カテゴリー
ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教

愛すること、愛されること

2016年9月11日
ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
ルカによる福音書10章25~37節

Ⅰ.中川李枝子著、『子どもはみんな問題児。』

『ぐりとぐら』を描いた絵本作家の中川李枝子さんが子育ての本を書きました。『子どもはみんな問題児。』。表紙の絵が素敵ですし、タイトルがいいですね。私はこの本を、銀座の教文館に行った時に買ったのですが、帰りの電車で読み始めたら、ほんとうに引き込まれるように読んでしまいました。この本を読みながら、幾つか教えられることがありました。その1つは、子どもの逞しさです。
私たち夫婦に長女が誕生したのは、妻が働き、私が神学校の学生の時でした。少し特殊な環境だったと思います。長女が生まれた時、すぐに本屋に行って、子育ての雑誌を買い求めたことを覚えています。私の育った家庭は、子どものことはほとんど母親任せでしたので、私もそうした父親の影響を受けて、今思うと、あまり子育てには関わってこなかったように思います。ただ、そうではあっても、オムツを替えたり、哺乳瓶でミルクを飲ませたり、お風呂に入れたり、たまに絵本を読み聞かせたり・・はしたと思います……。
いずれにしても、そうした中で感じていたのは、子どもは柔らかくて、生きていく上で私たち親の手がなければ死んでしまうわけですから、ほんとうにガラスを扱うような慎重さが必要だと思いました。時に、私たち親の側で神経質になりすぎてしまうようなところがあると思います。そのような中で、この中川李枝子さんの本を読みますと、ほんとうに逞しい子どもがたくさん出てくるのです。
中川さんは初めから絵本作家だとばかり思っていましたが、長い間、保育士をしていた方なんですね。この本の最初の方に出て来るのですが、「目の前にいる子どもたちを何とか喜ばせたいと、おはなしを作ったのがきっかけで作家になりましたが、私の目指したのは日本一の保育をすることでした」と書いています。
中川さんはこの本の中で、子育て真っ最中のお母さんたちに対して、「焦らないで、悩まないで、大丈夫だから。子どもは子どもらしいのがいちばんよ」と励ましのメッセージを伝えています。
目次のところの各章のタイトルを読むだけでも面白いです。著者の中川さんは、この本の冒頭で、何で子どもはみんな問題児なのかについて、こんな説明をしていました。「子どもへの最高の褒め言葉は、『子どもらしい子ね』ではないでしょうか。『よい子』でも『賢い子』でも『聞き分けのいい子』でもない、『子どもらしい子ども』。では『子どもらしい子ども』とは、どんな子どもなのでしょう。子どもらしい子は全身エネルギーのかたまりで、ねとねと、べたべたしたあつい両手両足で好きな人に飛びつき、からみつき、ほっぺたをくっつけて抱きついてきます。大人からすれば『ちょっと待って!』と言いたくなるときでも、子どもらしい子に『待った!』のひまはありません。いつだって自分がこの世で一番と自信を持っていますが、それだけに自分より小さい子にはとても寛大で、大人が何も言わなくとも、小さい子を守ろうという優しさを持ち合わせています。面白いおはなしが大好きで、時にはチャッカリと、大人でも信じてしまうほどの作り話を披露することもあります。
子どもらしい子どもは、ひとりひとり個性がはっきりしていて、自分丸出しで堂々と毎日生きています。それで、大人から見ると、世間の予想をはみ出す問題児かもしれません。だからこそ、かわいいのです。子ども同士で集まると『お母さん自慢』をして喜び合い、大好きなお母さんが本当に困った時には、ちゃんと気配を察知する力も持っています。」
確かに、ここで紹介されている子どもの姿は、どこか覚えのある姿です。いずれにしても簡単に読める、それでいて結構深い話です。励まされると思いますので、紹介させていただきました。

