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主日共同の礼拝説教

キリストに従う

2016年7月3日
松本雅弘牧師
イザヤ書35章1~10節
マタイによる福音書8章18~22節

Ⅰ.「高価な恵み」と「安価な恵み」

ナチ・ドイツに対する抵抗運動で殉教したボンヘッファーは「高価な恵み」と「安価な恵み」という言葉を使って、神さまがくださる恵みに対する私たちの勘違いを鋭く指摘しています。
ボンヘッファーは「安価な恵み」は主に従うことなき恵みで、「高価な恵み」とは、私たちをキリストへの服従へと招く恵みだと語っています。
今日与えられている聖書箇所から、イエスさまに従うことについて、ご一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.「安価な恵み」―神の恵みを利用して自己実現をはかる

今日の箇所の出来事が起こった場面は、山上の説教を終えて山から下りてきた時、そこで、イエスさまは次々と病人を癒され、また悪霊に取りつかれた人を癒す御業をなさった直後の場面です。
多くの群衆が、イエスさまの周りを取り囲んでいるような状態です。ですから、この時こそ、宣教における絶好のチャンスでした。ところがイエスさまは、弟子たちに向かって、「向こう岸に行くように」とお命じになったのです。
何故でしょうか? 実はここにボンヘッファーをして「安価な恵み」、「安っぽい恵み」と言わしめた理由があるように思うのです。
ボンヘッファーは次のように語ります。「安価な恵みとは、とりも直さず、代価のいらない、コストのかからぬ恵みのことである。・・・安価な恵みとは、われわれが自分自身で手に入れた恵みである。安価な恵みとは、主に従うことなき恵みであり、十字架なき恵みであり、生けるイエス・キリストなき恵みである」と。
十字架におかかりになる前に捧げた祈りの中で、イエスさまは「永遠の命」を定義し、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と祈られました(ヨハネ17:3)。
イエスさまは、「永遠の命」とは、単に時間が物凄く長いということではなく、父なる神さまや御子イエスさまを知ること、言い換えれば愛すること、そのお方との愛の交わりの中に生かされることだ、と理解しておられたことが分かります。そのように考えますと「キリストに従う」ことは、キリストとの生きた関係の中に招かれることであり、ただキリストの御手から零れ落ちる様々な「ご利益」に与るために付いて行くのとは違うということなのです。実は、このことを明らかにするのが、この後に出てくる2人の人とイエスさまのやり取りでした。
最初の人は律法学者です。彼はイエスさまに近づき、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」と言いました。ところが、この申し出に対して、イエスさまは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われ、弟子としての覚悟を聞かれました。
次の人は、すでに従い始めていた弟子であったようです。この彼は、即座に応答する代わりに、「まず、父を葬りに行かせてください」と願ったのです。それに対してイエスさまは、「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言われました。
これは何かとても厳しい言葉のように聞こえます。彼はイエスさまの招きを断ってはいません。ただ父親が死んでしまった時なので、葬式を済ませてからにしてくださいと願ったのです。ところがイエスさまは「わたしに従いなさい」とお命じになり、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」とお語りになりました。

Ⅲ.愛の主イエス・キリストの語られた言葉だからこそ

土曜日の朝でしたが、教会員の姉妹からお電話をいただきました。その方の大事な友人が召され、土曜日、翌日の日曜日にお葬式に行くので朝の礼拝に出席することが出来ない。ただ、もし疲れていなければ夕礼拝に出席しようと思う、という内容の丁寧なお電話でした。
私はその方のお話をお聞きしながら、このイエスさまの言葉が心にかかりました。でも電話口で、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」とは言えませんでした。電話を切った後、〈言えなかった〉という牧師としての小さな敗北感のようなものと共に、一方で、〈事情を知れば知るほど言えないよな〉と自分の行動を正当化するような、言い訳がましい思いと、いずれにしても、何か複雑な気持ちでおりました。
そのような中で、私の心の中に浮かんだのは、「では何でイエスさまは、こんな厳しいことを、この人に言えたのだろう」という問いでした。皆さんは、どう思われるでしょうか?
昨日、説教の準備をしながら、ずっと考えていました。そして、ある牧師が語っている言葉を見つけたのです。その牧師曰く、「この言葉はイエス・キリストの言葉だ」。私は答えをいただいたように思いました。いかがでしょう? ここでこの言葉をお語りくださったお方は、イエスさまです。私たちのことを誰よりも愛し、ご自分の命を差しだすほどに愛してくださっているイエスさまです。常に私たちの最善を思い、行動し、語りかけてくださるお方です。そのお方の言葉なのです。
勿論、この言葉だけを取り上げるならば言われた方は突き放されたように感じたかもしれません。でも、彼はこの言葉を語る主の御心を知れば知るほど、その真意が心に響き、前とは全く違った意味をもって受けとめていったのではないかと思うのです。
誰もが直面しなければならない死の問題を、この方こそ、最も深い愛に満ちて、他の誰もがなし得ない仕方で解決してくださった救い主キリストだからです。この言葉は、そのお方が語っておられるということなのです。
牧師をしていますと様々な方たちの、死の場面に立ち会います。そのお方が召されたとの連絡が入ると、なるべく早くそこに駆けつけます。そして聖書を開き、臨終の祈りを捧げます。そして教会に戻り、ご遺族と葬儀の打ち合わせを始めるのです。
先週も全くそうでしたが、そうした場面でいつも思うことは、召された方のために、結局のところ自分は何もしてあげることが出来ないということです。仏教では、亡くなった人が成仏するかどうかは遺族の供養にかかるといいます。
でも聖書はそうしたことを一切教えていません。亡くなった方は私たちの手の届かないところに移ってしまわれた。ですから葬儀の打ち合わせの時にも祈るのですが、牧師として出来ること、また私たちが出来ること、それは、せめて心を込めて葬りの式をさせていただくこと、それ以外にないのです。
聖書の教えによれば、召された人は私たちの手の届かない神さまの領域に移ってしまわれたということです。ですから、この時イエスさまが「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言われたのは、「私が責任をもって引き受けるから、私に委ねなさい。あなたは心配しないでいい」という意味だったのではないだろうかと思うのです。そうした福音の教えを踏まえた上で、イエスさまは敢えて「わたしに従いなさい」と招かれるのです。

