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アドベント 主日共同の礼拝説教

身を起こして頭を上げなさい

和田一郎副牧師
エレミヤ書33章14-16節
ルカによる福音書21章25-36節
2021年11月28日

Ⅰ. 隠された大いなること

今日はアドベント第1主日です。3週間後にはクリスマスを迎えることになります。イエス様がお生れになる400年以上遡った旧約聖書の時代に、神様によって、これからイエス様がお生れになる、そのことが告げられていました。それが旧約聖書の預言書です。それ以外の旧約聖書全体がイエス・キリストという方を指し示しているのですが、まさしくこれから救い主が来られると語られているのが預言書です。
旧約聖書の時代、イスラエル王国というのは、ダビデやソロモン王が繁栄を極めた後、内部分裂が起こって北イスラエルと南ユダ国に分かれました。その後、唯一の真の神様以外に、さまざまな偶像の神を信じるという不信仰が続いていったのです。当然、国は衰え、争いは絶えず、北イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、残された南ユダ国も滅亡の危機にありました。エレミヤは、ついに南ユダ国も滅びてしまうという厳しい時代を生きた預言者でした。ですからエレミヤは「涙の預言者」とも呼ばれるのです。エレミヤは、神様からの大切な預言を語っても人々から無視され馬鹿にされ、お前の言っていることは「死刑に当たる」と裁判にかけられ牢獄に入れられました。暗殺計画まで持ち上がりました。エレミヤはそれを力強くはねのけるタイプの預言者ではありませんでした。泣いたり、もう預言者は辞めたいと口にする人間味のある預言者でもありました。それでも神様がエレミヤに告げた通りに、裁きと悔い改めの言葉を隠すことなく語り続けた、真の預言者です。
そのようなエレミヤがいる、南ユダ国はバビロンという巨大な国に滅ぼされようとしていました。エルサレムの都が包囲されてしまった時、エレミヤは不思議な提案を受けました。今日の聖書箇所の一つ前の章32章6節です。彼は言いました「私の畑を買い取ってください」と言うのです。戦争の真っ最中に「畑を買い取ってください」と。土地を買うというのは、その土地に価値があるから買うのです。その土地に住むとか、畑として使うなど生活の糧になる、価値が見込めるから買うものです。しかし、その土地は今まさに滅びてバビロンに占領されようとしている土地です。とんでもないことです。しかし、エレミヤはこの奇妙な提案に対して「私はこれが主の言葉であると知った」と受け取ったのです。それはもう信仰でしかありません。エレミヤには預言者としての確信があったのです。この不思議な提案には意味がある、つまり、今は国が滅びようとしている、しかし、かねてから「その日が来る、あなたたちと新しい契約を結ぶ」(エレ31:27-31)と語りかけていた神様。目の前の状況は最悪の時でしたが、神様は試練と裁きで終わる方ではない、私たちを苦しみの中へ放っておく方ではない。その先には、逃れの道と希望がある。これには何かメッセージがあるとエレミヤは受け取ったのです。
エレミヤは土地を購入する手続きを、エルサレムの都で、ユダの人々全員が注目する中で行いました。彼らは「いったいエレミヤは何て馬鹿なことをしているのだろう」と思ったでしょう。しかし、エレミヤは言ったのです。この土地は、家、畑、ぶどう園として、再び買い取られるであろうと(エレ32:15)。
この事があって続いて33章で神様の言葉があるのです。33章3節「私を呼べ。私はあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる」。ここには「あなたの知らない」つまり、人には分からない隠された大いなることがある、と言うのです。当時の人々の望みとは、目の前の脅威から逃れることでした。ユダは小さな国でしたから、近隣にある大国であるエジプトに助けを求めるべきか?バビロンに素直に屈した方がいいだろうか?といったものです。しかし、「隠された大いなること」とは、そのどちらでもないことでした。
今日の聖書箇所33章15節「その日、その時、私はダビデのために正義の若枝を出させる。彼は公正と正義をこの地に行う」と神様は宣言されました。「若枝」というのは、預言書に出てくる救い主を示す言葉です。人々の願いはエジプトなのかバビロンか、どちらを頼れば国を守れるだろうか、AなのかBなのかといったものでした。しかし、神様のこたえはAでもBでもない、ウルトラCという恵みでした。その日、その時、新しい歴史、新しい世界という扉を開いてくださる、救い主メシアというウルトラCが起こされるというものです。
神様というお方は、不思議なことをされる方です。戦争中に「土地を買いなさい」と言ったり、思いがけない恵みを与えてくださる。そのような経験をされた方もいるのではないでしょうか。

Ⅱ. 我が家のウルトラC

私にも、思いがけないウルトラCという恵みの経験があります。私たちが結婚して、すぐに妻は妊娠したのです。初めて町の小さな産婦人科の病院に行きました。普通の病院は病気やケガで重々しい顔をした人が多いけれど、産婦人科は幸せばかりだな、と何も分かっていない私は漠然と思っていました。しかし、残念ながら妻は流産したのです。そのことを知らされた診察のあと、幸せばかりだと思っていた待合室にも、痛みを持った人がいたのだと現実を知りました。年齢的なこともあって、私たちは不妊治療をすることにしました。しかし、不妊治療の難しさは「期待」と「落胆」に何度も心を揺さぶられることでした。不妊治療が上手くいかなかったので、しばらくしてから里親や養子縁組のことを祈り始めました。児童相談所に行って、講習会や研修を受けるといった手続きと、養子縁組をサポートする団体への登録や研修にも行きました。そのすべての手続きが済んで、あとは養子となる子どもとのマッチングを待つだけになった時に、自然の妊娠をしたのです。今度は流産から守られて無事に息子が生まれました。不妊治療なのか里親か養子縁組か、AだろうかBだろうかと神様に祈っていた先にあったのは、どちらでもないウルトラCという恵みだったのです。
「あなたは前から、うしろから私を取り囲み御手を私の上に置かれました。そのような知識は私にとってあまりにも不思議。あまりにも高くて及びもつきません」
(詩篇 139篇 5〜6節 新改訳2017)
エレミヤ書に書かれている「あなたの知らない、隠された大いなること」とは、33章15節に書かれている「正義の若枝」イエス・キリストのことでした。旧約聖書の時代にメシアを待ち望む期待はありました。メシアとは「油注がれた者」という意味です。ダビデやソロモンのような「偉大な王」をイメージするものでした。またいつの日か、ダビデのような力強い王が現れて欲しい、そうした期待の中で現れてくださったのが、家畜小屋の飼い葉桶にお生れになったイエス・キリストであったのです。

