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主日共同の礼拝説教

天から来られる方

松本雅弘牧師 説教要約
イザヤ書9章1-6節
ヨハネによる福音書3章31-36節
2023年2月12日

Ⅰ.「上から来られる方」とは?

今日の箇所を見ますと、このヨハネ福音書の「書き出しの言葉」同様、主イエスご自身が、どのようなお方であるのかが語られています。
ただ一つ、確認しておかなければならないことがあります。新共同訳聖書ではこの箇所が全部カギ括弧でくくられ、洗礼者ヨハネが語った言葉の続きになっています。
何故、こんなことが起こるかと言いますと、元々のギリシャ語の新約聖書には章や節の区切りもありませんし、まして、会話文を示すカギ括弧もありません。専門家たちが前後関係を考えながら、カギ括弧を添えるのです。実は、これこそがヨハネ福音書の特徴なのですが、洗礼者ヨハネの発言であるのを超えて、いつの間にかヨハネ福音書記者自身の言葉になってしまう。もっと言えば、当時のこの福音書を書いたヨハネが属していた教会の信仰の告白が、ここに示されていると専門家たちは考えるのです。
こうしたことを踏まえて、今日の箇所を読んでいきたいと思うのですが、今日の箇所は、イエスというお方がどのようなお方なのかを語っている箇所と言えるでしょう。

Ⅱ.神の言葉

ところで、この福音書は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ1:1)と語り始め、主イエス・キリストが神の言葉そのもののお方であると語ります。そのことを受け止めるように34節で「神がお遣わしになった方は、神の言葉を語られる」と記しています。つまり「上から来られる方」、すなわち主イエスというお方は、父なる神がお遣わしになった方であるがゆえに、神の言葉をお語りになる方なのだというのです。
ところで、教会ではよく「神の言葉」という表現を耳にします。例えば、私たちは聖書を「神の言葉」と信じています。また主イエスご自身が「神の言葉」であり、「神の言葉」を語るお方なのだとヨハネ福音書は伝えています。さらに、テサロニケへの信徒への手紙を読みますと、礼拝で語られる説教そのものを「神の言葉」と理解していることが分かります(Ⅰテサロニケ2:3)。
ある神学者は様々な意味合いを持つ「神の言葉」について三つの側面から整理します。一つは「肉体を取られた神の言葉としての主イエス・キリスト」、二つ目に「書かれた神の言葉」としての聖書、そして三つ目は「語られた神の言葉」としての説教です。
この後、5章に次のような主イエスの言葉が出て来ます。「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたがたは、命を得るために私のもとに来ようとしない。」(ヨハネ5:39-40)「書かれた神の言葉」としての聖書も、「語られた神の言葉」としての説教も、主イエスが誰であるかを明らかにする。イエスさまによれば、聖書は主イエスを証しする書、主イエスにあって命をいただくために、主イエスへと導くのが神の言葉なのです。

Ⅲ.神の言葉と私たち

ある時、主イエスは都エルサレム、それも神殿の境内で教えておられたことがありました。そこに祭司長や長老たちも居て、教えている主イエスを問いたださずにはいられなくなったことがありました。そして主イエスから返って来る答えが正しいかどうかを、権威者である自分たちが判断しようとしたというエピソードが福音書に出て来ます。
ところが、主イエスは祭司長、長老たちの質問に答えようとしない。逆に主イエスの方が「私も一つ尋ねる」と、権威者である彼らに問い返しました。その結果、彼らの間に議論が始まり、その末に彼らが用意したのは「分からない」という答えでした。
神殿の境内で、主イエスが対峙された祭司長や長老たちにとって、自分たちが基準、権威なのです。そのようにして彼らは判断し、そして最終的に主イエスの問いかけに対する答えは、「分からない」。これが彼らの答えだったことを伝えています。神の言葉ご自身である主イエスがお語りになっているにもかかわらず、それを真正面から受けて立たずにスルーしてしまう。「分からない」、もっと言えば「分かりたくない」、「知りたくない」という姿勢でしょう。これは私たち自身も気を付けなければならないと思うのです。

