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主日共同の礼拝説教

全能の神を信じます-使徒信条⑤

松本雅弘牧師
創世記18章16-33節
エフェソの信徒への手紙1章15-19節

2021年2月14日

Ⅰ.全能の神と私たち

「全能」の「全」とは「すべて」とか「完全」という意味、「能」とは「能力」のことですから、「全能」とは「すべてのことができる」ということでしょう。私たちが使徒信条で、「全能の神を信じます」と告白する時、「すべてのことがお出来になる神を信じます」という意味でしょう。いかなる神を信じるかは、その人の信仰生活を枠づけると言われます。では、神さまが全能であるということはどういうことなのか。そのお方を信じる私たちはどうなるのでしょうか。創世記によれば、天地の造り主、全能の神は、被造物に過ぎない人間と関わりを持たれるのです。今日はそのような視点から創世記第18章の出来事を手掛かりにしながら「全能の神を信じる」ということについて、御一緒に考えたみたいと思います。

Ⅱ.聖書の神さま

ある暑い日、それも真昼頃、遊牧民の格好をした3人の男がアブラハムの天幕にやって来ました。アブラハムはその彼らをもてなす中、ソドムの滅びの計画を知らされていくのです。

Ⅲ.自問なさる神

今日の箇所には驚くべき言葉、神の独り言が記録されています。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか」、聖書協会共同訳では、「私は、これから行おうとしていることをアブラハムに隠しておいてよいだろうか」と訳されています。
このとき神はソドムを滅ぼそうと考えておられた。ソドムの住民の悪が極限に達していたからです。神さまは王の王、主の主ですから、ご自分で考え罰をくだしたとしても、誰も文句など言えません。神さまですから。でもこの時、ご自身の側でわざわざアブラハムに伝え、彼から意見を求めようとしておられる。「私は、これから行おうとしていることをアブラハムに隠しておいてよいだろうか」という独り言は、そういうことでしょう。主なる神は全宇宙の創造者で統治者であるお方、しかも正義の神であり、審判者なるお方。その偉大な神が、アブラハムという1人の人間に、ご自身のご計画や考えを報告し、相談しようとされる。それは、神がアブラハムをそのような者としてお選びになったからでした。この「選んだ」というヘブル語は「友とする」と訳せる言葉です。聖書よれば、神は私たちとも同じ関係を持ちたいと願っておられる。神さまのお働きの協力者として選ばれ、友として生かされているということです(ヨハネ15:15)。こうしてアブラハムは祈りを通し神との話し合いを始めたのです。

