カテゴリー
主日共同の礼拝説教

盗んではならない―第八戒

松本雅弘牧師
出エジプト記20章15節、エフェソの信徒への手紙4章28節

2022年3月6日

Ⅰ.はじめに

2月24日、ロシア軍が国境を越えて、ウクライナに侵攻しました。つい先日まで、戦争の噂はあっても、多くの人は、ロシアはそこまでしないだろう、と楽観視していたわけですが、あれよ、あれよという間に、今のような状況が起こりました。
実は、「ウクライナ」という国名で、心に浮かんだ本がありました。子どもたちに読み聞かせた『てぶくろ』という絵本です。子どもたちが小さかった頃、この絵本を読み聞かせながら、どこかクリスマス・ストーリーと響き合っているように感じ、アドベントに何度か取り上げたことがある物語です。
ある時、森を歩いていたお爺さんが、手袋を落としてしまうのです。そこに一匹のねずみがやってきて、その中に入り込みます。しばらくすると、カエルがその手袋を見つけ、中に入っているネズミに「私も入れて」と頼むのです。ネズミは快くカエルを迎えます。次にウサギがやってきて、やはり中に入れてもらいます。次にキツネがやって来て、やはり中に入れてもらうのです。そして次々と動物たちがやって来て、不思議なことに手袋は次第に大きくなるのですが、彼らの心配をよそに、柔軟に伸びて、スペースが広がっていくのです。そうしたお話です。
私たちが目指すべき共同体や社会の在り方に関わるビジョンをこの物語は私たちに伝えているのではないだろうか。その物語で育った人々が、侵入者によって傷つけられている。殺されている。正に命を奪われている。
さて、今日は、久しぶりに十戒からの説教ですが、その第八戒の部分です。出エジプト20章15節、「盗んではならない。」という戒めを御一緒に見ていきたいと思います。

Ⅱ.「養育係」としての律法

ところで、歴史の教会は、この第八戒をどのように読み、受け止めてきたのでしょうか。『ハイデルベルク信仰問答』を調べてみますと、第110番目の問答に第八戒が取り上げられています。
【問い】 神は、第八戒において、何を、禁じておられますか。
【答え】 神は、ただに、官憲の罰する、窃盗や強盗を、禁じておられるだけでなく、不正な、目方、物差、枡、品物、貨幣、利息、その他、神に禁ぜられている方法によって、暴力によるにせよ、権利を装うにせよ、隣人のものを、自分のものにしようとする、一切の悪いこと、企てをも、盗みとよばれるのであります。なお、これらに、すべての貪欲、自分に与えられたものの、不必要な浪費をも加えるべきであります。
この問答を見ますと、「盗んではならない」という戒めの意味を、とことん突き詰めて、厳格に受け止めています。
モーセの十戒は、出エジプトという救済の出来事の後に、神の民に授けられた戒めの言葉です。すでに救済された者たちに向けて語られているわけですが、しかし同時に、「盗んではならない」という神の戒めの言葉を前にして、私たちはもう一度、自らのエリを正される。いや、自分たちの罪と向き合うように導かれるようにも思うのです。
つまり、十戒という律法が、すでに神さまを知った私たちに与えられた「生活指針」という側面に加え、新約聖書を見ますと、実は、律法のもう一つの大事な目的が教えられている。それは使徒パウロが「養育係」と表現した側面、一言で言うならば私たちの心に罪を示す働きです。
パウロはローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙などで、「…律法によらなければ、私は罪を知らなかったでしょう。律法が『貪るな』と言わなかったら、私は貪りを知らなかったでしょう」と言い、「律法は、私たちをキリストに導く養育係となりました。」(ガラテヤ3:24)と語っています。つまり律法によって罪が示され、結果として私たちは、罪を贖う十字架へと、律法によって誘われていく。そのような意味で、「律法は、私たちをキリストに導く養育係となりました」とパウロは語るわけです。

