2016年9月4日
松本雅弘牧師
ホセア書6章1~6節
マタイによる福音書9章9~13節
Ⅰ.かつて徴税人であった男マタイが書いた福音書
今日の聖書箇所には、かつて徴税人であったマタイが、どのようなところから贖い出されてイエスさまの弟子になったのかが記されています。
当時、この徴税人とはかなりひどい職業だったのです。ある説教者曰く「どんなに想像してもピンと来ないのではないか。今日の社会における、例えば暴力団に似たような困った存在と見られていたかもしれない」。たぶんそうした見方こそが、この時代のユダヤの人々の徴税人に対する印象だったのではないでしょうか。
ところで、伝統的にはマタイによる福音書を書いたのは、他ならない徴税人マタイであるとされています。つまりこのような前歴を持った男がこの福音書を書いたというのです。
このところでイエスさまははっきりと、マタイを含む徴税人たちのことを「病人」と呼んでいます。また、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。つまりマタイを「病人」、「罪人」と呼んでおられるのです。
では徴税人であるマタイのどこがどう病んでいたのでしょう。そうです。マタイは自分自身の罪に病んでいました。罪の中に生きていたのです。ここでイエスさまは、そのことをはっきりと言われたわけです。
Ⅱ.1人の男に起こった、1つの奇跡とは―恵み深い神の招き
今日の聖書の箇所を読む時、ここには「病人」であり「罪人」であるマタイがどのようにしてイエスさまの弟子になったのかが語られているわけですが、ただその書かれ方がとても簡潔なのです。
「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」(9節)。これだけなのです。
まずここで注目しなければならない点、それは、マタイがどのような状態にある時、何をしている時にイエスさまが彼を御覧になったのかということです。それは徴税人として仕事をしていた最中でした。もしかしたら、この時マタイの前には、お金を騙し取られようとしていた人が座っていたかもしれません。そうした最中のマタイ、まさに仕事中のマタイをイエスさまがご覧になり、「わたしに従いなさい」と言われたのです。
その時、自分はすぐに立ち上がって、その男について行ってしまった。それが私の召命の証し、弟子として招かれた召命の出来事だったのです、とマタイは語っているようなのです。
彼がイエスさまに従ったのには、彼なりの理由や背景があったのだと思います。自分の仕事に疑問を持っていたかもしれない。お金を騙し取る度に良心に痛みを覚えたかもしれません。ところが、ここには、そうしたマタイの側の事情や理由は一切述べられていません。
ある人の言葉を使えば、「味も素っ気もない」のです。ただ、だからこそ大事なことは、そうした理由や事情は二の次で、マタイ自身が、「わたしに従いなさい」という命令に立ち上がって従った。そういう決断をしたという事実のみを、率直に、ストレートに記録していることだと思います。つまりマタイが福音書で物語りたかったのはそのことです。自分が招かれたのは、自分が偉かったからとか、今までの生き方を十分に後悔していたからでもない。ただイエス・キリストが自分に目を留めてくださった。そして、この自分に「わたしに従いなさい」と声をかけてくださったから、ただ、そのことだけなのです。これが神さまによる「恵みの招き」なのですと、マタイは証言しているのです。
ですからマタイは、自分が立ち上がってイエスに従ったということを書いた後に、1つのエピソードを挟み込むようにして、自分の物語を締めくくろうと、イエスさまの言葉を記しています。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
つまりマタイは、イエスさまが来られたのは、このどうしようもない自分を招くため、この私を罪の現場から呼び出すためであった、と言っているのです。
罪人である自分を呼び出すために来てくださった、このイエスさまの言葉とお姿をしっかり記録するため、この「恵みの招き」をしっかりと残すために、今、自分はこうして筆を走らせている。それがこの「マタイによる福音書」なのだ、と。
Ⅲ.憐れみを学びなさい