Ⅲ. 象徴的行為

預言書には象徴的行為と呼ばれるものがあります。一見「奇妙だな」と思わせることを預言者に命じるのですが、そこに神様の御心を示すメッセージが含まれています。神様の言葉だけでなくて、象徴的な出来事によって神様のメッセージを人々に伝えました。例えばエレミヤには「陶器士の家に行って土の器を買い、それを割りなさい」とか、「牛につける軛を、自分の首につけなさい」といった、奇妙なことを命じるのです。
「土の器を割りなさい」という行為には、砕かれた器のようにエルサレムはなるだろうといメッセージ。
「軛を首につけなさい」というのは、自分たち首を差し出してバビロンに服従しなさい、という神様のメッセージ。戦争で滅びゆくユダの土地を買うというのは、その土地には新しい時代に救い主が来てくださる、新しい契約がなされる土地となるという希望のメッセージが込められていました。それが象徴的行為の意味です。つまり、聞く耳をもたない人々に奇妙な行動を通して注目を集め、奇妙な行為の中で神様の御心を伝えたのです。
そのような神様からの象徴的行為は、イエス様が地上に来られてからもあったのではないかと思うのです。旧約の人々は、力強い王や国を豊かにしてくれるメシアをイメージしていました。しかし、そのどちらでもない、イエス様は何の権力もない貧しい夫婦の子どもとして、家畜小屋でお生まれになりました。宿屋には彼らの泊まる余地がなかったからです。どの宿も満員で、出産まじかの妊婦を泊める「ゆとり」がなかった。それは人々の心が自分の欲望でいっぱいで、神様の言葉を受け入れる余地が無かったのです、聞く耳を持たなかった。家畜小屋の飼い葉桶はその象徴です。そして、それから30年経っても人の心は同じでした。またもや神様に、聞く耳をもたない人々が、イエス様を十字架につけて殺したのです。十字架がその象徴です。飼い葉桶と十字架は、神の言葉に聞く耳をもたない人々の、心の頑なさを現わすものでした。イエス様を自分の心の中に迎えようとしない、頑なな心です。頑なな人々をご覧になった神様が与えてくださったのは、それを強引に打ち砕く王ではなかった。へりくだり、謙遜、犠牲を通して、ご自分のもとに引き上げてくださるメシアだったのです。聞く耳をもたない人々も含めて、すべての人に愛を示してくださった、その象徴が飼い葉桶と十字架でした。
自己中心という頑なな心を持っている私たちの為に、クリスマスにお生まれになったイエス様を、心の中にお迎えする、その備えをすることがアドベントの礼拝です。

Ⅳ. 人の役に立つヒーロー

私が子どもの頃は、悪者をやっつける正義の味方がヒーローでした。しかし、今の子どもたちのヒーローは「人の役に立つヒーロー」が多いようです。うちの息子は消防車がお気に入りでお風呂で遊んでいます。どんな事でもいいのですが、神様と人の役に立つことを願っています。そして、全人類のウルトラC、キリストという救い主が、エレミヤの預言どおりに来られました。隠された大いなることを成してくださいました。その喜びの出来事を、3週間後の礼拝で共に祝いたいと思います。
「その時、人の子が力と大いなる栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの救いが近づいているからだ」(ルカによる福音書21章27-28節)。お祈りいたします。

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主日共同の礼拝説教

神が結び合わせてくださったもの

和田一郎副牧師
創世記2章15-25節、エフェソの信徒への手紙5章21-33節
2021年10月24日

Ⅰ. 究極の神の目的

私たちは、いつも神様の御心を求めます。その神様の御心は聖書に啓示されています。しかし、「今日何をしようか」といった具体的なことが聖書に書いてあるわけではありません。聖書全体から判断することが大切です。しかし、神様の究極的な御心、つまり最終的に私たちをどのように導びこうと思われているのか、その事は聖書に書かれています。神様の最終的な目的が分かっていれば、細かいことも分かってきます。エフェソの手紙1章に記されています。
「神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福し、天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。御心の良しとされるままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです。それは、神がその愛する御子によって与えてくださった恵みの栄光を、私たちがほめたたえるためです。」(エフェソの信徒への手紙1章 3-6節)
最後の箇所で「私たちが・・・(キリスト再臨の時)御前で聖なる、傷のない者となるため・・・ご自分の子にしよう」とあるのが、神様が私たちにされようとする究極の目的です。神様はこの目的を「天地創造の前に」(4節)、定めておられたと言うのです。つまり、一人でも多くの人が、地上の人生を通してイエス・キリストに似た者へと、成長していくことを願っていて、やがて、神の国の完成を成そうとされているというのです。これが旧約・新約聖書全体を通して貫かれている、神様の御心の前提です。
さて、今日はこの前提を心に留めながら、エフェソの信徒への手紙5章21節以下から「結婚」について考えていきたいと思います。