Ⅳ.「神の言葉」に聴く

高校の時、初めて教会の礼拝に出席しました。今でもその時のことを鮮明に思い出します。案内された席が最前列の真ん中から二つ目の席、その教会では牧師の席が講壇の上にありましたから、牧師と真向かいなのです。ですから初めから終わりまで緊張し通しだったことを覚えています。
その日の午後に高校生会主催の伝道集会があり、同じ高校生なのにどこか違う。ギターの伴奏で共に歌ったゴスペルソングの歌詞にある世界観にとても心惹かれました。それがきっかけで求道生活が始まりました。
〈同じ高校生なのにどこか違う〉と感じた、その違いはどこにあるのだろう、というのが求道のきっかけですが、今から考えますと、礼拝に出席し始め、また聖書の言葉に触れることで、私の心の中に次々と浮かんできた様々な問いがあったので、礼拝に続けて出席できたのではないかと思います。
ただ次第に不思議な経験をしていきました。それは、問いをもって出席し続けている私が、今度、聖書の言葉によって問われてくるのです。「床を担いで歩きなさい」「あなたは私を誰と言うか」。ある牧師が語っていました。「問われていることを知らないと、信仰はよく分からない」と。私の小さな経験からもそうだと思います。問われていることを知って、初めて信仰の世界が開かれてくる。
先週、洗礼者ヨハネの来ていた服装から、創世記の中で、神さまがアダムとエバの為に皮の衣を作って着せてくださったことに触れました。そのことが語られた同じ創世記3章に、とっても大切な神さまからの「問いかけの言葉」が出てきます。「どこにいるのか」、新共同訳聖書では「あなたはどこにいるのか」と問いかける神の言葉です。
カンバーランド長老教会の神学者、ヒューバート・マロウ先生は、この問いかけこそ、旧新約聖書全巻を貫く神からの問いかけである、と語っています。「あなたはどこにいるのか」。私たちが、この問いかけに気づき、振り返った時、そこに両手を広げて私たちを迎え立つ神が待っておられる。そのような意味で、神の言葉は私たちに応答を求める、問いかける言葉だということでしょう。
ある時、主イエスは「蒔かれた種の譬え」を御語りになりました。蒔かれる御言葉の種はみな同じです。一つひとつの種には命が宿っています。では違いはどこにあるのか。それを受け止める者の心の姿勢という「土壌」に違いがあると教えられました。
道端、石だらけの地、茨の中。そこにいくら種が蒔かれても実を結ぶまでに成長しない。言い換えれば、御言葉を自分のこととして聞く姿勢がない時、聖書の知識は増えますが、現実の生活には何の変化も起こらないのです。
主イエスはおっしゃいます。「ほかの種は、良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍になった。」そして、『聞く耳のある者は聞きなさい』と言われた。」(マルコ4:8-9)
「聞く耳のある者は聞きなさい」。自分に語られたこととして聞くことです。「この御言葉、あの人に聞かせてやりたい」と思って聞くことはないでしょうか?「息子に聞かせてやりたい」と感じることはないでしょうか?でも、主イエスは、あの人や息子に聞かせる前に、あなたに語っておられる。ですから私自身が自分に語られた神の言葉としてきくことこそ、「聞く耳をもって聞く」ということでしょう。
使徒ヨハネは語ります。「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。…神がお遣わしになった方は、神の言葉を語られる。神が霊を限りなくお与えになるからである。御父は御子を愛して、その手にすべてを委ねられた。御子を信じる人は永遠の命を得る。しかし、御子に従わない者は、命を見ることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」
聖書に登場する信仰の先輩たちの誰もが、「上から来られた方」、すなわち主イエスの御言葉に耳を傾けました。しかも、常に自分に語られたこととして御言葉を聞く習慣を持っていました。それが基本です。その基本に立ち返る必要があります。
そのようにして私たちが、聖書を、また聖書の説き明しである説教を神の言葉として聞く時、いや、神の言葉そのものであるお方の許で、その語りかけに耳を傾ける時、時に罪が示されることがあります。また十字架の意味がよく分かり、赦しの実感が与えられる経験をするでしょう。本当に心から信仰が成長することを求め、神さまの愛に応え、御言葉に従って生きていきたいという思いが起こされていくでしょう。あるいは神の言葉が示されても、その御言葉に応答できない自分と直面し、そのことのために悲しみ、悔い改めに導かれていくこともあるかもしれません。こうした一つひとつのことが全て、神の言葉なる主イエス・キリストと向き合い、そのお方の語りかけを真剣に受けとめる時に起こることなのです。
私たちは、神が与えてくださる命を豊かに受け取るために、神の言葉そのものであられる主イエスの許に行き、聖書を通し、また説教を通して語りかけてくださる神の御言葉を大事に大事にしていきたいと願います。
お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

この人を見よ、と指し示す人生

松本雅弘牧師 説教要約
歴代誌上29章10-20節
ヨハネによる福音書3章22-30節
2023年2月5日

Ⅰ. 「生きる」

神さまの/大きな御手の中で/かたつむりは/かたつむりらしく歩み/蛍草は/蛍草らしく咲き/アマガエルは/アマガエルらしく鳴き/神さまの大きな御手の中で/わたしは/わたしらしく生きる
小学校4年生の時に、赤痢にかかって、口を利くことも、また体を動かすこともできなくなってしまい、「あいうえお」の表を見ながら瞬きで一つひとつの言葉を紡いだ「瞬きの詩人」と呼ばれ愛された水野源三さんの「生きる」という詩です。私は、洗礼者ヨハネのことを思いながら、この詩を思い出したことであります。
そこには自分以上でもない、自分以下でもない、ありのままの自分として、しっかりと生きる水野源三さんの姿が、今日の箇所に出てくる主イエスを証言する洗礼者ヨハネと重なるからです。

Ⅱ. 洗礼者ヨハネの弟子たちの不満

主イエスは弟子たちを連れて「ユダヤ地方」に移動しながら洗礼を授けておられたとヨハネ福音書は伝えています。一方、洗礼者ヨハネはガリラヤ湖と死海の間で、ヨルダン川の西側の地で活動していました。
「イエス」という名の教師が登場するまでは、人々はヨハネ先生に注目し、先生から洗礼を受けることを願い、先生の教えに喜んで耳を傾けていたのです。ところが今や情勢は一変し、「イエスは上り坂、そしてヨハネは下り坂」となった。ヨハネ1章にも出て来ました、アンデレやシモンも先生よりも後からやって来たイエスの方についてしまった。そんな中、ヨハネの弟子たちはしびれを切らしたのだと思うのです。
「ヨハネ先生、あのイエスと言う人は、あなたから洗礼を受けた人でしょう。それが今、みんなあの人の方に行っていますよ。放っておいてよいのですか」。そう言いたかったのではないかと思います。

