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主日共同の礼拝説教

神の子としてー礼拝に生きる

2018年1月28日
和田一郎伝道師
申命記6:4-15
マタイ4:1-11

Ⅰ.サタンという存在

イエス様は、ごく普通の男子として成長され、およそ30歳の時にナザレでの生活を離れて宣教の働きに出ます。宣教の働きに就く前に、二つの事をイエス様はなされました。それが洗礼者ヨハネから洗礼を受けること。そして今日の聖書箇所で荒れ野に行かれてサタンの誘惑を受けるという二つの事です。
神の子として来られたイエス様ですから、洗礼を受けることも、サタンの誘惑を受けることも、必要なのだろうか?と思わされます。洗礼者ヨハネは、当時のユダヤ人たちに、悔い改めの証しとして洗礼を授けていました。しかし、イエス様には罪はありませんでしたから、反対にイエス様からヨハネに洗礼を授ける方が、ごく自然なことだったでしょう。しかしイエス様が洗礼を受けることにこだわったのは、やがて私たち人間の罪を負う日が来ることを知っておられて、私たちと同じ立場に立つことを願われたのです。私たちと同じ「人」として、イスラエルの民に加わってくださるためでした。
そして、荒れ野に行かれて試練を受けました。「“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」とありますから、これは神様の御心によって行かれたのです。神様はサタンによって、私たちに誘惑が起こることを許されます。そして、この時のイエス様に対する誘惑とは「お前が神の子なら・・・」という誘惑です。しかもこの直前で洗礼を受けた時に、「これは私の愛する子」と、父なる神の言葉を聞いた直後に「お前が神の子なら・・・」と言ったのです。あたかも、そうではないかのように、これから宣教の働きにでようとする時に、キリストの心の中に、迷いを湧き起こそうとするサタンの試みでした。
ところでサタンというものは、旧約にも新約聖書にも出てくる存在です。悪魔とか悪霊の頭などとも呼びます。サタンという言葉はへブル語ですが、「分離する」とか、「非難する」といった意味で使われます。創世記では蛇の姿をしたサタンが、アダムとエバを誘惑しました。その時も言葉巧みに、神様と人間との信頼関係に、疑問を湧き起こさせる働きをします。要するに神と人とを分離させようとする働きです。サタンは、まっこうから神を否定するようなことはしません。巧妙な知恵を使って、「あなたにはもっと価値のあるものがあるのではないか?」。「苦労しないで、もっと楽をしても神は怒らないだろう」と囁きます。イエス様に対しては、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と、神の言葉もいいけれど、食べたいものを食べてもいいじゃないか?「神の子なら、神殿から飛び降りたらどうだ。・・・それでも、あなたは死なないだろうから、それを見た人々は驚いてついて来るだろう。こつこつと宣教活動などしなくてもいいじゃないか」。そして最後に、「もしこの私サタンにひれ伏して私を拝むなら、この繁栄した世界を支配できるようにしよう」と魅力的なものを見せます。サタンに礼拝することを条件にした、ちょっとした取引で得られます。「あなたはこの世を救って、すべてのものを治めるために来たのだから、十字架の苦しみなど経験しなくても、この取引に応じればいいじゃないか?」という誘惑です。
ところが、このサタンの誘惑はイエス様や聖書の中の人物だけに囁くのではありません。今この話しを聞いている、みなさんにも囁きます。「お前も神の子だろう?」。「もしお前が神の子ならば・・・大丈夫だ」。「礼拝も大事だが、仕事も大切だ」「礼拝もいいけれど、奉仕も教会の務めだから」という、一見もっともな、しっかりとした考えに聞こえる誘惑です。おそらく日本の中では9割以上の人が「礼拝よりも、もっと大事なものが・・・」。と言うでしょう。一歩社会にでれば誘惑に当たる、という環境に私たちはあります。

Ⅱ.私を礼拝から遠ざけるもの

私たちを礼拝から遠ざけるものはいったい何でしょうか。イエス様が荒れ野で受けた誘惑は3つありましたが、この事との関係でヨハネの手紙一に次のような御言葉があります。
「なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父(おんちち)から 出ないで、世から出るからです」 (ヨハネの手紙一  2章16)
これはイエス様が荒れ野で受けられたものと、アダムとエバが受けた誘惑とも共通すると言われる聖書箇所です。
この「肉の欲」とは、人間の様々な「欲」のことを指しています。イエス様が断食をしてお腹がすいた時に、食欲に訴えて誘惑したように、人間の欲というのは神様が与えて下さったものですから、本来悪いものではありません。食欲などの欲がなければ人間は生きていけません。しかし、その欲を満たすと次の欲が現れます。「もっと」とか、「もう一度」と、いつのまにか自分でコントロールできなくなって、欲望に支配されてしまいます。その事に私たちは「気づかない」という性質があります。その時、私たちが神の子として、神の国の住人というアイデンティティーに基づいて生きているかどうか?ということが問われます。この世の価値に生きているのか?神の国の中に立っているのか?という境界線です。神の国に生きていれば、必要なものはすべて満たされます。その信頼があれば必要以上のものを欲したりはしません。求めれば必要なものは与えられる、もしくはすでに与えられていることに気づくはずです。