Ⅱ. キリスト教の結婚観

エフェソの信徒への手紙5章21節でパウロは夫婦に対して「キリストに対する畏れをもって、互いに従いなさい」と言ってます。この短い文章に「結婚」の大事な意味が要約されていると思うのです。キリストに対する畏れが、まず示されています。イエス・キリストの十字架の御業、その偉大さ、愛の大きさを畏れ敬うことが、夫婦にとってまず第一です。このキリストへの畏れをもって、夫も妻も「互いに従いなさい」と命じているのです。
その後の箇所でも、妻に対してまず「主に従う」(22節)こと、夫に対しても「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように・・」(25節)と、ここでもまず、キリストがされたようにしなさい、とあるのです。夫婦関係のことを言っているのですが、パウロはまず「キリストに対する畏れ」、「キリストのされたように」とキリストをまず、夫婦関係の中心に置いています。

Ⅲ. 結婚の起源

その理由は、結婚の起源が神様にあるからです。結婚という制度は人間が造ったものではありません。世間の価値観では、「結婚相手のこと」をよくわからずに結婚することは危険だ、だから、まず一緒に生活をしてみて相手を知ってから結婚するかどうかを考える、というのが現代の価値観です。ところがそれでも離婚が増えているのも事実です。相手のことをよく知ることよりも、「結婚のこと」「結婚の意味」をよく分からずに結婚することの方が危険かも知れません。結婚は神様が人間のために定めた制度ですから。
今日の聖書箇所「神である主は、人から取ったあばら骨で女を造り上げ、人のところへ連れて来られた。人は言った。「これこそ、私の骨の骨、肉の肉。これを女と名付けよう。これは男から取られたからである」(創世記2章 22-23節)。この創世記の記述が、最初の結婚の場面です。獣の中にはアダムに相応しい「助け手」がいなかった、そこで女を造り上げ結婚という関係で二人を結ばれました。その中心には神様がいます。神様の前で成されているのですから、夫と妻との契約であるのと同時に神様との契約です。タテの契約とヨコの契約です。信仰生活も神様との関係を現わすタテ軸と、隣人との関係を現わすヨコ軸の両方が大切だと言います。結婚もタテ軸とヨコ軸の関係から成り立っています。
エフェソの手紙に戻りますが、21節が「キリストへの畏れをもって、互いに従いなさい」と命じている。「キリストへの畏れ」がタテ軸で、「互いに従うこと」がヨコ軸になっていることが分かります。
「結婚の起源」が神様に由来するというだけではなくて「結婚の目的」も神様の御心によるものです。

Ⅳ. 結婚の目的

31-32節「こういうわけで、人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。この秘義は偉大です」とあります。口語訳聖書では「奥義」、新共同訳では「神秘」と訳されていました。この「秘義」とは何でしょうか? 32節後半でパウロは「私はキリストと教会とを指して言っているのです」と指摘しています。ですから秘儀とは、結婚すること自体ではなくて、キリストと教会の関係を「秘義」と表現しているのです。つまり、キリストと教会の関係を、夫婦の関係の模範にしなさい、というメッセージなのです。夫婦がお互いのためにすべきことは、イエス様が十字架の自己犠牲をもって、私たちの教会にされたように、夫婦が自己犠牲をもって、お互いに従うことです。
私たち夫婦は結婚した当初から、よく喧嘩をしました。二人とも年齢が40台で人間としての価値観も固まっていました。相手に従うことができなかったのです。しかし、そういった結婚生活で叩かれて、練られてお互いに変わっていったと思うのです。妻は中学生の時に洗礼を受けて、教会から離れずに聖書の教えが身についていました。しかし、私が信仰をもったのは社会人になって、40歳を過ぎていましたから、聖書の教えより、この世の価値観が染みついていたのです。自分の経験からくる価値観で固まっていました。夫婦喧嘩をよくしましたが、聖書の教えに近いのは、妻の方ではないかと気付いたのです。彼女はそれを口で諭したりする人ではなくて、自然と御言葉に生きている人です。もちろん御言葉通りに清く正しく生きている、ということではありません。しかし「イエス様は、妻のような人のことを好きなんだろうな」と思うのです。マルタとマリアの姉妹の話がありますが、あのイエス様の前に座っていたマリアのようなタイプです。私は牧師ですが、今もって発展途上の信仰者だと思います。しかし牧師という働きをさせて頂きながら日々変化しています。その多くは結婚生活の中で成されました。結婚して「自己中心」というものを砕かれなかったら、分からなかった事、見えなかったことが沢山あると思います。そうして、イエス様に似た者になっていく、まだまだですが結婚生活の試練を通して変えられていく、それが、神様の定めた結婚の目的です。
説教の初めに、究極の神様の目的の話をしました。
天地創造の前から、キリストを信じる者を「聖なる傷のない、ご自分の子にしよう」と願っている、地上の人生を通してイエス様に似た者へと成長させて、神の国の完成を成そうというのが、神様の究極の御心です。そこに、「結婚」という制度を置かれたということです。結婚というものを通して、人々を究極の目的である神の国に入るに相応しい者へと成長させようとされているのです。パウロはそれを「秘義」と呼びました。
ここに「結婚」の目的の一つを見ることができます。