Ⅳ.「高価な恵み」-服従へと導く恵み

私はこの説教の冒頭で、ボンヘッファーの「安価な恵み」と「高価な恵み」のお話をしました。「安価な恵み」とは主イエスに従うこと抜きの恵みであり、それに対して「高価な恵み」、これこそが真の神の恵みですが、それは私たちをキリストに従う者へと造り変える恵みである、とボンヘッファーは語るわけです。
私たちが神さまの愛の恵みに触れ続ける時に、必ず、私たちの心には、そのお方に応答し、そのお方に委ね従って行きたいという思いや願いが与えられていきます。
聖書は繰り返し、私はあなたを愛していると語ります。こうした神さまの思いに触れていく時、私たちは、もはや自分を簡単には安売りしない、いやできなくなるのです。
ボンヘッファーはまさにこのことを、「高価な恵み」という言葉で説明しているのです。
「高価な恵みはイエス・キリストの招きであって、それを聞いたとき、弟子たちは網を捨てて従うのである。高価な恵みは、繰り返し求められねばならない福音である。それは、祈り求められねばならない賜物であり、叩かれねばならない扉である。それは、服従へと招くがゆえに高価であり、イエス・キリストに対する服従へと招くがゆえに恵みである。それは、人間に生命をかける値打ちがあるゆえに高価であり、またそうすることによって人間に初めて生命を贈り物としてあたえるゆえに恵みである。」
私たちも、羊飼いなる愛の主イエスさまから、「従いなさい」と招かれています。
私たち羊にとって、イエスさまこそが私の羊飼いであり、私たちを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださるお方です。そしてそのお方は、御名にふさわしく、正しい道に導いてくださるのです。そして、その道こそが、そのお方の羊である私たちにとっての最善の道、本当の意味での祝福にいたる道なのです。
「わたしに従いなさい」と招かれるイエスさまに付いて行きたいと心から願います。
お祈りします。

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患いと病を引き受けて


2016年6月26日
松本雅弘牧師
イザヤ書53章1~5節
マタイによる福音書8章14~17節

Ⅰ.熱を出して寝込んでいたペトロのしゅうとめ

山上の説教を語り終えたイエスさまを待ち受けていたのは、重い皮膚病を患った人であり、また病に苦しむ僕の癒しを切に願うローマの百人隊長でありました。
そして、今日の朗読箇所では、熱を出して寝込んでいたペトロのしゅうとめが、イエスさまに癒しを必要としている3人目の人物として紹介されています。