「目の欲」は、人に善く思われたいという虚栄心のような欲と解釈されています。イエス様が神殿から飛び降りてもケガもなく助かれば、物凄いパフォーマンスだったでしょう。人間にはとてもできない、まさしく神の子であることの証しとなります。人の目に自分がどのように映るのだろうか?少しでもよく見てもらいたいという虚栄心と、日本人の文化の中では「世間体」というものがあり、虚栄心も世間体を気にすることも、決して人を傷つけるわけではないので、とても見えにくい「欲」です。
たとえば、私たちは、自分の価値を人からの評判で計っていることはないでしょうか。 周りの人が自分を何と言ってるのか、それしか自分の価値を知る方法がないと感じるわけです。しかし、人からの評判というものは、いっときの代用品でしかありません。残念なことに、周囲の高い評価は気まぐれで、束の間で、無くなる時はあっという間です。しかし、神の子とされた私たちは、私がどうであろうと神様の前に価値ある存在です。
他の人達が私をどう思おうが関係ありません。私たちが、今神の国に住んでいるのなら、私がどんなに罪深くても、神にとって価値ある存在です。世間体や虚栄心に振り回される必要がありません。
「生活のおごり」というのは、「暮らし向き」とか「富」とも訳されています。サタンはイエス様に、この世の繁栄ぶりを見せて誘惑しましたが、モノの欲や、お金の欲はだれにでもあります。モノをもらって幸せに感じることや、お金が手に入って安心することがありますが、これを得ようとすることは、決して悪いことではありません。しかし、モノやお金を得ることに、心を支配されているのであれば話しは別です。そのために、私たちは生かされているのではないのです。これもまた、神の国に立ち、必要な者はすべて与えられるという信頼があれば、モノやお金に支配されることはないのです。
これらのように「肉の欲」「目の欲」「生活のおごり」は、神から出たものではなく、この世の罪から出てきたものです。サタンの誘惑は、私たちを神から切り離して、この世の罪へと向かわせます。サタンが「おまえが神の子なら・・・」と囁かれても、私たちが神の国に住む者として、しっかりと立っていれば誘惑に支配されることはありません。
私たちが世間の評価や、いつも移ろう限りのある価値観を気にしているのであれば、心に平安はありませんが、神の恵みと力に信頼するのであれば、それは変わることのない平安となるのです。私たちはそこに留まり、神を礼拝する者として、神に似た者へと近づいていきます。

Ⅲ.一週間という営み

イエス様は10節で、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」とおっしゃいました。これは申命記の引用です。要するに「あなたの神である主を礼拝し、ただ主に仕える生活をする」というのです。私たちは、これを一週間のサイクルで生きるように、一週間という生活の秩序を与えられました。
「六日の間に主は、天と、地と、海と、そこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して 聖別 されたのである。」(出エジプト 20章11)
6日働いて1日を神のもとで安息するという、一週間の生活の秩序です。
主日の礼拝の一日が一週間の軸となって、6日間は派遣されたそれぞれの生活の中で、神の国に立つ者として地の塩、世の光となる。この摂理がこの世の支配から守られ、神の恵みを受けた神の子として生きる、変わることのない平安の生活となるのです。この事を悟るのであれば、誘惑もまた恵みであります。誘惑という試みがあるからこそ、この与えられた秩序の大切さを改めて知ることになります。礼拝の一日が一週間の軸となり、神の子としての秩序が守られますように。お祈りをします。

