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主日共同の礼拝説教

キリストの忍耐

和田一郎副牧師
詩編86編11~17節
テサロニケの信徒への手紙二3章3~5節

2021年3月28日

はじめに

今月私たち夫婦は結婚7周年を迎えました。しかし、時々喧嘩にもなります。ほとんどの喧嘩がゆっくりしている妻に対して、私は「もっと早くもっと効率よく」とイライラして喧嘩になることが多いのです。また、3歳の息子はなんでも自分でやらないと気が済みません。夫婦の関係も子育ても、早く、効率よくということは当てはまらないと最近思いました。今日は皆さんとテサロニケの手紙から御言葉を分かち合っていきたいと思います。

Ⅰ.今を生きる

今日の聖書箇所3節でパウロは「しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます」と記しています。前の節でパウロは、自分たちが迫害を企てる悪人どもから守られるように祈ってください、と伝えました。そして、今日の箇所では、自分たちを守ってくださる神様は真実な方ですから、テサロニケの信徒たち、あなたがたのことも、必ず守ってくださる。そして、これまで自分が命じることをテサロニケの人々は現に実行しているし、これからも実行してくれると確信している。と言うのです。パウロがこれまで「命令してきたこと」とはいったい何でしょうか。
テサロニケの手紙は1と2があって、二つの手紙は間をおかずに続けて送られたと言われています。この中でパウロがテサロニケの人々に教えてきたことの一つは、再臨の正しい理解です。再臨は、いつかまたイエス・キリストが来られて、キリストの裁きを受けたのちに、キリストが神の国をこの地上に打ち建ててくださることです。それは私たちクリスチャンにとって喜ばしい時です。しかし、それが、いつ来るのかは分かりません。ところがテサロニケの人々の中には、再臨の時がいつ来るのかと気にしてばかりいて、問題になっていました。そんな彼らをパウロは戒めたのです。パウロは次のように教えました。
「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、私たちは生きていると言える」(テサロニケの信徒への手紙一3章8節)と教えたのです。
彼らにパウロが命じたことは「今を生きる」ということです。いつ起こるか分からないことを気にして生きるのではなく、もっといい生活があるはずだと、今をおろそかにするのではない。再臨の希望を心に留めながら、今をどう生きるのかをパウロは示しました。
少し話が脇にそれるようですが、来週から使う「聖書協会共同訳」では、今の聖句は「私たちは今、安心しています」と訳されていて「生きる」という言葉が抜けていました。しかしギリシャ語の原文では「生きる」という言葉があるので、新共同訳の「今、私たちは生きている」という訳の方が原文に忠実だと思います。パウロがこのテサロニケの手紙で教えていることは、再臨の理解をしっかり説明したうえで、今をしっかり生きるということです。
「メメントモリ」という言葉があります。「死を覚えよ」という意味です。命に限りがあることを心にとめて、今を生きることに目を向ける言葉だそうです。パウロはこの手紙の中で、再臨の時を心にとめて、今を生きることを勧めています。それを「聖なる者となる」とか「主に倣う者になる」と表現してきました。今をどのように生きるのかという具体的な教えが、みなさんもよく耳にする、テサロニケ第一の手紙5章の言葉です。
「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(テサロニケの信徒への手紙一5章14-18節)。
このように、今を生きることをパウロは教えているのです。今私たちは生きている。キリストの命を生きています。それはキリストの復活の命であり、永遠の命に与って生きることを意味します。生けるイエス様と今、共に生きるということです。
「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられる」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節)。それが、今日の聖書箇所4節で、パウロがテサロニケに人々に命じてきたことの意味です。これはキリストの復活を理解するうえでも、クリスチャンとしての自覚を考える時にも、そして福音という良い報せの意味を知るうえでも大切なことです。

Ⅱ.キリストの忍耐

続いて、今日の聖書箇所5節で「神の愛」と「キリストの忍耐」とを悟りなさいとパウロは結んでいます。これはイエス様をまだ信じていない人を、信じて救われるように待っているという忍耐です。キリストの忍耐について、パウロはローマ書で次のようにのべていました。
「滅びることになっていた怒りの器を、大いなる寛容をもって耐え忍ばれた・・・」
(ローマの信徒への手紙9章22節聖書協会共同訳)
とありました。パウロは、イエス・キリストをまだ信じていない不信仰な人たちを「大いなる寛容をもって耐え忍ばれ」ているというのです。それがキリストの忍耐です。イエス様が話された「ブドウ園の労働者と主人」の話が、このことをよく表していると思いました。