Ⅱ.生活の中で神を知る

ただここで1つ注意したい点があります。それはペトロのしゅうとめ以外の2人は、共に大変な病気だったのに対して、しゅうとめの病状はそれほど重いようには見えない点です。
勿論、本人は大変だったでしょう。またペトロをはじめ家族の者たちも心配していたに違いありません。でもそうは言ってもごくありふれた日常的な病気だったと思われます。
そして、もう1つ注目したいのは、重い皮膚病を患った人、百人隊長の僕、そしてペトロのしゅうとめ、この3人がそれぞれに癒されていくプロセスにおいても、ペトロのしゅうとめと他の2人は大分違っている点です。
重い皮膚病の人の場合は、本人が、死に物狂いで病の癒しを懇願しました。百人隊長の僕の病の癒しについては、上司である百人隊長が必死になって執り成したのです。ところがペトロのしゅうとめに関しては、当の本人を含めて、誰かがイエスさまに向かって、彼女を癒して欲しいと求めたことがひと言も出て来ませんし、またそうした様子を伝える記述もまったくないのです。そうした中で今日、とても大切だと思う点は、彼女や周りの人がイエスさまに癒しをお願いする、その前に、イエスさまご自身が、熱を出して寝込んでいる彼女を御覧になったということです。そしてイエスさまの方から進んでその病を癒してくださったのです。
ここで私たちが注目したいのは、イエスさまのお働き、神さまのお働きは、何か特別な、劇的な仕方ではなくて、ごく日常的なレベルでなされているということです。
誰でもが風邪をひき、熱を出してしまうことがあるわけですから、そうしたごく日常的なことに対して、イエスさまは心を向けてくださるお方なのだ、ということを覚えたいと思うのです。つまり、イエスさまというお方は、ごくごく普通の生活をしている私たち1人ひとりを「御覧になって」くださるお方、しかも、そうした私たちの手に触れられ、場合によっては病気を癒してくださるお方だ、ということです。
いかがでしょう? 神さまは、私たちが聖書を読む時だけとか、あるいは日曜日の礼拝において説教という御言葉を通してだけ語りかけてくださるお方ではなく、私たちの、ごく日常の生活における様々な出来事を通して働きかけ、語りかけてくださるお方だというのです。
私たちにとって大事なことは、そうした日々の生活の中で、このようなイエスさまの眼差しを受けとめて生活しているか、あるいはまた、イエスさまが触れておられる御手の温もりや、その働きを、どれだけ意識しながら過ごしているかということでしょう。また、私たちが神さまからのメッセージやサインを敏感にキャッチしながら、日常の出来事の中を歩んでいるだろうか、ということなのだと思うのです。
ペトロのしゅうとめの出来事から今日教えられること、それは、ごく普通のありふれた日常の中に、私たちがイエスさまの眼差しを、イエスさまの御手を、どれだけ受けとめることができるのか、ということだと思うのです。

Ⅲ.患いと病を引き受けて

16節を見ますと、夕方になって、さらに人々が、悪霊に取りつかれた大勢の人々をイエスさまのもとに連れて来ます。そして、イエスさまは、御言葉を語ることによって、悪霊を追い出し、病人を癒して行かれたことが分かります。
マタイによる福音書8章は、その最初から病気の人々の癒しの物語が続いているのです。こうした一連の病気の癒しに関する出来事のまとめとして、17節で、マタイは旧約聖書イザヤ書53章4節を引用する形で締めくくっています。
「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。』」(マタイ8:17)
これは、イザヤ書53章4節の正確な引用と云うよりも、マタイ独特の自由な引用の仕方で、「苦難の僕」としてキリストの受難を明確に預言した言葉である旧約聖書イザヤ書53章を引用しながら、まさにイエスがメシアであることを伝えようとしているのです。
では、ここでマタイはイエスさまの何を伝えたかったのでしょうか。イザヤ書53章3節から5節には次のようにあります。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
つまり、福音書を書いたマタイは、このイザヤ書53章3節から5節に書かれていることをひとまとめにして、「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」と語っているわけです。
イエスさまが重い皮膚病の人、中風で苦しむ僕、そしてまたペトロのしゅうとめの熱病、さらに悪霊に取りつかれた人や、様々な病で苦しむ人々を次々と癒されたのは、ただ単に不思議な力で人々を癒したということにとどまらずに、こうした一連の病の癒しが実現した背後には、患いや病をご自分のものとして引き受けるというイエスさまの御業があったからですよ、とマタイが語っているということなのです。もっと言えば、こうした私たちの病の癒しの向こう側に、主イエスさまの受難、イエスさまの十字架を、この福音書を書いたマタイは見ている、ということなのです。

Ⅳ.癒しから奉仕へ

そして最後に、イエスさまのこのような御業によって癒されたシモンのしゅうとめはどうしたか、ということです。
15節をご覧ください。
「イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした」とあります。つまり、癒された結果、主イエスさまを「もてなした」のです。
実は、この「もてなした」と訳されているギリシャ語は、「ディアコネオー」という言葉です。一般的な訳は「仕える」「奉仕する」というものです。ギリシャ語の「ディアコノス」、つまり「執事」の語源となった言葉です。
つまり、ここでペトロのしゅうとめは、癒された結果、主イエスさまに仕えたのです。もっと分かり易い言い方をするならば、主の弟子となった、ということです。
16節を見ますと、「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た」とありますが、同じで出来事を記したマルコによる福音書では、その後に「町中の人が、戸口に集まった。」(マルコ1:33)とあります。つまり、イエスさまがいらっしゃるペトロの家の戸口に、町中の人が集まってきたのです。
熱病から癒されたしゅうとめは、このようにしてイエスさまに仕え、そして癒された喜びから、一生懸命になってカファルナウムの人々を癒されるイエスさまのお働きをサポートしたのではないでしょうか。そしてまた、こうしたしゅうとめの奉仕を、イエスさまは快く受け入れていかれたのだと思うのです。
私たちは、どうでしょう? 私たちもまた、イエスさまに救われ、癒されることを経験します。もしそうだとするならば、私たちもまた、このしゅうとめ同様、自分はどのように仕えることができるのか、それを自分自身に、そして主イエスさまに、問いかけてみる必要がある、ということなのではないかと思います。お祈りいたします。

