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主日共同の礼拝説教 歓迎礼拝

あまりにも真面目すぎて


2016年4月24日 春の歓迎礼拝
松本雅弘牧師
ルカによる福音書15章25~32節

Ⅰ.弟息子の帰還

 今年の春の歓迎礼拝ではルカによる福音書15章の「放蕩息子のたとえ話」をご一緒に読んでいます。先週は父親の遺産を持って出て行った弟息子が、お金を使い果たし、どん底まで落ちたところで父親のことを思い出し、悔い改めて戻って来たお話しでした。父親は息子が帰ってきたことを本当に喜び、その喜びを、皆で分かち合おうと宴会まで催すわけです。
そこに仕事から帰ってきたのが、今日の主人公の兄息子でした。今日は、この兄息子にスポットライトを当ててみたいと思います。

Ⅱ.兄息子の不満

 兄息子は弟の帰還を祝う宴の最中に帰って来たようです。家の近くまで来ると普段と様子が違います。ところで、ここを読んだ時に、1つ不思議に思うことがあります。兄息子は家の近くで音楽や踊りのざわめきを耳にするまで何も知らなかったということです。
確かに、弟は前触れもなく突然帰って来ました。でも、たとえそうであっても祝宴が始まる時には誰かが兄を呼びに行ってもいいはずです。ところが誰もそうしていませんし、事実、兄は弟の帰還の事実を全く知りませんでした。
話を戻しますが、家の近くまで来ますと普段と様子が違っていて、「音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた」と、このたとえ話は語ります。聖書によれば、このお兄さんは、賑わいの原因を知らないだけでなく、わざわざ僕(しもべ)を家の外まで呼び寄せて問いたださなければ、何が起こっているのか、知ることが出来なかったようです。
問われた僕は出来事の成り行きを、かいつまんで説明しました。説明し始めた僕は、弟息子の帰還を喜んでもらえると思って兄息子に報告したのだと思います。ところが僕がひと言、「弟さんが帰って来られました」と言った途端に兄の顔色がサァーと変化したのです。気遣いの行き届く僕は普段から弟に対して良い感情を持っていない「兄の性格」を思い出し、すぐに声のトーンを落として、「無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです」と、「事実」だけを報告したのです。
するとどうでしょう。これを聞いた兄息子は怒って家に入ろうとしません。自分の殻に閉じこもってしまい、そのようにして無言の抗議を父親に対してしたわけです。
私はこのたとえ話を読むたびに、弟息子よりもこのお兄さんの方に共感を覚える自分を発見します。正直、このお兄さんが気の毒に思います。これまでの経緯を知っている者にとって、この時の「お祝い」は、弟にとっては、全くふさわしくないものでした。弟の今後のことを考えても、決してふさわしいことだとは思えないからです。弟息子は父親に反抗して自ら墓穴を掘ったのです。まさに自業自得です。
当時のユダヤ教からすれば法律違反を犯したわけですから、それなりの償いがあって初めて迎えられるべきであって、祝宴どころの騒ぎではないのです。
ところがどうでしょう? 子どもの前で正しく義なる存在でなければならないはずのユダヤの父親なのに、身上を食いつぶして帰って来た息子を、懲らしめもせずに迎え入れ、責任も取らせずに祝宴を設けているのです。父親の神経を疑いたくなる。それが、この時の兄息子の心境だったのではないかと思います。
兄は言いました。「あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」。この言葉には、この時のお兄さんの収まらない怒りが現れています。注意して読めば、お兄さんは「自分の弟」の事を「わたしの弟」とは言っていません。「あなたの・あの息子」と呼んでいます。口が裂けても「わたしの弟」とは言いたくなかった。自分とは全く関係の無いように、人を突き放すような言い方をしています。父親に対する怒りと、弟に対する軽蔑が込められています。
もう1つ、「娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来る」という言葉を見ると、兄の弟に対する憎しみの大きさが、もっと伝わって来るように思います。弟が、娼婦と一緒にいたかどうか、この時のお兄さんは知っていたのでしょうか? 確かに13節からすれば、そうだったかも知れません。しかし、これは一方的な兄の邪推であり、決めつけでしょう。実際に見ても聞いてもいないわけですから。弟の帰還を認めようとしない、いや、認めたくないという、弟に心を閉ざしている兄息子の気持ちが、このように言葉の端々に現れてくるのです。