Ⅴ. 豊かな夫婦生活のために

もう一度21節の言葉に戻りたいと思うのです。
「キリストに対する畏れをもって、互いに従いなさい」。夫婦が「互いに従う」というのは難しいものです。自分の意見を曲げて、妻に従うというのは簡単にできるものではありません。しかし、ここでも模範はイエス様です。25節「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」とあります。どういうことでしょうか。
神の子なるイエス様は、父なる神様と対等な立場であるにも関わらず、地上に降りて来られました。私たちと同じ人間になって下さいました。それだけではなくて、進んでご自分から十字架にかかり、痛み苦しみを受け、私たちの罪の代価を支払って教会をたててくださったのです。「教会のためにご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」というのは、これこそ結婚生活を祝福へと導くために、重要なことだとパウロは言っているのです。キリストがされたように、互いに、へりくだること、自己犠牲を払うこと、それが結婚生活を生きるための唯一の鍵です。キリストに似たものになればなるほど、結婚の本領が発揮されていくものです。
ところが、それを邪魔するのが「自己中心」です。自分の意志に反して相手の意見に従う時、敗北感を味わいます。お互いに自己中心でいたならば収拾がつきません。自己中心との闘い、それにはキリストに倣って、キリストの愛を模範にするしかありません。
イエス様は隣人を好きになりなさいと、親切を勧めているのではありません、「愛」を命じているのです。LikeではなくLoveです。愛とはただの感情ではありません。愛には具体的な行いが伴います。まず愛情を感じなければ、愛せないと考えがちですが、それは間違いです。愛の行動が愛情を生み出します。では妻と夫、どちらが先に愛を示すべきでしょうか。どちらが先に優しい言葉をかけて、謝罪をして自分から愛を示せばよいのでしょうか。勿論、これもキリストを模範にすべきです。相手の出方を待っていてはいけません。なぜなら神は私たちに先立って愛を示してくださったからです。「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです」(ヨハネ手紙一4章19節)
相手に従うことは、相手に負けることではありません。キリストに従っているのです。相手に従うことは、イエス様が十字架でされた忍耐を思って、信仰に生きているという証しです。
今日は、「究極の神様の目的」と「結婚の目的」が重なる話をしてきました。しかし、結婚しないと神様の目的に叶わないということではありません。結婚は一つの道です。イエス様もパウロも結婚せずに生きました。神様はさまざまな苦労を通して、人を成長させてくださいます。私たちに先立って愛を示してくださった神様に倣って、愛を現わしていきましょう。
お祈りをいたします。

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君は一人じゃない ― 労働の意味

和田一郎副牧師
コヘレトの言葉 3章1~13節
テサロニケの信徒への手紙 3章6~15節

2021年9月26日

Ⅰ. 労働のはじまり

今日の聖書箇所は、働くことの大切さをパウロがテサロニケ教会の人々に向けて訴えている箇所です。10節の「働こうとしない者は、食べてはならない」という箇所から「働かざる者食うべからず」という諺を生みました。今は本屋さんに行くと若い人や、子ども向けにも働くことに関する本が並んでいますし、働く女性も増えています。コロナ禍になって1年半、働き方が大きく変わったという人も多いでしょう。今日は現代的な仕事の在り方にも焦点を向けて、労働の意味について考えていきたいと思います。

人間に与えられた最初の仕事というのは、神様が創造し「良かった」とされた世界を治めることでした。
「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ」(創世記1章28節)とあります。神様は被造物を治める働きを人間に委ねました。その仕事としてまずエデンの園を耕し園を守り、そして被造物に名前をつけるという働きがありました。そこで注目したいのが、神様は、それらを一人の人間だけに任せたのではなかったということです。男と女が造られ、初めから二人で仕事をするように命じられたのです。
天地創造の6日目に男が造られ、女が造られアダムとエバにこの地を治める仕事を与えたのです。ですから、仕事をすることは最初から一人ではなかった。「人が独りでいるのは良くない」と言われたように、労働においても一人では良くないので、共に働く助け手が最初から与えられたことを示しています。
わたしたちの仕事をよく見てみると、誰かの為になることが仕事として成立していることが分かります。どんな職業でも誰かの役にたっている、誰かの必要なものが世の中で仕事として成り立っています。天地創造の業の中でアダムの助け手としてエバが造られたように、神様が造られた地上のこの世界には、人と人とが助け合う仕組みとして仕事があると言えます。自分は自分ができることをして誰かの助けになる。人は独りでいるのは良くない、だから生きていくうえで必要な助け手が「仕事」を通して与えられているのです。
時々、「聖書には労働は罰として与えられたと書かれている」と言う人がいます。「あなたは生涯にわたり苦しんで食べ物を得ることになる」(創世記3章 17節)という聖書箇所を、罰として労働しなければならなくなったと理解しているようです。しかし、これはあくまでも労働に苦しみがともなってしまったことを意味しているので、決して罰として労働があるのではありません。「治めなさい」と人間に命じられているのは、あくまでも「祝福」として労働が与えられているのです。
やがて16世紀以降、宗教改革者たちは、職業に「calling」という言葉を用いて、与えられた仕事に励むことは信仰的な意味があると理解しました。今あるこの仕事は神様に与えられた天職だという考えです。さらに労働を通して神様の偉大さを証ししていくという考えが広がりました。ところが、産業革命による大量生産技術が進むと、工場ができて、歯車のような働きが始まって、仕事における宗教観は消えていきました。人間疎外、個人より組織、経済発展優先の構造が今現在も続いていると言えます。神様の計画に基づいた働き方の改革が必要です。人間らしさ、自分らしさを現わす仕事の在り方を考える必要があるのではないでしょうか。

Ⅱ. 自由意志で選んでいく

今日の聖書箇所でパウロは「誰からもパンをただでもらって食べたりしませんでしたし、誰にも負担をかけまいと、労苦し骨折って、夜も昼も働いたのです。」と熱心に働いたことを主張しています(3章8-9節)。
12人の使徒たちは、漁師や徴税人の仕事を捨ててイエス様との働きに専念しました。しかし、パウロはテント作りの仕事をしながら宣教活動をしました。どちらが神様の御心に相応しい働き方でしょうか?どちらも相応しいのです。なぜなら神様は人それぞれに自由な意志を与えて、自分にあった働き方を、自分で見つけることを望んでいるからです。自分の好き勝手にしていいという事ではありません。聖書に書かれている神様の御心の原則的なことを心に留めて、自分の意志で働き方を考えていくことを、神様は望んでいるのです。

