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主日共同の礼拝説教

霊なる神

2016年8月14日夕礼拝
和田一郎伝道師
エゼキエル書11章17~20節
ガラテヤの信徒への手紙3章1~5節

Ⅰ.物分かりの悪いガラテヤの人たち

1節で「物分かりの悪いガラテヤの人たち」と、実に厳しい言葉でパウロはガラテヤの人達に呼びかけています。いくら信頼関係がある人達であっても、ここまで言うのだろうか?と感じてしまいます。「物分かりの悪い」というギリシャ語は他の訳では「愚かな」という意味で使われます。ですが、そのように言ってしまうパウロの気持ちも分かる気がします。パウロからすれば、あれほどキリストの福音を繰り返し語って聞かせたのに、また以前のような信仰に戻りかけている。しかし、ガラテヤの人達のような信仰の浮き沈み、高まったり下がったりするブレが私たちの中にあることも否定できません。洗礼を受けて数年は熱心だった、しかししばらくして、信仰の理解を履き違えてしまうということが、私たちにもあるのです。律法を守るように、何かの決まりを守らないとクリスチャンとは言えない、と思ったり、割礼を施すように、目に見えるしるしがないと確信が持てない。

Ⅱ.十字架

福音と言えば、その中心はキリストの十字架です。パウロが異邦人の土地ガラテヤを訪れて伝道した時も、イエス様の事、とりわけ十字架に架かられたイエス様の事を大胆に語ったことだと思います。十字架のシンボルを見れば、礼拝に来た事のない方でも、教会とかキリスト教を連想すると思います。皆さんの中にも、何か十字架のしるしの入った物やアクセサリーをお持ちかもしれません。その十字架を、ふと見た時、何を思い起こすでしょうか?
パウロは十字架にスポットを当てて「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿で、はっきり示されたではないか」と1節で訴えます。先々週にも話しましたが、イエス様が十字架に架かられた時、同時にペトロやパウロもそして、この私たちも十字架につけられた。罪びとであったかつての古い自分は、十字架につけられて葬られたのだ。十字架のシンボルを見る時、このことを心に留めたいものです。

