カテゴリー
主日共同の礼拝説教

み翼のかげに

松本雅弘牧師
マタイ福音書23章25―39節
2020年7月5日

Ⅰ.はじめに―前回の復習

マタイ福音書23章から3章にわたって記されていく、主イエスの教えに耳を傾けています。それは十字架でのご受難を目前にした教えで、言わば遺言のような教えだとお話してきました。そこで繰り返される言葉が、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたちは不幸だ」という言葉でした。「ウーアイ(不幸だ)」という言葉が7回繰り返され、さらに「偽善者」、「ものの見えない」という言葉も繰り返し出て来ます。
日ごろから主イエスは、律法学者、ファリサイ派の人々の日常を観察し、彼らの行動の背後にある動機が「すべて人に見せるため」であることを見抜いておられた。だから尊敬され、称賛され、褒められることが大好きなので自分を自分以上に大きく見せようとしていると言われる。そしてその根本的原因は神さまと親しくないからだと主イエスは考えておられたようです。

Ⅱ.律法学者、ファリサイ派の姿と重なる私たちの姿

今日の箇所でも主イエスの厳しい批判の言葉が続きます。
「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる」(23:25-26)。
律法学者、ファリサイ派の人々にとって大切なのは人の目にどう映るかです。さらに続きます。
「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようなあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている」(23:27-28)。
当時の埋葬は土葬でした。当然、墓の中で遺体は腐敗する。宗教的にも死体は不浄とされていましたので、仮にお墓に触れたり、足が付いたりすれば、その人の体は汚れると考えられていました。そのため墓を白く塗ったようです。そして最後7つ目の批判の言葉が語られていきます。
「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。」(23:29-30)。
記念碑はそれによって、「私もこの人物と同意見だ。その人物と同じ考えを持つ人間だ」と、世間に示す意図があると言われます。でも主イエスは「その人物と正反対の悪事を働いているではないか。それこそ偽善の極みである」。「こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している」(23:31)と糾弾なさる。
主イエスの告発と嘆きが頂点に達し「先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」(23:32-33)と言われるのです。
さて次第に、私たちの心は重くなってくる。では、私たちはどうしたらいいのでしょうか。

Ⅲ.み翼のかげに

今日の説教に37節から取って「み翼のかげに」と題をつけました。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」と、主イエスは嘆いておられるのですが、その嘆きで終わっていない。「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」と続くのです。
旧約の歴史を振り返ると、主なる神は幾度となく預言者を遣わしますが、神の民は預言者を次々と殺すのです。その事実に変わりはない。主イエスはその事実から目を背けるのではなくその事実に目を向けさせつつ、にもかかわらず「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」と、イスラエルの民に、そして私たちに対する神さまの御思いを知らせてくださったのです。
牧師館の2階の奥の部屋は備え付けの本棚のある書斎になっているのですが、窓の横にある戸袋に、毎年、ムクドリが卵を産むのです。春になって卵がかえると、雛は真剣になってピーピーと、親鳥が餌を持ってくるのを待っています。それ程までに親鳥の保護なしに生きることが出来ないことを本能的に分かっているからだと思います。そして同じく親鳥の本能でしょう。雛を一生懸命守ろうとする。以前、一羽の雛が戸袋から外に出ようとしたのでしょう。首を戸袋のところに挟んで死んでしまった。巣が空になった後、死んだ雛を見つけたことがあります。親鳥は雛たちが自分勝手に巣から出て行こうとするのを、何度も何度も、自分の羽の下に集めたのだと思います。
翼の下にいるのは雛です。親鳥の翼の外側は外敵から雛を守る堅い羽で覆われ、内側は温かい柔らかな羽で包まれていることです。そうした主の御力と愛にあなたも包まれ守られています。そうです!救いとは、慈しみ深い神さまのみ翼のかげに迎え入れられることでもあります。

Ⅳ.「両手いっぱいの愛」をもって

でも、私たちは、そのみ翼のかげにじっとしているだろうか。勿論、冷静な時には、〈そうありたい。そうしたい〉と思います。しかし現実はどうかと言えば、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」の後に続く肩を落とすようにして語られた主イエスの言葉、「だが、お前たちは応じようとしなかった」のです。
主なる神が、預言者を通し、聖書の御言葉を通し、ある時は、目覚まし時計が急に鳴り響くように、想定外の出来事を通し、神さまは私たちをみ翼の陰に集めようとされた。でもそれに気づかない。その招きに応えない。自分の思いを貫いて生きているのです。
ですから、38節、「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」、これは人間が自ら選んだ道の結末を予告する言葉ですが、「結局は、滅びしかないのだ」、主イエスはおっしゃるのです。
ただ、本当に幸いなことに、神の救いはそれで終わらない。しぶといのです。最後の最後まで、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」とおっしゃるように集め続ける。それが39節の御言葉にも現れています。39節。「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」そうです。十字架のことです。
ある牧師が語っていました。「主イエスが最後に死んでいきながらお見せになった姿は、鳥が翼を広げてその下に雛を集めるように、両手を大きく広げて見せたお姿だったのではないだろうか、私たち罪人を守ろうとする姿ではなかったでしょうか」と。両手を広げたら自分を守ることはできません。一番無防備な姿勢です。でも、その一番無防備、両手を広げたままの姿で、何をされたかと言えば、私たちを守ってくださった。しかも、私たちを守るために、その十字架の上から、次のような執り成しの祈りをささげてくださったのです。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)
子どもたちが歌う賛美歌の中に、「両手いっぱいの愛」という賛美歌があるのを御存じでしょうか。

