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アドベント 主日共同の礼拝説教

沈黙の恵み

<第2アドベント>
松本雅弘牧師
詩編77編1-21節
ルカによる福音書1章5-23節
2022年12月4日

Ⅰ. ザカリアに起こった出来事

ザカリアが一人、神殿の奥に入り、祭司として神に奉仕している時でした。突然、天使が現れ、「恐れることはない。ザカリア、あなたの祈りは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ」と伝えられたのです。それを聞いたザカリアは戸惑います。いや、それ以前に天使自体に驚愕したのでしょう。
これまで長い間「子を授けてください」と祈り、その祈りが成就しようとする時、そう祈っていたザカリアの口から飛び出した言葉が、「どうして、それが分かるでしょう。私は老人ですし、妻も年を取っています」(18節)。皮肉ですね。この後、彼はいっさい話すことが出来なくなりました。

Ⅱ. 沈黙の恵み

沈黙を強いられた期間は十か月。結構な長さです。その間、一言も発話できないわけですから。福音書によればザカリアは神の前に正しい人で主の戒めと定めとをみな落ち度なく守って生活していた人です。ところが祭司としての経験や知識が全く役に立たない。世間の人から、「ザカリアさん、何かしでかしたのでは。ばちが当たったのでは」と噂され陰口も聞こえてきたかもしれません。ザカリアはそうした中に置かれたのだと思います。「人から生まれた者の内で彼ほど偉大な者はいない」と主イエスが紹介するほどの洗礼者ヨハネの誕生に際しザカリアに与えられた務めは沈黙すること。それだけだったのです。
さて福音書は、「その後、妻エリサベトは身ごもったが、五か月の間は身を隠していた」(24節)と伝えています。まだ子どもは生まれていない。ザカリアとエリザベト二人っきり。この老夫婦、元々エリサベトはとてもお話好きな女性であったかもしれません。でも話し相手、聞き上手の夫が何も話せなくなった。神殿から出てくるなり一言もしゃべることができません。そして直後に「お婆さん」の自分が妊娠したことに気づく。驚きであり恥ずかしかったかもしれません。そのエリサベトもまた、「主は今、こうして、私に目を留め、人々の間から私の恥を取り去ってくださいました」(25節)と語り、五カ月間身を隠す。口語訳聖書では「引きこもる」という言葉を使っていました。
さて、今日の説教題は「沈黙の恵み」です。この時のザカリア夫婦はすぐに、この出来事を恵みと受けとめ切れなかったと思います。でも、ゆっくりと流れる時間の中、不思議と相手との会話に反比例するように、自らの魂との対話が始まり、それから神との対話も始まっていったに違いありません。
エリクソンという心理学者がいました。彼は人生の四季折々、私たちのライフサイクルには八つの課題があり、最後の時期を「人生の統合期」と呼んでいます。そこで誰もが問われる課題は「あなたは人生に感謝できますか?」ということだと語っています。
私は、この夫婦が、この沈黙の期間、どんなに深く神さまの恵みを味わったことかと思います。その証拠に、この十カ月にわたる黙想の日々の後、ザカリアの口から飛び出した第一声、それは、「ほめたたえよ」という言葉です。賛美の言葉です。
「教会の礼拝は、私たちの知恵が黙る時。教会は私たちが沈黙を学ぶところだ」とある牧師が語っていましたが、この夫婦の子どもヨハネが成人し洗礼者として世に現れ、続くように主イエスも公の生涯を始めました。イエスさまは多くの教えをお語りになったわけですが、その教えを一言で言えば、「神の御心がなるように」ということです。自分の願うところではなく、神さまの願うことが成就するということでした。
先日、高座教会の礼拝堂で定期中会会議が行われました。私たち長老教会は会議を重んじる教会です。でも教会は「ああでもない、こうでもない」と知恵を絞り合う場ではなく、「二人でも三人でもわたしの名によって集うところに私もいる」と約束し、実際にそうした交わりの只中に共におられる主イエスの御心を問いながら交わり、おしゃべりをし、会議する場です。そのために大切なことは私たちの側で黙ること。立ち止まって、共におられる主の御心を尋ねることでしょう。
ある人が、「神の前で沈黙を知る者だけが、有益な言葉を語ることができる。自分がしゃべり続けるということは、不信仰のしるしでもある」と語っていました。正にこの時ザカリアは、本当に大切な言葉を語ることができる者、神の御心に生きる者とされるために、しゃべることができなくなった。沈黙を強いられたのです。

