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そのままの姿で


2016年4月10日
春の歓迎礼拝
松本雅弘牧師
詩編90編1~12節
ルカによる福音書15章8~10節

Ⅰ.はじめに―「生涯の日を正しく数えるように教えてください」

今日、お読みしました旧約聖書の言葉の中に、「あなたは眠りの中に人を漂わせ 朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい 夕べにはしおれ、枯れて行きます」(詩編90:5~6)とあります。私たちの人生を、瞬く間に飛び去っていくものとして表現しています。つまり「人生のはかなさ」をしみじみと歌っているのです。
さらに詩人は、「人生はため息のように消えうせます。人生の年月は70年程のものです。健やかな人が80年…」とあり、「移ろいやすい」だけではなく、「ため息のように」あっという間に過ぎ去っていく。この感覚が詩人モーセの実感でした。
こんなお話を聞くと、「教会に行って、励まされて帰って来たいと思ったのに、牧師さんは急に暗い話をし出した」と思われるかもしれませんが、もう少しご辛抱いただきたいと思います。
あっという間に過ぎてしまう人生ですので、詩人は真剣になって神さまに祈っているのです。その祈りの言葉は、「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」というものです。
それこそ「ため息のように」過ぎ去ってしまう人生の日々を、主にあって1日1日大切に過ごしていきたい。今日、この日を、どのように受け止め、どのように生きるかを教えてください、という祈りです。そして、この祈りに応えてくれているのが、この聖書の中に出てくる様々な教え、イエスさまの教えです。
少し前置きが長くなりましたが、私たちの人生の日を正しく数えることができるように、今日も、イエスさまの教えに心の耳を傾けていきたいと願っています。

Ⅱ.背景

今日のたとえ話も、徴税人や罪人と呼ばれる人々と一緒に食事をしていたイエスさまを批判する、ファリサイ派や律法学者に向けて語られています。
ここに出てくる「罪人たち」とは職業上、また様々な理由から社会からつまはじきにされ、誰からも相手にされない人々でした。ところが、そうした中で、イエスさまだけは、彼らを人として接しておられたのです。ですから、彼らは、彼らの方からイエスさまのところに行って、イエスさまと交流したい。イエスさまのお話を聞きたい。イエスさまと時間を共にしたい。そのような思いでやってきたわけです。
そのことが、当時の宗教指導者には気に入らないことだったのです。イエスさまは、それに対してどうなさったでしょう。「そこで、イエスは次のたとえを話された」のです。
イエスさまが語られたたとえ話とは、大きく分けて3つあります。「見失った羊のたとえ」、今日の「無くした銀貨のたとえ」、そして来週から2回に分けてお話します「放蕩息子のたとえ」、この3つのたとえ話です。

