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主日共同の礼拝説教

主イエスの愛に満たされて

松本雅弘牧師
詩編86編1-17節
マタイによる福音書26章1-13節
2020年9月20日

Ⅰ.最後に残された御業に向けて

マタイ福音書26章から受難物語が始まります。その書き出しが「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると」というものです。実は次の展開へと筆を進める合図のような表現で、マタイ福音書では節目々々に出て来ました。そして26章1節にも出てくるのですが、今までのものとは一つだけ違う点があります。それは「すべて」という言葉が添えられている点です。「すべて語り終える」とは「すべて」なのです。地上の生涯においてご自身が語ろう、教えようとなさったすべてを語りつくしてしまわれた。そして今から最後に残された業に臨もうとなさる。それが十字架でした。
ところで、マタイは弟子に語られた主イエスの言葉を記録し、ご自身が2日後の過越祭に十字架に付けられることを宣言する一方、同じ十字架を巡って祭司長たち、長老たちの計画も明らかにしています。彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と計画したのです。当時、過越祭に引き続き除酵祭というお祭りがありました。そうした期間を合計するとほぼ8日間です。祭司長たち、長老たちが一番心配していたのは民衆の暴動でした。当時、祭りの期間中は二百万人ほどの巡礼者が集まったと言われています。ですから一通り祭りが終わり、巡礼者が帰って行った後、つまりおよそ1週間後に主イエスを逮捕し殺そうと考えたのです。つまり、何を言いたいかと言いますと十字架の時期のズレです。主イエスのお考えでは2日後、祭司長たちの考えでは1週間後なのです。
私たちは、ここで本当に謙虚にさせられるのではないでしょうか。いくら人間が策を練り周到に準備した計画、それを1週間後に実行に移そうとしていたとしても、主は2日後に決めておられた。イスカリオテのユダをはじめとする弟子たちの裏切りも含め、全ての事柄を相働かせて、主の御心が成就していく。そして、このあと続く6節から始まるエピソードは、2日後の十字架の出来事に結びついていくような、ある名もなき女性の主イエスへの奉仕の出来事がユダの裏切りを引き起こす伏線となったことを、マタイは伝えています。

Ⅱ.油注ぎの出来事

主イエスが、重い皮膚病の人シモンの家で食事をしておられた時のことです。そこに一人の女性がやって来て、入って来るなり、スゥーっと主イエスに近づき、突然、持っていた石膏の壺を割り、主イエスの頭に香油を注いだ。ところが、彼女の行動を近くで目撃した弟子たちは、驚き呆れ言葉を失います。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」と憤慨して言ったのです。
これに対して主イエスは不思議なことをおっしゃった。「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」と。この時、彼女がそうしたことをどこまで理解し、そして意図してやったかどうかは疑わしいでしょう。ただ、そうした中で、一つだけ確かなことがある。それは、主イエスご自身が、彼女の思い、気持ちをしっかり受けとめておられたこと。それも、はたから見たら衝動的で単なる香油の無駄遣いのような行動を、ご自分の最後の任務として受け止めておれた十字架への道行きに必要な尊い愛の奉仕として受け入れてくださったということなのです。

 

Ⅲ.弟子たちの反応

しかし、そこに居合わせた弟子たちには、どうしてもそう受け取ることはできませんでした。実はこの出来事の直前、23、24、25章と続く主イエスの説教を聴いていたのです。その総括として「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と、驚くような言葉を聞いたのです。その時の主イエスの声のトーンさえも、まだ耳の奥に鮮明に残っている。弟子たちにしてみれば、最も小さい者の一人に対する施しについての衝撃的な教えを聞いた直後でもあり、施しのマインドになっていたのだと思います。その教えからすれば、何と無駄なことをしているのか、この女は!
でも、いかがでしょう。私たちは心の中にあることと、口から出ることは違うことがよくあります。問題はその人の本心はどこにあるのか、ということでしょう。いくら口では立派なことを言ったとしても、果たして心の内はどうなのか?私たち自身、胸に手を当てて考えてみると、こうした経験は誰もが知っていると思うのです。
別の福音書を見ますと、この場面でこの発言したのは、イエスを殺そうとしていたファリサイ派の人たちであったとしています。一方ヨハネ福音書では、他でもないイスカリオテのユダだったと語ります。時に福音書の記述はまちまちで、事実関係はどうだったのか分かりません。ただ、ある人によれば、一つだけ言えることがあるというのです。それはユダ以外の弟子たちであろうと、ユダと同じように思い、場合によってはファリサイ派と同じ思いになり得るということなのではないか、と。

