。
パウロが勧める聖なる生活とは、恵みを選び取ることです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい、すべてのことに感謝しなさい」と、日々の恵みを選びとっていく生活をこの手紙で伝えています。
この手紙が恵みに始まり恵みの言葉で閉じられているように、一日の始まりが恵みで始まり、恵みで終わる信仰生活となるように、パウロはこの手紙の最後の一節で祈っています。「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように」
この「キリストの恵み」を受け取るのは、誰でもない、このわたしたちです。キリストの恵みは、その人の人生にも、その人の日々にも、一人一人に与えられています。自分に与えられた恵みを、誰かが受け取るのではなく、この自分で受け取っていきましょう。
お祈りをいたします。

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主日共同の礼拝説教

みことばを聞く者

和田一郎副牧師
出エジプト記24章3-8節 1テサロニケ5章25-27節
2020年6月28日

1、「聞く」ということ

パウロは今日の聖書箇所27節で「この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように」と強く勧めています。当時、聖書は声を出して読み聞くものでした。日本語でも「聞く」という言葉は広い意味があります。漢字でも3つの漢字がありました。一番一般的な「聞く」という字は、音を聞くという意味から始まって広い意味でよく使われます。「聴く」という文字は「心で聴く、心を聴く」というニュアンスで使われるようですし「訊く」という文字は、訊問という言葉にも使われますが、厳しく問いただす際などに使われるようです。日本人にとって「聞く」という言葉は、状況に応じて漢字を使い分けることで細やかに表現しています。
では聖書に書かれている「聞く」という言葉はどうでしょうか。旧約聖書が書かれているヘブライ語で「聞く」というのは「シェマ」という言葉です。今日の旧約の聖書箇所でも「シェマ」という言葉が出てきます。出エジプト記24章は、シナイ契約を交わす場面です。神様はイスラエルの民に対して、様々な戒めを示されました。その中心は十戒です。十戒をはじめとする戒めに、従うのか従わないのか。問われているのが24章です。
荒れ野を旅するイスラエルの民にとって、神様はリアルに生きた神様です。
エジプトを脱出したのに、40年もの間、荒れ野を旅しなければならなかった目的というのは、神を中心とする生き方を確立させるためでした。その中心は神の言葉を「聞く」ということです。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」この神の言葉どおりに「従う」ということでした。日本語の「聞く」という言葉は、どれも音や人の声を聞くことを現していますが、聖書において聞くものの対象は、まず神にあります。神の言葉を聞くことは従うことが求められます。ですから「シェマ(聞く)」という言葉には「従う」という意味が含まれています。ユダヤの聖書朗読をする人は、最初に「シェマ」と呼びかけるそうです。「聴け、従え」です。わたしたちの礼拝でも、まず「わたしは聴きます。従います。主よ、お語りください」という姿勢が大切です。

2、神の語りかけ

旧約聖書の時代、神様はモーセや預言者たちに直接語りました。たとえば、モーセが神の名前をなんと言えばよいでしょうか、と聞いた時「わたしはある、という者だ」と神様は具体的に教えてくださいました。そのように、具体的に神様のみこころを教えてもらえないものかと思うのです。しかし、それは旧約の時代のことです。神様からの直接的な語りかけはなくなりました。
旧約の時代は、イエス・キリストの十字架の贖いの業が成されて終わりました。イエス様によって救いの御業が完成して、それを証しする啓示として新約聖書が完成しています。さらに、聖書を神の言葉として理解できるように聖霊を送ってくださっているのが、今のわたしたちの時代です。聖書がある。その聖書を神の言葉として理解する聖霊の力が送られている。これは旧約の時代の人とは、くらべものにならない大きな恵みです。
旧約の時代も、いつも神の言葉を聞けたわけではないのです。特別な時に特別な人にだけ、限定的に語られました。しかし、今はいつでも神の語りかけを聞くことができます。この聖書の言葉が心に留まっていて、聖霊の力が働かれたら、いつでもどこでも神の言葉を聞くことができる時代にいるのです。
今日の聖書箇所5章27節「この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように」とあります。ここでも「聞く」というのは、旧約聖書のシェマと同じように聞いて従うことをパウロは求めているのです。パウロはこの手紙を通して、テサロニケに人々が神に喜ばれる生活をするように求めました。イスラエルの民に十戒を授けたのと目的は同じです。神に聞き従う者となるため。神に喜ばれる生き方をするためです。十戒がモーセを通して、神様から授かったように、この手紙もパウロを通して語られた、神の言葉です。
テサロニケの人々がパウロの言葉を神の言葉として受け取ったことが2章13節に書かれています。「わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた・・・」パウロは、わたしたちと同じ一人の人間ですが、パウロの説教や手紙を神の言葉として受け取ったというのです。