Ⅲ. 想定外の出来事

ところで、この時代、ユダヤには一万八千人から二万人の祭司がいたと言われています。人によっては一度もこの務めを果たさずに召されていく祭司もいたかもしれません。現にこの時のザカリアも、この歳になるまで一度も経験したことがありませんでした。
くじを引いた、たった一人だけが一日、神の御前に出、大切な務めに与る。大変光栄な務めであったと共に、かなり緊張する務めだったのではないでしょうか。その緊張感は「間違いのないよう、一つひとつの儀式を順序正しく滞ることなく執り行うことができるように」というところから来ていたのでしょう。
私は牧師をしていますので、少し分かるような気がします。この後、洗礼式があります。「一つひとつの式を順序正しく滞ることなく執り行うことができるように」ということの中で、名前を間違えないように、ということも大事です。洗礼式の時に、別の方の名前で洗礼を授けたら、大変なことになりますから。頭に手を置き、お顔を確認し、洗礼式を行います。
ザカリアは祭司でしたから律法に定められた通り、順序正しく、落ち度なく行わなければなりません。ある意味で、それが祭司の仕事、決まったことを決まった通りに行う仕事です。そのようにして祭司ザカリアが、今ここで、生ける神さまの御前に出ていたのです。祭司ですから当然、「間違いがないように、順序正しく滞ることなく執り行うことができるように」と神経を遣い緊張感を持って務めを果たしていたのでしょう。ところが、その時のことです。ザカリアが予定どおり行かないことが起こった。11節。「すると、主の天使が現れ、香をたく祭壇の右に立った」。続く12節、「ザカリアはこれを見てうろたえ、恐怖に襲われた」と、彼の反応をそう伝えています。
私はここを読み、この時どうしてうろたえ恐怖の念に襲われたのかを考えさせられました。彼がそうなるのはよく分かります。しかも「間違いがないように順序正しく滞ることなく執り行うことができるように」というのが、この場面での一番の願いであり、神経を集中していた事柄でしたから、うろたえ恐怖を感じたのは当然だと思います。考えてみれば、これもまた皮肉な話なのではないでしょうか。
ある人は、この場面のザカリアの様子を「ザカリアの手順が狂った。神が邪魔をされた」と語ったそうです。その通り、ザカリアは神さまに邪魔されたので慌てたのです。順序正しく、滞ることなくやろうとしていた。ザカリアが自分で慌てて墓穴を掘ったのでもない、他の祭司が妨害したのでもありません。何と神さまが入り込んで来られた、というのです。ここでザカリアは慌て戸惑った。何十年と神に仕えてきたベテラン祭司のザカリアが、神さまのリアルな働きに触れ、不安になり、おじ惑っているのです。何か滑稽です。
でも彼を笑えるでしょうか。いや、これは私たちに関わる問題のように感じるのです。今日も礼拝に来ました。だいたい一時間から一時間十分で終わります。一つひとつの式順に従って礼拝は進みます。そうした礼拝、あるいは日常のクリスチャン生活はどこか決まりきったもの、もっと言えば、この時のザカリアのように、誰からも邪魔されたくない、邪魔され不安にさせられたら困るという思いが、私たちにないだろうか、と思わされるのです。

Ⅳ. 沈黙の恵み―自分のシナリオを神に明け渡す

ところで、私たちは自分の人生のシナリオを書きます。でもクリスチャンになった後、一つの不安のような心配のような思いが生じる。それは「果たして、私が描くシナリオは、神さまが私のために描くシナリオと同じかどうか」という思いです。
もしそうした問いを心深くに持つならば、あるいはその問いに気づいたならば、一度、自分で描いたシナリオ通り、滞りなく、手順通り、物事が進むようにという私の思いや計画を神さまの前に明け渡すことが必要になるかもしれない。実は、神がザカリアに求めたことこそが、それだったのではないでしょうか。そしてそのことのために、神さまの前に静まり御心を聞く時、生活の中の余白を必要とします。場合によっては十か月が必要かもしれません。
「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である。」(箴言16:9、口語)とある通り、私たちの側に神さまの介入を受け入れる余白を備えることです。教会もそうです。
カール・バルトという神学者は「われわれ人間の自然の営みが、神によって妨害されない限り、それは癒されることはない」と語りました。神さまに妨害された時、すなわち神さまの介入が起こった時に初めて、私たちの本来の恵みの生活が始まる。そして、すでにそれが始っていることを心に留めながら、今年のアドベントの歩みを進めて行きたいと願います。
お祈りします。

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新たに生まれる

松本雅弘牧師
民数記21章4-9節
ヨハネによる福音書3章3-15節
2022年11月20日

Ⅰ. ニコデモ

過越祭の期間、主イエスはエルサレムに滞在され、そこで多くのしるしを行っていました。たぶん病気を癒し、体の不自由な人々を治すといった御業だったと思います。その結果、そうした奇跡の数々を目撃した多くの人々が主イエスの御名を信じた。しかし、主イエスは彼らを信用なさらなかったのだとヨハネ福音書は伝えています。
そして、そうした人々の代表としてニコデモという人物を紹介しているということを、先週の説教でお話したことです。今日はその続きとなります。