Ⅲ.父親の愛情

 では、このようなお兄さんに対する父親の振る舞いに注目したいと思います。第1に、父親はまたもや家の外に出てこなければならなかったということです。父親はつい先ほどまで、来る日も来る日も弟息子が家出して行った方角を眺めては、彼の帰りを待っていました。弟のために何度も、いや何百回、何千回と父親は外に出たのです。そして今、どうでしょう。物凄い勢いで憤る兄息子の言葉の前で、祝宴どころではない、愛する「もう一人の息子」のために、ふたたび戸惑い、苦しむ父親が家の外に立っています。
第2に、父親は怒り狂う兄息子に対して、「子よ」と語りかけている点に注意したいと思います。「放蕩息子」と呼ばれる弟息子に対して父親は変わらずに「お父さん」であり続けました。それと全く同じように、嫉妬と怒りで荒れ狂う兄に対しても同様に「お父さん」であり続けているのです。
ちょうど、無くなった銀貨1枚を必死になって捜し求めた女性の手の中に同じく尊い9枚の残りの銀貨が握られていたように、怒りの納まらない兄息子もまた、この父親とっては愛する息子、大切な宝のような存在なのです。ですから、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに見つかったのだ」と語りかけているのです。
「あなたの・あの息子」と吐き捨てるように言った兄息子の言葉に父親は深く傷ついたことだと思います。でも怒りゆえに烈しい言葉を発してしまった兄息子に対して「お前の・あの弟」と優しく投げ返しています。自分の方から関係を絶ち、殻に閉じこもろうとする兄息子をなだめるために、必死になって外に飛び出す父親の姿は、まさに、弟を遠くから見つけて走り寄った、あの時の真剣な父親の姿と重ならないでしょうか。
 そして第3に、父親の最後の言葉に注目したいと思うのです。「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」
この父親の言葉は、私たちと共に在ること、私たちの存在自体を喜びとされる神さまの恵みを、何物にも勝って告げているのではないでしょうか。

Ⅳ.あまりにも真面目すぎて―もう一人の放蕩息子

私たちはここで大切な事実に目が開かれます。それは常に父親の近くにいたはずの兄息子の方が、もしかしたら遠い国に出かけて行った弟息子よりもはるかに遠く離れていたのかもしれないということです。実は、兄息子も「もう一人の放蕩息子」だったという事実です。
思い出していただきたいのですが、このたとえを聞いていた人々はファリサイ派の人々や律法学者たちです。ここで「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」という兄息子の言葉が紹介されていますが、これはまさに、彼らファリサイ人、律法学者の「自信」を表す発言とダブって聞こえます。
でも現実はどうでしょう。ファリサイ派の人々も律法学者たちも、人のことはとやかく言うのですが本当の意味で自分自身の心の中に喜びや満足、平安がなかったのではないでしょうか。
彼らは本当に真面目だったと思います。でも、そうした生き方を保つために、困難な事、責任を負うべきことを遠ざけ、間違いのないような手堅い所だけを行う生き方を選びとっていきました。
人の目を気にし、徴税人や罪人と言われていた人々に近づかない。何故でしょう? 汚れた者と言われたくないからです。彼らの表面的には品行方正な生き方は、神さまに対する愛、隣人に対する愛からではなく、「世間が自分をどう見ているか」という恐れから来るものでした。後ろ指をさされないように、人から批判されないように。つまり真に畏れるべきお方を畏れない結果、神さまでも何でもない、人々の目を気にする生き方しかできなくなっていたのです。
私たちはどうでしょう? これまで読んできた3つのたとえ話に当てはめるならば、安全な場所に残された99匹の羊、女性の手の中にある9枚の銀貨、そして今日の兄息子かもしれません。
洗礼を受け礼拝には来ていますが、いつしか心に喜びを失い、信仰生活が義務のようにしか思えなくなり、心の中が怒りや憤り、不平不満で満ちているとするならば、まさしく私たち自身がこの時の兄息子なのかもしれません。一見正しく立派に見える兄息子も、実は父親から遠く離れていた、もう1人の放蕩息子だったのです。
この後、兄息子がお父さんの招きに応じて家の中に入ったのかどうか、それは分かりませんが、私たちは、「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」という招きに応え、ぜひ神さまのふところに飛び込んで行きたいと思うのです。お祈りします。