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主日共同の礼拝説教

キリストにある希望をもって

2016年8月7日
松本雅弘牧師
イザヤ書32章15~20節
マタイによる福音書8章28~34節

Ⅰ.主イエスに従う道

先の見えない状況の中でも、主が先だって舟に乗り、主が先だって歩んでくださる。この主の歩みに、弟子たちはいつも後からついて歩いて行きます。主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と言われますが、主が歩まれる道こそ、私たちを生かす道なのです。

Ⅱ.主イエスが歩く道に立ちはだかる悪霊に取りつかれた2人

主イエスと弟子たちを乗せた舟は、嵐の中をようやくガリラヤ湖を渡り切って、向こう岸に着きました。すると悪霊に取りつかれた2人の男が、主イエスの歩いて行こうとする道の真ん中に立ちはだかっているのです。
彼らは非常に狂暴でした。周囲の人々の力では抑えられません。そして、彼自身の内側にあっても、自制やコントロールがまったく効かない状態です。聖書はその原因が悪霊だったというのです。
その2人が、突然、太く低い声をノドの奥から絞り出して、威嚇するようにイエスさまに向かって叫んだのです。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか」と。
悪霊が叫んだ言葉の内容を見ると、とても興味深いことが分かります。1つは、悪霊がイエスさまのことを「神の子」と呼んでいる点です。
ここで注目したいこと、それはマタイによる福音書で最初にイエスさまを「神の子」と認識し、そう呼んだのが、信仰を持った人ではなく悪霊であったという事実です。
マタイによる福音書では、8章以前に誰ひとりイエスさまのことを「神の子」と呼んだ人はいません。16章16節で、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白しますが、それが最初の告白で、それまで全く出て来ていないのです。

Ⅲ.悪霊に勝利するイエス

このことから、少なくとも、悪霊が誰よりもイエスさまの正体を見抜いていたということでしょう。信仰を持った人間ではなく悪霊です。
そしてもう1つ大切なことは「まだ、その時ではない」という言葉です。「その時」という言葉は、聖書の中ではとても大事で、極めて神学的な言い回しの言葉なのですが、分かり易く言えば、「世の終わり」「終末の時」という意味です。
ここで、彼らは「まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか」と言っています。裏を返せば、悪霊たちは世の終わりの時が自分たちの滅びの時、自分たちが滅ぼされる時なのだ、ということを認識していたのです。ですから彼らからしてみたら、こんなにも早いタイミングで神の子が登場してきては困るわけです。だから慌てました。
舟が岸に着くやいなや、彼らの方から会いに来るように墓場から出てきて、「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか」と叫んだわけです。
いかがでしょう。この悪霊が人の身体を利用し、イエスさまと弟子たちの歩いて行こうとする道を塞いでいるのです。道そのものであるお方の前に立ちはだかっています。この道とは村から湖につながる道。漁に出かける時、また漁を終えて帰って行く時に通る道でもありました。イエスさまも舟を岸に着け、その道を、生活の道を通って行こうとしていたのだと思います。ところが、その前進を拒んだのが悪霊に取りつかれた人だったのです。
ところで、私たちの歩む道を塞ぎ、立ちはだかっている、言わば「ゴリアテのような存在」とは何でしょう。ある人にとっては病であるかもしれません。経済的な厳しさや、面倒で複雑な人間関係、また他人には話せない自分自身が抱えている悩みや弱さかもしれません。あるいは、まさに、今、世界のそこここに発生する、話が通じない理屈を超えた暴力やテロかもしれません。
私たちが前に進もうとする道を、そうした「ゴリアテのような存在」によって立ち塞がれる時、私たちはお手上げ状態になり、希望が持てなくなり、絶望的になります。悪霊たちの頭であるサタンは、そのようにして私たちの心を萎えさせていくのです。
でも、どうでしょう。今日の聖書の言葉にもう一度耳を傾けていきたいのです。「ゴリアテのような存在」を操る、背後にある滅びる力、つまり悪霊自身が、実は私たちと共におられる神の子、主イエスさまのことを恐れているという事実です。私たちは、このことを決して忘れてはなりません。それが、どんなに滅ぼす力の強いものであったとしても、そうした力を持つ悪霊自体が、実は、私たち以上に、私たちの側近くにおられる主イエスさまの正体を見抜き、主イエスを恐れているからです。そして、主イエスが本気になって悪霊に向かってお命じになりさえすれば、彼ら悪霊はその命令に逆らうことができないのです。
ここで、神の子イエス・キリストに出会った悪霊は恐れおののきました。そして彼らなりに必死になって助かる道を探ります。それが31節に出てくる言葉です。「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」。つまり、イエスさまにお願いして、はるか遠くにいた豚の群れの中に住処を移させて欲しいと頼んだのです。
その結果、物凄いことが起こりました。豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み溺死しました。実は、この箇所をギリシャ語原文で見ますと、面白い表現が使われています。「崖を下って湖になだれ込み」という言葉が単数形で表現されているのに、「水の中で死んだ」というのは複数形になっているのです。
通常「豚の群れ」は集合名詞です。ですから、集合体を1つの塊と捉えて単数形で表わしているのは間違っていません。ところがマタイは、その同じ豚の群れが溺死したことを複数形で表現しているのです。つまり文法的な誤りを冒してまでも、マタイが強調したかったことは何かと言えば、それは、豚の群れというよりも悪霊たちが滅んだということなのです。
悪霊たちからしたら滅びの時は、まだ先だと思っていました。でも現実に彼らは死んでしまい、主イエスが勝利されたのです。私たちが忘れてはならないこと、それは、悪霊たちは、今はまだ自分たちの時だと思っているのに対して、神の子が出現したことによって、世の終わりの時は既に始まっているという現実です。

