2016年5月22日夕礼拝
和田一郎伝道師
詩編27編11~14節
ガラテヤの信徒への手紙1章6~10節
Ⅰ.似て非なる、紛らわしいもの
本物が良い物であればあるほど、紛らわしい偽物がでてくるのかも知れません。
昔、中国の孔子が弟子たちに言った言葉があります。「私は、外見が似ていて、中身が全く違うものを憎みます。たとえば、口先のうまい人を憎むのは、その言葉が正しい筋道に似ていて紛らわしいからです。言葉を上手に扱う人を憎むのは、間違っていても、まるで真実のように聞こえて紛らわしいからです。紫のような中間色を憎むのは、正色である朱色に似ていて紛らわしいからです。そして、偽善者を憎むのは、ほんとうに徳のある人に似ていて紛らわしいからです。」
今日は、ガラテヤ書1章から「似て非なるもの」について、考えたいと思います。善と悪がはっきり分かれているものであれば、分かりやすいものですが、この世にある善と悪は、得てして見分けが着きにくい、紛らわしいものです。これがなかなか厄介です。先程の孔子はこれを憎むと言いましたが、パウロはこれを「呪われるがよい」と表現しました。ちょっと尋常ではない怒りの表現です。パウロが怒りの矛先を向けたのは、イエス・キリストの福音と「似て非なるもの」で、とても厄介なものでした。パウロは通常、手紙の書き出しでは、差出人である自分について「使徒パウロ」と名乗りました。続いて受取人、挨拶を書いて、次に感謝の言葉が書かれます。ローマ書でもコリント書でも、出だしの挨拶のあと神への感謝、または頌栄や神への賛美の言葉が出て来ます。ところが、ガラテヤ教会宛の手紙では、そのようになっていません。神への感謝どころか「あきれ果てています」と書かれています。パウロは神様への感謝する、いとまを惜しんで「あきれ果てて」とありますが、ニュアンスとしては「おおいに驚いている」と言ったニュアンスの方が近いと思います。それほどガラテヤ教会の状況は、あっという間の変化で深刻でした。この後に書かれたコリントへの手紙を見ますと、コリント教会でも問題が山積みしていましたが、そのほとんどが道徳的問題でした。一方でガラテヤ教会の問題は神学的な問題で「福音理解」の問題でした。パウロにとっては道徳的問題以上に、はるかにこの神学的「福音理解」の方が重大なことでした。もちろん安易に比較することは、できません。神学も道徳的問題も大切です。どちらも、キリスト教が誕生して20年程しか経っていない、当時の教会が抱えていた問題です。
これは、私たち日本の教会についても、よく言われることですが、日本の教会は道徳や、一般常識のような事柄には敏感ですが、神学に関わることは鈍感なことが多いというものです。日本人の高い倫理観が現れているのかも知れませんが、一般常識に関しては強い反応を示す傾向にあるようです。
パウロが福音の真理という神学的な課題に固執して、真理を死守しようとする姿が異様に感じられるようでしたら、私たちは信仰共同体の一人として、自分の立ち位置を再確認する必要が、あるかも知れません。クリスチャンがクリスチャンであるために、キリスト教会がキリスト教会であるために、何が重要であるかと問われれば、それはキリストの福音そのものに他なりません。一般的に教会とかクリスチャンと聞くと、まじめで品行方正な人を思い浮かべるかも知れません。しかし、まじめで品行方正であることで、クリスチャンになるわけではないですね。キリストを信じて、福音の恵みに生かされてこそ、キリスト者となるのです。キリストの福音は唯一絶対的なものです。それは「神様は全ての人を、愛して下さっている。けれども、私たち人間は、罪をもっているが故に神から離れています。そこでイエスキリストが地上に来られて、私たちのために死なれて、キリストを信じる事で、神の愛を経験し、永遠の命を得る事ができる。そして、今現在、生かされているように、神の国に生きることができるようになった。この、恵みを、良い知らせ、福音として受け取っています。この神の絶対的な福音に、何かを付け加えたりすれば、それはもはやキリストの福音ではありません。似て非なるものです。この世の中には似て非なるものが溢れています。
Ⅱ.福音だけではなく、割礼も・・律法も・・