Ⅳ.全能の神を信じます

そうした中、アブラハムにはどうしてもはっきりさせたいことがあったのです。「正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」〈神さま、どうしてあなたが〉という思いです。これまで神を信じて生きて来た。そのお方こそ人生の拠り所となるお方です。それなのに、何で神がこのようなことをしようとなさるのか、分からない。昨年から何度も心の中に頭をもたげる、「コロナ禍における神の沈黙」と相通じるテーマかもしれません。全能の神、善きお方なのに何故?
私たちが使徒信条で、「全能の神を信じます」と告白する。そのように、「すべてのことがお出来になる神を信じます」と告白した瞬間、なぜ、この世の中にはこんなにも不条理な苦しみがあるのだろうかと、ふと神の無力さを思ってしまうわけなのです。義人と言われる人に災いが降りかかり、罪のない人が犠牲になる。コロナのような疫病がどうして起こるのか、いや、神さまが全能ならば、何で、このような状態を放置されるのか。私たちは問いたくなる。さらに続けて、神が全能でなんでもおできになるならば、例えば、嘘をつくことができるのか。聖書には「神は常に真実で、自分を偽ることができない」(Ⅱテモテ2:13)という御言葉があるが、それは神の全能を否定するものではないか。神は悪を行うことができるのか。罪を犯すことができるのか。神は死ぬことができるのか。そうした意地の悪い問いかけが、次々と心の中に湧いてくることさえあります。アブラハムもそうでした。「どうして神は正しい者を悪者と一緒に滅ぼしてしまうのですか。そのようなことをなさったら、もうあなたは正義の神ではなくなってしまいます。あなたのことが分からなくなりました。」誤解を恐れずに言えば、ここでアブラハムの祈りの中心点はソドムの運命云々ではなく、むしろ神ご自身の資質を問うていたのではないかと思うのです。
創世記に戻ります。27節、「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます」と祈っています。そう言えば、若き預言者イザヤも同じような経験をしました。煙の中に輝くまことの神の臨在に触れ、イザヤの口から飛び出したのは、「災いだ。わたしは滅ぼされる」、新改訳は「ああ。私は、もうだめだ」(イザヤ6:5)という叫びです。
まことの神の御前に立たされる時に、人の心に畏れが生じる。ですから、創世記のこの箇所を注意深く読む時、アブラハムは、本当に知りたかったことを質問していないことに気づきます。なぜなら、恐ろしかったから。〈こんなことを訊いたら殺されるかもしれない〉と思ったから。ですから30節、彼は震えながら、でもぎりぎりのところで、「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください」、32節、「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません」と申し上げています。そして、創世記によれば、彼のこの訴えに対する主の答えが、「その十人のために滅ぼさない」というものだったというのです。
するとどうでしょう。アブラハムは対話を切り上げ、家に帰ってしまうのです。なぜここで終わりなのか。何が起こったのか。詳細は分かりません。でも一つ、確かなことがあると思います。それはアブラハムが納得した、ストンと腑に落ちたのです。
「滅ぼさない。その40人のために。…滅ぼさない。もしそこにわたしが30人を見つけたら。…滅ぼさない。その10人のために」と、そのように返ってくる答えごとに、神の、そのお方のイメージがアブラハムの中で変えられていった。自分の前におられるお方は、「得体のしれない怪物/理屈の通じない暴君」ではない。いや今まで以上にもっと信頼できるお方だった、という納得です。
ですから、さらに人数をカウントダウンし、駆け引きする必要もありません。誤解を恐れずに言うならば、たとえ何が起こったとしても、起こらなかったとしても、このお方は信頼できる。
私たちの言葉で言うならば、祈りの格闘を通して、アブラハムは神との新たな出会いを経験した。それによってアブラハム自身も変えられる経験をしていったのです。
神さまは全能のお方である。でも、それだけではありません。そのお方が創造の冠として、ご自身のかたちに人を造られた。そして造られたこの世界を、神と共に治めるように、この世界、この歴史形成の担い手として、私たち人間を召しておられる。
昨年の8月、タラントンの譬え話から説教した時に、台所での子どものお手伝いの話をしました。お母さんのお手伝いをする時、小さな子どもは、本当に満足をする。物凄い喜びで満たされる。お母さん一人でしてしまえば、時間もかからず、おいしく仕上がる料理ですが、敢えて、子どもに手伝わせると手間もかかります。失敗するかもしれません。でも、そうしたリスクを承知の上で、そのようにする。なぜでしょう。作る喜び、作った物を家族が食し、喜び合う幸せを子どもと一緒に分かち合うためです。その喜びに与らせてくださる。そして喜びだけではありません。悩むことも、怒ることも、分からずに苦しむことも起こる、何故なら、神が私たちを歴史形成のパートナーとして、友として選ばれたから。選んだ神さまが「これから行おうとしていることをアブラハムに隠しておいてよいだろうか」と自問なさるようなお方だからです。私たちは、この光栄な招きと選びを引き受けそのお方のことを、「全能の神を信じます」と心から告白して歩む者でありたいと願います。
お祈りいたします。

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父である神-使徒信条④

松本雅弘牧師
イザヤ書66章10-14節
ローマの信徒への手紙8章14-17節
2021年2月7日

Ⅰ.神を「父」と呼ぶことへの抵抗感/違和感(?)

しばらく前のことですが、説教で「神さまは父親のような存在なのだ」と語ったところ、ある方が来られて、「先生、神さまを〈父〉と呼ぶことに,私は抵抗を覚えます。そのことだけはストンと落ちないのです」。そういうお話をいただいたことがあります。「父」という言葉は、今の私たちにとってどのような印象を与えるものなのでしょうか。しばらく前の日本では父親は怖い存在の代表のように扱われてきましたが、一方で父親の権威は認められていたかと思います。でも現在の日本社会では、父親がらみの犯罪、家庭内暴力/性暴力を繰り返す父親の犯罪報道が頻繁に目に付くご時世。主イエスが地上の父親をもって神を紹介することに抵抗を感じるのは当然なのではないかと思うのです。こうした中、使徒信条は神を父と告白している。そもそもなぜ主イエスご自身が神を父とお呼びになるのか。どのような意味でそうお教えになったのか。そのような問を心に留めながら、今日は、「父である神」についてご一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.イエスが神を「アッバ父」と呼んだ意味

