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主日共同の礼拝説教

御言葉と祈りに生きる―信仰の基本を確認する③

松本雅弘牧師
ルカによる福音書10章25-42節
2022年1月16日

Ⅰ.はじめに

今日、お読みしました聖書の箇所は大きく分けて2つの部分から成り立っています。前半は37節までのところで、いわゆる「善いサマリア人の譬え話」、そして後半の38節からは「マルタとマリアの話」、どちらも聖書の中では大変有名なお話です。
今日は、この2つの箇所から「御言葉と祈りに生きる」、すなわち「聖書と祈り」について、御一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.愛の実践-善いサマリア人に見る真実の愛

では初めに「善いサマリア人の譬え話」に注目しましょう。25節から譬え話が語られた経緯がでてきます。注目すべきは、律法の専門家が語った、「私の隣人とは誰ですか」という問いかけの言葉です。これに対する答えとして主イエスによって語られたのが「善いサマリア人の譬え」でした。道を歩いていた旅人が強盗に襲われ、身包み剥ぎ取られてしまった。その上、瀕死の重傷を負わされ道端に捨てられてしまった。そこを最初に通りかかったのが祭司で、彼は道の「反対側」を通り過ぎていきました。次に通ったレビ人も同様だったのです。
そうした中、次に登場したのがサマリア人でした。彼は旅人を発見すると、躊躇なくオリーブ油とぶどう酒を注ぎ、包帯をし、家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱し、数日の滞在費を先払いしました。
当時、サマリア人は、ユダヤ人と征服者であったアッシリア人とのあいだに生まれた人々で、ユダヤ教の正統的な在り方から外れた存在と見なされ、民族的、宗教的理由から軽蔑と差別の対象でした。そうした差別はサマリア人の心を卑屈にし、頑なにし、敵意を植え付けたに違いありません。ところが、このサマリア人は敵意や差別の壁を乗り越え、倒れている人の必要に応えようと努めたのです。
たぶんこの時のサマリア人にも、通り過ぎた祭司やレビ人同様、なすべき仕事があり、決して「暇人」だったわけではなかったでしょう。でも、全て自分のことを後回しにし、旅人と面倒なかかわりを持ち、時間や金銭を捧げて、仕える業に専念した。もし訊かれたら、「死ぬ思いをしている人を前にしたのだから、人間として当然のことをしたに過ぎない」と答えたかもしれません。彼は自分に出来る限りのことをしたのです。

Ⅲ.イエスさまと律法の専門家の問題意識の違い

ところで、この時の律法の専門家の心の内側に思い描いていた絵を想像するならば、たぶん先ず彼自身が真ん中にいて、その周りを囲むように人々がいる。そうした上で、周囲にいる人々を品定めするように、「誰が自分の隣人として、愛されるにふさわしいか」を自らの心に問いかけている。そのような絵を彼は心の中に思い描いていたのではないでしょうか。これに対して主イエスは、当然、「隣人の枠外」に居たサマリア人の方が敵対関係にあったユダヤ人に対して、その枠を乗り越えて助けようとしたというのです。
考えてみれば、この時、傷ついた旅人には助けてくれる隣人がどうしても必要でした。ですから主イエスは、「誰が私の隣人か」ではなく、「その人の隣人になったのは誰か」を問題になさった。自分の方で枠を設けるのではありません。一人の人間として同じ地平に立ち、今、助けが必要な人の隣人になる、そしてできる限りのことをする。それが隣人を愛することだと言われるのです。
さて、この譬え話の最後に、主イエスは律法の専門家に向かって語りました。「行って、あなたも同じようにしなさい。」そしてこれは律法の専門家だけでなく、イエスさまを信じていこうとしている私たちにも投げかけられているチャレンジの言葉でもあります。

