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主日共同の礼拝説教

みこころを成してくださる神

和田一郎副牧師
創世記1章31節/1テサロニケ5章23-24節
2020年5月24日

1、はじめに

最近、外出を自粛していることもあって、家でテレビを見る機会が増えました。高齢出産をする老夫婦のドラマを見ながら共感することがありました。そして、どうして神様は、私たち夫婦をもっと早く出会わせ、子どもを授けてくださらなかったのだろうか、このような人生を通して、私に示されている神様のみこころには、どんな意味があるのだろうかなどと思い巡らすことがあります。皆さんはどうでしょう。自分自身に示されている、神様のみこころについて考えることはあるでしょうか。

2、神のみこころ

今日は、神様の「みこころ」というものに目を向けたいと思いました。というのは、今日のテサロニケの信徒への手紙の箇所は、テサロニケの人々のために祈っている所です。23節は「してくださいますように」という言葉が繰り返されていて、一つはキリスト者として「聖なる者としてくださいますように」、そして、キリストの再臨の時、私たちを「非のうちどころのないものとしてくださいますように」という願いが込められています。しかし、この願いというのは人間の立場からの願望です。もしかしたら自分の願いと、神様のみこころとは違うところにあるのではないかと思う時もあるのです。たとえば、イエス様はゲッセマネの祈りの中でおっしゃいました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイによる福音書26章39節)と祈りました。
私たちの願いは、実に現実的なものを求めますが、神様のみこころは究極的です。私たちは目の前にある問題に対して「はい」とか「いいえ」の答えを求めますが、神様のみこころは、その奥にあります。私はいつも祈る時に思うのです。神のみこころを、もっとはっきり具体的に教えて欲しい。ですが、それは神様の領域です。被造物に過ぎない人間の知恵と力では、神のみこころを直接知ることはできません。ただ、聖書に啓示されている神の御言葉から、みこころを理解するしかないのです。

3、平和の神

今日の聖書箇所で、パウロは神様のことを「平和の神」といっています。私たちの信じる神様は、平和という性質をもった神様です。聖書に書かれている「平和」という言葉は、争いがない状態のことだけではありません。むしろ、心の平安や神様と人との関係が良い状態であることを表しています。イエス様は「あなたがたは わたしによって平和を得る」と言われました。(ヨハネによる福音書 16章33節)。つまり、イエス・キリストによって、神様との良い関係、神様との和解を得られるということです。決して人間による力や、自分の努力でなされることではなくて、究極的な平和はキリストによって成されるものです。
その、平和の神御自身が23節で、テサロニケの信徒たちを「聖なる者としてくださいますように」とパウロは祈っています。「聖なる者となる」というのは、神の性質である聖さに、少しづつ近づいていく、似ていくということです。パウロはエフェソの信徒への手紙で、次のような言葉を記しています。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(エフェソの信徒への手紙1章4節)。つまり、私たちが生れるずっと以前から、イエス様は私たちを「聖なる者」とすることを願っていた。その理由は「神はわたしたちを愛して」いたと書かれているのです。わたしたちが生れる前から、私たちを愛しておられた神のみこころには愛が盛り込まれていたのです。

4、イエス・キリストの来られるとき

テサロニケの手紙にもどります。23節で私たちが聖なる者とされ、非のうちどころのない者とされるのは、「わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき」だということです。それは、イエス様が十字架につけられて死に、復活し、天に昇られましたが、いつかもう一度この世に来られて、しかも、全ての者を裁いて、この世を終わらせて、神の国をもたらすという素晴らしい未来がイエス・キリストの再臨の時です。その時には生きている者も、先に死んだ者も、聖なる者とされ、非のうちどころのない者とされるのです。
それは、そもそも天地創造の中で神様が人間を「神のかたち」に造られたのですが、その「人間本来の姿」にほかなりません。神様はその人間の姿を見て「見よ、それは極めて良かった」(創世記1章31節)とおっしゃいました。残念ながら人は罪を犯してしまう者となっています。しかし、堕落したその罪にまみれた姿から、時間をかけて自分らしい、人間本来の姿にもどっていく、少しづつ人生経験を重ねながら聖なる者とされ、やがて、非のうちどころのない者とされることが、神様のみこころです。いつか私たちに訪れるキリスト再臨の時には、大いなる喜びがあります。その希望を祈っているわけです。この希望は、今を生きるわたしたちクリスチャンすべてが持つ希望でもあるのです。コロナウィルスの被害と不安は目の前に現実としてあるのですが、クリスチャンとしての究極の希望が揺らぐことはありません。

