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主日共同の礼拝説教

人となった神の言

松本雅弘牧師
ホセア書11章4-9節
ヨハネによる福音書1章14-18節
2022年6月12日

Ⅰ.「神のようになろう」

先週、私たちはペンテコステ礼拝を捧げました。説教でも触れましたが、ペンテコステの出来事を思い巡らす時に、私は創世記に出て来るバベルの塔の出来事、言葉が混乱した、あの出来事を思い出します。
あの時、人間は、「さあ、我々は町と塔を築こう。塔の頂は天に届くようにして、名を上げよう」と思い上がって計画を立てました。「名を上げよう」とは、言い換えれば、「神のようになろう」という思いです。その思いの実現のために、天に届くほど高い塔の建設にとりかかった。ところが、御覧になった神さまはそれをよしとされませんでした。神さまは人間の言葉を混乱させ、結果として塔の建設は中断してしまいます。
ヘブライ語の「バベル」とは「混乱」を意味する「バーラル」という言葉から来ていますが、現代でも、「神のようになろう」という人間の高慢が分断や対立をもたらし、混乱を巻き起こしています。
実は、「神のようになろう」という思いは、遡ると最初の人アダムとエバが善悪の木の実を取って食べた時、彼らの心を支配していた動機であることを聖書は伝えています。神さまから離れた人間の心は、「神のようになりたい」という思いが常に勝っていたのだと聖書は伝えています。

Ⅱ.「言は肉となって、私たちの間に宿った」

そうした中、ヨハネ福音書1章の14節には「言は肉となって、私たちの間に宿った」と語られています。ヨハネ福音書が伝えるクリスマスメッセージです。
高校生の時に手にしたトラクトに、「言は肉となって、私たちの間に宿った」という出来事は、例えてみるならば、人間が蟻になって蟻の世界に入って行くような出来事、いやそれ以上の出来事だと書かれていたことが、今でも心に残っています。
人間も蟻も神さまから見たら同じ被造物です。人間が蟻の姿をとって、いや、蟻になって、蟻のコミュニケーションの仕方で蟻と関わりを持たなければ、決してメッセージを伝達することができないように、天地万物の造り主である神が私たちを愛されたがゆえに、ご自分の愛する独り子、神ご自身であられるお方が人間の姿をとってくださった。それも一時的ではありません。あのクリスマス以降、永遠に人間の姿をとって私たちの只中に来てくださった。考えてみるならば、「言は肉となって、私たちの間に宿った」、神が人となるということは、言葉で言ってしまえば簡単かもしれませんが、それはとてつもなく大変なこと、大事件であったことだと思うのです。
ところで、使徒ヨハネによって、この福音書が書かれた当時、すでに主イエス・キリストは昇天し、この地上におられません。ペンテコステ、聖霊降臨の恵みにあずかった初代、古代の教会が、宣教の戦いを始めた時代です。そうした宣教の戦いの中で、「言は肉となって、私たちの間に宿った」、神が人となるという「受肉」の教理は、今でもそうですが、いや今以上に受け入れがたい教えだったようです。それを知る手掛かりのの一つが、使徒ヨハネの手紙に出て来ます。ヨハネは、「イエス・キリストが肉となって来られたことを告白する霊は、すべて神から出たものです」と記していますが、裏を返せば、手紙の受け取り手であった当時の教会の中にさえも、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しない人々、疑う人たちがいたということでしょう。
神は永遠なるお方。それゆえ決して絶えることがないお方。だからこそ当時は、そのようなお方は、決して滅ぶべき肉体をとらないと考えられていた。これは私たちの現代の常識にも通じることです。