Ⅲ. 父の仕事

私は子どもの頃、家の仕事を手伝っていました。父は会社務めを辞めて、職業訓練学校に通いタイルを貼る職人の仕事をはじめました。新築の家を建てる現場が仕事場でした。冬の寒さの中で作業したことなどをよく覚えています。父は個人事業主でしたが、現場に行く途中で建材屋さん等に寄りますし、建築現場に行くと壁紙を貼るクロス屋さん、電気屋、ペンキ屋や左官屋さんなど、他の職種の職人さんがいるのです。休憩時間になると現場の職人さんたちと、いろいろな会話がありました。それは父を通して垣間見た大人の世界でした。父は誰とでも親しく話しができる賜物があったようです。父の仕事を手伝うのが好きだったのは、自分が役に立っていると感じられましたし、学校では教えてくれない、大切な何かがあったからだと思います。結局、わたしは学校を卒業して会社務めを20年以上しました。しかし、父の仕事を手伝った経験は、自分の職業観や、仕事に貴賤はないという意識に繋がっていると思います。
そのタイル職人の仕事は減ってしまったと聞いています。タイルを使わない住宅が増えているようです。仕事って変わっていくのです。今ある仕事も将来AIにとって変わって無くなるかも知れないと言われます。その変化のスピードも速くなっているように思います。ですから、将来の仕事に不安を感じる若者が多いと思いますし、現役で働く以上、年齢がいくつになっても仕事は私たちの生き方に影響する重大な関心事です。

Ⅳ. 「働き方」は心に記されている

例えば、目の前に三つの仕事があるとします。どの仕事を選ぶのが神様の御心なのでしょうか?と祈るとします。しかし、三つとも神様の御心に適った仕事かも知れません。なぜなら神様の御心は一つとは限らないからです。神様の御心は究極的には一つと言えますが、人間の目の前にある選択においては、一つとは限りません。どれを選んでも神様は良しとされるかも知れない。つまり「どの仕事を選ぶか?」よりも「どんな働き方をするのか」というのが神様の関心事だということです。
神様が関心をもっておられる働き方、それは私たちの心に記されています。
ローマ書2章には「律法の命じる行いが、その心に記されている」(ローマ2:15)とあります。私たちの心には神様の律法が記されています。生まれる前から、神のかたちに造られた人の心に、神様の律法が心に記されています。神様の律法というのは第一に「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という戒め、第二に「隣人を自分のように愛しなさい」という二つのことに集約されます(マタイ福音書22章37‐39節)。これが心に記されています。
旧約聖書にある十戒の第1戒から第4戒は「心を尽くして神を愛すること」、第5戒から第10戒までの後半は「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に集約されていて、人間にとって最も相応しい生き方を示しています。人間にとって根源的な生き方がそこにあります。隣人との関係において、なぜ姦淫しないのでしょうか?それは、その人を愛するからです。なぜ殺さないのでしょうか?それは、その人を愛するからです。なぜ盗まないのでしょうか?それは、その人を愛するからです。なぜむさぼらないのでしょうか?それは、その人を愛するからです。ですから、この心に記された基本的な神の律法に従うならば、隣人の中にある神のかたちの尊厳を大切にして愛するということが、私たちの生き方です。
「どんな働き方をするのか」その時に考えたいことが、仕事は一人でするのではないということです。必ず誰かの支えがある、誰かとの信頼関係があって成り立つ、誰かの為にしているから頑張れる、どこかの誰かの役に立っているから続けられます。神様は、アダムとエバの二人で地上を治める働きを委ねました。それが神様の求めた仕事のあり方でした。隣人と共に働き、どこかにいる隣人の為に働く、そうして神様に応えていく、隣人と神様との関係が整った仕事、それが神様の御心に適った仕事と言えます。ですから、そのことが出来るのであれば、どんな仕事についても神様の御心に適っている、自分が自分らしく神様に与えられた賜物を生かせる仕事と言えるのです。
世の中も仕事も動いているのですから、終身雇用が全てではないでしょう。転職することも神様の御心かも知れません。失業する時もあるでしょう。その時も決して自分は一人ではない、神の家族がいて、人は生きているだけで価値がある、存在しているだけで価値があることを忘れないで欲しいと思うのです。そのことが分かって仕事に就いた時、きっと働く意義を見つけることができると思います。なぜなら自分と同じように、隣人一人ひとりにも価値があり、神様はその一人ひとりを愛していると気付けると思うのです。
今日は、働くということについて御言葉から神様の御心を分ち合いました。
エレミヤ書には次のような言葉が記されています。
「私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。もはや彼らは、隣人や兄弟の間で、『主を知れ』と言って教え合うことはない。小さな者から大きな者に至るまで、彼らは皆、私を知るからである」(エレミヤ書31章33-34節)
わたしたちの心に記された神の律法を回復してくださったのは、メシアなるイエス・キリストです。イエス様の十字架があってこそ、私たちは心に記された神様の御言葉を、より広く、より深く知ることができます。与えられた仕事を通して神の栄光を現わしていきましょう。お祈りをいたします。