ある日イエス様に聞いてみたんだ
どれくらい僕を 愛してるの?
これくらいかな? これくらいかな?
イエス様は黙って微笑んでる
もいちど イエス様に聞いてみたんだ
どれくらい僕を愛しているの?
これくらいかな? これくらいかな?
イエス様は優しく微笑んでる
ある日イエス様は答えてくれた
静かに両手を広げて
その手のひらに くぎを打たれて
十字架にかかってくださった
それは僕の罪のため ごめんね
ありがとう イエス様

私たちは、主イエスが大きく両手を広げておられるこの十字架のもとへ帰っていきたい。私たちを偽善から守るもの、自分を大きく見せる生き方から自由にしてくれるものは、十字架に示された神の愛、いや愛の神以外にありません。一番安全な主のみ翼の陰に、いつもとどまり、恵みと平安の内に、この1週間、歩んでいきたいと願います。お祈りします。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

本当の不幸とは何か

松本雅弘牧師
マタイによる福音書23章13―24節
2020年6月21日

Ⅰ.山上の説教との関係性

先週からマタイ福音書23章から25章の3章にわたって記されている主イエスの教えに耳を傾けています。それは十字架でのご受難を目前にした主イエスの教えで、言わば遺言のような教えだったと思います。そこで繰り返される言葉が、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」という言葉でした。実はこの表現が7回繰り返されています。山上の説教の語り出しでは、8回の「幸いなるかな」、祝福が語られているのに対して、この23章では「7つの不幸」を語っておられます。
こうしたことからも23章から始まる主イエスの教えを読む人々が、山上の説教と重ね合わせるようにして読んできた歴史があったようです。
実際にこの教えが語られた時期は、過ぎ越しの祭りの時期でした。春の季節です。それこそガリラヤ湖畔に集った大勢の人々相手に語られた山上の説教も、ちょうどこの季節だと言われています。私たちは、山上の説教を聞く時、喜びに満たされる。でも、この23章から始まる一連の不幸の言葉を前に、自らの罪の現実を見せつけられ、暗い思いにさせられるのです。では一体何が不幸なのか。なぜ不幸なのかを考えてみたいと思うのです。

Ⅱ.なぜ不幸なのか

高座教会の長老、また幼稚園の園長を長年務められた田中清隆先生は、「ルツ会は教会の門だ」とよくおっしゃいました。今は「ノア会」と呼び名が変わりましたが、教会の女性会が主催する、幼稚園の保護者、求道者のための伝道集会です。
聖書は、ルツ会、もしくはノア会を通して導かれた教会という信仰共同体自体は、まさに天の国の入り口のような役割を果たすことを教えています。ところがその教会で仮に牧師や長老、教会員たちが、聖書の言葉を語るだけで、御言葉に生きていない、見ばえばかりに気を遣っているだけだとするならば、「人々の前で天の国を閉ざす」ことになる、と主イエスはおっしゃるのです。
ここに出てくる「天の国」とは、別の福音書では「神の国」となっています。主イエスが言われる「天の国、神の国」とは死んでから行く場所ではなく、正確には「神さまのご支配」のことです。主イエスが、「天の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語られたメッセージとは、「神のご支配が今、ここに到来した。方向転換して、神さまのご支配を受け入れるように」というメッセージでした。
確かに私たちは、「天の国/神さまのご支配」を肉眼で見ることはできません。でも信仰の目をもって見ていく時に、この世界に慈しみ深い神がおられ、そのお方が今日も生きて働き、全てを支配されていることを確認しながら生きることができる。ところが、「律法学者たち、ファリサイ派の人々は、人々の前で天の国を閉ざし、自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。人々が信仰を持つ道を閉ざす、神さまのご支配を認めさせない、だから不幸であり、災いなのだ」と言われたのです。

