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主日共同の礼拝説教

個のちから

和田一郎副牧師 説教要約
ダニエル書7章13-14節
ルカによる福音書4章16-30節
2023年1月22日

Ⅰ. ふるさとの山はありがたきかな

最近、叔母の家に行くことがよくあります。そこから見る富士山と大山が見事なので、いつも立ち止まって眺めています。石川啄木の歌に「ふるさとの山に向かひて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな」というものがあります。叔母を訪ねるのはふるさとに帰るような懐かしさを覚えて、そこで、ふるさとの山、富士山と大山の景色を眺めて「ありがたきかな」と思えるのですね。今年の目標の一つとして、その大山に家族で登ろうと思っています。

Ⅱ. 故郷ナザレの反応

イエス様も、生まれ育ったふるさとの町に帰ってきました。しかも、一人で行かれたようなのです。イエス様の公生涯は、弟子たちと一緒にいるようなイメージがありましたが、今日の箇所では、一人ナザレの町の会堂へと入っていったのです。そこで17節「預言者イザヤの巻物が手渡されたので、それを開いて、こう書いてある箇所を見つけられた」とあります。当時の聖書というのは、手書きで書かれた巻き物です。今のように六十六巻が一冊の本になっているというものではなくて、イザヤ書であれば、イザヤ書だけの巻き物なのです。
朗読をされたあと、説教をされました。21節「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されました。イザヤ書の内容は、主の霊が私に臨んだ、主が私に油を注がれた、主が私を遣わされたというのです。「私」というのはイエス様ご自身のことを言うのですから、イザヤの預言が、この私に実現したと語られたのです。
最初は説教を聞いて素晴らしいと褒めたのです。ところが22節「この人はヨセフの子ではないか」と言う人がいました。ナザレは小さな町で人々は、イエス様の両親であるヨセフとマリアのこともよく知っていました。その会衆の反応を見てイエス様は言われました。イザヤ書に書かれている救い主が現れるという預言が自分のことだと言うのなら、奇跡を行って見せてみろというに違いないと、先を見通して言われたのです。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだからです。イエス様が神から遣わされたという証拠を見せてもらいたいと、彼らは思っているのです。そもそも預言者というのは、神様の御言葉を預かって語る特別な人です。ところが小さな頃から知っているイエス様の言葉は、あの大工の息子の言葉としか聞くことができなかったのです。
そこで、譬えに出されたのが、預言者のエリヤとエリシャの話です。エリヤはイスラエルに3年6カ月にわたる大飢饉が起こった時、イスラエルではなく外国のシドンのやもめの所に行き、彼女の家族を救ったのです。エリシャもイスラエルに皮膚病で苦しんでいる人がいるにもかかわらず、外国人のナアマンの皮膚病を癒された。エリヤとエリシャの話は、ユダヤ人たちが、自分たちこそ神に選ばれた特別な民で、自国優先意識をもっている人は救いに与れなかった。むしろ外国人に救いがもたらされた話なのです。それは、ナザレの人達よ、あなた達と同じだろうとイエス様は言われたのです。
イエス様の話しを聞いたナザレの人々は怒りました。彼らは総立ちになってイエスを町の外に追い出し、それだけではなく崖から突き落として殺そうとしたのです。その殺意の背景にあったのは、イエス様が預言者だというのなら、奇跡を起こしてみろ、私たちが見てやる、神の言葉を扱う者かどうかは、自分達で判断するという思いがあったのです。ところが、救いに与るのはあなた達のような者ではない、とイエス様に言われたことが殺意になっていった。要するに正しいことを判断するのは自分である。いや正しいとか悪いとかを超えて、この町で偉いのはこの自分だという自己中心的な考えです。

Ⅲ. 人々の殺意

ナザレの人々の殺意は今の世界と重なるところがあるのではないでしょうか。ロシアのジャーナリストが、ウクライナとの戦争で戦死した母親に取材を申し込んだそうです。しかし、戦争に批判的なジャーナリストの取材に応じると、国から戦死した遺族に支給されるお金がもらえなくなるから拒否したと。その母親は、そのお金を娘の家を建てるのに使うのだそうです。つまり息子の命を悼むよりお金を優先しているのです。かつて、ソ連がアフガニスタンに侵攻して、戦死したロシア人の母親たちに取材をした時は、息子たちの命を惜しんで、戦争をはじめた国の指導者たちを批判していたといいます。ロシアだけではなく世界中で命の尊厳が薄らいでいる、自国優先主義が広がっています。イエス様を殺そうとしたナザレの人々は、自分たちの判断を第一として聞く耳をもちませんでした。それは、私たちも含めて他人事ではないと言えるのではないでしょうか。