主イエスが、神を父と呼ぶようにと示された“きっかけ”は、弟子たちが、「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」とお願いしたことにありました。その願いに対し、「こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。』」(マタイ6:9)とお語りになったのです。ただ聖書は、「父」という言葉が当てられていますが、実際に主がお使いになったのは、「アッバ」というアラム語の言葉です。
ある牧師曰く、「この『アッバ』はイエスが活動したガリラヤ地方で人々が話していた言葉、アラム語では幼い子どもが父親を家庭で呼ぶときの言葉で、あまり外では使わない、大人になったら使うのが恥ずかしい、『おとうちゃま』とか『とっと』とかいう呼び方」。とっても砕けた呼び方、一番、親しみを込めた呼び方です。幼い頃、皆さんは、父親を何とお呼びになっていたでしょう?「とうさん/お父ちゃん」、主イエスは、そう呼びなさいとお教えになったのです。
ところで、このことの関連で、一つ確認しておきたい事実があります。イエスさまの時代、もっと正確な言い方をするならば、旧約聖書の中で、神を父と呼ぶことは一般的ではなかったということです。旧約聖書には「父」という言葉が約千回使われています。そのうち神をさして「父」と出てくるのがたった15回、しかもその場合、「厳しく近寄りがたい存在」というイメージが強いのです。つまり神を指して「父」と呼ぶことは一般的でなかったにもかかわらず、主イエスは敢えて、ご自分の弟子たちに対して、祈る時に、「そう呼びなさい/そう呼び掛けるのですよ」と、教えられたのが、「アッバ父」という呼び方だったのです。
ヨハヒム・エレミヤスという聖書学者が次のように語っています。「われわれはここで基本的な意義を持つ一つの事実に出会っていることになる。すなわち、ユダヤ教の中には神に対してアッバという呼びかけがなされたという証例がただの一つも見つからないのに対して、イエスは自分の祈りの中では絶えずこの呼びかけを用いていたということ、(中略)アッバは子どもの言葉、日常語であり、親しい仲での敬語なのである。イエスの同時代人の感覚から言って、こういう日常身近な言葉を使って神に語りかけるなどは不謹慎きわまること、否考えることさえできないことであったろう。」(角田信三郎訳、『イエスの宣教』)
実は、主イエスが地上の生涯を送られた当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にありました。そこで何が起こっていたかと言いますと、ローマ皇帝が植民地の住民に対し自らを「父」と呼ばせるようにしていたのです。ゼウスとかジュピターが、「天の父」であり、ローマ皇帝はそうした神々の地上における代理者としての「父」として、自らを現人神として崇拝させることを強要していた時代です。その時代に主は、「地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ」(マタイ23:9)とお語りになった。主イエスご自身が祈りを捧げ、導こうとなさったお方を指して、「アッバ父」と呼びかけるように教えられた。これは、当時の政治体制にたいする一つのプロテストだと言われます。

Ⅲ.父なる神は男性?

さて冒頭、神さまを「父」という言葉で表すことに抵抗を持たれる方のお話をしました。結論から言うならば、主イエスが神さまを指して「父」とお呼びになる時、それは神が男性であることを意味しているのではないことも付け加えておきたいと思うのです。その証拠に、聖書を丁寧に読んでいきますと、そこには母なる神のイメージも出て来る。今日、朗読箇所で取り上げた、イザヤ書66章13節に、「母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける」とあります。つまり神さまを父と呼ぶ時、それは神のジェンダー/性別を問題にしているのではい。このことは、ぜひ覚えておきたい、心に留めたいと思います。ただ残念ながら、長きにわたり、キリスト教の歴史の中で、「父なる神」の「父」を性別/ジェンダーとして受けとめ、その結果、男性中心の社会や文化、家父長制を正当化する根拠として用いられてきた歴史が教会の中にもありました。高座教会においても、女性長老を認めることのできなかった頃、そうした聖書理解があったかと思います。

Ⅳ.神の家族としての私たち

今日は第一主日で、本来ならば聖餐に与る日です。最後の晩餐の席上で、主イエスは、取り上げたパンを指し「取って食べなさい。これはわたしの体である」と言われ、そしてまた杯をも取り上げ、「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が許されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と宣言された。実は、それと同じように大切な宣言を主イエスはなさっていたことを福音書は伝えています。それは「神の家族宣言」です。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」ご自分の周りに居た人々、そして弟子たちを指さして、そう宣言なさったのです。幸いなるかな、神は私たちにとって、「アッバ父よ」と呼びかけることが許されているような存在なのです。私たちをあるがままそのままで愛してくださっている。勿論、私たちが犯す罪を憎まれます。それは、罪が神の子である私たちを傷つけダメにするからです。命の源である神から私たちを断絶させるからです。だから神の子たちのことを思い、的外れの生活から解放したいと願い、御子イエス・キリストを送り、罪の支払う報酬である死を、私たちの身代わりの死を、十字架の上で成し遂げてくださった。
神は私たちをどう見ておられるか。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と見ておられる。放蕩息子の父親のようなお方が、使徒信条で告白する「父なる神」、主イエスが「アッバ父よ」と呼ぶようにと示してくださったお方です。息子の帰りを毎日毎日忍耐して待ち、戻って来た息子の姿を見付けた途端、一直線に走り寄り、抱きしめ、「ああ、よかった!」、息子の無事、その存在を喜ぶ。それが、私たちが使徒信条で「父なる神を信じます」と告白する神さまなのです。
パウロは、神が私たちと、そうした親しい関係、その関係を成り立たせるために、信じる私たちの内側に、聖霊を与えてくださったのだと明言しています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」私たちの信じている神さまは、放蕩息子を迎える、愛に満ちたアッバなるお方、しかも、そのお方を、私たちの心の深み、霊において告白できるように、聖霊が私たちの内側に住んでくださる。しかもそのお方は、私たちをして心の底から「アッバ、父よ」と呼び掛けられるように、告白できるようにしてくださる。
「私は、父である神を信じます」と使徒信条で告白する時、そのような恵みの現実の中に置かれ、生かされてことを覚えたい。その恵みを与えてくださる神さまを、「アッバ父よ」と呼びながら、この一週間も歩んでいきたいと願います。
お祈りいたします。