Ⅲ.「盗む」という言葉

ところで、「盗んではならない」という戒めの意味とは、他人の持ち物を盗ること、つまり泥棒することでしょう。しかし聖書を調べてみますと、「盗む」という言葉は、もう少し広い意味のある言葉のようなのです。実は、「死刑に当たる重い罪とは何か」が書かれている、十戒に続く出エジプト記21章の中の16節、「人を誘拐する者は、その人を売っていても、自分のもとに置いていても、必ず死ななければならない」とある、「誘拐する」という言葉が、今日の「盗む」という語と、全く同じなのです。
当時、残念ながら奴隷制度がありました。そうした中、自由な人間、子どもや、男性や女性を誘拐する。そして奴隷として売り飛ばし、自ら利益を得る。出エジプト記によれば、これは死刑をもって報いられるべきものとして、戒められています。つまり、「盗んではならない」という第八戒は、単に物品を盗むことに限らず、自分のやりたいことを遂げるために、神のかたちに造られた人間の自由、言い換えれば人権を奪う。正に、今、ロシアがウクライナの人々に対して行っていること、その物のように思うのです。
ところで今日は、新約聖書の朗読箇所としてエフェソ書の4章28節を読ませていただきました。この御言葉は、今日の「盗んではならない」という戒めが向かうべき、方向性を明確に示している箇所と言われます。エフェソの教会には、実際に盗みを働く者がいたのかもしれません。ですから、「もう盗んではいけません」と戒めているのでしょう。あるいは実際には表立った問題にはなっていなかったとしても、罪ある私たちの心の根っこのところにある、他者を顧みない罪、その結果、他者の自由や権利を侵害しても無頓着でいる罪が、クリスチャンになった後でも、共同体の中に見受けられたのかもしれません。そのようなエフェソの人々に対してパウロは、この御言葉を語っているのでしょう。そのように見ていきますと「盗むこと」の予防となるのが「労苦して自らの手で真面目に働」くことだ、とパウロが語っている点に注目したいのです。新共同訳聖書では、「労苦して自分の手で正当な収入を得、…るようにしなさい」と訳しています。つまり、〈儲ければ、お金になれば何でもいい〉というのではなく、「正しい仕事をする」ということでしょう。この仕事は、神さまが私にさせたい働きかどうか。そのことを、神さまの御前に吟味し、そのような意味で良い仕事をしていくようにと、勧めます。
決して「出世しなさい」とか、「事業を拡大するように」、あるいは、「たくさん儲けろ」とも語られていません。そうではなく、「正しい仕事をしなさい。良い仕事をしなさい。その手の業が残る仕事をしなさい」。そして「必要としている人に分け与えることができるようになりなさい/仕事を通して与える者になりなさい」と勧めるのです。
「余ったら上げる」という世界ではないのです。正当な働きをすることで、困窮している人々に与えることができる。ここに聖書の教える職業観/仕事観があらわされているように思います。つまり、働いて生きるということは他者と分かち合うためである。労働それ自体が、すでにそのことを目的としているということでしょう。

Ⅳ.てぶくろの温かさ

冒頭で紹介した『てぶくろ』はこんな物語です。お爺さんが落とした手袋にネズミがやってきて中に入る。するとカエルも「入れて」とやって来ると、ネズミは快く迎える。そのようにして手袋の住人たちは迎え入れられ迎えていく。大きさや姿も違います。でも、そうした多様性を包み込むように手袋は不思議なほどに柔軟性を発揮する。主イエスをこの世に遣わせてくださった神さまは、地球という手袋、あるいは私たちが作りだす社会という手袋に、そうした柔軟性を期待しておられたのではないだろうか、と思います。
この世界に生を受けた者として、手袋の住人となる権利を持つ者として、自分とは違った人々と共存する責任がある。そのようにして人の輪は広がっていく。そのために主イエスは、当時の世界からしたら周辺のベツレヘムの家畜小屋に生まれて来られた。それは社会から弾き飛ばされた羊飼いたちを神の国という手袋の中に迎え入れるためでした。そして誕生の直後、ヘロデ大王の迫害を逃れ、エジプトに政治難民として身を寄せて行かれます。今、ウクライナの人たちは、着の身着のまま、祖国を追われ、その数、百万人を超えたと報じられていました。主イエスも自らその体験をなさった方として、ウクライナの人たちと寄り添ってくださっていることだと思います。
「盗んではならない」。他者の存在を否定し自由を奪ってはならない。ウクライナ民話に登場する動物たちのように、大きさが違っても、見た目が怖くても、むしろみんながこの世界に迎え入れられている恵み、そしてそうした時に、神様がそれを用い、私たちの世界、また社会が、柔軟性を発揮できるように、その方向を私たちが選び取っていきたいと願うのです。お祈りします。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

愛の連鎖―信仰の基本を確認する⑤

松本雅弘牧師
ヨハネによる福音書6章1-15節

2022年2月13日

Ⅰ.神からの恵み・賜物をどう用いるか=クリスチャン・スチュワードシップ

今日はヨハネ福音書6章に出てくる有名な「パン と魚の奇跡」の出来事を取り上げるわけですが、「クリスチャン・スチュワードシップ」が発揮されていく時に、何が起こって行くのかをご一緒に見ていきたいと思うのです。

Ⅱ.あらすじ

主イエスはガリラヤ湖の向こう岸に渡られたわけですが、そうした主イエスの一行を追いかけるように、大勢の群衆がやってきました。その群衆をご覧になり、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれ、そこに居合わせたフィリポに向かい、「どこでパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」と問われたのです。
そう問いかけられたフィリポは考え、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオンのパンでは足りないでしょう」と答えたのですが、実は主イエスの問いとフィリポの答えには微妙なズレがあるのです。あくまでも主イエスは「どこで買えばよいか」と質問したのに対してフィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオンのパンでは足りないでしょう」と答えた。「イエスさま、お言葉を返すようですが、どこで買うか以前に、二百デナリオンものお金がどこにあるのですか?!そんな大金、持ち合わせていません!」。もっと言えば、「そんなの無理ですよ!考えるの、やめましょう!」と言ったのだと思うのです。するとその会話を聴いていた他の弟子たちが、〈どうにかならないだろうか?〉と思ったのでしょうか。食糧の献品を求め歩き周ったのかもしれません。
すると一つの動きが起こりました。アンデレが、五つのパンと二匹の魚を持っている少年を主イエスの許に連れて来て、「これでは何の役にも立たないですよね」と言ったのです。ところが、その僅かな食料が主イエスの手に渡ると、「大いに役立つもの」に変えられていくのです。