Ⅳ.主イエスの愛に満たされて

主イエスの弟子となった使徒パウロは、エフェソ教会の兄弟姉妹に向けて、「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。」と語っています。パウロが語るのは、〈かつて自分がどんな者であったのか〉、言い換えれば、〈どこから救われたのか〉ということを思い出すことは、クリスチャン生活にとって本当に大事だから。そうした神の恵みを「当たり前」のように考え、神さまを侮ることがないようにとパウロは願ったからです。そして今日の箇所においても、私たちそれぞれに対する神の恵みや憐れみを忘れ、そうしたことを当然と考えている者にとって、彼女のこの行動は決して理解できないのです。
かつてサウロと呼ばれていた頃の彼、パウロはひどい迫害者でした。彼は自らのことを思い起こしては、《神さまの驚くばかりの恵み/アメージング・グレイス》に圧倒されていました。それは自己卑下するためではありません。自分が一体どのようなところから教会の交わり、救いへと招かれたかを心に留めるのは、神の恵みが当然のことのように受け、その結果、あのラオデキアの教会のように最初の愛から離れて、神さまの祝福を十分に受けることを妨げられることがないためです。
ある方が話していました。大きな病気にかかり、開腹手術を受けた。2週間くらい点滴だけで何も口に入れることができなかった。しばらくして水が飲めるようになり、重湯が食べられるようになる。おかゆをいただき、そこに米粒が浮かんでいるのを見て、涙が出るほどうれしかった。〈ああ、ここまで回復した。生かされているのだ〉と思った。ベッドの脇に立つことができるようになり、廊下や病院の屋上や庭を歩けるようになる。そして退院できた。ところが、半年も経つと昔と同じように不満の中で文句ばかり言ってしまう。そうした、愚かな現実が自分にはある、というのです。
「当たり前」という思いほど恐ろしい思いはなく、「当たり前」という思いほど、神さまの恵みをメチャクチャにし、この「当たり前」という思いほど、周囲に何かを要求する姿勢を生み出す思いはないのではないでしょうか。
ですからパウロは、クリスチャンである私たちが、神の前に心を静め、〈ああ、自分はどういうところから救われたのだろう。自分はどういうところから、恵みの世界に導かれたのだろう〉と思い起こすように、と勧める。その目的は神さまをほめたたえ、感謝するためです。
この女性の行動は、常識でははかれない。むしろ非常識極まりなかった。この世の価値観、常識で判断したならばその通りです。でも神の恵みの世界から見る時、当たり前が当たり前ではないのです。
そのためにこそ、主イエスは、2日後にご自身の命をもって、私たちを多く赦し、多く愛することで本当の喜びをもたらそうとなさった。この女性と共に、多く赦され、多く愛された者として、主イエスの愛に満たされて生きるようになるためなのです。お祈りします。

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主日共同の礼拝説教 敬老感謝礼拝

主は羊飼い

松本雅弘牧師
イザヤ書46章3―4節
ヨハネによる福音書10章7―14節
2020年9月13日

Ⅰ.敬老感謝礼拝の意義

今年はコロナの影響で、普段のような敬老感謝礼拝ができませんが、しかし、このようにオンライン礼拝ではありますが、私たちの信仰の先輩、人生の先輩方のことを覚えながら、礼拝を捧げることが出来る恵みを感謝しています。

ところで聖書にはたくさんの若者が登場します。モーセやヨシュア、そして士師記の時代に入りますと、ギデオン、サムソン、エフタといった指導者、さらにダビデも若き日の活躍が記録されています。新約に入っても主イエスの12弟子も若い時代に召され、パウロやテモテも青年の時にイエスとの出会いを経験した者たちです。しかし一方でまた、聖書には実に多くの重要な場面で年を重ねた人々が登場し大切な役割を果たしていることを知らされます。罪と悪とがはびこった時代に恵みを受けつぐ者として選ばれたのは年老いたノアでした。アブラハムとサラが祝福を受け約束の子イサクを授かったのも老人になってからです。確かにモーセは若い日に召命を受けましたが実際に出エジプトの大事業の担い手として用いられたのは80歳の時です。少年ダビデを見いだし油を注いだのは既に年老いた預言者サムエルでした。新約の時代に入り御子イエスの誕生を喜ぶ輪の中にはザカリアとエリサベトの老夫婦がおり、年を重ねたシメオンやアンナもおりました。確かに聖書は「天国は幼子のような者の国だ」と幼子性の大切さを教えますが同時に、教会は長老を敬うことによって成り立つ共同体であることを明確に説いています。