5、忘れ物

先週のある日、私は一人の方の葬儀に参列しました。私のいとこにあたる男性のHさんの葬儀に行きました。Hさんは63歳で亡くなる一月ほど前に横浜の教会で洗礼を受けていました。私はその洗礼式に立ち合いました。Hさんは長い闘病生活を送っていたのです。Hさんのお父さんは牧師でした。開拓伝道を始めた頃は、狭い自宅で礼拝を始めたので、小さかったHさんは、日曜日になると自分たちの部屋で礼拝や集会をするのが嫌だったようです。父への反発もあったのだと思いますが、信仰をもつことはありませんでした。成人してからも外資系の会社でキャリアを重ねて、社会的な立場も、経済的にも恵まれた中で生きていました。ですからHさんにとって両親が持っていた聖書を基盤とする信仰は必要のないもののようでした。しかし、重い病気にかかられて長い闘病生活を過ごされていました。ある日、気になって連絡してみると「教会に行きはじめている」「洗礼のことを考えている」と言っていました。あのHさんが洗礼を考えていると聞いて、少し驚く思いがありました。その後「洗礼の日程が決まった」と知らされました。コロナウィルスの影響がある中で、どこか急いでいるような感じを受けました。私も参列し限られた人達が見守る中で洗礼式が行われました。それから、約一か月後に天に召されました。
洗礼を受けた日にHさんが言ったのです。「今日、私は忘れ物を取りにきたように思います」。神様はHさんの人生を、どのようなみこころで導いてこられたのだろうと考えました。神様のみこころは、キリストによって平和を得ることを望んでおられるはずです。もっと早くそうされても良かったじゃないかとも思うわけです。しかし、聖なる者となるまでには時間がかかるものです。何一つ欠けることのない完成した者となるまでには、キリストの再臨の時を待つしかありませんが、それまでのあいだも、時間をかけて私たちは成長させられていくものです。神のかたちへと近づいていく、自分らしい本来の姿へと成されていく。どれだけの時間がかかるのか、どんなタイミングなのか、その神のみこころを知ることはできません。Hさんは、両親と兄弟の中で唯一信仰をもたずにいた人でした。数年前に、牧師であるお父さんとお母さん、そして弟さんの家族三人が天に召されて、Hさんは、その教会の葬儀で見送りました。葬儀をきっかけに、少しづつ教会へと通い始めたと聞きます。家族三人が過ごされた歩みを振り返って、「自分は何かを置いて来た」忘れ物があったことに気付かされたのが、この時だったのかも知れません。平和の神は、人の心を操り人形のように支配される方ではありません。人に自由な意思を与えてくださいました。私たちが自分自身の自由な意志によって、自分の生き方を選び取る自由です。自分の意思によって信仰を選びとる、そのことを通して神のみこころを映し出されたのです。何かが足りない、何かを忘れている、その何かに気付いて選び取る。Hさんの歩みは今も証しとして、残された家族や多くの人の心に残っていると思います。
わたしはHさんの出来事を通して思うのは、本人もやり残したことがあるかも知れませんが、この世の歩みを全うしたのではないかと感じました。神様の、みこころが成されたと思います。平和の神ご自身が、Hさんを全く聖なる者としてくださる。そして、キリストが来られる時、非のうちどころのない神の似姿としてくださると思えるのです。それらを全て見て「見よ、それは極めてよかった」とされたのです。
今日の24節の御言葉は、そのことを確信させてくださいます。「あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます」。私たちを招いてくださる方は、生きた真実の神様です。みこころは、必ずそのとおりにしてくださいます。このみこころに信頼して、わたしたちも聖なる者へと、一歩一歩、時間をかけて歩んでいきましょう。お祈りしましょう。

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主日共同の礼拝説教

霊の火


和田一郎副牧師
詩編51編12-19節,1テサロニケ5章19-22節

2020年4月26日

1、「霊の火」

ここ数日、インターネットで礼拝や祈祷会を見ているという声を聞いて、とても励まされました。しかも、普段はパソコンを使わないのだけれど、礼拝の動画を見る為に、ご家族に手伝ってもらってインターネット礼拝をしているそうです。そのようにしてでも、礼拝に与かりたいと思わされる時、それは聖霊が働いているといえます。パウロは今日の聖書箇所で「霊の火を消してはいけない」と言っています。聖霊の働きというのは、炎のように激しく燃える時もあれば、ロウソクのともし火のように弱々しい時もあります。
聖霊の炎を消してしまわないように、その働きが失われてしまわないようにしなければなりません。