Ⅲ.パンと魚の奇跡

さて「クリスチャン・スチュワードシップ」とは、神からの恵みや賜物を管理することです。そのためにはまず、「神さまからの恵みは何か?/何を預かっているか?」を問うところから始まります。
ところが、私たちは一つの課題に直面するのではないでしょうか。恵みや賜物を見つけられない課題です。いや、仮に見つかったとしても、「こんなもの何の役に立つのか」と考えてしまう。そうした誘惑です。
6節に、主イエスが「どこでパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」と言われたのは、「フィリポを試みるため」だったと書かれています。これは荒れ野でサタンが主イエスを誘惑した時に使われている言葉と全く同じです。
全てのものが「神さまからの賜物」なのですが、私たちの目に「何の役にも立たないもの/粗末でつまらないもの」と見えてしまう誘惑がある。一つひとつのことを「神の賜物」と見るのか「何の役にも立たないもの」と見るのかという場面に立たされる。
ここでもう一つ注目したい点があります。アンデレが取った行動です。当初、アンデレは、「こんなもの何の役に立つのか」と考えていたと思います。その思いを分かっていただくために、パンと魚を持っていた少年を、わざわざ主イエスのところに連れて来た。ところが実は、アンデレのこの行動、主イエスの所に人を連れて来ることこそが、賜物だったのです。勿論、アンデレ自身、少年が持っていた僅かなパンと魚で、目の前にいる大勢の群衆の空腹を満たせるなど、考えも及ばなかったでしょう。しかし主は、無意識であったかもしれない、そのアンデレの行動を用いられた。そしてまた少年の五つのパンと二匹の魚という大切な捧げ物を通して御業をなされたのです。
ここに大事なメッセージがあるように思います。「半分しか入っていません。役に立ちません」と、諦めてしまいたくなるような現実を、主に、そのまま委ねていく。そのようにして主イエスのところに持ち出された時から事柄が動いて行ったのです。
主イエスは、そのパンと魚を取って感謝の祈りを唱え、座っている人々に分け与えて行かれた。アンデレが「何の役にも立たない」と言った「五つのパンと二匹の魚」を取って祝福した結果、11節と12節。「欲しいだけ分け与えられ…人々が十分食べた」。新共同訳では、「人々が満腹した」とあります。
ところで、ここで腹を空かしていたのは群衆だけではなかったと思います。弟子たちも同じだったに違いない。パンと魚を配りながら、「俺たちの分はあるだろうか」と心配になったかもしれません。でも、13節。ちゃんと十二の籠、それも一杯になるほど、残った。そうです。主イエスは、十二弟子のこともしっかりと心に留めてくださっていたのです。

Ⅳ.愛の連鎖を起こすクリスチャン・スチュワードシップ

知人の先生がこんな話をされました。留学中アメリカで出会った日本人のAさんの話です。Aさんは、戦後まもなく渡米し、アメリカ人と結婚したクリスチャン女性ですが、当時は、アメリカでも、結構、生活が厳しかった。必死に働き家族を養ってきた。
ところが、ある時、同じように日本から来ていた友人が、誤ってプレスで指を落とし、その結果、解雇されてしまった。友人は解雇され、食べ物にも困る程、経済的に困窮してしまったそうです。
実は、それを知らされた頃、Aさんは、今日の聖書箇所、この五千人の給食の箇所を聖書で読んだのだそうです。そしてそこに出て来る「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」という主の言葉が心にひっかかってしまった、というのです。
確かに友人の家は大変。仕事もなくなってしまったのだから。でも、自分たちも他人を助ける余裕なんてない。色々、助けない理屈を考えるのですが、最後には、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」という言葉が心から離れなかったそうです。
そして最後には、「イエスさま、分かりました」と申し上げて、家族のために用意していた一月分のお肉を全部、プレゼントしたそうです。
相手も日系人の人なので、「日本人は、すぐにお礼やお返しを考えるけど、もしお礼がしたかったら、周りの困っている人に恩返しして欲しい」と言って渡したそうです。
ところが、数日後、本当に不思議なのですが、親戚の人がAさんのところに沢山の食料をもって訪ねて来た。ですから、その月、Aさんの家も困らずに済んだそうです。
話はそれで終わりませんでした。その出来事があってから10年ほど経たったある日、見知らぬ人が菓子折りをもってAさんのところにやって来た。話を聴くと、その人は、自分が困っていた時に、ある人に助けられた、という話を始めたそうです。
そして、自分を助けてくれた人の話を聴くと、実はその人も別の人に助けられ、その別の人が実はさらに別の人に助けられていた。どうやら、「困っていた時に誰かに助けられる」という、「連鎖」で、自分が助けられていることが分かった、というのです。
そして、その人曰く。「自分は、その最初の人に会って、どうしてもお礼が言いたいと思って、助けてくれた人をずっと遡って来たところ、どうやらあなたが最初だった。あなたがお肉をプレゼントしてくれたので、その人が別の人を助けて、その別の人が、さらに別の人を助けた。そして私が一番最後なんです」と言ったそうです。
以前、柳沢美登里さんが所属している、「声なき者の友の輪」の先生方に来ていただき、「愛の種まき」というテーマで、クリスチャン・スチュワードシップについて学びをしていただいたことがありました。その時、先生方からお聞きしたのは、「愛の種まき/愛の業」は種まきですから、人目につく地表ではなく、人目につかない土の中にしっかりと蒔く必要があるのだ、と教えていただきました。まさにAさんの働きのように、です。
「どこでパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」、また「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。主イエスはそう言われる。
そうした時に、私たちも、ここに登場する少年のように自分にあるものを差し出していく。あるいは、「何の役にも立たないのではないか」とアンデレのように、様々な思いも湧いてくるかもしれませんが、その状況もすべて含めて、主に委ねていく。人が見ていなくても、神さまは見ていてくださる。
神さまは、様々な賜物をもって私たちを祝福してくださいます。それが神からの尊い賜物であることを見る目を、神さまから常にいただきたいと思います。そのようにして、私たちも愛の連鎖に用いられる者とさせていただきましょう。
お祈りします。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