Ⅲ.ブドウ園の主人の忍耐

あるブドウ園の主人が、農園で働く労働者を雇います。最初は夜明け行って一日1デナリオンで雇います。次に9時に広場に行くと、まだ人がいたので雇います。さらに同じ条件で12時、3時と広場に行って雇った。最後に夕方5時ころにまた行くと、まだ人がいた。主人は、この人たちもブドウ園に送り込んだ。夕方になって主人は、最後に来た者から順番に報酬を払うように命じた。5時から働いた人に1デナリオンが支払われた。途中から来た人にも、朝一番から働いていた人にも同じ1デナリオンを払いました。当然のようにクレームが出ました。早朝からフルに働いた人は「何で最後に少ししか働いていない、彼らと同じ報酬なのだ」と言います。けれども、主人は約束を破っていません。「友よ、あなたは私と1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。」という話です。
気前の良い主人は、神様に譬えられていて、神様が与えてくださる恵は、働く時間の長さや、仕事の質で測ることをなさらないということです。信仰生活が50年であろうと、数日間の信仰生活であっても神様の恵は同じです。
洗礼を受けたばかりの頃の私は、どう考えても不平等だと思えて理解できませんでした。しかし、それだけこの話は、人間的な価値観と神様の価値観が違うという典型的な話だと思います。私が思うには、ブドウ園の主人は朝一番で仕事を探している人全員に来てほしかったのだと思います。でも呼びかけに応じた人は一部の人だったのです、ですが主人はまた広場に行きました。一日に何度も「ブドウ園で働かないか?」と呼びかけに行ったのです。もしかしたら、呼びかけたのに応じないで様子を見ている人も、いたのではないかと思うのです。そんな人もいるのを承知で、主人はまた呼びかけに行った。しかし、主人は「何でまだ来ないんだ!」とイライラして我慢して呼びかけに行ったのではない。大いなる寛容をもって耐え忍ばれて呼びかけに行った。そして最後に、気前良く支払いをしてくださる、それが神の忍耐です。
いつものブドウ園の労働者のたとえ話を、ちょっと違った解釈からお話をしましたが、これは自分の経験からも思わされます。私は小さい時から親と一緒に教会に行く機会はありましたが、決して自分から教会に行くことはしなかった。呼びかけに応じなかったのです。社会人になってから信仰を持つことができました。それまでイエス様は本当に忍耐してくださったのだなと思います。キリストの忍耐によって生かされている。その寛容な忍耐に今とても感謝しております。
先週、長年教会学校の奉仕をされている姉妹と話しをする機会がありました。その姉妹は、教会付属のみどり幼稚園の先生もされていたそうです。その卒園生にずっとクリスマスカードを送っていると聞きました。最初の生徒さんは、今60歳を過ぎたと聞いて驚きました。今も毎年、聖書のみ言葉が書かれたカードを送っているそうです。中には信仰をもっていない人もいて「先生が送ってくれたカードの御言葉と同じ言葉が、近くの教会に張り出されていました。それで久しぶりに聖書を開きました」というお便りが来たそうです。信仰をもつか持たないかは分かりませんが、ひたすら何十年も御言葉付きのカードを送っている。その姉妹は「いつになったら信仰をもってくれるのかな?」とイライラしてカードを送っているのではないのです。「自分は本当に恵まれている」と話していました。
その姉妹の話と、ブドウ園の主人が呼びかけ続けていたこと、神様が再臨の時まで、寛容な忍耐をもって救いに招き続けている、忍耐の意味が分かるような気がしました。
パウロは、そのキリストの寛容な忍耐を悟りなさいとテサロニケに人々に伝えています。迫害など、いろいろと問題があって宣教が進まなくても、キリストは寛容に忍耐してくださるから、焦らずに、しっかり今を生きて福音を伝えなさいと教えているのです。
神様は、悪をもって悪に報いてしまう、私たちのことを知ってくださいます。弱い人を支えられない、いつも喜ぶことができない、祈ることができない、感謝を忘れてしまう私たちの弱さを知っていてくださいます。そのように今を生きるということができない、私たちの欠けを知っていて、それでも今も寛容をもって忍んでくださっています。神の愛、キリストの忍耐を悟り、今、与えられている中で、生きていきたいと思うのです。
お祈りをいたします。

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共に生きる

和田一郎副牧師
ルツ記2章1-4節、テサロニケの信徒への手紙二3章1、2節
2021年2月28日

Ⅰ. コリントでの困難な状況

今日の聖書箇所のはじめに「終わりに」とパウロは記しています。パウロがテサロニケの教会の人々に宛てた手紙も、終わりに近づいています。これまでパウロはテサロニケ教会に向けた手紙の中で、神様に喜ばれる聖なる生活について、この手紙の中で教えてきました。まだ、できたばかりのテサロニケ教会は、ユダヤ人たちに迫害されることもあったのですが、パウロは手紙を通して彼らを励まし続けていました。しかし、実はパウロも困難な状況の中にいたのです。パウロはアテネという学問の盛んな町で宣教をしましたが、そこで教会を形成することはできませんでした。次にたどり着いたコリントの町は、腐敗と繁栄が入り混じった大きな町でしたが、このコリントの町でもユダヤ人による妨害があったのです。ある夜、パウロは幻の中で神様の言葉を聞きます「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる」(使徒言行録18章10)。苦難の中にいるパウロには、このような励ましの言葉が必要でした。多くの人々を信仰に導き、励ましてきたパウロ自身も、実は励ましと支えを必要としていたのです。
そこで今日の聖書箇所3章1節で、パウロは求めるのです。「兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように」。テサロニケにパウロが滞在したのは、たった3週間程であったと言われています。そこで福音を信じた信仰者たちは、パウロが去った後もテサロニケで教会を形成したのです。テサロニケ教会でそうであったように、パウロが今滞在しているコリントでも速やかに福音が宣べ伝えられるように、祈って欲しいという祈りの要請です。しかし、それは簡単なことではない。テサロニケの町でそうであったように、ここコリントでもパウロの宣教活動を妨害するのはユダヤ人でした。しかし、考えてみますと、イエス様もパウロもユダヤ人です。なぜ、パウロが行く先々でユダヤ人たちの妨害を受けたのでしょうか。