2、「預言を軽んじてはいけない」

そのために必要なことが、次の20節の「預言を軽んじてはなりません」ということです。つまり、礼拝の説教のことで、聖霊の火を消さないように説教を軽んじてはならないと言うのです。説教者は、神様の御言葉を預かることでメッセージを告げます。そして、聞く者は、礼拝のメッセージを神の言葉として受け取ります。もし、説教者がメッセージを自分の知恵で語ろうとしたり、聞く者もメッセージを選り好みして聞こうとするなら、それは、パウロが指摘するように「預言を軽んじて」いるということになります。パウロは、この手紙の2章でも説教について話しています。
「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」。(テサロニケの手紙2章13節)
パウロの言葉を、人の言葉としてではなく神の言葉として受け入れた。だから、言葉はあなたがたの中で働いているというのです。パウロは説教者です。パウロは自分の言葉を、一人の人間として語りかけますが、しかし、神の言葉として聞かれることを願って語っています。聞いた人々が、パウロのメッセージを神の言葉として受け取ることで、言葉がその人の中で生きて働くからです。実際に、パウロの言葉を神の言葉として信じたことで、テサロニケに教会が生れました。言葉が生きていたからです。しかし、パウロは自分の言葉の力を誇りませんでした。パウロによって教会が設立されたのに、誇ることがなかったのです。それは神が働いてくださったからです。言葉によって人が救われる、そして教会が建てられる。その出来事は聖霊なる神が成してくださいます。聖霊が働かれると、神の言葉が成されていきます。説教者というのは、そのために用いられるのです。聞く者も、説教を神が自分に語られていることとして聞く時、言葉が自分の中で動きはじめます。「預言を軽んじてはいけない」とは、言うなれば、生きた炎のような神の御言葉を、人の知恵で消してはいけない。自分の中でも言葉が生きて働くようにしなさい。と、求めているのです。

3、「すべてのことを吟味して、良いものと悪いものを識別する」

これは、次の21-22節とも関係してきます。「すべてを吟味して、良いもの悪いものを識別しなさい」というのは、この手紙の流れからすると、二つの意味があると思います。一つは礼拝の説教について、もう一つは信仰生活全般について問われることです。
礼拝の説教については、パウロが手紙を書いた当時の教会には偽預言者と呼ばれる人が
「キリストの復活などなかった」とか「キリストは一人の人間に過ぎない」といった間違った教えを広めていた人達がいました。そういった異端の教えは今もあります。異端とまでいかなくても、私たちの中に、聖書の御言葉を昔話や他人事のように受け取っているところがあります。しかし、聖書の言葉は生きて私たち一人一人に問いかけています。私を知り、私に問いかける神の言葉です。もし、自分に都合のよい解釈をするのであれば、それは、悪いのもとして遠ざけなければならないものです。
そして、パウロはクリスチャンが社会で生きる者として、信仰生活全般についてしっかり吟味して識別することを指摘しています。特に今、コロナウイルスの影響によって、世界的な危機感が生活を覆っている時に、問われていることがあるのではないでしょうか。学校は休校、在宅でのテレワーク。外出を自粛する期間が続いて子どもも、大人もストレスが増しています。

4、どこに目を向けるのか

大切なことは「聖霊の火を消さないように」ということです。コロナウイルスの影響の中にあっても、聖霊の働きを消さないで、神様との繋がりの大切さを思わされます。しかし、それと反対に、神と人との繋がりを、何とか打ち消そうとするのがサタンの働きです。サタンは巧妙です。もっともらしい言葉や、心のスキをついて、人間を教会や神様から離そうとするのがサタンです。
『悪魔の格言』という本を書いた水谷潔先生が、サタンたちが新型コロナウイルスについて語っているという、ユニークな話をネットで投稿していました。その話は、二人のサタンの会話です。
「このコロナウイルスは、我々サタンにとっては追い風だ。一同に会して礼拝をしなくなった教会は困っていて嬉しいぞ。もしライブハウスみたいに、教会でクラスターが発生すれば地域との信頼は破たんだし、終息後も教会の活動に戻らない事を期待しちゃうな。集会の中止や再開の判断を巡って教会内の人間関係が険悪になることも期待できるな。しかし、ちょっとまてよ。過去の歴史を見ても、迫害や試練の中にある時こそ、教会は力を発揮してきたから、それは心配だ。礼拝中止を機会に、クリスチャンたちが礼拝の恵み、意味、目的に目覚めるとも限らない。コロナ終息後に、礼拝を義務感じゃなくて、喜んで命あふれる礼拝になってしまったらどうしよう。コロナウイルスは教会にとって、ピンチのようでチャンスになってしまう。サタンにとってはチャンスのようでピンチだ。それじゃあ、チャンスとピンチを分けるものはなんだろう? それは、クリスチャンたちが「どこに目を向けるか」だろうな。だから、サタンとしては神ではなく、目に見えるものにくぎ付けにしてやるんだ。例えば、感染が発生した時の責任リスク、礼拝人数の減少、献金の激減、問題処理に目を向けさせて、神を想定外においてもらおう。そのためには、サタンの得意技「目くらまし」だ。神の恵みが、まるで存在しないかのように目を眩ませるのだ。試練の時にこそ向けるべき、神への視線を、試練そのものへと向けさせるのだ」
という、二人のサタンの会話です。とても、ユニークでリアルで核心をついた会話だと思いました。核心というのはクリスチャンたちが「どこに目を向けるか」という箇所です。サタンの得意技「目くらまし」とは、わたしたちが本来、目を向けなければならない、神の臨在や愛や恵みが、まるで存在していないかのようにして、試練や問題そのものに目を向けてしまうことです。
わたし達は、神様を信じるようになってから、問題が一切無くなったということはないと思います。クリスチャンでも苦労はいつもついてまわります。しかし、問題が問題ではなく、起こった問題に目を向けてしまうのが問題です。神の変わらぬ愛、今もそして、地上の生涯が終わった後も続く永遠の命、それは、目には見えません。しかし、御言葉によって神の愛に心をよせる時「主が共にいてくださる」ということが分かってきます。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(ヨハネ福音書15章4節)。目には見えない神様の、「愛」というぶどうの木にとどまる時、主が共にいてくださり、「平安」という実を結ぶのです。