Ⅲ.受肉されたお方は愛の神

確かに頭で考え導き出す時に、「言は肉となって、私たちの間に宿った」などとはあり得ない。永遠のお方が有限なる時間の中に入って来られたなどとは理屈に合わない、全能のお方が肉体を取るということは、様々な面で制限や制約を強いられるわけですから、そんなことはあり得ないと考えるのが普通でしょう。ところが、真の神は全知全能であられると共に、慈しみ深い愛のお方でもあった。ですから全能の御力を用いて、自らを低くして、人間の姿をとられたのだとヨハネは強調するのです。
ところで、昨日、結婚式を司式しました。そして先週は洗礼式がありました。私は結婚式、洗礼式を司式しながら、以前、ある牧師が、洗礼を受ける際の信仰の告白は結婚の誓約に似ている、と言った言葉を思い出していました。つまり「健やかな時も病む時も」とあるように、結婚の誓いというのは、調子のよい時だけではなく、どんな時にも相手に対する誠実さを保つ誓いでもあるからだ、ということでした。
旧約聖書によれば出エジプトの出来事の後、イスラエルの民はシナイ山において神と契約を結びます。正に結婚の誓約をするのです。神はイスラエルの民を「花嫁」と呼びます。そしてその結婚が守られ祝福されるようにと神は十戒を中心とする「律法」をお与えになりました。
ですから結婚という契約関係に入ったのは律法を守った結果ではありません。あくまでも律法は「神の民たるもの、主の花嫁はいかにあるべきか」を示すもの。特に私たちカンバーランド長老教会では、この契約関係を「恵み」と呼びます。
この恵みの契約関係と対照的なのが一般的な契約関係です。就職を例に考えてみると分かり易いと思います。就職で試用期間という時期を設けます。そしてよく働けることが分かったら本採用となる。イスラエルの民の場合は最初から本採用なのです。
実は、シナイ山において恵みの契約を結んだイスラエルの民は、「神の民たる者、主なる神の花嫁たる者はいかにあるべきか」を示す律法を、早々と破るという大事件が起こります。モーセの不在中に痺れを切らした民がアロンに、「自分たちを導く神々を作ってください」と詰め寄ったのです。その結果、アロンは民から金を集め、雄牛の像を作り祭壇まで築き、お祭り騒ぎを始めます。主なる神の花嫁であるイスラエルの民が、主なる神を捨てて、別の男性、金の子牛という偶像に走ってしまった。姦淫の罪を犯したのです。会社でしたらクビになっても当然のような大事件。しかしモーセの必死の執り成しによって彼らの命は助かり、結婚関係も解消されずに済んだのです。主は結ばれた恵みの契約を破棄されないのです。
実は、このことをよく表しているのが、今日の朗読箇所のホセア書の御言葉です。神の民が神に逆らい自滅の道を辿ろうとして行くのに対して、
「エフライムよ/どうしてあなたを引き渡すことができようか。/イスラエルよ/どうしてあなたを明け渡すことができようか。/どうしてアドマのようにあなたを引き渡し/ツェボイムのように扱うことができようか。/私の心は激しく揺さぶられ/憐れみで胸が熱くなる。」(8節)と言われるのです。まさに調子のよい時だけではなく、どんな時にも相手に対する誓いを神さまの側で守ってくださっている。これが神さまの愛、これを聖書は恵みの関係、恵みの契約関係に入れられているからだ、と教えるのです。
以前、ある神父がツィッターでつぶやいていました。「『絶対に救ってくれる神さま』のもとで、神の子であると信じる以外に、本当の安心なんてあるはずないでしょ?『いつかキレる親』だったら、本当の安心にならないじゃないですか。」まさに私たちの神は「いつかキレる親」でも「いつかキレる夫/伴侶」ではない。絶対に救ってくれる神さま、恵みの契約を決して破棄されないお方なのです。

Ⅳ.愛ゆえに払ってくださった犠牲

確かに旧約聖書を読みます時、花嫁イスラエルは繰り返し律法を破ります。あるいは私たち自身の今までの信仰生活を振り返ってみてもそうでしょう。神に対してすぐに罪を犯してしまう。しかし、にもかかわらず主なる神はペトロに対して、「七の七十倍まで赦しなさい」と自らが言われるお方であるがゆえに、彼らを、私たちを赦されるのです。最後の最後まで、自らが結んだ恵みの契約に誠実を尽くしてくださる。何と慈しみ深いお方なのでしょう!
ただ、そのことを可能とするために、決して忘れてはならないことがあります。主なる神がどれだけ心を痛めたか。犠牲を払ったか。贖いの血が流されたか。執り成しの祈りや労苦が捧げられたか。そうした一つひとつの労苦は新約に至り、「言は肉となって、私たちの間に宿った」。そうです。最終的には十字架の贖いにつながっていくのです。
人となった神の言。そのことによって私たちに救いをもたらしてくださったお方に心から感謝し、また御名をほめたたえたいと思うのです。
お祈りします。

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ペンテコステ礼拝 主日共同の礼拝説教

神さまから遣わされた助け主―ペンテコステを祝う

松本雅弘牧師
エゼキエル書37章1-14節
ヨハネによる福音書16章4b-15節
2022年6月5日

Ⅰ.ペンテコステは教会の誕生日

ペンテコステ、おめでとうございます。過ぎ越しの祭りから50日を数える「五旬祭」、ギリシャ語で「ペンテコステ」と呼ばれるお祭りの日に、主イエス・キリストの弟子たちの上に聖霊が降りました。使徒言行録第2章に、その日の出来事が次のように伝えられています。
「五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」(使徒2:1-3)まさに「視覚や聴覚など五感に感じられる経験として描かれて」います。そして続く4節に、「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。」
本当に奇妙で奇跡的な現象が起こりました。ただ注意すべきは、その不思議さよりも、使徒言行録は、「彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っている」とあるように、神の国の福音を語り始めた。そうです!ここから福音の宣教がスタートしたのです。そうです。ペンテコステは教会の誕生日なのです。

Ⅱ.神から遣わされる弁護者(助け主)

