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主日共同の礼拝説教

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受難節第5主日
松本雅弘牧師

ルカによる福音書15章1-7節
2022年4月3日

Ⅰ.徴税人と罪人

今日から春の歓迎礼拝が始まりました。今日、初めてキリスト教の礼拝に来られた方、初めて聖書の言葉に触れた方もおありかと思いますが、心から歓迎いたします。
私も中学生の時に初めて聖書を買いました。神田に三省堂という本屋がありましたが、そこに行くと入り口の一番近いところのショウウィンドウに並べてあったのが聖書で、そこに行くたびにいつも気になっていました。そして、ある日、「買おう」と心に決めてお店に行きました。ところが、聖書を見ましたら、旧約聖書と新約聖書が一冊になったものと、新約聖書だけのものと二種類ある。どういうわけか私は、旧約聖書は、旧教、すなわちカトリックの聖書、そして新約聖書は、学校で新教と習っていましたので、プロテスタントの聖書と思い、「旧教で行くか、新教で行くか」と、自分で勝手に勘違いして、そんな大きな問いの前に立たされ、聖書一冊買うのにドキドキしたことを今でも覚えています。結局、「今、結論は出せない」と思って、ひとまず旧約聖書と新約聖書の両方が一緒になっているものを購入したのです。でも、買ったことでほっとしてしまって、そのまま読まずに、しばらくの間、本棚に置いたままになってしまいました。
聖書の中に、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口からでる一つひとつの言葉によって生きる」という有名な言葉があります。肉体を維持するのに糧が必要なように、私たちの心にもエネルギーとなる糧が必要です。この歓迎礼拝に参加することで、私たちにとっての大切な心の糧である聖書の言葉に触れ、神さまから生きる力をいただけたら、どんなに幸いかと思います。
さて、先ほどの続きですが、一大決心して購入した聖書でありましたが、中学生のときは、もうそのまま本棚に飾ってあるだけでした。でも、高校生になったとき、初めて聖書の言葉と真剣に向かい合うことを始めました。それはきっかけがありまして、学校での生活が思うように行かなくて、毎日、何か虚しいものを感じながら過ごしていたからです。「自分なんかいてもいなくてもよい」と真剣に思いましたし、悩みました。この「自分なんか、いてもいなくてもよいのではないか?」という心の奥底にある問いかけに対して、はっきりと「そうではない!」とのメッセージを伝えているのが聖書の言葉、神の言葉であると思います。
今回の歓迎礼拝では、新約聖書の中のルカ福音書の15章に出てくるイエス・キリストの譬え話から、御言葉に込められた神さまの私たちに対する熱い思いをお伝えできたらと願っています。その熱い思い、それは、「あなたがいなくなったら、あなたを捜す方がおられる。いや、今、すでに捜されている」とある牧師は語っていましたが、まさにそれが、神さまの熱い思いであり、この歓迎礼拝でお伝えしたいメッセージです。
ではルカ福音書15章1節から3節をご覧ください。1節に「徴税人」という言葉が出てきますが、徴税人は、当時、ユダヤを支配していたローマ帝国の手先となって、同胞のユダヤ人から税金を徴収する人のことです。ですから、そうした徴税人を当時は、十把一からげにして「罪人」と呼んでいました。2節の不平の言葉の中に、「罪人」しか出てこないのは、そうした背景があります。そうした人々が、話を聞くためにイエスさまの周囲に集まってきていたのです。
何故でしょう?イエスさまは相手にしてくださったからです。世間の人々は、徴税人や罪人とレッテルを貼られた人々を、相手にしないのですが、イエスさまだけはちがっていた。彼らがイエスさまと接する時に、「自分はこの方から相手にされている。いや、この方は私に関心を持って下さっている」。そうしたことが、彼らには、ちゃんと分っていたのです。そして私たち誰でも、関心を寄せてもらえると生きることができます。イエスさまというお方は、そのように私たちと接せられるお方なのです。

Ⅱ.不平

さて、そこに「ファリサイ派の人々や律法学者」と呼ばれる人々がいました。当時の宗教指導者、社会のリーダーたちです。その光景を見ていた彼らが不平を言ったのです。どんな不平不満を言ったのでしょう。
一つは、イエスさまが、自分たちが罪深いと見定めた人々と共にいること、ましてや食卓を囲むことなどは、律法に照らし合わせて絶対にあってはならないことだと考えていたことです。二つ目は、イエスさまを、神さまによる罪の赦しが簡単に与えられると吹聴する説教者だと決め付けていたことを挙げることができます。

Ⅲ.「見失った羊」の譬え

さて、こうした頑ななファリサイ派の人々や律法学者の硬い心を解きほぐすかのように、身近な出来事を例にとりながら譬えをお語りになったのです。それは一匹の羊を失くした羊飼いの譬えです。
ここでイエスさまは、見失った一匹の羊を捜し求める羊飼いとして、神さまのことを教えています。迷子になったこの羊は、どちらかというと自分の失敗の故に、自分の愚かさの故に、迷子になってしまいました。自業自得と言われてもしょうがないでしょう。しかし、羊飼いからしたら、その羊は、「見つけ出すまで捜し歩くほど」、いなくなっては困る尊い存在なのです。
ある人は、「百匹いるから、一匹くらいいなくなってもいいではないか。百分の一に過ぎないのだから」と言うかもしれません。聖書の別のところを読んでみますと、当時のユダヤの羊飼いは、羊一匹一匹に名前をつけて、自分の子どものように大切に養い育てている姿が出て来ます。私たちに当てはめて言うならば、ペットのような存在です。
私もペットを飼って初めて知ったのですが、明らかに家族の一員です。ましてや野宿しながら移動生活をしている羊飼いと羊たちは、まさに運命共同体のような関係でしょう。「その羊が一匹でも欠けてしまえば、見つけるまで捜すでしょう」とイエスさまは言われるのです。そこに居合わせたユダヤの人々は皆、うんうんとうなずいたと思うのです。