Ⅳ.キリストにある希望をもって

その結果、面白いことが起こりました。町中の人々が来て、「ここから出て行ってもらいたい」と頼んでいます。悪霊に取りつかれていた人によって閉鎖されていた湖への道が開放され、この2人が悪霊から自由にされて自分たちの許に帰って来ることができたのです。それはすべてイエスさまのお蔭です。感謝のもてなしをしてもよい程でしょう。でも彼らはそうしませんでした。逆に、「あいつのお蔭で、豚が死んでしまった。大損だ」と目先の損失に目がくらみました。
また、この後「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」という言葉が出て来ますが、まさにこの一連の出来事を、そうした視点で受け取ったのかもしれません。
私たちは、毎週「派遣の言葉」をもって送り出されて行きます。生活の場で、勇気を持ち、善を行うよう努め、悪をもって悪に報いず、気落ちしている者たちを励まし、弱い者たちを支え、苦しんでいる者を助け、全ての人を敬いながら生きていこうと努めます。でもふと思うことがあります。「派遣の言葉」のような生き方って、得な生き方なんだろうか、いや、損な生き方じゃないか、と。あるとき、教会学校の先生が生徒に「いくらバイト代、出るの」と訊かれたそうです。バイト代を貰って教会学校の先生をしている学生はいません。
ですから、町中の者もイエスに、「ここから出て行ってくれ」と頼んだのです。イエスさまに従う生き方は、確かに損な生き方かもしれません。でも、誤解を恐れずに言えば、損をしてもよいのです。
「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」と言われる道をイエスさまの後について歩む者だからです。
いや、その道は損な道どころか、実は命に通じる道であり、神の国につながる道、本当の意味での勝利の道でもあります。
主イエスは、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と言われます。
オセロゲームを想像していただきたいのですが、キリストの十字架と復活において、その4隅にキリストの石が置かれているような状態です。そうした上で、生活の中で私たちは、序盤、中盤と戦っていく。ある時は損をし、負けが続くような状況があります。でも最終盤、すなわち再臨の日にキリストが再び来られ、最後の石を置かれる時に、一瞬の内にすべての石の色がキリストの恵みの色にひっくり返って行く。
そのような戦い、そのような歩みこそ、イエスの歩かれた道を後からついていく歩み、命に通じる道を選ぶ歩みなのです。お祈りします。