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ひとつの出会いー主にある交わりに生きる

2017年12月31日
和田一郎伝道師
エレミヤ書29章10~14節
コロサイの信徒への手紙3章16節

Ⅰ.主にある交わり

キリスト教会にとって、2017年は宗教改革500周年の年でした。1517年にルターが宗教改革の大きな一歩を踏み出しましたが、わたしたちの高座教会もこのルターからはじまった宗教改革の流れの中で生まれたプロテスタント教会です。宗教改革を源流とする教会はこの500年で世界中に広がり、70年前にこの地域を拠点として宣教のために生み出されたのが高座教会です。その節目の年に今年の高座教会は、信仰生活の5つの基本の中の「主にある交わりに生きる」ことを大切にしました。主にある交わりというのは、先ほどお読みしたコロサイの信徒への手紙の聖句にあるように、聖書の言葉に生きる者同士が、教え諭し合いながら、お互いに成長していく信仰生活のことです。
高座教会は、本当に祝福された教会だと思います。しかし、いまだに日本の社会の中では、クリスチャンは少数派です。神という存在を受け入れずに、人間の知恵を重んじる文化の中で、わたしたちは宣教の使命を担っています。そのような世の中で光を放つには、実は「主にある交わり」という、教会が豊かな共同体として輝きを持っていることが、光を放つ力となるのではないでしょうか。教会はキリストの体に譬えられますが、キリストの体なる教会が健康であり、力を発揮するには、一つの体として調和がなければなりません。「主にある交わりに生きる」という信仰生活が基盤となります。
今日お読みしました旧約聖書に出てくるエレミヤは、異教徒の町に住む信仰者に向けてメッセージを送った人です。旧約聖書の時代、ユダ王国はアッシリア、バビロンといった大きな国に翻弄されていました。エレミヤの時代に、ついにユダ王国は滅ぼされます。
「バビロンの王に屈服しなさい」というエレミヤの預言は、ユダ国の王様ゼデキヤにとっては、非国民のように思われたかも知れません。しかし、「主にある交わり」という信仰共同体として一致できずに、人間的な知恵に流されていたゼデキヤ王とイスラエルの民は、客観的に見てバビロンに屈服するしかありませんでした。
ユダ王国に住んでいた人々は、数回に分けてバビロンの国へ連れて行かれます。連れていかれたバビロンの町は他の神々を崇拝する異教徒の町です。真の神様を礼拝する神殿がない土地で信仰を保ち続けることが難しいと感じていたイスラエル人に、エレミヤは現実の世の中をしっかり見て、その土地で信仰生活を送るように手紙を書いたのが、今日の聖書箇所エレミヤ29章です。「将来と希望をもたらす神の計画」という希望に満ちた預言です。

Ⅱ.今住む土地で信仰生活を守ることは神のご計画

バビロンへ連れて行かれたイスラエル人は、偽預言者たちの影響を受けて、この捕囚から早く解かれて、エルサレムに帰れると言う淡い夢を抱いていました。それ故に、バビロンに馴染もうとはせず、定まった仕事も住居も求めずに、腰掛けのような気持ちで生活していました。偽りの預言者たちは、エルサレムが不滅であるかのような預言しました。その根拠は100年前のイザヤの時代に、奇跡的にエルサレムが守られたという事があったからです。ですから昔の勝利、過去の成功がもう一度ある。現在も大丈夫だというものです。しかし、ユダ王国の事実上の支配はバビロンの王によって管理されている政権でした。ですからバビロンに従うより他に道はなかったのです。
具体的にエレミヤが言ったことは、4-7節にあるとおり、バビロンの地で仕事も家庭も根を下ろして、信仰生活を守りなさいというものです。家を建てること、木を植えてその実を食べること、結婚して子どもを育てること、子どもには嫁をとり、家族を増やしなさいというものです。その土地で信仰生活を守り、家族を増やして繁栄することを考えなさい、と言うのです。さらに、それよりもっと踏み込んで、バビロンの国の繁栄を求めなさいと言います。つまり、あなた方自身が捕囚の地で繁栄するだけではなく、あなた方の存在によって、その地域が繁栄するように祈りなさい、というものです。
私たち、クリスチャンも地上の生涯というものは仮の住まいであり、本当の国籍は天国にあると信じています。ですから、この世の自己中心的な価値観に振り回されるべきではありません。しかし、それは世の中に対して否定的、消極的な態度をとることを勧めているのではありません。町内会や同窓会、政治のことに積極的になることも大事なことです。私たちと同様に世の中には罪があります。ブラックな企業やブラックな指導者、責任者もいるわけです。彼らが神に祈ることはないかも知れません。しかし、私たちは彼らの為に祈ることができます。私たちの存在を通して祝福されることを信じ、祈ることができます。
7節でエレミヤは言います「わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。」

Ⅲ.神の計画に目をとめる

私たちの住む社会に平安があり、周囲に住む人々にも平安があってこそ、わたしたちは平安です。ですから、バビロンの地での信仰生活は、暗い日々であってはならない。
12節、その生活で神に「呼び求める」「祈る」「心を尽くして・・求める」。これを守らなければならない。そうすればどこにいて、どんな悪い状況にあっても「神に出会う」ことができるのです。ダニエル書では、バビロンで毎日熱心に祈って信仰生活を送る、ダニエルとその友人たちの事が記されています。
これらの預言の根底にあるのは、神様の壮大で素晴らしい計画がありました。
11節「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」
この聖句の最初に「わたしは」とありますが、11節から14節までの希望の預言には、「わたしは」という言葉が繰り返されます。これは強調表現になっていて、わたしの計画は、偽の預言者や、人間の知恵によるものではなく、神が主体的にご計画をお持ちなのだと強調しているのです。それは「平和」を与える計画です。