7節で、ガラテヤ教会に忍び寄ってパウロの伝えた教えを覆そうとしたある人たちは、キリストの福音に加えて、ユダヤ教徒と同じように割礼という、しるしを施すこと、律法を守ること。この2つを加える必要があると論じました。見ようによってはほんの紙一重の差で、重大な違いだとは思えないかも知れません。もともとユダヤ教徒であった人は、割礼も律法も守って当たり前にしてきました。しかし、異邦人の中でクリスチャンが増えたことで、議論が始まったのです。どちらもキリストを主として信じている、という事においては共通しています。しかし、割礼と律法を守らなければ、一人前ではない。クリスチャンであるかも知れないが、二級のクリスチャンに過ぎない。他のユダヤ人クリスチャンのように、一級のクリスチャンになりたかったら割礼を受けて、律法を守らなければならないと、主張したのです。割礼は、神と神の民との契約のしるしであり、律法は神が、神の民に行動規範として与えたものですから、見方によっては筋が通った話しです。これに対してパウロは、キリストの福音に、割礼と律法を加えるならもはや、それは似て非なるもので、もはや福音ではないと、批判しています。恵みの絶対性、十字架の絶対性が脅かされるからです。8~9節でパウロは全く妥協する余地もなく、断固たる姿勢を通します。ここでは語られる人物を問題にしていません。誰であっても、パウロであっても、仮に天使であっても関係なく、語られる福音の中身が問われています。私たち人間は語る人物が立派だとか、権力があると、その語られる中身いかんによらず、人物に影響されることがあります。
Ⅲ.「呪い」と「祝福」
パウロたちが以前ガラテヤに行って伝えた、唯一の正しい福音に、変えたり、継ぎ足すような教えならば、「呪われよ」と言い放ちます。パウロがいう「呪い」とは、現代を生きる私たちにはあまり馴染みのないものですが、旧約聖書の申命記30章1~3節に記されているのですが、「呪い」とは「祝福」の反対です。「わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。」(申命記30章1~3節) 私たちは祝福を求めるわけですが、その反対の「呪い」も私たちの前に置かれているものです。「呪い」とは「裁き」と理解してもいいかもしれません。旧約聖書で、イスラエルの民をエジプトから救い出したモーセは、自分が死ぬ直前に、川の向こうに見える約束の地を、遠く眺めて、民に向かって「祝福」と「呪い」について、イスラエルの民が神に忠実であれば祝福されるが、反対に、神に逆らい忠実でないのであれば、呪いが下ると語ります。そして、モーセが予期したように、イスラエルの民は、神様に逆らい、忠実を通すことができませんでした。そして、バビロン捕囚という、裁きを受けることになります。祝福とは裏腹に、呪いがありました。
パウロは、ガラテヤの教会の信徒たちが、影響されつつある、似て非なる福音。一見、筋が通っていそうな付け足された福音などは、呪いの対象だと、切り捨てたのでした。唯一の福音は、ユダヤ教的キリスト教ではない。また、ユダヤ教徒にもキリスト教徒にも気に入られる信仰でもありません。確かにそれらは似ているかも知れない。似ている要素があるからこそ、はっきりと区別しなければならなかったのです。律法も大切にしようよ、割礼もずっとやってきた事から、大事にしよう、と言ったらバランスが取れているように聞こえます。しかし、人から出て来たものに真理などはないのです。
Ⅳ.信仰の成長などはない?
かつて榎本保郎という牧師は、自分の中で「信仰の成長などはない」と言いました。信仰は日々与えられるもの、ですから、自分の中で生まれた変化は、人から出たものです。信仰は与えられるものですから、人間には自分を救う為に、出来ることなど何もありません。何かの功績を積むことによって信仰が成長したり、罪が許されるという事もないわけです。
ただ、キリストの恵みにすがるのみです。イエス・キリストが、人の姿をとって地上に来られて、私たちの罪を担って、私たちに代わって十字架の上で、「呪われた」者となって下さいました。私たちの救い、私たちの恵みは、この十字架の救いによるものです。