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天地の造り主-使徒信条③

松本雅弘牧師
創世記1章31節-2章3節、エフェソの信徒への手紙2章1-10節
2021年1月31日

Ⅰ.神を信じること

私たちが暮らす日本社会には「神」の名でもって呼ばれるものがたくさんあります。記紀神話に出てくる天照大神は、実在のものであるかのように神社に祭られ「神」と呼ばれています。今はちょうど受験シーズンですが菅原道真のように歴史上実在した人物が、その功績を認められて「受験生の神さま」として祭られる場合もあります。また人間だけではありません。山や木や石が神の名をもって呼ばれ崇められている現実があります。神への信仰を語る時、一番大切なことは、その神とはどのようなお方なのか、という問いなのではないでしょうか。その問いに対し使徒信条は、「神とは天地の造り主」と答えるわけです。

Ⅱ.天地を造られた神

さて、今日は創世記を読ませていただきました。創世記によれば、私たちの神は、天地の造り主なるお方であると教えています。創世記によれば、最初に造られたものから最後に造られた人間に至るまですべての被造物は、最終的に造り主なる神さまの支えがあって、初めて存在しうると説かれています。被造世界は造り主なる神さまによって一瞬一瞬支えられている。いや、この時間さえも神の被造物である。造り主なる神さまの支えによって、この世界が保たれ、生かされていることを創世記は教えています。そう考えますと、創世記に出てくる、後に造られたものであればあるほど、前に造られたものへの依存度が高い。
先日、駿河湾深海で巨大なイワシが発見されました。体長1.4メートル。体重が何と25キロに達する魚です。このイワシは主に魚を食し、食物連鎖の「頂点」にいるがゆえに「横綱イワシ」と命名されたそうですが、神学の世界では、一般に人間のことを「創造の冠」と呼ぶことがありますが、「創造の冠」として天地創造の最後に造られた、私たち人間は、自分たちが造られる以前に造られた被造物が何一つ欠けたとしても、実は生きていくことはできない。言わば神が造られたこの世界に対して一番依存度が高い存在であることが分かります。
そしてもう一つ、この世界をお創りになった神は、一日の終わりに、造られた被造物をご覧になり、「良しとされた」。そして最後、人間をお造りになり、ご覧になった時に、「極めて良かった」。そのようのおっしゃった。自画自賛なさったのです。つまり神は、この世界を良いものとして造られた。お創りになった神さまが良いお方だから。そして最後に造られた人間をはなはだよいものとして造ってくださった。創世記はそのように伝えているのです。

Ⅲ.神に造られた私

ところで、聖書は、神さまが、天地万物の造り主であることを語り、私たちが告白する使徒信条は、「私は天地の造り主である神を信じます」と告白するわけですが、その告白を深めていくと、もう一つ大切な信仰理解に行きつく。天地の造り主である神は、私を造られた神である、私は神に造られた私である、という信仰へと導かれるのではないでしょうか。
創世記は、人間が「神のかたち」に造られていることが分かります(1:26、27)。「神のかたち」とは何か。一言で表現するならば、人間は神の特質を備えた者として造られているということでしょう。一般に神学者たちは、神の特質として3つのことを挙げています。①神は自立自存のお方。②造り主なるお方。③全てのものから自由で、全てのものを支配する自由なる主権者。この3つが一般的な特質ですが、私はこれに神は愛なるお方、しかも良いお方であることを付け加えておきたいと思います。その神さまが、ご自分に似せて人をお造りになったということは、こうした特質を反映する存在として人は造られたというのです。人間のこうした特質を一般的な言葉を使えば、「人格」という言葉が当てられるでしょう。
ただ、神は人を人格そのものとはお造りになりませんでした。神さまは、人を「土の塵」でお造りになった。「土の塵」。風が吹けば吹き飛ばされ、地球の引力に引き付けられるものです。被造物の一部です。外の力に支配され、必然性の法則のもとにおかれる存在として、神は人間を創造なさったのです。ところがそれで終わりませんでした。「土の塵」、地上の物質を素材として造られた人に命の息を吹き入れられて初めて、人は生きる者となったと言われています(創世記2:7)。人間は被造物であるにもかかわらず、他の被造物と区別されるかのように「神のかたち」に造られ、それ故、息を通わせるような、造り主なるお方との生きた、親しい交わりのなかで、初めて生きる者、つまり人格を与えられた存在として、人間らしく生きることができる。例えば、このことについて、私たちカンバーランド長老教会の「礼拝指針」では次のように告白します。
「私たちは人間として、欠乏感に迫られて礼拝することを知っている。私たちは自分自身では満ち足りることができないのであり、造り主と出会い、礼拝することによって、完成と充足を経験するのである。礼拝するとは、人間が人間になることである。」(『礼拝指針』)

