イザヤ書9章1-6節
ヨハネによる福音書3章31-36節
2023年2月12日
Ⅰ.「上から来られる方」とは?
今日の箇所を見ますと、このヨハネ福音書の「書き出しの言葉」同様、主イエスご自身が、どのようなお方であるのかが語られています。
ただ一つ、確認しておかなければならないことがあります。新共同訳聖書ではこの箇所が全部カギ括弧でくくられ、洗礼者ヨハネが語った言葉の続きになっています。
何故、こんなことが起こるかと言いますと、元々のギリシャ語の新約聖書には章や節の区切りもありませんし、まして、会話文を示すカギ括弧もありません。専門家たちが前後関係を考えながら、カギ括弧を添えるのです。実は、これこそがヨハネ福音書の特徴なのですが、洗礼者ヨハネの発言であるのを超えて、いつの間にかヨハネ福音書記者自身の言葉になってしまう。もっと言えば、当時のこの福音書を書いたヨハネが属していた教会の信仰の告白が、ここに示されていると専門家たちは考えるのです。
こうしたことを踏まえて、今日の箇所を読んでいきたいと思うのですが、今日の箇所は、イエスというお方がどのようなお方なのかを語っている箇所と言えるでしょう。
Ⅱ.神の言葉
ところで、この福音書は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ1:1)と語り始め、主イエス・キリストが神の言葉そのもののお方であると語ります。そのことを受け止めるように34節で「神がお遣わしになった方は、神の言葉を語られる」と記しています。つまり「上から来られる方」、すなわち主イエスというお方は、父なる神がお遣わしになった方であるがゆえに、神の言葉をお語りになる方なのだというのです。
ところで、教会ではよく「神の言葉」という表現を耳にします。例えば、私たちは聖書を「神の言葉」と信じています。また主イエスご自身が「神の言葉」であり、「神の言葉」を語るお方なのだとヨハネ福音書は伝えています。さらに、テサロニケへの信徒への手紙を読みますと、礼拝で語られる説教そのものを「神の言葉」と理解していることが分かります(Ⅰテサロニケ2:3)。
ある神学者は様々な意味合いを持つ「神の言葉」について三つの側面から整理します。一つは「肉体を取られた神の言葉としての主イエス・キリスト」、二つ目に「書かれた神の言葉」としての聖書、そして三つ目は「語られた神の言葉」としての説教です。
この後、5章に次のような主イエスの言葉が出て来ます。「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたがたは、命を得るために私のもとに来ようとしない。」(ヨハネ5:39-40)「書かれた神の言葉」としての聖書も、「語られた神の言葉」としての説教も、主イエスが誰であるかを明らかにする。イエスさまによれば、聖書は主イエスを証しする書、主イエスにあって命をいただくために、主イエスへと導くのが神の言葉なのです。
Ⅲ.神の言葉と私たち
ある時、主イエスは都エルサレム、それも神殿の境内で教えておられたことがありました。そこに祭司長や長老たちも居て、教えている主イエスを問いたださずにはいられなくなったことがありました。そして主イエスから返って来る答えが正しいかどうかを、権威者である自分たちが判断しようとしたというエピソードが福音書に出て来ます。
ところが、主イエスは祭司長、長老たちの質問に答えようとしない。逆に主イエスの方が「私も一つ尋ねる」と、権威者である彼らに問い返しました。その結果、彼らの間に議論が始まり、その末に彼らが用意したのは「分からない」という答えでした。
神殿の境内で、主イエスが対峙された祭司長や長老たちにとって、自分たちが基準、権威なのです。そのようにして彼らは判断し、そして最終的に主イエスの問いかけに対する答えは、「分からない」。これが彼らの答えだったことを伝えています。神の言葉ご自身である主イエスがお語りになっているにもかかわらず、それを真正面から受けて立たずにスルーしてしまう。「分からない」、もっと言えば「分かりたくない」、「知りたくない」という姿勢でしょう。これは私たち自身も気を付けなければならないと思うのです。
Ⅳ.「神の言葉」に聴く
高校の時、初めて教会の礼拝に出席しました。今でもその時のことを鮮明に思い出します。案内された席が最前列の真ん中から二つ目の席、その教会では牧師の席が講壇の上にありましたから、牧師と真向かいなのです。ですから初めから終わりまで緊張し通しだったことを覚えています。
その日の午後に高校生会主催の伝道集会があり、同じ高校生なのにどこか違う。ギターの伴奏で共に歌ったゴスペルソングの歌詞にある世界観にとても心惹かれました。それがきっかけで求道生活が始まりました。