さて、今日、選びました聖書の箇所は、ヨハネ福音書16章4節後半からのところで、ここで主イエスは、ペンテコステの出来事、すなわち聖霊降臨の恵みの出来事を予告しておられることが分かります。実は、これが語られたのは、主イエスの十字架の前夜でした。場所は、最後の晩餐の席です。次の日に命を捧げるわけですから、この場面での主の言葉は、弟子たちにとっては「遺言」と言ってもよいような内容だったと思います。
ひとつ前の15章には有名な「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」という教えも出て来ますし、13章には「新しい戒め」としてクリスチャン同士が互いに愛し合うようにと勧められています。いずれにしても、受難週の木曜日の晩に語られたメッセージであったことが分かります。
さて、共におられたイエスさまが去って行かれるということは、彼らにとって大きな試練だったでしょう。しかしそれが「あなたがたのためになる」ことだ、と主イエスはおっしゃるのです。なぜなら、弁護者なる聖霊が送られるからでした。
では、聖霊なる神さまは具体的に何をしてくださるのでしょう。一言で言えば、聖霊を通して、私たちの罪が示され、神さまの御心が明らかにされていく。言い換えれば、私たちの証し、宣教を導くお方でもあるといことでしょう。

Ⅲ.約束された聖霊を待ち望む

聖霊は宣教を導く霊です。この宣教ということを考え、神の国の福音を、満遍なく世界の人々に伝える、ということを考えた場合、教育機関を作り人材育成を進めたり、インターネットを活用し個人的な接点を増やして伝道する方法を考えたり、多くの人たちとネットワークを組み、組織的な宣教の働きも可能でしょう。ところが、聖書を見ますと、イエスさまはそうしたことを一切なさらなかった。
イエスさまがなさったことは何か、と言えば「無学な普通の人」と呼ばれた元漁師の人たちと徹底的に生活を共にしたことでした。それによって彼らがイエスさまに似た者になることを求められたからです。そのために、どうしてもイエスさまと生活を共にし、イエスさまの御言葉によって直接養われる必要があったのです。しかし結果はどうだったか。イエスさまが心を砕いて訓練し生活を共にした結果、本当に素晴らしい弟子たちになったかと言えば、残念ならが必ずしもそうではなかったわけです。主イエスが十字架にお掛になった時に、一人残らず、主イエスを捨てて逃げてしまったのが12弟子たちです。これが三年にわたって主イエスと生活を共にした弟子たちの現実でした。
そうした現実を予測してお語りくださった約束の言葉が、今日のヨハネ福音書16章の御言葉であり、十字架、そして復活の後、この約束にもとづいてお語りくださった御言葉が、「エルサレムを離れず、私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」という使徒言行録1章4節に出てくる御言葉でした。そして、この「父の約束されたもの」というものこそが聖霊であり、今日の御言葉の6節と7節にありますように、「あなたがたの心は苦しみで満たされている。しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたのためになる。」とは、信じた者と共にいて下さる聖霊なる神さまのことを指した約束の言葉なのです。
この後、弟子たちの歩み、そして初代教会の歩みを聖書の言葉から辿って行くとするならば、結局、弟子たちは約束の聖霊をいただくことによって変えられていった。そして幸いなことに私たちにも、この聖霊が与えられている。従って、私たちが祈り求めていくべき方向というのは、すでにいただいている聖霊が、私たちの内側に大きく広がっていく方向です。

Ⅳ.聖霊の命が拡がる方向を選んで生きる

ある時、イエスさまは、わざわざ遠回りをしてサマリアを通られることがありました。それは心がカラカラに渇いていた一人の女性を救いへと導くためでした。
この女性はイエスさまとの出会いを通して、そしてイエスさまが「私の与える水はその人の内で泉となって、永遠の命に至る水が湧き出る」と言われたことで、キリストとの関係が回復し、キリストと親しい交わりの中で、聖霊の満たしを受ける、という約束をいただいたのです。それがイエスさまの導き方、私たちを導くイエスさまのやり方なのです。
神さまとの関係が回復し、その神さまとの関係の中で私たちを祝福へと、つまり神さまのお働きに参与する私へと引き上げてくださる。ですから、信仰生活の入り口はまず、神さまとの生きた関係に招く、というところから始まるわけです。
アダムもエバもそうでした。アブラハムも、モーセも、ダビデも、イザヤも、エレミヤも、ペトロも、パウロも、みんなそうです。彼らから神さまを求めたのではありません。神さまが彼らを求めてくださったのです。イエスさまの方から「あなたは私に従いなさい」と招かれたのです。私たちの言葉で言えば、ぶどうの木であるイエスさまにつながるようにと、まず私たちをイエス・キリストの神さまとの愛の関係に招いてくださるのです。
祝福された信仰生活の大原則は「神さまのために何かしてやろう」ということから始まるのではありません。そのように始めると必ずエネルギー切れで疲れてしまいます。
あるいはまた、神さまに愛されるために「立派なクリスチャンにならなければ」という、あの放蕩息子のお兄さんのようなところから出発するわけではないのです。そのようなことは、決して長続きしません。必ず息切れしてしまいます。
そうではなく、まず神さまとの生きた親しい関係から入るのです。キリストが「ぶどうの木」であり、私たちは「その枝」だからです。「良い枝になってからつながりなさい」と主は決して言われませんでした。むしろ、「疲れている者、重荷を負って苦労している者は私のところに来なさい。私が休ませてあげよう」と言われたのです。そのままの枝の状態で、私のところに来て繋がりなさい。そうすれば、癒しという実をいただける、というのです。
いつもお話していることですが、最初は元気がないように見える枝でも、ちゃんとぶどうの木につながれば、この聖霊が樹液のように流れて、やがて命がみなぎり実を結ぶのです。つながれば、そうした結果になるのです。このことを実現するために聖霊が与えられることを約束した御言葉が、今日のヨハネ16章に出てくる御言葉なのです。
使徒言行録の初めに紹介されているエルサレムの教会は、本当に生き生きしていました。でも、最初からそうだったのではありません。彼らに聖霊が降り、彼らがぶどうの木であるイエスさまにつながり続けた結果、聖霊の樹液がいつも彼らに流れ拡がって行ったので、そうなったのです。
キリストの体である教会につながり、聖書を読み、祈ることを通してつながり、聖餐式を守り、礼拝することにおいてつながり、神さまを証しし、与った恵みを御心のとおりに管理することを通して、キリストにつながった結果、いただいた聖霊の命が体の隅々にまで浸透していった結果なのですね。そのようにして、キリストに堅くつながる枝とされていったのです。そこに「恵みの循環」があったからです。
私たちも同じ聖霊をいただいている教会として、この聖霊の命が拡がる方向を選び取りながら歩んで行きたいと願います。
お祈りします。