Ⅱ.背負ってくださる神さま

今日、選びました聖書個所は有名なイザヤ書46章3節と4節です。「わたしに聞け、ヤコブの家よ。イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」
この個所は「老後」に関しての教えというよりも、「神さまがどのようなお方なのか」ということについて語っています。私たちは、主の日に集い、神を礼拝し、「私たちが信じ、従う神さまは、このようなお方なのだ」と1週間を始めます。実際、今はコロナ禍で共に集って礼拝を捧げることができず、各家庭で動画を観ての礼拝となっていて大変残念なのですが、それでも日曜日に時間を聖別して、神さまをほめたたえる時を持つ。一週間の慌ただしい日々の生活のなかで、いつしか私を取り巻く出来事や生活のなかに起こって来る心配や問題の方が、神さまよりもっと大きなものに見えてしまう誘惑がある中で、もう一度、チャンネルを合わせるように、神さまに心のチャンネルを合わせ、新しい1週間をスタートするためにも、日曜日の礼拝は本当に大切な時間なのです。
詩編には、「神をほめたたえなさい!」とか「神さまを礼拝しなさい!」と勧める言葉がたくさん出て来ます。それは、神さまが礼拝されるにふさわしいお方であると同時に、「主をあがめることは、あなたの力です。賛美をささげることは、あなたの力です」と賛美しますように、礼拝することが生きる上での力になるからなのです。
日々の生活で、様々なことが起こります。健康の不安、経済的な問題、職場での人間関係、進路の問題、子育ての問題、もうありとあらゆる問題が、いつの間にか神さまよりも大きくなってしまう。心の全体を支配してしまう。まるで神の力の範囲を越えているかのように思えてしまい、神さまに期待せずに、自分でどうにかしようと思い煩いの淵に落ち込んで行ってしまう。ですから、主イエスは、こうした思い煩いの中に沈み込む私たちに向かい、「思い悩むな」とおっしゃるのです。
「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈りいれもせず、倉に収めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。あなたがたの天のお父さんは、そういうお方だから、思い悩まないでいいとおっしゃるのです。
主イエスと3年間、寝食を共にしたペトロも、「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけてくださるからです」と勧めていますが、何故、お任せできるのか、お任せしてよいのか。それは神さまがあなたのことを本当に心配していてくださる方だからです。しかも心配するだけでなく、問題から逃れる道を備えてくださる方だからです。その神さまが、「あなたたちの老いる日まで、白髪になるまで背負って行こう」と約束しておられるということなのです。ここに「負う」とか、「担う」とか「背負う」という言葉が出てきます。3つとも違う単語です。でも意味は同じようなものです。今日の新約の朗読箇所にもありますが、イエスさまが私たちの羊飼いとして、羊を養ってくださる。迷子になったら肩に背負って連れ戻してくださることが約束されているのです。
神さまは、私たちが小さい時に経験する、両親や家族に「抱かれ、おぶわれた」と同じように、私たち1人ひとりを背負ってくださるお方だ、と教えるのです。 この礼拝動画をご覧になっている75歳以上の兄弟姉妹が多くおられることと思います。年齢を重ね体力の衰えを感じる時に、神さまによって背負われるという信仰を持つことが出来たら、何と素晴らしいかと思います。

Ⅲ.「足あと」

こうしたテーマの説教をすると、いつも心に浮かぶのが、「足跡」という詩です。
「ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に2人のあしあとが残されていた。1つはわたしのあしあと、もう1つは主のあしあと。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには1つのあしあとしかなかった。わたしの人生で一番辛く、悲しい時だった。このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。『主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生の一番辛い時、1人のあしあとしかなかったのです。一番あなたを必要とした時に、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしには分りません。』
主は、ささやかれた。『わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとが1つだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた』」
神さまは背負ってくださる。共におられるだけではなく、歩けなくなる時、背負ってくださる。私に代わって、しっかりと大地を踏みしめて歩んでくださる。ですから本当に安心なのです。

Ⅳ.主は羊飼い

今日の説教に、「主は羊飼い」と付けました。でも聖書をよく読みますと、「わたしは羊飼い」とだけおっしゃったのではなく、「わたしは、…羊のために命を捨てる」とまで言われるのです。
「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(Ⅱコリント8章9節)使徒パウロの言葉です。
詩編23編を見ますと、私たちの羊飼いである神と共に歩む時、試練や苦しみの時期も含め、「死の陰の谷を行くときも・・わたしは災いを恐れない」とあるように、人生全体が善いものであり、憐みそのものとして見ることができる。私の羊飼いである、主イエス・キリストの神に、これからもずっと導かれ歩んで行きたいと願います。「わたしに聞け、ヤコブの家よ。イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」お祈りいたします。