Ⅳ.計画の成就のために祈る信仰生活

神の素晴らしい計画が成されるために、私達がすべきことは、わたしたち高座教会の信仰生活の基本と重なっており、今年は「主にある交わりに生きる」ことをテーマにしてきました。神を中心とした兄弟姉妹との繋がりです。ダニエルもバビロンの地で、三人の仲間とバビロンの国の為に仕えながら、信仰生活を守ったことが記されています。
主にある交わりに生きる信仰生活。神を求めて祈る、教会の交わりに生き続けることが、やがて「わたしに出会うであろう」と、主は言ってくださいます。
70年前に、高座教会がこの地に置かれたのは偶然ではなく、神様の計画の一部です。
偶然ではなく、お一人お一人がこの教会に呼び集められました。それは平和の計画であって、将来と希望を与えるものであると主は言われます。そのことを信頼して、主にある交わりを強くして、この地域に光を放つ存在となっていきましょう。
この一年を振り返って、多くの兄弟姉妹との繋がりから与えられた、恵みと励ましを携えて、神様の素晴らしい希望と平和の計画に期待して、新しい年を迎えたいと思います。
お祈りをします。

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和解と平和

2017年11月26日夕礼拝
和田一郎伝道師
創世記2章15~17節
コロサイの信徒への手紙1章18~20節

Ⅰ.はじめに

コロサイの信徒への手紙は、パウロが牢獄の中から小アジアに住む、キリストを信じる信徒たちに向けて書いた励ましの手紙です。1章のここまでは、キリストがどのような人であるのかを丁寧に伝えているところです。キリストとはどのような方なのでしょうか。
まず、キリストは「見えない神の姿」であることです。そして「すべてのものが造られる前に生まれた方である」と伝えています。創世記1章には、天地創造の出来事がありました。海や空やこの世に存在するものが造られましたが、その前から存在していた方がキリストです。そして、そのキリストによって万物は造られました。それも、万物はこのキリストのために造られたと、パウロは言うのです。
しかしどうして、パウロは、このように詳細にイエス・キリストのことを説明するのでしょうか。パウロが手紙を書いた当時は、まだキリスト教が十分に普及していませんでした。ペンテコステの出来事で、キリスト教会ができてから30年程しかたっていなかったのです。残念なことに、イエス様のことを間違って解釈する人達も多かったのです。ですから、パウロは手紙を使って、そのことを繰り返し書き続けました。この手紙もそうです。そして今回の18節でも、イエス様の性質に関する言葉が続きます。

Ⅱ.教会のかしら

18節「また、御子はその体である教会の頭(かしら)です。」キリストは教会のかしらというように、教会を人間の体のように表すのは、パウロの独特の表現です。教会というのは、建物の教会ということではなく、キリストを主と信じる信徒たちが集うところです。そこには様々な人がいます。人種はユダヤ人もギリシャ人も関係ありません。個性もさまざまで役割も違います。そのさまざまな人達が一つになるには、リーダーが必要ですが、教会の頭(かしら)はキリストだということです。パウロは他の聖書箇所では、教会はキリストの「体」そのものだとも言っています。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は教会の中に、いろいろな人をお立てになりました」(1コリント12:27) 。このように、教会の頭(かしら)がキリストだと言ったり、教会はキリストの体そのものだと言ったりします。この表現によってパウロが言おうとしていることは、キリストこそ、教会の命と力の源泉であるということです。なぜなら教会は、キリストが十字架に架かって死んでくださったから、その後復活されたから、そして、天に戻られて聖霊を、この世に送ってくださったから、そのことによって教会ができたからです。それは最初の教会だけではありません。次々と建てられていった教会はすべて聖霊によってキリストの名の下に建てられたものです。今も、この私たちの教会も同じキリストの体、キリストを頭とする、キリストをリーダーとする教会です。

Ⅲ.最初に復活された方

18節の「死者の中から最初に生まれた方」というのも、このキリストです。「死」は終わりを意味しました。暗闇とか絶望と表現されました。日本人の価値観の中にも「死んでしまったらおしまい」というものがあります。しかし、そこから死を打ち破って、最初に生まれた人。最初に復活された人がイエス・キリストでした。最初というからには、続く人がいるのか?というと勿論います。それは私たちクリスチャンのことです。私たちがキリスト者として救われて、新しい永遠の命を与えられるというのは、イエス様がまず、最初に復活されたことがあったので、その御業に続くことが可能になったわけです。パウロは別の聖書の箇所でキリストを「初穂」とも表現しています(1コリント15:20)。麦の穂を収穫する季節になると、収穫を祝います。収穫の初穂の束を祭司のところに持って行って祝ったそうです。そうして、初穂が神様に捧げられれば、これから多くの収穫が期待できるわけです。この初穂と同じように、キリストの復活は、それに続く私達の復活の先駆けであり、期待を膨らませるものであったとパウロは言うのです。
このように、イエス・キリストは天地創造の主であり、教会のかしら、そして復活の最初の人であるというように、神は「満ちあふれるものを、余すところなく、御子キリストの内に宿らせた」のです。