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主日共同の礼拝説教 召天者記念礼拝

旅人としての私たち

松本雅弘牧師
詩編39編1-14節
ペトロの手紙一1章22-25節
2022年5月15日

Ⅰ.召天者記念礼拝の意義

毎年、高座教会ではイースターからペンテコステの間、すなわちキリストの復活を覚える、この季節に《召天者記念礼拝》をささげ、召された方々のことを偲び、生と死ということを聖書からご一緒に考えながら、ご遺族をはじめ、私ども一人一人が神さまからまことの希望をいただき直す時を過ごしています。
天に召された兄弟姉妹も、そして地上に生きる私たちも、復活の主キリストにあって1つとされています。召された方々は「過去の人」ではなく、今も共にキリストにあって礼拝する人、これからキリストにあって再会する人であります。そのようなことを心に留めながら、この礼拝の時を過させていただきたいと願います。

Ⅱ.詩編39編に込めた詩人の思い

今日の召天者記念礼拝のために選びました39編は《人生のはかなさ》を歌っています。この時、この詩人の周りには、彼の言葉を使うならば、2節にありますように、「悪しき者」、以前の共同訳聖書では「神に逆らう者」と訳されていましたが、そうした者がいました。ですから詩人は、「舌で罪を犯さないように、私の道を守ろう。悪しき者が私の前にいるうちは、口にくつわをはめておこう」、そう自分自身に言い聞かせた。つまり、「悪しき者を前にして、敬虔に生きよう、自己主張を控えよう」と決心したのです。ところが、その結果、思いもかけない精神的な苦しみを経験することになります。
「私は黙り込み、口を閉ざし善いことについても沈黙した。だが、私の苦痛は募り、私の内で心が熱くたぎった。私の呻きで火は燃え上が(った)」。
その結果、彼はどうしたか、と言いますと、思いの丈を神さまに向かって訴え始めるのです。「主よ、知らせてください、私の終わりを。私の日々の長さ、それがどれほどであるかを。私は知りたい、いかに私がはかないかを。そうです あなたが私に与えたのは手の幅ほどの日々。私の寿命など、あなたの前では無に等しい。確かに立っているようでも人間は皆空しい。」
ここで詩人は、自分の人生の終わりを思い、そのはかなさを訴えています。どうしてそんな気持ちになったのかといえば、彼が言うところの、「悪しき者/神に逆らう者」たちが元気に日常生活を営んでいる。それだけではありません。様々な点で成功を収めているかのように見える。それに対し詩人が直面していた現実は真逆なのです。一言で言うならば、「主よ、私の人生は負けなのですか」と問うているかのようです。
詩人は、そうした「悪しき者/神に逆らう者」たちの生き様と自分自身の歩みを比較した上で、最後に「私が去って、いなくなる前に」と語ったのです。
私は、毎週、教会員の方たちに誕生日のハガキを書いています。主事室の方の奉仕で、一月分の誕生者の名前のリストと共に、その人がことし幾つになったのかが書かれています。それを見ながら、一枚一枚のカードを書くのです…。たぶん、二十歳を迎えた方は、人生はまだまだこれから、と思っておられるでしょう。倍にしても四十歳ですから、ある程度の見通しを付けることが出来る。三十歳になった頃も、倍にしても、六十歳ですから、これまた想像がつく年齢かもしれません。
ところが、五十歳になり六十歳を超えて来ると先行きが見通せなくなってくる。今までとは全く異なるステージに足を踏み入れた感覚となる。「私が去って、いなくなる前に」という言葉は、まさに去って行くこと、消えて居なくなっていくことが、現実味を増して来た、ということでしょう。そして、繰り返しになりますが、私たちの人生が単に短いだけではなく、人との比較、特に「悪しき者/神に逆らう者」との比較の中で、虚しさを嫌というほど感じざるを得ない。なぜなら、彼らの方が成功しているかのように見えるから。それが、この時、詩人が直面していた現実だったようなのです。
このような中、極度の空しさを覚え、新共同訳を見ますと、「ああ」というため息の言葉を三回使っています。7節に二回、そして12節に一回。そうしながら、私たち人間の営みが、いかにはかなく、かつ空しいものであるかを強くかみ締めているのだと思います。しかも、詩人は、「人生の空しさ」というものは、信仰のある無しにかかわらず全ての人に当てはまるということを主張しているようにも聞こえて来ます。そうした上でもう一度、心を高く上げるようにして、8節の終わりを見ますと、「わが主よ、私が待ち望むのはあなただけです。」と主への信頼を告白していったのです。
さて、私は、この39編の真ん中の、こうした8節の言葉で終わるならば、まさにハッピー・エンドだったと思います。ところが、この詩には続きがあります。主を求め、神さまの御言葉を求めて行った時に、それは、詩人にとっての唯一の希望である神さまと、ただ交わりを持つというだけでは済まされなかった。神さまの御前に立つことと同時に、自らの罪を示されていったのです。
12節「あなたは過ちを責めて人を懲らしめ、人の欲望を、虫が食うように溶かしてしまいます。まことに、人間は皆空しい。」
人生は、単に短いという現実よりもさらに冷酷な現実に直面していた。そうです。自らの罪の問題です。人間存在そのものが人間の罪の故に、実に空しいものとされている、という現実でした。こうしたところを通って、この詩篇の結論部分に入って行きます。13節「主よ、私の祈りをお聞きください。私の叫びに耳を傾けてください。私の涙に黙していないでください。私はあなたに身を寄せる者 すべての先 祖と同じ宿り人」。
一言で言って、これは本当に慎ましい訴えです。この13節をヘブライ語聖書から直訳しますと「私は、あなたと共にいる旅人で、私の全ての先祖たちのように、寄留の者なのです」ということです。私は、自分自身の天国への引越しを思う時に、この祈りの言葉と私の思いが重なって心に響いてくるように思うのです。

