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主日共同の礼拝説教 歓迎礼拝

決してあきらめない


2016年4月17日
春の歓迎礼拝
松本雅弘牧師
ルカによる福音書15章11~24節

Ⅰ.はじめに

 今日、お読みした聖書箇所に付けられた新共同訳聖書の小見出しには「放蕩息子のたとえ」と書かれています。でもこの話を注意深く読んでみますと、単に「放蕩息子」と呼ばれる弟息子の物語ではなくて、むしろその息子の父親の物語であり、その父親によってたとえられる神さまの愛についての物語であると思います。では、さっそく今日のたとえ話を詳しく見ていきましょう。

Ⅱ.息子を思い続ける父親

 たとえ話の最初を見ると、弟息子が父親の元気なうちに遺産を分けて欲しいと願い出たことを伝えています。「遺産」ですから、普通は父親の死後に相続されるものです。
この時代のユダヤの法律では、父親が元気なうちは、子どもは、財産について一切権利主張をすることは許されないと定められていましたから、見方によればこの息子は法律違反を犯していることになります。
 こうした息子の要求に対して、ここに登場する父親はその要求通りに財産を分けてやってしまうのです。そして財産を譲り受けた息子はすぐにそれを換金し、お金だけが物を言う「遠い国」に行ってしまったのです。
残された父親は何を考えたでしょうか。きっと後悔したのではないでしょうか。財産を要求されても、頑とした態度でそれを許さなければ、息子を失わなくて済んだのではないだろうか。あの場面で、息子にこう言っておけばよかった、ああすればよかった、と悔やんだと思います。しかし、このたとえ話のお父さんは全く動こうとしていないのです。
なぜ、ここまでなすがままにさせておくのでしょうか? 
私はそのところに父親の苦しみがあったのではないかと思います。親なら誰もが多少の経験を持つのではないでしょうか。「気持ちの無い」息子を力ずくで連れかえって来たとしても、すでに息子の心は父親から遠く離れてしまっている。ですから、きっと、また出て行ってしまうでしょう。父親には、どうすることもできないことが分かっていたのです。
子どもに対して、すべての権限を持つはずのユダヤの父親です。その父親が、息子と心通わせる事が出来ずに、無力さの中に立ち尽くしている状態が、この時のお父さんの姿だったのです。
父親としては、息子の心に向かって叫び続けることしかできない、メッセージを送り続けることしかできないのです。
本当にやるせないほどの激しい苛立ち、悲しみ、そして身を焦がすような苦しみがあったように思います。これがこの時のお父さんの心だったのではないでしょうか。

Ⅲ.放蕩息子の悔い改め

 次に息子の方に目を移してみたいと思います。彼は何もかも使い果たしてしまいます。実際、彼はどん底に落ちてしまいました。ところが、そんな中、本当に幸いなことですが、彼は「我に返った」のです。
彼は「祝福に満ちた父親の家を思い起こすこと」によって我に返ったのです。このことは私たちに大切なことを教えています。
貧しさや悲しみが人間を神さまに立ち返らせるのではない。時として、それは人の心をもっと頑なにさせたりするでしょう。けれども、この息子は、落ちぶれ果て、どん底の状態にあっても、そこで父親のことを思い出せたのです。そして、この時、彼は初めて悔い改めることができました。つまり方向転換をして父の元に帰る心へと導かれていったというのです。
 もう一度、父親にスポットライトを当ててみましょう。息子がどん底まで落ち、父親を思い出して悔い改めを決意した時、父親の方はどうしていたでしょうか。聖書には、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけ」た、と出て来ます。
私はこの言葉を読むたびに感動を覚えるのです。このお父さんは息子が家を出て行った日からこの時まで、息子の帰りを信じ、家出して行った方角をいつも見ていたのだと思います。来る日も来る日も外に立っていました。
今、「私は、この言葉を読むたびに感動を覚える」と申しましたが、何が私に感動を与えるかと言えば、息子が父親のことを思い出す、それより前に、実は、息子のことを一時も忘れることのない父親がいたのです。父親は、どうしようもない息子のことをいつも思い続けていたというのです。
あなたに対して、神さまはこのようなお方なのですよと、この時、イエスさまは教えてくださったのです。

Ⅳ.決してあきらめず、思い続けてくださるお方

私たちが自分をどのような者として受け止めているか、このことが私たちの生き方と大きく関係していると言われます。いわゆる、専門の言葉で「アイデンティティー」ということですが、これはとても大切なことです。
私が、神さまをどのようなお方として信じているか。そして同時に、私自身が、神さまからどのような者として知られているか。このことを心の深いところで、しっかりと受け止めることによって、私たちの生き方は確実に変わるのです。
こんな話がありました。アメリカのアリゾナ州フェニックスという町で、1つのセミナーが行われました。その集会には、大きな会社の経営者が800人あまり参加していました。講師は、有名な人間関係学の専門家であり、ビジネス書『ソロモン王の箴言』の著者であるゲリー・スモーリーでした。
彼は、バイオリンを手にとって皆に見せました。それはとても古く、ネックの部分が折れていて、弦がぶら下がっている、ひどいバイオリンでした。
スモーリーはそのバイオリンを、皆が見えるように、高く掲げ、そして聴衆に向かって「このバイオリン、いくらすると思いますか?」と尋ねたそうです。
 そうしましたら、そこにいた経営者たちのほとんどは、笑いながら、「せいぜい2~3千円でしょう」と答えました。
その時、スモーリーは、バイオリンの内側を覗き込み、そこに書かれている文字を大きな声で読み上げました。「1723年アントニオ・ストラディバリウス」
「アントニオ・ストラディバリウスのバイオリン」は、現在、世界に600本程しか残っておらず、値段は3億円から高いものですと30億円もするそうです。
聴衆が、そのバイオリンの価値に気づいた後で、スモーリーは、改めてそのバイオリンを取り上げ、最前列に座っているセミナー参加者に手渡しました。そのバイオリンを手にした人、そしてまた、それを見ていた人も、その価値を知りましたから、周囲の人々は息を呑んで見守り、手渡された人は、本当に大事に宝物を扱うようにしながら、そのバイオリンをまじまじと眺めたそうです。そのバイオリン自体は何も変化しなかったにもかかわらず、です。
いかがでしょう。私たちの周りの人たちが、私たちを見て、色々なことを言うかもしれません。「せいぜい、2、3千円くらいの価値でしょう」とか・・・。
でも、それは私たちの本当の価値を知らない者が言うことです。でも神さまは違います。神さまは、あなたを御覧になって、「あなたは高価で貴い。私はあなたを愛している」と語ってくださるのです。それだからこそ、今日のたとえ話に出てきた父親のように、息子の帰りを待ち続けてくださるのです。
バイオリンの本当の価値に気づいた時、セミナーに参加した人々の、その扱いが変わったように、私たちも、そこまでしてこの私を捜し続けてくださる神さまを知る時に、自分自身の見方が、それまでとはまったく違ったものになるのです。
神さまは、皆さんを捜しておられます。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(ヨハネ黙示録3:20)と言われます。
私たちの心には扉があるのです。でも、内側にしか「取っ手」がついていません。イエスさまは外に立って、私の心の扉をトントン、トントンと、叩いておられるのです。
私たちの意志を無視して、強引に力ずくで入ることはなさいません。私たちの人格を、私たちの心を大切にしておられるからです。
でも、その声に気づいて戸を開ける時、そのお方は、私たちの人生の同伴者になってくださり、私の助け主となってくださるのです。
ぜひ、主のみ声に応えていただきたいと願います。お祈りします。