3、手紙が書かれた時代

この手紙が書かれた頃は、まだ福音書が書かれていませんでした。新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書、そして使徒言行録、パウロ以外の人が書いた手紙も、書かれたのはもっと後のことです。この手紙はパウロが書いた手紙の中でも初期に書かれた手紙でした。わたしたちは4つの福音書を読まずに、イエス・キリストを救い主とするイメージを持てるでしょうか。当時の人も口伝えで、イエス様の地上での生涯を聞いていたかも知れません。しかし、わたしたちが知っているほど、知ることはできなかったと思います。それでも、テサロニケの人々はイエス様を信じたのです。「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(4章14節)とパウロは教えています。この手紙が書かれた20年程前に、エルサレムで十字架に架かって死なれたナザレのイエスという人が、旧約聖書で預言されたメシアだと、テサロニケの信徒は信じました。イエス様が死んで復活されたこと、同じように再臨の時に、わたしたちも復活してイエス・キリストと会うことができる。そのような、驚くべき希望が約束されていることを信じたのです。
今は27巻からなる新約聖書が整っています。自分の国の言葉で読むことができますし、解説書もあります。ビデオや映画も作られて、さまざまなかたちでイエス・キリストという方を知ることができます。しかし、当時はそういったものはなかったのです。あったのは、ただ聖霊の働きです。「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです」(1章5節)。力というのは「神の力」です。神の力と聖霊、そしてそこから得られる確信がありました。手紙を書いたパウロも聖霊の働きによって、この手紙を書きました。その言葉を聞く者たちも、聖霊の力があったからこそ、神の言葉として理解することができました。聖霊によって書かれ、聖霊によって聞かれてきた、それゆえにこの手紙は「聖書」として今も残されたのです。

4、インマヌエル(神は共にいてくださる)

今日は、聖書における「聞く」という言葉には「従う」という意味が含まれていることを見てきました。奴隷の状態から救い出されたイスラエルの民にとって、神様のみことばはリアルで具体的でした。共に生きてくださる神様が、先立って昼は雲の柱、夜は火の柱をもって彼らと共に歩んで下さいました。ご自身の言葉を「聞きなさい、従いなさい」という神様は、言うなれば、そうやって「共にいてくださる」ということです。遠く離れて眺めている方であれば語りかけません。共にいるからこそ「聞きなさい、従いなさい」と言えるのです。イスラエルの民が旅した荒れ野の40年間。旧約の時代からパウロの手紙の時代を経て、今もわたしたちに「聞きなさい、従いなさい」と語り続ける神様は、常にわたしたち一人一人と、共に歩んでくださる神様です。苦難の時も挫折の時も、行き場のない闇の中にいる時も「聞きなさい、従いなさい」と語り続けてくださる。従うその先に、わたしたちの命があります。
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」
(ヨハネによる福音書 8章12節)
最近2歳10か月になる息子は、言葉を覚えてきました。食事の前のお祈りの時は自分でやりたがります。いつも「きょうも、ともに、あることに、アーメン」と祈ります。教えたわけでもありませんが、どこかで聞いた言葉が残っていたのでしょう。わたしたち夫婦は、息子の祈りに心からアーメンと言えます。「きょうも、ともに、あることに、アーメン」「ああインマヌエル(神は共におられる)だな」と思います。いつも近くで語りかけてくださる神様、いつも御言葉を聞くことができる。そこに命があります。生ける神様と共にあるように。みことばと共にあるように。「聞きなさい、従いなさい」とおっしゃる神様が・・・「きょうも、ともに、あることに」感謝して、従っていきたいと願います。
お祈りしましょう。

