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主日共同の礼拝説教

天の国のことを学ぶ

宮城献副牧師
出エジプト記3章7-12節 マタイによる福音書13章51-52節
2020年8月2日

Ⅰ.はじめに

この度、私が、高座教会での主日のご奉仕が最終日とのことで、説教奉仕のお役を仰せつかりました。皆さまの尊きお祈りとご支援によって支えられてきた者として、御言葉をお分かちする機会を与えられ、感謝しております。また、今日は、洗礼入会式も執り行われます。新しい神の家族が与えられる恵みに預かることも許され、感謝です。ただ、このようなコロナの状況にあって、高座教会の皆さまに、按手を迎えてのお礼を直接お伝えすることが出来なかったこと、また、直接お別れのご挨拶も出来ない方もおられ、心苦しく思っています。
けれど、神学教師に必要な資格取得のために、留学する決断を致しました。私は、教会に教職者として仕えながらも、神学教育・研究を通しても、教会に仕えていきたいとの志が与えられました。そして、その志に応えていきたいと示され、また神様から、様々な助けが与えられ、道が整えられ、9月から学びを始めることへ導かれていきました。

Ⅱ.学者とは:天の国の学者

さて、今日説教をさせて頂くにあたって、マタイの13:51-52の御言葉が与えられました。というのも、神学校時代に、私が、師事した指導教官の研究室の壁に、この御言葉が掛けられていたからです。研究室では、先生に指導を受けながら、歴史の教会を導いてきた、アウグスティヌス、アクィナス、ルター、カルヴァン、バルトといった教会の先人たちが、命を賭けて、語り、記してきた聖書の教えに心を傾けてきました。ただ要領も悪く、呑み込みの悪い私でしたが、先生は忍耐強く、真理を分かち合うために心を砕いてくれました。このような中で、私は、先人たちの言葉に心を傾け、聖書の教えという真理を分かち合う喜びを教えて頂きました。
そして、今日のマタイの御言葉に出会ったのです。51節で、イエス様は、「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」と聞いております。これらのこととは、前のページの13章1節以降の小見出しを見ていくと、様々なたとえが語られていることが分かります。ですので、イエス様が「これらのことがみな分かったか」という「これらのこと」とは、イエス様が語られた、たとえのことです。そして、イエス様は、それらの「たとえ」を通して、「天の国」について、語られています。ですから、イエス様は、これでもか、これでもかと、様々なたとえを通して、天の国について、教えられました。そして、その後「これらのことがみな分かったか」と、優しく、弟子たちに、彼らの理解を確認しています。愛をもって、イエス様は、弟子たちと、真理を分かち合っていたのです。
そして、弟子たちの理解を確認した後、52節の御言葉が続きます。「そこで、イエスは言われた。『だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。』」ここで、イエス様が、天の国を学んだ、弟子たちを「学者」と呼んでいることに、驚かされます。「学者」という、もともとの言葉は、他の箇所では、「律法学者」を指す言葉として、用いられています。当時の宗教的なリーダーで権威を持つ「律法学者」に該当する言葉が、当時の社会で蔑まれ、馬鹿にされてきた漁師や徴税人出身の弟子たちに向けて語られています。そうだとしますと、天の国を学んだ人とは、どんな人であっても「学者」なのだと、イエス様は、語っていることが分かります。ちょうど、このマタイの福音書の松本先生の講解説教を通して、私たちは、天の御国について、学んできました。ですので、不思議に思われるかもしれませんが、私たちも、皆、学者です。今日から神の家族の仲間に加わる方々も、受洗勉強会を通して、天の御国について、ともに学んできたのですから、天国学の学者です。そして、私のこれからの学びも、この延長線上にあるものだと受け止めております。
また、イエス様の御言葉を通して、天の国を学んだ学者と、律法学者との違いも分かります。イエス様は、学者とは、自分の倉から、食べ物を惜しみなく家族に与えて、養う一家の主人のようだと言うのです。自分が学び、培った真理を、自分の知的欲求を満たすためのものとして、一人占めしようとはしません。そうではなく、真理を分かち合うのです。一方、律法学者は「知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきた」(ルカ11:52)と語られています。律法学者は、培った知識を自分のために、利用していたのです。