Ⅳ.主イエスの足元に座って―御言葉と祈りに生きる

さて、この言葉を前に私たちは、「こういう隣人愛にどうしたら生きることができるのだろうか」と考えてしまうのではないでしょうか。確かに、「自分は向こう側を通り過ぎるような祭司やレビ人にはなりたくない」と思いますが、一方で自分の現実を見た時に、「善いサマリア人にはなれない」という限界を知らされるからです。
このような私たちに対して、この福音書を記したルカは、この譬えの直後に「マルタとマリアの話」を取り上げています。私は、ここにヒントが隠されているように思うのです。
主イエスは、この譬え話をお語りになった後、弟子たちを連れてマルタとマリアの姉妹の家を訪問されました。一行を迎えることになったマルタとマリア姉妹は、一生懸命もてなすのですが、その最中、一緒にいたはずの妹マリアが台所から姿を消していることにマルタが気づいたのです。アレっと思って、リビングを覗くと、何と主イエスの膝元に座ってメッセージに聞き入っている。そのマリアの姿が目に飛び込んできたのです。その瞬間、マルタは感情が爆発し、「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」と主イエスに食って掛かるということが起こりました。くつろぐ雰囲気は一気になくなり、主イエスもその場にいた人たちも居たたまれない思いにさせられたのではないでしょうか。
さて、こうしたマルタに対して主は優しく語りかけられます。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」ここで主イエスは「マリアは良い方を選んだ」と、神が私たちに「選択の自由」を与えてくださっていることに気づかせておられるのではないでしょうか。
この時のマルタに当てはめて考えるのならば、感情に任せ、イライラした状態で主イエスに八つ当たりするのか、それとも一呼吸おいて、一旦台所での働きを中断し、妹や他の弟子たちと一緒に主イエスの足もとに座り、御言葉に聞き入ることを選択することだって出来たはずでしょう。
実は、このマリアが選択し、その選択のことを主イエスが「必要なことは一つ」、別の聖書では「無くてはならないただ一つのこと」と評価した生き方こそ、今日取り上げている「御言葉と祈りに生きる」という信仰生活の基本の生き方なのではないでしょうか。
「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです」とありますように、「行って、あなたも同じようにしなさい」という主イエスの命令に従う前に、まず神の愛を深く味わうことが本当に大切なのです。何故なら、「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです」。しかし、私たちの心が冷え切っていたら、たとえやるべきことがわかっていたとしても、「向こう側を通り過ぎる」生き方しかできないのではないでしょうか。ですから必要なことはまず、神さまの愛で心を充電していただくことです。マリアのように主イエスの足元に座り、恵みの御言葉をいただくことなのです。
もう一度、「善いサマリア人の譬え話」に戻りたいと思います。宗教改革者マルチン・ルターは、傷つき、瀕死の重傷を負って横たわっている旅人こそ、私たちなのだと語っています。確かに私たちは、「隣人を愛しなさい」と言われても、気づかないふりをして道の反対側を通り過ぎてしまい、「愛の人になりたい。自己中心の殻を破り、分け隔てなく人を愛する私になりたい」という思いを抱きながらも、どうしてよいか分からない。そのような意味で、自己愛の塊/人を愛することが出来ない病にかかり、正にルターが言うように、私たちこそが惨めな姿で横たわっている旅人の姿と重なって来るようにも思うのです。しかし、この旅人を見捨てない人がいた。それがサマリア人です。ルターは、このサマリア人こそが、主イエスなのだ、と語るのです。
ところで、福音書記者ルカは、神、もしくは主イエスにしか使わない「憐れむ」という動詞をサマリア人にも使っています。これは、「内臓がギュッとよじれるほどの痛みを感じる思い」という意味で、相手の苦しみを自分の内にあるものとして感じてしまうという意味があります。主イエスこそが、愛に生き得ないで苦しむ私たちに近づき、その傷を治療し、再び立ち上がれるように、つまり、愛に生きる者へと変えてくださるお方なのです。
御言葉と祈りに生きるという聖書と祈りを通して神さまと交わる生活の目標は、聖書に精通するとか、知識を増やすということではありません。それを通し神さまの愛を深く経験し、神さましか癒すことのできない渇きを癒していただく。神の愛に留まり、心に芯まで温めていただく。その結果、「行って、あなたも同じようにしなさい」と語られるキリストに倣って生きる者へと少しずつ変えていただくのです。
新しい年、聖書と祈りを通して、魂をキリストの愛で充電していただき、「行って、あなたも同じようにしなさい」という主イエスの命令に従う者として生かされて行きたいと願います。
お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

礼拝を通して神に仕える―信仰の基本を確認する②

松本雅弘牧師
詩編95編1-7節
ローマの信徒への手紙12章1-2節
2022年1月9日

Ⅰ.救いの目的としての礼拝

年の初めに、今年も「神さまへのおささげカード」を配らせていただきました。例年ですと、第2主日の後に、新年地区祈祷会が行われ、成人のお祝いをした方たちも含め、このカードを用いながら、新年の抱負を語り合い、共に祈りを捧げる交わりを持っていますが、今年もコロナの関係で、行うことが出来ません。
その代わりと言っては何ですが、先週から、信仰生活の基本を一つひとつ確認しながら、新しい年を始めています。もしよろしければ、毎週、信仰生活の基本を一つひとつお話しますので、説教をお聴きになった後、このカードを使って、今年取り組んでみようと思わされたことがありましたら、この欄に記入していただいたらどうでしょう。そして、それぞれの小グループの交わりなどで、書いたことを分かち合いながら、新しい年を始めることが出来ればと思います。
さて、今日はその2回目、礼拝についてご一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.献身、価値観が整えられる場と時としての礼拝