5、「良いものを大事にする」

今日の聖書箇所で、パウロは、「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい」と言いました。「悪いものから遠ざかりなさい」とも言いました。問題に目を向けるのではなく、目には見えない、神の愛、永遠の命、ぶどうの木なるキリストを、良いものとして大事にしていきたいと思うのです。聖霊の火を消すことなく、コロナウイルスに、優しさと思いやりで対抗していきましょう。主イエス・キリストは、私たちを霊なる家族、神の家族とするために、ご自分も苦難に耐えて命を犠牲にしてくださいました。ご自分が十字架に架かられても、聖霊によって私たちが互いに愛することを祈っています。この愛に目を向けていきましょう。お祈りをします。

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大祭司の祈り

2020年4月9 日
ヨハネによる福音書17章1-26節
和田一郎副牧師

1、大祭司の祈り

 

今日の聖書箇所17章は、イエス様がお祈りしている箇所です。ヨハネ福音書における「最後の晩餐」(13~17章)は、イエス様が弟子の足を洗うという模範と、そのあとに続く「決別の説教」、そして、説教の締めくくりとして今日の箇所「祈り」が記されています。この祈りは、聖書に記されているイエス様の祈りの中で最も長い祈りです。その内容から「大祭司の祈り」と呼ばれています。御子であるイエス様が、父なる神様に私たちのために執り成してくださっている祈りだからです。イエス様は、神様と人間との間に立って祈っていて、人間の罪を担って神様に執り成しをされました。イエス様は、真(まこと)の神であり真(まこと)人でありましたが、この神様と人間との間に立たれるという大祭司の役割は、まさしく、神であり人というイエス・キリストには変えられない祈りです。

2、イエス様ご自身のための祈り

 

大祭司であるイエス様は、ご自身の十字架の死を前にして何を祈られたのでしょうか。1節に「父よ時が来ました」と言われました。この「時」というのは、十字架の時であり、その後に続く復活とペンテコステの時です。イエス様が地上にお生まれになってから、ずっとここを目指して歩んできた、その「時」です。さらにさかのぼると、天地が造られる前から定められていた神様の救いの御業が、長い年月を経て成される「時」です。その時がついに来ました。

イエス様は、「栄光を与えてください。」と、1節と5節で祈り求めています。イエス様が十字架を前にして、求めていたものとは、何よりもこの栄光です。そしてこの栄光は、神の独り子であるキリストが、父なる神様と共に天においてもっておられた栄光です。地上に来る前に持っていた栄光であり、天に昇られたイエス様が、神の右において持っておられる栄光です。このキリストの栄光は、父なる神様と一つの栄光ですから、父なる神様の御心と一つでもあるのです。イエス様は、十字架を目前にして、自ら十字架に架かることによってその栄光を現すのだ、と受け止めておられるということです。地上の生涯においては、真(まこと)の人として、栄光とはほど遠い姿で歩まれました。しかし、真(まこと)の神として、天において持っておられた栄光を十字架で現すのです。

イエス様は3節で、永遠の命について、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と言われます。

永遠の命とは、父なる神様とイエス・キリストを知ることだというわけです。ここでいう「知る」という言葉は、知識としてあの人を知っている、というような意味の「知る」ではありません。知るというのは、人格的な関係を意味しています。人格的に深く交わること、その方との深い信頼において、その方無しには自分本来の命はないと知ることです。それは「愛する」と、一言で言い換えてもよいと思います。父なる神様とイエス様を、深い人格的な愛の関係において生きる。それが永遠の命に生きるということです。