Ⅳ.造り主なる神の準備された善い業に生きる

私は、この説教の冒頭で、隅谷三喜夫先生の、「人生の座標軸」の話をさせていただきました。神さまが創造者であり、そのお方に対して、私自身は「神に造られた私」である。その関係が、被造物である私にとっては、本当に大切な知識であり、告白であることを思うのです。こうしたテーマを考える時、いつも心に浮かぶのが、「瞬きの詩人」と呼ばれ、親しまれた水野源三さんの詩です。水野さんは9歳の時に赤痢にかかりました。高熱で脳性まひになり、見ることと聞くこと以外の機能を全部失ってしまった。でも本当に幸いなことに13歳の時、自分を捜しておられる神さま、自分を造り愛しておられる神さまを知った。そして受洗し、クリスチャンになったのです。それ以来、お母さんが作った「あいうえお」の書かれた「50音表」を、瞬きで合図しながら、一つずつ言葉を拾い、詩を創られました。そのようにして証しして生きられた人が水野源三さんです。その作品に、こんな詩があるのです。
“たくさんの星の中の一つなる地球/
たくさんの国の中の一つなる日本
たくさんの町の中の一つなるこの町
たくさんの人間の中のひとりなる我を
御神が愛し救い
悲しみから喜びへと移したもう“
水野さんは見ることと聞くこと以外の機能を全部失ってしまいましたから、少し想像しただけでも、自らを「カメ」にたとえるほど、どうにもならない《自分の小ささ》を実感していました。でも、そのような小さな者を愛して、天地万物の創造者なる偉大な神が、カメのような自分を御心に留め、捜し出してくださった。そのお方に出会ってから、つまり人生にその御方との関係という縦軸をいただいてからは、自分にしか出来ない生き方、自分に与えられている、自分しか歩むことの出来ない人生を、神さまと一緒に歩むことを決心したのです。
同じような信仰体験をしたダビデも詩編のなかで次のように歌っています。
「あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。」(詩編8:4、5)
本日の聖書箇所エフェソ書2章には、神さまによって素晴らしく造られた人間が罪を犯し、神から離れてしまった。しかしキリストによって再び連れ戻され、神との交わりが回復するなか、再創造された私たちが、善い業を行って生きていく。生かされている目的が出て来ます。聖書協会共同訳では、私たちは「神の作品」だと訳されています。神さまが愛の意図をもってお造りになった。私という作品に込めた意図が、「神が前もって準備してくださった善い業」です。その意図とは、まさに十戒が示すような「神を愛し、人を愛する」生き方。それを元にして毎週宣言される「派遣のことば」にあらわされているような生き方です。また、それぞれに与えられている情熱や賜物を生かした、その人しかできない生き方でしょう。
鼻と鼻を突き合わせるほどの神さまとの親しい交わりをいただきながら、それぞれに与えられている善い業を行って生きることで、作者としての神さまの素晴らしさを証しして生きる。「私は、天地の造り主を信じます」と告白する時、そのような生き方を神さまに導かれることを覚えながら、告白するように生きる者でありたいと願います。お祈りします。

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私は信じます―使徒信条②

松本雅弘牧師
詩編89編1-19節、ローマの信徒への手紙10章1-13節
2021年1月10日

Ⅰ.信条が生み出される背景

先週、教会員の皆さんのところに緊急メールでのメッセージ、そしてHPでもお知らせを掲載させていただきました。1月8日から礼拝、諸集会をしばらく休止すること、礼拝堂、教会諸施設の利用、貸し出しを中止する旨のご連絡でした。改めて私たちは真空状態の中に生きているのではなく、日々、様々な問題に直面していきていることを考えさせられるのです。
今回のコロナ禍でも、「神さま、なぜ?」とか「神さま、コロナ禍を通して何を?」と問いながら過ごしてきました。そうした問いをもって聖書に向かう。すると神さまは聖書を通して、何等かのメッセージを語りかけてくださる。実は、二千年の間、歴史の教会はそのように歩んできました。その時代の問いかけに真摯に向き合い、聖書を通して神に聴いたものを文書としてまとめてきた。それが教会の生み出してきた信条であり信仰告白です。では一方そもそも使徒信条はどのような訳があってまとめあげられたのか。先週の復習になりますが、それは洗礼志願者の準備のためでした。当然ですが洗礼を受け教会に属するに際し、一人ひとりがバラバラな理解をしていたら困るわけです。そうした際に洗礼を認めるか否かの基準となるものを、という必要性があって使徒信条はまとめられていきました。ですから聖書の中に出てくる文書ではありません。でも聖書の言葉が使われていますし、その中心的な教え、聖書のエッセンスが短く簡潔な言葉でまとめられている。それが、この使徒信条なのです。

Ⅱ.なぜ「わたしたちは信じます」ではないのか?