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そして子になる

和田一郎副牧師
ハバクク書 3章17-19節
ローマの信徒への手紙8章18-25節
2021年8月22日

Ⅰ.父と子

今日の説教のテーマは「父と子」がテーマです。
今月うちの息子は4歳になりました。私がもし「どんな瞬間が一番うれしいですか?」と聞かれたら、息子に「パパ」と呼ばれる瞬間です。それは、私を育ててくれた父も、かつてそうだったのだろうと思うのです。私は思春期に入った中高生の頃から「大人になったら父のような人にはなるまい」と思っていました。父はいつもキャッチボールをしてくれて、子ども会のソフトボールの監督をしたり、人懐っこくて優しい人でした。しかし、仕事から帰って来るとお酒を飲んで不機嫌にしている人でした。母との喧嘩も絶えなかったので、母は幸せではない。それは父のせいだと思っていたので、そんな父のような人にはなるまいと、思いました。社会人になって家を出て数年後、母は癌で1年の闘病生活で天に召されました。その闘病生活の中で父と喧嘩になりました。母は一旦退院しても再発する可能性が高いと言われていたので、その苛立ちから言い争い取っ組み合いになってしまった。その時、父が真っすぐに私を見て言いました。「俺は世界中の誰よりもお母さんのことを愛しているんだ」いつも不機嫌だった父の口から「愛している」という言葉がでてくるとは驚きでした。父の本来の優しさを見た思いでした。母が死んで一人暮らしになった父と私は、見違えるように仲良くなったのです。その父も14年前に天に召されました。
数年前、私は家族三人で旅行で出かけることがありました。家族で楽しく過ごしたいと期待していました。しかし、出発の時間に遅れ、現地には遅刻するのが確実、途中で忘れ物に気が付き車の中でイライラして爆発しそうになりました。その時のことをある人に話しました。せっかく家族で楽しむはずの旅行で思い通りにならずイライラして楽しむどころじゃなかったと。そして、自分の正直な思いや、これまでの思いを次々と話していった時、ふっと自分の口から出た言葉に驚きました。「自分は良き夫、良きお父さんになりたいんだ」という自分の言葉でした。平凡な言葉ですが、そのようなことを意識したことはありませんでした。「良き夫、良き父になりたい」誰だってそう思う当たり前のこと。しかし子どもの頃から刷り込まれた「父のような大人にはなりたくない」というかつての思い。現実はあの頃の父に似ているのではないか。私の死んだ父も「良き夫、良きお父さん」になろうとしていたのではないか? 思ってはいるけど、その通りになっていない現実。私の苛立ちと父の不機嫌な姿が重なる思いがしました。

Ⅱ.「将来の栄光」

今日の聖書箇所18節には「将来の栄光」という見出しがあります。これは将来キリストが来られる再臨の時に、私たちが完全に神の子とさせていただく栄光という意味です。
18節「今この時の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光と比べれば、取るに足りません」とあり「今この時の苦しみ」というのは、私たちの地上の生涯は苦しみがともなうと言っているのです。それに対する「将来・・現されるはずの栄光」の時というのは、今は隠されていますが、将来再臨の時に完全なる神の子とされる喜びの時、栄光を受ける時です。今もクリスチャンは神の子とされていますが栄光にあずかるのは将来です。しかし、それまでのこの地上の人生には忍耐がともないます。再臨の希望があるといっても、私たちの人生にある悲しみや苦難に忍耐して、再臨の時を待ち望む必要があります。これが今日の聖書箇所の大筋です。

Ⅲ. 養子にしていただくこと

将来の栄光とは、完全なる神様の子とされることだと言いました。23節には「子にしていただくこと」とあります。神様の子とされることは、私たちにとっても喜びですが、神様の側からしても、私たちをご自分の子とすることは、心から願っている最終的な目的です。
エフェソの手紙1:4-5に次の言葉があります。「(神は)天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。御心の良しとされるままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです」
神様は天地創造の時からすでに、私たちを、ご自分の子にしようと定めておられました。しかも、ただ自分の子にするのではなく、愛する者に対して愛をもって子にしてくださるというのが、神様の御心の根源であり最終目的です。ところで、イエス様も神様の子です。イエス様と同じ私たちも神の子でしょうか。
23節「子にしていただくこと」と、日本語で「子」とありますが、原語のギリシャ語では「養子」と書かれています。英語では”adoption”。ですからパウロは、神の「養子にしていただく」と書きました。当時の社会でも養子は親の財産を受け継ぐことができる権利があったからです。つまりアブラハムの子孫に与えられるという祝福を相続する権利が養子にもあるのです。神の独り子イエス様を長男として、私たちは養子とされました。余すことなく神様の祝福に与ります。長男のイエス様が復活されたように、やがて私たちも復活の体を得ることができます。それが将来の栄光です。
日本は養子縁組や里親の引き取り手が少ない養子後進国ですが、私たちクリスチャンは霊的に神様の養子にされました。霊的な孤児であった者が養子にされたことで、神の家族という温かい交わりの中で生きています。自分が養子として恵まれたのだから、私も親のいない子どもを養子に迎える。これがキリスト教世界観によって培われた欧米社会にあるようです。
「子にしていただくこと」は私たちの祝福でありますが、神様の御心も「私の子になって欲しい」「一人でも多くの人が、私の子となって神の家族を築いていきたい」。それが神様の御心だと覚えたいと思います

Ⅳ.心に記された神の律法

今日の箇所では、神の子とされる将来の喜ばしい栄光だけではなくて、それまでの地上の生涯における「忍耐」が必要だと書かれています。18節「今この時の苦しみ」、22節「共に呻き、共に産みの苦しみを味わ」いながら、25節「忍耐している」とあるのです。ここに書かれている、「今この時の苦しみ」と、「忍耐」とはいったいどんな事なのか、考えたいと思います。
ここで一つの問いがあります。人はみな罪人だと言われます。クリスチャンであってもそうでなくても罪の性質があります。罪人なのに善い行いをしている人はたくさんいます。それはなぜでしょうか。
人間は天地創造の業の中で、神のかたちに創造されました。神様に似たものとして、神様の性質である愛という特性を与えられて造られました。しかし、その後アダムとエバの罪による堕落によって、人間に罪の性質が入ったわけです。ですから人間には「原罪」という、生まれながらにしてもっている罪があります。この原罪によって人を傷つけ、神を中心としない自己中心という性質を持ち続けています。しかし、もともと神のかたちに造られた私たちの心の中には、神のかたちの性質も残っているのです。
「こういう人々(異邦人)は、律法の命じる行いがその心に記されていることを示しています。彼らの良心がこれを証ししています。また、互いに告発したり弁護したりする彼らの議論も、証ししています」(ローマ書2章15節)
「律法の命じていることが、心に記されている」とあります。律法とは神様の律法です。クリスチャンではない異教徒が正しい行いをするのは、心の中に神の律法が記されているからだとパウロはいっているのです。神のかたちに造られた、私たち人間の心の中には、造り主である神の律法が記されています。神の律法というのは、神の性質を反映した愛の律法です。神を愛し、隣人を自分のように愛することが心に刻み込まれているのです。これはアダムとエバが罪を犯した後も同じ状態です。原罪がありながらも、人間の中には善悪をわきまえて、善を行い悪をよしとしない分別は残っています。確かに罪によって神を中心とする性質ではなくなり、人間本来の姿を失っていますが、造り主である神の愛の律法が、人間の心に記されていることに変わりはありません。ですから、ローマ書2章15節後半に「互いに告発したり弁護したりする」というのは、人間の心の中で原罪という罪の性質と、神のかたちに造られた神の愛の律法が互いに争っているのです。「罪」と「愛の律法」とが心の中で葛藤するということが起こってしまうのです。ですから人間は矛盾した生き物なのです。
この「罪」と「神の律法」とのせめぎ合いが、今日の聖書箇所に記されている「今この時の苦しみ」であり、「呻き」であり、25節にある「忍耐」の意味です。
苦しみと忍耐を繰り返しながら、私たちはイエス・キリストに似たものへと変えられていき、やがて完全なる神の子としての栄光に与ることができるのです。