Ⅲ. 洗礼者ヨハネの生き方

こうした弟子たちの投げかけに対する洗礼者ヨハネの応答がとても冷静かつ謙虚なのです。「私はメシアではなく、あの方の前に遣わされた者だ」(28節)。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人は立って耳を傾け、花婿の声を聞いて大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている」(29節)。「あの方は必ず栄え、私は衰える」(30節)。洗礼者ヨハネはこのように答えたのです。
特に、30節に記されている最後の言葉は、直前の29節との関連で読むべき言葉だと思います。つまり諦めとかひがみや悔しさからの言葉では決してなかったと思います。むしろ、ヨハネ自身が「私は喜びで満たされている」と告白するように、そのことを喜んでいる、という証言の言葉でしょう。
このヨハネの証言から、イエスをキリストと信じて歩んでいた信仰の大先輩、洗礼者ヨハネの生き様から三つのことを学びたいと思うのです。
 一つは、洗礼者ヨハネは「自分が何者であるかを知っていた」ということ。もっと言えば、「自分は誰であって、誰でないかをはっきりとわきまえていた」という点です。
 私たちは自分が見えない時、人の言葉に揺れ動くことがあります。アンテナを張り巡らすように周囲に気を遣って生活していますと、確かに様々な情報をキャッチできますが、反面、必要以上に人の意見や評価に踊らされ、自分を見失ってしまうことが起こります。人の顔色を伺(うかが)い、行動に一貫性を欠いてしまいます。でも洗礼者ヨハネはその逆の生き方だったと思います。ヨハネは自らを「あの方の前に遣わされた者」、つまり「あくまでも自分は主イエスの先駆けとして遣わされた者」と告白し、自分以上でもない、また以下でもない等身大の自分を受け入れ生きていました。
 私たちは神さまを見失うと、必ず「横との関係」が気になってしまいます。「人と比べて生活していても、何の良きこともない」。誰もが頭で分かっていることでしょう。でも、そうしたことが身についてしまっている。いつもそうしてしまう。なんで人と比べたがるのでしょう?人の目が気になるのでしょう?聖書は語ります。それは、本当に気にすべきお方の眼差しを気にしていないから。それが聖書の答えなのです。
 神さまは私たちを人間として造ってくださった。聖書によれば人間とは「上を向く者」、「神を礼拝する者」です。上を見上げて神を礼拝する時に始めて、私は私として生きることができる。ある方は、それは人生に縦軸をいただくことだ、と語っていました。
 「主を畏れることは知識の初めである」という有名な御言葉があります。「畏れる」という漢字は「恐怖」の「おそれる」を当てるのではなく、「畏敬の念」の「おそれる」という漢字です。畏れ敬う、尊敬する。言い換えれば、「神さまを神とする」ことです。
真の神さまを神として敬(うやま)わない時に、不思議ですが私にとって「別の何か」が必ず「カミ/私を救い、私を支え生かすもの」になる。例えば、お金だったり、持ち物だったり、友人からの評価であったり…。洗礼者ヨハネは、「神さまと自分との関係」、人生に「縦軸」をいただいていましたので、「横の人間関係における比較の世界から自由だった」のです。
 二つ目は何でしょうか。それは自分をお造りになった神さまとの関係において自分が誰であるのかを知っていた、ということです。
 ヨハネは「花婿イエスさまの介添え人だ」と語っています。当時、ユダヤの結婚式での「介添え人」とは「結婚を成功させる仲人」のことです。ここでヨハネは結婚を譬えに語っていますが、花婿イエスさまに紹介される花嫁が、実は、「私たち」です。花婿なるイエスさまと結婚するために、私たちは様々な意味で準備を必要とします。
ご存知のように洗礼者ヨハネは「悔い改め」を説きました。身を清めて待つために、「罪のゆるしの洗礼」を施しました。ですから、晴れて結婚が成立したならば、当然、「介添え人」の役目も終わり近くなります。ですから「あの方は必ず栄え、私は衰える」と語ったのはそうした意味です。そのように自分はどのような者かをわきまえていましたから、結婚の成立を見た時に、介添え人としてのヨハネは大いに喜んだのです。何故なら、自分が誰であり、自らのなすべき務めを受け止めて生きていたからでしょう。
最後、三つ目ですが、「人は、天から与えられなければ、何も受けることはできない」と語る洗礼者ヨハネに「信仰の確信」を見る思いがします。
ご存知のように、洗礼者ヨハネの活動の現場は「ユダヤの荒野」がメインでした。ヨハネが活動した「荒野」、それはユダヤの人々にとって特別な思いを抱かせる場所でした。ユダヤ人はそこで何を経験したか。それは自らの罪です。自らの罪を嫌というほど知らされた場所が荒野だったのです。そして「荒野」にはもう一つの側面があります。それは、そのような自分たちを見捨てず、愛と忍耐とをもった導きを体験した場所こそが荒野だった。つまり、「人は、天から与えられなければ、何も受けることができない」ということをイスラエルの民は繰り返し繰り返し体験した。それが荒野だったのです。
人間がとうてい生きていくことのできない場所、神の助けなくしてはどうにもならないような場所が荒野です。人間の罪が深ければ深いだけ、神さまの愛をその場所で体験していった。それがイスラエルの民による「荒野の体験」でした。
神さまの他、誰も頼ることのできない荒野の経験により、ヨハネの口から確信の言葉が語られた。27節「人は、天から与えられなければ、何も受けることができない。」これはヨハネ一人の確信ではなく、私たち一人ひとりが神さまに真剣に求めるべき、大切な信仰の確信なのではないかと思います。