Ⅳ.見失われたものの大切さ―「あなたは高価で尊い」

いかがでしょうか。一人の人が失われる。一人の人が居なくなる。それは神さまからしますと大きな喪失、そして痛みが伴う悲しみだ、とここでイエスさまは、そうおっしゃるのです。そして仮に、その人が回復されたならば、それはとてつもなく大きな喜びなのだ、と言われるのです。
もう少し考えてみたいのですが、ここでイエスさまが仰っているのは、見つかるまで捜し求める羊飼いは、羊一匹を貨幣に換算し、一匹分の財産を失って損をしたので悲しんでいるのとは違い、ただ、そのまま、その羊が羊飼いからしたら、かけがえのない存在、大切な宝物だから失って悲しんでいる。つまり悲しみの理由は、その羊に対する羊飼いの思い、神さまの愛の心なのです。
先ほどお話しましたが、若い頃、私は、「自分なんて、居ても居なくてもいいのではないか」と真剣に思い悩んだことがありました。その時のことを振り返ると、「そうではない!」としっかり否定してくれる言葉が欲しかったのだと思います。
今日の譬え話、そして今月、一つひとつ読んでいく譬え話を通して、イエスさまはこれでもか、これでもかと、「自分なんて、居ても居なくてもいいのではないか」と言う心の叫びや諦めの思いに対して、「そうではない!そうではない!あなたは、神さまから捜されている、尊い存在なのだ」と訴えているのです。
「自分なんて」と思う時、価値のない私が何で生きなければならないのか、と思うことがあります。それに対して聖書は何と言うかと言えば、「神さまに捜されているから、生きなければならない」というのが答えです。聖書は、その神さまを信じるように、それが本当に生きる上で力になることを説いています。
聖書の教える神への信仰とは何でしょうか。ある人が言いました。「信仰とは、この自分も捜されている、主イエス・キリストによって神の愛のうちに捜されているのだということを認めること、受け容れることだ」と。
自分を振り返る時、自分は神からほど遠い生活をしている、とお感じになる方があるかもしれません。また、自分が身を置いているところには神さまなどやって来てはくれない、と言われるかもしれません。いや、実際に洗礼を受けた後でも、何度も何度も神さまが分らなくなることもあるでしょう。
でも、そんな時に、ぜひ、今日のイエスさまが語られた物語、譬え話を思い出していただきたい。私を捜し続けておられる神さまがおられるということ。いや、今、そのお方は私を捜しておられるということ。ぜひ、このことを心に留めていただきたいと願います。
お祈りします。

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貪欲の罪―第十戒

<受難節第3主日>
松本雅弘牧師
出エジプト記20章17節
エフェソの信徒への手紙5章1-5節

2022年3月20日

Ⅰ.はじめに

今日は、十戒の学びの最終回、第十番目の戒めです。出エジプト記20章17節に出て来ますが、「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛とろばなど、隣人のものを一切欲してはならない。」とありますが、今日は貪りの罪について考えてみたいと思います。