Ⅳ. 故郷で受け入れられない

今日の聖書箇所の最初のところで、イエス様はご自分の育ったナザレに行き、お一人で会堂に入っていかれました。そして、終わりに30節「イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」と書かれているのが印象的でした。一人、会堂に入って行き、一人立ち去って行かれた。人々の殺意の中を、受け入れてもらえない、という虚しさを覚えて去っていくイエス様の背中が思い浮かぶのです。イエス様は、救いをもたらす救い主でありながら、一人の人として会堂に入られ、一人去って行きました。私たちが生きている、この世の生活においても孤独があります。多くの人の中に住んでいても、周囲からは見えない孤独が広がっています。殺意を感じながら生活している人がいます。イエス様はそのような淋しさや、孤独や、殺意の中を歩まれていました。私たちと同じ、一人でいる孤独な淋しさ、虚しさ、殺意の恐ろしさを分かってくださる方です。そういうことは誰にでもある、なんて扱わないのです。人にはまったく理解してもらえない虚しさを味わったイエス様だから、私たちの痛みに寄り添ってくださるのですね。
わたしの家族は、5歳の息子が夜寝る前に布団の上で絵本を読んだりして過ごすのですが、妻が「最近、年をとったかな?」と言ったら、息子が「ママもいつか天国に行っちゃうの?」と言うのです「それはそうだよ、いつか天国に行くのだよ」と答えると、息子は「ワー」と大泣きしました。人はいつか死を迎えるということが、自分の親もいつの日か・・・と感じていたようです。それから「パパとママが天国行っちゃうと、ボク一人になっちゃうよ」「ボクご飯作れないよ」と一気に言いました。イエス様も、死というものを意識して祈りました、「できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」と。
わたしたちは一人では、どんなに力を尽くしても打ち勝つことができない弱さがあります。その私たちと同じ弱さを、イエス様は身に受けてくださいました。イエス様が歩まれた淋しさや恐れは、私たちの淋しさや恐れと同じです。しかし、この方はイザヤ書にあるように、主の霊が望んだ方、主が油を注がれた方です。完全に人であり、完全に神であられる唯一の力を持っている方です。
世のすべての罪を一人背負って十字架に架かってくださり、孤独を味わってくださいましたが、この方は孤独で終わる方ではありません。死に打ち勝ち、神の家族という、ふるさとを作ってくださったのです。ご自身は故郷で受け入れられませんでしたが、私たちのために、永遠のふるさとを天に備えて下さったのです。「私たちの国籍は天にあります。」唯一の方の後ろ姿に、従っていれば、小さな私たちであっても倒れることはありません。  
お祈りいたしましょう。

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アドベント 主日共同の礼拝説教

その日が来る

和田一郎副牧師
エレミヤ書33章14-16節
マタイによる福音書26章47-52節
2022年11月27日

Ⅰ. アドベント

今日からアドベントに入ります。アドベントはラテン語で「到来」という意味です。旧約聖書の時代から救い主が到来すると約束しておられた。今日のエレミヤ書の言葉もその一つです。イエス様の誕生を祝うクリスマスを待ち望み、やがて、再びイエス様が来られる再臨の到来を心に覚える期間としております。

Ⅱ. メシアとはどんなお方なのか

エレミヤ書33章12節「万軍の主はこう言われる。人も獣もいない荒れ果てたこの場所が・・・」とあります。エレミヤの時代ユダの国はバビロン帝国に滅ぼされます。しかし12節後半「そのすべての町が、再び羊の群れを伏させる羊飼いの牧場となる」との言葉を告げるのです。そして14節「その日が来る。
私は、イスラエルの家とユダの家に語った恵みの約束を果たす」と、救い主を与えてくださるという約束です。
15節「その日、その時、私はダビデのために正義の若枝を出させる」。ダビデのために、とはダビデ王に告げた「ダビデ契約」と呼ばれる祝福の約束を果たすために、「正義の若枝を出させる」というのです。この「正義の若枝」というのがイエス・キリストを指す言葉です。つまり、その日がベツレヘムの家畜小屋で起こったイエス様の誕生です。「彼は公正と正義をこの地に行う」とあるように、イエス様はこの地上の生涯において公正と正義を行いました。人々を癒し、教え、十字架という犠牲を私たち人間の罪の身代わりとして受けてくださった出来事は「公正と正義」の御業です。さらに33章6節に「私はこの都に回復と癒やしをもたらし、彼らを癒やして、確かな平和を豊かに示す」とあり、これもイエス・キリストが救い主として、この地上でなさることを指しています。
平和というのはヘブライ語でシャロームです。神様による罪の赦しがもたらす、心の平和のことですし、もっと広い意味で人間関係の平和、政治的な平和、社会や環境を含めた被造物における平和など、広い意味でシャロームという言葉は使われます。
しかし、待ちに待った救い主は、人々が想像するような強い力を誇るメシアではなかったのです。イエス様がエルサレムに入城された時、小さな子ロバに乗って、ゆっくり向かわれたのです。そして、今日の聖書箇所では、武器を携えた群衆を前にした言葉でした。相手が剣を持ってやって来た、イエスの弟子たちも剣を手にして応戦します。しかしそこで「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)。それが、「公正と正義」の御業、「確かな平和を豊かに示す」救い主の姿でした。しかし、イエス様が地上で活躍されていた時に、平和な社会が実現したかといえばそうではありませんでした。イエス様自身は暴力によって捕らえられ、十字架に架かられたのです。それを逃れることは出来たでしょう。
「私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。」(53節)と、武力をもって武力を封じることができましたが、そうはなさらないお方です。またノアの洪水の出来事のように、一気に世の中を変えることもできたでしょう。しかし、そうではなくて私たち自身を平和を作る者として下さったのです。
「平和を造る人々は、幸いである/その人たちは神の子と呼ばれる」とキリストから受けた平和を、今度は私たちが、この世で実現させる働きです。