Ⅲ.天の国から遠ざける行為

さらに不幸が語られていきます。それは誓いについてです。「あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか」と。
神殿の黄金とは、神さまに捧げられた物です。その黄金にかけて誓いをしたら、必ず果たさなければならない。でも神殿という建物それ自体は、人間が建てたものだから、それにかけて誓うならば、果たさなくても大丈夫。何か分かったような、分からないような理屈です。実際に、彼らがこう教えていたかどうかは分からないと、現代の聖書学者たちは口を揃えて言います。ここで主イエスは、誰が聞いても何か変、どこかおかしいと思うような理屈を、敢えて語ることで、律法学者、ファリサイ派の人々がしていることはこういうことなのだ、と際立たせて見せたようなのです。
そして最後の一つ、捧げ物についてです。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである」。
確かに律法では土地の産物の十分の一を主に捧げることが求められていました。薄荷、いのんど、茴香というのは香辛料の類です。ただ律法にはこのような小さい物に関し十分の一を捧げるという規定を見つけることはできないのですが、彼らは細かい物まで徹底して十分の一を捧げていました。ただそのように重箱の隅をつつくようなことをしながら、「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている」彼らの姿勢、的を外した生き様をご覧になって、「不幸だ、災いだ」と言っておられるのです。

Ⅳ.何が不幸で、何が幸いなのかを知るために

ところで、ここまで「不幸である」という言葉に注目しましたが、実は「偽善者」、そして「ものの見えない」という言葉も繰り返し出て来ます。この3つは深い関係があるようなのです。「偽善者」とは「役者」という言葉から生まれました。舞台の上でその役柄の人のように演じて見せるのです。同じように偽善者もその人自身はそうでないのに善人を演じて見せるのです。ところが、ここで主イエスが律法学者、ファリサイ派が偽善者だという時、今お話したような意味と少し違うようなのです。普通、役者は役柄と自分を区別し演じるのですが、律法学者、ファリサイ派の人々は「ものが見えない」がゆえに自分の悪さに気づいていない。むしろいつの間にか自分が善人であり、信仰深い者であるかのように勘違いしているのです。
主イエスは日ごろから彼らの日常を観察されました。額の小箱を大きくし衣服の房を長くし、宴会や会堂では上座を求めるという行動を生み出す彼ら自身の内面を見抜いておられたのです。その動機は「すべて人に見せるため」だと言われます。見せようとするのが好きだからとおっしゃるのです。
では、何故、彼らはそうするのか。それは、神さまを知らないからだ、と主イエスは言われるのです。神との生きた関係があれば、そうした生き方には決してならない。本当に恐れるお方を恐れていたら人の目から自由にされる。安心して生きることができる。人の目を気にし、人の目にどのようにしたら大きく映るのかを考えて生活している律法学者、ファリサイ派の人々は神が見えていない。神との関係抜きで単なるお務めのように宗教行事や宗教生活をこなしている。信仰が全然分かっていない。だから不幸だと言われるのです。
宗教改革者のマルティン・ルターの妻ケイティの話です。ある朝、ケイティは喪服を着て夫ルターの前に現れました。驚いたルターは「誰が亡くなったのか」と訊くと、彼女は「あなたの神が亡くなったのです」と答えたそうです。ルターは「馬鹿なことを言うな。神が死なれるわけがないじゃないか」と言うと、彼女は「神が生きおられるなら、なぜあなたは神が死んでいるかのように振舞うの」と返したそうです。
神は生きて働いておられるのです。もし生きて働いておられ、私たち一人ひとりに深い関心を持っておられる神を心から信じていたら、あなたの生き方にどんな変化が起こると思いますか。私たちの生き方は本当に変わってくるのではないでしょうか!
律法学者やファリサイ派の人々は、神のことを「大事だ、大事だ」と口では言います。でも生活を見るならば、最後に大事にしていること、頼りにしているのは、結局はお金であったり、仕事であったり、今、置かれている人間関係の中で、人が自分をどのように見てくれるのか、そちらの方が断然、優先されるのです。その人の、時間の使い方、お金の使い方、気の使い方を見れば一目瞭然でしょう。神よりももっともっと優先している物や人がいる。そして突き詰めていけば、結局、この私、自分です。それこそ、誰かに喪服を着て出て来て貰い、面と向かって「あなたの神が死なれました」と言われるまでは気づかないでいることはないだろうか、と思うのです。
詩篇18編でダビデは歌います。「主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの神をあがめよ」と。ダビデは「主は生きておられる。そのことを心から信じていますか」と、この詩篇を通して訴えています。そして本当にそのことが分かったら、見えてくるものがあります。それは、何が本当に不幸で、そして何が幸いなのか、です。私たちは幸いな道を選び取るように召されています。お祈りいたします。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

主イエスのお姿を鏡として

松本雅弘牧師
マタイによる福音書23章1―12節
2020年6月14日

Ⅰ.「マタイ福音書23章から25章」の位置づけ

「あなたたちはメシアのことをどう思うか」。この問いかけを巡っての問答ののち、今日からお読みします、マタイ福音書23章から3章にわたり、主イエスの教えが延々と語られていきます。そして26章からは主イエスが十字架に掛けられ、殺される受難の記事が続くのです。ですからこの後続く主イエスの教えは、死の直前に語られた、いわば遺言のような教えです。そしてその矛先が、律法学者、ファリサイ派の人々に向けられています。