Ⅱ.ハイデルベルク信仰問答の受け止め方

さて、今日も最初にハイデルベルク信仰問答を参考にさせていただきたいと思います。ハイデルベルク信仰問答の第113番目の問答が、第十番目の戒めを扱っています。
問い:第十戒は、何を、求めていますか。
答え:神のどんな戒めにも背く、最も小さな、快楽や思いも、もはや、決して、われわれの心に、起こることがなく、かえって、絶えず、心から、すべての罪の敵となり、あらゆる正しいことを、喜びとするように、なることであります。
この問答は、第十戒は何を語っているかではなく、第十の戒めそれ自体がどのような生き方を求めているかを問うています。それを一言で言えば、心からすべての罪の敵となること。あらゆる正しいことを、喜びとするようになることなのだと示しています。
実は今回の問答の後に続く聖句の中には出てこないのですが、エフェソの信徒への手紙に5章1節から5節に、貪る罪に関する具体的な教えが出て来ます。今日は、その箇所を読みながら、十戒が戒める貪る罪について考えてみたいと思います。
1節と2節でパウロは、「ですから、神に愛された子どもとして、神に倣う者となり、愛の内に歩みなさい。」と語り、私たちに与えられている招きが神に愛されている者として生活することへの招きであることを明らかにしています。さらに3節では、「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく歩みなさい」と語り、その招きが聖なる者にふさわしく生きることなのだと教えています。ここに「聖なる者にふさわしく」とありますが、これは神の子とされた者にとっての「ふさわしさの基準」と言えます。
ここでパウロは、一般的なこの世の基準に照らしての良いこと/悪いことでなく、神さまの愛にふさわしく生きているかどうかなのだということを説いています。
主イエスが、洗礼者ヨハネから洗礼を受けることを願った時、最初ヨハネは洗礼を授けることを辞退しようとしました。なぜなら、ヨハネからしたら自分の方こそ、主イエスから洗礼を受けて当然だし、そのほうがふさわしい、と考えたからでしょう。ところが、これに対し主イエスは、本当にへりくだり、「今はあなたから洗礼を受けることが、ふさわしいことなのだ」とおっしゃった。何故でしょう?
主イエスはまことの神の独り子だったのですが、へりくだって人間の姿をとり、ベツレヘムの家畜小屋にお生まれになりました。飼い葉桶に寝かされ、公の生涯で枕する所もなく、僕のように人々に仕え、最終的には十字架にまでへりくだられたお方だからでしょう。
ですから、本来、罪人が受けるにふさわしい洗礼を受けるために、順番を待つ罪人たちの長蛇の列のしんがりに並び、罪人の代表として洗礼を受けられることが、実は神さまの愛にふさわしいことだった、と聖書は私たちに示しているのです。
こう考えて来ますと、主イエスの生涯は、善悪の基準や、この社会の理屈で計ったとしたらふさわしいことなど一つもない。むしろふさわしくないことの連続だったと思います。そもそも何で神の子が飼い葉桶に誕生しなければならなかったのか。十字架にかからなければならなかったのでしょう。私たちの方こそ十字架にかかって当然。理屈の上ではそうなります。善悪の基準で言ってもそうでしょう。けれども、罪のない神の独り子が十字架にかかることが、神の愛から見てふさわしいことだったのです。
3節、4節にある、この「ふさわしさ」とは、私たちの理屈に合う、この世の基準における「ふさわしさ」ではなく、神の愛にふさわしく生きているかを問題にしているのです。ここに神さまに愛されている神の子としての、私たちクリスチャンとしての生き方の基準、「ふさわしさ」の基準があるのです。

Ⅲ.貪欲の罪と偶像礼拝

5節をご覧ください。ここに今日の貪欲の罪が戒められています。しかも大事なことは、この貪欲の罪などが実は偶像礼拝から来ているとパウロが指摘している点です。
ところで、偶像とは何でしょう。預言者イザヤは、「人間は木を刻んで像を作りそれを『神だ』と言って拝む」と語っています。木を刻んで作った物は当然、木に変わりなく、決して神さまではありません。交わることもできませんし、モノ言うこともありません。ですから偶像礼拝の宗教観とは「一方的に私の方から神さまに対してお願いするだけ」となります。道端のお地蔵さんが口を利いて、「あなたはもう少し悔い改めたほうがいいよ」とは決して言いません。耳の痛いことは一切言わないわけです。つまり、偶像は私たちに嫌なことや耳の痛いことを言わないのです。その代わりに、神に造られて私たちが一番必要とする「人格的な愛」も与えてはくれないのです。当然、次に起こることは何かと言えば、心の虚しさ、空虚さです。そして、その空虚さを埋めようとありとあらゆる物をその穴めがけて投げ込んでいく。ある人にとってはお金を貯める事が一時的に虚しさを忘れさせることになるかもしれません。ある人にとってはセックスであったり、ある人にとっては仕事だったり、ある人にとってはお酒やギャンブルであったりする。色々な人がありとあらゆる物をもって心の隙間を埋めようとしますが、残念ながらその虚しさは消えません。心の隙間は本来、その創り主なる神さまだけしか満たすことのできない隙間だからです。
世界的大富豪だったジョン・D・ロックフェラーにまつわる有名な話があります。ある記者会見で、「自分は本当は幸せではなく、満足もしていない」と話したところ、ある記者から「では、あとどれほど、お金を持てば幸せで満足しますか」と質問がありました。ロックフェラーはどう答えたと思いますか?「あともうほんの少しあれば」と答えたそうです。心や生活の中から神を締め出してしまおうとする時、それだけでは決して終わらない。先週、悪魔は隙を伺っているとお話しましたが、神さまが締め出された後の心や生活のスペースが、正に悪魔が働く場となるから怖いのです。具体的には、神以外の物で自分を満たそうとする。「自分、自分」という極めて自己中心的な生き方が始まり、何かを手にするとそれに依存し、「もっと、もっと」と禁断症状すら起こす。何故なら真の神さまを神としない人間は、心の虚しさのゆえに、神でないものを神とせざるを得ないからです。これが偶像礼拝です。
元々は必要なもの、本来、良いものであったとしても、神さまの代用となっていくときに、それはれっきとした偶像でしょう。お金や仕事や学業、アルコールや賭け事、そしてセックスなどが、神のような存在になり、自分を満たし自分を慰めること自体が生きる目的となってしまう。傍から見ると極めて「自己中心」、しかも〈どこにエネルギーがあるのか〉と思えるほど「もっと、もっと」と要求の仕方は貪欲なのです。逆に言えば、それだけ「心の渇き」が強いから。どうしようもない悪循環、まさに地獄です。