Ⅳ. 「人は、天から与えられなれなければ、何も受けることができない」

冒頭で、水野源三さんの詩を紹介しましたが、最後にもう一つご紹介して終わりにしたいと思います。
たくさんの星の中の一つなる地球/たくさんの国の中の一つなる日本
たくさんの町の中の一つなるこの町/たくさんの人間の中のひとりなる我を
御神が愛し救い/悲しみから喜びへと移したもう
水野源三さんはどうにもならない「自らの小ささ」を実感しつつ、そのような小さな者を愛し、救い、悲しみから喜びへと方向転換させる神さまの御手の働きに驚き、感動しています。これはまさに洗礼者ヨハネが語る、「人は天から与えられなれなければ、何も受けることができない」という信仰の確信に通じる告白なのではないでしょうか。
「人は、天から与えられなれなければ、何も受けることができない」。言いかえれば、上手くいってもいかなくても、失うものなどない。全ての良きものは、天から、すなわち神さまから与えられるもので、私たちが自分の力や努力で生み出すものではない。必要なものは必ず神さまが与えてくださる、失うものなど何もないのだ、と言う本当に力強い確信の言葉です。
洗礼者ヨハネはこの確信に生きることで、主イエスがキリストであることを喜びをもって証しすることが出来た。私たちもこのヨハネに続く者でありたいと願います。
お祈りします。

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独り子を与えるほどの愛

松本雅弘牧師 説教要約
イザヤ書63章15-19節
ヨハネによる福音書3章10-21節
2022年1月8日

Ⅰ.「小聖書」

 今日の聖書箇所を読みますと、「聖書の中の聖書」とか、宗教改革者マルチン・ルターが「小聖書」と呼びました聖句、ヨハネ福音書3章16節が出て来ます。私たちカンバーランド長老教会にとっても、この御言葉は特別で、『信仰告白』の冒頭に掲げられています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
よく「飼い葉桶と十字架は最初から一つ」と言われていますが、神さまが独り子をお与えになったということは、死に引き渡すことを覚悟で遣わされた。いや、十字架の死に引き渡すために遣わされた。それがクリスマスの出来事でしょう。そして、そのことを通して、信じる人が一人も滅びないで、永遠の命を得る。御子の命と引き換えに、私たちは命を得るというのです。

Ⅱ.ヨハネ3章16節の位置づけ

 ところで、このヨハネ福音書3章16節は、あまりにも聞きなれた御言葉です。作家の三浦綾子は、「この『世』のところに、あなた自身の名前を入れて読んで御覧なさい」と勧めています。自分に結び付けて、自分のこととして、この福音の言葉を聞いてみましょう、というのです。

Ⅲ.「救い」と「滅び」

 私は若い頃、「永遠の命」という言葉が、「終わることのない、永遠に続く長い長い命」を思い浮かべるようになり、どこか退屈さを感じ、心のワクワク感が消えていくような経験をしたことを覚えています。みなさんはいかがでしょうか。
 実は新約聖書には「命」と訳せる三種類のギリシャ語があります。一つは最近もよく「バイオ、バイオ」という言葉を耳にしますが、「生物学的な意味での生命」を意味する言葉「ビオス」です。もう一つは「プシュケー」。エジプトに居たヨセフに「幼子の命を狙っていた人たち、死んでしまった」とお告げがありましたが、この時の「幼子の命」の「命」が「プシュケー」というギリシャ語です。
そして三つ目が3章16節で使われている「ゾーエー」というギリシャ語です。神との関わりにあってこそ意味を持つ命という意味の「命」です。ヨハネ福音書には、主イエスがこの言葉の意味を説明している箇所がありますので、そこも確認しておきたいと思います。ヨハネ福音書17章に出て来る、「大祭司の祈り」と呼ばれる祈りの中に出て来ます。
 ここでイエスさまは、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と、「永遠の命」イコール、「神と主イエスを知ることだ」とおっしゃいました。つまり、主イエスを通して神との親しい交わりに生きている状態が命に生かされていることなのだ、と語っておられるのです。
今日の箇所に戻りますが、16節に続く続く17節でも「救い」に関する言葉が語られます。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。そして、その直後の18節では「救い」と矛盾する「裁き」を伝える次のような言葉が続きます。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子を信じていないからである。」
 ヨハネは「救い」を伝えると同じに、それと矛盾するような「裁き」を語っています。でもどうでしょう。「永遠の命」をもたらす「救い」とは、まさに先週の礼拝での言葉を使えば、ぶどうの木であるキリストにつながること、命そのものであられる主イエスとの親しい交わりの中に生きるときに、主イエス・キリストの「救い」に与って生きることができる。
まさに主イエスが、「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。」と言われる通り、主イエスを離れたら、私たちは何もできない。つまり命の源から切り離されては、本当の意味で生きることはできないとおっしゃるのです。そのことを語っているのが18節の言葉でしょう。命の源なる主イエス・キリストに繋がっていない状態がヨハネの語る「裁き」です。逆に言えば、イエス・キリストを知って生きることの中に、裁きからの解放があり、喜びがあるということでしょう。