Ⅲ.分かち合う真理:神の愛の支配

では、分かち合う真理の内容とは、どういったものでしょうか。イエス様は、学者が「新しいものと古いものを取り出す一家の主人のようだ」と語っています。新しいものと古いものとが、分かち合われる内容です。では、古いものと新しいものとは、何でしょうか。古いものとは、律法と預言者といった旧約聖書を通して、示されてきた神様の御心です。そして、新しいものとは、イエス様を通して示された神様の御心です。
ただ、ここで、注意が必要です。古いものと新しいものと聞きますと、その違いが強調されているように思えます。けれど、イエス様は、律法と預言書を完成するために、この世界に来たのだと語っています。つまり、旧約聖書を通して示されていた神様の御心を、イエス様は、完全に示された、ということです。ですので、古いものと新しいものとで示される、神様の御心は同じです。ただ、この神様の御心は、イエス様を通して、この世界に、完全に明らかにされたのです。
では、イエス様を通して示された御心とは、具体的に何か。それが、愛です。神様の愛です。聖書は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された、」と語っています。また、マタイによる福音書で、天の国とは、神様が支配されている、その領域のことを意味します。そして、イエス様は、宣教の初めに「天の国は近づいた」と宣べ伝えました。天の国が近づいたのですから、天の国の方から、この世界に近づいてきた、つまり、神様が、この世界を治めようとしている、ことをイエス様は語られています。けれど、イエス様は、ただ、言葉を語るだけではありません。神様が、この世界を支配されていることを実際に証されたのです。では、どうやって。それは、イエス様が、病気の人を癒し、貧しい人々にパンを与え、罪びとの友となり、神様の愛で、この世界を満たすことを通してです。ですので、悲しみや憎しみで支配されているように思えてしまう、この世界を、神様は、愛をもって治められることを、イエス様は、示されたのです。そして、この神様の愛のご支配という真理を分かち合う者が、天の国の学者なのです。
神学校の敬愛する先生のもとで、先人たちの言葉に心を傾けていくことで、真理を分かち合う喜びを教えられたとお話しました。そして、私は、この喜びを教えられた者として、神学教師の働きにも仕えていきたいとの志が与えられていったのです。けれど、そういった中で、教会に仕える中で、どのように、この志に応えていけるのかと思い悩む様になりました。そして、ついに、私は、この悩みを解消することが出来なくなっていました。こんな私は、献身者としての道、その全てを捨てるべきだとも思う様になりました。そして、全てのことに手がつかなくなり、生きる気力も失っていきました。
ちょうど、そのような時期、神学校のもう一人の恩師が、執筆中の注解書の資料を集めるために、リサーチアシスタントとしてお手伝いする機会を与えて下さいました。先生は、私が、悩み行き詰まっていることも、ご存知でした。ですが、私が資料を届けに参りますと、その注解書のことや研究なされている御言葉について、生き生きと分かち合って下さいました。今、振り返りますと、そのようなご指導や交わりを通して、私は、心からの慰めが与えられました。先生は、この世の誰とでも、友になられた、キリストの友情論をテーマに、新約聖書を研究されてきました。けれど、先生は、ただ研究するだけではなく、ご自身が学んでこられた神学に生きておられました。そして、行き詰まり、迷い、どうしようもなくなってしまった、この私とも友になって下さったのです。そうやって、イエス様が示された、神様の愛という真理を分かち合って下さったのです。そして、私自身、前を向いていく、一つのきっかけを頂きました。そして、教会に教職者として仕えながらも、神学教育・研究を通しても、教会に仕えていきたいとの思いが固められていきました。