Ⅳ.どこから始めるか

では、偶像礼拝の悪循環を断ち切るために、どこから始めるべきなのか。結論から言えば、自分のことから始める。それも物事を語る、この私の口から始めるようにと、ここでパウロは不思議なことを勧めています。3節をご覧ください。「あなたがたの間では、淫らなことも、どんな汚れたことも、貪欲なことも、口にしてはなりません」。そう語った上で、さらに続けます。「むしろ、感謝の言葉を口にしなさい。」私たちの口/唇自体も神からの賜物なわけですから、「ふさわしくないもの」から離れ「むしろ、感謝の言葉を口にしなさい」と言うのです。神さまの恵みを数え感謝し、賛美するところから始めなさい。その口で御言葉を読み、祈ることから始める。主の恵みを証しするところから始めていきなさい。それが貪欲の罪の予防となり、そこから解き放つ生き方となるのだとパウロは教えています。なぜなら、悪魔に隙を与えない。神さまが働くスペースを確保するからです。
エジプトから出た奴隷の民はエジプトの偶像礼拝の奴隷状態から解放されて、たとえそこが荒野であったとしても、まことの神さまを礼拝する自由な民になりたい、と心から願ったことです。神さまを心の中心に迎え入れる時に、私たちは解放されるのです。
私を取り巻く環境は変わらないかもしれません。でも私自身が神さまとの関係において、全く変えられた新しい存在とされている。そこから、神さまの愛で本当に満足した、神に愛された神の子としての生き方が始まっていくのであります。
お祈りいたします。

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真実の証人―第九戒

<受難節第2主日>
松本雅弘牧師
出エジプト記20章16節
エフェソの信徒への手紙4章29節
2022年3月13日

Ⅰ.偽りの証言とは何か

第九戒は「隣人について偽りの証言をしてはならない」と語り、どこか硬い表現ですが、実は法定用語で、証人として出廷した人が、犯す過ちのことをここでは「偽りの証言」と呼んでいます。
当時のユダヤ社会では、コミュニティー自体がとても小さく、それに加え、現代のように指紋や科学的調査もありませんし、物的証拠などを集めにくい時代でしたから、結局は立てられた証人の言葉を聞くよりほかありませんでした。そう考えると、今の時代に比べ、証人として立てられる頻度は多かったようです。

Ⅱ.新しい生き方としての第九戒

そもそも「偽証」とは、その人を悪く言って、その人の足を引っ張るためにすることでしょう。このように考えて来ると、必ずしも法廷の場面に限らず、私たちの日常生活においても心して聴くべき、大事な戒めの言葉だと思うのです。そうした中、前回も引用しましたハイデルベルク信仰問答がこの第九戒について語っている言葉を参考にしたいと思います。第112の問答に次のようにあります。
問い:第九戒は、何を、求めていますか。
答え:わたしが、誰に対しても、偽りの誓いをなさず、誰に対しても、言葉を曲げず、陰口をきかず、悪口をいわず、誰をも、調べることなく、軽率に、罪に定めることを、助けず、反って、すべての虚言、詐欺を、悪魔自身のわざとして、神の重き怒りをおそれるゆえに、避けて、法廷においても、他のすべての事柄においても、真理を愛し、正直に語りまた告白し、自分の隣人の栄誉と威信とを、自分の力でできるかぎり、救いまた増すように、ということであります。
これによれば、歴史の教会は、第九戒を単に法廷での偽りの証言への戒めに限定せず、日常生活で偽り語り嘘をつくことから遠ざかることが、隣人を愛することを戒めることが、第九戒の主旨であることを言い表していることが分かります。
ところで、ハイデルベルク信仰問答は各問答に続き、その問答を裏付ける聖句が紹介されていますが、第112の問答に続く聖句の一つが、エフェソの信徒への手紙4章25節なのです。今日の新約聖書の朗読箇所はそれに続く29節です。
そのようなことから、今日は、エフェソ書4章25節から32節の箇所を中心に第九戒の意味について掘り下げてみたいと思います。
ここには十戒同様に、「こうすべきだ」「ああしてはならない」と命じられていますが、結局、このようなことを通して、聖書は私たちに何を教えているかと言えば、「神の聖霊を悲しませてはなりません」(30節)ということです。主イエスも教えておられますが、そもそも戒めや律法が言わんとしていることは何かと言えば、「神を愛することと、隣人を愛すること」です。神さまは何を願っておられるのか。言い換えれば、神さまの御心に触れることが大切です。
この点がはっきりして来ないと、十戒を含め、この箇所も単に細かい規則の羅列ように見えてくるだけで、何か窮屈で煩わしくなってしまう。大切なことは、人格的な神さまとの交わりの中で、恵みの関係の中で、神さまはなぜここに書かれているような生き方を喜ばれるのか、このような生き方が、実は私たちのためになるのか、そう考えながら、受け止めていくことが大事なことでしょう。