Ⅱ.律法学者、ファリサイ派とは

当時、安息日になるとユダヤの人々は会堂で礼拝し御言葉を教えられていました。そこでの教師が律法学者でした。そして今日も登場する「ファリサイ派」です。ファリサイ派の「ファリサイ」とは、律法学者の中のあるグループの名称で、「区別された者/分離された人々」という意味のあだ名でした。大国の支配が続く中、信仰を守ること自体に失望したユダヤ人や世俗化していく人たちの中、律法に忠実でありたいと願い実践していた人々でした。ファリサイ派と言うと、福音書に親しむ者たちからすると、主イエスの敵対者、「悪者」のように思われがちですが、実際のところは、ユダヤ社会における模範生だったわけです。

Ⅲ.見せるための信仰

そのような意味で、真面目なファリサイ派の人々もいたことでしょうが、しかし今日、ここでも主イエスは、そうした律法学者、ファリサイ派の人々を厳しく批判しています。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らの言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」。「彼らの言うこと」は守り、行いは見倣ってはならないとおっしゃるのです。見倣ってはいけない具体例が2つ挙げられています。1つ目は、「聖句の入った小箱を大きくする」ということ、もう1つは「衣服の房を長くする」という行為でした。
この2つ、いずれもが彼らの信仰を支える手段であったのですが、いつのまにか、自分たちの立派さを示すパフォーマンスの手段になってしまったのです。
主イエスは、日ごろから、彼らの様子を観察し、その行動を生み出す彼らの内面を見抜いておられたのでしょう。周囲から「先生、先生」と持ち上げられることで、いつの間にか傲慢になっていく姿がありました。実際、私たち牧師も「先生」と呼ばれます。神学校を卒業するとすぐ「先生」と呼ばれ始める。実態が伴っていないのに、「先生、先生」と呼ばれ続けますと、いつの間にか勘違いが起こり高慢になることがあります。
聖書における「高慢」の反対は「謙遜」ですが、謙遜とは背伸びをせずに等身大の自分であることを認めて生きる心の姿勢を指す言葉です。ところが、「先生」と呼ばれ始める。でも自分を顧みると内実が伴っていないことに気づく。そうした自分を隠し一生懸命に背伸びをし、できるだけ自分を大きく見せ、自分は高い所に立っているかのようにアッピールしようとする誘惑が起こるのです。そうした姿勢を戒めるように、「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とおっしゃったのでしょう。