〈同じ高校生なのにどこか違う〉と感じた、その違いはどこにあるのだろう、というのが求道のきっかけですが、今から考えますと、礼拝に出席し始め、また聖書の言葉に触れることで、私の心の中に次々と浮かんできた様々な問いがあったので、礼拝に続けて出席できたのではないかと思います。
ただ次第に不思議な経験をしていきました。それは、問いをもって出席し続けている私が、今度、聖書の言葉によって問われてくるのです。「床を担いで歩きなさい」「あなたは私を誰と言うか」。ある牧師が語っていました。「問われていることを知らないと、信仰はよく分からない」と。私の小さな経験からもそうだと思います。問われていることを知って、初めて信仰の世界が開かれてくる。
先週、洗礼者ヨハネの来ていた服装から、創世記の中で、神さまがアダムとエバの為に皮の衣を作って着せてくださったことに触れました。そのことが語られた同じ創世記3章に、とっても大切な神さまからの「問いかけの言葉」が出てきます。「どこにいるのか」、新共同訳聖書では「あなたはどこにいるのか」と問いかける神の言葉です。
カンバーランド長老教会の神学者、ヒューバート・マロウ先生は、この問いかけこそ、旧新約聖書全巻を貫く神からの問いかけである、と語っています。「あなたはどこにいるのか」。私たちが、この問いかけに気づき、振り返った時、そこに両手を広げて私たちを迎え立つ神が待っておられる。そのような意味で、神の言葉は私たちに応答を求める、問いかける言葉だということでしょう。
ある時、主イエスは「蒔かれた種の譬え」を御語りになりました。蒔かれる御言葉の種はみな同じです。一つひとつの種には命が宿っています。では違いはどこにあるのか。それを受け止める者の心の姿勢という「土壌」に違いがあると教えられました。
道端、石だらけの地、茨の中。そこにいくら種が蒔かれても実を結ぶまでに成長しない。言い換えれば、御言葉を自分のこととして聞く姿勢がない時、聖書の知識は増えますが、現実の生活には何の変化も起こらないのです。
主イエスはおっしゃいます。「ほかの種は、良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍になった。」そして、『聞く耳のある者は聞きなさい』と言われた。」(マルコ4:8-9)
「聞く耳のある者は聞きなさい」。自分に語られたこととして聞くことです。「この御言葉、あの人に聞かせてやりたい」と思って聞くことはないでしょうか?「息子に聞かせてやりたい」と感じることはないでしょうか?でも、主イエスは、あの人や息子に聞かせる前に、あなたに語っておられる。ですから私自身が自分に語られた神の言葉としてきくことこそ、「聞く耳をもって聞く」ということでしょう。
使徒ヨハネは語ります。「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。…神がお遣わしになった方は、神の言葉を語られる。神が霊を限りなくお与えになるからである。御父は御子を愛して、その手にすべてを委ねられた。御子を信じる人は永遠の命を得る。しかし、御子に従わない者は、命を見ることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」
聖書に登場する信仰の先輩たちの誰もが、「上から来られた方」、すなわち主イエスの御言葉に耳を傾けました。しかも、常に自分に語られたこととして御言葉を聞く習慣を持っていました。それが基本です。その基本に立ち返る必要があります。
そのようにして私たちが、聖書を、また聖書の説き明しである説教を神の言葉として聞く時、いや、神の言葉そのものであるお方の許で、その語りかけに耳を傾ける時、時に罪が示されることがあります。また十字架の意味がよく分かり、赦しの実感が与えられる経験をするでしょう。本当に心から信仰が成長することを求め、神さまの愛に応え、御言葉に従って生きていきたいという思いが起こされていくでしょう。あるいは神の言葉が示されても、その御言葉に応答できない自分と直面し、そのことのために悲しみ、悔い改めに導かれていくこともあるかもしれません。こうした一つひとつのことが全て、神の言葉なる主イエス・キリストと向き合い、そのお方の語りかけを真剣に受けとめる時に起こることなのです。
私たちは、神が与えてくださる命を豊かに受け取るために、神の言葉そのものであられる主イエスの許に行き、聖書を通し、また説教を通して語りかけてくださる神の御言葉を大事に大事にしていきたいと願います。
お祈りします。