使徒信条の語り出しは次のようになっています。「わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。」手元にある英語版の使徒信条を見ますと「I Believe(わたしは信じます)」という言葉で始まっています。調べてみると他の外国語の使徒信条も同様で、最初に「わたしは信じます」で始まり、その後、信じる内容が続くような形式になっています。共同体みんなで告白する文書なのですが、どういうわけか一人称単数の「わたしは信じます」で始まっているのです。
「教会とは何か」というテーマで書かれた良書、マイケル・グリフィスの『健忘症のシンデレラ』という書物があります。その本の中に、「一人ぼっちのクリスチャンはいない」という有名な表現が出て来ます。聖書は、その人がクリスチャンであることと、信仰共同体である教会のからだであることとは切り離せない関係にあると教えているからです。グリフィスによれば、聖書に出てくる、クリスチャンを指す「聖なる者」という言葉が全て複数形で出てくることを指摘しています。仮に単数形の場合でも、「一人ひとりの聖なる者」ということで、教会という信仰共同体が前提されて語られているというのです。
ところが、そんな話を聞きますと、「いや、別に私は一人でやっていける」とおっしゃる方も出てくるでしょう。そんな時に、主イエスが私たちクリスチャンを羊にたとえてお語りになったことを思い出したいのです。羊は群れがあっての動物です。「私は、一人でも信仰を守っていける」と言った羊がいたら、主イエスはその羊を「大丈夫な羊」とは呼ばず、「迷子の羊」と呼ぶわけです。私たちはそうした存在、教会と言う信仰共同体あっての私なのです。
さて、そのように教えられている中、ではなぜ使徒信条を告白する際に、「わたしは信じます」と告白するのか。むしろ聖書の教えからすれば、「私たち教会は信じます」と告白すべきなのではないかと思うわけなのですが、いかがでしょうか。正直、私自身、使徒信条を告白する度に、そうした疑問を持ちながらやって来た経験があります。皆さんは、いかがでしょうか。

Ⅲ.「わたしは信じます」

実は、そのことを考える意味で読ませていただきましたのが、ローマの信徒への手紙10章の言葉です。8節から10節でパウロは、「あなたの近くに」「あなたの口、あなたの心に」、そして「あなたは救われる」と、あくまでも二人称単数形で語り切っていて、決して「あなたがた」と複数形を使っていないことに気づかされます。これは聖書が教える、信仰の大切な側面、一人ひとりが信じて告白する、ということです。
昨年、御一緒にお読みした、マタイ福音書にある、「十人の乙女」の譬え話を覚えておられるでしょうか。油を切らしてしまった愚かな乙女に対し、賢い乙女は自分の油を分けることをしなかった、いや、分かち合うことが出来なかったのです。つまりこの世界には、分かち合うことのできない油というものがある。その油こそ、主イエスを信じる信仰だ、というお話をさせていただきました。私一人ひとりが信じるのです。パウロの言葉を使うならば、一人ひとりが自らの口で公に言い表して救われる必要があるのです。
ところが、ここで一つ問題が生じた。聖書の教えのエッセンスである使徒信条にも、主イエスが陰府にくだられたこと、そして天に昇られたこと、そうした主イエスの御業がはっきりと告白されているにもかかわらず、勘違いし、「だれが底なしの淵に下るのか」とか、「だれが天に昇るのか」と心の中でつぶやいたり、実際に言ったりする人が出て来た。仮にその主張が正しいとするならば、「キリストを天から引き降ろすことになる」し、「キリストを死者の中から引き上げることになる」。そうなれば、キリストが成し遂げてくださった救いは陰府にまでは届かない。天にも昇らない、結局、中途半端なものになってしまう。だとしたら、あなたの理性で、あなたの頭で考えだした、その信仰は完全な意味であなたを救うことにはならない、とパウロは語る。信じるということは、そういう事ではない、と言うのです。

