カテゴリー
主日共同の礼拝説教

キリストに従う

2016年7月3日
松本雅弘牧師
イザヤ書35章1~10節
マタイによる福音書8章18~22節

Ⅰ.「高価な恵み」と「安価な恵み」

ナチ・ドイツに対する抵抗運動で殉教したボンヘッファーは「高価な恵み」と「安価な恵み」という言葉を使って、神さまがくださる恵みに対する私たちの勘違いを鋭く指摘しています。
ボンヘッファーは「安価な恵み」は主に従うことなき恵みで、「高価な恵み」とは、私たちをキリストへの服従へと招く恵みだと語っています。
今日与えられている聖書箇所から、イエスさまに従うことについて、ご一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.「安価な恵み」―神の恵みを利用して自己実現をはかる

今日の箇所の出来事が起こった場面は、山上の説教を終えて山から下りてきた時、そこで、イエスさまは次々と病人を癒され、また悪霊に取りつかれた人を癒す御業をなさった直後の場面です。
多くの群衆が、イエスさまの周りを取り囲んでいるような状態です。ですから、この時こそ、宣教における絶好のチャンスでした。ところがイエスさまは、弟子たちに向かって、「向こう岸に行くように」とお命じになったのです。
何故でしょうか? 実はここにボンヘッファーをして「安価な恵み」、「安っぽい恵み」と言わしめた理由があるように思うのです。
ボンヘッファーは次のように語ります。「安価な恵みとは、とりも直さず、代価のいらない、コストのかからぬ恵みのことである。・・・安価な恵みとは、われわれが自分自身で手に入れた恵みである。安価な恵みとは、主に従うことなき恵みであり、十字架なき恵みであり、生けるイエス・キリストなき恵みである」と。
十字架におかかりになる前に捧げた祈りの中で、イエスさまは「永遠の命」を定義し、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と祈られました(ヨハネ17:3)。
イエスさまは、「永遠の命」とは、単に時間が物凄く長いということではなく、父なる神さまや御子イエスさまを知ること、言い換えれば愛すること、そのお方との愛の交わりの中に生かされることだ、と理解しておられたことが分かります。そのように考えますと「キリストに従う」ことは、キリストとの生きた関係の中に招かれることであり、ただキリストの御手から零れ落ちる様々な「ご利益」に与るために付いて行くのとは違うということなのです。実は、このことを明らかにするのが、この後に出てくる2人の人とイエスさまのやり取りでした。
最初の人は律法学者です。彼はイエスさまに近づき、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」と言いました。ところが、この申し出に対して、イエスさまは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われ、弟子としての覚悟を聞かれました。
次の人は、すでに従い始めていた弟子であったようです。この彼は、即座に応答する代わりに、「まず、父を葬りに行かせてください」と願ったのです。それに対してイエスさまは、「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言われました。
これは何かとても厳しい言葉のように聞こえます。彼はイエスさまの招きを断ってはいません。ただ父親が死んでしまった時なので、葬式を済ませてからにしてくださいと願ったのです。ところがイエスさまは「わたしに従いなさい」とお命じになり、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」とお語りになりました。