Ⅳ.主イエスを鏡として生きる

では、律法学者、ファリサイ派の人々が陥りやすい過ちとは何でしょう。それは「そうすることは、すべて人に見せるため」でした。何故、見せるのかと言えば、それが好きだからだというのです。尊敬され、称賛され、褒められることが大好きなので、だから自分を大きく見せようとしている。さて、ここまで来て思います。これは、律法学者やファリサイ派の人々だけの課題ではなく、私たちにも当てはまるのではないか、と。
3百年ほど前のイタリアの話です。ある教会に大変優れたオルガニストがいました。彼の奏楽、伴奏の美しさ、素晴らしさに教会員は心打たれ、時には礼拝中にも拍手が起こるほどだったそうです。当然ですが、彼のことが方々で話題になっていきました。ある日、街の有力者を招き、オルガンコンサートが開かれました。オルガニストの彼は会衆席を眺め、どのような人たちが集まっているかを確認した上で、最高の演奏をと意気込んで弾き始めました。
ところが、いつものように弾けないのです。思うように音が出ない。結果、コンサートは散々でした。集まった人達も期待が大きかっただけに失望し、ある人は呆れ顔で帰っていきました。演奏会が散々。この者の顔に泥を塗り、築き上げた名声を一瞬の内に失わせた張本人のふいご手のアンセルモに文句を言いに、オルガンの裏に回って大声で呼び出すと、出て来たのは見知らぬふいご手でした。「アンセルモはどうした!」と訊くと、「今朝、亡くなった」との答えが返ってきたのです。それを聞いた瞬間、オルガニストの背筋にビリビリッと震えが走ったそうです。
これまで自分の音楽こそ、神への最高の賛美の献げ物だと思っていた。自分一人でやって来たと思っていた。でも、この時、気づいたのです。自分はいつも人を喜ばせ、人から見られ、称賛された。口では「神さまを賛美します。神さまのためです」と言っていたけれども、いつの間にか人の注目を勝ち取るために弾いていた。どれだけの人たちを感動させたか、どれだけの人数の人を集められたか、自分を見てくれているかの方が一番大事。結局は自分の栄光のためにやっているに過ぎないことを知らされ、背筋に戦慄が走り、深い悔い改めに導かれたそうです。
私たちの多くはオルガニストではありませんが心当たりがあるのではないでしょうか。私がやっていることを人が認めてくれるかどうかが、自分にとって切実な問題なのです。でも往々にして周囲からは決して期待通りのレスポンス、フィードバックは返って来ません。その結果、私たちは苛立ち、もっとエスカレートしたり、場合によっては、認めてくれない周囲を責めるのです。
主イエスがヨルダン川で洗礼をお受けになった時、天から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という声がありました。この御声が宣言された時、周囲を驚かせ、感動させるような御業は何ひとつなさっていません。勿論、十字架も復活もまだ起こっていなかった。仮に、父なる神さまが、福音書に出て来るような主イエスの宣教の働き、悪霊を追い出し、病人を癒し、ご一緒に読んできたような、マタイ福音書に出てくる数々の深い教えを語られ、5千人の人々の胃袋を僅かなパンと魚で完璧に満たすような奇跡、死後4日も経過し臭い始めたラザロを蘇らせる、とんでもないような御業をご覧になった結果、「ああ、やっぱり、これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者だ!」とおっしゃるのだったら分かるのです。
しかし最後にぶどう園にやって来て1時間しか働かなかった人を最初に呼び出し賃金を渡したいと願う神さまは、どうしても納得いかないのです。何故なら理屈に合わないからです。でもイエスさまは、それが神の恵み、神の愛だ、とおっしゃる。私たちの理屈では、救われ、神の子にされるには、それなりの理由が私の側にあるはずだと、考えているからからです。
洗礼をお受けになったあと、主イエスは荒野に導かれ、40日40夜、父なる神さまと深い交わりを経験されました。そして悪魔の誘惑をお受けになるのです。その誘惑は普遍的な誘惑だと言われます。所有、会社や仲間からの評価、そして影響力の3つです。この3つをどれだけ手にしたかで人間の価値が決まる。以前お話した「我持つ。ゆえに我あり」という世界観です。でも聖書は、「それは嘘です!」とはっきりと言うのです。「神、我を愛する。ゆえに我あり」だ、と。
神さまから離れ、神さまを神さまとして礼拝せず、崇めることをしないならば、本来、造り主である神との交わりを通していただく、そのお方からの評価、そのお方からの称賛、そしてすでに与えられている、必要なすべての物が、1つも視界に入らず、その結果、今日の律法学者やファリサイ派の人々のように、自分を大きく見せずには生きていけない、周囲からの褒め言葉ばかりを見つけては安心するような生き方。そうしたものを少しでも見ること、聞くことに自分の存在をかけてしまうような生き方にならざるを得ない。でも、そうした生き方は裏を返せば、神さま抜きの自己実現、自分を神とする生き方なのです。
主イエスはおっしゃる。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」。これこそが、私たちが従うべき、主イエスご自身の生き方、私たちの鏡とすべきお姿なのです。お祈りいたします。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

私たちを救うメシアはだれか

松本雅弘牧師
マタイによる福音書22章41節―46節
2020年6月7日

Ⅰ.「あなたたちはメシアのことをどう思うか」

今日は本来ならば洗礼式が行われる礼拝です。しかしコロナの影響で延期となってしまいました。洗礼式の時になされる質問の一つに「あなたは、罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主、主と信じ、洗礼を受けることを心から願いますか」という問いかけがあります。これは今日、主イエスがなさった問いかけ、「あなたたちはメシアのことをどう思うか」という問いかけと共通したものです。

Ⅱ.油注がれた者への待望

旧約の時代、「油注がれた者」は特別な職務祭司、預言者、王のいずれかに限られていて、任職の際、その人の頭に油を注がれたのです。こうした視点をもって旧約聖書を読み返しますと不思議な言葉に出あいます。イザヤ書45章1節の「主が油注がれた人キュロス」という表現です。キュロスとはペルシャ帝国の王です。
イザヤは異教徒であったキュロスが油注がれた者、メシアだと語っているのです。理由は彼がユダヤ人たちをバビロン捕囚から救い出すのに用いられた神の器だったからです。彼は非常に研究熱心で、「覇権を掌握した大国がなぜ滅ぶのか」という問題意識をもって歴史を調べました。その結果「被征服地の神々を怒らせたからだ」との結論に至ります。そこでキュロスはバビロンに捕囚にされたユダヤ人たちを解放しエルサレムに帰還させ、神殿を再建させ、彼らが信じる主なる神にペルシャ帝国の繁栄を祈ってもらうことをさせるのです。
確かに預言者イザヤはキュロスを「油注がれた人」と呼びましたが、所詮彼は世俗の王です。いざとなれば権力や武力に訴えて物事を進めるに違いない。本当の意味で自分たちイスラエルを信仰の祝福へとは導いてくれない。そうしたことに気づかされていく中、キュロスに代わる、真のメシアへの待望がユダヤ人の間に起こっていったと言われます。一方、主イエスの時代はローマ帝国による支配と抑圧です。ユダヤ人の指導者層の一部、先日登場したサドカイ派などはそのローマと結託し同胞ユダヤ人から搾取していたのです。
ですから、いつかダビデに代わるメシアが現れ、エルサレムに再び繁栄を取り戻したい。いや、メシアは王・祭司・預言者の三職を兼務し、自分たちユダヤ人のために神に執り成し、自分たちを神の民として整えるために御言葉で養ってくれるような、真の王なるメシア・キリストを待望していたわけなのです。そうした背景がありました。