Ⅲ. キリスト教と戦争

ところが、イエス様の時代の後も、人類は争い続けました。戦争のなかった時代はほとんどありませんでした。それどころかクリスチャンによる戦争さえありました。十字軍、魔女狩り、ユダヤ人迫害、キリスト教を背景としたアメリカでも、南北戦争があり、イラクやアフガニスタンに、正義の名のもとで軍事介入がありました。
ロシアという国も、ロシア正教というキリストを主と信じる信仰をもつ国です。その国がウクライナを侵略しているではないか?今、世界では、軍事力の増強が盛んに行われています。しかし、あくまでもイエス様の選択は、剣を取って逆らうことではありませんでした。
2004年サッカーヨーロッパ選手権での事。フーリガンに対する従来の警備体制は、機動隊や装甲車を投入して力でねじ伏せるやり方でした。しかし強硬な姿勢をとることは敵対感情を助長することになると考え、別の体制を敷きました。警備隊は従来の制服ではなく明るい色の服を着て、出場チームやファンについて勉強し、ファンとコミュニケーションがとれるようにした。彼らが道路でサッカーボールをけり始めても、すぐには介入しない。つまり敵対関係を作らない警備体制を敷いたのです。その結果この地域では暴動が起こらなかったのです。
第二次世界大戦の後、日本は戦争を放棄すると決めました。つまり武器を捨てて周辺諸国と敵対関係を作らないと宣言をしました。その時、田中耕太郎という文部大臣が発言しました。
「つまり戦争放棄をなぜ致しましたかと申しますと・・剣を以って立つ者は剣にて滅ぶという原則を根本的に認めるということ・・しかしながら、・・不正義を許すのではないかというような疑問を抱く者があるかもしれない・・不正なる力に負けてしまうというようなことになりはしないか・・不正義をそのまま容認するという風に、道義的な感覚を日本人が失うということになっても困るのではないか・・。しかし、決してそうではない。不正義は世の中に永く続くものではない。剣を以って立つ者は剣にて滅ぶという千古の真理に付いて、我々は確信を抱くものであります」(1946/7/15 衆議院憲法改正案委員会)。
戦争を放棄し、剣を鞘に納めようとした背景で、聖書の御言葉が用いられていました。しかし、この大臣の意向は守られませんでした。聖書の教えは「平和を作る者は幸いである」と明確で普遍的なものですが、それを守る人間の側に問題があるのです。宗教があるから戦争が起こる、キリスト教は個人主義だから戦争が起こるという声を耳にします。しかし「剣を鞘に納めなさい」「平和をなす者は幸いである」という御言葉を守れなかった人間の側の問題なのです。

Ⅳ. 「止まらなかったね」

守らなければならない事を守れないのは、私も反省することがあります。うちの息子がテレビでパトカーを見ると、「パパ、止まらなかったね」と言うのです。数年前ですが住宅街の道を車で走っている時、減速をしたのですが一時停止をしなかった時に、ミニパトカーがいて切符を切られました。私はすっかり忘れていました。なぜかというと忘れようとしていたからです。私は罰金をすぐその日にでも支払って忘れようとするのです。ですから、止まらなかった事を忘れていました。守らなければいけない事を忘れているのです。
人は大切な真理であっても、自分の都合の良いように捻じ曲げたり、忘れてしまったりします。イエス様の教えは明確であるのに、守ることができない弱さを人はもっています。戦争で私たちは、剣を振り上げたが故に、剣で取り返しのつかない犠牲を負わせ、自らも犠牲を負いました。ですから、もう剣を持ちませんと宣言したのですが、剣を持つことを止めなかった。キリスト教であるが故に戦争を起こしたのではないのです。聖書の御言葉に力がないのではありません。キリストの教えに背いてしまう、人間の罪の性質が戦争を起こしているのです。
平和の主であるイエス様を待ち望むアドベント。2022年という一年を、私たちはどのように振り返るべきでしょうか。
お祈りいたします。

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主日共同の礼拝説教

種を蒔く人ってどんな人?