礼拝を考える上で、今日、選んだ個所の一つがローマの信徒への手紙12章1節と2節です。ここから礼拝について3つのことをお話したいと思います。
ここでパウロは、「自分自身を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げることこそが、礼拝なのだ」と語っています。つまり礼拝とは献身であるというのが第1のポイントです。
ところで、礼拝が礼拝として成り立つために、最低、2つのことが必要だと言われます。1つは目に見ることはできませんが、そこに生ける神さまが居てくださるということ。もう1つは、その神さまを礼拝する人間がその場に居合わせること。この2つがあって初めて礼拝が礼拝として成り立つと言われます。ですから、目に見ることはできませんが、インマヌエルなるお方が、聖霊においてこの礼拝に臨在しておられることを心の目をもってしっかりと見ていく。私たちが感じようが感じまいが、今ここに神さまが居てくださり、そのお方を礼拝する私たちがいることで、この礼拝は成り立っているわけなのです。
賛美をする時に単に歌を歌っているのではなく、そのお方に心を向けて賛美します。聖書の言葉を聞く時に、そのお方からの語りかけとして聴くことです。そして、「礼拝は献身である」と言う時に心に浮かぶのは、受胎告知を受けたあのマリアが、「私は主の仕え女です。お言葉通り、この身になりますように」と言って、自らを主の語られる御言葉に委ねて行った姿、それこそが献身の姿なのではないでしょうか。
礼拝についての2つ目のポイントは、礼拝は私たちの価値観を神の国の価値観へと造り変える時と場であるということです。
ご存じのように、礼拝の中心は御言葉です。礼拝において、聖書を通して語られる神さまに心を開きます。その結果、何が起こるかと言えば、「心が新たにされる」と、今日の2節で語られています。
この「心」という言葉は、「ヌース」というギリシャ語で、英語の聖書では「マインド」と訳されています。2節を見ますと、神を礼拝することで、「心/マインド」が「新しくされ自分が造り変えられていく」、具体的にどのような変化が起こるかと言えば、「何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになる」。一言で言うならば、永遠のベストセラーと呼ばれる聖書の価値観によって私たち自身が導かれていく、というのです。
昨年の12月28日の「天声人語」に「世の中には二種類の人間がいる。『カラマーゾフの兄弟』を読破したことのある人と、読破したことのない人だ」という村上春樹の言葉が引用されていました。新しい年に必ず読みたい本の一つが、『カラマーゾフの兄弟』でしたので、村上春樹の言葉を読んだ時に、ドキッとしましたが、その言葉を読みながら心に浮かんだのは、「この世界には縦軸を持つ人と持たない人という、もう一つの分類もあるのではないか」と思わされるのです。
縦軸を持たない人は、横との比べ合いで生きる人でしょう。人と比べて上か下かが大きな問題となり、少しでも上だったら安心し幸せを感じますが、逆に下だったら、自分には何もないと落ち込んだり、他人の成功を妬んだりしてしまう。場合によっては、同僚や友達の欠点を見つけては「ちっぽけな勝利感」に浸るような貧しい生き方でしょう。
それに対し、縦軸を持つ者は、「上を向く生き方」、神さまを礼拝する生き方です。私の存在自体を喜んでおられる神さまに、意識して心を向けて生きる生き方でしょう。
心を上げてそのお方を礼拝するとき、私をご覧になって微笑んで、喜んでおられる神さまを知る。そうです。礼拝とは「さんさんとふりそそぐ神の愛の光の中での『日向ぼっこ』」ですから。今まで何をもってしても暖まらなかった、芯まで冷えていた心が次第に暖まる経験をする。
お金や物、仕事上の成功や、周囲の人たちからの評価、あるいは様々な楽しみを追いかけながら、それでも癒されなかった心の渇きを神さまの愛は必ず癒してくださる。つまり、私を縛っているこの世の変わりやすい価値観から解き放ち、本当の意味での幸いに導く、神さまの価値観へと私たちの価値観を新しくする時と場が礼拝なのです。

Ⅲ.生活にリズムをもたらす礼拝

そして最後3つ目ですが、礼拝とは私たちの生活にリズムをもたらすものです。
カール・バルトという神学者がいました。よく葬儀の時にお話しするのですが、彼は私たちの人生を「中断される人生」と呼びました。人が召される時、必ず何かをやり残して召されていく。仕事においても、家族のことついても、友人関係でも、趣味においてもそうです。誰であっても、何かをやり残して御許に帰っていく。
では、そんな私たちの人生は何も完成できない、途中で放り出すような「中途半端な人生」なのでしょうか。決してそうではないと語るのです。何故なら、私たちの信じる神さまは、「信仰の創始者であり完成者」だから。神さまは私たちをそれぞれの人生に送り出し、なおかつ、私たちの人生を完成してくださるお方だからです。
これを礼拝との関連で見るならば、私たちが日曜日の礼拝に集うためには、どうしても何かを途中で切り上げなければ集うことは難しいでしょう。あるいはそのために、色々な段取りが必要となります。でも礼拝を守るためのそうした「週ごとの小さな中断」を繰り返す中で、いつか訪れる「大いなる中断」としての「天国への引っ越し」の備えを、私たちはさせていただくのではないでしょうか。そのような意味で、主の日ごとの礼拝は、天をめざす旅人である私たちの生活にリズムを与えるものとなるのです。