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ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教

愛という名の贈物

2016年6月12日
ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
コリントの信徒への手紙一13章4~8a節

Ⅰ.はじめに

以前、ある方がこんな話をしてくれました。息子さんから通知表を見せられた時のことです。「どれどれ、国語が3、数学が3、社会が2、ちっといただけないな・・。エーと、理科も2か、もう少し頑張らないと・・・。英語が3、まあまあかな・・。美術が6??!! エッ、何これ?! もしかして、10段階評価!!」。
ある子どもは通知表を見てがっかりする父親に向かって「おとうさん。ぼくの成績が振るわないのは、遺伝のせいなの? それとも環境のせいなの?」と聞いた、というのです。笑い話のように聞こえますが本当の話だそうです。
ところで、子育ての本が世界で一番売れているのが、北アメリカだそうです。しかし、そうした北米の多くの親たちは子育てに迷い、自分たちの無力さを感じている人が多いと言われます。子どもたちの問題行動の原因がどこにあるのか、あるいは、その責任がだれにあるのか悩んでいるそうなのです。でもこれはアメリカ人やカナダ人に限ったことではなく、私たち日本に住む者にとっても同じなのではないかと思います。
多くのプレッシャー、そして精神的ストレスを抱え、そして、大人も子どもも競争原理の中で生きざるを得ない今の時代です。そのような意味で現代ほど、賢い知恵が、親である者に求められ、いや親であるなしに関わらず、今の時代に生きる私たちすべてに求められている、そんな時代はないのではないかと思います。

Ⅱ.聖書の説く 生きていく上での7つの「基本的な必要(ニーズ)」

心理学や様々な学問的な研究、さらにまた私たちが経験的に知り得たことなどを綜合して考える時に、私たちの心の発達に必要な幾つかの基本的な原則があると言われます。それは年齢に関係なく、私たち大人にも等しく必要なことです。ですから人の成長過程で、そうした基本的要素が満たされない場合、その人の心の内側に不安感が残り、一生それを抱えて生きていくか、もしくはあまり健全ではない方法で、満たされなかったものを獲得しようとするのだと言われます。
心理学者K・メニンガーは、「基本的な必要が満たされないとき、人は2つの方向のいずれかへ進む。自分自身の内に引きこもるか、あるいは、これが外へ転じて、他人を攻撃するようになるか、である。」と語っています。
これを受けて牧師であり心理学者であるJ・ドレッシャーが、人が生きていく上で最も基本的なものは、聖書から学ぶ時に7つあると主張し『幼い子をもつ親のための7章』というタイトルの書物にまとめています。
その7つとは、次のようなものです。①大切な存在であることを知らせること、②安心感をもたせること、③受けいれること、④愛すること、愛されること、⑤ほめること、⑥しつけること、⑦神を教えること。
今日は、この7つのうちで基本となる1つ目、「大切な存在であることを知らせること」について、特に注目していきたいと思います。