さて、この「恵みの招き」に躓く人がいました。ファリサイ派の人々でした。イエスさまが徴税人や「罪人」たちと食事をしておられるのを見て、とんでもないと思ったからです。彼らは弟子たちに質問しました。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と。これに対してイエスさまは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」(12節)とお答えになりました。
イエスさまは、この言葉をファリサイ派の人々に向けて語られました。勿論、彼らを拒絶しているのではありません。しかしファリサイ派の人々は自分たちの心の闇を理解していません。むしろ自分たちは「正しい人」と、そう自認するほどでした。そのため道を踏み外さないように注意し、汚れた人々や罪人と交流することを避け、定期的に「いけにえ」を捧げていたのです。そうした、ルールに沿った生き方に酔っていたのです。神さま抜きに、自分で自分の罪を修復し、神さまとの関係を保てるのだと信じて疑うことをしなかったのです。
ですから、ルールに則っていない「徴税人や罪人」を見下げ、彼らは神から遠く離れた存在なのだと見切っていました。しかし、そこにこそ、彼ら自身が気づいていない「罪」があったのです。つまり、彼らも徴税人と同様に「病人」であり、医者、すなわちイエスさまの十字架の赦しを必要とする存在だった、ということです。
こうしたファリサイ派の人々の姿を思い巡らしながら、私は「放蕩息子のたとえ」に出てくる兄息子のことを思い出しました。彼が父親に従っているのは父親を愛し信頼していたからではありません。むしろ恐れや疑いが動機となっていました。「こんなことをしたら、人様に笑われる」とか、「馬鹿にされる」とか。ですから、表面的には立派な行いをしていました。当然、「いけにえ」も捧げていたことでしょう。けれども、心の奥では、神さまへの愛、神さまへの思いが冷え切っていたのです。
この時イエスさまは、放蕩息子の兄のような彼らファリサイ派の人々に向かって、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」、そこから出て行って「憐れみ」を学びなさい、と言われたのです。
心の芯から憐れみ深い愛の人になるために、自分がどれだけ神さまの憐れみによって支えられ、神さまに愛され赦されている存在なのか、そのことを、出て行って学び直すように、と言われたのです。
Ⅳ.共に主の食卓に招かれている
マタイは、ファリサイ派の人々とイエスさまとのやり取りの出来事の場所が、「その家」であったと伝えています。これは「ペトロの家」を指していると考えられています。
イエスさまはしばしばペトロの家を訪れ、その姑にもてなされました。ですから、この食卓もお世話好きのペトロの姑が準備した食卓に、主イエスを囲むように徴税人や罪人たちが座っていたのでしょう。何故なら彼らもイエスさまに招かれていたからでした。つまり、「来なさい」と招かれたのはマタイだけではなかったのです。そしてどうでしょう。決して忘れてはならないのは、その同じ食卓に、実はファリサイ派の人々も招かれていたという事実です。
そう言えば、マタイがこの福音書を、イエスさまの系図から書き始めているというのは有名なことです。そして、その系図を丁寧に見ていくと、幾つか奇妙なことに出くわすのです。そこには、遊女や悪王と言われる人々が名を連ねています。マタイは、福音書を書くにあたって、敢えてそうしたことを包み隠さず伝えているのです。そして、その系図を書いたのと全く変わらない率直さをもって、自分の前歴をも物語ろうとしているのです。
この時マタイは、自分自身の人生と、イエスさまの「系図」を重ねあわせるようにしながら、罪の暗闇の世界のど真ん中に降りて来てくださった主イエスが、マタイが収税所で罪深い仕事をしている罪の現場のど真ん中に現れ、「わたしに従いなさい」と招き救い出してくださったことを記していくのです。そして不思議なことに、その招きに従って、立ち上がってしまった自分に驚き、その出会いの激しさに心打たれながら、マタイは、『彼、マタイによる福音書』を、イエスさまの系図をもって書き始め、そして今、このところに自らの召命の出来事を書きつづったのではないかと思います。
主イエスは、私たちがどのような者であったとしても、その私たちを御覧になり、「わたしに従いなさい」とお招きになり、主の食卓へと招いてくださるのです。そして、その主の食卓が私の罪の贖いのためであったことを分からせるために、最後には十字架に掛かってくださったのです。
私たちはこれから主の食卓を囲みますが、主の憐れみと恵みを心に刻み、恵みの招きに従う者でありたいと願います。お祈りします。