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主日共同の礼拝説教

神のことばが持つ力

2016年6月5日
松本雅弘牧師
イザヤ書55章8~13節
マタイによる福音書8章5~13節

Ⅰ.ガリラヤ湖畔の町カファルナウム

今日の聖書箇所の舞台はカファルナウム、ガリラヤ湖畔の町です。今年1月のイスラエル研修旅行の際に、このカファルナウムにも行ってきました。そこには1つのユダヤ教の会堂跡がありました。イエスさまが安息日に説教をされた会堂です。そこから道を隔ててすぐ近くに民家の遺跡があり、そこから漁の道具が発見されたということで、その家が漁師ペトロの家である可能性が高いと言われていました。今日の聖書個所は、そのカファルナウムで起こった出来事です。

Ⅱ.あらすじ

ここに1人の百人隊長が出てきます。カファルナウムはユダヤ人の町なのですが、当時はローマ帝国に支配されていた関係上、ローマ兵が駐屯していました。ここに登場する百人隊長はその小部隊の隊長として任務についていた人だったと思われます。
その百人隊長の僕が中風で家に寝込んでいて、ひどく苦しんでいたのです。百人隊長もイエスさまの噂を耳にしていたのでしょう。そのイエスさまが自分たちの町、カファルナウムにいらっしゃる。そのお方だったら僕の病気を何とかしてくれるに違いない、そうした信頼をもとに、彼はイエスさまに懇願したわけです。
すると、イエスさまは百人隊長の求めに応じ、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言ってくださったのです。ところが、百人隊長はイエスさまの申し出を「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」と言って断ってしまうのです。
これには、少なくとも2つの理由があったと思います。 まず第1の理由は、彼自身が謙遜な人だったということでしょう。ルカによる福音書にある同じ出来事を記した箇所を読みますと、ユダヤ人の長老がイエスさまとこの百人隊長の間に入って、仲を取り持つかたちになっていました。カファルナウムの長老が彼に代わってイエスさまにお願いに上がるというわけですから、この百人隊長は、駐屯地カファルナウムの人々から受け入れられていたことが分かるように思います。それは裏を返すと、敵国ローマ人であったにもかかわらず、助けてあげたいと思わせるような人物、それが今日ここに登場する百人隊長だったということでしょう。
そして2つ目の理由は、この百人隊長自身が異邦人であったということです。ご存じのように、当時、ユダヤ人と異邦人との間には私たちの想像以上に大きな隔てがありました。勿論、この地域を実質的に支配していたのはローマ帝国であり、この百人隊長はこの時、その権力をバックにカファルナウムに駐屯していた部隊の長です。でも、カファルナウムにおいて百人隊長はあくまでもマイノリティーでした。しかも異邦人に対して宗教的優位性を信じて疑わないカファルナウム在住のユダヤ人と接する時に、自分たちローマ人はイスラエルの神の前に、第2級の人間に過ぎないかのような錯覚を持たされていたのではないかと思います。
この時お願いした相手はユダヤ人であるイエスさま、そしてお願いしている自分は異邦人です。ですから、百人隊長としては、願いを受け入れてもらう意味でも、「皆さんの基準からしたら、私は異邦人であり、祝福の外にいる者なので、イエスさまをお迎えするような値打ちなどない者です」と語ったのだと思います。
このように百人隊長は、「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者」ではないのだと分かっていても、一方で、僕が死にそうなのです。そうした中で、彼はイエスさまに何と願ったのでしょうか。それは、「ひと言おっしゃってください」ということでした。
つまり、「神さまの権威の下にあるあなたが、神さまの言葉を、権威をもって語られるならば、私の部下の病気は必ず癒される」と、彼は確信していたということなのです。イエスさまは、この百人隊長の信仰を賞賛します。そして聖書を見ていくと、この百人隊長の信仰のとおりのことが起こったのでした。

Ⅲ.神のことばが持つ力

さて、今日の聖書箇所を通して何を教えられるのでしょうか。第1は今日のテーマ、「神の言葉が持つ力」です。
今日お読みした旧約聖書イザヤ書には、次のように書かれています。「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす(55:10~ 11)。」これが神の言葉が持つ力です。この力を信頼できるかどうか、それが、私たちの側に与えられている課題です。
今、私はとても大切なことをお伝えしたと思います。私たちの側の受け取り方次第で、神の言葉が力を発揮できないことが起こり得る、と。
それはどういう時でしょうか? そのヒントがイエスさまの、「あなたが信じたとおりになるように」という言葉にあると思うのです。
この事との関連で思い出す聖書の出来事があります。ある時、イエスさまは故郷ナザレに里帰りされました。その日はちょうど安息日でしたので、イエスさまも会堂に入り、そこで聖書から教えを始められました。すると、人々は驚きました。何に驚いたのかと言えば、小さい頃からよく知っている「イエス」が、こんな立派な教えを語るようになった、そのことに驚いたのです。自分たちが知っているイエスと、今、自分たちの目の前に立っているイエスが、余りにもかけ離れた存在であることに驚いたのでした。
人々は言いました。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」(マタイ13:54~56)
ナザレの人たちは、自分たちの理解の範囲内にイエスさまを押し込めようとしたのです。この結果、他の町や村とは違い、イエスさまはナザレにおいて力を発揮することができなかったのです。

Ⅳ.執り成しの力

そして、今日の箇所からもう1つのことをお話したいと思います。それは、執り成しの祈りの力ということです。ここでイエスさまは百人隊長に何とおっしゃったでしょうか。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」と言われたのです。
そのように主が力あるお言葉をかけられると、本当に不思議なことなのですが、物理的に遠く離れたところにいた僕の病気が癒されたのです。つまりイエスさまのお言葉どおりになったのです。
ここで私たちが注意しなければならないことがあります。僕の癒しが僕自身の信仰によったのではなく、百人隊長の信仰によって引き起こされた点です。つまり、僕の癒しが百人隊長の「執り成しの祈り」によったということです。
今日のイエスさまの言葉によれば、他の人の悩み苦しみのために私たちが真剣に祈る時、その本人が信仰を持っているか、持っていないか、そのことに関係なく、主はその祈りを聞いてくださる、ということです。
この事実は、信仰を持たない人に取り囲まれて生きている今の私たちにとって、大きな慰めであり、励ましなのではないでしょうか。しかも聖書によるならば、内に宿る聖霊が、私たちの本当の必要を知って、今、このタイミングで、一番適切な執り成しの祈りをしてくださると約束しているのです。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:26)
そして、そればかりではありません。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ローマ8:34)
イエスさま自らが、今も、父の右の座におられ、執り成しておられることを、聖書は伝えています。
私たちは、力ある神の言葉を信じ、御子と御霊、そして主にあるお互いの執り成しに支えられながら、この新しい週も健やかに祈りの道を歩むことが許されている。その恵みに感謝しながら、新しい1週間へと派遣されて行きたいと思います。お祈りします。