2016年7月24日夕礼拝
和田一郎伝道師
詩編27編13~14節
ガラテヤの信徒への手紙2章15~19a節
Ⅰ.前節までのあらすじ
前回、パウロのいるアンティオキア教会に、ペトロがやって来て、人々と一緒に食事をしていたという箇所を見てきました。ペトロはユダヤ人でしたが、異邦人とも一緒に、分け隔てなく食事をしていたのです。ペトロがアンティオキアに来て異邦人と一緒に食事をすることは、ユダヤ人と外国人に分け隔てなく、福音が与えられることを伝えるためには、大切なことだった訳です。それなのに、ユダヤ人主義者の目を気にして、食事の席から離れてしまったペトロ達を、パウロは厳しく問いただした事を、11節から14節のところで確認しました。パウロは外国人に、大事な事を伝えるなら、その外国人のようになって接します、ユダヤ人が相手ならユダヤ人のように、弱い人に対しては弱い人のようになって話します、どんな人にも、その人のようになって接します、なぜならそれは、福音を一緒に、分かち合いたいからだ、と考えていました。
Ⅱ.義とされる
しかし、15節の所でパウロは「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。」と書いていて、「おやっ」と思います。パウロはこれまで、「すべての人は罪人だ」とか「全人類が罪を犯した」と言っていたはずです。しかしここはユダヤ人主義だった立場から見た表現だと言えます。かつてはそのような見方を異邦人に向けていました。パウロやペトロのようなユダヤ人キリスト者は、もともと律法を守るように育てられましたから、偶像の神を崇拝している異邦人とは根本的に異なる、ユダヤ人は本当の神に選ばれた民族であると自負して育ちました。しかし、そのユダヤ人であるパウロもペトロも、キリストを信じて義と認められました。
16節には「義とされる」とあります。「義」と言っても、日常私たちが使う言葉ではありませんが、聖書の中では大事な言葉です。「正しさ」と言っていいと思います。「神様の正しさ」と「人が神様に正しいとされる」という2つの意味で使われます。ただ大事なことは、私たちが正しい事をしようと考えた時、善とか悪を行うというのは、神様との繋がりにおいて「正しい関係」となっているか?という正しさです。旧約聖書では「律法による義」などと使われました。律法を守る事によって、神に正しいとされる事を「律法によって義とされる」と言いました。新約聖書では、「イエス・キリストを信じる信仰による『神の義』、神に正しいとされる」と表現されていて、イエス様を信じさえすれば、父なる神様との関係において正しいとされる、「義とされる」という言い方をします。よく「神の義を求めなさい」と言いますが、「神様から正しい」と認められるように、求めなさい、と言う意味です。そこには何の差別もありません。ユダヤ人でもギリシャ人でも、すべての人がキリストを信じれば義とされます。
Ⅲ.「律法の実行」か?「キリストへの信仰」か?
この2章16節は、ガラテヤ書の中心テーマが書かれている箇所で、パウロがガラテヤ教会の信徒に向けて、言いたかった事の中心がここにあります。
大事な所なので読みたいと思います2:16「 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」
なんとなく分かりにくい文章ですが、「律法の実行」か?「キリストへの信仰」か? 二者択一を示している文章です。もちろんパウロは、律法の実行ではなくて、キリストへの信仰によって正しい者とされるとしています。今を生きる私たちクリスチャンも同じです。律法を守ったわけではありません。ここでは要するに、パウロは何故、キリストを信じたか?と言う事です。先ほども述べましたが、パウロやペトロ達のユダヤ人は、もともと律法を守るように生きて来ました。しかし、それでは救われない、神様に義とされないことが分かったのです。だから「キリストへの信仰」によって義とされるのだ、と16節で伝えているのです。
17節では「キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。」とありますが、どういう意味でしょうか?アンティオキアで食事をしていた時を例としてみると、分かりやすいのではないでしょうか?アンティオキア教会ではユダヤ人も、異邦人と一緒に食事をしていました。もしユダヤ教の視点で見れば、異邦人と食事をする事は律法で禁じられていましたから、キリストを信じたが故に、律法を破って「罪に仕える者」となったように見えます。異邦人と同じ罪人となってしまったのか?キリストは罪を促す存在なのか?いや決してそうではない。先ほど、パウロは二者択一を迫ったと言いましたが「律法の実行」という古い信仰は打ち壊されたのです。もし、また古い信仰を付け足すなら、キリスト者として違反者になってしまう訳です。
パウロは旧約聖書に精通していましたが、イエス・キリストなど救い主でも何でもないと考えていました、ところがダマスコの途上で復活のイエス様と出会ってしまって、イエス・キリストを否定できなくなりました。これはどういうことか?