Ⅲ.旅人としての私たち

聖書は、人は地上では旅人であり寄留者であると教えます。この人生も主から与えられたものであり、やがて来るべき御国こそ、信仰者の故郷です。ただ13節の言葉は、そうした積極的な意味での「死のかなたへの希望」が語られているのではなく、神さまの憐れみをかきたてるかのように、いじらしい仕方の訴えで締めくくられています。
14節「私から目を離してください。そうすれば、私は安らぎます。私が去って、いなくなる前に。」別の翻訳聖書で読みましたら、「私を見つめないでください。私が去って、いなくなる前に、私がほがらかになれるように」とあります。何と小さく、いじらしい訴え、慎ましい訴え!
聖書は、この詩人に対する主のお取り扱いは語っていませんが、この訴え、この哀願により、主の心は大いにゆすぶられたにちがいありません。このいじらしいほどの小さな祈りに、主は力強く、優しく応えてくださるお方だからです。

Ⅳ.心を騒がせてはならない

私が、葬儀のたびごとに必ず朗読するのが次の主イエスの御言葉です。
「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ14:1-3)
私たちが、死を迎えますとき、それは行く先が分からずに旅立つのではないのです。ここで主イエスははっきりと、「心を騒がせてはならない。心を騒がせる必要はない。むしろ、私を信じなさい」とおっしゃるのです。イエスさまを信じるとはそのお方の語る言葉を信じることです。
コロナ禍以前、必ず、礼拝の最初に頌栄を歌いました。その一つが賛美歌29番、「天のみ民も」という賛美歌です。こういう歌詞でした。
「天のみ民も、地にあるものも、父・子・聖霊なる神をたたえよ、とこしえまでも。アーメン。」
私たちが、地上にあって神を賛美している時に、天においても愛する家族が神に礼拝を捧げていることを覚えながらの賛美歌です。
主イエスさまは約束しておられる。いまこの時も、私たちの愛する家族は、神さまの御許で安らかに時を過ごしておられます。そして私たちも、その神さまの定めた良き日に、御許に召され、眠りから覚めた時に、先に天に引越して行った、愛する家族、主にある兄弟姉妹と再会することができる。この復活の希望を持って生きることが許されています。
今もなお、愛する方々を御許に送られたが故に、深い悲しみの中にあります方々もおられることでしょう。そうした方々の上に、主の慰めと希望が豊かにありますようにと祈りをあわせたいと思います。
お祈りいたします。

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主日共同の礼拝説教

光なる御子と証人ヨハネ

松本雅弘牧師
イザヤ書30章18-26節
ヨハネによる福音書1章1-13節

2022年5月8日

Ⅰ.はじめに

使徒ヨハネは、福音書の「プロローグ」にあたる書き出しで、「言」という語をもってイエス・キリストを証しし、そして「言」なるお方とは、吐く息のような無力、無責任な方ではなく、イザヤが言うように、必ず、神が望むことをなし、託したことを成し遂げる力と意思とをお持ちのお方であることを伝えています。今日も引き続き「プロローグ」にあたる箇所を御一緒に読んでいきたいと思います。