Ⅳ.キリストの平和

その、キリストがなさったことは、いったいなにか。それが、20節です。神は「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」。
20節は二つのことを言っていると思いました。「キリストによって平和を打ち立てた」、そして、「キリストによって和解させた」ということです。キリストが「平和」と「和解」をもたらしたのです。これがどのようなものなのか。それぞれ見ていきたいと思います。
まず、「平和」というのは、どのような平和でしょうか。パウロはユダヤ人でした。ですから旧約聖書をよく読んで、真の神様を信じていました。しかし、パウロがかつてそうであったように、ユダヤ人は自分たちの神様は、自分たちユダヤ人だけを救ってくれる神だと考えていました。それどころか、外国に住む異邦人は汚らわしい者だとさえ思っていました。ですから、ユダヤ人はギリシャ人をはじめ、その他の異邦人と、一緒に食事することも避けていましたし、異邦人と結婚することも避けていました。そのようなユダヤ人は異邦人から見ても、嫌な存在でした。ですから、ユダヤ人と異邦人には大きな壁があったのです。しかし、キリストが十字架に架かられて、死んで復活されたことによって、その救いは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、国や人種の分け隔てがなくなりました。その二つの隔たりがなくなって、一つとされました。二つのものを一つにし、壁を取り壊したキリストの平和のことです。平和と言った時に、大切なことは、まず何よりも神との平和が必要であるということです。

Ⅴ.和解

次に「和解」ですが、20節で神様が「万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」とあります。キリストを通して神様と人間との和解をしたことで、被造物すべてが神と和解した。平和になったとパウロは言うのです。「和解」という表現は、生きている者同士の人間的な関係を思い起こさせます。先ほど、「キリストは教会のかしら」であると話しましたが、この比喩は単に説明のための比喩だけではなくて、教会というものが本質的に人間的な存在であることをパウロは言っているのです。ですから、神様と教会の関係、神様と人間の関係は、契約や法律的な冷たい関係ではなくて、本質的には人と人との絆のような関係です。家族のような関係の中にあるのです。パウロは他の書で、「神の家族」とも表現しました。たとえば、家族であっても叱られたり、喧嘩したり、家族ならではの難しさもあります。それを取り繕うには、心を開いて相手の心に歩み寄る必要があります。家族であっても、そうやって信頼関係を取り戻す努力が必要です。人間は、創世記のエデンの園での生活は、神と家族的な平和な関係でした。しかし、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と神様は、人間に警告をしました。
これは、契約を破ったら死刑になるというような、恐ろしい命令というものではないのです。人間は神とは違うのだから、神様に造られた、か弱い、限りのある存在で、そのことを示す為に、親が子どもに教えるような愛の警告だったのです。その警告を無視してその実を食べてしまった。神と人との関係はこじれました。せっかくあった「神の家族」という関係がこじれたのです。
しかし、神様はイエス・キリストを地上に送るという、和解の手段を示して歩み寄ってくださったのです。十字架に架かった、神の御子イエス・キリストを主と信じたならば、また絆は回復する。これが「和解」の手段でした。イエス様を信じることによって、再び「神の家族」という絆を取り戻せるようになったのです。
神様が歩み寄ってまでした「和解をしたい」という気持ち。独り子を地上に送ってまでして、「和解をしたい」という、神の切なる願いを察してみてください。その切なる願いは、パウロがこの手紙を書いて、コロサイの信徒の人々に向けた思いと重なると思いました。
コロサイのみなさん、「神が差し出した和解の手段に感謝して、神との平和を保って欲しい。」まるで、親が子どもに向けるような家族へのメッセージです。
今日は、キリストについて、キリストが死者の中から最初に生まれ、今も教会のかしら、「平和」と「和解」をもたらしたという、パウロの手紙を読んできました。
この一週間、「あなたと和解をしたい」と切に願って下さった神に感謝して「神の家族の平和」を保って、一日一日を歩んでいきましょう。お祈りをします。

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何を求めて生きるのか

2017年10月29日
秋の歓迎礼拝
和田一郎伝道師
ペトロの手紙一2章1~6節

Ⅰ.白黒はっきりしたキリスト教?