Ⅳ.独り子を与えるほどの愛

 ちょうど成人式をお祝いした直後の春休みに、私はキリスト者学生会の春期学校に参加しました。その時、講師を務めた先生が私たち学生に向けて熱く語ってくださいました。「創世記2章7節に、『神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。』とある。『鼻から命の息を吹き入れる』という姿を想像してみてください。…『鼻から命の息を吹き入れる』というのは、鼻と鼻とをすり合わせるような、まさに夫婦のような交わりを意味します。私たち人は、神さまとそのような親しい交わりを通して、初めて生きることができる者として、この世界に存在させられたのです。…」。私も若かったのでドキドキしながら聞いたことを今でも思い出します。
 主なる神さまと本当に親しい交わり、絆の中に生かされた時、人間は生き生きしていた。神を喜び、自分の存在を喜び、与えられた人生の同伴者である神さまを喜びました。 ところが、そのお方との関係が失われた時に、自らを「恥ずかしい」と思い始め、隣人と、そしてこの世界と上手くかかわることができなくなった。愛と信頼に基づく人と人との結びつき、社会でのかかわり方が、「強い者の支配に対する弱い者の隷属という秩序」にとって代わってしまった。「あなたのゆえに、土は呪われてしまった。…土があなたのために生えさせるのは/茨とあざみである」と先生の言葉を使えば、「自然界の反逆」(創世記3:17、18)を経験します。食物を得ようとして土を耕しても、「茨とあざみ」が生え育つことになる。「予期せぬ副産物」を生じさせる。それ以来私たちは、聖書が言うところの「裁き」の現実を嫌というほど味わってきたわけでしょう。
 先週、お正月ということもあって牧師間の横の駐車場にクルマをとめていたこともあったので、〈そう言えば、幼稚園はいつから始まるんだっけ〉と思い、HPを開いたところ、「あなたは大切な人です」というキャッチコピーが目に飛び込んできました。改めてその言葉を読み、心の中に温かなものが流れたのを感じました。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。言い換えれば、神さまは私たち一人ひとりに「あなたは大切な人です」と真剣に語りかけておられる。その「オリジナル・ラブ」の具体的な形としてイエスさまを与えてくださったのです。しかし、この神さまの愛が分からなくなると、自分の大切さを確認するために、一生懸命に何かを成し遂げたいと思うようになります。あるいは、それが出来ない自分に打ちのめされます。そして今、私たちの社会の至るところで起こっている、「大切にされないことの悪循環」、そうしたことの「連鎖」が私たちの社会を覆っているように思うのです。
だからこそヨハネは、光としての主イエスを示し、「この光の方に来てみなさい。ここにこそ救いがある」と招いている。
 ヨハネは、私たちを光そのものであられる主イエス・キリストへと導こうとしています(19-20)。私たちは光なるお方の許に来る時に、初めて本来の自分を取り戻していく。人々の目に大切な人に映るように、一生懸命努力をするのとは違う世界です。すでに大切な人として神の瞳に映っている。その喜び、その慈しみの目に映る自分を確認し、周囲の人々を見、この世界を見ていく。
この世界に目を転じる時に、圧倒されるような問題が山積です。闇が深いです。
よくクリスマスの時に語られますが、闇を追い出すために、私たちは戸を開けて、一生懸命、箒で掃きだそうとするでしょうか。窓を開けて追い出すことができるでしょうか。その闇を消し去るために出来ることは、その所に光を灯すことでしょう。すると不思議と、その周りから闇が見えてなくなるからです。
私たちは、その光の下に招かれ、その光に照らされ、自らが小さな光となって歩んでいく。いま、遣わされているその場所にあって、与えられている責任を果たすことだったり、子どもとの時間を大切にすることだったり、学校の課題に忠実に取り組むことであったり、神さまから示されている、場合によっては取るに足りないと思わされるようなことを、〈イエスさまだったら〉と問いながら、イエスさまと共に向き合っていく。そのように私たちはキリストの光を灯す者として召され生かされている。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
お祈りします。

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主日共同の礼拝説教 新年礼拝

新しいぶどう酒は新しい革袋に

<新年礼拝>
松本雅弘牧師 説教要約
イザヤ書30章15-22節
ルカによる福音書5章33-39節
2023年1月1日

Ⅰ.はじめに

 新年あけましておめでとうございます。

昨年一年を振り返りますと、ウクライナ危機、さらに先月末には、日本でも増税により軍事費を拡大し、「専守防衛」という前提が骨抜きにされてしまいました。

コロナ・パンデミックも三年目を迎えた年でした。「地球号」という同じ乗り物に乗っている者同士ですから遠く離れた所で起こったことでも、「対岸の火事」では済まされません。物価の高騰があり、本当に身近なところでそうした現実を知らされます。また私たち教会の歩み、そして一人のキリスト者としての歩みを振り返る時に、どうだっただろうか、と思います。

そうした中、今年、最初の礼拝の招きの言葉は、使徒パウロがコリント教会の兄弟姉妹に送った手紙の一節です。「だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。」(Ⅱコリント5:17)と宣言してくださる。「にもかかわらず」の愛をもって、私たちの中で始めてくださった救いの御業を完成へと導いてくださる。

私たちの神さまは「事を始めるお方」であるとともに、「始めたことを必ず完成なさるお方」でもあります。私たちの内に働きかけ、思いを起こさせ、かつ実現に至らせるお方です。ですから、2023年という今日始まったこの年も、そのお方と共に歩んでいきたいと願います。この恵みに支えられ、自らを、兄弟姉妹を、世界を、この新しい年を喜んで受け入れて、歩むことができますように、祈り求めていきたいと思います。