和田一郎副牧師
マタイによる福音書13章1-9節
2022年10月30日

Ⅰ. 種を蒔く人のたとえ

イエスはガリラヤ湖の水辺に繫いであった舟に座って、岸辺に立つ群衆に向かって神様の話をしてくださいました。それは譬え話でした。
ある人が種を蒔きに出かけて行きました。種を蒔く人は、四つの土地に種を蒔きました。一つ目、道端に蒔いた。すると鳥がやってきて食べてしまった。二つ目、石だらけの土地に蒔いた。するとすぐに芽を出したが、日が昇ると種は根がないので焼けてしまった。三つ目、茨の間に蒔いた。すると茨に塞がれて育たなかった。四つ目、良い土地に蒔いた。すると成長して実を結んだ。しかもある種は百倍、六十倍、三十倍の実を結んだ。
せっかく種が蒔かれたのに、「道端」「石だらけ」「茨の間」に蒔かれた種は無駄になってしまった、しかし、良い土地に蒔かれた種は数十倍という豊かな実りがあったのです。これは譬え話です。種を蒔く人とは神様のことです、神様はご自分のメッセージを、種を蒔くように与え続けています。そして、種を蒔かれた土地というのは、人間の心です。同じ種が蒔かれたとしても、芽がでて、成長して、実を結ぶか結ばないかは、神様のメッセージを聞くのか?聞かないのか?メッセージを聞いて信じれば多くの実を結ぶ。ですから最後にイエス様は言ったのです。「耳のある者は聞きなさい」。
実を結ばない土地には理由があります。
一つ目「道端」に蒔かれた種は、鳥が食べてしまった。これは神様の言葉を聞いても、邪魔するものがやって来て、その人の心に蒔かれたものを奪ってしまうだろうと言うのです。今の時代、聖書を読むことを邪魔するものといえば、自分自身の感覚に共感する情報だけを頼りに生きている人で、神様の御言葉を聞いても、鳥が種を取っていくように御言葉を奪い取ってしまうのです。
二つ目、「石だらけで土の少ない所」は、御言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れるのですが、自分の中に根を持っていないので、ほんの短期間しか続きません。忙しくなると、すぐにつまずいてしまう。三つ目、「茨の間に蒔かれたもの」は、御言葉を聞く人のことです。聞くのですが、世の中の誘惑がおおいかぶさって、御言葉を塞いでしまうために、実を結びません。第四の「良い土地」、「御言葉を聞いて受け入れ、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶ人たち」とは、イエス様を信じる信仰者たちのことです。
一つ目から三つ目までの土地のように、聖書の御言葉を、聞いているが、それでも信仰をもつまでには至らないという人は沢山いるわけです。信仰をもったとしても、忙しくなったりして教会から遠ざかってしまうのです。今の世の中は、忙しいですし、不安にさせる心配事も多いので、常に茨に囲まれていると言えます。また、そのことによってわたし達自身の心が、自ら茨となってしまうことがあります。

Ⅱ. 絶えることのない種

では、蒔かれた種は無駄であったのでしょうか?せっかく神様のメッセージという種が蒔かれたのに、「道端」「石の上」「茨の間」に蒔かれた種のように無駄になってしまったのでしょうか。
話は変わりますが、わたしは牧師になるために東京基督教大学に入学しました。四年間の全寮制という生活の中で、寮の周りを緑化しようということになって、種を蒔くことになったのです。しかし、もともと剥き出しの固い土ばかりの土地だったので、そこを耕して、学校の裏にあった堆肥を混ぜて耕し始めました。種を蒔いて緑を増やそうという計画でしたが、まず種を蒔くまでが大変だったのです。つまり種を蒔く人は、種蒔きだけで終わらないということです。土を耕し石をどけ、水をまく。神様は種を蒔くだけではなく、実を結ぶために止まることがないのです。
先ほどのたとえ話しの中の、四つの土地のうち、自分はどこに当てはまると思いますか?
道端に落ちた種も、石の上に落ちた種も、茨の上に落ちた種も、自分のことだと思うのではないでしょうか。一つと言うよりも、どれもそれぞれに自分に当てはまるところがあると思います。どの土地であっても神様は、土を耕し、石をどけ、水をまき、雑草もとろうとされているのです。神様の働きかけは止まることがない、終わることがないのです。
ヨハネの福音書に次の言葉があります。
「わたしたちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた」(ヨハネ1:16)。
神様は、恵みの上にさらに恵みを与えられる方で、その恵みは海辺に打ち寄せる波のようです。次から次へと打ち寄せてくる波と同じように、神様は御言葉の種を蒔き続けるのです。
また別の聖書箇所で「ブドウ園の主人」の譬え話の中でイエス様は言われました。神様は夜明けに始まって、九時にも、十二時、三時、夕方の五時にも繰り返し出かけて行く方。何度も出かけていって人を雇って賃金を払おうとするブドウ園の主人のような方だと教えています。
神様は熱心に、繰り返し、日々尽きることもなく、御言葉の種を蒔き続ける方なのです。

Ⅲ. 良い土地としてくださる方

そうは言われても、自分はとても四つ目のような良い土地にはなれないと思われる人が多いのではないでしょうか?良い土地というのは、ふかふかの柔らかい土。石も混ざっていないし、雑草もないキレイな土地でないと、数十倍もの実は結ばない。自分の心はそんな良い土地ではないから、信仰が育つとは思えないと思われるかも知れません。
先週、わたしは家族と山に登った時の話をしました。北八ヶ岳の高見石という頂きに登ったのです。そこの森は大きな岩がゴロゴロしていて、木にとっては条件の悪い土地なのです。フカフカの柔らかい土どころか、ゴツゴツした岩に巻き付くように根をはって育った木ばかりでした。しかし、たくましく生きて深い森となっていました。あんなにゴツゴツした岩の上に森ができている。
わたしたち人間は、石や茨のある道端にすぎない存在です。石がゴロゴロしていても、茨が覆っていても、それを良い土地としてくださるのは神様です。神様は、どんな土地になっているのか吟味する方ではありません。どの土地に蒔こうかと、品定めをする方ではないのです。どんな道端でも、熱心に、御言葉の種を蒔き続けて下さり、固くて荒れた道端を、良い土地としてくださるのは神様です。