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主日共同の礼拝説教

最後に問われること

松本雅弘牧師
申命記10章17-19節
マタイによる福音書25章31-46節
2020年9月6日

Ⅰ.譬え話と私たち

1994年、生島先生が退職され、海老名の開拓に出られた後、私たちは牧師館に引っ越してきました。当時は、ちょうどバブルがはじけた直後で、職を失った人や問題を抱えた方たちが、よく牧師館を訪ねてきました。そうした方たちとの出会いを通し、いつも心に浮かんだ聖書の物語が、今日、ご一緒にお読みした、主イエスの、この譬え話でした。私たちも、日々の様々な人たちとの出会いを通し、時折この譬え話を思い起こすのではないでしょうか。

Ⅱ.人の子の再臨

さて、今日の譬え話も十字架に付けられる直前に語られた一連の教えの中の一つで、しかも地上における主イエスの最後の説教と呼んでも差し支えないものです。
主イエスは、こう物語り始めます。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」主イエスのこの宣言に耳を傾ける時、まず、そのスケールの大きさに圧倒されるのではないでしょうか。
前回の「タラントンの譬え」でもそうでした。私たちはいつか人生の総決算を求められます。ところが、ここでは、私たち個々人の総決算ではありません。主イエスご自身が再び来られる、「世の終わり」に「すべての国の民がその前に集められる」というのです。「すべて」とはその時点で生きていた人間に限られません。これまで生きてきた全ての人間が甦り、人の子の前に集められる。人類の総決算、歴史の総決算です。
先々週の金曜日、突然、安倍首相が辞任表明をしました。直後、次の自民党総裁が誰になるのか。連日、新聞、テレビを賑わしている話題です。改めて一国の首相というのは大変な存在なのだと思います。しかし今日の教えに耳を傾ける時、その時点で、総裁選であろうが、2か月先にアメリカ大統領選があろうが、それがいかに大切な営みであったとしても、人の子である主イエスが再び来られたならば、その時点で全ての営みが即座に中断され、「すべての国の民がその前に集められる」という。そして何が始まるかと言えば、いわゆる最後の審判が始まる。そしてその審判において問われることが、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」ということです。

Ⅲ.神さまはどういうお方なのか

ここで、主イエスは、「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」、逆に、「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったこと」と、最後の審判で問われることを明らかになさいました。厳密に見ていくならば、ここで主イエスは、「この最も小さい者の一人に」と一番価値のない者と思われている最も小さい者たち、その中のたった一人に対してのことを私は問うとおっしゃっているのです。
そこで問われる具体的な業の一つ一つが35節から36節に出て来ます。食べさせたり、飲ませたり、見舞ったりと、日常のごくありふれた業です。世界政治を左右したり、あるいはノーベル賞の対象となるような学問的業績を上げたとか、あるいは、「これらの最も小さい者」と呼ばれる人たちを出来るだけ多く集め、そうした人たちをサポートする事業をスタートさせ運営する。あるいは、そうした働きに協力したか、しなかったか。ここで主イエスは、そうしたことを問うているのではありません。本当にごくごく小さな業を問題になさったのです。私は、この譬えを繰り返し読む中で気づいたのですが、王、すなわち「人の子」が、右側に集め祝福した人たちに向かって、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」とお語りになった時に、そう言われた当の本人たちは、「主よ、いつわたしたちは、そんなことをしたでしょうか」と答えている。当の本人たちは身に覚えのない、忘れてしまうほどの小さな業なのです。聖書が大事にしている「愛」という言葉すら使われていない。確かに見知らぬ人に食事を出し、その時一緒に水を提供したかもしれないけれど、その見知らぬ人を愛していたかどうかと問われても、そのようなことは念頭になかったに違いない。でも主イエスはそうしたことを、世の終わりにおいて、問題になさるというのです。
大阪の釜ヶ崎で働く本田哲郎という神父さんがおられます。その方が、『釜ヶ崎と福音』という書物を書いておられる。その本には副題がついていて「神は貧しく小さくされた者と共に」とあります。その『釜ヶ崎と福音』という書物は最初に、F.アイヘンバーグという人の版画が紹介されていました。「小さくされた者の側に立つ神・・・! サービスする側にではなく、サービスを受けなければならない側に、主はおられる。」という言葉と一緒に出てくるのです。その絵が描くのは炊き出しの列に並ぶ主イエスの姿です。本田神父は、釜ヶ崎で長年働くことで、このアイヘンバーグさんの目と感覚を共有するようになった。人が人として生きる最も基本的な事柄が脅かされるような人のところに、主イエスは共におられる。貧しく、苦しみの中にある者、そこに主イエスがおられる。ある人の言葉を使うならば、そこまで深く、低く、主は人間になられたのです。見方を変えて言えば、今日、私たちが生けるキリストと出会うのは、まさにそうした人々を通してであると本田神父は語るのです。