教会の仲間に加えられて―信仰の基本を確認する④

松本雅弘牧師
使徒言行録9章1節―31節
2022年2月6日

Ⅰ.はじめに

今日お読みしました聖書の箇所には、突然の回心を経験したサウルが、どのように教会の交わりの中に加えられ、その交わりの中で変えられていったのかが出て来ます。そのパウロの成長のために用いられた二人の人物がアナニアとバルナバでした。パウロは、彼らとの交流の中で、「迫害者サウル」から「使徒パウロ」に変えられていったのです。

Ⅱ.サウロの回心に用いられた人々

今日、ここに登場するサウルという人物は、後にパウロと呼ばれ、初期の教会の発展に多大な貢献をした人物です。ご存じのように新約聖書は27巻からなっていますが、その内の13の文書を書いたのが、使徒パウロです。
使徒言行録26章には、アグリッパ王の前で自らの回心を説明するパウロの言葉が紹介されます。
パウロはこう弁明しています。
「『サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか。突き棒を蹴ると痛い目に遭うものだ』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。」(使徒26:14)
新共同訳聖書では後半の主イエスの言葉を「とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」と訳しています。「とげの付いた棒」とは、さんざんクリスチャンを迫害していたサウルの心にチク、チクと指していた「とげ」を表しているのかもしれません。
考えてみますと、主イエスもサウルも同時期にエルサレムを訪問し、エルサレムに居た可能性があります。ガリラヤ出身の若きラビ、イエスと、タルソス出身のファリサイ派のホープ、サウルとは、互いに顔を合わせ、そのサウルが主イエスの教えを耳にした可能性も否定できません。ただ、たとえ二人が顔と顔を合わせて出会うことがなかったとしても、同時代に生きていたわけですから、主イエスの教えや奇跡、主イエスのご人格、さらに死からの復活という考えられない出来事を目撃した人々の証言を、サウルも直接耳にした。いや、少なくともその噂は聞いたことだと思います。その結果、主イエスの存在が、サウルの心に刺さる「とげ」のような存在になっていたのではないないでしょうか。
そして、もう一つ考えられる「とげ」は、初代教会最初の殉教者ステファノの存在です。そこを読みますと、執事ステファノが殉教していく場面、そこにサウルが居合わせたことを伝えています。ステファノは信仰を貫き通し、石で打ち殺されていきましたが、その彼が、「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」との告白の声は、それ以降、サウルの耳から離れなかったのではないでしょうか。
確かにサウルは自分が信じていたことをやり通した男です。しかしその間、復活の主の言葉にあるように「とげの付いた棒」を蹴飛ばしているようで、自らの心にチクチクと聖霊のとげがささった状態、それが良心の痛みとなっていたことに間違いはない。その痛みを打ち消すかのようにさらに激しく教会を迫害し、クリスチャンを追いかけまわし、挙句の果てに、大祭司から紹介状を書いてもらい、外国シリアのダマスコに向かう途中、最後、彼の方が決定的に主イエスに捕えられてしまった。
このように考えていきますと、サウルが回心にいたるまで、主なる神さまは、様々な出来事をとおし、人々を通して彼の心に働きかけておられたことが分かるのです。神さまの手段は「人」です。そうした人との出会いや交わりでしょう。この後で見ますが、サウルという熱狂的迫害者が本当の意味でクリスチャンになり、さらに使徒パウロへと導かれていくまでに、アナニアとバルナバという二人のクリスチャンとの出会いがあった。そのような主にある交わりを通して、「迫害者サウル」が「使徒パウロ」に変えられていった、そのことを今日の使徒言行録の個所は私たちに伝えているのではないでしょうか。