父なる神様とイエス様との深い交わりがあり、そこに私たちも加わることができる、その交わりこそが「永遠の命」なのだと言うのです。

3、弟子たちのための祈り

 

9節では「彼らのためにお願いします。世のためではなく、私たちに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです」と記されています。イエス様は、「私たちに与えてくださった人々のためにお願いします」と祈っているのですが、これは弟子たちのことを指しています。「世のためではなく」と、あえて言われてますが、ヨハネによる福音書の中で「世」と言った場合、それは神など必要としない、と思っている人々のことを指しています。しかし、それは決して「世」はどうでも良い、としていたのではないのです。順序として、まずは弟子なのです。これは、救いの秩序と言っても良いことです。神様は、いきなり世のすべての人を救うのではなく、まず弟子たち、それから弟子によってイエス様を信じるようになる人々、その人々が増え続けることによって「世」を救おうとされました。また、この祈りは、現代において、弟子たちの働きを担っている、私たちのために祈られた祈りとも言えます。

15節では「私たちがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」とあります。イエス様はご自身が十字架に架かって世を去ることを意識しており、そうなった時に、残された弟子たちの行く末を案じていました。

もし、弟子たちが信仰から離れてしまうというようなことになれば、誰が福音を福音として、この世に広めるのでしょうか。この重要な役割を与えられていたのが、最後の晩餐の席にいた、弟子たちです。ですから、イエス様は彼らのために「守られるように」と祈ったのです。

4、弟子たちの働きを通して救われる人々のための祈り

 

20節では、「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によって私たちを信じる人々のためにも、お願いします」と始まります。20節以降でイエス様は、弟子たちによって、イエス・キリストを救い主として信じるようになった人々のために祈りました。弟子たちによって彼らの言葉や、彼らの働きによって、イエス様を信じるようになった人々への祈りですから、教会のために祈られた祈りとも言えます。ここで分ることは、イエス様が私たちのために祈ってくださった、自分は祈られている者だ、ということ、そして、その祈りは、今現在においても祈られていると、知ることができるのです。

21節では、「父よ、あなたが私たちの内におられ、私たちがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちたちの内にいるようにしてください」と記されています。イエス様は、教会に繋がる兄弟姉妹が一つであることを祈ってくださっています。そして、三位一体である、父なる神様と独り子イエス・キリストの一体性を示しつつ、父なる神様と子なるキリストが一つであるように、教会を一つにしてくださいと言うのです。

三位一体の父なる神様と独り子キリストの一致は、まさに神秘的な統一性にありますが、「彼らも私たちの内にいるようにしてください」と続いているように、私たちが一つになるというのは、この三位一体の神秘的な一致の中に、父なる神様と独り子キリストとの、永遠の交わりの中に、私たちも入れられるという、これ以上にない恵みを示しています。先ほど、父なる神様とイエス・キリストを知ることは、人格的な愛の関係を生きる、それが永遠の命だと話しました。まさしく三位一体という愛の関係の中に、私たちも招かれている、素晴らしい恵みに与っているということなのです。

まとめ

 

今日のイエス様の祈りは、大祭司なるイエス様が、ご自身の祈りから始まって、私たち教会、私たち信徒一人一人を、父なる神様に執り成す祈りでありました。いつの時代でも、教会が一つになるところから、その愛が外に向かって溢れていきます。地域にいる困難を覚えている人、孤独な人、子どもたち、福音を必要とする人に向かっていきます。そのような教会の一致は、世の中に光を照らします。私たちが一つになって役割を担う姿を見ながら、世の中の人は、神様がイエス・キリストをこの世に送ってくださった意味をしることになります。救い主が、今も生きておられることを知るようになるのです。