Ⅴ. そして子になる

今日私は父との証しを話しました。父も私も、家族を前にして本来自分はこうありたいと願うことと、自己中心という自分の至らなさの狭間で悩みを抱えます。「よい夫、良い父でありたい」と願いながら、自分中心のよい夫であり、自分中心の良い父なのかも知れません。まさに神の愛の律法を心に記されていながら、自己中心という罪の性質との狭間で悩みを抱え続けます。
それでも、私たちの歩むべき道は心に記されている神の律法に従って、天の父なる神様の御心を求め続けるということです。私の一番うれしい瞬間が息子に「パパ」と呼ばれる瞬間であるように、天の父に向かって「アッバ父よ」と親愛を込めて呼びかける関係は、神様の御心にかなったことです。天の父と、子とされた私たちが良い関係であることが人間の本来の姿です。
この地上の生涯においては忍耐が必要ですが、将来の栄光を希望として、子とされたことを共に喜びましょう。神が与えてくださった希望は失望に終わりません。
この一週間が、神の子として相応しい歩みとなりますように。お祈りいたします。

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主日共同の礼拝説教

あわれみの主

和田一郎副牧師
ホセア書6章1-6節 、マタイによる福音書9章9-13節
2021年7月25日

Ⅰ.マタイの召命

今日の聖書箇所はマタイの召命の場面です。召命とは、神様によって呼び出されることです。マタイが徴税人として働いていた時に、イエス様に「わたしに従いなさい」と呼び出されたのです。つまり、マタイにその仕事を辞めて、わたしの弟子になりなさいと、突然イエス様は呼び掛けたのです。このマタイという人はマタイの福音書を書いたマタイのことです。ですから今日読んでいる「マタイの召命」の箇所は自分のことを書いています。マタイはこの出来事から何十年も経ってから、イエス様との出会いを書きました。マタイの証しと言ってもいい箇所です。この時マタイは徴税人として働いていました。この時代の徴税人という職業は、ユダヤ人の中で大変軽蔑されていました。ローマに納める税金に加えて、自分の取り分も多く懐に入れていました。ユダヤ人からは裏切り者として、締め出されていた人々です。でも、それでもいい、金が手に入るならそれでいい、そのように生きていた徴税人マタイに声をかけたのがイエス様でした。
今日の聖書箇所では「私に従いなさい」と言われ、「彼は立ち上がってイエスに従った」と簡単に書かれています。これだけのことしか聖書は伝えていません。それ故に劇的な印象を残しています。ですから、この場面をモチーフにして絵を描いた人が何人もいたようです。イタリアの画家カラバッジョが描いた「聖マタイの召命」という絵があります。
右端で、マタイに向かって指を指しているのがイエス様です。収税所で「わたしに従いなさい」そう口にした瞬間の絵です。この絵の中でマタイは誰でしょうか。私は中央で指を指している髭の男がマタイだと、ずっと思っていました。「えっ私ですか?」と言っているのかと思っていました。しかし、諸説あって最近では左端に座っている青年がマタイだとする説もあるようです。周りの男たちは、イエス様を見て驚いているにも関わらず、左端の男はじっと机の上のお金を見つめています。片方の手には、金入れの袋を握りしめて居座っている、あたかもお金にしか関心がないかのように見えます。そこにイエス様の側から光がこの男を照らし、その耳にイエス様の声が響いた。「わたしに従いなさい」。その瞬間、その声に、お金を数える手が止まったかのようです。この絵の数秒後何が起こったでしょう。そこに居座っていたマタイが立ち上がった。周りの人はさらに驚いた「まさか、この仕事を捨てて、イエスに従って行くとは」。
この箇所を読んで、人は疑問に思うかも知れません。たった一言で、自分の仕事を投げうってついていくだろうか。漁師だった他の弟子たちはイエス様が死なれた後に故郷に戻って漁師の仕事に戻りました。しかし、徴税人の仕事は一度辞めたら、簡単に戻れる仕事ではない。もしくは実はもっと言葉のやり取りがあったのだけれど、聖書は省略して書いたのだ、と言う人がいるかも知れません。しかし、わたしはここに書かれたやり取りを、そのまま受け入れたいと思います。これだけの会話であったと思うのです。それはなぜか?
イエス様の言葉には力があったからです。イエスの言葉には、人の運命を変える力があります。
無から有へ 悪から善へ 罪から救いへ、そして、闇から光へと変える力があるからです。私たちも同じように罪を抱えた人間であり、そのわたしたちが、罪の中いたとしても、イエス様は立ち止まり、見つめていてくださり、声をかけてくださる。その言葉には力があって、私たちにはそれで十分なのです。「わたしに従いなさい」。なんと力強く愛に裏打ちされた言葉でしょうか。