Ⅲ.サウロとアナニア

では、最初にアナニアについて考えてみたいと思います。アナニアは、獰猛な狼のようなサウルという男が、エルサレムの祭司長から権限を受け、教会を荒らしにやってきたことを知りました。恐れていたアナニアに対し、「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らの前に私の名を運ぶために、私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、彼に知らせよう」と主は言わたのです(15-16)。
原文で見ますと、「私」という言葉が繰り返されています。「私の名を運ぶため」「私が選んだ器」「私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないか」。原文では、単に「示そう」ではなく「私が彼に示そう」と強調されています。つまり、「この件に関し、私イエスがすべて責任を取る」と言うことでしょう。
アナニアは、主イエスに、自らの心の中にあった心配や思い煩いの一切を委ね、信仰をもって一歩踏み出した。そして「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、私をお遣わしになったのです」と語りかけたのです。アナニアの方から遜って「兄弟サウル」と呼び掛け、主にあって「兄弟」として、仲間に加わることができるように和解の手を差し伸べたのです。そう呼ばれたサウルからしたら、驚きだったと思います。そして本当に感激したに違いない。回心した後、クリスチャンの口から最初に聞かされたのが、この「兄弟」という言葉だったわけですから!
迫害者が「兄弟サウル」と呼ばれ、受け入れられる。教会の仲間に、神さまの家族の一員に受け入れられたのです。これによってサウルの視力は回復し、聖霊に満たされていきます。そして、そのしるしとして洗礼を受けていくことになったのです。

Ⅳ.エルサレムの使徒との間を取り持ったバルナバ

さて、サウルを主にある交わりに向かい入れるために用いられたもう一人の人物がバルナバでした。「バルナバ」とはニックネームで、「慰めの子」という意味ですが、聖書によれば、「慰めを与える働き」は正に「慰め主」と呼ばれる聖霊の働きです。「慰めの子・バルナバ」は、この聖霊の働きのために用いられた器だったわけです。
では、具体的にどのように「慰めの子」としての役割を果たしていったでしょうか。まず注目すべきことは、バルナバは、サウルと使徒との間に信頼関係を作るため、決してサウルを批判せず、欠点を一言も口にしなかったのです。この時点で、サウルの欠点を言い始めたら、切りがなかったに違いない。欠点を挙げ始めたら、サウルのような男は誰からも仲間に迎え入れて貰えなかったでしょう。バルナバにはそれが分かっていた。ですから彼は一つの欠点も言わず、ただサウルの人生に介入された神の御業を語った。自分の判断ではなく、神ご自身がサウルという男をどうご覧になっているかが、いちばん大事なことだったからです。
そして、神さまと私たちとの関係がつながり、心が通い合う時はじめて、私たちは神さまから慰めを受けることができる。また人と人との心が繋がる時に初めて、慰めを経験できるのです。今日の聖書の箇所を見ますと、そのように主にあって関係が回復された結果、サウル自身の賜物と存在自体が喜ばれ、そのサウルを迎えた教会も祝されていった。
その様子が31節に出て来ます。「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和のうちに築き上げられ、主を畏れて歩み、聖霊に励まされて、信者の数が増えていった。」宣教の業、神さまのお働きが前進していったのです。
アナニアは、教会の迫害者サウルに自分の方から「兄弟サウル」と声を掛けました。神さまからの導きを感じ、勇気をもって、また謙遜に、彼アナニアの方から「兄弟サウル」と呼びかけたのです。そしてまたバルナバはバルナバで、何一つ欠点を上げ連ねることをせず、ただただ教会の交わりの中に招き入れることに神経を集中したのです。こうした二人が成したことは、考えてみれば、主イエスが私たちのためにしてくださったことです。
私たちは一方的な恵みによって罪赦され、神の子とされました。神さまを知り、神さまに知られ、愛されていることが分かり、その御心のうちに、本来あるべき自分自身の姿、神さまの素晴らしい作品として作られた自らを見出すことが許された者同士です。
ですから今度は、私たちが慰めの子「バルナバ」となって、また「アナニア」となって、教会の交わりにおいて、そしてそれぞれの遣わされた場で、その人を神さまに執り成し、人に執り成す働き、すなわち、そのような意味で、「主にある交わり」を形づくる務めを担わしていただきたい。
あなたの歩みを振り返り、自分にとってのアナニアやバルナバは誰だったでしょう?そして今、あなたにとってのサウルは誰でしょう?そのようなことも祈り求めつつ、主にある交わりに生きる、この一年の歩みとさせていただきたいと願います。
お祈りします。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

御言葉と祈りに生きる―信仰の基本を確認する③

松本雅弘牧師
ルカによる福音書10章25-42節
2022年1月16日

Ⅰ.はじめに

今日、お読みしました聖書の箇所は大きく分けて2つの部分から成り立っています。前半は37節までのところで、いわゆる「善いサマリア人の譬え話」、そして後半の38節からは「マルタとマリアの話」、どちらも聖書の中では大変有名なお話です。
今日は、この2つの箇所から「御言葉と祈りに生きる」、すなわち「聖書と祈り」について、御一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.愛の実践-善いサマリア人に見る真実の愛

