カテゴリー
ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教

受けいれること

2016年8月14日
ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
詩編130編1~8節
マルコによる福音書10章13~16節

Ⅰ.「ありがとう」の一言の力

保護観察中の女子中学生がいました。彼女が学校の授業で高齢者施設の介護体験をしたそうです。彼女は最初、嫌々やっていましたが、ボランティアを終えて帰ろうとした時に、入所しているお年寄りが近寄って来て彼女の手を握って、「ありがとう、明日も来てくれるでしょう」と言ったのです。その一言を聞いた瞬間、本当に不思議なことに、それまで冷めていた、その女子中学生の心に言い知れない感動が湧いてきて、彼女の眼から思いがけずに涙がこぼれて来ました。そうして、その経験がきっかけとなって、彼女は介護福祉士になることを決心し、今、その職にあるのだそうです。
その時の感動を、後に、彼女はこんな風に表わしていました。「ああ、こんな私でも必要としてくれる人がいるんだ。こんな私にも『ありがとう』と感謝してくれる人がいるんだ」と。
それまでは、「お前なんかいないほうがましだ」というような、周りからの視線を痛い程感じながら、いつも突っ張って生きていました。自分を苦しめる、そうした内なる声を断ち切ってくれたのがお年寄りの「ありがとう」の一言だったそうです。自分が受け入れられたという体験をし、それが、彼女にとっての物凄い力になったのだと思います。

Ⅱ.子どもと接するイエスさまの姿

ある時、イエスさまに自分たちの子どもに触れてもらいたいと願って、子どもを持つ親たちが子どもたちを連れて集まって来ました。当時のユダヤ社会の価値観からすれば、子どもは人数にも数えられない存在でしたから、このような場に子どもたちを連れて来ること自体が許されない行為でした。
当然、弟子たちは親たちを叱ったのです。ところがこれに対してイエスさまは、子どもの祝福を願う親たちの素直な気持ちを受け止められました。そして、それ以上に子どもたちの存在を、そのあるがままの姿を喜んで受け入れ、祝福されるイエスさまの姿がそこにありました。この時、子どもたちを迎えるイエスさまの瞳に、そうした子どもたちの姿はどう映っていたでしょうか。

Ⅲ.自分自身を受け入れることの出来ない私

学生の時、忘れることの出来ない1冊の本との出会いを経験しました。ウォルター・トロビッシュという、牧師でありカウンセラーの先生がお書きになった『自分自身を愛する』という本です。その本の冒頭に、こんなエピソードが紹介されていました。
ブロンドの髪の美しい女性がトロビッシュ牧師のもと来て、「自分を愛せないのです」と告白するのです。傍から見たら、美しい、とても恵まれた女性です。
ところが、彼女の悩みは、どうしても自分を好きになれない、自分を愛せない、というものでした。
この女性が訴えた問題は、もちろん程度の差はありますが、私たち1人ひとりの心の内にもある大事な問題であり、取り組むべき課題であると、この本を通してトロビッシュは問題提起をしているのです。
以前、ファミリーチャペルで精神科医師の古荘純一さんがお書きになった、『日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか』というタイトルの本を紹介しました。その本を読んで、私は衝撃を受けたのです。その本の中に、各国で子どもを対象にアンケート調査をした、その結果、日本の子どもの幸福度は世界最低レベルだ、という話が紹介されていました。
そうした子どもたちを育てる家庭や社会をつくっているのは私たち大人です。日本で暮らす私たち大人、その私たち自身が「自分を肯定できない」、「自分は自分でいいと感じられない」でいるのではないでしょうか。その結果、「今の自分ではない、もっと別の自分に変われたら」とか、「何かが出来るようになったら」とか、「何かを手に入れられたら」というような、ある種の変身願望で一杯になっていますので、現状を肯定できない。すなわち、自分を愛することの出来ない大人が、子どもたちが育つ社会を形成しているということになるのです。
今日の説教のテーマとの関連で言うならば、自分をそのありようのままで、そのままの姿で心に受け入れることに問題を感じている人の多くは、子どもの頃から、自分にとって大切な人から受け入れてもらう経験をしてこなかったと言われます。
当然のことですが、生きていく上で、この「受け入れられている」という感覚は不可欠だと言われます。別の言葉を使えば「自己肯定感」です。ですから、私たちは心のどこかで、「自分が自分のままであってよいか?」を自問するのです。
そして、その際「ああ、自分は自分のままでいいんだ」という確信や答えが得られない場合に、私たちは不安を感じるものです。
私たち人が、「自分が自分のままであってよいか?」という問いに最初に出会うのが幼児期だと専門家は言います。一般に3歳までの子たちは天真爛漫で何かをするにしても、ちょっとくらい他の友だちのように出来なくても気にしません。でも、この天真爛漫さは4歳ごろには消えていきます。何故ならその頃から周囲が見え始めるからです。世界の中心は自分でないと気づき、自分も、たくさんいるみんなの中の1人であることに気づいてくるのです。
この時期になると私たちは、先ほどの「自分が自分のままであってよいのか?」という問いを問い始めます。つまり、見方を変えれば、ちょうどその頃から「自分は自分でいい」という「自己肯定感」を得たいと求めるようになるのです。
子どもとの関係で言うならば、「自分は自分でいいのか」という問いを持ち始めた時、一番にして欲しいこと、それが「大丈夫、あなたを愛しているよ」という身近な人からのメッセージです。そのメッセージを受けた時子どもは安心します。これが幼児期の自己肯定の確認方法なのです。特に身近な人がくれるこの自己肯定の保証が、その子の、一生を生きる力として人格の中に深く蓄えられるのです。
ところが、現実はどうでしょうか。私たち誰もが、これがなかなかできないでいるのではないでしょうか。