Ⅳ. 福音という真理の種

その蒔かれた御言葉の種の中身はいったい何でしょうか?その種は福音という良い知らせのことです。
とても単純な知らせです。つまり、イエス・キリストはわたしたちの罪の為に十字架で死なれ、三日後に復活して今も生きておられる、という知らせです。この単純で小さな種に命がある。本物の種には命があります。土に蒔かれた本物の種は、人の手によらずに命の芽を出すのです。自分の心の土は整っていないから、信仰は育たないと思われている、その方の心にも。本物の種は人の手によらずに成長していきます。神様が良い土地としてくださって実を結ぶことができるように、働きかけてくださっています。
「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である』(ヨハネ14:6)。
神は「自分の心の土は整っていない」と思われている人に向けて、真理に生きて欲しいと願われています。人の手によらず、良い土地としてくださって、実を結ぶことを願っておられます。
ここに集う信仰者たちも、今もまだ良い土地となるようにと、自分という石をどけていただき、欲という茨を取り除けていただいて成長している途中にあります。この大いなる恵みを共に預かってください。
お祈りいたします。

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主日共同の礼拝説教 歓迎礼拝

たったの一人は尊い一人

和田一郎副牧師
ルカによる福音書15章1-7節
2022年10月23日

Ⅰ. 聖書に聞く

キリスト教は言葉の宗教と言われます。ヨハネによる福音書は、「初めに言(ことば)があった」という一文から始まっています。天地万物が造られる前、まず神様がそこにおられました。その神様を言葉と表現しているのです。「初めに言(ことば)があった」と。
その神様は「光あれ」と言って、言葉であらゆるものを創造されました。ですから私の名は一郎と言いますが、「一郎あれ」といって、この命が与えられたわけです。
神様の言葉は今も聞くことができます。この聖書に記されている言葉が神様の言葉だからです。ところが、ある神学者が、聖書は神の言葉であるけれど、「聖書を読む」ことと「神に聞く」ことは違うと言っておりました。どういう意味かというと、「聞く」ためには、相手がいなければ聞けませんよね。「聞く」ことで主導権をもっているのは語っている相手の人です。しかし「読む」となったらどうでしょう。「読む」のは一人の行為になってしまいます。「聞く」ことで主導権をもっているのは話し手ですが、「読む」と主導権は自分になるわけです。「『聞くこと』は人格と人格の間で交わされる行為である」とその神学者は言いました。ですから教会では「聖書に聞く」と言ったりします。それは神の言葉を聞くことなのですね。
「文字は殺し、霊は生かす」(2コリント 3:6)という言葉もありますから、聖書の言葉を文字として読んでいても知識としては増しますが、神様との関係を作るには、あくまでも神の声として受け止めて、「神様の声を聞く耳」を持つようにしたいと思うのです。

Ⅱ. 聞く耳のない人たち

ところが、今日の聖書箇所には、聞く耳を持つ人と、聞く耳を持てない人たちがでてきます。
先程、朗読したのはルカ福音書15章でしたが、その直前の箇所では「聞く耳のある者は聞きなさい」(ルカ 14:35)とイエス様は言っているのです。イエス様は他のところでも何度も言うのです「聞く耳のある者は聞きなさい」と。そこで集まってきた人は、徴税人や罪人と呼ばれていた、世の中から疎外されて肩身の狭い思いをしていた人たちでした。彼らはイエス様の話しを「聞きに来た」のです。一方でファリサイ派や律法学者と呼ばれる特権階級の立派な人たちもやって来ました。しかし彼らは「文句を言った」とあるのです。
いつの時代にも、聞く耳を持つ人と、持たない人がいるのです。そこでイエス様は、ある譬え話しを始めました。

Ⅲ. 羊飼い(神様)の思い

百匹の羊を持っている人がいて、その中のたったの一匹ですが、いなくなったのです。別の箇所では「迷い出た」とありましたから、一匹の羊が迷子になっていなくなったのです。それを知った羊飼いは、そこにいる九十九匹を荒れ野に残して(おそらく他の羊飼いが見ていてくれたのでしょう)、見失った一匹を見つけ出すために捜し歩くだろうと言うのです。
私たちだったらどうでしょう?羊1匹くらいいなくなってもあと99匹もいるし、別にいいか、と考えるかもしれません。合理的に考えれば、当時のユダヤの荒れ野というのは危険な場所がありましたから、たった一匹のために、時間を割いて危険な場所を探しに行くなんて合理的ではないと計算するかも知れません。最近の言葉で言えばコスパが悪いのです。
しかし、この羊飼いは神様に譬えられています。合理的ではないことでも、神様は違います。神様はいなくなった1匹を見捨てず必死で探されるお方なのです。神様にとって私たち人間は、一人の例外もなく大切で愛おしい存在だからです。聖書には「神はその独り子をお与えになるほどに、世を愛された」という言葉があります。自分の独り子を犠牲にしてまでも、この世の私たち人間を愛してくださっているのです。なぜでしょうか?
最初に、神様は言葉であらゆるものを創造されたと話しました。私たち人間、それぞれの命を創造されました。神様がご自分で命を与えた、ご自分の大切なものだからです。ご自分のものとして大切に思って下さり、迷い出たなら、捜しに行って、見つけ出し、ご自分のもとに取り戻そうとして下さるのだ。ということなのです。
自分のものは大切にする、失くしたら必死に探す。誰の中にも当然あるこの思いに目を向けさせようとして、イエス様はこの譬え話しを話されました。この話を聞いていた徴税人や罪人と呼ばれ、肩身の狭い思いをしていた人たちも、神様は放ったらかしにしない。自分のものとして大切にしてくださるのだ。神様とは、そのようなお方なのだと教えてくださったのです。