Ⅱ. ニコデモの問題意識と主イエスの答え

今日は3節からお読みしましたが、ここでわざわざヨハネ福音書は、「イエスは答えて言われた」と、ニコデモの問いかけに主イエスがお答えになったのだ、ということを伝えています。
ところが、2節にあるニコデモの言葉を何度読み返しても、ニコデモからの問いかけ、質問らしきものが見当たらないのです。「疑問文」ではないからです。だとすれば、主イエスはニコデモの何にお答えになったのでしょうか。
ある専門家は、「先生」というニコデモの呼びかけに注目していました。新共同訳聖書では原文のギリシャ語そのまま、「ラビ」と訳しています。「ラビ」とは、律法の教師に対する敬称、「あなたは私の聖書の先生、あなたを先生として尊敬しています」という意味を込めた呼びかけの言葉です。
先週もお話ししましたが、この時、主イエスの社会的評価は定まっていませんでした。世間からしたら、ガリラヤという田舎出身の「一介の貧しい伝道者」にしか見えなかった。ところが過越祭の期間、まずは神殿清めから始まり、神殿での教え、さらに様々なしるしを見聞きする中、〈イエスは、並みの教師ではない。ただならぬ存在だ〉と感じ始めたのがニコデモだったのです。そのことを彼自身が自分の言葉で、2節「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできない」と告白している通りです。つまり神が主イエスと共におられる、そうとしか考えられない。いや、実際、主イエスを見る時、そこに神の現存/神のご臨在を認めざるを得ない。「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできない」と言ったニコデモの言葉は、そうしたことを意味していたと思います。だとしたら〈そのお方に直にお会いし教えを乞いたい。指導を受けたい〉。ニコデモはそう思ったのでしょう。
そのニコデモの言葉、そこに込められた彼の思いを受け取った上で、そのニコデモの求めに応答する言葉が、3節の主イエスの「答え」となったのだと思うのです。3節。
「イエスは答えて言われた。『よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』」つまり、「神の国を見る」ためにはどうしたらよいのか、ということを主イエスがお答えになっています。
この時代、神の民であるイスラエルがローマ帝国の支配下にありました。国をまったく失った状態にあったのがイスラエルの人々でした。そのような状況下にあって、ローマからは総督としてピラトが派遣され、国の至るところにローマ兵が駐屯し、ローマ帝国の支配は見えても、神の国、神の支配なんかまったく見えない状況でした。
いや人々はもっと身近なところでも、神の国、神の支配を感じられない日常を経験していたことだと思います。この後、ヨハネ福音書を読み進めて行きますと、5章にベトザタの池の周囲にたむろしている大勢の病人や体の不自由な人々がいるという現実がありました。さらに9章には、生まれながらに目の見えない人が登場します。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」。弟子たちがそう質問したことが出て来ます。
弟子たちの心の中には、〈神さまがおられるならば、神の民イスラエルに、何でこんな不幸な人々が多いのだ。そもそも、真の神さまを信じている、自分たち選民イスラエルが、異邦人、異教徒の国ローマ人の支配下にあって、重い税金で苦しまなければならないのだ〉。そうした不条理を日常的に感じていた。そう考える人々の先頭に、ファリサイ派の人々が居て、その一人が、この時、夜に主イエスの許を訪ねたニコデモだったのではないかと思うのです。つまり、ニコデモの心の中にあった問題意識、それは「神の国が見えない。神はどこにおらるのか」というもの。「いつまで待ったら、神の国を見ることが出来るのか」という問いだったのではないかと思うのです。主イエスは、ニコデモと会って、その問い、彼の心から離れたことのない問題意識をしっかり聴いた。そして、神の国を見るためには、「新たに生まれなければならない」と答えたのです。

Ⅲ. 新たに生まれる

さて、これを聞いたニコデモは主イエスの答えの意味が分からなかったようなのです。「新しく生まれなければ」と言った主イエスの言葉を聞いた途端に「自分はもう年を取っていて、やり直しの利かない年になっているのに、どうして生まれることができるでしょうか。そんなことは不可能です」とがっかりしたのではないかと思うのです。
さて、これを受けての主イエスの言葉が続きます。「新たに生まれる」ことを言い換えるようにして3章5節「誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。」「人は水と霊とによって新しくなれる」とおっしゃったのです。
ここでは明らかに、水と霊による洗礼を意味していたと思われます。これによって、歴史の教会は洗礼を授けるようになったとも言われている有名な言葉です。新しく生まれるように上からの霊を求めなさいと求められたのです。8節「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」と言われました。これを聞いてさらに困惑するニコデモに主イエスは、民数記21章に記されている出来事、すなわち、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子が上げられる。そしてあの時、上げられた蛇を仰ぎ見た者が救われたと同様に、十字架に上に上げられた人の子を仰ぎ、信じることで永遠の命を得ることになるのだ、とお語りになったのです。