Ⅱ.光なる主イエス・キリスト

使徒ヨハネは、創世記の天地創造の記事を下敷きに福音書を書き始めていると言われます。「序」が終わり本論に入る最初に、「…ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、『あなたはどなたですか』と尋ねさせたとき」(19)と具体的な出来事が起こった時/日のことを語り始めます。そして29節に「その翌日」と書かれています。つまり19節の出来事の翌日ですから第二日目の出来事として語られています。さらに35節にも「その翌日」とあり第三日目のことです。そして39節に、「その日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである」という言葉に出会います。ユダヤの暦は夕方から一日が始まりますから、39節以降の出来事は第四日目のことを指すと考えられます。続く43節にも「その翌日」とあり第五日目の出来事です。
さて、第六日目への言及がないのですが2章1節で「三日目に、…」とあります。当時の日数の数え方は、最初の日を一日と数えますから「三日目」とは七日目のことです。このように使徒ヨハネは、福音書の書き出しで、主イエスの七日に渡るお働きに焦点を当てながら、遥か昔の天地創造の御業が七日にわたって成し遂げられたように、今まさに新しい創造の御業がイエス・キリストによって始められた、というメッセージを伝えようとしているのです。天地創造において強いご意思をもって「光あれ」と創造なさったこの世界を、これからも神は光をもって照らし導こうとなさった。しかも興味深いことに、4節までの出来事を過去形で伝える代わりに、5節では「光は闇の中に輝いている」と現在形で綴ります。天地創造の最初に、世界を照らした光が、そのときい以来、ずっとこの世界を照らし続けている。そして今現在も「光は闇の中に輝いている」のだと語るのです。
ところで、ここに「闇」という言葉が出て来ますが、今、世界を見渡しますと、本当に闇が覆っている現実があります。しかも、その闇をもたらしているのが、他でもない、私たちの心の闇でもあります。ウクライナで起こっていることも、ロシアとウクライナというよりも、プーチン大統領の心の闇がもたらした戦争ではないだろうか、と言われたりもしています。主イエスは心の闇を抱える私たちに、「偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイ7:5)と、心の闇に光を当てるようにとお語りくださいました。ですから、使徒ヨハネは語ります。「闇は光に勝たなかった」(5節)と。一見、闇の力が勝っているようなこの世界、光を圧倒するように見えるこの世界にあっても「闇は光に勝たなかった」と光の勝利を語るのです。

Ⅲ.光の証人としての洗礼者ヨハネ

さて、6節からは洗礼者ヨハネへの言及が始まります。「この人は証しのために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じる者となるためである。」と伝えています。
この後、3章22節からの箇所に、「イエスと洗礼者ヨハネ」と小見出しのついた出来事に出くわします。その時、ヨハネの弟子たちが洗礼を巡って論争したというのです。「イエス」という名の教師が登場してから、ヨハネ先生の勢いに影が差し始めた。その結果、それが洗礼者ヨハネ自身に対する弟子たちの不満へと発展していったようなのです。これに対し洗礼者ヨハネは、「自分はメシアではなく、あの方の前に遣わされた者」(28節)だと答えました。聖書が教える「謙遜さ/謙虚さ」とは、背伸びして大きく見せるのでもなく、自己卑下するのでもない。等身大の自分として生きることを意味しますが、28節は正にそうした言葉です。
確かに当時の人々の目から見たら、洗礼者ヨハネも主イエスに劣らず輝いていた人だったに違いない。しかしそうだとしても洗礼者ヨハネ自身は光ではなく、光についての証人でした。ただ信仰者にとって幸いなのは、使徒パウロが「光の子として歩きなさい」と語っているように、私たちにも、洗礼者ヨハネのように輝いた人生を送る可能性があるということなのです。
では、どうしたらいいのか。それは光そのものであられる、主イエス・キリストと向き合うようにして生活することです。礼拝や御言葉と祈りの生活を通して光なる主に向かい合う。すると月が太陽の光を体一杯に受け反射させながら、夜空に光るように、主イエスの愛の光、聖さという光、正義という光、つまりイエスさまのご人格に現された光が、私たちを通して反射させられていく。洗礼者ヨハネもそのようにして輝いたに違いないのです。