Ⅱ.善きサマリア人のたとえ話

さて、今日、お読みしました聖書の箇所は、一般に「善きサマリア人のたとえ話」と呼ばれる、イエスさまによって語られたたとえ話です。
かいつまんでお話の内容をまとめるならば、エリコ街道に、追いはぎに襲われた旅人がいて、そこを通りかかった祭司やレビ人はその人を助けなかったのだけれども、サマリア人はその人を助けた。これが隣人になるということなのだ、とイエスさまが語られたお話です。
このたとえ話を読む時に注目したい点があります。それは、サマリア人が自分のものとしていた2つのことです。1つは、この旅人を見た時に動いた愛の心。そしてもう1つは、その愛の心を形に出来たスキルや力です。
聖書には、瀕死の重傷を負って倒れている旅人を発見した時の、この人の様子が出て来ます。この人はどうしたか、と言いますと、「そばに来ると、その人を見て憐れに思」ったとあります。
この「憐れに思う」という動詞は特殊な言葉で、「スプランクニゾマイ」というギリシャ語で、「内臓」という言葉から出来たギリシャ語です。その意味は、自分の体に影響が出てしまうほど、その人の身になって気の毒に思うという意味です。ですから、言い換えれば「愛する」ということです。
そしてもう1つ。彼がこの人を助けるために身に着けていたスキル、持っていた物が出て来ます。まずは、油やぶどう酒、包帯、この人のために支払った宿賃です。さらにそうした薬類があったとしても手当てするためには、ある種の救急法を習得していなければなりません。彼はそうしたスキルもありました。
これに対して祭司やレビ人はどうかと言えば、彼らにも応急措置ができる技術や知識もあったかもしれませんが、肝心要の愛の心がありませんでしたので、結局、そうした知識や技術や力を生かすことにはならなかったのです。

Ⅲ.キリストに愛していただく

さて、私たちはこのたとえ話をどのように読んで行くのでしょうか。たとえ話を読む時のポイントは、そこに登場する登場人物の誰と、自分とを重ねあわせながら読むかだと神学校で教えられたことを思い出します。私たちの多くはサマリア人のようでありたいと思いますが、現実的には難しい。それでは誰かと言えば、祭司やレビ人のような自分ではないかと思う現実があります。最後に残った瀕死の重傷を負って倒れている旅人、この旅人と自分を重ねながら読む人は少ないと思います。
実は、宗教改革者ルターは、このたとえ話を読む時に、旅人と自分を重ねながら読むべきだと教えています。先ほど「憐れに思う」という言葉について説明しましたが、ルカによる福音書の中で、この動詞はこの箇所以外では、神もしくはイエスさまを主語とする時しか使われていない動詞です。その言葉がサマリア人の心を表現する言葉として使われているということは、言い換えれば、イエスさまが、ご自分のことをサマリア人にたとえて語っているということになります。
ですから、ルターはイエスさまが善きサマリア人で、私たちはそのイエスさまから介抱されている旅人なのだと理解しました。
つまり、私たちが愛の行動を取り、身につけている技術やスキルを、ほんとうの意味で人の役に立てるように用いることの出来る者となるためには、私たち自身が、十分にイエスさまから介抱される経験、大切にされる経験、愛される経験を積み重ねることが大切なのだ、ということをルターは伝えたかったのです。

Ⅳ.愛される経験を親自身が積み重ねる

私たちは、小さかった頃、どんなときに親や家族からの愛情を感じたでしょうか? 聖書の教える大原則は、愛される経験をすると愛する人になる、ということです。
ここでイエスさまは、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」と言われました。つまり、「隣人を愛する」前提に、私たち自身が「自分を愛する/自分自身をそのあるがままの姿で受けいれる」ことの大切さを教えてくださっているのです。
聖書が教えるところの「愛する」とは、「好きになる」というよりも、「大事にする」というふうに言った方が分かり易いかもしれません。愛されて育った子は、自分を大事にするのです。自分を粗末にしません。そしてお友達を粗末にしない。
逆に、愛されることが少ない時、本当の意味で自分が自分であることに不安を覚える。自分を受け入れることが難しい子になると言われます。そして、このことは、私たちの実感ではないかと思います。
冒頭で紹介した中川李枝子さんも、そのことをこの本の中で繰り返し語っていました。
そして、今日のたとえ話が教えています。私たち自身が愛をもって生きる人になるためには、私たちの心が善きサマリア人であるイエスさまの愛、神さまの愛に充電される経験をすること。これが始めであり、これが全てであるように思うのです。お祈りします。