2016年6月12日
ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
コリントの信徒への手紙一13章4~8a節
Ⅰ.はじめに
以前、ある方がこんな話をしてくれました。息子さんから通知表を見せられた時のことです。「どれどれ、国語が3、数学が3、社会が2、ちっといただけないな・・。エーと、理科も2か、もう少し頑張らないと・・・。英語が3、まあまあかな・・。美術が6??!! エッ、何これ?! もしかして、10段階評価!!」。
ある子どもは通知表を見てがっかりする父親に向かって「おとうさん。ぼくの成績が振るわないのは、遺伝のせいなの? それとも環境のせいなの?」と聞いた、というのです。笑い話のように聞こえますが本当の話だそうです。
ところで、子育ての本が世界で一番売れているのが、北アメリカだそうです。しかし、そうした北米の多くの親たちは子育てに迷い、自分たちの無力さを感じている人が多いと言われます。子どもたちの問題行動の原因がどこにあるのか、あるいは、その責任がだれにあるのか悩んでいるそうなのです。でもこれはアメリカ人やカナダ人に限ったことではなく、私たち日本に住む者にとっても同じなのではないかと思います。
多くのプレッシャー、そして精神的ストレスを抱え、そして、大人も子どもも競争原理の中で生きざるを得ない今の時代です。そのような意味で現代ほど、賢い知恵が、親である者に求められ、いや親であるなしに関わらず、今の時代に生きる私たちすべてに求められている、そんな時代はないのではないかと思います。
Ⅱ.聖書の説く 生きていく上での7つの「基本的な必要(ニーズ)」
心理学や様々な学問的な研究、さらにまた私たちが経験的に知り得たことなどを綜合して考える時に、私たちの心の発達に必要な幾つかの基本的な原則があると言われます。それは年齢に関係なく、私たち大人にも等しく必要なことです。ですから人の成長過程で、そうした基本的要素が満たされない場合、その人の心の内側に不安感が残り、一生それを抱えて生きていくか、もしくはあまり健全ではない方法で、満たされなかったものを獲得しようとするのだと言われます。
心理学者K・メニンガーは、「基本的な必要が満たされないとき、人は2つの方向のいずれかへ進む。自分自身の内に引きこもるか、あるいは、これが外へ転じて、他人を攻撃するようになるか、である。」と語っています。
これを受けて牧師であり心理学者であるJ・ドレッシャーが、人が生きていく上で最も基本的なものは、聖書から学ぶ時に7つあると主張し『幼い子をもつ親のための7章』というタイトルの書物にまとめています。
その7つとは、次のようなものです。①大切な存在であることを知らせること、②安心感をもたせること、③受けいれること、④愛すること、愛されること、⑤ほめること、⑥しつけること、⑦神を教えること。
今日は、この7つのうちで基本となる1つ目、「大切な存在であることを知らせること」について、特に注目していきたいと思います。
Ⅲ.大切な存在であることを知らせること
私たちにとって、自分が大切な存在であるということを知るのはとても重要なことです。
ある時、3人の園児が一緒に遊んでいました。初めしばらくの間は、3人とも楽しそうに遊びに熱中していました。ところが、その内の2人が、1人を無視して少し離れたところで2人だけで遊び始めたのです。するとほどなく、独りにされた子がこう叫んだ、というのです。「わたしはここよ。ここにいるのよ。2人ともわたしのことが見えないの?」。
そう叫んだ子は、2人の友だちが自分に対してとった行動について理論的に説明したり、心理学的に分析したりすることは出来ません。子どもですから当然です。でも、その子の訴えは年齢に関係なく、心を持つ人間であれば誰もが覚える心のニーズを雄弁に言い表わしていると思うのです。そのニーズとは、自分の存在に気づいて欲しい、価値ある者として認めて欲しい、というニーズです。
健全な意味で、人が自分は価値ある者だと自覚することは誰にとっても大切なことです。自分は価値のない存在であると思っていたり、自分のことが嫌いであったりする時に、人は安心して自分と仲良く生きることが難しくなります。ではどうしたら自分を大切な存在であると考えるようになれるのでしょうか? それは他人から認められ、評価され、自分がありのままで愛されているという経験を積み重ねることによってです。