Ⅳ.天の国の学者として

さて、先ほど申しあげましたように、今日は、洗礼・入会式がこの後に執り行われます。誠に感謝なことに、今回もそうですが、何回か、私は、若い学生たちと、洗礼に向かっての勉強会をリードする機会を頂きました。その中で、み言葉の解き明かしをした後に、若い学生たちが、み言葉の真理に出合った、その驚きを分かち合って下さる機会が度々ありました。その度に、私自身も教えられ、多くの励ましを頂いてきました。そして、今日、洗礼に与る方々は、ぜひ、これからも、天の国の真理に出合った喜びを、愛する家族や友に分かち合って頂きたいと思います。なぜなら、皆さまも、天の国の学者だからです。そして、この度、受洗する方々だけではありません。毎週、み言葉に預かり、神様の愛という真理を教えられた私たちも、天の国の学者として、その喜びを共に分かち合っていこうではありませんか。それでは、お祈り致します。

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祈祷会

十字架の死

ヨハネによる福音書19章16節後半−30節
宮城献副牧師

1. 十字架の彼ら

 

今日は、キリストが十字架にかけられ、亡くられたことを覚える受難日です。教会にとって、大切な一日です。そして、キリストの死を覚えるために、高座教会でも、歴史の教会に倣って、講壇や聖餐卓の上を、受難日は、黒の布で覆っています。今年は、ともに礼拝堂に集まることが出来ませんが、実際の礼拝堂では、黒の布で覆いました。
確かに、私たちは、今、ともに、私たちのその身をもって、礼拝堂に集まることは出来ません。だから、礼拝堂の様子が変わろうとも、だから、どうしたのだと思うかもしれません。そして、何より、私たちは、今、日常と違った日々を送らなければなりません。ですので、この先行きが見えない中、この後、世界はどうなってしまうのかと不安に思ってしまいます。
でも、そのような中で、今、立ち止まって覚えたいことは、昨年と同じように、今日も、高座教会の礼拝堂を黒の布が覆っています。そして、今、この教会に連なるお一人おひとりが、それぞれの場所で、ともに心を合わせて、キリストの十字架を覚えているのです。私たちは、たとえ、その肉体が離れていようとも、主の十字架を見あげることで、一つになれるのです。そして、それは、高座教会だけのことでもありません。今、この病で、全世界が分断されてしまいました。でも、全世界の教会が、今日、ともに、主の十字架を見あげます。私たちは、十字架にあって一つなのです。この十字架の慰めを覚えながら、今日のみ言葉をともに聞いていきましょう。
19章16節以降では、まず、具体的な人が出てこないことに気づかされます。他の福音書では、イエス様の代わりに十字架を背負ったキレネ人のシモンが登場しますが、ヨハネでは、出てきません。また、16節では、イエス様を十字架に架けるために引き取った「彼ら」、18節でも、イエス様を十字架につけた「彼ら」とあって名前は記されていません。さらに、他の福音書では、イエス様とともに十字架に架かった二人は、強盗と紹介されていますが、ヨハネでは、「他の二人」とだけ記されています。
では、なぜイエス様の十字架に関わった人たちが、このように簡潔に語られているのでしょうか。それは、ヨハネの強調点が、イエス様の十字架は、具体的な誰だれ、ということではなく、全ての人が関わる問題なのだ、ということにあります。イエス様の十字架は、ユダヤ人だけではなく、また、ローマ人だけではなく、祭司だけによるものでもなく、ピラトだけによるものでもなく、全ての人が関わる出来事なのだということです。そして、それは、今、このみ言葉を聞く、私たちにも関わる出来事だ、ということでもあります。

2. 兵士と女性

 