では初めに「善いサマリア人の譬え話」に注目しましょう。25節から譬え話が語られた経緯がでてきます。注目すべきは、律法の専門家が語った、「私の隣人とは誰ですか」という問いかけの言葉です。これに対する答えとして主イエスによって語られたのが「善いサマリア人の譬え」でした。道を歩いていた旅人が強盗に襲われ、身包み剥ぎ取られてしまった。その上、瀕死の重傷を負わされ道端に捨てられてしまった。そこを最初に通りかかったのが祭司で、彼は道の「反対側」を通り過ぎていきました。次に通ったレビ人も同様だったのです。
そうした中、次に登場したのがサマリア人でした。彼は旅人を発見すると、躊躇なくオリーブ油とぶどう酒を注ぎ、包帯をし、家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱し、数日の滞在費を先払いしました。
当時、サマリア人は、ユダヤ人と征服者であったアッシリア人とのあいだに生まれた人々で、ユダヤ教の正統的な在り方から外れた存在と見なされ、民族的、宗教的理由から軽蔑と差別の対象でした。そうした差別はサマリア人の心を卑屈にし、頑なにし、敵意を植え付けたに違いありません。ところが、このサマリア人は敵意や差別の壁を乗り越え、倒れている人の必要に応えようと努めたのです。
たぶんこの時のサマリア人にも、通り過ぎた祭司やレビ人同様、なすべき仕事があり、決して「暇人」だったわけではなかったでしょう。でも、全て自分のことを後回しにし、旅人と面倒なかかわりを持ち、時間や金銭を捧げて、仕える業に専念した。もし訊かれたら、「死ぬ思いをしている人を前にしたのだから、人間として当然のことをしたに過ぎない」と答えたかもしれません。彼は自分に出来る限りのことをしたのです。

Ⅲ.イエスさまと律法の専門家の問題意識の違い

ところで、この時の律法の専門家の心の内側に思い描いていた絵を想像するならば、たぶん先ず彼自身が真ん中にいて、その周りを囲むように人々がいる。そうした上で、周囲にいる人々を品定めするように、「誰が自分の隣人として、愛されるにふさわしいか」を自らの心に問いかけている。そのような絵を彼は心の中に思い描いていたのではないでしょうか。これに対して主イエスは、当然、「隣人の枠外」に居たサマリア人の方が敵対関係にあったユダヤ人に対して、その枠を乗り越えて助けようとしたというのです。
考えてみれば、この時、傷ついた旅人には助けてくれる隣人がどうしても必要でした。ですから主イエスは、「誰が私の隣人か」ではなく、「その人の隣人になったのは誰か」を問題になさった。自分の方で枠を設けるのではありません。一人の人間として同じ地平に立ち、今、助けが必要な人の隣人になる、そしてできる限りのことをする。それが隣人を愛することだと言われるのです。
さて、この譬え話の最後に、主イエスは律法の専門家に向かって語りました。「行って、あなたも同じようにしなさい。」そしてこれは律法の専門家だけでなく、イエスさまを信じていこうとしている私たちにも投げかけられているチャレンジの言葉でもあります。

Ⅳ.主イエスの足元に座って―御言葉と祈りに生きる

さて、この言葉を前に私たちは、「こういう隣人愛にどうしたら生きることができるのだろうか」と考えてしまうのではないでしょうか。確かに、「自分は向こう側を通り過ぎるような祭司やレビ人にはなりたくない」と思いますが、一方で自分の現実を見た時に、「善いサマリア人にはなれない」という限界を知らされるからです。
このような私たちに対して、この福音書を記したルカは、この譬えの直後に「マルタとマリアの話」を取り上げています。私は、ここにヒントが隠されているように思うのです。
主イエスは、この譬え話をお語りになった後、弟子たちを連れてマルタとマリアの姉妹の家を訪問されました。一行を迎えることになったマルタとマリア姉妹は、一生懸命もてなすのですが、その最中、一緒にいたはずの妹マリアが台所から姿を消していることにマルタが気づいたのです。アレっと思って、リビングを覗くと、何と主イエスの膝元に座ってメッセージに聞き入っている。そのマリアの姿が目に飛び込んできたのです。その瞬間、マルタは感情が爆発し、「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」と主イエスに食って掛かるということが起こりました。くつろぐ雰囲気は一気になくなり、主イエスもその場にいた人たちも居たたまれない思いにさせられたのではないでしょうか。
さて、こうしたマルタに対して主は優しく語りかけられます。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」ここで主イエスは「マリアは良い方を選んだ」と、神が私たちに「選択の自由」を与えてくださっていることに気づかせておられるのではないでしょうか。
この時のマルタに当てはめて考えるのならば、感情に任せ、イライラした状態で主イエスに八つ当たりするのか、それとも一呼吸おいて、一旦台所での働きを中断し、妹や他の弟子たちと一緒に主イエスの足もとに座り、御言葉に聞き入ることを選択することだって出来たはずでしょう。
実は、このマリアが選択し、その選択のことを主イエスが「必要なことは一つ」、別の聖書では「無くてはならないただ一つのこと」と評価した生き方こそ、今日取り上げている「御言葉と祈りに生きる」という信仰生活の基本の生き方なのではないでしょうか。
「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです」とありますように、「行って、あなたも同じようにしなさい」という主イエスの命令に従う前に、まず神の愛を深く味わうことが本当に大切なのです。何故なら、「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです」。しかし、私たちの心が冷え切っていたら、たとえやるべきことがわかっていたとしても、「向こう側を通り過ぎる」生き方しかできないのではないでしょうか。ですから必要なことはまず、神さまの愛で心を充電していただくことです。マリアのように主イエスの足元に座り、恵みの御言葉をいただくことなのです。
もう一度、「善いサマリア人の譬え話」に戻りたいと思います。宗教改革者マルチン・ルターは、傷つき、瀕死の重傷を負って横たわっている旅人こそ、私たちなのだと語っています。確かに私たちは、「隣人を愛しなさい」と言われても、気づかないふりをして道の反対側を通り過ぎてしまい、「愛の人になりたい。自己中心の殻を破り、分け隔てなく人を愛する私になりたい」という思いを抱きながらも、どうしてよいか分からない。そのような意味で、自己愛の塊/人を愛することが出来ない病にかかり、正にルターが言うように、私たちこそが惨めな姿で横たわっている旅人の姿と重なって来るようにも思うのです。しかし、この旅人を見捨てない人がいた。それがサマリア人です。ルターは、このサマリア人こそが、主イエスなのだ、と語るのです。
ところで、福音書記者ルカは、神、もしくは主イエスにしか使わない「憐れむ」という動詞をサマリア人にも使っています。これは、「内臓がギュッとよじれるほどの痛みを感じる思い」という意味で、相手の苦しみを自分の内にあるものとして感じてしまうという意味があります。主イエスこそが、愛に生き得ないで苦しむ私たちに近づき、その傷を治療し、再び立ち上がれるように、つまり、愛に生きる者へと変えてくださるお方なのです。
御言葉と祈りに生きるという聖書と祈りを通して神さまと交わる生活の目標は、聖書に精通するとか、知識を増やすということではありません。それを通し神さまの愛を深く経験し、神さましか癒すことのできない渇きを癒していただく。神の愛に留まり、心に芯まで温めていただく。その結果、「行って、あなたも同じようにしなさい」と語られるキリストに倣って生きる者へと少しずつ変えていただくのです。
新しい年、聖書と祈りを通して、魂をキリストの愛で充電していただき、「行って、あなたも同じようにしなさい」という主イエスの命令に従う者として生かされて行きたいと願います。
お祈りします。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