Ⅳ.礼拝とは共に/一緒に捧げるもの

最後に詩編95編6節を読みます時、2つのことが心にとまります。1つは、私たち人間の生きる目的/存在理由です。私たち人間は、神によって造られた、それ故に、造り主なる神の御前に跪こう、つまり礼拝する者として生きよう、ということ。そしてもう1つは、ここで詩編記者は、「さあ」と呼びかけています。「さあ、みな共に、ひれ伏し、身をかがめよう。私たちを造られた方、主の前にひざまずいて、共に礼拝しようではないか」と。自分ひとりではなく「共に・一緒に」ということ。私たちが礼拝を、「共同の礼拝」と呼ぶ理由が、こうしたところにあります。
コロナ感染症が収まらない中、今も引き続き、オンラインの礼拝が中心となっています。そうした中、自分自身を見ていると、私のなかでの礼拝の優先順位がどんどん下がっていく危うさを感じることがあります。ともすると楽な方、楽な方へと動いてしまう。そんな危うさを経験します。しかし聖書が教える本来の礼拝とは、個人で捧げるものではなく、キリストの体なる教会として、共に集い、共に捧げるのが礼拝であることを、まず心に留めたいと思うのです。
現在、新種のオミクロン株の感染の勢いが止まりません。そのような意味でどうしてもオンラインの礼拝を中心にせざるをえない。そのような場合でも、ぜひ、自分一人で捧げる個人の礼拝ではなく、あくまでも主日共同の礼拝の一部として、意識的に捧げることが大切なのではないかと思うのです。
私たちカンバーランド長老教会の「礼拝指針」には、この点について次のような告白があります。最後にそれを紹介してお話を締めくくりたいと思います。
「神はイエス・キリストによって一人一人を贖い、キリストのからだである教会の構成員として、神ご自身との関係、そして人間同志の関係に入れられる。であるから、キリスト教の礼拝は、何よりも共同的なものと理解される。つまり、個人は信仰共同体の肢体として自己の真の意味を見いだすのであり、個人の礼拝は共同体の信仰と賛美と切り離されて存在するのではない、ということである。」(「礼拝指針」「Ⅰ共同の礼拝」)
お祈りいたします。

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主日共同の礼拝説教

主がしてくださったことを知らせる―信仰の基本を確認する①

松本雅弘牧師
マルコによる福音書5章1-20節
ペトロの手紙一3章15節
2022年1月2日

Ⅰ.はじめに

今日は、今年最初の主の日の礼拝です。2022年は、「主にあって一つとなる」というテーマで、ヨハネ福音書17章23節を主題聖句として掲げながら、歩んでいきたいと思いますが、さて今日から、「信仰生活の5つの基本」を確認するところから新しい年を始めたいと思います。第1回目は、「キリストを知り、キリストを伝える」、言い換えれば「証しの生活」についてです。
私自身、「証しの生活」について意識し始めたきっかけは、ちょうど大学1年生になる春休みでした。忘れることのできない、2つの大切な経験をしました。一つは、チラシ配りでたまたま幼馴染に配り、彼から「もしかして松本お前、こんなところで何してるの?」と言われ、急に恥ずかしく思い、またそう反応した自分自身に驚いた経験です。そしてもう一つは、進学を契機に教会の近くに一人暮らしをしようとしたところ、ある先生から今日の聖書箇所を示され、私自身の逃げの姿勢を指摘された経験です。

Ⅱ.ゲラサの悪魔付きの男

今日の箇所で、主イエスにお供を願った人は、正気になる前は、地元「ゲラサ人の地方」において、思い出すのも嫌になるような、彼としては本当に恥ずかしく、消してしまいたくなるような生活をしていました。その彼をご覧になって主イエスは、「名は何と言うのか」と問いかけておられます。
ご存じのように聖書は、名前がその人の本質と深く関わりがあることを教えています。ですから、この投げ換えは、彼からすれば、「あなたは誰なのか」と問いかけられたように感じたのではないでしょうか。すると彼は、「名はレギオン。我々は大勢だから」と答えたのです。
『「よい子」という病』という本の中に、親や学校の先生や、周囲の期待に一生懸命こたえるように、言わば「よい子」として生きようとした結果、心を病み、自分が分からなくなってしまった若者たちの切実な証言が綴られています。私は、今日の箇所に登場するゲラサの悪魔付きの男の姿が、その本に出て来る若者たちと重なって見えるのです。5節の「石で自分の体を傷つけていた」とは、一種の自傷行為でしょう。本の中にもそうした若者が何人もいました。
私たちが、周囲の期待に応え「よい子」であり続けようとするためには、それなりの能力や賜物の必要となります。ある意味、ゲラサの悪魔付きの男も足枷や鎖につないでも、それを砕き引きちぎってしまうほどの怪力の持ち主でした。ただ、自分をさらけ出したら、嫌われるかもしれない。そうした恐れが心にありますから、本当の自分を出すことができない。そのように周りの人が喜ぶように人の顔色を伺って生きるのは、かなり無理のある生き方でしょう。仮に、周囲のそうした期待、要求、あるいは役割を演じて生きるということは、正にレギオンといわれるほどに、多くの名前や役割を背負うことになりますから、その結果、本当の自分が分らなくなってしまう。「石で自分の体を傷つけ」ながら、自分自身を確認しようとしていた。主イエスは、その彼を見て、「名は何と言うか/あなたは一体、誰なのか」と問われたのです。そして彼を虜にしていた悪霊から解放されました。その結果、彼は落ち着きを取り戻したのです。
カンバーランド長老教会の「礼拝指針」に、「礼拝するとは人間が人間になることである」とあり、聖書で言うところの救いとは神さまが造られた本来の私を取り戻していくことだと告白されています。つまりクリスチャンになるということは特別な人間になることではなく、人間らしい人間になることを意味します。神さまが願う、私に成っていくのです。この男性も以前は裸で、狂ったように騒いでいたのです。その彼が、主イエスの働きかけの中で我に返る経験をした。自らの人生の神さまを迎えることになったのです。
私たちの人生に、神さまとの縦の関係がない場合、私たちは自分が誰なのか分からなくなります。そのため、一生懸命、横と比較し合うのですが、そこからは何も生まれません。自分の位置を見出すことができない。自分が誰だか決して分からない。よくて優越感、場合によっては劣等感が生れるだけでしょう。
しかし人生に神さまとの関係をいただき初めてこの世界で、この歴史において、私しか立つことのできない1点を見つけることができる。それが生きる上で何よりも大切だ、と聖書は教えています。ですから、9節の「名は何と言うか/あなたは誰なのか」という問いかけは、正に「神との関係の中で自分自身を見つけなさい」という招きの言葉のように聞こえてきます。