Ⅳ. 道に迷った羊の思い

一方で、迷い出した羊に目を向けたいと思います。この羊は迷子になって、どんな思いでいたでしょうか。群れからはぐれて、自分がどこにいるのかも分からない。不安と心細さと恐れでいっぱい。喉はカラカラ、おなかはペコペコ。足は疲れて重いし、周りはどんどん暗くなって行く。もう泣きそうでボロボロだったでしょう。迷子になった羊は、自分で羊飼いのもとに帰ったのではありません。そもそも羊にはそんなことはできないのです。羊は、群れの中で養われなけれる動物です。一旦、迷子になってしまったら、自分で道を見つけて戻ることはできないのです。
私も最近、この羊のように道に迷う経験をしました。家族3人で山に登りました。5歳になる息子でも登れて麓から片道1時間ぐらいの登山です。その日、私は心も体も疲れが残っていたので、登り始めるのが遅くなってしまったのです。でも、とにかく登り始めました。ところが、歩いてもなかなか登り道にならないのです。道を間違ってしまったのです。道を戻りながら、日が暮れ始めていたので、「まずいな」と思い始めました。携帯電話の電波も届かない所だったので目的地の山小屋にも電話ができない、位置情報も見れずに不安になっていたのです。そこで、「私はこのまま登るのは危ないから山に登るのは止めて帰ろう」と言いました。それを聞いた息子は大泣きです。しかし、息子の声を振り切って麓の駐車場まで戻ったのです。今思うと、私は心身共に疲れていて、心が折れていたのです。麓には売店があって妻がいろいろ話しをしていました。妻は売店からは山小屋に電話がつながるから話してみてはどうか?と言うのです。電話で山小屋の人が言うには、子どもの足でも、まだ日没には間に合うことと、登りやすいルートも教えてくれたのです。結局、登ることにして、無事に日没前に山小屋に到着しました。素晴らしい夕日を家族で見る事ができた。楽しい思い出となったのです。
その夜、山小屋の寝床についた時、息子がおもむろに「今日学んだこと」と言うのです。いったい何だと思いました。すると「今日学んだこと。人に聞くこと!」と言うのです。これには夫婦そろって大笑いしながら驚きました。そうです、私は「まずいな」と思ったあたりから、周りの声が聞こえなくなっていたのです。妻が言った言葉も耳に入っていませんでした。自分は登山の経験があるのに道に迷ってしまったという負い目、疲れ、日の傾き、焦り、心を閉ざして聞く耳をもてなかったのです。周りには行き交う登山者も家族もいたのに、心を閉ざして勝手に孤独感を感じていました。耳があるのに聞く耳をもっていなかったのです。
イエス様は「聞く耳のある者は聞きなさい」と言いました。それは何を聞きなさいと言っているかというと、神様の声を聞くことです。つづいて愛する隣人の声を聞くこと、さらに自分自身の心の声も聞く必要があるのです。聖書全体が教えていることは、神を愛しなさい、そして隣人を自分のように愛しなさいと教えています。言い換えると神様の声を聞くこと、隣人の声を聞くこと、さらに自分の心の声を聞くということです。
聖書では、人間は誰もが神様の前では一人残らず罪人であると教えます。犯罪を犯した罪人ではありません。神様から離れて自分勝手に歩んでいる罪人です。神様の声も、隣人の声も、自分本来の声すら聞こえなくなってしまった人を、罪人と呼びます。それは道に迷った一匹の羊です。自分一人では何もできない羊です。しかし、そんな不安で心を閉ざしている罪人の、心の呻きや、叫びを、聞いてくださっているのは神様です。なぜなら、たったの一匹であっても、いつも探してくださっているからです。決してあきらめない。「恐れるな。私があなたを贖った。私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの」(イザヤ43:1)。