Ⅳ. 主イエスを見上げて

民数記によれば、荒野で罪を犯したイスラエルに対して、神さまは炎の蛇を送られました。その結果、多くのイスラエルの民が蛇に噛まれ命を落としていったのです。そうした苦悩を経て民は心砕かれ、モーセの許に行って、「私たちは罪を犯しました。私たちから蛇を取り去ってくださるように、主に祈ってください」とお願いした。モーセも必死に執り成すのです。その結果、モーセに示されたのが、青銅の蛇を作って竿の先に掛けなさい、という導きだったのです。
興味深いなと思います。元々お願いしたのは「蛇を取り去ってください/私たちの日常から蛇を退治してください」ということでした。私たちに当てはめるならば、私を傷つけるあの人をどうにかしてください。私の病気を癒してください。経済的に楽にしてください。苦しみや悩みの種、すなわち、蛇そのものを退治してくださいとお願いしたにもかかわらず、神さまは蛇を取り去ることはなさらず、モーセに命じて青銅の蛇を作り、イスラエルの陣営の中で高く掲げ、全ての人がそれを見るようになさったのです。噛まれた者が、ただ目を上げて上げられた蛇を仰げば死に至る猛毒から癒されるようにされた。噛まれたら、先ずは自力で来て触るようにお命じになったのではないのです。もしそうだとしたら誰も救われなかったでしょう。途中で毒が回り数歩も歩けなかったに違いない。
あくまで神さまがお求めになったのは、頭を上げて、上げられた蛇を見ることだけであり、事実、それによって救われたのです。「やり直す」のでもない、私の側から救いを獲得するために、何かを積み重ねるのではないのです。モーセが荒れ野で蛇を上げたように、十字架に上に上げられた人の子を仰ぎ、信じることで生かされる。なぜなら、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」そう主イエスがおっしゃるからです。主にある救いをいただくことで、神のご支配の中に移される。神の国を見る恵みの世界が開かれるのです。
お祈りいたします。

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人の心を知っておられるお方

松本雅弘牧師
エゼキエル書36章25-36節
ヨハネによる福音書2章23節-3章2節
2022年11月13日

Ⅰ. イエスは彼らを信用されなかった

宮清めの直後、主イエスは過越祭りの期間、エルサレムに滞在しておられたのでしょう。当然、ユダヤ全土から、それ以外の地域からも大勢の人々が集まっていた。今日の聖書の箇所はまず、その時の主イエスの様子を伝えようとしています。「過越祭の間、イエスがエルサレムにおられたとき、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエスご自身は、彼らを信用されなかった。それは、すべての人を知っておられ、人について誰からも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」(2:23―25)
主イエスのエルサレム滞在中、多くの人々が主イエスのなさった「しるし」を見て、「イエスの名を信じ」たというのです。それがどんな「しるし」、言い換えれば奇跡だったのかは書かれていませんが、そうした不思議な業を見た人々が、それも「イエスの名を信じた」というのです。不思議な業を次々としている「イエス」という名の男を「救い主/メシア」に違いないと信じたのだ、というのです。
ただ、気になる言葉が続きます。「しかし、イエスご自身は、彼らを信用されなかった」というのです。興味深いことに、原文のギリシャ語を見ますと、「多くの人々がイエスの名を信じた」の「信じた」という言葉と、「イエスご自身は、彼らを信用されなかった」の「信用される」という言葉が全く同じギリシャ語なのです。つまり、多くの人々は主イエスを信じたけれども、主イエスのほうでは彼らを信じなかったと対比されてる。対になっているのです。なぜでしょう。その理由についてヨハネは、「イエスは、何が人の心の中にあるかをよく知っておられた」からだと説明します。

Ⅱ. ニコデモの信仰告白

さて、今日の箇所を読み進めてまいりますと、主イエスが信用しておられない人間の代表としてニコデモという人が登場します。彼は一体、どういう人物でしょう。
ヨハネ福音書によれば、彼は「ファリサイ派の一人」で、さらに「ユダヤ人たちの指導者」だったとあります。新共同訳聖書では「議員」と訳しています。
しかし、当時のユダヤでは政教分離の原則はありません。政治のことは勿論、信仰の事柄についても取り仕切っていたのが「サンヘドリン」と呼ばれるユダヤ最高議会でした。ですから彼は、そのような高い地位にいる人物でした。
そのニコデモが、イエスのところにやって来て、「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです」と語ったというのです。
ここで注目したい点があります。ニコデモが主イエスの許に行ったのが「夜」だった点です。何故、夜だったのでしょうか。一つ考えられるのは、ニコデモは世間の目をはばかった、恐れたのではないかということです。彼はユダヤ議会のメンバーです。地位や名誉もありました。その彼が評価の定まっていないガリラヤ出身の「イエス」という名の貧しい伝道者に教えを乞いに出かけたことが噂にでもなれば結構厄介だったからでしょう。しかし、この時のニコデモはそれでも止めにしようとはしなかった。姿が見えにくくなる時間帯を見計らって主イエスのところに行ったのです。それだけ本気だったのでしょう。

Ⅲ. ニコデモの信仰

ただ、その結果、主イエスとニコデモとの間にどのようなやり取りがあったかと言えば、まさに禅問答のようでチグハグなのです。主イエスの言わんとすることを、正直、ニコデモはあまり理解できていなかったのではないかと思います。
でも主イエスは、そのニコデモを退けるのではなく、彼としっかりと向き合ってくださった。
福音書を読んでいきますと、この後、ニコデモは主イエスの歩み、また十字架を目の当たりにしたのだと思います。そして最後の最後に行動に出たことを、ヨハネ福音書は私たちに伝えています。主イエスの遺体を葬るために、「百リトラ」、およそ三十キロある没薬とアロエを混ぜた物をもってやって来たのです。
これまでニコデモは自らの主イエスに対する信仰は完全ではなかったかもしれませんが、その「信仰」を公けにはしていません。でもいざとなった時に、悔いが残らないように、自らの良心に忠実に行動した。そのことがヨハネ福音書に残されているのです。
ニコデモの心のうちには、あの晩の出来事が鮮明に浮かび上がっていたのではないでしょうか。暗闇の中、鋭く光る目をもって語られた主イエスの言葉、「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者は誰もいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:13~15)この言葉があの晩以来ずっと心に引っ掛かり迫り続けていたのではないか。そして現に「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」というあの言葉が目の前に展開された壮絶な十字架の出来事と一つになった。だからこそ〈今、そのお方の遺体を引き取りに行かなければ、一生後悔する〉、そう思って、やって来たのではないでしょうか。