礼拝を通して神に仕える―信仰の基本を確認する②

松本雅弘牧師
詩編95編1-7節
ローマの信徒への手紙12章1-2節
2022年1月9日

Ⅰ.救いの目的としての礼拝

年の初めに、今年も「神さまへのおささげカード」を配らせていただきました。例年ですと、第2主日の後に、新年地区祈祷会が行われ、成人のお祝いをした方たちも含め、このカードを用いながら、新年の抱負を語り合い、共に祈りを捧げる交わりを持っていますが、今年もコロナの関係で、行うことが出来ません。
その代わりと言っては何ですが、先週から、信仰生活の基本を一つひとつ確認しながら、新しい年を始めています。もしよろしければ、毎週、信仰生活の基本を一つひとつお話しますので、説教をお聴きになった後、このカードを使って、今年取り組んでみようと思わされたことがありましたら、この欄に記入していただいたらどうでしょう。そして、それぞれの小グループの交わりなどで、書いたことを分かち合いながら、新しい年を始めることが出来ればと思います。
さて、今日はその2回目、礼拝についてご一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.献身、価値観が整えられる場と時としての礼拝

礼拝を考える上で、今日、選んだ個所の一つがローマの信徒への手紙12章1節と2節です。ここから礼拝について3つのことをお話したいと思います。
ここでパウロは、「自分自身を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げることこそが、礼拝なのだ」と語っています。つまり礼拝とは献身であるというのが第1のポイントです。
ところで、礼拝が礼拝として成り立つために、最低、2つのことが必要だと言われます。1つは目に見ることはできませんが、そこに生ける神さまが居てくださるということ。もう1つは、その神さまを礼拝する人間がその場に居合わせること。この2つがあって初めて礼拝が礼拝として成り立つと言われます。ですから、目に見ることはできませんが、インマヌエルなるお方が、聖霊においてこの礼拝に臨在しておられることを心の目をもってしっかりと見ていく。私たちが感じようが感じまいが、今ここに神さまが居てくださり、そのお方を礼拝する私たちがいることで、この礼拝は成り立っているわけなのです。
賛美をする時に単に歌を歌っているのではなく、そのお方に心を向けて賛美します。聖書の言葉を聞く時に、そのお方からの語りかけとして聴くことです。そして、「礼拝は献身である」と言う時に心に浮かぶのは、受胎告知を受けたあのマリアが、「私は主の仕え女です。お言葉通り、この身になりますように」と言って、自らを主の語られる御言葉に委ねて行った姿、それこそが献身の姿なのではないでしょうか。
礼拝についての2つ目のポイントは、礼拝は私たちの価値観を神の国の価値観へと造り変える時と場であるということです。
ご存じのように、礼拝の中心は御言葉です。礼拝において、聖書を通して語られる神さまに心を開きます。その結果、何が起こるかと言えば、「心が新たにされる」と、今日の2節で語られています。
この「心」という言葉は、「ヌース」というギリシャ語で、英語の聖書では「マインド」と訳されています。2節を見ますと、神を礼拝することで、「心/マインド」が「新しくされ自分が造り変えられていく」、具体的にどのような変化が起こるかと言えば、「何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになる」。一言で言うならば、永遠のベストセラーと呼ばれる聖書の価値観によって私たち自身が導かれていく、というのです。
昨年の12月28日の「天声人語」に「世の中には二種類の人間がいる。『カラマーゾフの兄弟』を読破したことのある人と、読破したことのない人だ」という村上春樹の言葉が引用されていました。新しい年に必ず読みたい本の一つが、『カラマーゾフの兄弟』でしたので、村上春樹の言葉を読んだ時に、ドキッとしましたが、その言葉を読みながら心に浮かんだのは、「この世界には縦軸を持つ人と持たない人という、もう一つの分類もあるのではないか」と思わされるのです。
縦軸を持たない人は、横との比べ合いで生きる人でしょう。人と比べて上か下かが大きな問題となり、少しでも上だったら安心し幸せを感じますが、逆に下だったら、自分には何もないと落ち込んだり、他人の成功を妬んだりしてしまう。場合によっては、同僚や友達の欠点を見つけては「ちっぽけな勝利感」に浸るような貧しい生き方でしょう。
それに対し、縦軸を持つ者は、「上を向く生き方」、神さまを礼拝する生き方です。私の存在自体を喜んでおられる神さまに、意識して心を向けて生きる生き方でしょう。
心を上げてそのお方を礼拝するとき、私をご覧になって微笑んで、喜んでおられる神さまを知る。そうです。礼拝とは「さんさんとふりそそぐ神の愛の光の中での『日向ぼっこ』」ですから。今まで何をもってしても暖まらなかった、芯まで冷えていた心が次第に暖まる経験をする。
お金や物、仕事上の成功や、周囲の人たちからの評価、あるいは様々な楽しみを追いかけながら、それでも癒されなかった心の渇きを神さまの愛は必ず癒してくださる。つまり、私を縛っているこの世の変わりやすい価値観から解き放ち、本当の意味での幸いに導く、神さまの価値観へと私たちの価値観を新しくする時と場が礼拝なのです。