Ⅳ.愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったから

今日の旧約聖書の朗読箇所、申命記に聖書の神さまはどのようなお方なのかが明確に述べられています。「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。」(申命記10:17-18)それが私だ、とおっしゃる。
そうした上で、続く19節に「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。」と書かれています。今日のたとえ話と全く同じなのです。申命記の神、主イエス・キリストの神は、最も小さい者の味方なのです。そしてこれは、今年の高座教会の主題聖句も同様です。愛の小さな業、やった本人も忘れてしまうような、ちっぽけな業に生きようとしている。いや実際に生きている。それは、彼らが神さまから大切にされていることを実感し、神さまから祝福されていることが分かっている故に出来るのだ、とヨハネは説くのです。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったから」なのです。
主イエスは、「最も小さい者の一人」、貧しく、弱く、様々な苦しみの中にある一人の人のことを、「わたしの兄弟」と呼び、最も小さい者の味方となり、しかも、「最も小さい者の一人」をご自分と一体化しておられます。確かに、今日の譬え話において主イエスはさばきの言葉をお語りになりますが、この後、どうなさるのかと言えば、十字架に向かって歩まれるのです。それは、私たちが一人も滅んでほしくない、裁かれて欲しくないと、主御自身が望まれるからです。主イエスが再び来られる時に、私たちに向かって、「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」と宣言するために、十字架にお掛になるのです。
あなたがたは愛の業を行ったから祝福を受けるのだとか、善い業をしたから御国に入るとは、一言もおっしゃってはいない。そうではなく、あなたがたはもう祝福を受けている。神さまに愛されている。その愛に留まるように、その祝福の内に留まるようにと勧めるのです。
私たちは、この素晴らしい恵みに既に与っている。主イエスが十字架において救って下さったから、だから私たちは最後の時に向かって「最も小さい者の一人」の内にキリストを見出し、「最も小さい者の一人」、いやだれに対しても、「さあ、どうぞいらっしゃい!ここに、あなたがたの取り分がありますから!」と主の祝福を伝える歩みへと召されている。なぜ、それが可能なのか?「神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」お祈りします。

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主に託された務めに生きる喜び

松本雅弘牧師
マタイによる福音書25章14-30節
2020年8月30日

Ⅰ.私たちの悩み

私たちの悩みの1つは、自分で選んだのではない条件で生きていかなければならない、ということにあるかと思います。私の父は小さな洋品店を営んでいました。何で自分は洋品屋の両親のもとに生まれたのだろう、と何度も考えたことがありました。友人たちが羨ましくてしょうがない。その理由の1つは、自分で選んだ服を着ることが出来るということにありました。私が着せられる服は子どもが着るような色柄の服ではない。お店で売れ残った品物を裁縫の上手な母が仕立て直した物を着せられました。おじさん臭い色、柄、生地なのです。それがもう嫌でたまりませんでした。好き好んで洋品屋を営む両親のもとに生まれてきたのではありません。程度の差はありますが、私たち誰もがこうした課題を抱えながら生きている。最初からある種の条件のもとに生活を始めなければならない。しかも、そうした条件が、しばしば私たちにとって「悩みの種」になることが多いように思います。今日の「タラントンのたとえ」は、こうした悩みを抱える私たちに大切な方向性を示す教えのように思います。