Ⅱ. ユダヤ人

新約聖書の時代、ユダヤには多数の信仰グループが存在しました。ファリサイ派やサドカイ派などの分派がたくさんありました。しかし、彼らの信仰は旧約聖書に記されている本来の信仰からは、それぞれ逸れてしまって、偏った解釈のもとで信仰を守っていました。多くのユダヤ人はユダヤ人以外の民族を「異邦人」と呼んで、人間として低くみなしていたのです。しかし、イエス様は、ユダヤ人が救いには与れないと決めつけていた異邦人にも救いがあると説いたので、彼らとの間で緊張が生まれました。そして、十字架の贖いによって、それが決定的になりました。すべての人々に救いの道が開かれたのです。パウロは、その救いの道を福音として広めたのです。特に異邦人宣教のために、復活したイエス様から召命を受けて、諸外国の異邦人伝道の働きにつきました。ですから異邦人に神様の祝福などはあり得ない、としていたユダヤ人から攻撃の的となったのです。同じユダヤ人、同じ唯一の父なる神様を信仰していたが故に、その理解の違いからパウロは行く先々でユダヤ人の妨害にあったのです。今日の聖書箇所の2節に「道に外れた悪人ども」とは、ユダヤ人のことであり、「すべての人に信仰があるわけではないのです」というのも、イエス・キリストを救い主であると信じる信仰を、すべてのユダヤ人がもっているわけではないとパウロは説明しているわけです。だから、「祈ってください」自分の働きには祈りが必要なのだと、祈りの要請をするのです。

Ⅲ. 祈ること、共に生きること

今日の箇所は「祈ってください」という、相手にお祈りをお願いしている箇所なのですが、パウロが祈りの要請をしている箇所は、他の手紙でも多く見ることができます。
「“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、」(ローマ書15:30)。「わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください」(コロサイ4章4節)。パウロは相手のためにいつも祈る人ですし、「祈って欲しい」と求める人です。
ボンヘッファーという神学者は「キリスト者は、日ごとに共に生活すべき人たちである・・・すべてのキリスト者の共同生活の核心とも言うべき点は・・・その成員相互のとりなしの祈りによって生きるのであり、それがなければその交わりは壊れてしまう」(『共に生きる生活』)。つまり、互いに祈り合って生きる日ごとの生活が、キリスト者をキリスト者たらしめると言っているのです。ひとつの教会に繋がる信徒同士が、互いに祈り、祈られる、それがキリストにあって「共に生きる」ということなのです。
今日お読みした、旧約聖書ルツ記の箇所は、ルツという女性が姑のナオミと二人でベツレヘムにやってきた時の話です。やもめになって先行きに不安のある女性二人が、その町にやって来ました。嫁のルツは、ある畑に行って落穂を拾わせてもらおうと思いました。収穫をしている他人の畑に行って、落ちている麦の穂を拾わせてもらう。貧しい二人が食べていくには、この方法しかありませんでした。そこに畑の主人がやってきて、作業をしていた農夫たちとあいさつをするのです。主人が「主があなたたちと共におられますように」と言うと、彼らは「主があなたを祝福してくださいますように」と挨拶を返しました。執り成しの祈りが、そのまま挨拶になったような、温かい信仰共同体の様子を見ることができます。その温かい信仰共同体の中に入ることができたナオミとルツは、神の祝福を得ました。神様において結ばれた信仰共同体においては、信仰によって「共に生きる」という、恵に満たされた生活があります。
テサロニケの手紙に戻りますが、互いに祈り合うといっても、パウロのように「自分のために祈って欲しい」と、なかなか言えない思いもあると思うのです。「誰かのために祈りましょう」とは言えても、「私のために祈って欲しい」と口に出して言えない人というのは多いように思います。日本人は、人にお願いごとをするのを遠慮する文化があります。相手に心配させたくないですし、困っていることを人に打ち明けることをはばかる思いがあると思うのです。しかし、今日の聖書箇所から、パウロはそのような遠慮をする文化から一歩踏み込んで「祈って欲しい」と祈り合う、キリストにある交わりの奥深さを勧めているのです。
わたしは、亡くなった母の言葉で大切にしていることがあります。母が病気で入院している時、亡くなる数か月前のことだと思います。母は自分が天に召されて葬儀を行う時に、誰に何を依頼すべきか、リストにして紙に記してありました。葬儀の司式をする牧師先生、オルガンの奏楽者、控室での食事の支度をお願いする近所の方々などです。その紙を私に渡して「人にお願いごとをするのも、大切なコミュニケーションなのよ」と言いました。私は言われた通りに、皆さんにお願いをしました。そして、そのことをずっと大切にしてきました。母の名前は頼子です。「神様に依り頼む人」という意味をこめて「頼む子」と付けられたそうです。それで私も自分の息子に、人を信頼して、人に頼り頼られて育って欲しいので「頼人」と名付けました。人と祈り祈られる人になって欲しい、神様に信頼して依り頼む人になって欲しいと思いました。
パウロは、「自分のために祈ってくれなくても大丈夫」などと言うことはありませんでした。むしろ「祈って欲しい」「祈ってください」と何度も依頼しました。それは祈りを通して生み出される、力を信じていたからです。

