2016年2月21日 受難節第二主日
松本雅弘牧師
レビ記19章9~18節、33~34節
ルカによる福音書17章11~19節
Ⅰ.キリスト者の管理の務めとしての
クリスチャン・スチュワードシップ
ドイツ語で賜物や贈り物のことをGabeと言いますが、その単語にaufという接頭語が付いてAufgabeとなると、宿題とか課題という意味になるそうです。その言葉からドイツの教会では私たちが神から賜物を授かった時、それと共に賜物をどのように生かして用いるかという課題をも与えられていると教えられるそうです。
神がくださる賜物や恵みは多様です。私の心も体も、時間やお金、洋服、食べ物、もうありとあらゆる物すべて、元をたどれば神に行きつきます。ですから、キリスト者の管理の務めと言われるクリスチャン・スチュワードシップを考える時、第1に、神からいただいている賜物を特定すること、第2に、賜物が預けられている理由、つまり神はそれをどのように用い分かち合うことを願っておられるかを知ること、そして第3に、喜んで用いることが出来るように、私たちにそうした心を与えていただくこと、この3つが大切になってくると思うのです。
Ⅱ.恵みの手段としての
クリスチャン・スチュワードシップ
この大切な3つのことを考える前に、私たちカンバーランド長老教会が、いかにクリスチャン・スチュワードシップという聖書の教えを大切にしてきたかについてお話ししましょう。
カンバーランド長老教会は、聖書の教えをまとめた『ウェストミンスター信仰告白』を正式な信仰告白として採用する長老教会に属していました。けれども、その中に述べられている「二重予定の教理」というものを受け入れることが出来ずに、1810年2月4日に新たな教会としてカンバーランド長老教会を設立して今日に至っています。そして、その間に、1814年、1883年、そして1984年と3回、信仰告白を改訂してきました。
最初の改訂では、『ウェストミンスター信仰告白』と、ほぼ同じ内容で二重予定の教理だけを削除しているような極めて簡単な改訂でした。しかし1883年版の改訂では、『ウェストミンスター信仰告白』にはない項目が加えられました。それがクリスチャン・スチュワードシップの実践という項目でした。
これは元々聖書の中に教えられているクリスチャンの生き方なのですが、カンバーランドの先輩たちは、特にこの教えを大切にしてきました。賜物の管理ですから金銭の管理のこと、十分の一献金のことなども、はっきりと告白されています。
高座教会の教会員である私たちは、それを毎月「月定献金」という仕方で捧げるようにしていますが、ここで改めて「大切だ」と思わされることがあります。それは、このクリスチャン・スチュワードシップの実践とは、例えば献金を例にとるならば、この十分の一献金、高座教会員の責任としての月定献金が、教会財政を満たすための手段ではなく「恵みの手段」だと告白している点です。
「恵みの手段」、それは礼拝に出席すること、聖書を読み、祈ることと同じように、そのことによって、私たちがぶどうの木であるキリストにつながり聖霊の恵みを受けるために、神が用いられる手段だというのです。ですから、教会にお金が足りないので献金するのではなく、教会の財政が満たされていても満たされていなくても、それに関わりなく、私たちはクリスチャン・スチュワードシップを発揮して、神からいただいた賜物を管理し、神に捧げていくということです。
クリスチャンになれば祈ることを大事にします。祈っても祈らなくてもいいですよ、とは誰も勧めないように、クリスチャン・スチュワードシップについても「してもしなくてもいいこと」ではなく、むしろ大切にすべき「恵みの手段」であり、神さまが願っておられるということを覚えておきたいと思います。
クリスチャン・スチュワードシップに関して、100年ぶりに改訂された現行の「1984年版信仰告白」では、新たな点も加えられています。信仰告白改訂作業が始まった1970年代は、南北問題が話題になる時代でした。南北の経済的格差がありました。北の国の豊かさを支えるために南の国は搾取を強いられている現状に気づかされていきました。その後、東西の壁が崩れ、グローバル化が進み、民族や宗教間の対立も起こって来ています。