イエス・キリストは、父なる神と、罪深い私たちとの間に立たれて、執り成してくださる方です。救いの御業のその時の為に大いなる犠牲を担ってくださいました。

その、主のご受難を覚えて、この一週間の日々を歩んでいきたいと思います。

お祈りをします。

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祈祷会

弟子の足を洗う

和田一郎副牧師

2020年4月6 日
ヨハネによる福音書13章1-17節

1、過越の祭りと最後の晩餐

今日の聖書箇所は、最後の晩餐の場面です。イエス様が弟子達の足を洗うという出来事は、この最後の晩餐の中で行われた事です。この出来事は、他の3つの共観福音書では「過越の食事」と記されています。ですから、今日の聖書箇所には「過越祭の前」とありますが、最後の晩餐は「過越の食事」としてイエス様が弟子達と一緒に食事をとったのです。そして、最後の晩餐が「過越の食事」であることは、とても大切なことです。「過越の食事」は出エジプトの出来事があってから、イスラエルの人々にとって、自分たちの災いを過ぎ越してくださったことを忘れないための、大切な儀式でした。かつてイスラエルの民が、エジプトで奴隷とされていた時に、神様がモーセを指導者として立てて、10の災いを通して、イスラエルをエジプトから救い出しました。その時、最後の10度目の災いは、すべての家の初子、家畜の初子はさばかれて死ぬというものでした。しかし、家の戸口に子羊の血を塗るなら、神のさばきはその家を過ぎ越し、その家の中にいる初子は救われます。イスラエルの民は命じられたとおり子羊の血を塗ったのです。しかし、エジプト人は血を塗らなかったので、神のさばきによって彼らの初子はすべて死に、エジプト全土に災いがくだりました。そして、この神のさばきを通して、イスラエルの民はエジプトから救い出されました。過越の出来事は、さばきと救いの出来事です。イスラエルの民が、この出来事を忘れないように、毎年行われていたのが、過越の祭りです。
神様の計画は、過越の祭りの時に、独り子であるイエス・キリストが十字架に架けられ死ぬということでした。そして、人々が救われるためには、過越の出来事と同じように、子羊の血が必要でした。イエス様はそのほふられる子羊となって血を流し、その血によって私たちは神のさばきから救われます。エジプトで起こった過越の出来事は、始めからイエス・キリストの十字架を示していました。そして、最後の晩餐は、イエス様がみずからが過越の羊となられることを、後に弟子や主に従う者たちが思い起こせるように意図されました。過越の食事を、救いの主に在る食卓へと置き換えたのです。
さて、この食事は1節にあるように、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とあって、そして、この過越の食事がはじまったことが分かります。この最後の晩餐で成されたことの、一つ一つにイエス様の愛が示されています。

2.弟子の足を洗われる

イエス様は突然立ち上がり、上着を脱いで手拭いを腰にまとって、そして弟子たち一人一人の足を洗われました。当時の人々の履物はサンダルのようなもので、足は埃でとても汚れていました。その足を洗うのは、当時では召使いがする仕事でした。この時この家には召使いがなかったようです。12人の弟子達の足は汚れたままで、その足をイエス様が洗いはじめたというのです。 ペトロはイエス様に足を洗ってもらうことなんて、もったいないという思いから「わたしの足など、決して洗わないでください」。と頼みます。それは率直なペトロの言葉でしょう。しかし、イエス様は「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われました。ペトロはそれだったら「主よ、足だけでなく、手も頭も」と頼みます。イエス様は彼に言われました。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」、と言って、イエス様は弟子たち全員の足を洗ったのです。
「全身清い」というのは、洗礼を現していると考えられています。私たちは洗礼を受けることによって、イエス様との新しい繋がりが与えられます。イエス様が差し出してくださる、救いの恵みに与るだけです。イエス様が私たちを生かすために、召使いのように仕えてくださったのですから、この救いの恵みを感謝をもって、受け入れていきたいと思うのです。

3、互いに足を洗い合う

イエス様は、弟子の足を洗った後に言われました。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わねばならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」。(14-15節)これは、イエス様によって足を洗っていただいた者、つまりイエス様の十字架による罪の赦しに与った者は、互いに足を洗い合いなさい、ということです。
しかし、16節に「はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない」とあるように、私たちが互いに足を洗い合うといっても、イエス様のように、完全な罪の赦しを与え合うことなど出来ません。しかし、私たちは互いに罪を赦し合い、互いに支え合うという、神の家族を作るために召されているのです。
ここで、イエス様が「互いに足を洗い合わねばならない」、と言われた教えの「互いに」という言葉に注目したいと思います。イエス様が私たちの足を洗ってくださったから、「私も赦す」ということは相応しいことです。しかし、イエス様が言われているのは「互いに」とあります。つまり、私は赦す者でもあるし、時として赦してもらう必要もあるのです。私たちの心のどこかで「赦してやろう」といった、上から目線の思いが隠れているように思います。そうではなく、自分も赦してもらわなければならない。そういう者である。私たちは神様に赦していただかなければならない者ですし、隣人にも赦してもらわなければならない者です。
そもそも、私たちは塵の土から生まれ、土に帰っていくにすぎない者でした。ところが、神様がイエス様をこの世に送ってくださり、苦難と十字架の死を受けて下さったことで、神様のとの繋がりが回復しました。そして、キリストに従う者たち同士が、互いに繋がることを求めてられています。互いに足を洗い合い、互いに仕え合い、互いに赦し合う、神の家族に加わる者として召されています。
イエス・キリストは、その神の家族という繋がりを築くために、大きな犠牲をはらってくださいました。主のご受難を覚えて、この一週間の日々を歩んでいきたいと思います。
お祈りをいたします。

