2016年10月2日
松本雅弘牧師
イザヤ書42章18~25節
マタイによる福音書9章27~34節
Ⅰ.福音書記者マタイの伝え方
マタイによる福音書8章から9章にかけては、イエスさまの御業が記録されています。マタイは極めてシンプルな仕方で記録していますので、今日の箇所に出てくる出来事などは、つい読み過ごしてしまうようなところでもあります。
しかし、この箇所を、前後の文脈の中で味わうとき、実に大切なことをマタイが伝えようとしていることが分かってくるように思います。
Ⅱ.この出来事を通してマタイが伝えたかった大切なこと
ではマタイが伝えたかった大切なこととは何でしょうか。そのことを考える前に、1つだけ注目しておきたいことがあります。それは2人の盲人がイエスさまに向かって、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ言葉です。
ここで彼らはイエスさまを「ダビデの子」と呼んでいます。ダビデとはイスラエルの2代目の王様で、旧約聖書に名を連ねる王様の中で、彼こそが特別な存在でした。
マタイによる福音書1章1節が、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と始まりますように、ダビデの子孫から救い主・メシアが生まれることを人々は待ち望んでいたことがわかります。盲人である彼らは、イエスさまを「ダビデの子」と呼んでいるのです。つまり「メシア・救い主」と呼びかけたのです。
ところで、イザヤ書35章5節と6節に、メシアが現れるとこんなことが起こると預言した有名な聖書の言葉があります。「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」
他の福音書に比べて、マタイがシンプルに奇跡の出来事を記録している理由がここにあると思うのです。つまり、マタイが一番伝えたかったことは他でもない、イザヤが預言したメシア、このメシアこそナザレのイエスなのですよ、ということだったのです。
今こうして、見えない人の目が開かれ、聞こえない人の耳が開いている、この1つひとつの出来事がその証拠なのだと、マタイは伝えようとしているということなのです。
Ⅲ.「だれにも知らせてはいけない」と言われた2つの理由
話しはそれで終わりとはなりませんでした。目が見えるようになった2人に対してイエスさまは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」とお命じになったのです。それも「厳しくお命じになった」と書かれています。ところが彼らはそれに従わず、「しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた」のです。
私の想像ですが、癒してもらった盲人たちに悪気はなかったと思います。逆に、素晴らしい働きを言い広めることは、他の人たちにとっても、そしてイエスさまご自身にとってもいいことだ、と信じて疑ってなかったのではないでしょうか。
でもどうでしょう。あの創世記3章で蛇の誘惑に負け、主なる神さまの命令に従わなかったアダムとエバを思い起こしてみた時に、改めて、私たちはイエスさまの言われたことを、正確に受けとめる必要があることを想わされるのです。たとえ、「何で、こんなことをおっしゃるのか」と、その時点では理解できなくてもそうすべきです。
この時、イエスさまが「だれにも知らせてはいけない」と言われたことには、少なくとも2つの理由があったのではないでしょうか。まず第1は、イエスさまご自身がファリサイ派の人々の敵意を知っておられたという理由です。
興味深いことに、群衆のイエスさま評価とファリサイ派の人々のそれとが正反対です。当時、口の利けないのは悪霊の仕業で、悪霊を追い出すことによって初めて癒されると考えられていました。その常識を前提にした場合、群衆はイエスさまこそが、その「悪霊を追い出す力」を持っておられたと賞賛したのですが、ファリサイ派の人々は、そのイエスさまの御業自体を悪霊の頭の力に帰し、非難したのです。しかもファリサイ派の人々による非難が、この後、「ベルゼブル論争」へと発展し、さらに、最終的にはイエスさまに対するその敵意が殺意として燃え上がり、十字架へとつながっていくことになるのです。だからこそイエスさまは、目が見えるようになった2人に対して「だれにも知らせてはいけない」と「厳しくお命じになった」、これが第1の理由だと思われます。
もう1つ、考えられる理由があります。それは群衆側の問題です。群衆のイエスさまに対する勝手な期待です。