Ⅲ.大切な存在であることを知らせること

私たちにとって、自分が大切な存在であるということを知るのはとても重要なことです。
ある時、3人の園児が一緒に遊んでいました。初めしばらくの間は、3人とも楽しそうに遊びに熱中していました。ところが、その内の2人が、1人を無視して少し離れたところで2人だけで遊び始めたのです。するとほどなく、独りにされた子がこう叫んだ、というのです。「わたしはここよ。ここにいるのよ。2人ともわたしのことが見えないの?」。
そう叫んだ子は、2人の友だちが自分に対してとった行動について理論的に説明したり、心理学的に分析したりすることは出来ません。子どもですから当然です。でも、その子の訴えは年齢に関係なく、心を持つ人間であれば誰もが覚える心のニーズを雄弁に言い表わしていると思うのです。そのニーズとは、自分の存在に気づいて欲しい、価値ある者として認めて欲しい、というニーズです。
健全な意味で、人が自分は価値ある者だと自覚することは誰にとっても大切なことです。自分は価値のない存在であると思っていたり、自分のことが嫌いであったりする時に、人は安心して自分と仲良く生きることが難しくなります。ではどうしたら自分を大切な存在であると考えるようになれるのでしょうか? それは他人から認められ、評価され、自分がありのままで愛されているという経験を積み重ねることによってです。
こんな話があります。小学1年生の子どもたちが牧場に社会科見学に行きました。牛からミルクがどのようにとられるのかを見学したそうです。見学も終わりに差し掛かった頃、先生が、「ではみなさん、何か質問がありますか?」と子どもたちに尋ねました。すると1人の生徒が小さな手をサッと挙げて、「先生、僕のこの新しいセーターに気づいた?!」と言ったというのです。先生は牛の乳搾りについて尋ねたのですが、この子は自分に注目して欲しかったのです。もしこの時、先生がちゃんと目を向けていなかったら彼は牛乳をこぼすとか、ある種、関心をひくような行動に出て自分をアピールしたかもしれません。
子どもの時代に、自分の存在を認めてもらうこと、自分の価値を認められることがどれほど大切なことなのかがよく分かるように思います。そして、そのことが生涯を通じて、その人の情緒と、心の健康とバランスの基礎を作ることになるのだと思います。
大人である私たちは、どうしたらよいのでしょうか? この点に関して、ドレッシャーは私たちが犯す3つの誤った考え方を指摘しています。
第1は夫婦関係よりも親子関係を優先する過ちです。
A・ネッサーは、「たとえ結婚生活を長く持続できた夫婦であっても、それがもろくも崩壊してしまうとすれば、その最大の要因は、おそらく子ども中心に生活してきたことにあるだろう。」と警告を与えています。
実際に子どもが与えられると、夫、あるいは妻のことよりも子どもを優先しがちです。「子どものために」ということで、夫と妻の関係が後回しにされることが多くなります。
アメリカの場合ですが、自分に対する妻の愛情が薄れていないと感じている夫は、多くの場合、進んで「イクメン」を買って出るそうです。皿洗いや家事を、責任をもって果たそうとするというのです。
誤った考え方の第2は、子ども中心主義の弊害です。これは1つ目の、親子関係優先の延長線上にあるものです。聖書は、家庭では、いつでも夫婦の関係が中心であることを説いています。
そして3つ目は、子どもに年相応以上のことを求めてしまう親のエゴです。私も経験することですが、親は、自分が子ども時代に経験できなかったことをせめて自分の子どもには経験させてやりたいと思うものです。でも冷静になって親自身の心の奥を探ってみれば、実は、子どもを通して、自分が叶えることができなかった夢を叶えてもらいたいという親のエゴかもしれません。

Ⅳ.愛という名の贈物

では逆に、子どもが親や大人との関係の中で、自分が大切な存在であるということを知るためには何が大切なのでしょうか。
先ほどのドレッシャーは次の7つを挙げていました。
①親の自分自身に対する態度、②子どもに家事を手伝わせること、③子どもを人に紹介すること、④子ども自身に話をさせること、⑤子どもに選択をさせること、⑥子どもと一緒の時を持つこと、⑦子どもに任せること、です。
今日は、コリントの信徒への手紙一の13章の言葉を読ませていただきました。ここを見ますと、愛という言葉の意味が、様々な表現で言い換えられています。
子どもを愛するということ、それは、子ども自身が、自分は大切な存在であると受けとめるのを助けることだ、と言い換えることができると思うのです。不思議なことですが、私たちは人に優しくされると人に優しくなれるのです。夫が妻に愛されていることを感じると、その夫は「イクメン」に変えられていくわけです。
ドロシー・ブリッグスという心理学者が、 26年にわたる臨床経験を踏まえて、『子どもと自己存在価値―人生のかぎ』という本を書き上げ、その結論のところでこう述べています。「子どもたちに対する最大の贈物は何であろうか。それは、自分自身が好きになるための手助けをしてやることである」と。これが愛ですね。
今日お話したことは、聖書のメッセージです。私たちの神さまが、私たちに与えてくださった最大の贈物が愛だ、と聖書は語ります。私たちがその神さまの愛に触れる時に、初めて自分を愛する人になり、自分をあるがままに受けとめることの出来る力をいただくのです。そして、それが、子どもたちに対しても、周囲の人に対しても、祝福へとつながる不思議な力となるのです。この神さまの愛という名の贈物を、ぜひ、ご自分のものとして受け入れていただけたらと願います。お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

神のことばが持つ力

2016年6月5日
松本雅弘牧師
イザヤ書55章8~13節
マタイによる福音書8章5~13節

Ⅰ.ガリラヤ湖畔の町カファルナウム

今日の聖書箇所の舞台はカファルナウム、ガリラヤ湖畔の町です。今年1月のイスラエル研修旅行の際に、このカファルナウムにも行ってきました。そこには1つのユダヤ教の会堂跡がありました。イエスさまが安息日に説教をされた会堂です。そこから道を隔ててすぐ近くに民家の遺跡があり、そこから漁の道具が発見されたということで、その家が漁師ペトロの家である可能性が高いと言われていました。今日の聖書個所は、そのカファルナウムで起こった出来事です。