Ⅲ.「証しの生活」へのチャレンジ

さて、悪霊を追い出していただいた後の彼は、「服を着、正気になって座って」いました。ということは裸で騒いでいたわけです。この村で醜態をさらし周囲の人たちに嫌がられる存在だった。そうしたことを考えるだけでも恥ずかしくて仕方がなかった。どこかに行ってしまいたいと思ったでしょう。彼はそうした古い自分に別れを告げ、再出発をするために主イエスにお供を申し出ました。
ところが主イエスは、それを許さなかった。そして、最初にご紹介した、19節の御言葉、「自分の家族のもとに帰って、主があなたにしてくださったこと、また、あなたを憐れんでくださったことを、ことごとく知らせなさい。」新共同訳聖書では、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせない」。つまり主イエスは、彼を実家に戻し、地元で証しすることを求めた。「証しの生活」へのチャレンジをなさったのです。
これを受けた彼はどうしたでしょう?20節。「そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことを、ことごとくデカポリス地方に言い広め始めた」とあります。その結果、「人々はみな驚いた」と、福音書は、彼の「証しの生活」の結末をそのように記録しています。彼は主イエスの召しに応えて生きていったのです。

Ⅳ.まず祈るところから始めよう

さて、皆さんは、いかがでしょうか。今日は「証しの生活」がテーマです。私たちが、神さまを知り、神さまに愛されている恵みを知る時に、必ず、その神さまのこと、神さまの愛を、周囲の人たちにお知らせしたいと思うようになっていくのではないでしょうか。
考えてみれば、ここに居るほとんどの方たちは、生れた時から明確に信仰を持って生まれた人は一人もいません。必ず、誰か他の人から神さまのことを知らされたのです。そのようにバトン・リレーのようにして、福音が、今、私たちの許に届けられたのです。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、次のように語っています。
「…口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです。聖書には、『主を信じる者は、誰も恥を受けることがない』と書いてあります。ユダヤ人とギリシャ人の区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者は皆、救われる』のです。(※次です)それでは、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がいなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができるでしょう。『なんと美しいことか、良い知らせを伝える者の足は』と書いてあるとおりです。」(ローマ10:9-15)
今日、「神さまへのおささげカード」が配布されましたが、その裏のページに、今年、私がぜひイエスさまのことをお伝えしたい、家族や友人の名前を記入する欄があります。主イエスが、ゲラサの悪魔付きの男に、「自分の家族のもとに帰って、主があなたにしてくださったこと、また、あなたを憐れんでくださったことを、ことごとく知らせなさい。」と求められたように、今年、主イエスは、私たちに対しても、同じようなチャレンジをしておられるのではないでしょうか。
「いや、そんなことできません」とおっしゃる方もあるかもしれませんが、先ず、そのカードに名前を書いて、祈るところから始めることはいかがでしょうか。
今年は、2年ぶりに4月と10月の春秋の歓迎礼拝を再開したいと願っています。先ずは、その礼拝に、私が声をかけ勇気が与えられるように。そのように祈るところからまず始めていきたいと思うのです。
「自分の家族のもとに帰って、主があなたにしてくださったこと、また、あなたを憐れんでくださったことを、ことごとく知らせなさい。」
お祈りいたします。

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新年礼拝

主にあって一つとなる

松本雅弘牧師

ヨハネによる福音書17章23節
フィレモンへの手紙
2022年1月1日

Ⅰ.はじめに

新年あけましておめでとうございます。
私たち教会活動テーマは「主にあって一つとなる」、主題聖句は、ヨハネ福音書17章23節の御言葉、「私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたが私をお遣わしになったこと、また、私を愛されたように、彼らをも愛されたことを、世が知るようになります。」を掲げることになりました。
聖書の神さまは、父・子、聖霊なる三位一体の神さまです。すでにご自身の中で愛の交わりを味わっておられる。言わば「交わりの神さま」です。その交わりの神さまに造られた私たちには、すでに交わりのDNAが魂に刻まれている。ですから、私たちは、主にある交わりに与る時、初めて人間らしく生きることができる。元々、そのように造られているからです。その交わりとは、神との縦の交わり、そしてもう1つ、お互い同士の横との交わりです。そして主イエスは、その交わりにおいて、「一つとなる」ことを祈っておられます。