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みこころを成してくださる神

和田一郎副牧師
創世記1章31節/1テサロニケ5章23-24節
2020年5月24日

1、はじめに

最近、外出を自粛していることもあって、家でテレビを見る機会が増えました。高齢出産をする老夫婦のドラマを見ながら共感することがありました。そして、どうして神様は、私たち夫婦をもっと早く出会わせ、子どもを授けてくださらなかったのだろうか、このような人生を通して、私に示されている神様のみこころには、どんな意味があるのだろうかなどと思い巡らすことがあります。皆さんはどうでしょう。自分自身に示されている、神様のみこころについて考えることはあるでしょうか。

2、神のみこころ

今日は、神様の「みこころ」というものに目を向けたいと思いました。というのは、今日のテサロニケの信徒への手紙の箇所は、テサロニケの人々のために祈っている所です。23節は「してくださいますように」という言葉が繰り返されていて、一つはキリスト者として「聖なる者としてくださいますように」、そして、キリストの再臨の時、私たちを「非のうちどころのないものとしてくださいますように」という願いが込められています。しかし、この願いというのは人間の立場からの願望です。もしかしたら自分の願いと、神様のみこころとは違うところにあるのではないかと思う時もあるのです。たとえば、イエス様はゲッセマネの祈りの中でおっしゃいました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイによる福音書26章39節)と祈りました。
私たちの願いは、実に現実的なものを求めますが、神様のみこころは究極的です。私たちは目の前にある問題に対して「はい」とか「いいえ」の答えを求めますが、神様のみこころは、その奥にあります。私はいつも祈る時に思うのです。神のみこころを、もっとはっきり具体的に教えて欲しい。ですが、それは神様の領域です。被造物に過ぎない人間の知恵と力では、神のみこころを直接知ることはできません。ただ、聖書に啓示されている神の御言葉から、みこころを理解するしかないのです。

3、平和の神

今日の聖書箇所で、パウロは神様のことを「平和の神」といっています。私たちの信じる神様は、平和という性質をもった神様です。聖書に書かれている「平和」という言葉は、争いがない状態のことだけではありません。むしろ、心の平安や神様と人との関係が良い状態であることを表しています。イエス様は「あなたがたは わたしによって平和を得る」と言われました。(ヨハネによる福音書 16章33節)。つまり、イエス・キリストによって、神様との良い関係、神様との和解を得られるということです。決して人間による力や、自分の努力でなされることではなくて、究極的な平和はキリストによって成されるものです。
その、平和の神御自身が23節で、テサロニケの信徒たちを「聖なる者としてくださいますように」とパウロは祈っています。「聖なる者となる」というのは、神の性質である聖さに、少しづつ近づいていく、似ていくということです。パウロはエフェソの信徒への手紙で、次のような言葉を記しています。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(エフェソの信徒への手紙1章4節)。つまり、私たちが生れるずっと以前から、イエス様は私たちを「聖なる者」とすることを願っていた。その理由は「神はわたしたちを愛して」いたと書かれているのです。わたしたちが生れる前から、私たちを愛しておられた神のみこころには愛が盛り込まれていたのです。

4、イエス・キリストの来られるとき

テサロニケの手紙にもどります。23節で私たちが聖なる者とされ、非のうちどころのない者とされるのは、「わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき」だということです。それは、イエス様が十字架につけられて死に、復活し、天に昇られましたが、いつかもう一度この世に来られて、しかも、全ての者を裁いて、この世を終わらせて、神の国をもたらすという素晴らしい未来がイエス・キリストの再臨の時です。その時には生きている者も、先に死んだ者も、聖なる者とされ、非のうちどころのない者とされるのです。
それは、そもそも天地創造の中で神様が人間を「神のかたち」に造られたのですが、その「人間本来の姿」にほかなりません。神様はその人間の姿を見て「見よ、それは極めて良かった」(創世記1章31節)とおっしゃいました。残念ながら人は罪を犯してしまう者となっています。しかし、堕落したその罪にまみれた姿から、時間をかけて自分らしい、人間本来の姿にもどっていく、少しづつ人生経験を重ねながら聖なる者とされ、やがて、非のうちどころのない者とされることが、神様のみこころです。いつか私たちに訪れるキリスト再臨の時には、大いなる喜びがあります。その希望を祈っているわけです。この希望は、今を生きるわたしたちクリスチャンすべてが持つ希望でもあるのです。コロナウィルスの被害と不安は目の前に現実としてあるのですが、クリスチャンとしての究極の希望が揺らぐことはありません。