Ⅲ.互いに真実を語り合う

25節を見ますとパウロは、偽りを捨て積極的な意味で真実を語ることの理由が、「私たちは互いに体の部分だから」と説いています。実は32節にも、「互いに」という言葉が出て来ます。つまり私たちは独りぼっちに生きるのではなく、互いに愛し合う者として生かされているということでしょう。そのような者として生きていこうとする時に、もっと言えば、自らを相手に差し出して生きていく時に、神の聖霊、すなわち神さまは喜んでくださるというのです。
そうした中、「偽りを捨て」と説かれているのですが、ここで言う「偽り」とは「嘘をつく」という意味として取れますが、ある人は、もう一歩踏み込んで、「偽りとは自分には問題がない、ということだ」と説明していました。「私は間違っていない。問題は私以外の人にある」と考えてしまう。それが神さまとの関係においても、横との人間関係においても、そうした関係や交わりを傷つける「一番の偽りなのではないか」というのです。
第九戒の解説としての、この25節でパウロは、「一人一人が隣人に真実を語りなさい」と勧めます。繰り返すようですが、「偽り」とは、問題は自分にあるのではなく、自分以外の周りの人たちに原因がある。ですから周りの人は変わらなければならない。周りの人を変えなければならない。これが「偽り」です。これに対し「真実」とは、自分にも課題があり各人にも課題がある。でもキリストがあるがままで愛してくださっているように、互いに弱さを差し出し、そうした主にある交わりの中で、互いのことを祈り合い、支え合い、キリストに向かって成長していく。これがパウロのいうところの、神さまが喜ばれる「真実」な生き方なのです。
もう一つ、パウロは、「悪魔に隙を与えてはなりません」と勧め、悪魔の存在に注意を促しています。聖書が教える悪魔の働きとは、神さまに関して悪いイメージを吹き込み、神さまへの信頼を損なわせるものです。さらに、「隙」と訳されているギリシャ語は「場所」という意味ですが、考えてみれば、悪魔は活躍する場所や機会が欲しいのでしょう。悪魔が活躍する場所、それは神不在のこの世の価値観、神抜きの古い生き方のことです。
家庭でも教会でも、この世の価値観が強く働く時、悪魔は活躍する場所が広がっていきます。キリストを信じて新しくされた後も、パウロが言うところの「古い人」をよしとし、自分の我儘をよしとすると、活躍する場所が増え、悪魔は喜ぶのです。
最後に、今日の第九戒に直接関係している29節を 見たいのですが、ここでパウロは、「悪い言葉を一切口にしてはなりません」と勧めています。「悪い言葉」とは相手を腐らす言葉、人の心を腐らせ、萎えさせる言葉。不信仰な言葉、人に希望を与えない、励ましとならない言葉のことでしょう。パウロはそうした言葉を「一切口にしてはなりません」と強調します。それは隣人を愛することで、「その人を造り上げる」ことになる。この「造り上げる」という言葉は建築用語で、実際に家を建てる時に使われる言葉だそうですが、まさにクリスチャンとして成長するように、キリストに似たその人、神さまが願うその人になるように、そのような意味でその人を建て上げるのに役に立つ「必要な言葉を語る」。新共同訳聖書の方を見ますと、むやみやたらにではなく、「必要に応じて語りなさい」となっています。

Ⅳ.神さまに愛されているから、偽りを語らずに生きることができる

さて、そもそも何故、私たちは嘘をつき、真実を語ることができないのでしょう。『エクササイズ』の第二巻を読みますと、偽りを語る、嘘をつくのは私たちの心の奥底に恐れがあるからだと教えています。偽ること/嘘をつくことで、自分が求めているものを手に入れたいという欲求、その場合の「自分が求めているもの」とは、人に良く思われたいとか、良い評価を得たい等々です。そして真実を語った結果、不利益を被る怖れ、あるいは、何が起きるのかという怖れがあるから偽ったり、嘘をついたりする、というのです。
私は創世記3章に登場するアダムとエバを思い出しました。罪を犯し、神との生きた関係が断たれてしまった二人は、自己受容が出来なくなってしまった。その結果、象徴的な行為ですが、いちじくの葉っぱで自分を覆うことで、弱さを隠し、逆に見た目をよくしようとする。要は偽りをもって、相手の目をごまかしたのです。
使徒ヨハネは恐れからの解放は神に愛されることだと教えます(Ⅰヨハネ4:18)。私たちを恐れから解放するのは、やはり、あるがまま、そのままの姿で私たちを受け入れてくださる神の愛を経験することです。その愛の現実に浸り続ける事しかないのです。
いつもお話しますが、主イエスの公生涯がどこから始まったかと言えば、洗礼を受けたところです。その時、天から「これは私の愛する子、私の心にかなう者」という愛の宣言があった。まだ誰一人癒しておらず、山上の説教も語る前です。5千人の給食という奇跡も何もしていない、メシアとしての働きがゼロの時点で、すでに神さまの目から見て主イエスは、「これは私の愛する子」なのです。そしてそれは私たち一人一人にも当てはまる。ですから、もう偽りを語る必要はない。偽りを語ることで、自分をよく見せる必要もない。自分の本当の姿を知られたら、自分は不利になる、と思う必要はないのです。勿論、この世の価値基準で一時的に不利益を被るかもしれません。でも永遠に続く神の国の基準の方がどれだけ大事か。だから私たちは偽ることなく、真実を語って歩むことが出来るのです。
お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