Ⅲ.ダビデ王を超えるお方

さて、ここ数週間、主イエスとユダヤ人指導者たちと論争の箇所を読んでまいりました。問いかけられた質問に対して、主イエスご自身も繰り返し問い返す。すると今度は考えに考え抜かれ質問を準備し主イエスを問い詰める人々が登場する。そして最後は愛についての質問でした。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」。
これに対して主イエスは、彼らの思いを超えて本当に大切な神の愛を説かれたのです。私たちはあるがままで神に愛されている。あるがままで神に愛され、喜ばれていることを知る中で、私自身をそのままの姿で受け入れることができるようになってくる。そして同様に神が隣人のことを大事にしておられることを知る中、隣人を愛する者として変えられていく。愛するよりほかに生きる道はないのだと説かれ、その延長線上、究極にある問いが、今日の、「あなたにとってメシア・キリストはだれか」という問いでした。
するとファリサイ派の人々は即座に「ダビデの子です」と答えました。これは当時の人々のメシア信仰の中身を表明する言葉でしょう。「来るべきメシアはダビデの子孫より生まれる」と信じていたのです。ところがこれに対して主イエスは、ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか、と問題提起をされたのです。当時の人々はダビデ王を理想化していました。その結果、ダビデを超える存在を考えることができなかった。主イエスが問題にされたのは、そこだった。
「ファリサイ派の先生方、あなたがたは、メシアを『ダビデの子』と呼ぶことによって、来るべきそのお方の栄光を狭めてしまってはいませんか。『ダビデの子』として限界づけてはいませんか。そのお方は、あなたがたの想像をはるかに超える仕方で来られるのだ」、とおっしゃったのです。本当に皮肉です!そのお方こそ、彼らの目の前にいた、彼らが殺そうと謀っていた、主イエス、そのお方だったのです。

Ⅳ.「金冠のキリスト」

今日は旧約にイザヤ書第53章を選びました。ユダヤの人々は、「メシアは、あのダビデ王、あの栄光の時代が再びやってくる」と待ち望みました。それが当時のユダヤ人たちが考える、最高のメシア・キリスト像でした。ところが実際のメシアはイザヤ53章に出てくるようなお姿で来られた。ちっともメシアらしくない。王様らしくない。「見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。…」。
ですから、ここに出てくるファリサイ派の人々もそうでした、メシアとして来られたイエスを「軽蔑し、無視し」たのです。ただ、そうしたイエスさまでしたが、それでも一度だけは王様らしい姿があったかもしれません。
この数日前、主イエスは正にメシア、王様として人々の大歓声の中進んでいかれました。エルサレム入城の場面です。でも、そんな時でさえ主イエスはロバに乗っておられたのです。普通かっこいい軍馬に乗り手に剣とかを持つものです。戦いに強いのがメシアである王様でしょう。でも主イエスはロバに乗る、「戦わない王様」なのです。ロバの仕事って何でしょう。いつも重たい荷物を担いで動くことです。主イエスの王様としての務めも、ロバと同じでした。
私は説教の準備をしながら韓国のカトリックの詩人、金芝河(キムジハ)の「金冠のキリスト」という戯曲を思い出しました。こんなストーリーです。
ある会社の社長が多額の寄付を集め街の広場の真ん中に、黄金の冠をかぶった王の姿をした立派なイエス像を、セメントで作るのです。仲間の金持ちや町の役人が毎日のように像の前にひざまずき、「イエス様、あなたは王の王です。教会の為に多くの寄付をしますからどうか私たちを犯罪者や敵から守り、私たちの商売が益々繁栄しますように」と祈りました。夜になるとイエス像のもとに、寒さに震えながら、娼婦、物乞い、そしてハンセン病患者の3人が肩を寄せ合いながら座り、互いに支え合っている。そうしている内に、突然イエス像の口から嘆きの言葉が聞こえてきます。「どうか私を捕虜の身から自由にして、解き放して下さい」。驚いた3人が、「どうすればあなたを自由にすることができますか」と訊くと、イエス像のイエスが答えるのです。
「あなたたちの貧しさと柔和さ、温かい心、不正への怒りは、私を自由にできます。あなたたちの手によって私を解き放ち、あなたと共に歩み、苦しみ、共に立ち上がっていきたい」。
3人は、このイエスの呼びかけに答えて立ち上がります。そしてシスターたちや町の貧しい人たちも加わって、コンクリートを打ち壊そうとするのですが、そこに金持ちや機動隊がやって来て、彼らは逮捕されてしまうと言う話です。
この戯曲は当時韓国の独裁政権と癒着関係のあった一部の教会が、人の苦しみに目を向けず、動こうとせず、逆に人々を抑圧する権力の側に立っていた現実を暴き、教会自体がイエスをコンクリでかため、金の冠をかぶせ、何もできず何も言えない状態にしていることへの痛烈な批判を込めた戯曲です。
福音書に出てくるお姿を見る時、主イエスは人間の中で最も貧しく低い者となられました。多くの苦しみを受けられました。ロバの子に乗って入城し、その後、十字架で殺されていった。「金冠のキリスト」の対極にある「苦難の僕キリスト」です。主イエスは私たちに真の平和をもたらすために来られたと教えます。聖書で平和とは「満ち足りた状態・充足の状態」を意味します。自分と言う小さな範囲が平和であっても、充足の状態ではない。自分の小さな殻の中に留まるのではなく、隣人に開かれた者となるために、主イエスの御言葉の大胆さに揺さぶられる経験が本当に大事なのだと思わされる。主イエスの口からでる神の言葉、いや神の言葉そのものとして、私たちの前に立たれる主イエスから、「あなたはイエスを救い主、主と信じ、洗礼を受けることを心から願いますか」。その問いかけに答えて洗礼を受けた私たちは、告白した通りに生きる者とさせていただきたい。そのお方を救い主として、人生を導く主として従い続けていく者でありたいと願います。お祈りします。