もう一度旧約聖書を確認して考えたことは、キリストの到来によって、以前とはまったく違う時代が到来したことになる。パウロはそれを悟りました。
Ⅳ.宗教改革者の信仰理解
この後、パウロの、この信仰理解は浸透していって、その後「キリストの真理」として、キリスト教の中心思想になりました。特にパウロがここで、異邦人にも分け隔てなく、同じように救われることを整えたことで、キリスト教はヨーロッパに広まっていきました。しかし、人間というのは同じ誤まちをするものです。500年、1000年もすると、「キリストの真理」に、いろいろと付け足していったのです。それが中世のカトリック教会でした。
かつてのカトリック教会は、政治権力とも結びついていて、教会は権力争いに満ちていました。贖宥状を販売して、信仰よりもお金で罪が赦されるようになってしまいました。お金のある一部の人たちが優遇され、お金のないその他の一般大衆は冷遇される、そんな時代になってしまったのですね。パウロの時代は、信仰以外にユダヤ教の習慣である「割礼」とか「律法」が必要だと言って付け足そうとしましたが、16世紀のカトリック教会は、信仰以外にお金を付け足しました。お金以外にも教会の権威が追加されていったのですが、そんな状況の中で、人が救われるには「キリストへの信仰のみ」ではないか?と、問いただした人がいます。それがドイツにいた、マルティン・ルターという宗教改革者でした。ルターはこの信仰理解を「信仰のみ」と言いました。私たちプロテスタント教会の信仰の根幹となっています。はじめて教会に来た人が、これを聞いたら「それだけでいいの?」と思うかも知れません。ルターの時代にも、そう思った人がいたそうです。
信仰者が信仰心を持つのは当り前だとしても、同時に良い人間でもある、少なくとも、そのように努力する人でなければならない、というのが一般的な感覚ではないでしょうか。勿論それはそうなのですが、パウロもルターも、信仰によって“のみ”救われると言って、それだけを求めるのです。すると自然な感情として“善い行い”はいらないのですかと尋ねたくなります。
良い例がパウロの生き方です。彼は以前、キリスト者を迫害することに熱中していましたから、とても、善を行って救われたとは言えない人です。しかし、彼は救われました。イエス・キリストと出会って、キリストを信じる信仰を持ったからです。
私たちもキリストを知って、キリストを受け入れたことによって、まったく新しい者へと、変えられています。パウロもキリストに出会ったことで、こんな罪深い自分を愛してくださった、神様の憐れみ深さを思い知ったのです。その応答として、イエス様に与えられた異邦人伝道という、困難で重要な働きで応える、という生き方をしました。
Ⅴ.まとめ
同時に、神様は正しい方ですから、「神様の義」とは、御自分の愛する独り子を十字架で犠牲にしなければ、決して全うできないものでした。人間の思いをはるかに越えた、想像を絶する神様の義が、キリストの十字架において成し遂げられました。そこに現された神の義・神の愛に私たちは生かされています。
「律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義・・・」(フィリピ3:9)
これによって生きて行く、これ以外に“善い”道など人間にはありません。それがパウロの確信となりました。そして、私たちの確信として、この1週間も神の義を求めて、踏み出していきたいと願います。