そして、このヨハネの強調点に立って、今日は、23節以降も捉えていきたいと思います。確かに、23節以降、十字架に関わった人々の具体的な輪郭が示されていきます。ヨハネは、十字架のもとにいる二つのグループを描いているのです。ヨハネは、印象的に、四人の兵士と、四人の女性を記しています。けれど、十字架の前にいる彼らの姿を見ていきますと、彼らを通して、不思議と、私たちも、キリストの十字架の前に立たされていることを覚えるのです。
兵士たちは、イエス様を十字架に架けた後、イエス様の服をむしり取り、それを四等分に分けた、というのです。世界の救い主が、今、十字架で死のうとしている。そんなことは自分に関係ない。衣服を奪い取り、私腹を肥やすことにしか関心が無い。十字架を前にした哀しい人間のあり様です。
でも、彼らだけではないのです。今日は、主の十字架を見あげる受難日です。でも、それにも関わらず、自分のことにしか関心が持てない、自分の生活のことしか考えられない。確かに、今、私たちは不安で押しつぶされてしまいそうです。でも、それでも、彼らの姿を通して、私も今、十字架の主の苦しみから目を離しているのではないかと問われます。
一方、ヨハネは、十字架の前で、十字架を見つめ続けた、四人の女性たちを描いています。もちろん、ここで、イエス様の愛する弟子、このヨハネ福音書を記したヨハネ自身ではないかと言われていますが、一人の男性の弟子も登場します。でも、他の男性の弟子たちは、一人もいません。そして、ここで、四人の兵士と四人の女性が対になっているように、十字架を見あげ続けた「女性」に焦点が向けられています。今この様な中でも、十字架を見上げる続けるご婦人たちの敬虔な姿を、私は思わされます。
また、その中で、イエス様は、母であるマリアに対して、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。」(26節)さらに、イエス様は、愛する弟子に向かって、「見なさい。あなたの母です。」(27節b)とおっしゃられました。そして、27節の最後で、「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(27節c)とあります。残される年老いた母を思い、信頼に置く弟子に、その母の世話を託した、イエス様の愛が麗しく描かれています。
ただ、今日は、そのようなイエス様の愛の姿に視点を向けるだけではなく、主の十字架を通して、この出来事を覚えたいのです。イエス様と母マリアとのやり取りは、ヨハネの福音書では、まず、カナの婚礼で描かれています。イエス様が、結婚式の中で、水をぶどう酒に変えられた奇跡の場面です。せっかくですので、その一節を開きたいと思います。2章4節です。新約聖書の165頁です。お手元に聖書がある方は、ぜひお開き下さい。ヨハネによる福音書2章4節、新約聖書の165頁です。お手元に無い方は、私が、ゆっくり読みますので、どうぞお聞き下さい。お読みします。

イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

ぶどう酒が無くなって困る、母マリアに対して、イエス様は、素気ない態度を取られているなと思わされます。でも、今日の箇所と重ねて読んでいきますと、気づかされることがあります。2章4節では、「わたしの時がまだ来てい」ない、とイエス様は、おっしゃられていますが、その時とは、十字架の時です。そして、その時が来たら、新しいかかわりが生まれる。それは、十字架によって、神の家族が生み出される、ということです。マリアは、十字架の前で、愛する弟子のヨハネと神の家族になったのです。
そして、これは、マリアとヨハネだけのことではありません。十字架の前に集う私たちは、もともとこの世での繋がりはありませんでした。けれど、キリストの十字架の御前で、私たちは、教会という神の家族が与えられたのです。
では、私たちを一つにする十字架とは、どういったことを意味しているのでしょうか。

3. 究極的な愛の実現

 

30節にありますように、十字架上で、最後、イエス様は「成し遂げられる」と語られています。そして、この「成し遂げられる」という言葉は、「終わり」や「究極」といった意味の「テロス」という言葉がもとになっています。そして、その言葉が、ヨハネの福音書では一回だけ出ています。この祈祷会の初日の箇所、最後の晩餐が描かれた13章1節に、です。この言葉を、新しい聖書(聖書協会共同訳)が、とても良く訳していましたので、そちらをお読みしたいと思います。ゆっくりとお読みしたいと思いますので、注意してお聞き下さったらと思います。