Ⅲ.無くした銀貨のたとえ

 イエスさまが語られたのは次のようなお話でした。あるところに1人の女性がいました。10枚の銀貨を持っている女性です。その彼女、どういうわけか、大切な1枚を失くしてしまいました。
このドラクメ銀貨の価値を調べてみましたら、当時の貧しい労働者1日分の賃金に相当する額だそうです。ですからそれなりの価値あるものですが、でも捜しても見つからなければ、〈いつかまた出てくるでしょう、あと9個残っているし〉と気持ちを切り替えてしまうこともあるかもしれません。ところが、この女性は、必死になって捜しているのです。
薄暗い家の中です。ユダヤの貧しい家屋ですから、窓がありません。ですから8節を見ますと「ともし火をつけ」必死になって捜したのです。自分の目でもって一生懸命無くなった銀貨を見つけようとします。でも残念ながら見つかりません。そこで彼女はほうきを持ち出して薄暗い家の隅々を掃きながら、テーブルがあればそれをどかして、その下を掃きます。
たんすがあれば、その下にほうきを突っ込んで掃き出します。あるいは、家具を移動して、一生懸命捜します。
このように、ともし火を点して、目を使い、今度はほうきを手に持って、そこいら中を掃きながら、ひょっとすると無くなった銀貨が「ほうき」の先にでも引っかかって、音でもたてないかと、耳に神経を集中して捜しているのです。つまり、彼女は無くなった1枚の銀貨を見つけるために、目で捜し、手で捜し、そして耳を使って捜す。つまり、全身で捜しているのです。
まさに「見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」とイエスさまが言われるとおりです。
では何故、ここまでするのでしょうか。銀貨1枚です。周囲からすれば無意味に思える行為かもしれません。ある人にとっては価値がないとも思える銀貨です。でも、この女の人にとっては、価値があったのです。何故なら、それは彼女の宝物だったからです。
当時、イスラエルでは銀貨10枚に紐を通して、結婚のときに髪飾りとして持ってきたそうです。嫁入りの時の飾りでした。また、銀貨を用いたのは、持参金でもありました。もし何かどうしても必要な急場の時には、それを使うということもありました。つまり、彼女にとっての銀貨1つ1つは、思い出がこめられた宝物であり、大切なものだったのです。
私たちにたとえるならば、結婚の誓約のしるしとして交換した結婚指輪のようなものでしょうか。私も30年以上、同じ指輪をはめています。よく見てみますと随分と傷がついてきました。覚えていますが30年前はピカピカでツルツル、とても綺麗な指輪でした。でも今は色がくすんで表面はザラザラです。でも、どうでしょう。「新しいものと交換しよう」と思うでしょうか? 「買ったときと同じ値段を払いますから、売ってください」と言われて、売るでしょうか。そうしないですね! あの時、あの場面で交換した指輪であることに価値があるのです。
つまり、他のもので代用することはできない結婚指輪のようなもの、それが、この時、彼女が無くしてしまった1枚の銀貨でした。

Ⅳ.見出される喜び

 私はクリスチャンになる前、イエス・キリストというお方を知る前は、何か悪いことが起こると、また、嫌なことに出くわすと、自分に自信もないですから、「自分なんて、居ても居なくても良い存在だ」と真剣に思うことがありました。今日の聖書の箇所は、周囲の人々の扱いから、「自分なんて、居ても居なくても良い存在だ。」そうとしか感じることができないような人々に対して、イエスさまはこのたとえをお語りになり「そうではない! あなたは神さまから捜されている宝物なんだ!」と、必死になって伝えようとしているのです。
 私は、この説教を準備しながら、「まばたきの詩人」水野源三さんのことを思い出しました。
クリスチャンの詩人水野源三さんは、9歳の時に赤痢にかかり、高熱で脳性まひになって、見ることと聞くこと以外の機能を全部失ってしまいました。その水野さんが13歳のときに、自分を捜しておられる神さまを知って洗礼を受けてクリスチャンになりました。
それ以来、お母さんが作った、「あいうえお」の書かれた「50音表」を、まばたきで合図しながら、ひとつずつ言葉を拾い、詩の作品を作って証しをされた方です。その水野さんの作った詩の中で私の大好きなものがあります。

たくさんの星の中の一つなる地球
たくさんの国の中の一つなる日本
たくさんの町の中の一つなるこの町
たくさんの人間の中のひとりなる我を
御神が愛し救い
悲しみから喜びへと移したもう

 水野さんはどうにもならない「自分の小ささ」を実感していました。でも、そのような小さな者を愛して捜し出してくださった神さまに出会ってから、心の中の悲しみが、大きな喜びへと変えられていくことを経験したのです。
私たち誰もが、神さまが捜しておられる神さまの宝物です。私たちがそのお方に出会う時、初めて、人と比べて100分の1、10分の1に過ぎない私など、と思うことなく、掛け替えのない私を受け止めて生きることができるのです。
ぜひ、水野源三さんのように、この私を捜しておられる神さまと、喜びの出会いをさせていただきたいと願います。お祈りします。