Ⅱ. 罪人の家で

さて、次の節からは食事の場面に移ります。それはマタイの家だと並行箇所ルカ福音書に書かれています。マタイはイエス様の弟子となることを喜びました。そして、自分の家で食事の準備をしました。そこでイエス様が、弟子たちと多くの徴税人と、罪人を招いて食事をしたのです。マタイだけでなく他の徴税人や罪人とされていた人々が、イエス様に招かれて食事をしていたのです。いわゆる社会の中で失格者とされていた人たちと、食事をしたということなのです。その様子を見ていたファリサイ派という権威ある人たちは、「なぜ、あなたがたの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と質問しました。これは質問というよりも批判です。ファリサイ派の人々は、決して悪人ではありません。むしろ、信仰熱心で真面目な人々です。真面目に生きている人たちが、自分たちが守ってきたものを守らない罪人たちと、喜んで食事をしているイエス様が許せなかったのです。ファリサイ派の人たちだけではなく、誰が見ても、「何でこんな人達と一緒に食事をするのだろう」と不審に思う人たち、怪しむ人たちがいたのです。

Ⅲ. スラム街で

この箇所から思い浮かぶ人物がいました。戦前戦後にキリスト教を広めて、さまざまな協同組合を日本に創設した賀川豊彦です。賀川が神戸のスラム街に移り住んで、貧しい人々の為に働いた姿と重なりました。
賀川は明治21年に徳島県で裕福な家に生まれました。キリスト教の伝道者になろうと決めて、東京の明治学院を卒業して、神戸神学校に通うことになりました。しかし、この時に病気にかかった事が、大きな転機となりました。「結核」にかかり危篤状態に陥ったのです。その頃の様子は賀川が自伝として書いた『死線を超えて』という小説に書かれています。死の宣告を受けたにもかかわらず、奇跡的に回復をするのです。生死をさまよう死線を超えて、賀川は残りの人生を、貧しい人たちの為に身を捧げることにしました。神戸のスラム街に住むと決めたのですが、学業がとても優秀だった賀川を周囲の仲間が何度も止めました。「あそこは君が行くところではない」。「とんでもない悪い連中がいる所だ」と諭すのですが、イエス様が罪人と呼ばれる人達の家に行って食事をしたように、賀川は神戸のスラム街で生活を始めました。
スラム街は想像以上にひどい場所でした。新参者の賀川には金がありそうだと、刃物を持って強請りに来る者、俺が守ってやると近づいては金を要求する者、家に帰ると布団や米が盗まれて壁には拳銃の弾の跡が残っているといったエピソードが次から次へと起こります。長屋に住む女たちは生きるために売春をしていましたし、賀川がもっとも嘆いたのは「赤ん坊殺し」です。望まれないで生まれた赤ん坊を、養育費と一緒に引き取るのですが、そのまま餓死させるということが日常的に行われていた。そのようなことがスラム街では普通にありました。彼らに良心がなかったのではないのです。強請りも盗みも、売春も赤ん坊殺しも、善悪ではない、どれも生きていくための手段でした。世間から見ればあってはならない事ばかりです。しかし、そんな事がありながらも賀川はスラムの生活がシックリ合ってきたというのです。賀川は比較的豊かな生活をしてきました。生きてきた中でスラム街の生活ほど、張り詰めた生活をしたことがなかったと。スラム街を歩いていると、小さいながらも皆生きるために努力している。生きようとする努力に少なからず賀川は心動かされたといいます。スラム街のすべての人を尊敬したとも言っています。たとえ彼らが、ことごとく人生の失敗者であるとしても、彼らの失敗にはそれぞれ尊い失敗の理由があることを発見して、賀川は彼らを尊敬しました。
やがて、スラムに住む子どもたちが賀川を「先生」と呼んで集まってきます。教会に来る者が出てきた。賀川の活動が新聞にも載って応援する人も増えていったのです。スラム街での経験は、その後の賀川の活躍の基盤になっていきました。彼は一旦アメリカに渡米した後、神戸で協同組合運動を始めました。生活クラブとかコープといった消費者協同組合を日本で創設したのです。またJAと呼んでいる農協も、企業の中にある労働組合も賀川の尽力で作られたものです。当時発言する力が乏しかった労働者、消費者、農業従事者たちを、組合という形で団結させたのです。
スラム街の住人たちの、生きづらさの真っただ中へ入って彼らと一緒に過ごすことは、イエス様が示した愛の姿です。イエス様は罪人を救うために、ご自身を低くしてくださり、この地上に来てくださいました。さらに罪人を救うためには、罪の真っただ中まで入っていかなければならなかったのです。

Ⅳ. あわれみの主

今日の聖書箇所に戻りますが、12節「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」とあります。ここで医者を必要としていたのはマタイです。マタイは丈夫な人などではない、お金にしがみつくしかない病人でした。しかし、そこに「わたしに従いなさい」というイエス様の言葉が耳に入ったのです。医者を必要としていたマタイの耳に憐れみ深い声が響き、心を動かしたのです。なぜなら、マタイは心のどこかで、それを求めていたからです。マタイは憐みを求める病人でした。
つづいて「私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない」と言われました。イエス様に差し出す、いけにえなど必要ありません。この自分を憐れんでほしい、慈しんでほしいと、マタイは心の何処かで求めていたのです。通りかかったイエス様は、それを知って収税所にやって来た。偶然ではなく、うつむいて、お金ばかり見ていたマタイに向けて声を掛けてくださったのです。なぜなら「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われた通りです。

わたしたちも、マタイと同じように医者を必要とする者です。医者を必要とする罪人です。しかし幸いなことに、神の愛は私たちが罪人であっても、いや罪人であるが故に、憐みと慈しみに与れるということです。罪人であるが故に招かれている。
「わたしに従いなさい」。この言葉には人を変える力があります。人を動かす力がある。マタイは収税所に居座る罪人から、立ち上がって『マタイによる福音書』を書いた証し人になりました。私たちもこの一週間、求める人のただ中に入っていきたいと思うのです。それぞれの持ち場で、憐みの主を証しする者でありたいと願います。お祈りをいたします。