Ⅱ.フィレモンへの手紙の背景

今日は、今年の主題聖句を考える上で、パウロが書いたフィレモンへの手紙を読ませていただきました。この手紙が書かれた時代、社会は奴隷という身分がありました。オネシモはその奴隷でしたが、主人の物を盗んでローマに逃げてしまった。大都会ローマの雑踏に紛れ込めば「安全」と思ったのでしょう。そうこうするうちに彼は獄中のパウロに出会い、パウロとの交流を通して福音を聞き回心しクリスチャンとなりました。
実は、オネシモによれば、彼の主人はフィレモンで、パウロの宣教の協力者でした。この時、フィレモンは幽閉生活を強いられていたパウロの世話をしていたわけですが、機会を見てオネシモをフィレモンのところに送り返そうと思い、書いた手紙が「フィレモンへの手紙」でした。
このパウロの切々たる文章を読みますと、他の手紙を書いている時よりも牧会者パウロの心を伝え、イエスさまに似た者に変えられ続けていた彼の姿を見せてくれます。具体的な日々の生活の中で、具体的に人を生かそうとしているパウロと、そうした導きに応えていった人々。それが今年、私たちに与えられている「主にあって一つとなる」という、「主にある、私たち相互の交わり」の姿、それこそが「一つとなる」ことの姿なのではないかと思うのです。

Ⅲ.「主にあって一つである」ことの意味

ところで、この時代、教会の多くは、「家の教会」と呼ばれていました。大きな礼拝堂があったわけではありません。むしろ、家ごとのクリスチャン同士の交わり単位で礼拝が捧げられ、交わりがなされていました。そしてしばしば、「家の教会」単位でクリスチャンになった奴隷たちの身分を買い取り、彼らを自由の身にしていったそうです。
例えば、パウロが、コリントの信徒へあてた手紙6章20節に、「あなた方は、代価を払って買い取られたのです」と書いていますが、考えてみれば私たち一人ひとりは、元々罪の奴隷であったにもかかわらず、キリストの命という代価で、その隷属/奴隷状態から解放された者たちです。そうした神の恵みを知った者たちが、その恵みに対する具体的な応答として、教会のメンバーとなったが、今もなお社会的身分としては奴隷であった人々のために、実際にお金を支払い、彼らを買い戻す働きをしたのです。このように、当時の、ローマ社会にあって、神の国の価値観にそった新しい生き方をすること、それがクリスチャンの交わりであり、それがキリストの教会だったのです。
こうしたことを踏まえて、もう一度、1節と2節を見ていただきたいのですが、ここでまずパウロは、家族の1人ひとりに呼びかけています。神さまの御前にあって家族は平等な地平に立つ者であることが打ち出されています。
これは今の私たちにとっては当たり前のことかもしれません。でも、2千年前の当時のローマ社会の、いわゆる「家父長制社会」では当たり前ではありませんでした。いや、少し前の日本でもそうですね。
この手紙の最初の2節でパウロは、当時の習慣からすれば、決して当たり前でない仕方、すなわち、家族の1人ひとりを、神さまの御前にあって同じく尊い人間として、神さまの形に造られた者として呼びかけていることが分かります。当時、この手紙を読んだ人にとっては、とても新鮮だったと思うのです。物の本によれば、こうした「家の教会」を積極的にリードしていたのは女主人であった、と言われます。食事を供するのは女性の仕事でしたので、何かそのことも、自然な事として受け入れられるように思います。
しかも、ここでは食事作りだけではなくて、イエスさまとの出来事を話し合い、今日、私たちも共にお祝いしますが、「主の晩餐、聖餐」にあずかることも行われていたと記録にあるわけですから、パウロがガラテヤの信徒への手紙の中で書いた「ここではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」が、文字通り実践されていたと思われます。このように、「家の教会」の女性たちは生き生きしていました。使徒言行録やルカ福音書、ローマの信徒への手紙に登場する裕福な女性たちと共に、「家の教会」の女性たちは、初期宣教活動の着実な担い手でした。

ある時イエスさまは、ご自分を探しにやってきた母親のマリアさんや兄弟姉妹、そしてそこに居合わせた人々に対して、「家族とは誰か。神の御心を行う者が兄弟であり、姉妹であり、また母である」と言われました。そのイエスさまの言葉の中には、「父・お父さん」という言葉が入っていないのです。何故でしょう。それは、「天にいます方」だけを「父」とするからだ、と言われています。つまり、初代教会の「主にある交わり」の様子を伝える、様々な記録や資料を読みますと、このイエスさまの御言葉が、「男性を中心とするローマ社会」の中で、まさに現実として機能していたことが分かるのです。
私たちは、御言葉に促され、人生における「出エジプト」、すなわち、罪の奴隷状態や、あるいは、洗礼を受ける前の古い生き方の奴隷状態から解放されました。そのために、神が用意してくださった神の小羊、イエス・キリストが十字架に掛かって肉を裂き、血を流してくださったのです。そのようにして、私たちを縛る「古い物語」から自由にされ、本当の意味で、礼拝のために、また神さまと人々と交わりを喜び、楽しめる者へと解放されました。そして、そのことを常に確認する場が、この時代の人々にとっての「主にある交わり」だったのです。