受難週の日々、今日も与えられている命に感謝いたします。
今、わたしたちは新型コロナウィルスの感染の恐れの中にいます。どうか、世界に広がる感染の恐れを取り除いてください。この町の人々の安全を守ってください。この恐れの最前線にいる医療従事者を、あなたが守ってくださいますように。
健康に不安を抱える人を支えてください。命を司る神様、あなたの力に依り頼みます。
わたしたちに先立って、痛みと苦しみを受けてくださったイエス様の受難を覚えつつ、
主イエス・キリストの名前で祈ります。

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主日共同の礼拝説教

感謝の作り手

和田一郎副牧師
出エジプト記16章1-8節,1テサロニケ5章16-18節
2020年3月29日

はじめに

私たちは、この一週間を新型コロナウィルスのことで、不安や戸惑いの中で過ごしています。外出を自粛するように求められて緊張を強いられる状況にあります。私たちの教会もかつてなかったことですが、今日の礼拝はインターネットで映像を配信する礼拝となりました。そのような中で、今日の御言葉は「いつも喜んでいなさい、祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい」という御言葉です。今の状況にミスマッチな御言葉に思えてしまいます。しかし、神様の御言葉にミスマッチはありません。御言葉は自分で選ぶものではなく与えられるものです。
あの「山上の説教」の中でも、イエス様は言われました。「心の貧しい人々は幸いである」「悲しむ人々は幸いである」と。あの山に集まっていた人達は、お前たちに神様の祝福などはないと言われていた人達でした。自分達でもそう思っていたのです。ですからイエス様に「心の貧しい人、悲しむ人は幸いである」と言われても「ミスマッチだ、なにが幸いだ」という驚きがあったのです。(マタイによる福音書5章1-4節)
今日の御言葉も、いつも喜んでいなさい、祈りなさい、どんなことにも感謝しなさいと言われても、今はそんな気分じゃないと感じます。楽しみにしていた外出や集会も、延期かキャンセルです。それどころか仕事がどんどん減っている人がいます。収入の見通しがたたない人がいます。逆に仕事が忙しすぎて疲れている人もいます。もし、この御言葉を本当に受け止めようとすれば、逆に厳しい言葉に聞こえてきます。しかし、神様にミスマッチはないと言いましたが、自分に対して不釣り合いな、神様の問いかけなどはないはずです。

Ⅰ.いつも喜び、祈り、感謝する

この御言葉は、パウロが自分の経験から、このことを書いているといえます。パウロが、かつてフィリピの町に行った時のことです(使徒言行録16章16-34節)。同行していた弟子のシラスと一緒に捕らえられ、牢に入れられてしまいました。パウロ達が町を混乱させていると、言いがかりをつけて役人に引き渡したのです。パウロ達にとってみれば、思ってもみなかった理不尽な出来事でした。二人は衣服をはぎ取られ鞭で打たれ、足に
は木の足かせまでつけられ、牢に入れられました。牢には他にも囚人がいましたが、二人は一番奥の牢に入れられ、鞭打ちの痛みに耐えていたはずです。ところが、夜になって彼らは「賛美をして、祈っていた」というのです。賛美というのは、神様のことを喜び感謝し称えて歌うことです。喜びと感謝がなければ賛美はできません。彼らの喜びと感謝の思いが、その牢獄の中に響きました。「ほかの囚人たちは聞き入っていた」とあります。真っ暗な牢獄が、彼らによって神を賛美し、礼拝する場となっていたのです。そこに突然、大地震が起こりました。牢の戸が開き、すべての囚人の鎖が外れてしまったのです。厳重に監視するように命令されていた看守は、てっきり囚人たちは逃げ出したに違いないと思い込んで「剣を抜いて自殺しようとした」。しかし、すでに喜びと賛美の場となっていた牢の中の囚人たちは、パウロに倣って誰一人として動かなかったのです。看守の耳に「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」というパウロの声が聞こえました。こうしてこの看守は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という言葉を受け入れました。
あの牢獄の中で起こったことは、いったい何だったのでしょうか。もともと、そこは殺伐とした希望の見えない暗い場所でした。看守たちにとっても、囚人たちにとっても喜びなど生まれない場所だったのです。そこに、パウロとシラスが入れられて、彼らの中から喜びと感謝から湧き出る、賛美が歌われ始めました。そして、看守にも囚人の心にも伝わったのです。神への喜びと感謝する者のもつ「自分には無い何か」です。
その後、信仰を受入れた、看守とその家族はその喜びを分かち合った、と記されています。喜びは喜びを生み、感謝が感謝を生んでいきました。どのような場所であっても、神を喜び感謝するところで状況は変えられます。パウロが、あの暗い牢獄の中で、鞭打ちの痛みに耐えながら、そんな時でも賛美できたのはなぜでしょうか。