5、忘れ物

先週のある日、私は一人の方の葬儀に参列しました。私のいとこにあたる男性のHさんの葬儀に行きました。Hさんは63歳で亡くなる一月ほど前に横浜の教会で洗礼を受けていました。私はその洗礼式に立ち合いました。Hさんは長い闘病生活を送っていたのです。Hさんのお父さんは牧師でした。開拓伝道を始めた頃は、狭い自宅で礼拝を始めたので、小さかったHさんは、日曜日になると自分たちの部屋で礼拝や集会をするのが嫌だったようです。父への反発もあったのだと思いますが、信仰をもつことはありませんでした。成人してからも外資系の会社でキャリアを重ねて、社会的な立場も、経済的にも恵まれた中で生きていました。ですからHさんにとって両親が持っていた聖書を基盤とする信仰は必要のないもののようでした。しかし、重い病気にかかられて長い闘病生活を過ごされていました。ある日、気になって連絡してみると「教会に行きはじめている」「洗礼のことを考えている」と言っていました。あのHさんが洗礼を考えていると聞いて、少し驚く思いがありました。その後「洗礼の日程が決まった」と知らされました。コロナウィルスの影響がある中で、どこか急いでいるような感じを受けました。私も参列し限られた人達が見守る中で洗礼式が行われました。それから、約一か月後に天に召されました。
洗礼を受けた日にHさんが言ったのです。「今日、私は忘れ物を取りにきたように思います」。神様はHさんの人生を、どのようなみこころで導いてこられたのだろうと考えました。神様のみこころは、キリストによって平和を得ることを望んでおられるはずです。もっと早くそうされても良かったじゃないかとも思うわけです。しかし、聖なる者となるまでには時間がかかるものです。何一つ欠けることのない完成した者となるまでには、キリストの再臨の時を待つしかありませんが、それまでのあいだも、時間をかけて私たちは成長させられていくものです。神のかたちへと近づいていく、自分らしい本来の姿へと成されていく。どれだけの時間がかかるのか、どんなタイミングなのか、その神のみこころを知ることはできません。Hさんは、両親と兄弟の中で唯一信仰をもたずにいた人でした。数年前に、牧師であるお父さんとお母さん、そして弟さんの家族三人が天に召されて、Hさんは、その教会の葬儀で見送りました。葬儀をきっかけに、少しづつ教会へと通い始めたと聞きます。家族三人が過ごされた歩みを振り返って、「自分は何かを置いて来た」忘れ物があったことに気付かされたのが、この時だったのかも知れません。平和の神は、人の心を操り人形のように支配される方ではありません。人に自由な意思を与えてくださいました。私たちが自分自身の自由な意志によって、自分の生き方を選び取る自由です。自分の意思によって信仰を選びとる、そのことを通して神のみこころを映し出されたのです。何かが足りない、何かを忘れている、その何かに気付いて選び取る。Hさんの歩みは今も証しとして、残された家族や多くの人の心に残っていると思います。
わたしはHさんの出来事を通して思うのは、本人もやり残したことがあるかも知れませんが、この世の歩みを全うしたのではないかと感じました。神様の、みこころが成されたと思います。平和の神ご自身が、Hさんを全く聖なる者としてくださる。そして、キリストが来られる時、非のうちどころのない神の似姿としてくださると思えるのです。それらを全て見て「見よ、それは極めてよかった」とされたのです。
今日の24節の御言葉は、そのことを確信させてくださいます。「あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます」。私たちを招いてくださる方は、生きた真実の神様です。みこころは、必ずそのとおりにしてくださいます。このみこころに信頼して、わたしたちも聖なる者へと、一歩一歩、時間をかけて歩んでいきましょう。お祈りしましょう。