Ⅳ.一方的な恵みによって、神の子とされた使徒ヨハネ

さて10節には、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」と書かれています。ところでマタイやルカ福音書はイエス・キリストが旅先で生まれたことを伝えています。当時、世界を支配していたローマ皇帝が課税台帳を作るために、それぞれの生まれ故郷に行くようにという命令を出したからです。その結果、ユダヤ社会がごった返していました。どこの宿屋も満員だったからです。その結果、誕生したイエスさまは飼い葉桶に寝かされました。ただそれ以上に、主が飼い葉桶に寝かせられたのは他者に場所も譲ることのできなかった人間の心の狭さがもたらした悲劇だったのだと思います。それが10節の「自分の家に来たのに、家の者から他人のような扱いを受けた」ということでしょう。この後、使徒ヨハネは3章16節で、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」と綴ります。ヨハネは、神がご自分の独り子をプレゼントしてくださったのだと語るのです。
今日は母の日でもありますが、皆さんが母親にプレゼントを贈るとしたら、そこでどのようなことを期待するでしょうか。母親が笑顔で喜んで、そのプレゼントを受け取ってくれることを願うでしょう。神さまが「独り子」というプレゼントを贈られた時もそうだったと思います。二千年前のクリス マスの晩、心を込めて贈ってくださったプレゼントをほとんどの人間が拒否してしまった。ですからイエスさまは飼い葉桶にお生まれになった。11節の「言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった」とはそのことを意味しているのです。でも、本当に幸いなことに、それでお終いではありませんでした。12節を見ますと、神からのプレゼントを受け取る人たちがいたのです。神は彼らに神の子となる権能を与えるのです。しかも、血筋や家柄でも肉体に備わった生理的欲求や意欲など、私たちに備わっている何かによってではなく、一方的な恵みによって神の子にしていただく。これは決して忘れてはならない恵みでしょう。
福音書を記したヨハネは、若い頃、主イエスに招かれて弟子となりました。主イエスの教え、御業を目の当たりにしました。十字架の直前、兄のヤコブと一緒に、仲間に内緒でイエスさまに出世を願い出もしました。後で、それを知った仲間の弟子たちは激怒しました。同じようなことを考えていたからです。しかし、主イエスにあれだけ良くしていただいたにもかかわらず、十字架を前に主イエスを見捨てて逃亡したのです。
でもその後、十字架の愛を知り、復活の希望をいただき、ペンテコステの日に聖霊の命をいただいた直後から、自分たちの中に明らかな変化が現れて来ました。仲間を出し抜こうとして叱られた兄のヤコブは教会のため、主イエスのために最初の殉教者となりました。同僚のペトロや後に教会に加わったパウロも殉教したのです。そして自らも信仰の故に投獄を経験し鞭打ちの刑を受けた者のうちの最初の一人となりました。そしてこの後、パトモス島へと島流しになろうとしている。ヨハネ自身はそのような歩みをして来た人でした。
主イエスの愛に触れ、包まれた時、本当に心の底から喜びと力が湧いてくる。堅く冷たい石の心が砕かれ、ぬくもりのある愛の心へと変えられていった。そして、本当に不思議なのですが、この神さまの愛に、自分も応えるようにして生きて行きたい、と願う者へと変わってきた。その恵みが、あなたにもあるように!そうしたキリストにある、新しい創造の御業に、あなたも与って欲しい、という祈りと願いをもって、使徒ヨハネはこの福音書を記したのです。
お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

初めに言があった

松本雅弘牧師
イザヤ書55章8-11節
ヨハネによる福音書1章1-13節

2022年5月1日

Ⅰ.はじめに

コロナ禍が始まってから、マタイ福音書の終わりのところを読んだ後、とくに昨年は、「使徒信条」と「十戒」を礼拝では取り上げ、一通り学んできました。
今日から、礼拝では、ヨハネ福音書を御一緒に読み進めていきます。マタイ福音書を読むのに、7年半かかりましたので、読み終わるのに何年かかるか分かりませんが、章から章へ、節から節へと読み進めていきたいと思います。

Ⅱ.ヨハネ福音書の書かれた目的

さて、皆さんは、このヨハネ福音書をどのような印象を持って受け止めておられるでしょうか。聖書を手に取り、ヨハネ福音書を読み始めますと、不思議な世界に引き込まれていきます。福音書の書き出しが一種独特なのです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」
明らかに他の福音書とは語り出しが違います。マタイ福音書やルカ福音書はクリスマス・ストーリーから始まりますが、このヨハネ福音書はいきなり、何か哲学的な表現(?)とも言うべきでしょうか、一種独特の語りをもって始めています。
ところで、家に、『志麻さんの自宅レシピ』という料理の本がありました。テレビでお馴染みの志麻さんです。彼女の手にかかると、家庭の中にある普通の食材が、超一流の料理に早変わりする。本をひらくと、美味しそうな料理の写真と共に、レシピが紹介されています。これは料理を作る時の参考にと妻が買った本です。またそうした人たちのために書かれたのが、この『志麻さんの自宅レシピ』でしょう。表紙を見ますと、「『作り置き』よりもカンタンでおいしい!」とか「忙しい人でもちゃちゃっと作れる、ほめられごはん」というサブタイトルのような言葉があります。
ところで、〈生きるとはどういうことなのか〉、〈イエスさまはどのようなお方なのか〉という問いをもって、志麻さんの、この本を手にする人はいません。料理の本は、料理を作る時に読むと、いちばん目的に沿う仕方で読めるものでしょう。実は、聖書を読む時も同じなのです。全体で21章から成っている、ヨハネ福音書はどのような目的をもって書かれたのか。その目的に沿って読むことは大事なことです。ちなみに、第5章にそのヒントとなる主イエスの言葉が紹介されています。
ヨハネ福音書5章と言えば、あのベトザタの池にいた38年間病で苦しむ人を癒すという奇跡を伝える聖書箇所です。主イエスが癒しの奇跡をなさった日がちょうど安息日だったことから、ユダヤ人との間に論争が起こってしまったのです。そのやり取りの中で主イエスはこんなことをおっしゃいました。
「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたがたは、命を得るために私のもとに来ようとしない。」(ヨハネ5:39-40)
この言葉を見ますと、聖書とは何かと言えば、「私について証しをするもの/証しをする書物」と言われたのです。
昔、聖書に書かれていることを、科学の教科書のように読み進め、その結果、科学的な真理と、聖書が語ろうとする真理、私は、「真実」という日本語を使った方がピンと来るように思いますが、それらが正面衝突し、とても不幸な結果をもたらしたことがありました。主イエスによれば、そうした聖書の読み方はちがうということでしょう。なぜなら、聖書は自然科学の教科書ではなく、私たちカンバーランド長老教会の「信仰告白」の言葉を使えば、「キリストを証言するための書」だからです。
主イエスははっきりとおっしゃっています。「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ」(ヨハネ5:39-40)。ここでの主がおっしゃる聖書は旧約聖書ですが、主イエス・キリストにあって永遠の命をいただくために書かれた救いの書なのです。決して、科学の教科書ではありません。
もう少し書かれた意図について考えたいのですが、この福音書を読み進めていきますと、こういう御言葉に出会います。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じて、イエスの名によって命を得るためである。」(ヨハネ20:31)
ここに目的が述べられています。ナザレのイエスが神の子メシアであることを信じて欲しい、また、そのように信じて、イエスの名によって、神の与える命に与って欲しい。そのような祈りをもって書き綴られていったのが、この福音書である。そのことをまず確認させていただきたいと思います。