Ⅳ. 祈ってください

パウロの手紙を読んでいると、パウロの祈りの要請は、その相手や目的も多様であることに気づきます。ある時は「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」(ローマ書 12章14)と祈るのです。先ほども話ましたがパウロはことごとくユダヤ人に迫害を受けてきたのです。その「ユダヤ人の祝福を祈ってください」と、相手に求めているのです。ある時は「夫婦は互いのために祈ってください」(一コリ7:4-5)と求めますし、弟子のテモテには、「王や政治家のために祈ってください」(一テモ2:1-2)と祈りを求めています。さらにパウロは言うのです、祈りというのは、その人の内にある「霊が祈っている」(一コリ 14:14)。そして、祈る人は「祈りによって聖なるものになる」と告げています(一テモ4:5)。わたしたちキリスト者は、祈り祈られる関係において、聖なるものとされていきます。
コロナ渦の中で互いに会うことが難しい状況があります。このような状況で「祈ってください」というのは、神様の呼びかけではないでしょうか。私たちが遠慮から一歩踏み出して、祈りを求めることは、信頼されている喜びを相手に生み出します。そうした愛の良いわざを行うことは、神の栄光を表すことになるでしょう。それを祈り合うことを通して、求められているのではないでしょうか。
先日、教会の仲間が引っ越しをするので、お手伝いをしました。小さい車に荷物を詰め込んで、教会のみなさんと荷物を運んだのです。荷物を運び終わって「これから友人の新しい生活が始まるのだな」と思いました。一緒に手伝っていた人から「祈ってください」と言われたので私はそこで祈りました。無事に引っ越しができたことと、新しい生活を祝福してくださいと祈りました。ついさっきまで空っぽで何もなかった部屋に、家具が運ばれて、最後に皆さんと祈った時、そこに息吹が吹き込まれたように思いました。イエス様は、「わたしの家は、祈りの家」だとおっしゃいました。友人のその家はイエス・キリストにある、聖なる住み家になるのだと思いました。「兄弟たち、わたしたちのために祈ってください」。祈ることを通して、神の栄光を表していきましょう。
お祈りしましょう。

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神の言葉を生きる

和田一郎副牧師
エレミヤ書9章22-23節、テサロニケの信徒への手紙二2章13-15節
2021年1月24日

Ⅰ.感謝という信仰告白

テサロニケの信徒たちは、パウロの手紙によって大いに励まされたことと思います。テサロニケの手紙は、他の手紙よりも励ましの思いが強いと思うのです。それは、パウロの祈りにおいて、繰り返し神様に感謝しているからです。13節「主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません」。
パウロがいつも感謝しているのは、相手への感謝ではなくて、神様に感謝しているというのが特徴です。わたしたちは感謝することを、すぐに忘れてしまいます。愚痴や不満に思うことの方が多いのではないでしょうか。コロナ禍の中にいる今ですから、感謝できない言葉ばかりかも知れません。
イエス様がある村に入られた時、病を患っている人たち十人が声を張り上げて「イエス様、わたしたちを憐れんでください」と助けを求めました。イエス様は彼らを憐れんで病気をすっかり癒してくださったのです。しかし、そのことでイエス様のもとに戻ってきて感謝したのは、たった一人であった。他の九人は治ったらさっさと何処かへ行ってしまったのです。戻ってきた一人は病気だけではなく、本当の生き方を見いだして永遠の命を得たのです。イエス様は優しく「あなたの信仰があなたを救った」と言ったのです。
目に見えることも、目には見えない物事も、神様はその日その日で、必ずなんらかの恵みを与えてくださっている。今、生きていること、家族がいること、嫌な出来事でさえ万事を益として自分を整えようとする、神様の働きがあるのだ。そう思えた時、感謝は信仰の告白となります。パウロは、いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい、これこそが神様が望んでおられることなのですと、教えてくださいました。
パウロは、信仰においてテサロニケの人々のために、何度でも感謝できたのです。たとえ彼らの信仰理解が十分でなくても、怠けた生活を送った人がいても、パウロは感謝せずにはいられなかった、なぜなら、神様は必ず良い結果をもたらす恵みを与え続けて下さっている、という信頼があったからです。それがパウロの信仰です。パウロには感謝する、具体的な事柄がありました。
13節後半。テサロニケの人々が、パウロの宣教によって信仰をもち、その信仰が大いに成長して、聖なる者になっていることを喜んでいるのです。「初穂としてお選びになった」とありますが、神様はテサロニケの人々を、初めから救おうと計画されていた。天地創造という、世界の基の置かれる前からテサロニケの人々は神の選びにあったと喜んでいるのです。

