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主日共同の礼拝説教 歓迎礼拝

人生の歩き方


2016年4月24日 夕礼拝
和田一郎伝道師
ルカによる福音書19章1~10節

Ⅰ.徴税人という生き方

イエス様はエルサレムの都へ向かって旅をしていました。途中、エリコという町を通られました。エリコの町にはザアカイという男が住んでいました。ザアカイという名前の意味は「清い」とか「正しい」という意味です。彼の仕事は徴税人で少し特殊な仕事でした。ローマ帝国は、植民地であるユダヤから税金を徴収するのに、同じユダヤ人に税金を集めさせて、ローマに納めさせました。徴税人は、同じユダヤ人から税金を集めるために、威張ったり、脅したりして集めては、自分の懐に分け前を取ってローマに納めていました。ローマ帝国の手先となってお金を巻き上げる裏切り者、売国奴と見られていました。
どうして親がザアカイという「清い、正しい」という名前にしたのに、このような人生になってしまったのでしょうか? 3節を見ると、背が低かったとあります。しかも群衆に遮られたとありますから、意地悪もあったのでしょう。子どもの頃からコンプレックスを持っていたのかもしれません。「いつか見返してやる」そんな思いで、お金を稼ぐことに邁進して稼ぐためなら何したって構わない。人を裏切ろうが嫌われようが、結局この世は金なんだ。そんな思いで生きていました。そして財産の面では優越感に浸れました。
しかし、ザアカイには虚しさがあったのです。  3節に「イエスがどんな人か見ようとした」とあります。本当に満足していれば、イエス様を見たいなんて思わなかったでしょう。人より稼いでいれば優越感に浸れると思ったけど、そうではなかったのです。なんでも貧しい人間の所へ行って病気を治したり、困っている人を助けたりしているらしい。本来なら、そんな金儲けにもならないことに関心を持つような、ザアカイではなかったでしょう。しかし、気になったのですね。イエスという男はどんな人なのだ? なぜ気になったのか?「もしかしたら、こんな俺でも変えてくれるかもしれない」

Ⅱ.自分を変えてくれる人と出会う

通りに行くと、イエス様を一目見ようと人でいっぱいでした。このままじゃイエス様を見る事ができない。ザアカイが来ても、譲ってくれる人なんかいないわけです。そこで、ザアカイは近くにあった、いちじく桑の木を見てその木に登りはじめました。木の上からみんなを見下ろして、優越感さえあったかもしれません。「ほら見ろ、お前たちとは違うんだ、こっちの方がよく見える」という優越感。ここにもザアカイの生き方がよく出ています。ザアカイは優越感をもっている。一方で、周りは「なんだアイツ」と冷めています。このザアカイに見られるように、優越感は劣等感の裏返しです。常に人よりも上にいないと、落ち着かないのです。言うなれば、ありのままの自分を受け入れられない、そのままの自分を愛せない、そんな生き方をしてきた姿が、木に登ったザアカイから見ることが出来ます。
木の上の桑の葉のあいだから遠巻きに眺めていると、イエス様が突然とまって、木の上のザアカイを見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。」と言いました。神様が「私はあなたの名を呼ぶ」と言ったら、それは特別な招きです。「私はあなたのありのままを知っている。そしてあなたを受け入れる。」そんな意味があるのです。神様に指名された偉大な預言者や王たちも、名前を呼ばれ、受け入れて偉大な働きをしてきました。ザアカイが自分の名前を呼ばれて思い出したのは、オレの名前は「清い」という名のザアカイだった。降りて来なさいと言った言葉は、「あなたはその名を、取り戻しなさい」と受け取りました。そして続く言葉にさらに驚きます。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」とイエス様は言ったのです。ユダヤ人の社会では、目上の人からその家に泊まろうと言われれば、食事以上にゆっくり話しあって、特別な信頼関係を持とう、という意味が込められています。ザアカイは、急いで、木から降りていきました。