カテゴリー
ペンテコステ礼拝 主日共同の礼拝説教

交わりの回復を求めて―ペンテコステの恵み

松本雅弘牧師
使徒言行録2章1―13節
2020年5月31日

Ⅰ.ペンテコステに起こった聖霊降臨の出来事

ペンテコステ、おめでとうございます。2章1節の「五旬祭」は「50日目の祭り」という意味で、ギリシャ語では「ペンテコステ」という言葉が使われています。2千年前の、このペンテコステの日に、弟子たちの上に聖霊が降りました。私たち教会が聖霊を宿す神殿になった瞬間です。
仮に私たちがこの場に居合わせたなら、弟子たち同様に身体全体で実体験できた驚き衝撃の出来事だったことでしょう。さらに不思議な現象が続いて起こりました。彼らが「ほかの国々の言葉で話しだした」のです。
ただ注意すべきは色々な国の言葉で彼らが語り出したことではなく、何を語ったかの方です。彼らが語り出したこと、それは「神の偉大な業」、神の国の福音です。ここから福音宣教がスタートしたのです。

Ⅱ.復活の主の証人として

先ほどペンテコステは「50日目の祭り」だとお話しましたが、いつから数えて50日目かと言えば、過越の祭りから数えて50日後なのです。この年の過ぎ越しに何があったのかと言えば、主イエスの十字架です。細かく言うならば十字架の後の復活から数えて50日目、主イエスの昇天から数えたら僅か10日後の出来事がペンテコステです。
ところで50日前と言えば、私たちにとっては緊急事態宣言が発出された時期です。人によって感じ方は違いますが、確かに長かったと思います。でも客観的に見たら50日前は遠い昔ではなくつい先日のことです。つまり弟子たちからしたら十字架のショックがまだ覚めないような時期、〈次に捕まるのは、この私〉という思いで戸を締めてじっとしていました。勿論、その3日後、復活の主に出会うまでは、です。ただ福音書を丁寧に読む限り復活の主に出会った後でさえも外の世界に向かっては閉じられたままです。
彼らが都に踏み留まることが出来たのは復活の主から「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた父の約束されたものを待ちなさい」と命じられていたからです。でも本音の部分は身の危険を感じ、怖れで一杯だったのではないでしょうか。しかしそうした彼らの心配や都合にお構いなく聖霊が降り注がれた。その結果が使徒言行録2章に出て来たとおりなのです。
ですから弟子たちは語りたかったから語ったのではありません。本音は逃げ出したかった、怖かったのです。でも聖霊降臨の結果、「霊が語らせるままに」とあるように、彼らに注がれた聖霊が語らせたので語ったのです。そして使徒言行録2章41節を見ますと、この日、3千人もの人々がクリスチャンになり、エルサレムにキリスト教会が誕生したことが分かります。ある人の言葉を使えば、「物凄く劇的で華々しいスタート」でした。
ただこの後の教会の歩みは決して順風満帆ではありませんでした。あまり時間を置かず様々な問題が教会を襲ってきました。教会の中心メンバーのアナニアとサフィラ夫妻が献金をごまかす事件が起こります。教会員数が増加したことは恵みだったのですが、ヘブライ語を話すユダヤ人信者の、ギリシャ語を話す信者への愛のなさが、不公平な配給として表面化しました。そして目を教会の外に移せば、ユダヤ人による激しい迫害の嵐です。殉教者も出はじめるのです。
でも不思議なことに1つひとつの問題を契機に福音宣教の働きが拡がっていく。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」、この主の約束が確実に実現していくのです。