Ⅱ.新しいぶどう酒は新しい革袋に

 今日は今年最初の礼拝ですので、今年の主題聖句を含む箇所を読みました。

 ところで、ユダヤでは昔から断食の習慣がありました。元々断食は、祈りに集中するための手段の一つでした。ところがファリサイ派の人々を中心に、宗教的な熱心さのゆえから、年に数回だった断食の回数が、月曜日と木曜日の週二回になっていたようなのです。それも、神さまの恵みを味わう目的で行う手段だったにもかかわらず、神の御前に高く評価されるべき功徳として断食を位置づけ、手段である断食が目的化して行った実情があった。人に比べ多くの回数、断食をしていることを、ファリサイ派の人々は誇りに思っていたわけです。

 このような中、「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」と断食をしていない主イエスの弟子たちのことを問題視した人たちが質問したのです。

当時の人々の目からすれば、主イエスの振る舞いや行為が、どこか宗教的伝統をおろそかにしていると映った、それで批判の対象となっていたのです。

私たちの社会でも、また教会の中でも同じようなことが起こると思います。一方に古い伝統をしっかり守り、それから決して反れないように、と考える人たちがいるかと思うと、他方では形式にとらわれず、むしろ古い伝統には反発して新しい生き方を求めようとする動きもある。こうした彼らの疑問に対する応答が34節からの言葉でした。

ここで主イエスは「婚礼の譬え」を語られました。イエスさまはよく婚礼のことを譬えとして用いられます。その場合、終末的な救いの喜びを象徴するものとして語られていました。つまりそこでは、メシアを花婿に譬えてお話されるのです。この時も同様でした。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」。これが主イエスの教えのポイントでしょう。

断食という宗教的な伝統や形式にしがみついて生きることより、キリストと共に生きることこそが大切だとおっしゃる。断食の目的もそこにあったわけですから…。

 そうした上で、今年の主題聖句が続きます。38節、「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない」。私たちがいただいている救いは、古い服の仕立て直しではない。私たちの救いとは、新しい人間の創造なのだ、と主イエスはおっしゃるのです。

主イエスを信じて生きることは、質的な新しさをもたらす。古い伝統や古い習慣によって信仰を補強しようとするようなことは逆戻りすることで、そのようなことをし続けていったら革袋は張り裂け、ぶどう酒も革袋もだめになってしまう。まさに今日の礼拝への招きの御言葉の意味するところでしょう。

Ⅲ.ウィズ・コロナ時代と教会

 昨年、アメリカで開かれた総会に出席した際、改めて、コロナ感染症がアメリカの教会に与えているダメージの大きさ、深刻さを知らされました。会場で食事をしていますと、牧師が、同席していいか、と声を掛けて来ます。席につくなり「コロナの影響はどうか」と尋ねるのです。何人かの牧師がそうでした。

牧師たちの話によれば、コロナ感染症のパンデミックが起こり、素早くオンライン礼拝に切り替えた。そしてパンデミックが落ち着き、社会全体が正に「ウィズ・コロナ」の生活に移行し始めた。しかしそうした中、元に戻らないままなのが教会なのです。礼拝に教会員が戻ってこない。その結果、活動も活動を支える捧げ物も深刻な状況に置かれている。「日本は、どうか?」というのが、総会会場で、何人かの牧師たちから訊かれた質問でした。今後、日本社会はどのようにコロナと付き合っていくのか分かりませんが、仮にアメリカのように、以前とまったく同じように社会全体が動き始める中、果たして日本の教会、また高座教会はどうなのだろうか…。それ以来ずっと考えさせられていることです。

確かにコロナを経験した私たちは、オンラインというツールを駆使し、今まで届かなかった方たちに御言葉を届けたりすることが出来ました。会議の効率化や、会議に出席するための行き来の時間が劇的に短縮されました。コロナを経験し丸三年が経とうとする今、こうした経験をふり返り、今後に生かすことが出来るかを考える、また一方でオンラインではどうしても実現できないことは何かを確認する。そうしたことが、今年、「ウィズ・コロナを見据えて」をテーマとして掲げて歩む私たちにとって、大切なこととなるのではないかと思います。

Ⅳ. 私にとっての「新しいぶどう酒は新しい革袋へ」

 先日、自然豊かなところを歩いていましたら、道の横に綺麗に咲いているアザミの花に目が留まりました。とても美しい。しっかりと咲いている。喜んで咲いている。創り主なる神さまを讃美している姿として、私の目に映ったことです。

以前、山道を歩いていてそんな小さな花を見つけた時は、〈こうした所に咲いている花は誰の目にも留まることもなく、枯れていくのだろう…〉と、そう思った時に、何か悲しい、そしてその花に対して「気の毒な思い」を持ったことを思い出しました。そしてふと、「誰の目にも留まらない」、裏を返せば、誰かの目に留まることが、私にとってとても大切だったのだなぁ、と私の心の中にあった「物語」に気づかされました。

ヘンリ・ナウエンが次のようなことを語っています。

“多くの声が私たちの注意を促します。「おまえがよい人間だということを証明しろ」と言う声があります。別の声は「恥ずかしいと思え」とささやきます。また「誰もおまえのことなんか本当には気にかけちゃいない」と言う声もあれば、「成功して、有名になって権力を手に入れろ」という声もあります。