Ⅳ.多様性と主にある一致

ここでパウロは、悪い事をした人をどうか赦してやってくださいと言っているわけですが、その事を口でお願いするだけではない。自分を代わりに罰して、その人を赦してやってくださいという。ちょうど、私たちが毎週、礼拝の中で祈る「主の祈り」の一節のようです。このパウロが深く愛し、心から従っていたお方が主イエスさまでした。よく考えて見ますと、このイエスさまこそ、実はパウロが犯した罪を、父なる神さまに赦していただくために、自ら罪の償いとなって十字架にかかってくださった。パウロは、このことがよく分かっていたわけです。
私たちが大切にしている、「主にある交わり」って何でしょうか。このイエス・キリストの罪の赦しの恵みを常に確認し合う場です。イエスさまが命をかけて、「どうか彼らをお赦しください」とお願い、私たちの身代わりとして十字架の上で命を捧げてくださったお蔭で、私たちは赦されたからです。
フィレモンの家のように奴隷が居るなら、その人が自由な身になれるように。ハンディーを持つ人が居るなら、その人があたかもハンディーがないかのように。外国の人がいるなら、「寄留者」ではないかのように。そして小さな子どもがいるなら、みんなの神さまの子どもなのですから…。そして社会的な問題と真剣に取り組む人がいるならば、それを共有することができるように。そうした振る舞いが、そうした生き方が自然な形で現実に起こる場が主にある交わりであり、教会なのです。
このような交わりを実体験するために、主は具体的な、顔の見える兄弟姉妹を私たちの周囲に置いてくださっている。そして一人ひとりは、興味や関心、また賜物も背景もことなりますが、むしろそうした違いが対立の原因となるのではなく、そうした私たち一人ひとりを包む、キリストの体なる教会の豊かさにつながっている。
今年もコロナのことがいつも頭の片隅にありながらの生活になりますが、しかし、今日の御言葉にあるような意味で「主にあって一つ」であることを経験し、その交わりが、私たちの周囲の方たちにとっての良い証しとなりますように。そのような高座教会、また私たちであることを祈り求めてまいりたいと願います。お祈りします。

カテゴリー
クリスマス礼拝 主日共同の礼拝説教

救い主到来の宣言

<クリスマス礼拝>
松本雅弘牧師 説教要約
ミカ書5章1-4節a
ルカによる福音書1章39-55節

2021年12月19日

Ⅰ.喜びに溢れるマリア

クリスマス、おめでとうございます。主イエスのお母さんとして召されたマリアは、天使ガブリエルから信じられないような御告げを受けました。いわゆる「受胎告知」です。若いマリアが母親として召された。それも救い主イエスのお母さんです。マリアにとって、とてつもない大きな出来事でした。
当時、マリアには婚約者ヨセフがいました。まずヨセフのところに急いで行って話を聴いてもらってもよかったかもしれません。あるいは家族か所属するナザレの会堂長のところに出掛けて行ってもよかったでしょう。しかし、マリアはそうせず、「受胎告知」という大事件の余韻が冷めやらぬ間に、立ち上がって、大急ぎで山里に向かったのです。
ところで、ふと気づくと急ぎ足になっている自分を発見することがあります。そのような時、一度立ち止まり、「そもそも何で急いでいるのだろう?」と考えるようにしています。すると心配や恐れがあることに気づかされます。それが原因で気持ちが急いでしまっている。あるいは逆に向かう先にある楽しみへの期待感が急がせていることもあるでしょう。
この時のマリアはどうだったのでしょう?「マリアの賛歌」の冒頭に「私の魂は主を崇め」とあります。この「崇める」という動詞が継続を表す現在形で書かれています。「私の魂は主であるあなたを、今もずっと崇め続けています」という意味です。これに対し続く「私の霊は救い主である神を喜びたたえます」の「喜びたたえる」という動詞は、過去の動作を意味する形で、「私の霊は救い主である神を喜んでいた」となります。つまり、すでにこの時、マリアは喜んでいた。不安だったので、確かめようとしてエリサベトの許に行ったのではありません。彼女が急いでいたのは、その喜びに急き立てられていたから。それが、ここでルカが強調していることなのです。

Ⅱ.マリアとエリサベトとの出会い

喜び溢れたマリアを迎えたのが親戚のエリサベトでした。そして本当に不思議なのですが、エリサベトと会う時点まで、マリアの心の中にあった喜びがまだ歌になっていなかった。挨拶をかわし抱き合って喜んだ時、初めてマリアの口に賛美の歌が溢れたのでしょう。こうして歌われた賛歌が後の人が「マリアの賛歌」と呼ぶようになった歌でした。
ところで、旧約聖書を読んでいますと詩編147編やサムエル記上2章にある「ハンナの祈り」などがこの「マリアの賛歌」と実によく似ていることに気づかされます。専門家によれば、マリアはゼロからこの「マリアの賛歌」を歌い上げたのではなく、幾つもの聖書の言葉を用いて賛美しただろうと言います。
ですから、ここで注目したい点は何かと言えば、マリアが自分だけの言葉で歌を歌おうとはしなかったことです。御子イエスさまを出産するという恵みを独り占めしようとは思わなかった。むしろ旧約で歌い継がれた神さまの恵みに、自らも与っている一人の信仰者として、今こうしてエリサベトと一緒になって、互いに与えられた恵みを確認し、感謝しながら、それを歌にして歌おうとしている。「私だけではない、あなたにも、神の恵みが与えられている」と、信仰の歌、それも昔からの歌を、新たな思いを込めて歌ったのが、この「マリアの賛歌」だったということです。