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主日共同の礼拝説教

霊の火


和田一郎副牧師
詩編51編12-19節,1テサロニケ5章19-22節

2020年4月26日

1、「霊の火」

ここ数日、インターネットで礼拝や祈祷会を見ているという声を聞いて、とても励まされました。しかも、普段はパソコンを使わないのだけれど、礼拝の動画を見る為に、ご家族に手伝ってもらってインターネット礼拝をしているそうです。そのようにしてでも、礼拝に与かりたいと思わされる時、それは聖霊が働いているといえます。パウロは今日の聖書箇所で「霊の火を消してはいけない」と言っています。聖霊の働きというのは、炎のように激しく燃える時もあれば、ロウソクのともし火のように弱々しい時もあります。
聖霊の炎を消してしまわないように、その働きが失われてしまわないようにしなければなりません。

2、「預言を軽んじてはいけない」

そのために必要なことが、次の20節の「預言を軽んじてはなりません」ということです。つまり、礼拝の説教のことで、聖霊の火を消さないように説教を軽んじてはならないと言うのです。説教者は、神様の御言葉を預かることでメッセージを告げます。そして、聞く者は、礼拝のメッセージを神の言葉として受け取ります。もし、説教者がメッセージを自分の知恵で語ろうとしたり、聞く者もメッセージを選り好みして聞こうとするなら、それは、パウロが指摘するように「預言を軽んじて」いるということになります。パウロは、この手紙の2章でも説教について話しています。
「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」。(テサロニケの手紙2章13節)
パウロの言葉を、人の言葉としてではなく神の言葉として受け入れた。だから、言葉はあなたがたの中で働いているというのです。パウロは説教者です。パウロは自分の言葉を、一人の人間として語りかけますが、しかし、神の言葉として聞かれることを願って語っています。聞いた人々が、パウロのメッセージを神の言葉として受け取ることで、言葉がその人の中で生きて働くからです。実際に、パウロの言葉を神の言葉として信じたことで、テサロニケに教会が生れました。言葉が生きていたからです。しかし、パウロは自分の言葉の力を誇りませんでした。パウロによって教会が設立されたのに、誇ることがなかったのです。それは神が働いてくださったからです。言葉によって人が救われる、そして教会が建てられる。その出来事は聖霊なる神が成してくださいます。聖霊が働かれると、神の言葉が成されていきます。説教者というのは、そのために用いられるのです。聞く者も、説教を神が自分に語られていることとして聞く時、言葉が自分の中で動きはじめます。「預言を軽んじてはいけない」とは、言うなれば、生きた炎のような神の御言葉を、人の知恵で消してはいけない。自分の中でも言葉が生きて働くようにしなさい。と、求めているのです。

3、「すべてのことを吟味して、良いものと悪いものを識別する」

これは、次の21-22節とも関係してきます。「すべてを吟味して、良いもの悪いものを識別しなさい」というのは、この手紙の流れからすると、二つの意味があると思います。一つは礼拝の説教について、もう一つは信仰生活全般について問われることです。
礼拝の説教については、パウロが手紙を書いた当時の教会には偽預言者と呼ばれる人が
「キリストの復活などなかった」とか「キリストは一人の人間に過ぎない」といった間違った教えを広めていた人達がいました。そういった異端の教えは今もあります。異端とまでいかなくても、私たちの中に、聖書の御言葉を昔話や他人事のように受け取っているところがあります。しかし、聖書の言葉は生きて私たち一人一人に問いかけています。私を知り、私に問いかける神の言葉です。もし、自分に都合のよい解釈をするのであれば、それは、悪いのもとして遠ざけなければならないものです。
そして、パウロはクリスチャンが社会で生きる者として、信仰生活全般についてしっかり吟味して識別することを指摘しています。特に今、コロナウイルスの影響によって、世界的な危機感が生活を覆っている時に、問われていることがあるのではないでしょうか。学校は休校、在宅でのテレワーク。外出を自粛する期間が続いて子どもも、大人もストレスが増しています。