イザヤの預言の言葉によれば「病気の癒しはイエスさまが一体誰であるのかを指し示すしるし」、つまりそうした「しるし」をなさるイエスさまこそメシアなんだ、ということを意味していました。ところが、そうした中で、イエスさまが怖れ、警戒なさったことは群衆の勝手な解釈によって「しるし」それ自体が一人歩きすることでした。
この時、群衆たちはイエスさまのことを、どんな病気でも癒し、どんな願いでもかなえてくれるスーパーヒーローのような存在として受けとめていたのではないかと思います。またそのような意味で賞賛し、チヤホヤしようとしたのではないでしょうか。
でもイエスさまは決してそのような存在ではありませんでした。私たちの側の心の願いを叶えるために、簡単に利用できるお方ではないのです。もしそのようなお方だとしたら、私たちの方が主人の立場に立つことになります。主人の座についた私が、イエスさまに向かって「こうしてください」「ああしてください」「こうしてもらっては困ります」と、「祈り」という手段をもって自由自在にイエスさまを動かしていくことを信仰のように思っていたら大間違いなのだ、とマタイは警告するのです。
イエスさまは、そうした彼らの心の姿勢を見抜いておられました。ですからこの後、群衆の勝手な期待と、イエスさまご自身との間にズレが生じ、群衆たちにとって、イエスさまというお方が、自分の願いを叶えるサンタクロースのような存在でないことが徐々に明らかになるにしたがって、イエスさまを絶賛していた彼らもまた、イエスさまを憎み始めるのです。彼らの勝手な期待でしたが、でもその期待が大きかっただけに憎しみも大きくなったのです。
そして最後には、「ピラトが、『では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか』と言うと、皆は、『十字架につけろ』と言った。ピラトは、『いったいどんな悪事を働いたというのか』と言ったが、群衆はますます激しく、『十字架につけろ』と叫び続けた。」(マタイ27:22~23)と聖書は記しているのです。
イエスさまは、彼らの心を見抜いておられました。だからこそ、そうした期待が助長するのを避けるために、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と「厳しくお命じになった」のでしょう。
このように考えて来ますと、マタイによる福音書8章からここまで続いたイエスさまの御業を締めくくる、今日の2つの癒しの出来事は、不思議な仕方ではありますが、十字架への道を方向づける出来事のように思います。
Ⅳ.暗い出来事の向こうを御覧になるイエスさま
まとめに入ります。今日、お読みしませんでした35節には、次のような言葉があります。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」そして、そのすぐ後に、「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」と続きます。
ここでイエスさまは、将来、ご自分にとっては難しい存在、言わば「敵のような存在」となる、この群衆の悲惨な姿、絶望的な姿を御覧になって深く心を揺さぶられる経験をしておられるのです。
この「深く憐れまれた」という言葉は、あの善きサマリア人が、追いはぎにおそわれ瀕死の重傷を負って倒れていた人を見た時、「憐れに思い」近寄ったと同じ言葉です。
イエスさまの御心も悟らず、その言いつけを無視し、自分勝手に言い広める群衆、愛される理由などないような群衆に対して、愛の心をもって主は深く憐れんでくださるのです。この御言葉の意味を味わいながら考えてみますと、この時の群衆の状況は絶望的です。ところがそうした状況を御覧になったイエスさまは、「収穫が多い」時だと言われたのです。
ある人の言葉を借りるならば、イエスさまは目に見える状況の、さらに向こうを見ておられ、「困難が大きい時こそ、それは収穫の前触れなのだ」と言われるのです。
そして、収穫の主の約束を先取りしながら、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言って、今、なすべき具体的な一歩を示しておられます。
私たちは今一度、主の語られる御言葉を注意深く丁寧に聴いていきたいのです。そして、目先の状況が厳しくても、その先を御覧になり「困難が大きい時こそ、それは収穫の前触れなのだ」と言われるイエスさまを信じて歩んでいきたいと願います。
お祈りします。