Ⅳ.神に愛されている者として生きる

では、ここから抜け出せる道はあるのでしょうか? 今日の聖書箇所には子どもたちを受け入れ、愛するイエスさまの姿が紹介されています。
実は、子どもたちとこのように接するイエスさまご自身が、受洗の場面で、「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者である」と、父なる神さまの御声を聞き、ご自分の存在自体を受けとめていただいた経験をしていました。
親たちに連れられて、イエスさまの御許に集まってきたこの子どもたちをご覧になったイエス様の瞳には、子どもたちの存在自体を喜ぶお気持ちが溢れていたことだと思います。
「あなたたちは父なる神さまに愛されている子どもです。そのことを決して忘れてはいけませんよ」と、愛と期待に満ちた眼差しを彼ら子どもたちに注ぎながら、1人ひとりを抱き上げ、手を置き、祝福してくださったことだと思います。そして子どもたちにも、そのイエスさまの思いがよく伝わったことでしょう。
冒頭でご紹介した女子中学生の手を握り、「ありがとう、明日も来てくれるでしょう」と声をかけたお年寄りの愛の心が、頑なだった中学生の心を柔らかにし、若い彼女の人生を変えて行ったように、この時、自分を受け入れ愛してくれるイエスさまと接することによって、この子どもたちは、イエスさまの愛の思いにその心が励まされたはずです。
私たちが受け入れられる経験とは、愛される経験であり、それは、その後の人生を大きく左右するほど、大きな力になるということです。
子どもたちを受け入れてくださったイエスさまは、私たちに対しても同じようにしてくださっているのです。
そのような存在として私は生かされている、ということです。ですから、私たちは、子どもたちを、また周囲の人たちを受け止めるその前に、1人ひとりが、自分は神さまの愛をもって受け入れられている存在であると、まず第1に味わっていただきたいと思います。
「あなたがたは神に愛されている子どもですから」というメッセージに、まずは心を傾け、神さまご自身が私に向かって、「大丈夫、あなたを愛しているよ。あなたはあなたで、いいんだよ、」と肯定してくださっている御声を聞きとっていきたいと思います。
その「大いなる肯定」を、シャワーのように心に浴びながら、そうした上で、次に「神に倣う者になりなさい」と言われる神さまに応えて、子どもたち、家族、周囲の方たちと接する私たちでありたいと願います。
大切なこと、それはこの事実をいつも心に思い起こし、リマインドされることです。そのためには、そうした環境に身を置き続けることが何より大事です。
そのことを確認する場、環境が、この日曜日の礼拝であり、新しい方々にとってはファミリーチャペルの時なのです。
ぜひ、聖書を通して語りかけてくださる神さまの愛の呼びかけに耳を傾けながら、その同じ語りかけをもって、子どもたちや周りの人たちと接していきたいと願います。
お祈りします。