2016年4月10日夕礼拝
春の歓迎礼拝
和田一郎伝道師
ルカによる福音書15章11~24節
はじめに
ルカによる福音書でイエス様が語られた「放蕩息子」の話は、主な登場人物は3人で、父と二人の息子です。11節を見ると、二人の兄弟がいました。そのうちの弟の方が、父にこう話しました。「お父さん、この沢山のお父さんの財産は、いつかお兄さんと私が相続するんでしょ? だったら今、私が頂くことになっている財産を先にくださいよっ!」と言うわけです。確かに父が亡くなるまで、何十年も経ってからもらうより、どうせもらえるなら、今もらったほうが得に決まっています。しかし、父親からすれば、自分の老後の世話もしないで、いなくなってしまったら困る、と普通は考えます。しかし、この父はとても寛容な父でした。12節後半を見ると、この弟と兄の二人に財産を分けてあげたのです。ここで一つのポイントは、兄にも弟にも二人に財産を分けたことです。そして、兄と弟とその財産の使い方が分かれたのです。この話しではお兄さんは、財産を分けてもらっても、そのまま父の元で仕事を続ける。一方、弟はもらった財産を全て現金に換えて遠い国へ旅立ちました。弟はさらにこの時、大飢饉がこの地方に襲いかかって、彼は二重の意味で苦しい境遇に陥りました。お金の無くなった彼を見て、食べ物をくれる人は誰もいませんでした。
この弟は、財産以外に、大事なものを3つ失ったと思います。一つ目、「人との関係を失った」。16節にあるように、飢えているこの弟を助けようとする人がまったくいなかった。人は一人では決して生きて行くことが出来ません。二つ目、「自分を見失った」。これも16節に、自分の民族的アイデンティティである、汚らわしいとされた豚。その豚の餌でさえ、「食べてしまおうか?」と思ってしまった。もはや、自分というアイデンティティを失った状態にありました。三つ目、「神との関係を失った」。13節で、この弟は父の元を離れました。実は、この譬え話しの父親は神の存在を表しています。ですからこの弟は神から離れた生活をしてしまったのです。二人の兄弟は私たち人間を表していますが、神様の近くに留まる兄のような人間と、神から遠くに離れて行った弟のような人間を対比しています。神の元にいれば、すべてが備わっている。一方で、神様から離れて、多くのものを失ってしまった弟の悲惨な生活。この三つの関係を保った人間を、聖書では「人間の本来の姿」であるとしています。キリスト教が教えている本来の姿とは、宗教だからといって、神様との関係だけを、大事にするということではありません。聖書は「あなたの隣り人を愛しなさい」と言います。この言葉通り、人と人との関係を、大切にしている事です。それだけでなく、聖書は自分を大切にすることを重んじています。たとえば「隣人を、自分のように愛しなさい」(ルカ10:27)とあるのです。「自分のように、隣り人を愛しなさい」ですから、まず、自分を愛せないと、他人も愛せない、という順番になるのです。日本人は「愛する」という言葉をあまり使いませんから、しっくりこない方もいるかもしれませんが、自分を愛することは、「ありのままの自分を受け入れる」ということです。自分を受け入れる事と、他人を受け入れることは連動しているのです。
しかし、苦難は往々にして、人を正気に戻します。弟は17節のところで、我に返りました。父の所には、あまりにも当たり前で気づかなかったけど、必要なものはそこにあった。あの頃は、父の近くにいるのが窮屈だと思った。しかし、失ったすべてのものは、みんな父の元にあった。そう気付いて、方向転換することができました。そう思った弟は18節で「父の所へ行こう。そしてこう言おう。私は罪を犯しました。罪というものが分かりました。こんな私はあなたの息子と呼ばれるような資格もない。でもあなたの元で、あなたに繋がる一人にしてください。」この節で「罪を犯しました」と弟は言いましたが、キリスト教では「罪」という言葉が良く出て来ます。その「罪」の本質は「神様に背を向ける」ことなのです。まず、しっかりとした神様との基盤がないと、人間関係に振り回されてしまう。自分を見失ってしまうわけです。20節で、父の元へ帰ろうとします。ですが、父の元に帰っても、父が受け入れてくれるかどうか、分からない。もらう物はもらって、勝手に出てきた弟ですから、いまさら戻っても、もう遅いかもしれないでしょう。
