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ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教

現代を生き抜くための黄金律


2016年5月8日 
ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
申命記10章19節
マタイによる福音書7章12節

Ⅰ.はじめに

 私たちが生きていく上で、こういうやり方をすればうまくいく、間違いないという知恵やルールがあれば、どんなに助かることでしょう。世の中が目まぐるしく変わり、しかもそうした私たちの周りには様々な情報が溢れている中、今、どう生きたらよいのか、子どもの教育をどうしたらよいのか、皆、わからなくなっているからです。
「永遠のベストセラー」と呼ばれ、最近では、クリスチャンでない方も手にする人が多くなったと言われるこの聖書を見ますと、主イエスは、こうした私たちに対して、「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。」といった語りだしで始まる「山上の説教」と呼ばれる一連のお話をしておられますが、こうした言葉を読み、また聞く時、不思議な安らぎを感じるものです。目先のことで、気持ちが一杯一杯になっていたとしても、そうした言葉をゆっくりと味わうことで、本当に不思議なのですが、周囲の人たちのニーズに思いを向ける、「心のゆとり」のようなものが与えられる経験をします。
今日お読みした、マタイによる福音書7章12節の言葉、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」というイエスの言葉は、今、お話しました「山上の説教」に出てくる言葉です。
キリスト教会の中では、18世紀頃から、これを「ゴールデン・ルール/黄金律」と呼ぶようになったと言われています。なぜなら、「これこそが、人生を生きていく上で、忘れてはならない知恵だ」と多くの人が認めたからです。
今日は、この「黄金律」と呼ばれる聖書の言葉をご一緒に味わい、私たちの生活、子どもの教育、人間関係に生かす知恵をいただきたいと思います。

Ⅱ.聖書の教えのエッセンス

ここでイエスさまは、「これこそ律法と預言者である」と、私たちにとっては、少し聞きなれない言葉を使っていますが、当時は旧約聖書を指して、そのように呼んでいました。つまりイエスさまは、膨大な旧約聖書の内容を一言で言い表すと次のようになるのだ、と言って、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と言われたのです。
調べてみますと似たような格言は洋の東西を問わず、結構あるようです。でも、1つ、注目したいのは、この12節の言葉の冒頭に出てくる「だから」という接続詞です。
つまり、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」ということの理由、また、その前置きが、イエスさまの教えのユニークな点だと言われています。
「だから」と語り始めたその前には、次のようなイエスさまの言葉が出て来るのです。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタイ7:9~11)

Ⅲ.天の父なる神さまの愛

ここでイエスさまは、人間の親と天の父なる神さまを比較しながら語っています。当然ですが、人間の親は不完全です。イエスさまは、完璧な親などいないことを百も承知の上で、親である私たちの模範、モデルとしての神さまのことを思い巡らすようにと勧めているわけなのです。
よく言われることですが、「私たちは人にされたようにする。育てられたように育てる」と言われます。ですから「子育て」は、基本的に「育てられたようにする」、あるいはちょっとネガティヴな言い方をすれば、「育てられたようにしてしまう」ことが多いのです。私を育ててくれた大人の影響をもろに受けている場合が多いわけです。
当然、その親や大人も完璧ではないわけですから、突き詰めて考えていくと、親である私たちにとって、親として適切なモデルが周囲にはあまりないのではないかと思うことがあります。
こうした中で幸いだと思わされるのは、自信のない新米の親に対して、いや、今にいたってもどうしてよいのか分からずおろおろしてしまう私たちに対して、聖書は、親にとっての最高のモデルは神さまですよ、と教えている点なのです。
つまり、本当の親心の持ち主である神さまが、私たちに、親子関係にもっとも必要な、子どもを育む心、大切にする心を教えてくださるのです。そして、教えるだけでなく、私たちにその心を与えてくださるお方だ、ということです。
いかがでしょう? 私たちにとって大切なことは、知識やスキルと共に、心ではないでしょうか。いくら知識やスキルがあったとしても、それを子どもたちや周囲の人たちのために使いたいと思う心がなければ、宝の持ち腐れです。逆に、心があっても、知識やスキルがなければ、その思いは空回りしてしまうでしょう。
ですから、ここで問題にしたいのは、神さまは、具体的に愛する術を教えてくださると共に、私たちに、人を大切にする心をも与えてくださるお方なのだ、ということなのです。
このことを前提にして、イエスさまは、ここで「黄金律」つまり「ゴールデン・ルール」と呼ばれる、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」という教えを、私たちの親子関係、人間関係を豊かにする根本的なルールとして示してくださったのです。つまり、子どもに対しても、そして隣人に対しても、この精神で接すべきです、と教えてくださっているのです。
自分が困った時、私たちは人から助けてもらいたいと思うように、人様が困っていたら、その人がしてもらいたいと願っていることは何だろうか、と思いやる、察してあげる。そして出来ることをさせていただく。「これが隣人愛であり、これこそが、聖書を一言で言い表す教えなのだ」とイエスさまは語られたわけです。
何故なら、人を大事に思い、人を大切にするという隣人愛の根底には、この神さまの親心があるからです。
こうしたことを知った上で聖書の言葉を読む時に、聖書には、私たちにとってほんとうに必要な具体的な指針がたくさんあることに気づきます。そして、そのどれをとっても、そのベースには、神さまには本当の親心があり、私たちがその親心に触れる時に、私たちも同じ思いを持って、子どもや周囲の人たちに接することが出来るのだということを伝えているのです。
私に対する神さまの親心に触れる中で、私たちの心に、不思議と人を大切にしたいと思う思いが育まれていくのだ、と聖書は教えるのです。
説教の準備をしながら、先週の木曜日、その日は「こどもの日」でしたが、その朝に配信した「みことばメール」のことを思い出しました。そのメールに、精神科医の海原純子さんがその著書の中で、子育てのことについて書いてある文章を紹介しました。「自分の生き方は、自分で決めたい。親だからといって子どもの進路を決定してはいけない。とりあえず学歴を、とりあえずいい会社へ、とりあえず高収入の道を、という親の期待が子どもの人生を空虚にすることも多いのだ。希望しない道に進んで、空虚さを抱える悩みにかかわってきた私としては、親は子どもが本当にしたいことを見つけ、実現できるように手助けしてほしいと思うばかりである。そのためには、まず親自身が納得いく人生を送る必要があるのである。」(『大人の生き方、大人の死に方』)
子育てのことを考えると、常に子どもに焦点が当たりますが、実は、その背後に親自身の問題が見え隠れしているのです。心が充電されて初めて放電することができるように、私たちの心が神さまの愛によって温かくされて初めて、人に対して温かくできるということです。

Ⅳ.神さまに愛されている者として

今日は、「黄金律」と呼ばれる聖書の言葉を取り上げました。それは、自分自身が、まずは神さまの親心に触れ、神さまに大切にされていることを知らされていく、そして、そのことがこの「黄金律」を自分のものとして実行する力となるということです。
最後に、この「黄金律」の支えとなる聖書の言葉をご紹介して終わりにしたいと思います。ヨハネの手紙第1の4章19節の御言葉です。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」お祈りします。