Ⅱ.「義人であり、同時に罪人である」

「聖なる者とする“霊”の力」という言葉が13節にあります。テサロニケの人々や、わたしたちクリスチャンは聖霊の力によって「聖なる者」とされていきます。しかし、「自分が聖なる者だ」という表現にピンと来ない方が多いのではないでしょうか。日本人は自分を低く見なす美意識があります。逆に自分たちを「罪人」だと表現したほうがしっくり来る人が多いのではないでしょうか。
マルティン・ルターは、クリスチャンとは「義人であり、同時に罪人である」と言いました。クリスチャンが罪人であるという考えは正しいことです。しかし、高座教会で取り組んできた『エクササイズ』の著者ブライアン・スミスは、あえてこの結論は正しくないと断言していました。これはルターを否定したり、罪に対するこれまでの神学的理解を否定しているのでもありません。
「わたしたちは救われました。義とされ、神様との和解をしました。そして、同時に罪人です」という認識は、実生活での霊的な刷新、クリスチャンというアイデンティティを生きることに失敗するというのです。「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と言いながら「今だ、わたしは罪人です」というアイデンティティの持ち方は、また罪に支配された者として、罪を犯すことに陥ってしまう。
日本人は、謙遜して自分を低く見なす美意識があり、例えば、相手に善いものを差し上げる時も「つまらないものですが」と言うのは、日本人の謙遜さを表している大切な文化です。ですから日本人のクリスチャンには「わたしは罪人です」とする方が、自分のアイデンティティになりやすいのだと思いました。本当であれば罪を赦されてキリストと共にいる、その温かさ、清らかさを実感していいのですが、「わたしは罪人です」というレッテルが深く刷り込まれていて、どうしても罪人に留まってしまう。いつの間にか、この世の価値観に流されてしまうというのです。

Ⅲ.エン・クリストオ (キリストにあって)

しかし、今日の聖書箇所でパウロは、聖霊の力が人を「聖なる者」とされたと言っています。テサロニケの人々が「聖なる者」となった、なぜなら、「聖なる者」とは、内にキリストが宿っている人だからです。わたしたちの体の「内に住む」と書いて、「内住」する神といいますが、パウロはそのことを「エン・クリストオ」というギリシャ語で表現しました。
英語では「イン・キリスト」、日本では「キリストにある」と翻訳しています。教会では「キリストにあって」、とか「主にあって」という言葉を使います。それは「エン・クリストオ」という、キリストがわたしたちの中に内住されている、ということを表しています。パウロはコリントの手紙で「イエス・キリストが、あなたがたの内におられることが、分からないのですか」(コリントの手紙二13章5節)と勧告しました。この重要な真理について、イエス様も大事な場面で語られました。
イエス様は、最後の晩餐の席上、これから十字架に架かるため、弟子たちと一緒にいられるのはこれが最後だという時に、神に祈ったのです。「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」(ヨハネ福音書17章23節)。
彼らというのは、わたしたちクリスチャンです。イエス様は「わたしが彼らの内にいるのだ」というのです。父なる神がイエス様の中にいて、一つとなっているように、主イエスは彼らの内にいて一つになる、と言われたのです。「完全に一つになる」と言われたように、わたしたちの内に住んでくださる神は、父なる神、子なるキリスト、そして聖霊である三位一体の神様が内に住んでいるという真理です。
さらにイエス様は、聖霊を送る、そして父なる神と私は、その人の所に行き、一緒に住むと言われました。(ヨハネ福音書14章23節)。三位一体の神様が、私たちの内側に住むようになる。それがイエス様の地上での最後のメッセージでした。
確かに、以前わたしたちは罪に支配された罪人でした。罪の性質が残っているのも事実ですので罪を繰り返します。しかし、罪の支配はなくなっています。この体は神が支配する、神の住む神殿になっている。ただ単に赦された罪人ではなくて「新しくされた人」。イエス様を体の内に宿して、イエス様と同じ「永遠の命」を持つ人なのです。
聖なる神様は、横にいるけれども、罪深いわたしはここにいる、ということではないのです。わたしの内に神がいる。それがパウロのいう「エン・クリストオ」であり、イエス様が「わたしは彼らの内にいるようになる」と言われた意味です。とても神秘的な真理です。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられる」(ガラテヤ書2章20節)
「自分は罪人だ」と罪を自覚した人は、心の中に壁を作ります。その壁は自分を守るための壁です。「自分は罪人である」という壁から出てくることは、とても難しいものです。しかし、イエス様がその壁を越えて、内に入ってくださった。わたしたちの性質が「聖」ではなくても、内住されるキリストゆえに「聖なる者」とされました。紛れもなく、わたしたちはキリストにあって「聖なる者」です。一度、罪赦され救われた人は必ずその内にキリストがおられます。問題なのは、キリストが内におられるという認識です。その働きを邪魔しないということです。

Ⅳ.まとめ

今日、お勧めすることが二つあります。一つはパウロに倣って、小さな出来事にも感謝する習慣を身につけていきたいということです。感謝は信仰告白だと言いましたが、感謝は内に住んでおられるイエス様の働きを強く、温かく、より豊かにします。感謝する習慣。感謝を見つける目を養っていきましょう。
もう一つは、コロナ禍にあって、今年もオンラインの礼拝が続きます。日曜日の礼拝を守る一年となるようにパウロの教えに従っていきたいと思うのです。今日の聖書箇所15節「ですから、兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを、固く守り続けなさい」アーメン。
この一年、しっかり立って日曜日の説教と聖書の教えを固く守っていきましょう。
お祈りをいたします。