Ⅱ.タラントンの譬え話

ある人が旅に出かけるにあたって僕たちを呼び、1人には5タラントン、1人には2タラントン、1人には1タラントンを預けて旅に出たというところから譬え話は始まります。1タラントンは6千デナリオン。労働者6千日分の賃金です。およそ20年分の賃金に相当する額です。確かに預けられた額に違いがありますが、一番少ない1タラントンでも実際には本当に大きな額です。つまり誰もが多くの賜物を預けられ、しかも期待され生かされている存在である。価値のない人生なんか1つもない。1人ひとりは、実に価値ある、尊い存在なのだ、ということを教えられます。
ただそうは言っても、預けられたタラントンの違いが気になるものです。こうした額の違いはどこに出てくるのでしょう?15節に見落としてはならない表現が出て来ます。「それぞれの力に応じて」と書かれています。例えば、重さ10キロしか持つことの出来ない人が常に50キロの荷物を抱えながら生きていかなければならなかったとしたら、とてもシンドイ。分不相応でしょう。ここで主イエスは持ち物の量によって評価したりはしておられない。むしろ、「それぞれの力に応じて」タラントンの量が違っていると言われる。そうした上で19節に次のように書かれています。「さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた」とあります。その続きの20節からの箇所を見ますと、5タラントン預けられた人は5タラントン儲け、2タラントン預けられた人は2タラントン儲けました。ところが、1タラントン預けられた人は地の中に隠しておき、結果的にその僕は外に追い出されてしまったという結末です。
ところでこのことだけを取り上げて解釈するならば、私たちの価値がその人の働きや成果にかかっている。そうしたことを教えている譬え話だと理解されてもおかしくないかもしれません。あるいは「働かざる者、食うべからず」ではありませんが、働かなかった者は切り捨てられる、といったように読めなくもない。そうなると神の国もこの世の世界も、結局、同じ価値観が支配しているではないか、と思われるかもしれません。いかがでしょう?
ここで「成果」を挙げた人に注目したいと思うのです。5タラントンの人は5タラントン儲けましたし、2タラントンの人は2タラントンを儲けたのです。成果主義で考えるならば、両者の差は6タラントンに拡がっています。でもここでとても興味深いことが分かります。それは、主人がこの2人の人に対して、全く同じことを言っているという事実です。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」ギリシャ語を見ても、一字一句、全く同じです。成果の違いによって評価は変わっていない。むしろ全く同じです。

Ⅲ.主に託された務めに生きる喜び

こんな話があります。動物たちが集まって森に学校を建てました。その学校には、水泳、かけっこ、木登り、空中飛行などの科目があり、しかも人間の学校のように、すべての動物が全ての科目を取らなければならないといった規則もありました。そして人間の学校のように森の学校にもテストの季節がやってきました。ご存知のようにアヒルは水泳が得意です。でも木登りは苦手。かけっこも上手とは言えません。ですから木登りやかけっこが上達しませんから、放課後残って、一生懸命木登りとかけっこの練習をしました。ところがこの練習がたたって、アヒルは足を痛めてしまった。その結果、得意だった水泳の試験でも、ごく平凡な成績しかとれませんでした。ただ平均的な成績でしたので、アヒル本人以外には、誰もそのことに気づきませんでした。リスは木登りが上手でした。しかし空中飛行はストレスでした。全然、上手くいきません。そのクラスではいつもイライラ、いくら頑張っても木から落ちるだけ。体もボロボロ、疲れもたまり、その結果、得意のはずの木登りでも成績が振るわず。かけっこも惨めな結果に終わりました。
私たちには、これならば喜んでできるというものが必ずあるはずです。勿論、ある程度、まんべんなくやることは大事ですが、運動ベタな人にどんなに運動を教えても、難しい場合もあるでしょう。でも神さまは、その人に何か別のタラントンを与えておられる。ですから私たちがすべきことは、与えられたタラントンを地の中に隠すのではなく、それを磨き、用いていけばよいのです。
パウロはコリントの教会に向けて、「そこで神は、御自分の望みのままに、体に1つ1つの部分を置かれたのです」と語りました。アヒルをアヒルに造られたのは、慈しみ深い神さまの御心によるものということでしょう。恐れる必要など全くないのです。大事なことは、自分にタラントンが与えられており、そのタラントンを地の中に隠して何もしないのではなく、磨き、用いることです。
そして先ほど、5タラントンの人と、2タラントンの人に向けて語られた主人の言葉をもう一度見て見たいのです。「主人と一緒に喜んでくれ」とあります。私たちにタラントンを預けた大きな目的は何かと言えば、主人の喜びを共にするということです。小さな子どもが、台所で、お母さんのお手伝いをする時、本当に満足をする。物凄い喜びで満たされる。お母さん一人でしてしまえば、時間もかからず、おいしく仕上がる料理ですが、敢えて、子どもに手伝わせると手間もかかります。効率もよくないかもしれません。でも、そうする。何故かと言えば、作る喜び、作った物を家族が食し喜び合う幸せを子どもと一緒に分かち合うためです。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。 主人と一緒に喜んでくれ。」とは、そうした意味なのです。