4、どこに目を向けるのか

大切なことは「聖霊の火を消さないように」ということです。コロナウイルスの影響の中にあっても、聖霊の働きを消さないで、神様との繋がりの大切さを思わされます。しかし、それと反対に、神と人との繋がりを、何とか打ち消そうとするのがサタンの働きです。サタンは巧妙です。もっともらしい言葉や、心のスキをついて、人間を教会や神様から離そうとするのがサタンです。
『悪魔の格言』という本を書いた水谷潔先生が、サタンたちが新型コロナウイルスについて語っているという、ユニークな話をネットで投稿していました。その話は、二人のサタンの会話です。
「このコロナウイルスは、我々サタンにとっては追い風だ。一同に会して礼拝をしなくなった教会は困っていて嬉しいぞ。もしライブハウスみたいに、教会でクラスターが発生すれば地域との信頼は破たんだし、終息後も教会の活動に戻らない事を期待しちゃうな。集会の中止や再開の判断を巡って教会内の人間関係が険悪になることも期待できるな。しかし、ちょっとまてよ。過去の歴史を見ても、迫害や試練の中にある時こそ、教会は力を発揮してきたから、それは心配だ。礼拝中止を機会に、クリスチャンたちが礼拝の恵み、意味、目的に目覚めるとも限らない。コロナ終息後に、礼拝を義務感じゃなくて、喜んで命あふれる礼拝になってしまったらどうしよう。コロナウイルスは教会にとって、ピンチのようでチャンスになってしまう。サタンにとってはチャンスのようでピンチだ。それじゃあ、チャンスとピンチを分けるものはなんだろう? それは、クリスチャンたちが「どこに目を向けるか」だろうな。だから、サタンとしては神ではなく、目に見えるものにくぎ付けにしてやるんだ。例えば、感染が発生した時の責任リスク、礼拝人数の減少、献金の激減、問題処理に目を向けさせて、神を想定外においてもらおう。そのためには、サタンの得意技「目くらまし」だ。神の恵みが、まるで存在しないかのように目を眩ませるのだ。試練の時にこそ向けるべき、神への視線を、試練そのものへと向けさせるのだ」
という、二人のサタンの会話です。とても、ユニークでリアルで核心をついた会話だと思いました。核心というのはクリスチャンたちが「どこに目を向けるか」という箇所です。サタンの得意技「目くらまし」とは、わたしたちが本来、目を向けなければならない、神の臨在や愛や恵みが、まるで存在していないかのようにして、試練や問題そのものに目を向けてしまうことです。
わたし達は、神様を信じるようになってから、問題が一切無くなったということはないと思います。クリスチャンでも苦労はいつもついてまわります。しかし、問題が問題ではなく、起こった問題に目を向けてしまうのが問題です。神の変わらぬ愛、今もそして、地上の生涯が終わった後も続く永遠の命、それは、目には見えません。しかし、御言葉によって神の愛に心をよせる時「主が共にいてくださる」ということが分かってきます。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(ヨハネ福音書15章4節)。目には見えない神様の、「愛」というぶどうの木にとどまる時、主が共にいてくださり、「平安」という実を結ぶのです。

5、「良いものを大事にする」

今日の聖書箇所で、パウロは、「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい」と言いました。「悪いものから遠ざかりなさい」とも言いました。問題に目を向けるのではなく、目には見えない、神の愛、永遠の命、ぶどうの木なるキリストを、良いものとして大事にしていきたいと思うのです。聖霊の火を消すことなく、コロナウイルスに、優しさと思いやりで対抗していきましょう。主イエス・キリストは、私たちを霊なる家族、神の家族とするために、ご自分も苦難に耐えて命を犠牲にしてくださいました。ご自分が十字架に架かられても、聖霊によって私たちが互いに愛することを祈っています。この愛に目を向けていきましょう。お祈りをします。