Ⅱ.あらすじ

ここに1人の百人隊長が出てきます。カファルナウムはユダヤ人の町なのですが、当時はローマ帝国に支配されていた関係上、ローマ兵が駐屯していました。ここに登場する百人隊長はその小部隊の隊長として任務についていた人だったと思われます。
その百人隊長の僕が中風で家に寝込んでいて、ひどく苦しんでいたのです。百人隊長もイエスさまの噂を耳にしていたのでしょう。そのイエスさまが自分たちの町、カファルナウムにいらっしゃる。そのお方だったら僕の病気を何とかしてくれるに違いない、そうした信頼をもとに、彼はイエスさまに懇願したわけです。
すると、イエスさまは百人隊長の求めに応じ、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言ってくださったのです。ところが、百人隊長はイエスさまの申し出を「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」と言って断ってしまうのです。
これには、少なくとも2つの理由があったと思います。 まず第1の理由は、彼自身が謙遜な人だったということでしょう。ルカによる福音書にある同じ出来事を記した箇所を読みますと、ユダヤ人の長老がイエスさまとこの百人隊長の間に入って、仲を取り持つかたちになっていました。カファルナウムの長老が彼に代わってイエスさまにお願いに上がるというわけですから、この百人隊長は、駐屯地カファルナウムの人々から受け入れられていたことが分かるように思います。それは裏を返すと、敵国ローマ人であったにもかかわらず、助けてあげたいと思わせるような人物、それが今日ここに登場する百人隊長だったということでしょう。
そして2つ目の理由は、この百人隊長自身が異邦人であったということです。ご存じのように、当時、ユダヤ人と異邦人との間には私たちの想像以上に大きな隔てがありました。勿論、この地域を実質的に支配していたのはローマ帝国であり、この百人隊長はこの時、その権力をバックにカファルナウムに駐屯していた部隊の長です。でも、カファルナウムにおいて百人隊長はあくまでもマイノリティーでした。しかも異邦人に対して宗教的優位性を信じて疑わないカファルナウム在住のユダヤ人と接する時に、自分たちローマ人はイスラエルの神の前に、第2級の人間に過ぎないかのような錯覚を持たされていたのではないかと思います。
この時お願いした相手はユダヤ人であるイエスさま、そしてお願いしている自分は異邦人です。ですから、百人隊長としては、願いを受け入れてもらう意味でも、「皆さんの基準からしたら、私は異邦人であり、祝福の外にいる者なので、イエスさまをお迎えするような値打ちなどない者です」と語ったのだと思います。
このように百人隊長は、「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者」ではないのだと分かっていても、一方で、僕が死にそうなのです。そうした中で、彼はイエスさまに何と願ったのでしょうか。それは、「ひと言おっしゃってください」ということでした。
つまり、「神さまの権威の下にあるあなたが、神さまの言葉を、権威をもって語られるならば、私の部下の病気は必ず癒される」と、彼は確信していたということなのです。イエスさまは、この百人隊長の信仰を賞賛します。そして聖書を見ていくと、この百人隊長の信仰のとおりのことが起こったのでした。

Ⅲ.神のことばが持つ力

さて、今日の聖書箇所を通して何を教えられるのでしょうか。第1は今日のテーマ、「神の言葉が持つ力」です。
今日お読みした旧約聖書イザヤ書には、次のように書かれています。「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす(55:10~ 11)。」これが神の言葉が持つ力です。この力を信頼できるかどうか、それが、私たちの側に与えられている課題です。
今、私はとても大切なことをお伝えしたと思います。私たちの側の受け取り方次第で、神の言葉が力を発揮できないことが起こり得る、と。
それはどういう時でしょうか? そのヒントがイエスさまの、「あなたが信じたとおりになるように」という言葉にあると思うのです。
この事との関連で思い出す聖書の出来事があります。ある時、イエスさまは故郷ナザレに里帰りされました。その日はちょうど安息日でしたので、イエスさまも会堂に入り、そこで聖書から教えを始められました。すると、人々は驚きました。何に驚いたのかと言えば、小さい頃からよく知っている「イエス」が、こんな立派な教えを語るようになった、そのことに驚いたのです。自分たちが知っているイエスと、今、自分たちの目の前に立っているイエスが、余りにもかけ離れた存在であることに驚いたのでした。
人々は言いました。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」(マタイ13:54~56)
ナザレの人たちは、自分たちの理解の範囲内にイエスさまを押し込めようとしたのです。この結果、他の町や村とは違い、イエスさまはナザレにおいて力を発揮することができなかったのです。