Ⅴ. 問いかけ
そして最後に、見失った羊を見つけ出した羊飼いは、「喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」(ルカ15:5,6)とあります。
迷い出てしまった罪人を、自分の大切なものとして必死に探し、ようやく見つけた人は、大いに喜んでくださるのです。迷子になった羊ではなくて、探していた羊飼いの喜び、つまり神様の喜びです。神様の声に、聞く耳をもたなかった人が、神様のもとに立ち返ることを、神様は誰よりも喜んで下さるのです。
しかし、この譬え話は、私たちに対する問いかけでもあります。つまり私たちは、あの徴税人や罪人たちのように、イエス様のもとにその話を聞こうとして近寄って来るのか、それともあのファリサイ派や律法学者たちのように、イエス様に聞く耳を持たずに、自分が言いたい文句を言うのか?という問いです。
神様の声を聞くって、簡単そうで難しいのかも知れません。私は息子の言葉をきっかけとして悔い改めました。きっと息子の知恵というより神様が働かれたのだと思います。
人は誰でも罪人、誰もが聞く耳をもたずに生れました。神様はそのために、ご自分の独り子をこの世に遣わして下さいました。神の独り子イエス・キリストが、迷子になってしまっている私たちを探し出し、見つけ出して神様のもとに連れ帰って下さる、まことの羊飼いです。イエス様が私たちの羊飼い。何も欠けるものはありません。
お祈りいたします。

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主日共同の礼拝説教

豊かに蒔く人

和田一郎副牧師
エレミヤ書32章6-17節
コリントの信徒への手紙二9章6-15節
2022年9月25日

Ⅰ. はじめに

わたしの家の周りに土がむき出しになっている所があったので、土をならして種を蒔きました。地面を覆ってくれる葉の種を蒔いたのです。均等になるようにパラパラ蒔いたつもりでも、芽が出てくると、結構マダラになりました。しかし成長していくにつれて芽がでなかった所にも葉が増え広がって、やがて均一にキレイに覆われていきました。種を蒔いたあとの広がり方は、自分の意思とは関係なく、周りの草木と調和して、いろんな所に増えてます。育ててくださるのは神様の摂理だと思いました。

Ⅱ. パウロの支援活動

今日の聖書箇所には、種の蒔き方が書かれています。といっても植物の種ではありません。慈善活動に献金することを「種蒔き」と語っているのです。
9章の小見出しの所には、「エルサレムの信徒のための献金」とあります。「エルサレムの信徒」というのは、イエス様の弟子であったペトロやヨハネたちがいるエルサレム教会の人達のことです。エルサレム教会は、キリスト教会として最初に誕生した教会でした。しかし、使徒言行録に書かれている通り、そこはユダヤ教の中心地でもありましたから、ユダヤ人たちから激しい迫害を受けるようになったのです。また、飢饉の影響もあって生活が困窮しました。そのようなエルサレム教会のために、パウロは各地の教会で献金を集めてエルサレム教会を支援しようという運動を始めたのです。パウロは第一のコリントへの手紙でもエルサレム教会への支援献金の呼びかけをしましたし、この第二の手紙でも8章から、そのことを伝えていて、今日の聖書箇所まで熱心に訴えているのです。
ここで私たちが注目したいのは、コリント教会の人々にとって、エルサレム教会の人というのは、会ったこともない、知らない人々だったということです。私たちはペトロやヨハネを知っています。しかし、コリントはギリシャにあり、エルサレムは遠く離れたユダヤです。会ったこともない、名前も知らない人々を、同じキリストの教会に連なっているという、ただその一つのゆえに、相手を支えようとしている。パウロが行っていた献金活動とはそういうものだったのです。
教会の中で献金の話しになると「なんだ教会もお金かよ」と思われるかも知れません。とくに今、日本では統一教会のお金のことが取り沙汰されていますから「宗教はやっぱりお金か?」と思われてしまったら残念です。しかし、聖書にはお金に関わる話しが沢山でてきます。なぜならお金の扱い方一つで信仰が豊かにもなりますし、大きな躓きにもなるからです。そして、お金の扱い方においても神様の御心が聖書にしっかりと書かれているからです。