Ⅳ. ニコデモを愛される主イエス

ニコデモが、あの夜、主イエスを訪ね、「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」そう語りかけました。
今日、お読みしませんでしたが、それに対して主イエスは、「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とおっしゃった。聞いたニコデモは「馬鹿馬鹿しい!」と、今まで自分が信じてきたファリサイ派の教えに従って笑い飛ばすこともできたでしょうが、主イエスの言葉を大変真面目に受け止め、「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか」と主イエスに訊き返しています。
この主イエスとニコデモとのやり取りについては、来週、取り上げたいと思います。ただ、私は、ニコデモに感謝したいのです。この時、彼が勇気を出し、主イエスを訪ね、心の中にある思いを正直にぶつけたので、この後、ヨハネ福音書3章16節の大切な御言葉、「聖書の聖書」と呼ばれるような御言葉、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」が、このヨハネ福音書の中に残されたということでしょう。
確かにニコデモと主イエスとの会話は最後までちぐはぐです。しかも「イエスご自身は、彼らを信用されなかった。それは、…何が人の心の中にあるかをよく知っておられた…」。そうした人々の代表として、ここでニコデモが紹介されている。ただ、改めて心に留めたいことがあります。それは、私たちの心をご存じの主イエスさまは、そうした私たちの心の中にあるドロドロをご覧になって、だからあなたがたは愛せない。いや、信用しないから嫌うとはならず。
この福音書を記したヨハネは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と語るのです。
最初の出会いの時、ニコデモと主イエスの会話はちぐはぐで、よく分かっていなかったかもしれない。でも主イエスは、そのニコデモをご覧になり、「中途半端な信仰だね」と心の中で裁き、冷ややかに突き放したのではないのです。むしろニコデモをご覧になった主イエスのまなざしは実に温かく慈しみに満ちておられたのではないでしょうか。そしてその温かさ、そのご慈愛は、あの晩、確実にニコデモの心を捕らえたに違いない。
2章25節を見ますと、「イエスは、何が人の心の中にあるかをよく知っておられた」と語られていますが、にもかかわらず、主イエスは徹底して、最後まで弟子たちを愛し抜かれました。他の人をも同様に愛されるのです。
この後、ヨハネ福音書を読み進めてまいりますと、13章1節に次のような言葉が出て来ます。「過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた。」
主イエスというお方はそのようなお方。そのお方が、常に私たちと共におられ、私たちを愛してくださっている。そのお方に従って、この一週間も歩んでまいりたいと思います。
お祈りいたします。

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高座教会の歩みを祈り求める―2023年の教会活動方針を踏まえて

松本雅弘牧師
ルカによる福音書5章33-39節
2022年11月6日

Ⅰ. はじめに

11月最初の主日共同の礼拝の今日は、毎年、次年度の「教会活動方針」をお配りします。早いもので、今年も残すところあと二か月を切りました。皆さんにとって、ここまで2022年はどのような年だったでしょうか。
小会も、今年を振り返り、神さまの恵みを数えつつ、来年度に向けての活動方針をまとめさせていただきました。これについては、後ほど触れたいと思いますが、11月の第一主日は、私たちが神さまの御前に静まって、立ち止まって、今年の歩みを振り返り、そして来年に向けて主に期待する日でもあるように思うのです。