Ⅲ.生活にリズムをもたらす礼拝

そして最後3つ目ですが、礼拝とは私たちの生活にリズムをもたらすものです。
カール・バルトという神学者がいました。よく葬儀の時にお話しするのですが、彼は私たちの人生を「中断される人生」と呼びました。人が召される時、必ず何かをやり残して召されていく。仕事においても、家族のことついても、友人関係でも、趣味においてもそうです。誰であっても、何かをやり残して御許に帰っていく。
では、そんな私たちの人生は何も完成できない、途中で放り出すような「中途半端な人生」なのでしょうか。決してそうではないと語るのです。何故なら、私たちの信じる神さまは、「信仰の創始者であり完成者」だから。神さまは私たちをそれぞれの人生に送り出し、なおかつ、私たちの人生を完成してくださるお方だからです。
これを礼拝との関連で見るならば、私たちが日曜日の礼拝に集うためには、どうしても何かを途中で切り上げなければ集うことは難しいでしょう。あるいはそのために、色々な段取りが必要となります。でも礼拝を守るためのそうした「週ごとの小さな中断」を繰り返す中で、いつか訪れる「大いなる中断」としての「天国への引っ越し」の備えを、私たちはさせていただくのではないでしょうか。そのような意味で、主の日ごとの礼拝は、天をめざす旅人である私たちの生活にリズムを与えるものとなるのです。

Ⅳ.礼拝とは共に/一緒に捧げるもの

最後に詩編95編6節を読みます時、2つのことが心にとまります。1つは、私たち人間の生きる目的/存在理由です。私たち人間は、神によって造られた、それ故に、造り主なる神の御前に跪こう、つまり礼拝する者として生きよう、ということ。そしてもう1つは、ここで詩編記者は、「さあ」と呼びかけています。「さあ、みな共に、ひれ伏し、身をかがめよう。私たちを造られた方、主の前にひざまずいて、共に礼拝しようではないか」と。自分ひとりではなく「共に・一緒に」ということ。私たちが礼拝を、「共同の礼拝」と呼ぶ理由が、こうしたところにあります。
コロナ感染症が収まらない中、今も引き続き、オンラインの礼拝が中心となっています。そうした中、自分自身を見ていると、私のなかでの礼拝の優先順位がどんどん下がっていく危うさを感じることがあります。ともすると楽な方、楽な方へと動いてしまう。そんな危うさを経験します。しかし聖書が教える本来の礼拝とは、個人で捧げるものではなく、キリストの体なる教会として、共に集い、共に捧げるのが礼拝であることを、まず心に留めたいと思うのです。
現在、新種のオミクロン株の感染の勢いが止まりません。そのような意味でどうしてもオンラインの礼拝を中心にせざるをえない。そのような場合でも、ぜひ、自分一人で捧げる個人の礼拝ではなく、あくまでも主日共同の礼拝の一部として、意識的に捧げることが大切なのではないかと思うのです。
私たちカンバーランド長老教会の「礼拝指針」には、この点について次のような告白があります。最後にそれを紹介してお話を締めくくりたいと思います。
「神はイエス・キリストによって一人一人を贖い、キリストのからだである教会の構成員として、神ご自身との関係、そして人間同志の関係に入れられる。であるから、キリスト教の礼拝は、何よりも共同的なものと理解される。つまり、個人は信仰共同体の肢体として自己の真の意味を見いだすのであり、個人の礼拝は共同体の信仰と賛美と切り離されて存在するのではない、ということである。」(「礼拝指針」「Ⅰ共同の礼拝」)
お祈りいたします。