けれども、これらの非常にやかましい声の陰で、静かな、小さな声がこうささやいています。「あなたは私の愛する者、私の心にかなう者」と。それは、私たちが最も聞くことを必要としている声です。しかしその声を聞くには、特別な努力を要します。孤独、沈黙、そして聞こうとする強い決意を必要とします。

それが、祈りです。それは、私たちを「私を愛する者」と呼んでいる声に耳を傾けることです。“

アザミは、私に気の毒がられようが、あるいは美しさを賞賛されようが、そうしたことに関わりなく、真っすぐに主を讃美し咲いている。それは、日常、周囲の、非常にやかましく、大きく、響き聞こえて来る様々な多くの声の中にあって、ナウエンが「私たちが最も聞くことを必要としている声」と表現した、静かで、小さく囁く「あなたは私の愛する者、私の心にかなう者」という神の声を強い意志をもって聞き続けていたのだと思わされされたことでした。

私たちを取り巻く世界から、今年も様々な声が聞こえて来ます。また自分自身の中からも囁きが聞こえてくることでしょう。しかしそうした中で、愛する神さまの御声を聴くために、まずは神さまの御前に出て、神を礼拝する時が「ウィズ・コロナ」の時代に入った今でも、いや、今だからこそ、大切になってくるのではないでしょうか。そのことを再吟味させていただき、私にとっての「新しいぶどう酒は新しい革袋へ」を考える一年にさせていただきたいと思います。 

「神よ、変わることのないものを守る力と、変えるべきものを変える勇気と、この二つを識別する知恵を与え給え」とニーバーが祈りましたが、この祈りを、私たち一人ひとりの祈りにさせていただきたい。識別の知恵を神さまから頂きたいと願います。

お祈りします。

カテゴリー
クリスマス礼拝 主日共同の礼拝説教

神に栄光、地に平和

<クリスマス礼拝>
松本雅弘牧師 説教要約
イザヤ書33章2-6節
ルカによる福音書2章1-20節
2022年12月25日

Ⅰ.信仰をいただいたことの恵み

クリスマス、おめでとうございます。クリスマスを迎え、改めて思いますのは、信仰を持つということは、考えてみれば、とても不思議なことなのではないでしょうか。信仰をいただきイエスさまを愛する者になること、言い換えれば、イエスという方と関わりを持つことです。これは本当に不思議であり、恵みでもあります。
今日、こうして共にクリスマスの礼拝を捧げているお一人おひとりにとっても、それぞれに与えられたお導きの不思議さを振り返ることができるのではないでしょうか。

Ⅱ.天使の知らせた福音

さて、福音書記者ルカは、クリスマスの出来事を淡々と事実だけを伝えているように見えますが、実はとても大切なことを伝達しようとする彼の意図を感じます。ルカが語っていることは、「ダビデの町」と呼ばれたベツレヘムで生まれた、イエスという名の赤ん坊こそ、私たちにとっての「真の王/メシア」なのだという信仰を明らかにしている点です。この点についてルカは、そしてもう一つ、ルカが伝えたかったのは「イエスの誕生を当時の人々は誰も知らなかった」という事実です。
当時は、ローマ皇帝アウグストゥスの時代です。その治世は長きにわたって平和が続きました。一般に「アウグストゥスの平和」と呼ばれます。人々は、「戦争のない、こうした平和な状態が続くのは、皇帝アウグストゥスのお蔭なのだ」と、彼を「救い主」と呼び、「神」と崇める人々も出たそうです。それ故、そうした皇帝アウグストゥスの誕生日を「福音」と呼んだ人々もいました。
そうした中、ルカは「今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった」。ここでルカは、当時、皇帝アウグストゥスを呼ぶ時に用いていた「救い主/メシア」の「呼称」を「イエス」に当てて使っている。飼い葉桶に眠る赤ん坊を指さしながら、「アウグストゥスではない、こちらのお方こそがまことの救い主/メシアなのだ。ダビデの町に誕生し、布にくるまって飼い葉桶の中に寝かされている乳飲み子こそ、真の皇帝なのだ。最強の王、名君と褒め称えられた皇帝アウグストゥスの治世に、実は、もう一人の王、いや真の王が誕生した。この方こそメシア/キリスト・イエスなのだ」、そう確信を持って記しているのです。

Ⅲ.福音書記者ルカによるスクープ記事

ところで現在、聖書外の文献や最新の考古学の裏付けによれば、この時の「住民登録」がシリアで実施されたのは紀元前7年、もしくは紀元前4年頃なのではないか。したがってイエス・キリストは紀元元年を遡ること7年前、もしくは4年前にベツレヘムで誕生されたのかもしれないと考えられるようになってきています。
さて、そうした中、この福音書を読む時に、ルカが私たちの目を向けさせようとしている点があります。それはアウグストゥスによる世界規模の歴史的人口調査が実施される最中に、世界の片隅で、本当にひっそりとした夜に、もう一人の王、いや真の王である救い主イエスが誕生した。当時、人々は皇帝アウグストゥスの力を称賛し、その平和を喜んだ。だから彼の誕生日を「福音」とまで呼んでお祝いしていた。しかし、その同じ時、その同じ世界にもう一人の王、いや真の皇帝として「イエス」という名のメシア・救い主が誕生した。当時の誰も知らない。それ故、誰からも祝われない仕方で誕生した。その出来事を歴史的出来事としてスクープした新聞記者のように、「ところが、彼らがそこにいるうちに、マリアは月が満ちて、初子の男子を産み、産着にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである」と興奮を抑えつつ、しかし確信を持ってここに記録しているわけなのです。