Ⅳ.「同じことを言う」

このように考えますと、なおさら「私は信じます」という私個人が告白するのではなく、「私たちは信じます」と、聖書の信仰、教会が大切にしてきた内容のある信仰を、一緒になって告白する方がふさわしいのではないかと思ってしまうかもしれません。しかしくどいようですが、使徒信条もパウロの手紙も「わたしたち」ではなく、あくまでも「わたし」になっている。最後にそのことをお話して終わりにしたいと思います。
もう一度、10節に戻りましょう。ここに「公に言い表す」という言葉が出て来ますが、辞書で引くと大事なことに気づかされます。この言葉は「同じことを言う」という意味の言葉であることが分かりるのです。ここでパウロは、「あなた」、すなわち、この「わたし」が一人ひとり信仰告白をするわけですが、それは一人ひとりがバラバラのことを告白するのではなく、パウロは救いのために「同じことを言う」ことが大事なのだ、と語っているのです。
私たちの声は違います。高い声を出す人もいれば、低い声、太い声の人もいるでしょう。でもそれぞれの声で同じことを告白することで救われるとパウロは語るのです。
私はペンテコステの日の出来事を思い出しました。二千年前のペンテコステの日に、約束の聖霊が降った時、特別な現象が起こった。使徒言行録には、「すると一同が聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」(2:4)とあります。
父なる神さまが約束された聖霊がイエスをキリストと信じる弟子たち1人ひとりの上に降った。その結果、彼らの心を動かし、口を開かせた、語らせた。ところが、語った言葉は他の国々の言葉だった。ですから、そこに居合わせた人々は、外国語を知らなければ、騒音としか聞こえなかったに違いない。そんな状況です。しかし彼らは気づいたのです。だから驚いた。それは聞こえて来る言語は種々雑多でしたが、そうした種々雑多な言語を通して語った内容が一つだった、一致していた。つまり神の偉大な業、福音という同じことを語っていたのです。ダイバーシティとユニティーと言ってもいいかもしれません。また日本語で「異口同音」という言葉がありますが、正に異なった口で同じことを言ったのです。
「わたしは信じます」、使徒信条の言葉は、まさに異口同音に同じ信仰を言い表すという意味なのです。
私たち一人ひとりが主体的に、自分の信仰として、告白する。しかし、それはバラバラではない。聖書が教えたとおりの同じ内容、主イエス・キリストの同じ救いの御業を共に告白する。なぜなら、私たちは、その同じ主イエス・キリストの救いに与り、その同じ主イエス・キリストによって生かされているからなのです。お祈りします。

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いつものように―使徒信条①

松本雅弘牧師
申命記6章4―12節、ルカ福音書22章39-46節
2021年1月3日

Ⅰ.使徒信条を学びます

新年、あけましておめでとうございます。今年、礼拝で、使徒信条についてご一緒に学ぶことになりました。当たり前のことですが、使徒信条は聖書に記されている文書ではありません。しかし、使徒信条を形作る言葉は、聖書のあちらこちらに出てくるわけです。

Ⅱ.使徒信条とは何か

そもそも、信条、信仰告白とは何か、という問題があります。カンバーランド長老教会の信仰告白の解説で書かせていただきましたので、お時間のある方は、そちらを読んでいただければと思いますが、その中でも、信仰告白とは、「今の時代に生きる私たちクリスチャンが、そして契約共同体が直面する様々な課題を真摯に受けとめ、『神さま、なぜですか』と問いたくなるような現実に直面し、その問いをもって聖書を通して神に聴いたものを、信仰告白という形式でまとめたのです」と書かせていただきました。つまり、聖書が語る神に対する信仰、神がしてくださった救い、聖書が証言する救いの業を要約したのが使徒信条であり、そうした意味で、使徒信条は聖書の信仰の要約、エッセンスなのです。
その歴史的起源については諸説があります。たぶん紀元2世紀頃にその原型が生まれたのではないか。またそうした文書が生み出された理由としては、洗礼志願者の洗礼に向けての準備のために必要となって書かれたのではないか、と言われています。
高座教会でもそうですが、洗礼の受けるための準備の学び会、「洗礼入会準備会」というものを行っています。そこで学びをされた方たちは、小会の面接において、その人がどのような信仰を言い表すのかが問われます。言い換えれば、教会に与えられ、教会が語り継いできた聖書の信仰を受け入れているかどうかが問われてくるわけです。当たり前のことですが、教会に属するといっても、一人ひとりがバラバラな理解をしていたら困りますから。例えば、ペトロの手紙第2の1章1節にこのような御言葉があります。「イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。」これは使徒信条を学ぶ上で大切な聖句だと思われます。ここで使徒ペトロは、「わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ」と語っています。「わたしたち」とは、この手紙を書いている使徒ペトロたちのことです。その使徒ペトロたちと同じ尊い値打ちのある信仰を与えられている人たちに向かって手紙が送られているわけですが、まさに、ペトロたちと同じ信仰を受けた人たちによって信仰共同体なる教会が形成されている。その信仰共同体なる教会の中で共有されている同じ信仰を、短く、適切に表現したのが、これからご一緒に学ぼうとしている使徒信条なのです。
ところで、使徒信条のことを学ぶ中で、改めて教えられたことがあります。それは、歴史の教会は、この使徒信条と共に、十戒、そして主の祈りの3つの文章を大切にしてきたという事実です。確かに高座教会でも、使徒信条と主の祈りは、ほぼ毎週の礼拝の中で唱えられ、祈られてきた歴史があります。この3つの文章、これから学ぶ使徒信条は、私たちは何を信じているのか、をまとめたものであるならば、十戒とは、そのように信じている者たちはどのように生きるのかを示したものであり、そして3つ目の主の祈りは、何をどのように祈るのかをまとめたものであるといえます。
4月からスタッフとして働いてくださっている北村卓也兄の母教会である、世田谷中央教会では、何を信じ、どのように生き、また何を祈るのか、信じること、生きること、祈ることを示した、この3つを毎週の週報に必ず印刷して配布するそうです。配布するだけではなく、毎週の礼拝の中で必ず告白し、唱え、祈ることをしている教会もあります。そのような意味のある使徒信条を御一緒に学ぶことを通して、特に礼拝の中で告白する際に、その内容を一つひとつ理解しつつ、神さまから頂いた様々な恵みに対する私たちの応答として、心から使徒信条をもって、神への信仰を告白する者、そうした教会として、整えられていきたいと願っています。