こんな話があります。小学1年生の子どもたちが牧場に社会科見学に行きました。牛からミルクがどのようにとられるのかを見学したそうです。見学も終わりに差し掛かった頃、先生が、「ではみなさん、何か質問がありますか?」と子どもたちに尋ねました。すると1人の生徒が小さな手をサッと挙げて、「先生、僕のこの新しいセーターに気づいた?!」と言ったというのです。先生は牛の乳搾りについて尋ねたのですが、この子は自分に注目して欲しかったのです。もしこの時、先生がちゃんと目を向けていなかったら彼は牛乳をこぼすとか、ある種、関心をひくような行動に出て自分をアピールしたかもしれません。
子どもの時代に、自分の存在を認めてもらうこと、自分の価値を認められることがどれほど大切なことなのかがよく分かるように思います。そして、そのことが生涯を通じて、その人の情緒と、心の健康とバランスの基礎を作ることになるのだと思います。
大人である私たちは、どうしたらよいのでしょうか? この点に関して、ドレッシャーは私たちが犯す3つの誤った考え方を指摘しています。
第1は夫婦関係よりも親子関係を優先する過ちです。
A・ネッサーは、「たとえ結婚生活を長く持続できた夫婦であっても、それがもろくも崩壊してしまうとすれば、その最大の要因は、おそらく子ども中心に生活してきたことにあるだろう。」と警告を与えています。
実際に子どもが与えられると、夫、あるいは妻のことよりも子どもを優先しがちです。「子どものために」ということで、夫と妻の関係が後回しにされることが多くなります。
アメリカの場合ですが、自分に対する妻の愛情が薄れていないと感じている夫は、多くの場合、進んで「イクメン」を買って出るそうです。皿洗いや家事を、責任をもって果たそうとするというのです。
誤った考え方の第2は、子ども中心主義の弊害です。これは1つ目の、親子関係優先の延長線上にあるものです。聖書は、家庭では、いつでも夫婦の関係が中心であることを説いています。
そして3つ目は、子どもに年相応以上のことを求めてしまう親のエゴです。私も経験することですが、親は、自分が子ども時代に経験できなかったことをせめて自分の子どもには経験させてやりたいと思うものです。でも冷静になって親自身の心の奥を探ってみれば、実は、子どもを通して、自分が叶えることができなかった夢を叶えてもらいたいという親のエゴかもしれません。
Ⅳ.愛という名の贈物
では逆に、子どもが親や大人との関係の中で、自分が大切な存在であるということを知るためには何が大切なのでしょうか。
先ほどのドレッシャーは次の7つを挙げていました。
①親の自分自身に対する態度、②子どもに家事を手伝わせること、③子どもを人に紹介すること、④子ども自身に話をさせること、⑤子どもに選択をさせること、⑥子どもと一緒の時を持つこと、⑦子どもに任せること、です。
今日は、コリントの信徒への手紙一の13章の言葉を読ませていただきました。ここを見ますと、愛という言葉の意味が、様々な表現で言い換えられています。
子どもを愛するということ、それは、子ども自身が、自分は大切な存在であると受けとめるのを助けることだ、と言い換えることができると思うのです。不思議なことですが、私たちは人に優しくされると人に優しくなれるのです。夫が妻に愛されていることを感じると、その夫は「イクメン」に変えられていくわけです。
ドロシー・ブリッグスという心理学者が、 26年にわたる臨床経験を踏まえて、『子どもと自己存在価値―人生のかぎ』という本を書き上げ、その結論のところでこう述べています。「子どもたちに対する最大の贈物は何であろうか。それは、自分自身が好きになるための手助けをしてやることである」と。これが愛ですね。
今日お話したことは、聖書のメッセージです。私たちの神さまが、私たちに与えてくださった最大の贈物が愛だ、と聖書は語ります。私たちがその神さまの愛に触れる時に、初めて自分を愛する人になり、自分をあるがままに受けとめることの出来る力をいただくのです。そして、それが、子どもたちに対しても、周囲の人に対しても、祝福へとつながる不思議な力となるのです。この神さまの愛という名の贈物を、ぜひ、ご自分のものとして受け入れていただけたらと願います。お祈りします。