2016年6月26日夕礼拝
和田一郎伝道師
創世記28章13~15節
ガラテヤの信徒への手紙2章1~10節
Ⅰ.一致しなければ無駄になる
2章1節は「その後14年たってから」と始まります。サウロがダマスコ途上で、復活したイエスに出会ってから14年ということのようです。あるいは、初めてパウロがエルサレムを訪れてから14年という意味かもしれません。どちらにしても、パウロは同労者バルナバと一緒に、若いテトスを連れて、エルサレムに上りました。今回のエルサレム訪問のおもな目的は、この2節に明確に書かれています。「自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。」
パウロはこれまで、タルソやアンテオケで、福音を宣べ伝えてきました。1節にあったように約14年もの間、宣教してきました。イエス・キリストが救い主であること、ユダヤ人だけでなく、すべての国民にも告げられていて、もはや割礼をしたり律法に縛られる必要がないという福音でした。この事は、確かにキリストの啓示、父なる神がパウロの前にイエス・キリストを示してくださった、直接、語りかけて下さった、そのことが最重要です。しかし、パウロの宣べ伝えているこの福音について、エルサレム教会の人々と一致しなければ、パウロの宣教の働きは将来、無駄になりかねません。
2節は「意見を求めました」と、ここでは訳されていますが、英語の聖書などでは(make sure. To be sure)、「念のため」「確認する」といった表現です。前後のパウロの言動を見ていても、エルサレム教会に意見を求めたり、お墨付きをもらうような意図ではないと思います。あくまでも、自分の「してたこと」「していること」を提示して、それが彼らも一致しているか? その確認が、この時必要だったのです。
パウロは一回目の伝道旅行に行った結果、多くの異邦人のクリスチャンが起こされていきました。もし、パウロの伝えている福音理解が、否定されてしまったら、それまで信じた人たちが、正規のクリスチャンではないなどと、言われる事が起こりかねません。実はその具体的な対象になっているのが、一緒に連れて行ったテトスでした。テトスはパウロの伝道中に回心したギリシア人です。のちに「テトスへの手紙」を送られた、パウロの片腕となった人ですが、ギリシア人ですので、ユダヤ人のように割礼を受けていない人です。このテトスを連れて、エルサレム教会へ訪れていました。伝統的なユダヤ人は、割礼をしていない者は神に背く者だと思って生きてきました。しかし、テトスを連れて行くと、3節で「しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。」というのが、エルサレム教会の反応でした。ここで議論の焦点になるのは、ユダヤ教という生い立ちを持たない異邦人は、異邦人のままでよいのですか? それとも、割礼を受けて律法を守る、ユダヤ教徒にもならなければいけないのですか? という問いです。
パウロは、異邦人キリスト者は異邦人のまま、とどまっていてよい、いや、とどまっていなければならない、というのが主張でした。
このガラテヤ書のテーマは「福音の真理」です。ここで改まって福音の真理などと言うと、難しいことだと聞こえるかもしれません。ですが、その意味はいたってシンプルです。キリストを信じさえすれば、いかなる罪人も救われる。神様の前で正しいとされる。これが福音のすべてです。ところが、人間というのは、こんな単純でシンプルな福音ではかえって裏があるのではないか、などと思ってしまいます。今でも、この真理以外に、品行方正にならなければならないとか、常識をわきまえなければならない、などいろいろ付け足しや、差し引いたものが見え隠れします。真理というものはシンプルでハッキリしたものでしょう。それに、付け足したり引いたりすると、輪郭がぼやけます。
曖昧になってしまっては、いけません。私たちはただ、キリストの十字架による救いという真理を、受け取りさえすればよいのです。この結果、テトスに割礼だけではなく、どんな義務も求められなかったのです。
Ⅱ.「彼らは知った」・・・何を?
7節「彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。」とあります。7節最後の「知りました」は、何をエルサレムの人たちは知ったのでしょうか?
話の流れからすれば、パウロが宣教の現場でしてきたことを、エルサレムの人々に示した結果、彼らは知った、となります。ペトロには割礼を受けた人々、つまりユダヤ人に対する宣教が委ねられている。一方で、パウロの話しを聞いたその場の人たちは、「このパウロという男には、ペトロとは別に、割礼を受けていない、ユダヤ人以外の人に対する宣教を委ねられているのだな」と言うことです。「このパウロは『神』に委ねられた人なんだ」。そのことを、彼らは、知りました。9節に「彼らはわたしに与えられた恵みを認め」とあって、「与えられた恵み」という意味は、神に与えられた「使徒」という称号のことです。12人の弟子は、12使徒と呼ばれますが、「使徒」という称号は、イエス様から直接任命される、特別な人です。ダマスコの途上でイエス様に直接「使徒」としてされた事を、ヤコブとペトロとヨハネ達は認め、一致のしるしとして右手を差し出しました。
パウロは、エルサレムの彼らが受け入れたことで、ほっとしたのではないでしょうか。もし、ここで認められなかったら、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者は分裂していたかもしれません。パウロには確信がありました。ですが、このエルサレムとのギャップがあるのではないか? という懸念を持ちながら、14年間、宣教の現場で、走りながら考えてきたのです。自分には確信がある。あるがゆえに、分裂を引き起こしてしまっては意味がなくなるということです。
パウロはエフェソ書で、キリスト教会の一致について、このように語っています。
エフェソ4:2~6「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」
Ⅲ.まとめ
「教会はキリストの、身体なのです!」 と定義したパウロは、体は一つ、霊は一つ、信仰は一つ とされました。パウロは異邦人クリスチャンが増えるにつれて、考えたのです。エルサレムの教会との一致が必要なことです。二千年前の初代教会においては、パウロがエルサレムに行き、一致が保たれました。しかし、ここでは主要な人々の合意でしかありませんでしたので、やはり草の根レベルでの一致にはまだ時間がかかったのです。このあとにも、教会の一致には、エルサレム会議を開くなど、まだ時間を必要としました。
パウロの言葉を借りれば、「高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持つこと。愛をもって互いに忍耐し、霊による一致を保つように努めれば」教会の一致は保たれるはずです。パウロは、無駄なことをしているのではないか?と、走りながら考えました。そのパウロの宣教の働きを支えたのは、信じるものは人種に関わらず、すべての人は救われるという、福音の真理でした。人間は神様が御子キリストを、地上に送ってくださった、その理由である福音の真理に何かを足したり、差し引いたりしてはいけないことを、心に留めたいと思います。信仰は一つ人種は問わない。すべての人は信じることで救われる。この輪郭をしっかりとさせなければなりません。そのベースにあるものは、イエスキリストの十字架です。