Ⅱ. 新しいぶどう酒は新しい革袋に

さて、そうした上で今日は、ルカによる福音書5章 38節、「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない。」という、2023年度の主題聖句を含む聖書の箇所を読ませていただきました。まずはここから御言葉に耳を傾けて行きたいと思います。
私たちの聖書を見ますと、ここに「断食についての問答」と小見出しが付いています。
ご存じのようにユダヤでは昔から断食の習慣がありました。調べてみますと当初、ユダヤ人は、レビ記16章に出て来ます「贖いの日」、これは第七の月の十日ですが、その日をイスラエルの人々のために罪の贖いの儀式を行う日、そしてその日に加えバビロン捕囚後に定められた国家的な災いの日を記念し、人々は断食をしていたと言われます。
ところが、その後、ファリサイ派の人々を中心に、宗教的な熱心さのゆえから次第に回数が増えて来て、年に四回となり、さらにイエスさまの時代では、月曜日と木曜日の週二回が断食の日になっていたようなのです。
ただ、ユダヤ人の全てが断食を守っていたか、と言えばそうではありません。この後、ルカ福音書18章に出て来る「ファリサイ派の人と徴税人」の譬えを見ますと、遠くに立って、目を天に上げようともしないで、胸を叩きながら、「神様、罪人の私を憐れんでください」と祈る徴税人を指
して、「神さま、私は、この徴税人のような者でないことを感謝します」とファリサイ派の人が祈っていた。さらに「私は週に二度断食しています」と祈ったと語られていますが、まさにイエスさまの時代、週に二回断食していることが、神さまの御前に高く評価されるべき功徳として、ファリサイ派の人が誇っているところからして、一般の人たちはそこまで守っていなかったようなのです。
さて、そのような背景を踏まえた上で、今日の箇所の33節をご覧ください。
「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」
そうです。洗礼者ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々のように、主イエスの弟子たちが断食していない、そのことを問題にしている人がいたということでしょう。
元々、断食は、レビ記などに記されている通り、神さまがイスラエルの民に求めていたもので、長きにわたって大切にされてきた伝統のある信仰の行為です。食物を断つことで、霊的に高められることを願って行われていた信仰の実践でした。ただそれがさらに発展し、断食をすること自体が「宗教的人間をつくりだす価値ある行為だ」と考えられるようになってしまったのです。
先ほどの33節は、そうした背景から来る主イエスに対する質問でした。当時の人々から見て主イエスの振る舞いや行為は、どこか宗教的伝統をおろそかにしていると見え、批判の対象となっていたわけです。
いかがでしょう。私たちの社会でも、こうした問題がよく起こるのではないかと思います。また教会の中ではこれと同じ問題がしばしば生じることだと思います。
一方に古い伝統をしっかり守り、一歩たりとも道を踏み外さないようにする人たちがいるかと思うと、他方では形式にとらわれず、むしろ古い伝統には反発して新しい生き方を求めようとする動きもある。
当時のユダヤ人たちが、主イエスを見たことで、心の中に生じて来た様々な批判や疑問を主イエスにぶつけた。それに対する応答が34節からの言葉だったわけです。
ここで主イエスは「婚礼の譬え」を語られました。マタイ福音書の講解説教の時もお話ししましたが、イエスさまはよく婚礼のことを譬えとして用いられます。その場合、終末的な救いの喜びを象徴するものとして語られていました。つまりそこでは、メシア、救い主を花婿に譬えてお話されるのです。この時も同様でした。
34節を見ていただきたいのですが、「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。」これが主イエスの教えのポイントだと思うのです。
断食という宗教的な伝統や形式にしがみついて生きることより、キリストと共に生きることこそが大切だとおっしゃる。断食の目的もそこにあったわけですから…。
そうした上で、来年の主題聖句である御言葉をお語りになります。38節、「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない。」
私たちがいただいている救いとは何か。それは古い服を仕立て直して新しい服を完成させるのではない。古い人生の仕立て直しではなく、新しい人間の創造なのだ、と主イエスはおっしゃるのです。
主イエスを信じて生きるということは、質的な新しさをもたらす。古い伝統や古い習慣によって信仰を補強しようとするようなことは逆戻りすることで、そのようなことをし続けていったら革袋は張り裂け、ぶどう酒も革袋もだめになってしまうと語るのです。
コリントの信徒への手紙第二の5章17節の御言葉が心に浮かぶのではないでしょうか。「だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。」

Ⅲ. 「2023年教会活動方針」

さて今日は、「2023年の教会活動方針」を配布させていただきました。お持ちの方は開いていただきたいと思います。来年の「主題と主題聖句」がそこ記されています。主題が「ウィズ・コロナの時代を見据えて」で、主題聖句が今お話しました、ルカによる福音書5章38節、「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない。」です。
では、「Ⅱ.2023年教会活動方針総論」の部分だけお読みしたいと思います。
Ⅰ.主題と主題聖句
〇主題:「ウィズ・コロナの時代を見据えて」
〇主題聖句:「新しいぶどう酒は新しい革袋に入。。,れねばならない。」
(ルカによる福音書5章38節)
Ⅱ.2023 年 教会活動方針総論 ―省略-

Ⅳ. 主よ、御心が成りますように

11月になり、今年も残すところ二ケ月を切った今、一旦、手の業を置いて立ち止まって主の御前に静まり、主が私たち一人ひとりの人生に、どのように生きて働いておられるのか。私の生活のどこに、また教会の働きのどこに、新しいぶどう酒の発酵を主が起こしておられるのかを見極めていきたいと思います。
特にコロナウィルスの影響で、今までの教会活動がリセットさせられるような経験をしてきました。まさに強引に立ち止まらされる経験です。そうした中で私は改めて、高座教会の『七〇年誌』の最後に、編集委員会委員長の鈴木健次さんが紹介している、ラインホールド・ニーバーの祈りの言葉に心が向いたのです。
「神よ、変わることのないものを守る力と、変えるべきものを変える勇気と、この二つを識別する知恵を与え給え。」
高座教会は主御自身が始めてくださった教会です。その主の御心を求めながら、「主よ、御心がなりますように/御心をなしてください」と祈りつつ、これからも共に歩んでいきたいと願います。
お祈りいたします。