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神の愛を実感する交わりづくり

和田一郎副牧師
ヨハネの手紙一4章19節
2020年12月27日

Ⅰ.コロナウイルスが変えたもの

今日は2020年最後の礼拝の日となりました。毎年この日は、その年の主題聖句から一年を振り返っています。今年の主題は「神の愛を実感する交わりづくり」でした。「交わりづくり」そのことを大切にしようとした年に起こったのが新型コロナウイルスでした。あっという間に世界中に拡大して世界で170万人の命が失われていますが、これは広島の原爆で命を落とした方の数の12倍。つまり原爆12個分以上の命が世界で失われると誰が予測できたでしょうか。私たち高座教会でも、かつてない特別な一年であったと思います。3月末から約3か月はオンラインだけの礼拝となり、日曜日に教会がひっそりとしているというのは教会始まって以来の特別な経験でした。礼拝堂に集まることを禁止せざるをえないことで私たちは悩み、オンラインでいいのだろうかという葛藤を続けてきました。
しかし聖書を見ますと状況に応じて礼拝を守っていたことを知ることができます。たとえば礼拝の場所について、旧約聖書の人々はいつもエルサレムの神殿での礼拝が本当の礼拝だと当たり前に思っていた。しかし、バビロン捕囚となって外国に連れて行かれた人々は、行ったその国で礼拝を続けました。それは、やがてキリスト教の教会の元となっていきました。また、ダビデが命からがら逃亡している時、祭司の他には食べてはならない礼拝用のパンを分け合って命をしのぎました。それをイエス様は「人が安息日のためにあるのではない。安息日は人のために定められた」といって安息日の規定より、人の命を優先されました。これらのことからも、私たちは伝統的なスタイルを守ることよりも、まず尊い命を優先します。神様から預かっている尊い命を大切にしながら、どのような礼拝と信仰生活を守っていけばよいのか、考え続けなければなりません。
新しいスタイルを柔軟に考えることは、宣教の機会を広げるきっかけとなることを感じています。特にコロナ渦とは関係なしに、礼拝に行くことが困難となった高齢の方や、健康、仕事、家庭の事情で思うように礼拝に行くことのできない方もいて、その事情は多様化しています。ですから、この機会に宣教のスタイルを工夫することによって、宣教の幅が広がっていくのではないかと思います。

Ⅱ.今年の主題「神の愛を実感する交わりづくり」

しかし、教会では変えることのできないものも多くあります。その中の一つが、教会における交わりづくりです。今年の主題は、「神の愛を実感する交わりづくり」です。そして聖書箇所はヨハネの手紙第一4章19節です。「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです」
この御言葉で鍵となる言葉が「まず」という一言です。私たちの愛と、神様の愛には違いがあります。私たちの愛には不完全さがありますが、神の愛は完全な愛です。その神の愛が「まず」先にあるというのです。人間は生まれてから親の愛の中で育ちます。幼い時の親の愛がなければ自分を愛することも、他人を愛することもできません。同じように、神様は、私たちが生れる2千年も前に、ご自分の独り子イエス様をこの世に送り、十字架にお掛けになりました。私たち人間の罪を取り除くためでした。つまり、私たち人間を救うために大切な独り子を犠牲にしたのです、そこに私たちに対する愛がありました。
私たちはこの愛に触れるまでは本当の愛を知りませんでした。男女の愛とか親子の愛とは違うさらに深遠な愛、すなわちイエス・キリストの犠牲において神が私たちを愛してくださった。その本当の愛が、まず先にあるから私たちは神を愛し、自分を愛し、他人を愛することができるのです。世の中には神の愛を知らずとも、隣人に愛を示している善良な人がいます。しかし、人間の中からでる愛は不完全です。なぜなら人間は自己中心という罪、自分という不完全なものから出てくるからです。
「まず、神がわたしたちを愛してくださった」それを知るところから本当の愛が現れていきます。隣人を愛すること、交わりを大切にすることは、信仰において愛するということです。これが聖書に記されている神の掟です。
隣人への愛の第一歩はその人に関心を持つことですし、もう一歩先にあるのが共感を持つということです。共感というのは同情ではありません。「同じことが、私にもありうるな」と考えることです。今年は、まさに他人に関心をもち共感することの大切さを知った年ではないでしょうか。「神の愛を実感する交わりづくり」というテーマはコロナがなくても大切なテーマでしたが、コロナ渦にあって「神の愛を実感する交わりづくり」がないと生きていけないと思わされるのです。「人が独りでいるのは良くない」と神様が言われたように、交わりの中で生きるということは、命に関わることなのだと思わされるのです。
私は施設や病院を訪ねることが、すべてできなくなりました。入院、入居されている方は家族との面会もできない状況にあります。しばらくの我慢だと思いましたが、人と会えない寂しさが一層深刻になってきていると思わされます。今年もいくつかの葬儀がありましたが、施設に入居していた方が、家族と面会ができなくなってから元気がなくなっていったという話を聞きました。逆に、教会では祈り会とか家庭集会という小グループがたくさんあります。メンバーとの付き合いが、数十年続いているグループがあります。コロナになって人とはなかなか会えないけれども、教会の小グループの仲間が連絡をくれる、時々訪ねて来てくれる。それがかけがえのない、大切な生きる力になっているという話を耳にします。まさに神の愛を、交わりの中で実感されているのではないでしょうか。