Ⅳ.執り成しの力

そして、今日の箇所からもう1つのことをお話したいと思います。それは、執り成しの祈りの力ということです。ここでイエスさまは百人隊長に何とおっしゃったでしょうか。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」と言われたのです。
そのように主が力あるお言葉をかけられると、本当に不思議なことなのですが、物理的に遠く離れたところにいた僕の病気が癒されたのです。つまりイエスさまのお言葉どおりになったのです。
ここで私たちが注意しなければならないことがあります。僕の癒しが僕自身の信仰によったのではなく、百人隊長の信仰によって引き起こされた点です。つまり、僕の癒しが百人隊長の「執り成しの祈り」によったということです。
今日のイエスさまの言葉によれば、他の人の悩み苦しみのために私たちが真剣に祈る時、その本人が信仰を持っているか、持っていないか、そのことに関係なく、主はその祈りを聞いてくださる、ということです。
この事実は、信仰を持たない人に取り囲まれて生きている今の私たちにとって、大きな慰めであり、励ましなのではないでしょうか。しかも聖書によるならば、内に宿る聖霊が、私たちの本当の必要を知って、今、このタイミングで、一番適切な執り成しの祈りをしてくださると約束しているのです。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:26)
そして、そればかりではありません。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ローマ8:34)
イエスさま自らが、今も、父の右の座におられ、執り成しておられることを、聖書は伝えています。
私たちは、力ある神の言葉を信じ、御子と御霊、そして主にあるお互いの執り成しに支えられながら、この新しい週も健やかに祈りの道を歩むことが許されている。その恵みに感謝しながら、新しい1週間へと派遣されて行きたいと思います。お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

和解の手を差し伸べて

2016年5月22日
松本雅弘牧師
レビ記13章45~46節
マタイによる福音書8章1節~4節

Ⅰ.「あの時以来」

イエスさまというお方は、私たちが人としての自分を取り戻すために、様々な語りかけを通して、出会ってくださるお方ですね。今日もそうしたイエスさまとの出会いを経験した人が登場します。
山上の説教を終えられたイエスさまが山を下りると、重い皮膚病を患った人が近寄ってきました。聖書に出てくる「重い皮膚病」は、長い間、今で言うところの「ハンセン病」とされてきました。ハンセン病の感染力は非常に弱いと言われます。なおかつ、それは遺伝病ではありません。しかし、日本でも患者が隔離され、子どもをもうけることも禁じられてきた過去があります。そして現在にいたっても、完治する病気でありながらも、社会的差別がなおも残っているのです。
つい先ごろ、4月25日でしたか、日本において、かつてハンセン病患者の刑事裁判などを、隔離された療養施設などに設けた「特別法廷」で開いていたという問題で、最高裁判所が、その調査報告書を公表し、「社会の偏見や差別の助長につながった。患者の人格と尊厳を傷つけたことを深く反省し、お詫びする」と謝罪した出来事がありました。このように、今の日本においても現在進行形の問題であることを思います。