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偶然ではない人生

松本雅弘牧師
マタイによる福音書25章14-30節
2022年10月16日

Ⅰ. 私たちの悩み

私たちの悩みの一つは、自分で選んだのではない条件で生きていかなければならない、ということにあるかと思います。しかも、そうした条件が、しばしば私たちにとって悩みの種になることが多いように思います。
さて、今日、お読みしました、「タラントンのたとえ」は主イエスの譬えの中でも大変有名な話ですが、今お話したような悩みを抱える私たちに、大切な方向性を示す主イエスの教えのように思います。では、譬え話のあらすじから見ていきたいと思います。

Ⅱ. タラントンの譬え話

ある人が旅に出かけるにあたって、その家で仕える僕たちを呼んで、一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンを預けて旅に出た、というところから譬え話は始まります。
ここに出てくる「タラントン」とは、元々は重さの単位です。ただそれが転じて貨幣単位として用いられるようになりました。テレビに出てくる才能に恵まれた人のことを「タレント」と呼びますが、その言葉は、聖書の「タラントン」が語源となっています。
調べてみますと、1タラントンは6千デナリオン。6千デナリオンとは健康な労働者6千日分の賃金です。安息日を除いて年間300日働いたとすれば、何と20年分の賃金に相当するのが、この1タラントン。かなりの大金です。
今日の譬え話によれば、5タラントン、2タラントン、そして1タラントンと、預けられる額に違いがあります。でも、一番少ない1タラントン預かった人でも、実際には本当に大きな額。つまり、誰もが、多くの賜物を預けられ、この世に生かされている存在なのだ、ということを教えられます。
ただそうは言っても、この譬えを聴く時、預けられたタラントンの違いが気になるものです。こうした違いはどこから来るのでしょうか。15節を見ていただきたいと思います。ここに見落としてはならない表現が出て来ます。「それぞれの力に応じて」と書かれています。確かに重さ10キロ
しか持つことの出来ない人が、常に50キロの荷物を抱えながら生きていかなければならなかったとしたら、とてもシンドイでしょう。
ここで主イエスは、私たちのことを、持ち物の量によって区別したり、評価したりはしておられない。むしろ、「それぞれの力に応じて」タラントンの量が違っているとおっしゃるのです。
そうした中、19節に次のように書かれています。「さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた」とあります。その続きの20節からの箇所には、5タラントン預けられた人は5タラントン儲け、2タラントン預けられた人は2タラントン儲けたのですが、1タラントン預けられた人は、「地の中に隠しておいた」というのです。そして結果的にその僕は、外に追い出されてしまったという結末です。
さて、少し戻り、14節に注目したいのですが、ここに譬え話のポイントが説明されているように思います。「天の国は、ある人が旅に出るとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けるようなものである」と言った上でこの譬えが語られているからです。
「天の国」、別の言い方をすると「神の国」です。それは死んだ後に行く場所を指して、「天の国」とおっしゃったのではありません。先週の表現を使うならば、「神さまの御翼の陰/神さまの守りの中」という意味です。そのような意味で「神の国」とは「神さまの御思い」、聖書では「御心」と呼びますが、そうしたものが行きわたっている領域。しかも、その御心とは愛の御心です。そして、そうした神の御心は聖書の中に示されているわけですから、14節で「天の国は~のるようなものである」と言った上で、「タラントンの譬え話」を語られたということは、この譬えの中に、愛なる神さまの御心、聖書のものの見方が表されている、ということでもあります。
そうしたことを踏まえて、もう一度この譬え話に戻りたいと思うのですが、何も儲けることのできなかった1タラントン預かった者が外に追い出された。そのことだけを取り上げて解釈するならば、私たちの価値がその人の働きや成果にかかっている。そうしたことを教えている譬え話だと理解されてもおかしくないかもしれません。
あるいは「働かざる者、食うべからず」ではありませんが、働かなかった者は切り捨てられる、といったように読めなくもない。そうなると神の国もこの世界も結局、同じ価値観が支配しているではないか、と思われるかもしれません。
ここで「成果」を挙げた人に注目したいと思うのです。5タラントンの人は5タラントン儲けましたし、2タラントンの人は2タラントンを儲けたのです。成果主義で考えるならば、5タラントンの人は2タラントンの人よりも3タラントン多く儲けています。全体の合計で言えば、5タラントンの人は10タラントンになり、2タラントンの人は4タラントンですから、両者の差は6タラントンに拡がっています。
でも、どうでしょう。とても興味深いことが分かります。それは、主人がこの二人に対して、全く同じことを言っているという事実です。「よくやった。良い忠実な僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい。」、新共同訳では「主人と一緒に喜んでくれ」となっています。ギリシャ語を見ても、一字一句全く同じです。成果の違いによって評価は変わっていない。全く同じなのです。

