2016年4月3日
春の歓迎礼拝
松本雅弘牧師
ルカによる福音書15章1~7節
Ⅰ.徴税人と罪人
皆さん、おはようございます。高座教会の歓迎礼拝にようこそお越しくださいました。心から歓迎いたします。これから聖書の言葉を通してお話をさせていただこうと思いますが、今日はまず、この「聖書」について簡単にお話したいと思います。
1つは、「聖書」という名称についてです。「聖書」とは英語で「ザ・バイブル」と言います。「バイブル」とは「本」という意味ですが、「ザ」がついていて、「Bible」のBが大文字になっているということは、「本の中の本だ」ということ、よく言われることは、「世界のベストセラーだ」ということですね。
数年前に橋爪大三郎さんのお書きになった『不思議なキリスト教』という本がベストセラーになりました。その頃から、聖書の知識があることは、これからの時代、世界で生きていく上での大切な条件であると言われ始めました。ビジネスであれ個人的な交流であれ聖書の知識があるかどうかによって会話の豊かさや判断力が変わってくると言われます。
2つ目。それでは聖書は誰が書いたのかということです。実は、この66巻が1つに綴じられている聖書は1500年にわたって書き継がれてきました。書いた人の人数は約40人です。それも様々な背景をもつ人々、また様々な職業の人々によって書かれたのです。ですから、ある人は「聖書をもって歩いているということは、その人は図書館を持って歩いているのと同じことだ」と語っていました。そして第3に強調したいのはメッセージの統一性です。聖書の言葉の中に、「聖書の中の聖書」と呼ばれる言葉があるのです。それは新約聖書のヨハネによる福音書3章16節の言葉です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3章16節)
「マイ・バイブル」をお持ちの方は、ぜひ線を引いておいていただきたい大事な聖書の言葉です。
1500年間をかけて、その背景や、また職業などのまったく違う40人程の人々によって書かれた聖書ですが、どこをとっても最終的には、この「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という言葉に集約できるのです。ここに出て来る「独り子」というのはイエス・キリストのことです。そして、この言葉は、神さまはあなたを愛しておられるというメッセージです。
今日は、この聖書の統一性を表わすメッセージ、神さまの愛についてお話したいと思います。ルカによる福音書15章1節から2節をご覧ください。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。」とあります。
最初に幾つかの言葉の説明をいたします。「徴税人」という言葉が出てきますが、これは、ローマ帝国のために税金を取り立てる人のことです。彼らの中には自分自身の私腹を肥やすためにローマの権力をバックにして、必要以上の税金を人々から巻き上げるような悪い人も確かにいました。ですから、そうした徴税人を当時は、十把一からげにして「罪人」と呼んでいました。このように聖書に登場するイエスさまの側には、当時の宗教的指導者や周りの人々から「罪人」とレッテルを貼られ周囲から疎外された人々、また、周りの人々から「居てもいないかのように扱われた人々」がいました。そうした人々が、「話を聞こうとしてイエスに近寄ってきた」とありますように、イエスさまの周囲に集まってきていたのです。
何故でしょう? それらの人々をイエスさまは相手にしてくださったからです。周囲からは相手にされない自分たちを、イエスさまだけは人として接してくれたのです。イエスさまは、自分に関心を持ってくれる、そのことが彼らには、ちゃんと分っていたからです。
私たち人間は、誰かから関心を寄せてもらえると、それで、それだけで生きることができるのです。イエスさまは、そのようにして私たちと接してくださるお方でした。
Ⅱ.不平
この時、いわゆる「罪人」と呼ばれていた人々が、このようにして自分たちの意思でイエスさまの側近くに行き、話を聞こうとしてイエスさまの周りに集まってきていました。そして、イエスさまは、彼らをまるで雌鳥が雛をその羽の下に抱きかかえるように、温かく迎え入れました。
ところが、そうしたイエスさまの行動に対して、「ファリサイ派の人々や律法学者」と呼ばれる、当時の宗教指導者、社会のリーダーたちが、不平不満をもらし、不平を言った、というのです。
そうしたファリサイ派の人々や律法学者の不平不満の具体的内容とは何だったのでしょうか。それは第1に、イエスさまが、自分たちが罪深いと見定めた人々と共にいることです。ましてや、食卓を囲むことなど、当時の規則に照らし合わせて絶対にあってはならないことだと考えていたことが挙げられます。第2に、神さまによる罪の赦しが簡単に与えられると吹聴する説教者だと、彼らがイエスさまを決め付けていたことを挙げることができます。2節を見ますと、イエスさまを指して、「この人」と言っています。この言い方の中には、こうした非難と中傷の気持ちが込められていたのだと思うのです。
Ⅲ.「見失った羊」のたとえ
こうした頑ななファリサイ派の人々や律法学者に向かってイエスさまはたとえをお話になりました。「『あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。』」
ここでイエスさまは見失った一匹の羊を捜し求める羊飼いとして、神さまのことを教えています。迷子になったこの羊は、自分の失敗の故に、自分の愚かさの故に迷子になってしまったのです。でも神さまの側からすると、「見失った一匹を見つけ出すまで捜し回るほど」、いなくなっては困る尊い存在なのです。
ある人は、百匹いるから一匹くらいいなくなってもいいではないかと言われるかもしれません。けれども、イスラエルの羊飼いは、一匹一匹に名前をつけて我が子のように大切に養い育てたそうです。我が家にも犬がいますが家族の一員のような存在です。ましてや運命共同体のような羊飼いと羊にとってはなおさらだったと思います。その羊がいなくなれば、もうみつけるまで捜すでしょうとイエスさまは言われるのです。そこに居合わせたユダヤの人々は皆、うんうんとうなずいたと思うのです。
Ⅳ.見失われたものの大切さ―「あなたは高価で尊い」
1人の人が失われる。それは神さまからしますと大きな喪失、痛みが伴う悲しみだとイエスさまは言われるのです。そして逆に、その人の回復は大きな喜びだ、と主は言われるのです。
見つかるまで捜し求める羊飼いは、その1匹に利用価値があるから、あるいは損をしたので悲しんで捜しているのではありません。まだ小さいけれども、これから育てれば良い値で売れるからと言ったような意味で価値があるというのでもないのです。
ただ、そのまま、ありのままで大切な宝物だから、失ったことを悲しんでいるのです。つまり、悲しみの理由は、その羊に対する神さまの愛の心です。
今日のたとえ話を通して、イエスさまは、「自分なんて、居ても居なくてもいい存在だ」と言う心の叫びに対して、「そうではない! そうではない! あなたは、神さまから捜されている、尊い存在なのだ」と訴えているのです。
「自分なんて」と思う時、価値のない私が何で生きなければならないのか、と思うことがありますね。生きるということの意味、聖書の答えは何でしょうか。それは、「神さまに捜されているから」です。これが答えです。
神への信仰とは何でしょうか。ある人が言っていました。「信仰とは、この自分も捜されている、主イエス・キリストによって、神の愛のうちに捜されているのだということを認めること、受け容れること」だと。
自分を振り返るとき、自分は神さまの愛からほど遠い生活をしていると思われるお方があるかもしれません。自分が身を置いているところには神さまなどやって来てはくれない、そのように言われるかもしれません。そんな時に、ぜひ、今日のたとえ話を思い出していただきたいのです。
私を捜し続けておられる神さまがおられるということ。今、そのお方は、私を、この私を捜しておられるということを、ぜひ心に留めていただきたいと願います。お祈りします。