Ⅲ.「初めに言あった」

では、このような目的を持ったヨハネ福音書の書き出しの部分に注目したいと思います。ここでヨハネ福音書は、イエスさまのことを「言」、ギリシャ語では「ロゴス」という言葉を当てて証言し、さらに「言」はどのようなお方か、ということを語っています。説教の準備をしていて、改めて教えられたことがありました。それは、このヨハネの福音書の冒頭をギリシャ語から翻訳する時に、様々な苦労があったことです。
日本語に最初に翻訳したのが、ドイツ人宣教師のギュツラフでしたが、彼は「ロゴス」を「カシコイモノ(者)」と訳し、人格を持ったお方と訳しました。ちなみに、その次に古い訳は、ヘボン式ローマ字の開発者のヘボン・ブラウン共訳のヨハネ福音書で、「元始に言霊あり」と、日本訳では最初に「言」という語が当てたのですが、ここにも苦労がありました。普通の言葉と区別するために「言霊」と訳しました。そして、1879年(明治12年)のブラウン訳では、「ことば」という翻訳が継承され、1917年(大正6年)に出され文語訳聖書でも、「太初に言あり」と、まさに聖書協会共同訳聖書でこのまま採用している形になっています。
釜ヶ崎で日雇いの人たちと共に生きている本田哲郎神父が、「はじめから『ことば』である方は、いた。」と訳しています。このようにヨハネが「ロゴス」という語で示そうとする存在は、単なる霊とか無機的な存在でなく、「人格を持ったお方」なのだということでしょう。そして「言は神だ」と語り、しかも「初めに」とありますように天地創造の前から「言」なるお方はおられ、「万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった」とあるように、創造の働きに共に参与しておられたのが「言」なるお方だ、と証言するのです。
では何故、このお方、つまり主イエスを「ロゴス/言」と表現したのでしょうか。実は、本日の旧約朗読箇所でイザヤは、神の言葉は言いっぱなしの言葉でなく、必ず実現し出来事となる言葉だと伝えていることにも注目したいと思うのです。さらに、福音書の続きを見ますと「言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった」と書かれ、命の源なるお方がロゴス、それがイエス・キリストである。これが、ヨハネ福音書がイエス・キリストを指し示す、証言の始まりです。

Ⅳ.御言葉ご自身である主イエスと出会う

ヨハネ福音書には心に響く名言がたくさん出て来る、とある牧師は語っていました。確かに、ヨハネ福音書を読み進めてまいりますと、心に響く御言葉に出会います。その代表的な言葉が、ヨハネ福音書3章16節。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」カンバーランド長老教会の「信仰告白」の冒頭に掲げてある御言葉も、このヨハネ福音書に出て来る聖句です。
カナの婚礼、サマリアの女性と主イエスとの出会い、ベトザタの池に横たわる病で苦しむ男との出会い、姦淫の現場で逮捕された女性を守り赦す主イエスのお姿。生まれつき目の見えない男を癒されるイエスさま、そしてヨハネ福音書は紙面のほぼ半分を割いて、受難週の教えと出来事を詳細に伝えています。そして十字架の前夜に語られる教えの中には、「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」(15:5)という御言葉や、16章33節に出て来る「イエスの勝利宣言」と呼ばれる聖句も有名です。その他にも心に響く御言葉、また暗唱しておられる聖句がちりばめられているのではないでしょうか。
これからこの福音書をご一緒に読み進めることを通して、私たち自身の日々の生活を導く、御言葉の光に出会えたらと願います。
そして何よりも「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ。」(ヨハネ5:39)と語られた、御言葉そのもののお方である、主イエスと出会い、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じて、イエスの名によって命を得るためである」(20:31)と約束なさった、御言葉ご自身である主イエスによって、豊かな命にあずかることができるように、共の祈り求めていきたいと願います。
お祈りします。