今日の聖書箇所の1節は「悪意、偽り、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。」とあります。この手紙を書いたペトロは、その代わりに「霊の乳」つまり、「聖書の言葉」に従って歩きなさいと教えています。人間の悪意や偽りを捨て去るというのは、本当に難しいと思います。そして聖書の御言葉を求める生活を実践することもなかなか難しいと思ったりします。クリスチャンになる以前の「罪にあった生活」から、「新しくされた生活」へと、白黒はっきりと変われるものでしょうか。聖書の言葉は、時として曖昧さを許さない、厳しさを感じることもあるのではないでしょうか。
今年は宗教改革500周年の年。10月31日が宗教改革記念日で、500年前のこの日にドイツのマルティン・ルターは、カトリック教会の腐敗に対して、『95ヶ条の提題』を張り出しました。この時から、わたしたちプロテスタント教会は生まれました。ルターは教会の権威を退けて「聖書のみ」と、聖書だけに権威があるとしたのですね。 唯一、一つだと白黒はっきりさせます。
この手紙を書いたペトロも、イエス様に問いただされました。「わたしを愛しているか?」と3回も問われて、愛しているのか?愛していないのか?どちらなのか迫る厳しさがありました。キリスト教というのは、白黒がはっきりしていて、他の神様を認めないし、冷たく感じるという人の声も聞きます。しかし、今日の聖書箇所の2節のところでは「成長しなさい」と教えているのです。そうか、私たちが成長するのを見守ってくださるのだと、あらためて思いました。成長するまでの間、未熟な私も認めてくださるという、「幅」がある。未熟な自分でも、ここに居ていいのだと思ったのです。

Ⅱ.人間の善と悪

日本人は曖昧で融通のきくものが好きです。白黒はっきりさせない文化があると思います。わたしは時代小説の池波正太郎のファンです。『鬼平犯科帳』などの江戸時代を描いた池波作品の、どこが好きなのだろうか考えました。人間には善と悪があります。その矛盾した両面があって、人間は矛盾した生き物なのだということを肯定的に描いています。『鬼平犯科帳』の主人公は幕府の役人で、盗賊を捕らえるのが仕事ですが、役人の中にも「悪」があり、盗賊の中にも「善」があります。こんなセリフがあります。「人とは、妙な生きもの。悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪事をはたらく。心をゆるし合う友をだまして、そのこころを傷つけまいとする」。それが人間だと言うのですね。
聖書は、神様と人との関係の中で「契約」とか「律法」というものがあって、なにか白黒はっきりさせて、裁かれているように聞こえてしまうこともあります。しかし、父と子のような家族的な関係であるというのが、一番相応しい表現だと思います。ですから「悪意、偽り、ねたみ、悪口」という罪の性質を捨てきれないでいる、善と悪を持つ未熟なわたしたちの成長を待ってくださる、父のような存在。それが、神と私たちの関係なのだとあらためて思いました。

Ⅲ.アガペーの愛(ヨハネによる福音書21章15節―19節)

ですから、先ほど触れたペトロとイエス様の「わたしを愛しているか」というヨハネの福音書のところにも、ペトロがまだ信仰的にも弱かった時に、ペトロの信仰の成長を期待して待ち続けるイエス様の父のような眼差しがあったと気づかされます。先日、東京基督教大学学長の小林高徳先生が天に召されましたが、先生にこの聖書箇所を教わりました。
復活したイエス様が「わたしを愛しているか?」とペトロに問います。「はい」と答えているのに、また「私を愛しているか?」と3度も繰り返すところです。日本語では同じ「愛するか」という言葉を3回となっていますが、原文ではイエス様が「わたしを愛しているか?」と聞いた最初の2回は、ギリシャ語の「アガペ」という言葉でした。アガペは「神の完全な愛」という意味で使う言葉の「愛」でした。しかし、3回目は「フィレオ―」と言葉を変えたのです。神の完全な愛より少し落として、友だちとの友愛という意味です。アガペの愛はヨハネの福音書では、「友のために自分の命を捨てる愛」だと、先生は言っていました。しかし、ペトロはイエス様を知らないと言って、自分の命を惜しんで逃げました。ペトロは勿論その事を忘れられませんでした。命をかけてアガペの愛を示せなかったペトロに「わたしを愛しているか?」と問うたイエス様は、そんな裏切ってしまったペトロを、そのまま受け入れる愛を示されたのですね。イエス様は私たちのために、命をかけてくださいました。小林先生は、わたしたちは、そのキリストの愛には及ばない。それでもアガペの愛を示したくださった十字架の業(わざ)に、私たちの希望があると教えてくださいました。

Ⅳ.この主のもとに来なさい

わたしたちは「悪意、偽り、ねたみ、悪口」といった、罪の性質を捨てきれない、未熟な存在です。それでいて善をなそうとする、善と悪が一体となった矛盾した存在です。
クリスチャンと呼ばれる人は、成熟したからクリスチャンと呼ばれるわけではありません。罪の性質と不完全な愛をもったままで、それを、十字架で捨てられた方に持って行きなさいと言っているのです。
4節「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い生きた石なのです。」とあります。「主」というのはイエス様です。イエス様は、人々からは見捨てられて十字架で死なれました。その人に自分の罪の問題を持って行きなさいというのです。イエス様は、民衆から「イエスを十字架にかけろ、十字架にかけろ」と、罵られて十字架で死なれました。よってたかって十字架に架けろ!と叫んだ民衆の罪は、わたしたち人間の罪の象徴です。このイエスキリストが十字架に架かられた犠牲の上に、私たちの救いがあるのです。それはわたしたちの罪を背負って、十字架に架かられたからです。イエス様が死んで陰府に下るのと一緒に、私たちの罪も葬り去られた。しかし、イエス様は陰府の底から、死を打ち破って復活されました。今もこの世で私たちと共に存在している、そして「この主のもとに来なさい」と呼びかけているのです。