過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた。

今、お読みした後半、「最後まで愛し抜かれた」の「最後」に、その「テロス」という言葉が用いられています。そして、この箇所の後、イエス様は、弟子たちの足を洗われ、弟子たちを愛されたのです。でも、その後、ユダの裏切りが語られます。けれど、それでも、互いに愛し合うようにという掟を示されました。そうして、イエス様は、十字架に架かったのです。そうやって、成し遂げられたのです。何をでしょうか。それは、テロスに至る愛、つまり、究極的な愛をです。
では、誰を愛されたというのでしょうか。それは、弟子たちを。私たちを。そして、この世界の全ての人を。そうして、この愛ゆえに、つまり、イエス様が、友を愛するがゆえに、命を捨て、血を流され、私たちの罪が洗い清められたのです。そうやって、私たちを、イエス様は、最後まで愛し抜かれたのです。これが、十字架の意味です。

4. 愛の勝利

 

また、説教を備えながら、ヨハネの福音書が語る十字架の壮大さに驚きを覚えました。イエス様が、十字架の意味について語る箇所が、12章32節に記されています。新約聖書の193頁になります。どうぞお開き下さい。また、お手元にない方は、ゆっくり私が読みますので、お聞き下さい。新約聖書193頁、ヨハネによる福音書12章32節です。

わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

イエス様は、十字架の御前に、全ての人を招かれているというのです。招かれているのは、弟子たちだけでないというのです。十字架を見あげていた、四人の女性たちだけでもありません。十字架の前で、十字架を見つめなかったローマの兵士も招かれているのです。なぜなら、全ての人の罪を赦すために、イエス様は、十字架に上げられたからです。もちろん、この十字架が自分のためだったと信じるか信じないかは別のことです。けれど、それでも、十字架は、全世界の全ての罪人を招いている。そして、その中に、私たちもいるのです。そうやって、私たちは、十字架の御前に招かれた罪人として、けれども、十字架ゆえに、罪赦された罪人として、私たちは、一つにされたのです。
今、私たちは、礼拝堂に共に集うことが出来ず、神の家族が離ればなれになってしまったと思うかもしれません。また、世界の国境は閉じられ、この世界も分断されてしまった様に思えてしまいます。けれど、そのような中で、今日のひと日、覚えたいことは、イエス様は究極的な愛を「成し遂げられた。」のです。もう既に、十字架によって、私たちは、イエス様のみもとに招かれ、一つにされたのです。この十字架の恵みに、堅く立って、どうぞ、イースター礼拝まで、それぞれが、それぞれの場所で、一つ思いになって、主の十字架を見あげて参りましょう。それでは、お祈り致します。

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祈祷会

心を騒がせるな

2020年4月7日
ヨハネによる福音書14:1−21
宮城献副牧師

1.心騒ぐ中で

 

「心を騒がらせるな。」というみ言葉が、受難週祈祷会の二日目、私たちに、与えられました。日々、新型コロナウィルスの報道を聞き、心を騒ぐ、この時に、この御言葉か、と、説教の備えをしながら思わされました。けれど、この御言葉を聞いた時の弟子たちも、同じような心持ちだったのではないでしょうか。ヨハネによる福音書の14章の舞台は、13章から続く、最後の晩餐の席上になります。そして、昨日、和田先生の説教でともに見て来ましたように、13章では、イエス様が、弟子たちの足を洗われました。続いて、イスカリオテのユダの裏切りを予告し、そして、互いに愛し合うようにと、新しい掟を、弟子たちに語られました。それとともに、イエス様は、「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」(13:33)と、十字架による弟子たちとの別れを語っています。もちろんこの時、弟子たちは、十字架の意味やイエス様が十字架で死んでしまうことは分かっていません。でも、イエス様が、自分たちに別れを宣言されている。弟子たちは、動揺し、心が騒ぎ立ちます。その中で、一番弟子のペトロは、命を捨てでも、あなたについていくと、断言するのです。すると、イエス様は、こう語られました。今日の箇所の直前の13章の38節です。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」これを聞いた、ペトロは、衝撃を受けたと思います。まさか、と。そして、ペトロだけではありません。弟子たち、みんな動揺しました。愛するイエス様と離ればなれになってしまう。さらには、一番弟子であるはずの、ペトロが、イエス様を、裏切ってしまう。