Ⅲ.いつものように

さて、そうした上で、今日取り上げたルカ福音書にはゲッセマネの園での祈りの場面が記されています。昨年、同じゲッセマネの園での主イエスの祈りの格闘を記したマタイ福音書の記事を御一緒に学みました。その時の説教題を「歴史上、最も重大な夜」としました。聖書の中の聖書と呼ばれる、ヨハネ福音書3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とありますが、まさに私たち人類を滅びから救うために、神の子イエス・キリストが十字架にかけられ殺される。それが避けられないものとして、この夜、主イエスは、ゲッセマネの園において最終的に確認された。この夜、人類の歴史を決定するとてつもなく重大なことが、天の父なる神とイエス・キリストの間で語り交わされていたと考えられる。ですから説教題を「歴史上、最も重大な夜」としました。そのような意味で、ゲッセマネの祈りは歴史上、ただ一度限りの祈り、特別な祈りでした。ある人の言葉を使えば、他の誰もが繰り返すことのできないし許されない祈りです。ところが、その特別な祈りを、ここでルカは、主イエスの日常的習慣を強調するように、敢えて、「いつものように」、「いつもの場所」で祈ったのだ、と伝えています。マタイ福音書の説教でもお話しましたが、マタイは「三度も同じ言葉で祈られた」と書き、その祈りの言葉は「主の祈り」を連想させ、たぶんその祈りはいつも主イエスが祈っていた「主の祈り」だったのではないかと思われるのです。
ところで、アドベント第3主日の礼拝で、「強いられた恩寵」があり、そして全ての信徒、クリスチャンに与えられている「強いられた恩寵」は「礼拝を守る」という務めなのではないか、ということをお話させていただきました。今まで、毎週、礼拝に集っておられた方々、あるいは定期的に礼拝に出世された方たちの礼拝生活のリズムは大丈夫だろうか、と心配になることがあります。私が神学生の時に、後に日本聖書神学校の先生が、神学生として奉仕しておられました。その先生が「信仰生活は坂道を上がっていくようなものだ」と語ったことを覚えています。前に進まなければ、必ず後ろにずるずると後退する、というのです。使徒ペトロは、「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」と語っていますが、そのことこそが、神学生の言う「坂道に立っている」状態を指すのだと思うのです。今日の聖書の箇所に戻りますが、ゲッセマネの祈りがささげられたのは、十字架の前の晩です。特別で特殊な時でした。ところが主イエスはいつものようにオリーブ山に行かれたのです。いつも習慣で祈るために行かれたのです。

Ⅳ.使徒信条を口癖に

ところで、礼拝がオンラインになった時、式次第を簡素化しました。頭で色々と考え、流れを抑えながら、最初のプログラムを考えました。そしてしばらくそれでやって来ました。ところが、ある時、教会員の方から、「使徒信条がないのはおかしいのではないか」、「使徒信条を入れて欲しい」という要望が教会員の方から上がって来ました。それは素晴らしいことだと思いました。ある牧師が語っていましたが、毎週、礼拝を捧げていても、いつでも恵まれるわけではないかもしれない。でも礼拝を捧げる癖をつけてしまうこと。聖書を読み、祈りを捧げる習慣を身に付けてしまうこと。そのような信仰の生き方の癖が生まれてくる。そうしたことが習慣になってくる。その一つとして使徒信条を身に付けてしまう。口癖にしてしまう。ふと気づいた時に、礼拝で唱えた使徒信条が口をついて出てくる。その言葉によって自分の信仰が養われるからだ、といのです。
主イエスが教え、示してくださった「いつものように」ということ、ギリシャ語でエートス、習慣という言葉ですが、そうした聖なる習慣を身に付けることが、実は、私たちを守ることとなる。それが私たちの基準になり、神さまがそれを用いて、私たちを守ってくださる。特にコロナ禍にあって、やり方の変更が求められる時に、「変わることのないもの」、守り続けるべき大切なものとして使徒信条が与えられていることを覚えつつ、今年も共に歩んでまいりたいと願います。お祈りします。