Ⅴ.隅の要石(かなめいし)

聖書では、いろいろな所でイエス様のことを「石」と表現していて、4節のところでは、「生きた石」「尊い石」と表現しています。日本では、家の建物の要(かなめ)になっているのは大黒柱ですが、当時のユダヤでは、家は石造りですから、家の要になるのが隅の要石(かなめいし)という石でした。建物の重みを支えるために、念入りにどの石にするのか、選ばれました。家を建てる大工さんが、別の工事で念入りに選んだ時には捨てられた石が、後になって別の家を建てるために立派に役立った、それも永遠に揺るぎない大事な石となったという、どんでん返しを、イエス・キリストの事に譬えています。
イエス様も、人からは捨てられ、侮られ迫害されましたが、十字架と復活を通して揺るぎないものとなりました。主イエスは人々から捨てられましたが、今は人々をしっかりと支える要石(かなめいし)です。
「この主のもとに来なさい」というのが今日与えられているメッセージです。仕事でも学校でも家庭でも、人との関係には難しさがあります。その問題の本質は人の罪の性質です。清く正しい人だけが、キリストの下に来なさいと、呼ばれているのではない。主イエスキリストのもとに、罪を差し出していくのが、わたしたちを新しい自分にしてくれる、唯一の道です。この道を歩くためには、混じりけのない霊の乳である聖書のみ言葉を、日々、毎日味わうしかありません。しっかり受け止め、大きく、豊かに、その無限の恵みを味わってください。
最後に6節を読みます。6節は、神様は御子イエスキリストを、やがて来る私たちの未来に置くという、イザヤ書の預言のみ言葉です。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石をシオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」お祈りしましょう。

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第一のものを第一とする生き方

2017年10月22日 夕礼拝
秋の歓迎礼拝
和田一郎伝道師
創世記1章26~28節
コロサイの信徒への手紙1章15~17節

Ⅰ.第一に優先しているものは何ですか?

教会に所属している人はクリスチャンと呼ばれますが、コロサイの信徒への手紙という手紙が書かれた時代に、クリスチャンという言葉が生れたようです。ギリシャ語で「クリスチャノス」と呼ばれました。イエス・キリストを、自分たちの救い主と信じる人はクリスチャンと呼ばれました。ある人が、「クリスチャンになるということは、人生の目的を変更することだ」と言いました。本当にそうだと思います。人生の目的、自分の生き方の行き着くところ、何を第一として求めて生きていくのか。それを変更することが、クリスチャンになることだというのです。人生の目的が変わってくれば、生活の中でも優先順位が変わってくるはずです。みなさんは何を第一として過ごされているでしょうか。わたしは信仰をもつのが遅くて、大人になってからクリスチャンになりました、ですから社会人になった頃は仕事中心でした。家に帰ってきても仕事のことが頭から離れないという生活をしていました。仕事で成果をだせるにはどうしたらいいか。仕事で認められることが最優先順位。そうだったと思います。
コロサイの信徒の人々も、当時いろいろな思想や宗教を信じていたようです。自分を第一とした自分に都合の良い思想、自分に都合の良い神様を選んでいたということです。当時流行りの神様、ニーズに合った神様を崇拝して生活をしていたようです。その中の一つがイエス・キリストで、イエス様はいくつかある信頼できるものの一つのように、思っている人も多かったのです。