Ⅲ. 豊かに蒔く

今日の聖書箇所には「お金」とか「献金」とは本文に書かれてないので分かりにくいのですが、6節に「惜しんで僅かに蒔く者は、僅かに刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取るのです」とあります。これはエルサレム教会への献金を捧げることを「蒔く」と表現しているのです。しかし、パウロはお金のことだからと遠回しに表現しているのではありません。宣教支援献金について「蒔く」と表現したパウロの言葉には意味があります。つまり、支援献金というのは決してお金を失うことではなくて、どこかで芽を出して実を結ぶからです。神の働き人を支援するということは、種を蒔くようなもので、献金をした人の思惑を超えて芽を出し、増え広がるからです。ですから「種を蒔く」とは比喩的に聞こえますが、こちらの方が真意に近いのです。パウロは第一コリントの手紙でも、「私が植え、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させてくださったのは神です」(1コリ 3:6)とも言いました。支援献金というのは、まさに誰かが種を蒔くのですが、その働きを成長させてくださるのは、神様であって、その成果は、想定外ですし計り知れないものがあるのです。
そして、パウロは「豊かに蒔く者は、豊かに刈り取る」と言ってますが、豊かというのは金額が大きいということではありません。「豊か」は原文の言葉では「賛美する」とか「祝福する」とも訳される言葉です。賛美したり、祝福するような心で喜んで献金するということです。出し惜しむということがない、心の在り方を言ってるのです。一方で「僅かに蒔く者」という言葉も、金額が小さいことではなくて、出し惜しむような心の在り方を指しているのです。勿論、パウロは無理をしてそのような気持ちで捧げなさいと言っているのではありません。10節にあるように「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたに種を備えて、それを増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます」と説明しています。「種と食べるパンを備えてくださる方」それは神様です。
私たちは誰かに献金するにしても、それを備えてくださるのは、あくまでも神様ですね。そして、献金した先で、その成果が増え広がるのも神様の働きです。それは献金をした人には計り知れないことですが、神の視点からすれば「義」とされて「増し加えて」くださるというのです。私たちは支援した献金が、どのような成果を発揮したかを気に掛ける必要はありません。祈りと同じです。それが、いつ、どのような形で実を結ぶかは神様の領域です。神様の時があるのです。そして必ず何らかの実を結ぶことになるはずです。その神様に対する信頼がしっかりしたものであれば、捧げることにも豊かに蒔くことができる。ですから7節「各自、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」。神様の愛と正義と力を信じて、豊かに種を蒔く者を、神様は愛してくださるのです。
私たちは信徒宣教者の働きや、海外の宣教師のために献金をします。先日締め切りましたが、スペインにあるカンバーランド教会が行っているウクライナ避難民支援の活動に献金をしました。この教会の皆さんから集められた献金は、現地でどのように実を結ぶのか。勿論、報告は然るべき形で成されるのですが、そういった献金が、どのような形で実を結ぶかは計り知れないものです。しかし、必ず神様が用いて下さるから、私たちは会ったこともない、顔を知らない仲間の働きの為に、喜んで献金できるのですね。

Ⅳ. お金に対する神の御心

聖書にはお金に関わる話が沢山あると言いました。神様の御心に適ったお金の扱い方をイエス様はあるたとえ話で教えてくださいました。それがルカ福音書にある「愚かな金持ち」のたとえです。
あるところに、お金持ちが畑を持っていました。その年は豊作になって『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』というほど、大豊作だったのです。彼は考えました。『こうしよう。今ある倉を壊して、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や蓄えを全部しまい込もう。そして自分にこう言ってやるのだ。この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ』。しかし、神様はその人に言われた。『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意したものは、一体誰のものになるのか。』
自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない者はこのとおりだ」(ルカ 12:13-21)。
この愚かな金持ちは、豊かに種を蒔く人とは正反対の人です。自分の財産を自分だけで抱えて込んでいる人です。神様はお金だけではなくて、時間や能力や大切な家族なども、自分だけで抱え込んでいることを良しとしません。それらは自分で作って得たものではない、神様から与えられたお金であり、時間であり、能力であったり、家族も神様から与えられたものです。「タラントンのたとえ」でも、与えられた自分の賜物を上手に用いてて増やした人を神は喜び、与えられた賜物を土に埋めて用いなかった人を叱りました。神様の視点から見ればお金も賜物も時間なども同じです。それらを豊かに蒔く者は、神様に喜ばれ、豊かに刈り取ることができるのです。
エルサレム教会の、設立した当初のお金の用いられ方が使徒言行録に書かれています。「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足元に置き、必要に応じて、おのおのに分配されたからである」(使徒4:34,35)。教会に貧しい人がいなかったのは、裕福な人の財産を分け合っていたからだとあるのです。これは一見すると共産主義のようなコミュニティに見えますが、そうではなくて、信徒たちは自分の財産を持ちつつ、それをいつでも困った人に自主的に分け与えていたのです。
エレミヤ書には預言者エレミヤがバビロン軍に占領されてしまったアナトトという土地を購入する話があります。エレミヤは神様の御心に従って土地に投資をしたのです。なぜならその土地は神様がやがて必ず回復してくださると信じたからです。聖書に書かれたお金に関する神様の御心というのは、お金を惜しんでしまい込むのではなく、必要に応じて蒔いていくというものです。そして相応しいところにお金が落ちていくのは神様の計画であり御心でしょう。
これは聖書を基盤とした指針ですが、実態経済においても同じことが言えるそうです。かつて、スペインなどが世界の覇権を握った大航海時代がありました。それらの国が没落したのは、植民地で鉱山開発を第一に考えて、金や銀を確保することが国を豊かにすると誤解したからだという話しを聞きました。世界中に植民地を増やし、金や銀を貯め込んだのですが、そうすれば当然、金銀の価値は下がります。そして、勤勉に働いて産業を興すことを怠ったことから国は衰退していった。しかし、そうではなく自由な貿易でお互いの資源やお金を生かせば、結果として社会全体に適切な資源配分が成されることを「神の見えざる手」と経済学者のアダム・スミスは言いました。お金を抱え込むことから生かす事に、神様の御心が現れるのではないでしょうか。
パウロの働きに対して、エルサレム教会の人々も、献金をする側の人たちも、神の恵み深さを知ったのではないでしょうか。12節「この奉仕の業は、聖なる者たちの欠乏を補うだけでなく、神への多くの感謝で満ち溢れるものになるからです」。支援するという奉仕はお金を失うことではなくて、種を蒔くような喜びがあるのです。そして神を崇めることに繋がります。それこそが豊かな刈り取りの実です。
お祈りをいたします。