盗んではならない―第八戒

松本雅弘牧師
出エジプト記20章15節、エフェソの信徒への手紙4章28節

2022年3月6日

Ⅰ.はじめに

2月24日、ロシア軍が国境を越えて、ウクライナに侵攻しました。つい先日まで、戦争の噂はあっても、多くの人は、ロシアはそこまでしないだろう、と楽観視していたわけですが、あれよ、あれよという間に、今のような状況が起こりました。
実は、「ウクライナ」という国名で、心に浮かんだ本がありました。子どもたちに読み聞かせた『てぶくろ』という絵本です。子どもたちが小さかった頃、この絵本を読み聞かせながら、どこかクリスマス・ストーリーと響き合っているように感じ、アドベントに何度か取り上げたことがある物語です。
ある時、森を歩いていたお爺さんが、手袋を落としてしまうのです。そこに一匹のねずみがやってきて、その中に入り込みます。しばらくすると、カエルがその手袋を見つけ、中に入っているネズミに「私も入れて」と頼むのです。ネズミは快くカエルを迎えます。次にウサギがやってきて、やはり中に入れてもらいます。次にキツネがやって来て、やはり中に入れてもらうのです。そして次々と動物たちがやって来て、不思議なことに手袋は次第に大きくなるのですが、彼らの心配をよそに、柔軟に伸びて、スペースが広がっていくのです。そうしたお話です。
私たちが目指すべき共同体や社会の在り方に関わるビジョンをこの物語は私たちに伝えているのではないだろうか。その物語で育った人々が、侵入者によって傷つけられている。殺されている。正に命を奪われている。
さて、今日は、久しぶりに十戒からの説教ですが、その第八戒の部分です。出エジプト20章15節、「盗んではならない。」という戒めを御一緒に見ていきたいと思います。

Ⅱ.「養育係」としての律法

ところで、歴史の教会は、この第八戒をどのように読み、受け止めてきたのでしょうか。『ハイデルベルク信仰問答』を調べてみますと、第110番目の問答に第八戒が取り上げられています。
【問い】 神は、第八戒において、何を、禁じておられますか。
【答え】 神は、ただに、官憲の罰する、窃盗や強盗を、禁じておられるだけでなく、不正な、目方、物差、枡、品物、貨幣、利息、その他、神に禁ぜられている方法によって、暴力によるにせよ、権利を装うにせよ、隣人のものを、自分のものにしようとする、一切の悪いこと、企てをも、盗みとよばれるのであります。なお、これらに、すべての貪欲、自分に与えられたものの、不必要な浪費をも加えるべきであります。
この問答を見ますと、「盗んではならない」という戒めの意味を、とことん突き詰めて、厳格に受け止めています。
モーセの十戒は、出エジプトという救済の出来事の後に、神の民に授けられた戒めの言葉です。すでに救済された者たちに向けて語られているわけですが、しかし同時に、「盗んではならない」という神の戒めの言葉を前にして、私たちはもう一度、自らのエリを正される。いや、自分たちの罪と向き合うように導かれるようにも思うのです。
つまり、十戒という律法が、すでに神さまを知った私たちに与えられた「生活指針」という側面に加え、新約聖書を見ますと、実は、律法のもう一つの大事な目的が教えられている。それは使徒パウロが「養育係」と表現した側面、一言で言うならば私たちの心に罪を示す働きです。
パウロはローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙などで、「…律法によらなければ、私は罪を知らなかったでしょう。律法が『貪るな』と言わなかったら、私は貪りを知らなかったでしょう」と言い、「律法は、私たちをキリストに導く養育係となりました。」(ガラテヤ3:24)と語っています。つまり律法によって罪が示され、結果として私たちは、罪を贖う十字架へと、律法によって誘われていく。そのような意味で、「律法は、私たちをキリストに導く養育係となりました」とパウロは語るわけです。

Ⅲ.「盗む」という言葉

ところで、「盗んではならない」という戒めの意味とは、他人の持ち物を盗ること、つまり泥棒することでしょう。しかし聖書を調べてみますと、「盗む」という言葉は、もう少し広い意味のある言葉のようなのです。実は、「死刑に当たる重い罪とは何か」が書かれている、十戒に続く出エジプト記21章の中の16節、「人を誘拐する者は、その人を売っていても、自分のもとに置いていても、必ず死ななければならない」とある、「誘拐する」という言葉が、今日の「盗む」という語と、全く同じなのです。
当時、残念ながら奴隷制度がありました。そうした中、自由な人間、子どもや、男性や女性を誘拐する。そして奴隷として売り飛ばし、自ら利益を得る。出エジプト記によれば、これは死刑をもって報いられるべきものとして、戒められています。つまり、「盗んではならない」という第八戒は、単に物品を盗むことに限らず、自分のやりたいことを遂げるために、神のかたちに造られた人間の自由、言い換えれば人権を奪う。正に、今、ロシアがウクライナの人々に対して行っていること、その物のように思うのです。
ところで今日は、新約聖書の朗読箇所としてエフェソ書の4章28節を読ませていただきました。この御言葉は、今日の「盗んではならない」という戒めが向かうべき、方向性を明確に示している箇所と言われます。エフェソの教会には、実際に盗みを働く者がいたのかもしれません。ですから、「もう盗んではいけません」と戒めているのでしょう。あるいは実際には表立った問題にはなっていなかったとしても、罪ある私たちの心の根っこのところにある、他者を顧みない罪、その結果、他者の自由や権利を侵害しても無頓着でいる罪が、クリスチャンになった後でも、共同体の中に見受けられたのかもしれません。そのようなエフェソの人々に対してパウロは、この御言葉を語っているのでしょう。そのように見ていきますと「盗むこと」の予防となるのが「労苦して自らの手で真面目に働」くことだ、とパウロが語っている点に注目したいのです。新共同訳聖書では、「労苦して自分の手で正当な収入を得、…るようにしなさい」と訳しています。つまり、〈儲ければ、お金になれば何でもいい〉というのではなく、「正しい仕事をする」ということでしょう。この仕事は、神さまが私にさせたい働きかどうか。そのことを、神さまの御前に吟味し、そのような意味で良い仕事をしていくようにと、勧めます。
決して「出世しなさい」とか、「事業を拡大するように」、あるいは、「たくさん儲けろ」とも語られていません。そうではなく、「正しい仕事をしなさい。良い仕事をしなさい。その手の業が残る仕事をしなさい」。そして「必要としている人に分け与えることができるようになりなさい/仕事を通して与える者になりなさい」と勧めるのです。
「余ったら上げる」という世界ではないのです。正当な働きをすることで、困窮している人々に与えることができる。ここに聖書の教える職業観/仕事観があらわされているように思います。つまり、働いて生きるということは他者と分かち合うためである。労働それ自体が、すでにそのことを目的としているということでしょう。