Ⅱ.和解の手を差し伸べるイエス・キリスト

この人の苦しみ、この人を苦しめていたものは、肉体的苦痛であると共に、「汚れた者」というレッテルを貼られるという意味で、宗教的な断罪であり、そして、社会的な疎外でもありました。そのような意味で、この人は三重の苦しみを背負わされていた人だったと思います。
この同じ出来事を記録したルカによる福音書を見ると、この時の彼の様子を「イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた」(ルカ5:12)という言い方で伝えていました。「居てはいけない人がそこに居た」というニュアンスで、その状況を記録しています。しかも、「そこに居た」ということは、本来、その人にあてがわれた場所から、移動してやってきて、そこに居たということでしょう。
当時、この病の人は「汚れた者、汚れた者」と言い、患部を見せながら、人々と接触をしないように移動しなければならないことになっていましたから、そうした犠牲を払ってやって来たのでしょう。そして、ひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願っています。
ここで、ただ1つ気になることがあります。それは、この時の彼は、単純に「主よ、清めてください!」とは言っていないことです。彼の中に、どうしても心配なことがあったのではないでしょうか。それは、「果たしてイエスさまが私を癒そうと思うかどうか/そうした気持ちになるかどうか」と言う事でした。ですから単純に「主よ、清めてください!」とは言っていないのです。いや、言えなかったのでしょう。その代りに「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願ったのではないかと思います。
厳しい世間によって、彼はどれだけ傷ついてきたことでしょう。やっとつかんだ幸せのときを、また、その世間が奪っていく。そうしたことの繰り返しが彼の毎日でした。ですから、何か起これば過剰に反応してしまいます。もう傷つけられたくありませんから、とても防衛的になってしまう……。イエスさまだけは違うと期待しながらも、でも、もしかしたら、と思ってしまう誘惑との戦いだったのではないでしょうか。見るからに普通の人の肌の色とは違っていました。ですから、聖書に出てくるこの人も、自分の病気は、相手の同情をかきたて、人の心を揺さぶるような病ではなく、見た目にも嫌悪感を抱かせるものだと知っていたと思います。また、現代医学では治せる病で、感染力も弱いことは分かっているわけですが、二千年前のこの時代のことです。
そんなことを考え始めたら、ほんとうに自信が無くなって来るのではないでしょうか。ですから、彼の心の中には、「イエスさまは果たして自分を癒そうと思ってくださるかどうか?」 これが唯一、そして決定的に彼の心を支配していた不安だったと思います。
ところが、イエスさまの前にひざまずいている彼に、イエスさまは手を伸ばして触れられた、のです。口をお開きになる前に手を伸ばし、全身重い皮膚病に犯されている人に触わってしまわれたのです。当時、誰もが近づくことさえ恐れる病人です。イエスの周囲にいた人々は、その人が重い皮膚病を患っていると知った瞬間に、後ずさりしたのではないかと思います。しかしイエスさまだけは、逆に前に進み出ながら、手を差し伸べて、その人に触れたのです。
ここで1つ、覚えておきたいことがあります。福音書を見ますと、イエスさまは多くの病人を癒されました。ただ、誰かを癒される時に、常にその人に触れて癒されるわけではない、ということなのです。
例えば、この出来事の後、百人隊長の僕が癒される出来事が紹介されますが、そこでは約束の言葉を与えただけ、僕の姿を見てもいません。主イエスさまは、言葉だけで癒すことができた、ということを福音書は伝えているのです。ところが、この時は、わざわざ重い皮膚病を患った彼の体に触れておられるのです。
それには理由があったと思います。それは、この人の体に触れることが、この人にとってどんなに大事なことかを、イエスさまは良く知っておられたからだと思うのです。思うに、彼の負っていた病、また深い傷は、単に体の病気によるものだけではありませんでした。誰からも相手にされず無視される。バカにされる。
しかも先ほどのレビ記にありましたように、自分自身に対しても「わたしは汚れた者です」と言わねばならない。いや、叫ばねばならない。そのような者として自覚し、そうしたアイデンティティーを刷り込まれていた人です。そこに、彼の心の傷、痛みがあったと思います。
私たちの主イエスさまは、そうした彼の深く痛む傷を、力強く、そして優しく、温かな主の手を置いて癒そうとなさった。癒してくださったのです。
いかがでしょう。この人からすれば、もう、何年も、いや、もしかしたら何十年も経験できなかった感触だったと思います。この彼にイエスさまの手が触れた時、本当に久しぶりの手の感触に、病に犯された彼の肌はどのように反応したのでしょうか?! きっと鳥肌が立ったのではないかと思います。
そして、「よろしい。清くなれ」と言われたイエスさまの言葉。この「よろしい」という言葉の意味は「私はそれを欲する」という意味です。「あなたが欲しさえすれば」という、彼の言葉に対する主イエスさまの答えです。
それだけではありません。「手を差し伸べてその人に触れる」ということは、ユダヤの習慣では仲直りの行為でした。「和解の手を差し伸べる」という意味のある言葉です。
何年もの間、聖なる所から一番遠い場所に閉じ込められていました。人間として生きる権利を奪われるような生活でした。生命と身体はあるのです。いや、心もありました。もしかしたら、彼の心は普通の人とは比べものにならない程、敏感によく働いたかもしれません。でも、そうした心を持っている人間であったにもかかわらず、身の置き場がなかったのです。
そうした彼に、感染するかもしれないのに触ってくれた。友が仲直りの手を差し伸べるように、彼を虐げていた人間社会を代表するかのように、「赦してくれ」と、イエスさまの方から和解の手を差し伸べてくださったのです。そうした上で、彼の手を取って、神さまの恵みの中心へと彼を招き入れてくださったわけなのです。その結果、重い皮膚病はたちまち癒されます。

Ⅲ.山を下りられるイエスさま

ボンヘッファーは、「苦しむ神だけが助けを与えることができる」と言いました。主イエスさまは、誰もが触れない彼に触れられた。和解の手を差し伸べられた。そのようにして、神との間の仲保者になり和解をなしとげてくださったのです。
この憐れみの極地が十字架の死でした。キリストは体を張って、私たちの生きる「居場所」を備えてくださったのです。ご自分の命と引き換えに、私たちに命を与えてくださいました。
最後に8章1節に注目しましょう。「イエスが山を下りられると」と出て来ます。聖書の世界では、山とは神さまに近い場所を意味すると言われます。逆に、海は世俗の世界を象徴します。
ある先生が、「この『イエスが山を下りられる』というひと言の中に、すでに大きな福音があると思います」と語っていましたが、まさにそうだと思います。
学生の時、信州の山の上で行われた修養会に参加し、本当に恵まれた時を過ごしました。上野に戻り、人々の雑踏を通り抜けるに従い、その「恵み」が色あせて来るのを感じたことです。確かに「山の上」は恵まれている。御言葉を聞くことができる。でも私たちは必ず「日常」へと戻って行くのです。
主イエスさまも自分1人が山に留まるのではなく、山から日常に戻る私たちと共に、この世の真っただ中へと進んで行かれるのです。大変さや辛さや、誘惑の多い日常のただ中に、です。
このイエスさまが、そのところで私たちと出会い、出会った私たちは、その出会いを通して本当の自分を取り戻すことができる。そして、安心して主に従う歩みを進めることができるのです。
お祈りします。