Ⅱ.コロサイの信徒への手紙

しかし、クリスチャンと呼ばれるわたしたちもそうですし、今日の聖書箇所の手紙を書いたパウロという人も同様に、イエス・キリストを沢山ある神様の一つなどとはしていませんでした。唯一の救い主、唯一の神であると信じていました。今日お読みした聖書箇所15節から17節の所は、イエス様がどのような神であるのかを説明しているところです。
15節「御子は、見えない神の姿」とあります。御子とはキリスト、イエス様のことですが、見えない神の姿とあるように、イエス様は十字架に架かって死なれて、復活した後に天に昇られました。ですから今は目には見えません。見えないけれども、今も生きてわたしたちに関わって下さっている、そしてイエス・キリストは神の姿、神そのものであると言われるのです。当時の信仰者の中には、イエス様のことを神様と人間の間に立つ、預言者ですとか、天使のような存在だと勘違いしている人たちがいました。しかし、そうではなくイエス・キリストが主なる神様であることが、ここではっきりと書かれているのです。そして、キリストはすべてのものが造られる前に在ったと書かれています。創世記の最初に天地創造の物語が書かれていますが、この世の中すべてが造られる前から存在した、すべての根源の方。すべての最初に在った方だというのです。
そして、天にあるものも、この地上にあるものも、造られたのはキリストです。目に見えるものは勿論、この世にある目には見えないものも含めてすべてを治め、主権をもっているのがキリストです。例えば、日本の国では国民に主権がありますから、主権在民と言ってわたしたち国民に主権がありますが、根源的にはこの世は、神の摂理の中にあって、神に主権があるのです。
さらに、この世の中にあるものはキリストによって、キリストのために造られたと書かれています。「この世がキリストのために造られた」と大胆に書かれています。先ほどは聖書の最初のページ、創世記で天地創造の以前からキリストが在ったと話しましたが、聖書の最後のページの黙示録には、「わたしはアルファであり、オメガである。最初のものにして最後の者。初めであり、終わりである」とあります。アルファであり、オメガはギリシャ語でアルファベットのAからZを意味しますから、キリストは最初であり最後である。天地創造の時から、この世の最後であるキリストが再び来られる時までも、この世の主権者です。創造の主であり、わたしたちの目的もこの方にあります。
はじめに「クリスチャンになるということは、人生の目的を変更することだ」と話しましたが、わたしたちがキリストにおいて造られたように、その目的もキリストに近づいていくことにあります。キリストの教えを守り、キリストに似た者となっていく、それを目的としていくのがクリスチャンの生き方です。

Ⅲ.イエス・キリストの教えは、神と人との関係が軸になっている

万物はキリストによって創造された、わたしたち人間も神であるキリストによって創造されたと話しをしました。さらに、わたしたち人間を造った目的をキリストのためだとも話しましたが、このわたしたち人間を造られた神様の思いというのは、どのようなものであったのでしょうか。次の三つのことが考えられると思います。
一つ目は、神様が語りかける対象として、話しかける相手として創造された。
二つ目は、神様の言葉を聴くことができる存在として人間を創造された。
三つ目は、神の語りかけを聞いて応答することができる存在として人間を創造された。
ですから、神は人に語り掛け、聞く者として、そして神の声に応答する者であることを求めておられるのです。
話すこと、聞くことはコミュニケーションの基本です。それで終わってしまっては不十分です。聞いたことに応答して行うことで、相手の信頼を深めることができます。神様とのこの関係は、そのまま人と人との関係も表しています。みなさんは、どのようなことを気にかけて周りの人と話し、聞き、行動しているでしょうか。例えば一番身近な家族との関係があります。夫と妻の関係、親子の関係、兄弟の関係、祖父母や義理の親との関係もあります。 職場にもいろいろな関係があります。上司との関係、同僚や部下との関係、お客さんや仕入れ先との関係があります。学校に行っている人は、先生と生徒の関係、先生同士、生徒同士、保護者との関係などさまざまです。他にも沢山の関係の中で過ごしていますが、それらの関係をどのように扱って生きていけばよいのか。その指標となるヒントが聖書には書かれています。
聖書の中にもさまざまな人間関係が描かれています。それも順調な人達ばかりではありません、いや家族関係などでも、問題のある家族がほとんどです。アダムは、神様との約束を破って、木の実を食べてしまいますが、自分の過ちを妻に責任転嫁をしたのですね。ヤコブは12人の子どもがいましたが、一人の子を特別扱いして、贔屓にしたことで兄弟の仲が悪くなってしまいました。そんな明らかに問題のある親や家族が、聖書にはたくさん出てきます。
今の世の中は、人と人との関係が難しい時代だと思います。ニュースを見ると耳を疑うような出来事がいっぱいです。わたしもそうですが、顔と顔とを合わせない、顔を見ないコミュニケーションが増えましたね。スマホやパソコンでコミュニケーションをとる事が圧倒的に多くなりました。人との付き合いを合理的に、スピーディに、短く、手っ取り早い付き合いにしようと思う人も多いと思います。しかし、キリストの教えは隣人を愛しなさい、という手間がかかって面倒な事を優先させます。隣人の為に祈ったり、助ける為に準備したり、時間をかけてその人と一緒にいなさいなどと言います。そして、さらに最優先にするのは神との関係だと教えています。自分と神との関係を整えるのが最優先です。

Ⅳ.十字架の真理

教会には十字架があります。十字架はキリスト教のシンボルです。十字架には横の棒と縦の棒があります。横の棒は人と人との関係の大切さを表しています。縦の棒は神様と自分の関係の大切さを表しています。この縦の関係、神様とわたしの関係が最優先です。なぜでしょうか? 神がどれだけわたしたちのことを愛してくださっているかを知り、わたしたちも神を愛することによって、自分自身を愛し、隣人を愛する術を知ることができるからです。どうぞ一人でも多くの方に、キリストの教えを学んで頂きたいと思います。
キリストが十字架で死なれたことは、赦しであり、愛であったこと。十字架の真理を知って、みなさんが自分の生きる道として歩んでくださることを、心から祈っております。