Ⅱ.キリスト・イエスにおいて

今日の聖書箇所「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい」に、続く言葉は「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(18節)とあります。キリスト・イエスにおいて、喜び、祈り、感謝することを神は望んでおられるというのです。パウロは、自分自身の経験においても、キリスト・イエスにおいてこそ喜び、感謝できたからです。パウロが宣教活動の中で、鞭で打たれたのは今回だけの事ではありませんでした。パウロは次のように言っています。「鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました」。まさに苦難に苦難を重ねた人生です。(コリントの信徒への手紙二 11章25-26節) 私たちの人生にも、行き詰まりがあったり、道を見失ったりすることがあります。パウロも偉大な宣教者として類まれな賜物を発揮しながらも、苦難を味わって生きていました。その波乱万丈な生き方の中で、パウロは自分のウィークポイント、自分のスランプ、そこに神様の恵みは働いて、十分に満たしてくださることを経験したのです。
パウロが、自分の弱さを取り除いてくださいと願った時、パウロは主の言葉を聞きました。「主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。(私の)力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』」と、パウロは聞いたのです。だから、「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と確信をもったのです。(コリントの信徒への手紙二 12章9節)
パウロの確信というのは、「キリストが私の中にいる」というところです。その自分の中のキリストは、おごり高ぶったり、自分を過信するところでは働かず、「自分の弱さを知る」ところでこそ、十分に発揮されるものだと。
パウロの波乱万丈な生き様は、私たちには、強さのようにも見えます。くじけることがない強い意志、強さに見えますが、パウロにとっては「弱さを知ること」でした。
それは、キリストの弱さと重なるのです。イエス様がののしられ、鞭を打たれて十字架で死なれた姿は、まさしく弱い者の姿そのものでした。しかし、そこに十字架の勝利がありました。イエス様は弱さの中で栄光を現わした方です。パウロはイエス様が成してくださったことと、自分の受けた苦難を重ねて「弱さの中でこそ強い」と言ったのです。自分の中にいるイエス様が、弱い時こそ強さを発揮される。この確信があって、そのことを喜んで、そのことを祈って感謝したのです。

 

Ⅲ.感謝の作り手

そんな、パウロに比べると、私たちは喜びや感謝よりも不平不満ばかりが口から出てきてしまうのではないでしょうか。旧約聖書の中で、エジプトの奴隷生活から解放されたイスラエルの民が、あれだけ神の救いと恵みをいただいていたのに、口から出てくるのは感謝どころか、愚痴や不満ばかりでした。これから長い旅が始まる、新しい荒れ野での生活が始まる時、不安と期待がある中で「飲む水が足りない、食べるものはどこだ」と、先行きの不安が、愚痴や不満となって、それは家族や民全体に広がっていったのです。(出エジプト記 16章3-10節)
早いもので、今日は3月の最後の日曜日ですので、今年度も終わりに近づいてきました。今週からもう4月です。新しい生活が始まる人もいるかと思います。新しいクラス、新しい職場、新しい人との出会いもあるのではないでしょうか。イスラエルの民のように、これから新しい旅が始まる時の、ちょっとした不安もあると思います。まして、コロナウィルスの影響で、なおさら心が揺さぶられ、先が見えない不安があります。オリンピックも延期されてしまって、こんなことが、自分の人生の中で起こるものだろうかと考えてしまいます。しかし、思い起こしてみると9年前、東日本大震災の時も「こんなことが、自分の人生に?」という経験をしました。
私はその時にボランティアで行かせて頂いた、気仙沼の教会の嶺岸先生のことを思いだします。ご自身も被災者として仮設住宅での生活をしていた先生が、いつも「感謝です、感謝です」と、口癖のように言っていた姿を思い出します。その感謝する姿から、こちらも感謝の思いが湧いてきて、感謝が感謝を生む様子を見ていると、とても励まされました。嶺岸先生は「感謝の作り手」、感謝が湧き出て、感謝をまわりに配っていたと思います。あのような災害にあっても、自分と共にいる神様に「あなたは弱い時こそ強い方、あなたの恵みはわたしに十分です」、という御言葉を現わしているように思いました。
私たちの生活の場に、感謝の心を携えて派遣されて行きたいと思います。受ける者ではなく与える者として、喜びを作り感謝を与える者として、生活の場に仕えていきましょう。お祈りをいたします。