Ⅲ.イエス様を受け入れる

イエス様は、ザアカイが徴税人として、人を脅したりしてお金を取っていたことなども知っていましたが、その事は一切口にしていません。一方、ザアカイも、自分の家に招くわけですから、包み隠さずさらけ出したわけです。ありのままの日常の姿をさらけ出して、イエス様を受け入れたのです。
 これを見ていた人たちは噂しました。「イエス様は、よりによって、あの徴税人の家に泊まりにいった。だったらイエス様を信じるのをやめよう」と噂する人もいたのです。イエス様自身の評判を落とす事にもなったのです。しかし、そんなことも気にせずにイエス様は、たった一人の罪深い男、みんなから見下されて生きて来た一人の人の所に、あえて、来て下さった。イエス様を家に招いて、イエス様と過ごして、ザアカイは変わっていきました。8節「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。」それまでは、貧しい人から巻き上げる事だってしてきた。お金に囚われた、お金の奴隷でした。それが180度変えられました。続いて、「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」とまで言いました。ここで、ザアカイは自分の罪を認めているのです。税金をただ集める、徴収係だけでなくて、私は人を騙していました。そんな、自分のありのままの罪を、認めるまでになっていました。
なぜ、変えられたのでしょうか? もっと自分を変えたいと思うのは誰でも思います。この中でザアカイがしたことは、イエス様を受け入れた、ただそれだけです。「どうぞお入りください。」自分の、ありのままをさらけだして迎えた。イエス様を受け入れたたことで、変化が起こったのです。

この変えられたザアカイを見て、イエス様は9節でこう言います。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」神様はアブラハムに約束をしたのです。「地上の人々はすべて/あなたによって祝福に入る」という希望です。でも、ザアカイは、ユダヤ人の抱く希望なんて捨てていたのです。神様に祝福される人生なんて諦めていたのです。しかし、今日、救いが訪れた。ザアカイは諦めていたけど、イエス様の方では諦めていないのです。10節「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
イエス様は初めから、ザアカイと会う計画をしていたと話しました。神に背を向けて歩む人を、聖書では、「失われた人」と言います。「迷い子」とも言います。ザアカイのような、迷い子を探して下さるのがイエス様です。「迷い子」ですから、探す人がいないと戻って来れない人なんです。自分で自分は変えられない。わたしたちは変えてくれる人が来ないと、変われません。イエス様は、失われた者を、捜して救うために来たのです。
イエス様は「そういう事になっている」と言うのです。なぜか? みなさんが生まれる前から、捜しに来るというこの計画を、神様がされていたからです。その時、人生の歩み方が変わるか、変わらないか。その違いは「どうぞお入りください」・・・イエス様を受け入れるかどうか。それだけです。

Ⅳ.その後の人生の歩き方

10節でこの話しは終わっていますが、この後ザアカイはどうなったんでしょうか?
もう、徴税人の仕事など辞めて、イエス様の弟子になったのでしょうか? そうではないでしょう。ザアカイは、そのまま徴税人の仕事を続けた。財産の全部ではなくて、半分を施して、半分は残したのです。私たちも神様に従って生きて行こうと思った時、牧師や宣教師などの働きにでることが全てではありません。ある人はサラリーマン、またある人はパートや施設で働いている人、家の家事を担っている人、介護の世話をしている人、それぞれ持ち場があります。その与えられた持ち場で、祝福を分け与える拠点となって用いられていくのです。神様に用いられる人になって、祝福の源として生きる人生。自分が活かされて、周りを活かす人生になっていく。私たちの生きがいというのは、自分の持ち場で、神様に用いられている、というところに本当の生きがい、喜びがあります。
イエス・キリストは、十字架に架かり、死なれる、という形で、わたしたちに愛を示してくださいました。そして、復活して今も生きておられます。ここに、神様に招かれなかった人は、一人もいません。イエス様は今日、すべての人に対して、「疲れている人、重い荷物を負っている人は、わたしの所に来なさい。わたしがあなたを休ませてあげよう」と、一人一人を呼んで下さっています。