Ⅳ.他者を生かすために与えられている賜物

実は、このあと、主イエスは、十字架につけられて殺されていかれます。この譬えを聞きながら、決して忘れてはならないことに気づかされます。それは十字架の出来事が愛の出来事、私たちが生かされていくための、主イエスによる犠牲的愛の出来事だということです。主イエスが自己犠牲的愛の結晶としての十字架の死を目前にして、いま、タラントンの譬えを語っておられるのです。一人一人に託されているタラントン、すなわち神が私たちに託す尊い宝は、決して自分ただ1人を生かすものではない。もっと積極的な生き方を期待して、主は託しておられる。その預けられたタラントンを用いて、いかに他の人々を愛し、どうしたら他の人々を生かすように使っていくことができるのか、正に主イエスは、十字架を通して身をもって示そうとなさったのではないかと思うのです。
そして最後、私たちは預けられた賜物をいつかまた主にお返ししなければならない日が来るということを忘れないように、と主イエスはおっしゃる。私たちはその日をどのようにして迎えるのか、です。その日、私たちは喜んで主の御前に進み出ながら、「主よ、本当に感謝でした。あなたからお預かりしたものを精一杯用いさせていただきました。今、あなたにお返しします。本当にありがとうございました」。喜びをもって、そのように告白できる人生を求めて、この1週間も歩んでいきたいと願います。お祈りします。

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分かち合うことのできないもの

松本雅弘牧師
マタイによる福音書25章1―13節
2020年8月16日

Ⅰ.譬え話のあらすじ

今日の譬えの筋は実にシンプルです。花婿がやって来るのを花嫁の友人、十人のおとめたちが待っていました。ところが夜中になってもやって来ない中、彼女たちは皆、居眠りをする。しばらくして花婿到着の知らせを受けて飛び起きるのですが出迎え用のランプの火が消えかかっていたのです。半数の五人は予備の油を用意している中、残りの五人はそうしておらず、油を分けて欲しいと賢いおとめたちに願うのですが、断られ、急いで買い求めて帰って来たときには、すでに花婿が到着していて婚宴が始まっていました。中に入れて欲しいと必死に願うのですが、それがかなわなかったという話です。

Ⅱ.分かち合うことのできないもの

この譬え話を聞く時、五人の賢いおとめは厳しいとか冷たいと思ってしまいますが、主イエスはそのことを問題にされるのではなく、人生には「分かち合うことのできないものがある」ということを示そうとしておられるのではないかと思うのです。勿論、分かち合うことの出来るもの、分かち合うべきものもたくさんあります。特に、今の時代、分かち合うべきものがとても多いようにも思います。
今日の週報に、「小会報告」を掲載しました。今月に入り、日本中会のアジア宣教小委員会から、「香港中会に対する祈りと献げもののお願い」という書簡が送られてきました。そこには現在の香港中会の様子が報告され、祈祷課題が挙げられていました。それについてはぜひ分かち合っていきたいと思いますし、また分かち合っていかなければならないと思います。つまり分かち合うべきものがあるのです。
聖書を見ても主イエスのチャレンジに応じた少年が、手元にあった五つのパンと二匹の魚を分かち合った結果、男だけで五千人、女性や子どもたちを含めたらおよそ一万人以上の人々にいきわたりました。勇気のある、その少年のパンと魚の分かち合いによって、神さまの恵みの出来事が豊かに広がっていきました。これも分かち合った結果、起こった神の恵みの出来事です。
しかし主イエスは、分かち合うことのできないものもあることを伝えているように思います。例えば、人間の基本的な営みである、「食べたり、飲んだりすること」もその一つです。夏バテ気味で食欲が落ちていたとしても、「あなた、私の代わりに、その食事、食べてください」とお願いしたとしても、その人が食べたり飲んだりすることで、私の夏バテは解消しない。私が自分の口に食べ物や飲み物を流し込まなければ体力は回復しません。
以前、サンフランシスコカンバーランド長老教会に立ち寄らせていただいた時、その教会の長老が、「教会には〈神の子〉はいるけれども〈神の孫〉はいない」と話された。
意味を尋ねると、「聖書には、〈神の子〉という言葉が何度も出てくる。しかし〈神の孫〉という表現は一度も出てこない。実際、私が〈神の子〉なら、私の子は〈神の孫〉にあたる。しかし聖書に〈神の孫〉という言葉はない。つまり信仰は、親が信じているから大丈夫と言う世界ではない。1人ひとりが〈神の子〉とされる必要がある」と話されたのです。
賢いおとめたちは、どこか冷たいように感じます。でも、私たちが感じる冷たさや厳しさは、賢いおとめたちのせいではなく、むしろ人生そのものが兼ね備えている、人から借りた油ではやっていくことのできない厳しさ、決して分かち合うことの出来ない油というものがあるという、場合によっては冷たく感じてしまう事柄のせいなのではないかと思うのです。
13節で主イエスは、「目を覚ましていなさい」と言われるのですが、ここではおとめ全員が居眠りをしていました。だとしたら賢さと愚かさの境目は眠っていたかどうかではなく、油の用意があったかどうかでしょう。もっと言えば灯をともしているかどうかです。ここで主イエスは、私たちにとっての油は何か、灯が何かについても特に語ってはいません。私たちの信仰生活は油を用意して生きるようなものだとある牧師は語っていました。確かに油の用意ができていれば、平安の内に身を横たえることができる。でも用意ができていなければ、いざ何かが起こった時に慌ててしまいます。
この譬えをお語りになった場面は受難週です。十字架にお架かかりになる直前の説教なのです。そもそも何で主イエスは十字架に苦しむ必要があったのか。そうです。それがなければ神さまと私たちの間に和解が成立しなかったからです。私たちと神さまとの間の繋がっていない道を自らの命をもってつなげるために、十字架でその尊い命を捧げられた。そのようにして、御自身にしかともすことの出来ない灯を、ともしてくださったのです。そしてそれは私たちにも当てはまります。
私たちは神さまから授かった生命、あるいは「人生」と呼んでもよいでしょう。そうした「いのち」をいただいています。そして聖書によれば、私たちは誰でも、この歴史上、決して二つとない、ユニークな唯一無比の存在として生かされています。時代、国や地域、性別や嗜好、生まれ育った環境、ある意味、自分では選べない、ある種の制約や条件をも含めて、神さまが造られたこの世界で、一日一日を生きるようにと選ばれている。そう考えてみますと、この私を引き受けて生きていくこと自体が、別の誰かが私に代わって生きてはくれないと言う意味からして、決して分かち合うことのできないものなのではないか。主イエスはその厳粛な事実を伝えようとしているのではないかと思います。