Ⅳ.てぶくろの温かさ

冒頭で紹介した『てぶくろ』はこんな物語です。お爺さんが落とした手袋にネズミがやってきて中に入る。するとカエルも「入れて」とやって来ると、ネズミは快く迎える。そのようにして手袋の住人たちは迎え入れられ迎えていく。大きさや姿も違います。でも、そうした多様性を包み込むように手袋は不思議なほどに柔軟性を発揮する。主イエスをこの世に遣わせてくださった神さまは、地球という手袋、あるいは私たちが作りだす社会という手袋に、そうした柔軟性を期待しておられたのではないだろうか、と思います。
この世界に生を受けた者として、手袋の住人となる権利を持つ者として、自分とは違った人々と共存する責任がある。そのようにして人の輪は広がっていく。そのために主イエスは、当時の世界からしたら周辺のベツレヘムの家畜小屋に生まれて来られた。それは社会から弾き飛ばされた羊飼いたちを神の国という手袋の中に迎え入れるためでした。そして誕生の直後、ヘロデ大王の迫害を逃れ、エジプトに政治難民として身を寄せて行かれます。今、ウクライナの人たちは、着の身着のまま、祖国を追われ、その数、百万人を超えたと報じられていました。主イエスも自らその体験をなさった方として、ウクライナの人たちと寄り添ってくださっていることだと思います。
「盗んではならない」。他者の存在を否定し自由を奪ってはならない。ウクライナ民話に登場する動物たちのように、大きさが違っても、見た目が怖くても、むしろみんながこの世界に迎え入れられている恵み、そしてそうした時に、神様がそれを用い、私たちの世界、また社会が、柔軟性を発揮できるように、その方向を私たちが選び取っていきたいと願うのです。お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

愛の連鎖―信仰の基本を確認する⑤

松本雅弘牧師
ヨハネによる福音書6章1-15節

2022年2月13日

Ⅰ.神からの恵み・賜物をどう用いるか=クリスチャン・スチュワードシップ

今日はヨハネ福音書6章に出てくる有名な「パン と魚の奇跡」の出来事を取り上げるわけですが、「クリスチャン・スチュワードシップ」が発揮されていく時に、何が起こって行くのかをご一緒に見ていきたいと思うのです。

Ⅱ.あらすじ

主イエスはガリラヤ湖の向こう岸に渡られたわけですが、そうした主イエスの一行を追いかけるように、大勢の群衆がやってきました。その群衆をご覧になり、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれ、そこに居合わせたフィリポに向かい、「どこでパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」と問われたのです。
そう問いかけられたフィリポは考え、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオンのパンでは足りないでしょう」と答えたのですが、実は主イエスの問いとフィリポの答えには微妙なズレがあるのです。あくまでも主イエスは「どこで買えばよいか」と質問したのに対してフィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオンのパンでは足りないでしょう」と答えた。「イエスさま、お言葉を返すようですが、どこで買うか以前に、二百デナリオンものお金がどこにあるのですか?!そんな大金、持ち合わせていません!」。もっと言えば、「そんなの無理ですよ!考えるの、やめましょう!」と言ったのだと思うのです。するとその会話を聴いていた他の弟子たちが、〈どうにかならないだろうか?〉と思ったのでしょうか。食糧の献品を求め歩き周ったのかもしれません。
すると一つの動きが起こりました。アンデレが、五つのパンと二匹の魚を持っている少年を主イエスの許に連れて来て、「これでは何の役にも立たないですよね」と言ったのです。ところが、その僅かな食料が主イエスの手に渡ると、「大いに役立つもの」に変えられていくのです。