Ⅲ.霊なる神

2節のところで、「霊」という言葉が、このガラテヤ書の中で初めて出てきます。「あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」と、パウロはガラテヤの人達が聖霊を受けた時の体験を振り返ります。
私たちも信仰を持った時に、誰かに何かを聞いたり、読んだりして信仰を持つきっかけが与えられたと思います。それは厳密に言うと福音を受け取る、柔らかい心がその時与えられたということ、信じる心を与えられて、受け取ることができたと言ってもいいと思います。それは、私たちが聖霊で満たされていたのです。ガラテヤの人達もそうだったでしょう?聖霊に満たされて、信仰を受け取る柔らかな心に満たされたのは、律法を守ったからですか?福音を聞いて信じたからですか?どちらだったか思い出してください、というわけです。
ガラテヤの人達のように、異邦人に聖霊が降ったという事実について、使徒言行録の中で、ペトロがコルネリウスに伝道した経緯を描いています。コルネリウスは百人隊長で、つまりローマ帝国の軍人です。民族や出身は定かではありませえんが、ユダヤ人ではない、異邦人でした。しかし、ユダヤ教に高い関心があって礼拝に出たり、祈りを捧げて、会堂建築のために献金をしたりしていました。そんなコルネリウスに、ペトロからイエス様の話しを聞く機会が与えられましたが、そこには問題がありました。当時はまだユダヤ人のクリスチャンには、少なからず、異邦人に対して偏見がありました。
ユダヤ人は、神様はアブラハムとその子孫、いわゆるユダヤ人を選ばれた特別の民族と解釈していました。他の民族、異邦人たちは選ばれていない。ですからペトロも、百人隊長コルネリウスのもとに伝道に行くことを躊躇しました。異邦人であるコルネリウスは選ばれた者ではない。そのペトロの偏見を取り除くために、神様は夢の中で幻を示され、ペトロはコルネリウスの所に出かけて行って、福音を語る事になりますが、語っていると不思議な事が起こりました。聖霊が異邦人のコルネリウスに降ったのです。私たちは聖霊とか御霊と言ったりしますが、コルネリウスに降ったのは聖霊なる神様です。神学用語で言いますと「父なる神」が第一位格、イエス様は第二位格の「子なる神」、そして第三位格の「聖霊なる神」と呼びます。この三つの位格が三位一体となって一つの神とします。ユダヤ人にしてみれば、神に選ばれたユダヤ人に聖霊は降ったとしても、神様に選ばれていない異邦人に聖霊が降るはずはないと固く信じていました。ところがペトロが福音を語っていると、それを聞いていたコルネリウスに聖霊が降ってしまったのです。割礼も律法も守らないままで聖霊が降ったわけです。ユダヤ人たちはただ驚くばかりでした。この出来事はまさにペンテコステの再現でした。ペンテコステの出来事は、エルサレムにいたユダヤ人たち一同が一つになって集まっていた時に、聖霊が降ったのです。
さらに、ペトロはこの出来事の後に説教しましたが、それは旧約聖書のヨエルの預言の中で、異邦人に聖霊が降ることが記されている箇所でした。
ヨエル書3章1節~2節「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」と、聖霊をすべての人に注がれると預言されています。「奴隷の男女に霊を注ぐ」とありますが、当時多くの奴隷は異邦人でした。その異邦人へも聖霊が降るという旧約聖書の預言です。
整理しますと、この旧約聖書ヨエル書で預言され、この預言が新約の時代になって、ペンテコステで実現、その後、コルネリウスなど各地で異邦人の上に聖霊が降っていきました。
パウロがガラテヤに伝道している時にも、聖霊が降る出来事が起こったのだと思います。使徒言行録14章にはパウロがガラテヤ地方のリストラという町に行った時、一度も立ったことのない、足の不自由な人の癒しや、その後に迫害が起こったことが書かれています。今日のガラテヤ書の4節で「あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。」と、こうして聖霊の体験が無駄にならないことをパウロは訴えます。

Ⅳ.まとめ

パウロが、3節で「あなたがたは、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」と訴えているように、私たちはイエス様の十字架の出来事という福音を、聖霊の助けによって、受け取ることができました。ところが、パウロが「物分かりが悪い」とか「愚かな」と言ってしまうように、私たちの信仰は弱いものです。神様の愛を信じられなくなるくらいに落胆したり、罪を認めるのを拒否して、神様の前から立ち去ったりすることがあるのです。そんな時、聖霊は、私たちがどんな状況にあってもしっかり神様のもとにとどまって、神様の愛を信じられるように、私たちを助けて下さいます。聖霊は罪の自覚を持つ私たちを神様の前で弁護して下さるでしょう。「この人は、イエス様の十字架の業が自分に対してなされたと分かって、イエス様を救い主として信じています。罪を認めて悔いています。赦しが与えられるべきです」と弁護してくださるでしょう。さらに聖霊は私たちにも向かって、「あなたの心の目を、十字架に向けなさい。あなたの赦しは、キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されています」と言って下さいます。神様に罪の赦しを願う時、果たして赦して頂けるだろうか?などと心配する必要はありません。洗礼を受けて聖霊を受けた私たちには、聖霊という素晴らしい弁護人がついているのです。神様は私たちに対して「もう分かっている。あなたが信じている、わたしの子イエスの十字架の死に免じて赦します。もう罪を犯してはいけません」と言って下さいます。その時、私たちは感謝に満たされて、もう神様のもとを離れまいと、思うでしょう。キリスト者としての信仰生活の歩みを、聖霊に満たされて始めた私たちは、聖霊の導きに従って、最後まで歩みたいと願います。祈ります。