けれど、そんな心かき乱された、そのただ中で、イエス様は、こう語るのです。「心を騒がせるな。」ただ、ここで、イエス様は、何も、不動の心を持つのだ、と語っているわけでもありません。私たちの心は、誰であっても、かき乱され、騒ぎ立ってしまいます。また、説教の準備をしながら、教えられたのですが、ヨハネの福音書で「心を騒がせる」といった言葉は、他の箇所では、イエス様自身の心をあり様を語る際に用いられていました。イエス様は、十字架に架けられることを前もって語られた12章27節で、「今、わたしは心騒ぐ」とおっしゃっています。ですので、イエス様は、弟子たちが、心を騒ぐということも知っていたのです。でも、そのことを受け止めて、弟子たちに、それでも「心を騒がせるな」と語られていたのです。そして、同じように、今、心が騒ぎ立つ私たちのことも、イエス様は、その一切を受け止めて下さった上で、「心を騒がせるな」と語られているのです。

では、なぜ、イエス様、このように語られたのでしょうか。続く、御言葉を見ていきましょう。

2.父と子の一体

 

1節の後半です。「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」神様とイエス様を信じるように、とおっしゃられるのですから、何か、二つのものを信じることのように思えます。けれど、ここで、イエス様は、神様を信じることとは、イエス様を信じること抜きには考えられないのだと教えて下さっているのです。父なる神様と子なるイエス様は、一体である。だから、神様とイエス様を信じることは、同じだというのです。そして、父なる神様と子なるイエス様を同じように信じるように、というのです。

先ほどお読みしました9節でも、イエス様は、「わたしを見た者は、父を見たのだ。」と、イエス様を見ることと、神様を見ることは、同じだと語られていました。また、11節でも、イエス様は、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」と、父なる神様とイエス様が、愛において一つの交わりにあり、一体である、と語られていたのです。

3.父の家には住む所がたくさんある

 

そして、イエス様は、2-3で次の様に語られます。

わたしの父の家には住む所がたくさるある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

このみ言葉は、葬礼拝でよく耳にします。その中で、語られた時、本当に慰めを覚えます。主のもとに召され、この地上での生活を終えた先人たち、そして、将来の私たちにも、天に住む場所があるのだ、と確信が与えられます。かの日の希望を頂き、心に平安が与えられます。

ただ、今日は、わたしたちの用意される、この天の住処について、葬礼拝などで語られる意味とは違った意味について、思い巡らしてみたいと思います。それは、ここで、イエス様が、将来、私たちに備えられている天の住処について、語られていることの意味を否定するのではありません。このことは、イエス様が語って下さった真理であり、本当の慰めです。ですが、それとともに、今日、覚えたいことは、この天の住処が、今のわたしたちにも与えられるものだ、とも語られていたことを受け取っていきたいのです。

ここで、弟子たちに語られていた文脈をもう一度考えてみましょう。イエス様は、一人十字架の道を歩まれると、弟子たちに語られていました。ですので、2-3節で、「あなたがたとは」、まず弟子に向けて語られた言葉です。そして、イエス様は、あなたがた弟子たちのための場所を用意するために「行く」とおっしゃられています。ですので、ここで、イエス様は、十字架の道を通って、天に「行く」と語られているのです。そして、戻って来て、あなたたちを私のもとへ迎える。だから、心を騒がせるな、と語られていました。

弟子たちは、愛するイエス様が、いなくなってしまう、不安で心配だ。でも、戻ってくる。だから、イエス様は、18節でも、「わたしは、あなたがたをみなしごにしてはおかない。あなたがたの所に帰ってくる」とおっしゃられているのです。でも、そうは言っても、待っている方は、心配ですね。いつ、どうやって、イエス様は、戻ってくるのか、と思ってしまいます。だから、イエス様は、18節の前の16- 17節でこう語っておられたのです。

わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

イエス様は、「弁護者」「真理の霊」、つまり、聖霊を通して、弟子たちのもとに戻ってこられるというのです。そして、その聖霊を通して、イエス様は、弟子たちと、ともにおられる、と語られていたのです。

では、そのようにイエス様に迎えられた、弟子たちは、どういったところに住む、というのでしょうか。2節で「住む所がたくさるある」の「住む所」という言葉は、今日の箇所の少し先14:23でも使われています。

イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。

ここで、「一緒に住む」の「住む」にあたる言葉が、2節の「住む所」という言葉と同じです。そして、ここで、弟子たちが、守る「わたしの言葉」とは、互いに愛し合いなさい、というイエス様の教えです。ですので、弟子たちが、イエス様を愛し、イエス様の愛に倣い、互いに愛し合う。次に、その弟子たちを、父なる神様は、愛される。そうして、その弟子たちの愛の共同体に、神様と、イエス様が共にお住まいなるというのです。神様とイエス様は、先ほど、見て来ましたように、愛において、一つの交わりにあるように、一体です。そして、同じ様に、愛の交わりの中にある弟子たちと、神様とイエス様は、共におられる、というのです。

もちろん、最後の晩餐のこの時、弟子たちは、イエス様がこのように語られていることの意味は、よく分かりませんでした。そして、迫り来るイエス様の別れの中で、不安で心が押しつぶされそうでした。けれど、イエス様が、十字架で亡くなり、復活し、さらに昇天され、ペンテコステの出来事が起こり、そして、聖霊で彼らが満たされた時に、イエス様が、ここで、語られたことを思い返したと思います。そうして、彼らの共同体が、愛で満ちた時、イエス様と神様が、ともにおられると、強く覚えたのです。ですので、このヨハネの福音書のみ言葉を通して、イエス様は、天の住処をこの地に作られる、つまり、愛の交わり生きる天の住処を、この地に教会として、建て上げられるのだと、語られていたのです。そうして、心を騒がせるな、とイエス様は、語られていたのです。

また、ここで、私たちが、特に、心に留めておきたいことは、愛の交わりにある教会が誕生した時、実際の教会も、心が騒ぎ立っていた、ということです。彼らは、イエス様を主と信じるゆえに、迫害にさらされる時代に生きていました。特に、このヨハネの福音書を執筆したヨハネを中心とするグループは、ユダヤ教から、迫害を受け、会堂を追放されていたと考えられています。そして、この地上において、自分たちは、みなしごではないかと、心が騒ぎ立っていたのです。それは、今、このような状況の中で、礼拝堂に、ともに集えず、ヨベル館の中で、ともに交わることの出来ない、私たちと同じような状況です。

でも、イエス様は、こう語られているのです。「心を騒がせるな。」「わたしは、あなたがたをみなしごにしてはおかない。あなたがたの所に帰ってくる」「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」

愛のある交わりへと私たちを連れ戻してくださる。私たちを教会に戻してくださる。イエスさまは、わたしたちをみなしごにしておかないからです。だから、「心を騒がせるな。」と、イエスさまは語られているのです。そして、このために、イエス様は、十字架の道を歩まれたのです。

どうぞ、心さわぎ立つ、日々の中にあっても、私たちを受け止め、私たちの手を離さず、教会へと迎えてくださる、イエス様を見上げ、「心を騒がせるな。」というイエス様のみ言葉を、ともに聞いて参りましょう。そして、今、受難週の日々です。この地に、私たちの天の住処を建て上げて下さるために、イエス様が「十字架」へと歩まれた受難を見つめつつ、自分の罪に悔い改め、この世界の苦難を覚え、ともに祈りの手を合わせていきましょう。それでは、お祈り致します。