Ⅲ.パンと魚の奇跡

さて「クリスチャン・スチュワードシップ」とは、神からの恵みや賜物を管理することです。そのためにはまず、「神さまからの恵みは何か?/何を預かっているか?」を問うところから始まります。
ところが、私たちは一つの課題に直面するのではないでしょうか。恵みや賜物を見つけられない課題です。いや、仮に見つかったとしても、「こんなもの何の役に立つのか」と考えてしまう。そうした誘惑です。
6節に、主イエスが「どこでパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」と言われたのは、「フィリポを試みるため」だったと書かれています。これは荒れ野でサタンが主イエスを誘惑した時に使われている言葉と全く同じです。
全てのものが「神さまからの賜物」なのですが、私たちの目に「何の役にも立たないもの/粗末でつまらないもの」と見えてしまう誘惑がある。一つひとつのことを「神の賜物」と見るのか「何の役にも立たないもの」と見るのかという場面に立たされる。
ここでもう一つ注目したい点があります。アンデレが取った行動です。当初、アンデレは、「こんなもの何の役に立つのか」と考えていたと思います。その思いを分かっていただくために、パンと魚を持っていた少年を、わざわざ主イエスのところに連れて来た。ところが実は、アンデレのこの行動、主イエスの所に人を連れて来ることこそが、賜物だったのです。勿論、アンデレ自身、少年が持っていた僅かなパンと魚で、目の前にいる大勢の群衆の空腹を満たせるなど、考えも及ばなかったでしょう。しかし主は、無意識であったかもしれない、そのアンデレの行動を用いられた。そしてまた少年の五つのパンと二匹の魚という大切な捧げ物を通して御業をなされたのです。
ここに大事なメッセージがあるように思います。「半分しか入っていません。役に立ちません」と、諦めてしまいたくなるような現実を、主に、そのまま委ねていく。そのようにして主イエスのところに持ち出された時から事柄が動いて行ったのです。
主イエスは、そのパンと魚を取って感謝の祈りを唱え、座っている人々に分け与えて行かれた。アンデレが「何の役にも立たない」と言った「五つのパンと二匹の魚」を取って祝福した結果、11節と12節。「欲しいだけ分け与えられ…人々が十分食べた」。新共同訳では、「人々が満腹した」とあります。
ところで、ここで腹を空かしていたのは群衆だけではなかったと思います。弟子たちも同じだったに違いない。パンと魚を配りながら、「俺たちの分はあるだろうか」と心配になったかもしれません。でも、13節。ちゃんと十二の籠、それも一杯になるほど、残った。そうです。主イエスは、十二弟子のこともしっかりと心に留めてくださっていたのです。

Ⅳ.愛の連鎖を起こすクリスチャン・スチュワードシップ

知人の先生がこんな話をされました。留学中アメリカで出会った日本人のAさんの話です。Aさんは、戦後まもなく渡米し、アメリカ人と結婚したクリスチャン女性ですが、当時は、アメリカでも、結構、生活が厳しかった。必死に働き家族を養ってきた。
ところが、ある時、同じように日本から来ていた友人が、誤ってプレスで指を落とし、その結果、解雇されてしまった。友人は解雇され、食べ物にも困る程、経済的に困窮してしまったそうです。
実は、それを知らされた頃、Aさんは、今日の聖書箇所、この五千人の給食の箇所を聖書で読んだのだそうです。そしてそこに出て来る「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」という主の言葉が心にひっかかってしまった、というのです。
確かに友人の家は大変。仕事もなくなってしまったのだから。でも、自分たちも他人を助ける余裕なんてない。色々、助けない理屈を考えるのですが、最後には、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」という言葉が心から離れなかったそうです。
そして最後には、「イエスさま、分かりました」と申し上げて、家族のために用意していた一月分のお肉を全部、プレゼントしたそうです。
相手も日系人の人なので、「日本人は、すぐにお礼やお返しを考えるけど、もしお礼がしたかったら、周りの困っている人に恩返しして欲しい」と言って渡したそうです。
ところが、数日後、本当に不思議なのですが、親戚の人がAさんのところに沢山の食料をもって訪ねて来た。ですから、その月、Aさんの家も困らずに済んだそうです。
話はそれで終わりませんでした。その出来事があってから10年ほど経たったある日、見知らぬ人が菓子折りをもってAさんのところにやって来た。話を聴くと、その人は、自分が困っていた時に、ある人に助けられた、という話を始めたそうです。
そして、自分を助けてくれた人の話を聴くと、実はその人も別の人に助けられ、その別の人が実はさらに別の人に助けられていた。どうやら、「困っていた時に誰かに助けられる」という、「連鎖」で、自分が助けられていることが分かった、というのです。
そして、その人曰く。「自分は、その最初の人に会って、どうしてもお礼が言いたいと思って、助けてくれた人をずっと遡って来たところ、どうやらあなたが最初だった。あなたがお肉をプレゼントしてくれたので、その人が別の人を助けて、その別の人が、さらに別の人を助けた。そして私が一番最後なんです」と言ったそうです。
以前、柳沢美登里さんが所属している、「声なき者の友の輪」の先生方に来ていただき、「愛の種まき」というテーマで、クリスチャン・スチュワードシップについて学びをしていただいたことがありました。その時、先生方からお聞きしたのは、「愛の種まき/愛の業」は種まきですから、人目につく地表ではなく、人目につかない土の中にしっかりと蒔く必要があるのだ、と教えていただきました。まさにAさんの働きのように、です。
「どこでパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」、また「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。主イエスはそう言われる。
そうした時に、私たちも、ここに登場する少年のように自分にあるものを差し出していく。あるいは、「何の役にも立たないのではないか」とアンデレのように、様々な思いも湧いてくるかもしれませんが、その状況もすべて含めて、主に委ねていく。人が見ていなくても、神さまは見ていてくださる。
神さまは、様々な賜物をもって私たちを祝福してくださいます。それが神からの尊い賜物であることを見る目を、神さまから常にいただきたいと思います。そのようにして、私たちも愛の連鎖に用いられる者とさせていただきましょう。
お祈りします。