Ⅲ.「人が独りでいるのは良くない」

ローマ皇帝フリードリッヒ二世の実験というエピソードを知りました。生まれたばかりで捨てられた赤ちゃんを、話しかけたり、あやしたり、目を合わせたり人間的な接触を禁じたら、どんな言語を話すのだろうと実験したというのです。しかし、赤ちゃんたちは、大きくならないうちに全員死んでしまったというのです。愛情や人間的出会いがないと、人間は生きることができない。「人が独りでいるのは良くない」という、創世記にある神の言葉の意義深さを認識させられます。
イエス様は、ある町に来られた時に、ザアカイという人を見つけました。ザアカイはお金はあるが友だちがいなかった。町の嫌われ者だったのです。そんな状態から、這い上がろうとしていたと思います。そんなザアカイにイエス様は声をかけた。「今日、あなたの家に泊まることになっている」と言われてザアカイの友人になられた。ザアカイと友人になるということは、彼に共感して共に重荷を負うことです。
ザアカイがもっていた寂しさを、自分も受けるということです。ザアカイはキリストの愛を受けました。そして、他人を愛する心が芽生え、人生に変化が起こりました。町の嫌われ者の心の奥に隠れていた寂しさ、それを知ってくださり、関心をもち、共感してくださったのは、その日初めて町にやって来て声をかけてくれたイエス様でした。神が、まず、私たちを愛してくださった。

Ⅳ.寂しさへの関心、共感、愛

私はいつも3歳の息子とお風呂に入ります。ある日、楽しく風呂に入っていると息子が急に静かになりました。思い詰めたような顔をしているのです。「どうしたの?」と聞くと「なんでもない」とポツリと言って、泣くのを我慢していたのですが、風呂から出ると大声で泣き出してしまったのです。「どこか痛いの?」「怖いの?」「嫌なことあったの?」あらゆる質問をしていって、やっと「寂しいの?」という言葉に初めて「うん」と言いました。何が寂しいのだろうと聞いていきました。すると「幼稚園が寂しい」と言うのです。来年の春から幼稚園に入るために保護者の説明会に行った時、息子はてっきり楽しく遊べると思っていた幼稚園で、保護者との入園手続きなどの話を横で聞かされるだけで、自分が置いてきぼりになった気がして寂しかったようなのです。春から幼稚園に行ったらまた、そんな寂しい思いをさせられると思ったのでしょうか。記憶の中にある出来事で、心がいっぱいになるというのを見たのは、親としては初めてで、心が育っているのだと思いました。これから大人になっても、寂しいという感情は続きます。寂しさは周りに人がいても感じるものです。いや、人の中にいればこそ、自分は関心をもたれてない、共感してくれる人が、誰もいないと感じた時に、寂しいという感情は湧いてきます。
今、私たちの周りには、たくさんの「寂しい」という思いがあるのではないでしょうか。コロナによって、その寂しさは精神的にも肉体的にも厳しさを増しています。イエス様はザアカイの寂しい思いを知って、声をかけてくださいました。ザアカイはその愛を実感した時、他人を気遣う思いが湧いてきました。それが、神の愛を実感する交わりづくりの第一歩です。私たちは、信仰において寂しい思いに関心をもつことができるはずです。信仰において共感する、信仰において愛することができます。イエス様が愛したように、私たちも愛し合いたいと思うのです。「私たちが愛するのは、神がまず 私たちを愛してくださったからです」。お祈りしましょう。

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主日共同の礼拝説教

聖書と生きる

和田一郎副牧師
申命記6章1-9節 テサロニケの信徒への手紙二2章1-2節
2020年11月22日

Ⅰ. 動揺の原因

パウロは、テサロニケの町に行った時に、再臨の時がくると説明していました。町を離れてからも手紙で再臨について教えていました。テサロニケの人々は、その時がいつ来るのかということが気がかりでした。多くの人がその日は近いと思い、中にはもう再臨の日が来るのだから働く必要はないという人までいました。一方で、再臨はもうすでに起こったと言う者さえ現れたとあります。パウロは動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしいと、噂話に扇動されて驚かないようにと、この手紙で伝えています。
確かにパウロはローマ書や、フィリピの手紙で「主の日が近い」といったことを伝えています。しかし、それは現実の時間的な近さというよりも、その日が必ず来ること、そして、その日が来るまでに今やるべきことを強調していたのです。しかし、それでもそのことを正しく理解しない人がいました。再臨の時が「すぐ来る、すぐ来る」と言いながら、いつまでたっても来ないとなれば、それはやがて失望となるでしょう。ですから、正しい聖書の読み方、解釈の仕方というものはとても大切なことです。
信仰生活は、聖書の言葉を正しく理解して、理解した教えに従って生きていくということです。しかし、そもそも聖書の解釈に誤解や間違いがあるならば、それはとんでもないことになってしまいます。テサロニケの人々の中には、そのように聖書の正しい理解が足りなくて、動揺したり分別を無くす人があったのです。