Ⅲ.バベルの塔の出来事とペンテコステの出来事

今日は、「交わりの回復を求めて―ペンテコステの恵み」という題をつけました。旧約はバベルの塔の箇所を選びました。聖霊降臨の出来事が言葉の問題と深く関係しているからです。バベルの塔の出来事は端的に、人間が神抜きの自己実現をはかろうとした出来事です。その結果、言葉が通じなく、心が通い合わなくなった。その後の人類の歴史はこの時の混乱をそのまま引きずっています。
ところが、使徒言行録2章を見ますと、ペンテコステの日に聖霊が降ると、彼らが様々な言語で話し始めました。その様々な言葉をもって「神の偉大な業」、神の国の福音を語っていたのです。

Ⅳ.交わりの回復を求めて

公生涯の最初、主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになりました。すると天が割け、聖霊が鳩のように主イエスに注がれた。聖霊の油注ぎをいただき、メシアとしての歩みが始まりました。まずナザレで説教なさった。そこで洗礼の時に受けた聖霊の油注ぎの意味をお語りになったのです。「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれ人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるため」。そのために「わたしは油注がれ、メシアとされたのだ」。これが神の国の姿、私たちが既に与っている恵みの現実なのです。
福音書を見ますと宗教指導者たちに向かって「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」と断言なさる。天地がひっくり返るような発言です!町の四つ辻に立って、「見かけた者はだれでも、片っ端から連れて来なさい」と神は招いておられる。その招きに応じてやって来た全ての人に、無条件に、「主イエスを着なさい」と救いの礼服を着せてくださる。そのようにして私たちを神の国へ、救いへと導かれるのが主イエスなのです。そしてペンテコステの日に、主に注がれた同じ霊である聖霊が弟子たちの上に注がれた。そして今を生きる私たちの上にも豊かに注がれている。主イエスの始めた回復の働きのバトンが私たちに手渡され、今も継続しているということなのです。
バベルの塔を建てようとした人々の心の中にあった望みは何でしょう?神からの自立、神抜きの自己実現です。ただ問題になるのは、「自立して何になりたいのか、何を実現するのか」ということでした。誰でも私たちは自分を実現したいという願いを持ちます。でもその願いが強ければ強いほど、〈願いがかなわないのではないか〉、〈願いを実現するには力不足なのではないだろうか〉と不安を抱えます。そしてふと周りを見れば私と同様の願いを持つ人たちを発見する。そしていつの間にか他人との競争の中に立たされている自分に気づくのです。
「私は一体誰なのか」、これは人間として根本的な問いです。でもその答えを周囲との比較の中に見出さざるを得ない。その結果、手を携えながら共に生きていくべき周囲の人々を、友や仲間ではなく競争相手、場合によっては敵としてしか見ることが出来ないのです。バベルの塔建設に携わった人間たちの心を支配していた「高さ」や「大きさ」や「強さ」を求める心は、こうした思いだったのではないだろうかと思います。
しかし神さまは人間を愛し、時満ちるに及んで御子を遣わしてくださった。そしてご自身を指し示し人生に神がおられることの幸い、人生に「神との関係という縦軸」がどうしても必要なことを示されたのです。そして人生に「神との関係という縦の軸」をいただくとき、私にしか立つことのできないユニークな立ち位置を初めて発見することができ、本当の意味で安心し満たされた思いを経験する。そして人との比べ合いから自由にされ、隣人と手を携えて生きる準備が私の側に出来てくる。主イエスがそうであったように不思議と「低さ」や「小ささ」や「弱さ」に目が向き、互いに受け入れ支え合えるような横との関係が建て上げられていくのです。
私たちは神さまのもの、神さまのご支配の中に生かされている者です。神と和解させられ、自分とも仲直りし、そして隣人との平和の中に置かれている。この恵みのしるしとして、聖霊が与えられています。聖書によれば、私たちが主イエスを信じることができるのも、聖書をもっと知りたい、祈りを深めたいという願いを持つのも、それは聖霊が働いていることの証拠だと教えています。
この聖霊の恵みの力を私たちがしっかりといただくために、私の側でできること、それは「信仰生活の5つの基本」を通して、ぶどうの木であるキリストにつながることです。そうすれば、ぶどうの木であるキリストを通して、聖霊の樹液が私たちに注がれ、私たちを通して、神の恵みの実が実っていくのです。
今日から始まる1週間も、この聖霊なるお方が共にいてくださり、私たちを通して、豊かに働いてくださることを祈り求めていきたいと願います。お祈りします。