そのことが、20節以降の父親の姿に表されています。「まだ、遠くにいた息子を見つけた」とあります。なぜ見つけられたのか? それは・・待っていたからです。父は毎日待っていた。さらに、走り寄って来てくれたとあるように、ただ待つだけではなく、向こうから来てくださる。それが聖書の神様です。神様は待っている方、近づけば走り寄って来てくださる方。
さらに父は僕に言いました。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。」「服」は権威の象徴ですから、いちばんいい服、という「人の尊厳」を息子に回復させました。「履物」は「自由」を象徴します。息子も以前はそこで、履いていたはずです。奴隷は逃げられないように裸足でした。父は財産などに囚われたりしない「本当の自由」を与えました。「肥えた子牛を屠る」のは、特別な「時」を象徴しています。特別な時にしか子牛を屠ったりしませんから、この息子の帰りを特別な「時」だとしています。しかし、兄からすると、まじめに父の元にいたのに、何もしてくれない。勝手に出て行った弟の帰りを喜ぶのは、不公平にも見えます。しかし、正しい人ではなくて、自分には資格はないと思っているが、神に救いを求める人となって帰ってきた事を、「特別な時」だと喜んでくださった。
「自分には資格がない」と言った息子が戻った時、父は受け入れたのです。ありのままの息子をです。自分には資格がないと言った息子に、そのままで資格があると、受け入れたのです。弟が失った3つの大事なものの、まず「神様との関係」を、自分には資格はないと思っているが、神に救いを求めたことで、取り戻すことが出来ました。こんな自分勝手だった、罪だらけだった自分を、ありのままで受け入れてくれた。そのことが「自分を受け入れ」「隣り人を受け入れる」基盤となったのは、言うに及びません。神の愛が、私を受け入れてくれる。自分を愛せる。隣り人を愛せる。このことを聖書は何度も繰り返しています。
さて、戻った息子は、その後、どうなったでしょうか? 24節後半には、「そして、祝宴を始めた」とあります。また、宴会をしていました。無駄遣いしていた時も、父の元に戻って来ても、見た目は同じことをしている。しかし、神のいる宴会です。宴会が悪いのではない。楽しむことが悪いのでは決してありません。クリスチャンの人はみんな真面目そうで、堅苦しいと思っている方もいるのではないでしょうか。しかし、厳しい修行や、堅苦しい禁欲生活を求めるものではありません。むしろ、どんな人とも、それぞれの持ち場で、喜び祝い、世の中に光を放つ者であることです。それが目立たなくても、人には分からなくても、そうあるだけでいい。それが聖書が示す、本来の人の姿です。私たちが光をはなつことが、出来るのであれば、隣り人を受け入れ合う、愛のある世界が来るのです。
今日の説教の題名は「振り向くと光があった」としましたが、この光は神様の愛です。
今までの歩みから、くるっと向きを変えて、振り向くと、人生の風景が変わります。
今日の話しは、神様に背を向けた「放蕩息子」の譬え話しと、一般的に呼ばれていますが、息子の話しと言うよりは、実はありのままを受け入れて下さる神様の話しです。
この譬え話しを、聖書の中で話されたのは、イエスキリストです。私たちはこのイエスキリストを主として崇めています。この方は、十字架に架かかり、死なれる、という形で、わたしたちに愛を示してくださいました。そして、復活して今も生きておられます。
このことも、また、引き続き、礼拝の中で、受け取って頂きたいと思います。