Ⅱ. 聖書の読み方【聖書は神の言葉】

聖書をどのように読むのか、どのように解釈するのか、キリスト教会はそのことを2千年のあいだ、ずっと取り組んできました。聖書を正しく理解するうえで大切にしたいことの中で、今日は二つのことを考えたいと思います。
1つ目は「聖書は神の言葉である」ということです。聖書には聖書が神の言葉であると書いてあります。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(テモテへの手紙3章16節)。聖書は神の言葉だと言っても書いたのは人間です。しかし、その著者一人一人は神の霊に導かれて、神の知恵によって書かれた書物だということです。これはイエス様も、おっしゃっていました、最後の晩餐の席で弟子達に、そうなると話していたのです。「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ福音書14章26)と弟子たちに言いましたが、その通りに弟子達は聖霊の力をかりて、イエス様がおこなったこと、言われたことを思い起こして書き残し、それが聖書になりました。
しかし、疑い深い人達はいつの時代でも存在します。聖書をただ神の言葉として鵜呑みにするのではなくて、もっと人間個人の独自性を尊重した読み方をしようとする人たちがいました。明治時代、日本にもそういった神学が入ってきました。例えば創世記や出エジプト記などモーセが書いたモーセ五書も、別々の資料を後の人たちがまとめたものだとして、聖書を分解して解釈しようとする研究があります。唯一の神の御言葉であるという、上からの啓示としての聖書観とは違うアプローチです。研究としてはとても大事な取組みですが、そういったことから派生して、聖書をここは神の言葉、ここは間違っているというように、聖書の読み方が研究者ごとに多様になってしまいます。宇田進先生という神学者は、そういった聖書批評について「知的な深まりと、エリート性が、それと引き換えに一般の人々との接点を失ったばかりでなく、宣教のスピリット、信仰のエネルギーを喪失させてしまった」と評していました。つまり、聖書を研究資料にしてしまって、わたしたちの救いや日常生活とは関係ないものにしてしまうのです。パウロも主張しています、「あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです・・・事実それは神の言葉であり、信じているあなたがたの中に現に働いている」(テサロニケの信徒への手紙一2章13節)。聖書の言葉は神の言葉として受入れて、はじめて心や体の中で生き生きと働き始めるのです。

Ⅲ.聖書の読み方【聖書は文脈で読む】

もう一つ聖書の読み方で大切にしたいのは、「聖書は文脈で読む」ということです。文脈というのは、前後の文章の流れのことです。つまり、どこか一部の言葉をつまみ出して理解してはいけないということです。もっと言うならば、その書を書いた著者の意図や著者がその書全体で言わんとしていること、そして当時の時代背景などから理解するということを、文脈から理解するといいます。その書を書いた著者の立場に立って、その場所や時代の背景や文章の前後で語られている内容から解釈しないと、間違った理解をすることになります。そうでなければ、人は自分が感じたままに理解しようとします。それも実は大切なのですが、しかし、人は大抵自分の経験に引き込んで理解しようとします。そして、何よりも文脈から理解しようとしなければ、聖書のある部分の言葉を、自分勝手に利用しようとします。
パウロは今日の聖書箇所で、どのような背景から何を言わんとしたのでしょうか。2節を読んでみましょう、再臨についてです。「主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」。つまり、再臨がいつ来るのか、ということで動揺している人たちに向けた、パウロのメッセージです。それは、第一のテサロニケの手紙にその背景があります。テサロニケの手紙一5章1節でパウロは再臨について言いました。「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。・・・(6節)従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」というメッセージをパウロは手紙で送っていました。イエス様もマルコによる福音書13章の最後の晩餐の席上で、再臨について語った教えがあります。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。・・・(35)だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」(マルコによる福音書13章32-37節)。
いかがでしょうか、どちらもここで言わんとしているメッセージは、「目を覚ましていなさい」ということです。再臨の日がいつ来るのかではなく、目を覚まして、今を生きることがメッセージのポイントです。イエス様は、ご自分がまた来られる、その再臨までの間、わたしたちの生活の在り方を教えてくださいました。パウロのメッセージも同じです。実はマルコによる福音書を書いたマルコとパウロは、一緒に第一次宣教旅行に行きましたから、イエス様が伝えた再臨についての教えも、パウロは聞いていたのではないかと思いました。

Ⅳ.「ウィズバイブル ウィズコロナ」

そして、この「目を覚ましていなさい」というパウロのメッセージは、テサロニケの人々を越えて、今を生きる私たちにも向けられているメッセージです。今日の聖書箇所の2節後半にあるように、動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないで欲しい、とありますが、コロナ渦にあっても動揺しないで聖書からのメッセージを正しく受け取って生活していきたいと思うのです。
今日のパウロのメッセージを受けて、ぜひ皆さんにお勧めしたいのが聖書を通読することです。通読は自分の意思とは関係なく、上から降りてくる啓示が、その日その日で与えられると思います。このコロナ渦にあって是非チャレンジしてみてはいかがでしょうか。
「聖書と生きる」ということは「目を覚まして生きる」ということの大きな土台になります。そして、目を覚まして生きるキリスト者には、このパンデミックを収束につなげる役割も期待されているのではないでしょうか。大切な人を失う悲しみに世界が覆われている中で、信仰による心の救いは、今このとき、いつにも増して重要です。
「ウィズバイブル、ウィズコロナ」ウィズバイブルがあってこそ、ウィズコロナという新しいスタイルの生活にも光が灯ります。聖書の力に確信をもって生活の場で目を覚まして生きていきましょう。お祈りをいたします。