Ⅲ.愛の主イエス・キリストの語られた言葉だからこそ

土曜日の朝でしたが、教会員の姉妹からお電話をいただきました。その方の大事な友人が召され、土曜日、翌日の日曜日にお葬式に行くので朝の礼拝に出席することが出来ない。ただ、もし疲れていなければ夕礼拝に出席しようと思う、という内容の丁寧なお電話でした。
私はその方のお話をお聞きしながら、このイエスさまの言葉が心にかかりました。でも電話口で、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」とは言えませんでした。電話を切った後、〈言えなかった〉という牧師としての小さな敗北感のようなものと共に、一方で、〈事情を知れば知るほど言えないよな〉と自分の行動を正当化するような、言い訳がましい思いと、いずれにしても、何か複雑な気持ちでおりました。
そのような中で、私の心の中に浮かんだのは、「では何でイエスさまは、こんな厳しいことを、この人に言えたのだろう」という問いでした。皆さんは、どう思われるでしょうか?
昨日、説教の準備をしながら、ずっと考えていました。そして、ある牧師が語っている言葉を見つけたのです。その牧師曰く、「この言葉はイエス・キリストの言葉だ」。私は答えをいただいたように思いました。いかがでしょう? ここでこの言葉をお語りくださったお方は、イエスさまです。私たちのことを誰よりも愛し、ご自分の命を差しだすほどに愛してくださっているイエスさまです。常に私たちの最善を思い、行動し、語りかけてくださるお方です。そのお方の言葉なのです。
勿論、この言葉だけを取り上げるならば言われた方は突き放されたように感じたかもしれません。でも、彼はこの言葉を語る主の御心を知れば知るほど、その真意が心に響き、前とは全く違った意味をもって受けとめていったのではないかと思うのです。
誰もが直面しなければならない死の問題を、この方こそ、最も深い愛に満ちて、他の誰もがなし得ない仕方で解決してくださった救い主キリストだからです。この言葉は、そのお方が語っておられるということなのです。
牧師をしていますと様々な方たちの、死の場面に立ち会います。そのお方が召されたとの連絡が入ると、なるべく早くそこに駆けつけます。そして聖書を開き、臨終の祈りを捧げます。そして教会に戻り、ご遺族と葬儀の打ち合わせを始めるのです。
先週も全くそうでしたが、そうした場面でいつも思うことは、召された方のために、結局のところ自分は何もしてあげることが出来ないということです。仏教では、亡くなった人が成仏するかどうかは遺族の供養にかかるといいます。
でも聖書はそうしたことを一切教えていません。亡くなった方は私たちの手の届かないところに移ってしまわれた。ですから葬儀の打ち合わせの時にも祈るのですが、牧師として出来ること、また私たちが出来ること、それは、せめて心を込めて葬りの式をさせていただくこと、それ以外にないのです。
聖書の教えによれば、召された人は私たちの手の届かない神さまの領域に移ってしまわれたということです。ですから、この時イエスさまが「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言われたのは、「私が責任をもって引き受けるから、私に委ねなさい。あなたは心配しないでいい」という意味だったのではないだろうかと思うのです。そうした福音の教えを踏まえた上で、イエスさまは敢えて「わたしに従いなさい」と招かれるのです。

Ⅳ.「高価な恵み」-服従へと導く恵み

私はこの説教の冒頭で、ボンヘッファーの「安価な恵み」と「高価な恵み」のお話をしました。「安価な恵み」とは主イエスに従うこと抜きの恵みであり、それに対して「高価な恵み」、これこそが真の神の恵みですが、それは私たちをキリストに従う者へと造り変える恵みである、とボンヘッファーは語るわけです。
私たちが神さまの愛の恵みに触れ続ける時に、必ず、私たちの心には、そのお方に応答し、そのお方に委ね従って行きたいという思いや願いが与えられていきます。
聖書は繰り返し、私はあなたを愛していると語ります。こうした神さまの思いに触れていく時、私たちは、もはや自分を簡単には安売りしない、いやできなくなるのです。
ボンヘッファーはまさにこのことを、「高価な恵み」という言葉で説明しているのです。
「高価な恵みはイエス・キリストの招きであって、それを聞いたとき、弟子たちは網を捨てて従うのである。高価な恵みは、繰り返し求められねばならない福音である。それは、祈り求められねばならない賜物であり、叩かれねばならない扉である。それは、服従へと招くがゆえに高価であり、イエス・キリストに対する服従へと招くがゆえに恵みである。それは、人間に生命をかける値打ちがあるゆえに高価であり、またそうすることによって人間に初めて生命を贈り物としてあたえるゆえに恵みである。」
私たちも、羊飼いなる愛の主イエスさまから、「従いなさい」と招かれています。
私たち羊にとって、イエスさまこそが私の羊飼いであり、私たちを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださるお方です。そしてそのお方は、御名にふさわしく、正しい道に導いてくださるのです。そして、その道こそが、そのお方の羊である私たちにとっての最善の道、本当の意味での祝福にいたる道なのです。
「わたしに従いなさい」と招かれるイエスさまに付いて行きたいと心から願います。
お祈りします。