このように考えて来ますと、もう私だけ、私の教会、教派だけ、あるいは日本だけ、という思考では捉えきれず、問題の解決にならないのです。つい先日、東西キリスト教のトップが千年ぶりに和解するという歴史的なニュースが報じられていました。神は私たちの神ですが、私たちだけの神ではありません。神さまの創造世界全てのこと、全ての人に深い関心を寄せておられる神さまです。そのことに気づかされて、その問題意識を持って、一生懸命に聖書に向かった結果、出来上がったのが、今、私たちが使っている1984年版信仰告白です。
あるユダヤ人が、神学について次のように定義していました。「神学とは、朝起きた時、神が何を心配しているだろうかと考え、神の心配事を神と共に心にかけることだ」と。「クリスチャン・スチュワードシップに生きる」ということは、まさにこのことではないでしょうか。「朝起きた時、神が何を心配しているだろうかと考え、神の心配事を神と共に心にかけること」、また、礼拝の時に語られる御言葉を通して、神さまの御心を教えていただくことだと思うのです。
Ⅲ.どのようにすれば分かち合いたいという思いになるのか
クリスチャン・スチュワードシップのことを考える時、最後に残る問題、それは、どうしたら喜んで分かち合いたいと思う私に変えられるかということです。それを御言葉から考えてみたいと思います。
今日の箇所を見ますと、「重い皮膚病」を癒された10人の内、イエスさまに感謝しに戻って来た人はたった1人だったことがでてきます。それに対してイエスさまは、「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者は居ないのか」(18節)と言われたのです。
全員が癒していただき、新たなスタートを切れたのです。それにもかかわらず、その内の9人はイエスさまのところには戻ってこなかったのです。つまり恵みに対しての応答がありませんでした。何故でしょう? 病の癒しという恵みそのもので、もう彼らのニーズが満たされてしまって、その恵みの与え主であるお方にまで心が向かなかったのです。ここにクリスチャン・スチュワードシップの実践が「恵みの手段」と言われるゆえんがあります。
いかがでしょう? 私たちも様々な形でイエスさまの恵みに与っています。しかしイエスさまを礼拝しに戻ってこなかった9人は、ただ主イエスの御手から零れ落ちた賜物だけに自分の思いを集中させ、その賜物の与え主であるイエスさまを覚えることがなかったのです。クリスチャン・スチュワードシップは、恵みそれ自体に目を向けることで終わらせず、この私たちの目を、恵みの与え主である主に向けさせるための手段、恵みの源泉である主との関係を深めさせる手段なのです。
聖書に戻りますが、彼らの内のたった1人だけでしたが、私たちに模範を示す人がいました。それはサマリア人でした。その彼が御心にかなう応答をしたのです。「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した」(15、16節)とあります。
『神を体験する』のテキストを書いたブラッカビー牧師が、「クリスチャン生活における基本中の基本は、神さまへの感謝の心である。そして感謝とは、いただいている様々な良きもの、祝福、そうしたものを与えてくださった神さまに対する意識的な応答である」と語っていましたが、まさに恵みに対する感謝、それがクリスチャン・スチュワードシップの動機です。
癒されるという恵みを経験したこの人は、その恵みの賜物をくださった方のところに行き感謝しました。その結果、彼だけは癒しの恵みだけではなく、その恵みの源なるイエスさまとの出会いを経験したのです。クリスチャン・スチュワードシップが恵みの手段である理由がここにあります。神さまは、日常の様々な出来事を通し、私たちをキリストとの生きた関係の中に招き入れたいと願っておられるのです。そして、これがゴールです。
Ⅳ.まとめ
聖書によれば、ギリシャ語で「エウカリスティア」と言われる「感謝」、これは「恵み」と訳されている「カリス」というギリシャ語に由来しています。ちなみに、「喜び」と訳せる「カラ」という言葉も「カリス」、すなわち「恵み」に由来するのです。
私たちが神さまからの「恵み」を知れば知るほど、私たちの内側に、感謝(エウ-カリス-ティア)と喜び(カラ)とが起こってくるというのが聖書の教え、信仰の基本です。そして、この感謝と喜びがクリスチャン・スチュワードシップの動機になっていくのです。そしてさらなる喜びへと導いていくのです。ですから、まず私たちは恵み、賜物を数えること、そのことに気づくことから始めていきたいと思います。それによって、私たちの心が主への感謝と喜びで満たされますようにと祈ります。