Ⅲ.憐れみ深い神さま

3年前の夏休み、大阪女学院を見学しに行ってまいりました。チャペルがあり、そこに「十人のおとめの譬え話」を題材にした絵が掛けられているのです。
エーミル・ブルンナーが、ヨーロッパの教会でよくみられる、十人のおとめの絵や像について「教会が神の裁きを示すために、このような裁かれた者と救いに与る者とを対比させて彫刻に掲げていることには、根本的な間違いがある。聖書の読み違いがあるのだ」と語っていたそうです。
ブルンナー先生に言わせるならば、大阪女学院のチャペル入り口に掲げられた絵は、そこを通る生徒たちが、「ああ自分はダメだ。愚かなおとめになりそうだ」とビクビクさせ不安にさせるために掛けられているのではないのです。逆に「先週は教会にも行けたし、このところ聖書も読めている。献金もしたから、イエスさまが来られても、賢いおとめのようにしていられるから大丈夫」と安心させるためのものでもないのです。
そもそも主イエスが来られたのは何のためなのか。十字架にお掛になるのは何のためだったのか。それは誰かを滅ぼすためではなく、私たちを救うため。そのために十字架にかかってくださったのです。もっと言えば、賢いおとめと愚かなおとめの区別を消して、みんなでキリストをお迎えできるようになるために、主イエスはわざわざこの譬えをお語りになったのです。
注意したいのですが、この譬え話には閉められた扉のことが語られていますが、それは花婿が到着したからです。でも、いまこの時はどうでしょう。まだ花婿は到着しておられないのです。ですから、扉は閉じられていません。締まってはいないのです。ある牧師が語っていましたが、主イエスは、「もう一杯です」とか「扉は閉じられました」と宣言しておられるのではない。「さあ、お入りなさい。誰でも入って来なさい。ぜひいらっしゃい」。そう招いておられる。だって、そのためにこそ、これから十字架で命を捧げようとしておられる。落とそうとしてハードルを高くしているのではないのです。救うためにとことんハードルを下げ、いやそれをなくしてしまわれたのが十字架に現わされた無条件の神の愛なのです。

Ⅳ.礼服を着て婚宴が開始されることを待ち望んで生きて

この説教の準備をしながら、既にご一緒に味わったマタイ福音書22章の記されている、もう一つの「婚宴の譬え」が心に浮かびました。婚宴に招かれた人は誰も来ようとしないのを知った王は「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」と命じられた。そして自ら礼服を準備された。
私たちがすべきこと、それはこの主イエスの招きに応えること。十字架によって準備してくださったイエス・キリストという礼服を着て、その主が来られ婚宴が開始されることを待ち望んで生きていくことなのです。お祈りします。