Ⅲ. ちがいが強み

ところで、この譬え話を読む時、私たちの注意はどちらかと言うと5タラントンと2タラントンの人、すなわち働いた人、成果を上げた人に向きがちだと思います。それに対して1タラントン預かったのに、何もせずに土の中に埋めた人を、いわゆるダメ人間というレッテルを貼ってしまうことがあるかもしれない。
このことについて少し考えてみたいのですが、なんで土の中に埋めたのかを語る、この人の言い分にもう一度耳を傾けてみたいと思います。24節と25節をご覧ください。
「ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出て行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。」
ここに、この人の本音が出ています。主人に対する恐れ、恐怖です。預かったお金をなくしたり、減らしたりしたら、とんでもない目に遭う。何とか無難に持ちこたえたい、という恐れでした。こうした考え方は、当時のユダヤ教の指導者たちの考え方、律法学者、ファリサイ派の人たちの考え方だったと言われます。
神さまを信頼し、神さまを愛しているから何かする、あるいは何かをしないというのではなく、やったり、やらなかったりすることの動機は、落ち度がないように、人から批判されないように、人の目を恐れる人間の姿があります。さらに突き詰めて考えてみるならば、神なんかはいない。自分で自分の人生を何とかしなければならないという生き方であり、人生の主はまさに自分自身であるという物語でしょう。
そうした物語/ものの考え方に対しこの譬え話は、この世界には慈しみ深い神がおられ、私たちはそのお方の守りの中で、それぞれの力にふさわしく生きるのですよ、と語っているのです。ただ、そうだとしても、タラントンのちがいは何なのだろうかという問題は残ります。
ワールドカップでMVPを獲得した澤穂希(さわほまれ)さんがテレビに出演していました。彼女はリズム音痴なのだそうですが、その悩みを専門家に相談していました。その内のひとりの専門家が興味深いことに気づいたのです。「澤さん、それがあなたの強みだ」と話すのです。その人曰く、人とちがう微妙なタイミングのズレがあるからこそ、一対一の場面で相手をかわしてシュートできる。だから本人が弱点と感じている、そのズレを修正するのではなく、むしろそれを強みとして生かすように、とのアドバイスだったのです。
コリントの信徒への手紙第1の12章18節に次のような言葉があります。「そこで神は、御心のままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。」
私が私に造られたのは、慈しみ深い神さまの御心によるものだというのです。ちがいを恐れる必要など全くない。もっと言えば、現時点で弱点と感じることも含め、私自身の抱える私の一部、もちろん、それがこの先、どう生かされるのか、現時点では受けとめられないかもしれません。でもこの聖書の言葉によるならば、その弱点と思える部分も含め、神さまが良しとしておられる、というのです。
ですから、私たちがすべきことは三つある。一つは、神さまが私に預けておられる賜物や個性を発見すること。二つ目に、それを神さまからあなただけに預けられたものとして、努めて磨き大事にしていくこと。そして最後、三番目のことは、それを用いて人々に仕えることです。決して、使わずに地の中に隠してしまうのではありません。用いることです。
5タラントンの人と、2タラントンの人に向けて語られた主人の言葉をもう一度見て見たいのです。「よくやった。良い忠実な僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい。」
つまり主人が私たちにタラントンを預けた大きな目的は何かと言えば、主人の喜びを共にする、ということでしょう。神さまは全知全能のお方です。ご自分ですべてのことをなさることができる。しかし、神さまは、喜びを分かち合おうと、私たちを招き、タラントンを預け、生かして用いるようにしてくださった。
小さな子どもが、台所で、お母さんのお手伝いをする時、本当に満足をする。大きな喜びで満たされる。お母さん一人でしてしまえば、時間もかからず、おいしく仕上がる料理ですが、あえて、子どもに手伝わせると手間もかかります。効率もよくないかもしれません。でも、そうする。何故?作る喜び、作った物を家族が食し、喜び合う幸せを子どもと一緒に分かち合うためです。

Ⅳ. 偶然ではない人生-「ボクがボクになる」という目標

今日の説教のタイトルに「偶然ではない人生」とつけました。「偶然」でなければ、運命なのでしょうか。そうではなく、聖書はそのことを「摂理(せつり)」と呼びます。英語で“providence”という言葉は“provide”すなわち「用意する/調達する」という動詞からできた言葉です。「神さまが備えておられる/神さまが準備しておられる」ということです。
カトリックのシスターの渡辺和子さんが、50歳でうつ病にかかり悩まされていた時に、診察した医師が彼女に「運命は冷たいけれども、摂理は温かい」という言葉をかけたそうです。それ以来、人格的な神さまの配慮、備えの中で、今、自分が生かされていることを信じて歩んでこられたそうです。
預けられているタラントンや賜物は一人ひとりが皆ちがうのです。神さまから預かった命を生きる。精いっぱい生きる。
「大きくなったら何になりたいと聞かれて/大きくなっても何にもならないよ/ボクはボクになるのだ」。五歳の子が、こうした詩を作ったそうです。
確かに、どんなつもりで書いたのか分からないですが、でもとっても大切なことを言い当てた詩だと思いました。「ボクはボクになる―自分が自分になる」。これはある意味で、私たち全ての者に与えられている、大切な生きる目的、人生の目標なのではないでしょうか。
この世界は偶然が支配しているのでも、運命が支配しているのでもない。この世界は神がおられ、神さまが摂理の御手をもって私を生かしておられる。その神さまのお守りの中で日々を生きることが許されている。それは何と幸いなことだろうかと思います。
お祈りします。