Ⅳ.「神に栄光、地に平和」

最スクープはさらに続きます。その知らせを受けた最初の人が羊飼いたちだったというのです。「羊飼い」、彼らは最初から住民登録の対象外の人でした。だから世間が人口調査でごった返している最中にいつもと変わらずベツレヘムの野で羊の番をしていたのです。
ではなぜ神は、最初に彼ら羊飼いたちに御子の誕生を知らせたのでしょうか?結論を言えば、誰よりも彼らこそ、一番イエスさまを必要とする人たちだったからでしょう。ルカは、主イエスの誕生に飼い葉桶が使われた理由として「宿屋には彼らの泊まる所がなかったから」と伝えます。「泊まる所がなかった」とは、「迎え入れてはくれなかった」ということです。これは日常的に羊飼いたちが経験していたことです。
イエスさまがおられた場所は家畜小屋でしたから、きっと臭かったに違いない。しかも「飼い葉桶」の中に寝かされたわけですから。考えてみれば「飼い葉桶の臭い」こそ羊飼いが身にまとっていた「香水」だった。羊飼いたちからしたらホッとできるような香りだった。羊飼いたちが恐れることなく近寄ることができるように、、「野原の香水」をたっぷり浴びるように、家畜小屋の飼い葉桶に生まれて来た。しかも赤ん坊の姿です。神さまって何と優しいお方なのでしょう!
イエス・キリストはひっそりとお生まれになりました。それは、ひっそりと生きることしかできない人、片隅にしか居場所を見つけることができない、私たち一人ひとりの救い主になるために、忘れ去られるような仕方で、本当に静かに生まれてくださったのです。
そして、羊飼いたちに喜びの知らせを告げた天使たちは、「いと高き所には栄光、神にあれ/地には平和、御心に適う人にあれ。」と歌ったのです。
今年二月末からのロシア軍のウクライナ侵攻が今も行われています。二週間ほど前に、ロシア国内の空軍基地がドローンの攻撃を受け、その結果、三人が死亡、軍用機二機が破損したという報道がありました。それに対する報復とも思える爆撃が現在ウクライナで続いています。この危機に乗じて、あれよ、あれよという間に、私たちの国でも、増税による軍事費の増額が閣議決定され、今まで積み上げてきた安全保障に関する合意が、あっという間に骨抜きになってしまいました。何か危うさを感じます。
預言者イザヤの時代、当時、イスラエルの周囲にはたくさんの強国があり、イスラエル国内世論は、「自分たちは他の国に負けないくらい国力を増強し、いざという時に備えなければならない」というもので、そう考える人が大勢いました。ところが、イザヤは「神の御心に従って、剣を鋤に、槍を鎌に変えるように!」と人々に訴えたのです。
子どもの頃、近所に鍛冶屋さんの工房があり、職人さんが燃えさかる炉に向かって一生懸命仕事をしていました。鉄の棒を炉に入れ、真っ赤になったところで、ハンマーで何度も何度も、丁寧に叩いていくうちに、その棒が新しい道具に生まれ変わっていくのです。
この時イザヤが使った言葉は、私にとって、そうした鍛冶屋さんの仕事風景を思い出させる言葉です。「剣を鋤に、槍を鎌に変える」。武器を打ち直し、別の物に変えてしまう。そのためには一度炉の中に入れなければなりません。つまり根本的な変化、私たちの考え方に変化が起きることが、どうしても必要となります。
イザヤは「剣を鋤に、槍を鎌に変えなさい」と語り、「もはや、戦うことを学ばない」とも言い切りました。言い換えればそれは、「武器に頼らない、もっと別のやり方・新しい考え方の枠組みで平和を実現することを学んでいこう!探っていこう!」と呼びかけました。
聖書を読みますと、その後ゼカリアという預言者が現れました。イザヤから平和のバトンを受け継ぎ、「エルサレムの広場に、老爺老婆が杖を持って座し、わらべとおとめが広場に溢れ、笑いさざめく」と、ごく普通のありふれた日常を語りました。実はこの姿こそゼカリアが示した「神の平和」です。
飼い葉桶に誕生されたイエスさまは成人し、人々に向かって「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」と語られました。
「神の子」とは神の愛を知っている者のことです。私たちは愛される経験をする中で愛の人に変えられていきます。人に優しくされ、人として尊重されていく時、不思議と人に対して優しくなれる。人を大切にする人になっていくものです。逆に、おどされ、恐怖心をあおられ、力で抑えつけられれば、心は卑屈になります。最初は我慢していますが、復讐心や敵意を心の内に燃やすことだって起こるのです。今、私たちの世界は、正にこの報復の連鎖に巻き込まれています。
神さまは、この悪の連鎖を断ち切るために独り子イエスさまを飼い葉桶に誕生させてくださったのです。そのイエスさまを心に迎え入れることによって、私たちの内面を神の愛、神から来る平安で満たそうとされたのです。
私たちは、この王なるイエスさまの平和を実現する闘いに参与するように招かれています。その光栄と喜びを今日、もう一度、共に確認し、「いと高き所には栄光、神にあれ/地には平和、御心に適う人にあれ。」と賛美しながらの歩みを進めて行きたいと願います。
お祈りします。