Ⅲ.厳しい現実の中で、主を賛美することができる

このようにして歌われた「マリアの賛歌」の冒頭に「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。」とあります。
この「喜びたたえます」の原文を確認すると「喜ぶ」という言葉だけでした。直訳すれば、「私の霊は救い主である神を喜びます」となります。ただ、聖書の教えによれば、神さまをたたえる/賛美することは、イコール神さまを喜ぶことなのです。まさにノリッチのジュリアンが、「神に示すことのできる最高の敬意とは、神に愛されていることを知ることにより、私たちが喜んで生きることである。」と語ったとおりです。ですから聖書は、「喜ぶ」という意味を持つギリシャ語の言葉を少し膨らませるようにして、「喜びたたえる」とか「たたえる」と訳しているのだと思うのです。
ところで、今日はクリスマス礼拝です。神を礼拝することはイコール神を喜ぶことだと今一緒に確認したわけですが、実際、礼拝に集う私たち心の中に喜びがどれだけあるのだろうか、自分に正直に心の内を探った時に、果たしてどれだけ、神さまを喜んでいるのでしょうか?そう考える時、「喜ぶこと」は当たり前のようで、実は、必ずしもそう簡単ではないことに気づかされる。神の御前に吟味し、「喜びがあるか」と問われると、下を向いて黙るしかない状況があるかもしれません。
私は牧師ですので、毎週、説教の準備をします。日曜日ごとに講壇に立ち、御言葉の取次ぎをします。そうした私たち牧師にとっての難しさの一つは、私たち自身がいつも信仰豊かに喜びに溢れているかと言えばそうではない。正直言って、それが現実でしょう。教会の方たちからのお話、寄せられる祈りの課題や様々な情報、厳しさや不安や痛みが伝えられながら、それに対して何も出来ない、時に心が揺さぶられる経験もいたします。また自分自身の弱さや誘惑、家族や家庭のこともあります。目を外に向ければ、様々なニュースで心が揺れ動きます。まさに「神さまがおられるのに、何故?」と訴えたくなるような出来事に囲まれています。そうした一週間を過ごし、再び、主を喜ぶ日曜日がやって来るのです。
でも、いつも思うのですが、一週間かけて御言葉と取り組む中で不思議と恵みに与り、日曜日の朝になると、いただいた恵みを皆さんと一緒に分かち合いたい、喜びたいという思いにさせられる。まさにそれは「強いられた恩寵」なのだと思います。そして、これは牧師だけではありません。私たちすべての人に、「強いられた恩寵」がある。それは「礼拝を守る」ことです。礼拝を守り続ける。そのために時間を調整し、健康管理や様々な工夫をするのです。そうしたプロセス全てが私たち一人ひとりに与えられている「強いられた恩寵」、神が用いられる「恵みの手段」なのではないでしょうか。
コロナが完全に収まっていない今、礼拝動画が中心です。礼拝動画やズーム配信があるので地方に行かれた方たちも動画を通して礼拝を捧げることができると、喜びの声を聞かせていただきました。それは本当に感謝なことです。しかし一方で、いつでもどこでも見ることができるという便利さが信仰生活の緩みにつながることも大いにあるのではないかと思いうのです。独り子イエスさまが飼い葉桶に生まれ、十字架にかかり、復活されたのは、神が本来意図された、本当に人間らしい生活、神との関係という人生の縦軸をしっかりといただき、神を神として生きるため。一言で言えば、礼拝の民の一員として生きるためでしょう。

Ⅳ.さんさんとふりそそぐ神の愛の光の中での「日向ぼっこ」

最後にもう一度マリアの賛歌に戻りますが、ここでマリアは「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます」と主なる神さまを礼拝しているのです。彼女の喜びの源泉はそこにありました。ところで、井上洋治という神父が、祈りについてこんな風に語っていました。「私にとって祈りとは、何よりも、さんさんとふりそそぐ神の愛の光の中での『日向ぼっこ』である。」私は、井上神父の「祈り」という言葉を礼拝と置き換えてもよいのではないかと思いました。「礼拝とは、何よりも、さんさんとふりそそぐ神の愛の光の中での『日向ぼっこ』である。」
身分でもない、性別でもない。今まで、偉大な神さまは偉大な人々にしか目をお留にならないと思っていたのに、そうではなかった。「さんさんとふりそそぐ神の愛の光の中で」、マリアの言葉を使うならば、「卑しい仕え女」に過ぎないこの私に目を留めてくださったことに気づいた。そして偉大なことをしてくださったことを知らされた。そのようにして、この私を愛してくださっている。マリアはそうした一つ一つの恵みを受け取り直したのでしょう。そうした一つひとつの恵みが、彼女にとっては驚きであり大きな喜びであったのです。
私たちに必要なことは「さんさんとふりそそぐ神の愛の光の中」、すなわち、慈しみ深い神さまの御前に自分自身を置き、光に照らし出された、生活の中ですでにいただいている一つひとつの神の恵みに気づくことなのではないでしょうか。
今日は、マリアにもたらされたクリスマスの恵みを共に味わうことを通し、実は、すでに私たちにも、神の恵みが与えられている。礼拝を通し、神の御前に共に私たち自らを置くことを通して、クリスマスの恵み、そして再び来られる主に期待できることを、心から感謝したいと願います。お祈りします。