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ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教

しつけること

2016年11月13日
ファミリーチャペル 成長感謝礼拝
コロサイの信徒への手紙3章21節
松本雅弘牧師

Ⅰ.イエスは子どもたちを愛された

今日のファミリーチャペルは、成長感謝礼拝という特別な礼拝です。先ほど、子どもたちの成長を感謝し、神さまに、子どもたちの祝福を祈りました。
ある時、子どもたちが、大好きなイエスさまを見つけると、イエスさまめがけて走ってきました。弟子たちは、忙しいイエスさまには、この子どもたちは迷惑な存在だと思って、子どもたちがイエスさまの方に行って、まとわりつくのを阻止しようとしたのです。すると、イエスさまは、そうした弟子たちに対して憤られ、「子どもたちをわたしのところに来させなさい」と言って、走って来る子どもたち1人ひとりを「抱き上げ、手を置いて祝福された」、という出来事が聖書に記されています。
「抱き上げ、手を置いて祝福された」というこの言葉は、みどり幼稚園でも教会でも大切にしている聖書の言葉です。何故か、と言いますと、ここにイエスさまが身をもって教えてくださった、子どもとの接し方、子育ての基本が説かれているからです。
「抱き上げる」とはスキンシップのことですね。子どもたちはスキンシップが大好きです。2つ目の「手を置く」とは、別の言葉で表現したら、「祈る」ということです。そして3つ目は、「祝福する」ということ。これは、教会特有の用語かもしれませんが、意味は、その子の存在を認めて褒めることです。これらをひと言で表現すれば、「イエスは子どもたちを愛された」ということです。
教会や幼稚園のHPにも書かせていただきましたが、聖書のメッセージをひと言で言いあらわすと、「あなたは大切な人です」というメッセージになります。「祝福する」とは、まさにこのメッセージを伝えるということです。
高座教会では昨年の4月から、毎月第2週の9時の礼拝を、「ファミリーチャペル」として守ってきました。ここでは、子育てのこと、家族関係のこと、夫婦のことなどを取り上げながらお話ししています。
今年の4月からは、私たちが人として健やかに成長していく上で、何らかの仕方で満たされる必要のある、7つの基本的要素について学んできました。その7つとは、1)大切な存在であることを知らせること、2)安心感をもたせること、3)受けいれること、4)愛すること、愛されること、5)ほめること、6)しつけること、そして、7)神を教えること、です。
こうした基本的な必要が満たされない時に、私たちの心の内側に不安が募り、その不安を、あまり健全ではない仕方で満たして行こうとする結果、さまざまな問題が生じるということが言われます。今日は、その6回目、「しつけること」について、ご一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.Kさんのこと

19歳の青年、Kさんのことをご紹介したいと思います。彼は、物凄い不安感に襲われ、助けを求めてカウンセラーのところにやって来ました。何度か面談を受けていく内に、Kさんについて幾つかわかってきたことがありました。
1つは、彼は全く幸せを感じていなかったということ。2つ目に、何度か、頑張って困難に立ち向かおうと努力するのですが、いつも弱気になって逃げ出してしまう傾向があること。
3つ目に未成年であったにもかかわらず、すでにアルコールに頼り始めていたこと。そして4つ目に、現在彼は、全くの行き詰まりを感じていたことです。
カウンセラーは、そうしたKさんの心の中にある叫びに気づいたと言っていました。その叫びとは、「安心感が欲しい/心に平安が欲しい」という魂の叫びでした。
さらに面談を重ねる中、Kさんは少しずつ自分の生い立ち、特に家庭のことを語り始めていきました。
彼は、家の中で両親が仲良くしている姿を一度も見たことがない、と言うのです。顔を合わせると、決まって口論が始まる、常に両親の間に緊張感がありました。
Kさんからすれば、母親も父親も自分にとっては大切な親です。その大切な母親と父親が不仲である。ピリピリしている。家庭の中は本当に居心地が悪かった。子ども心にKさんは、いつか両親は別れてしまうのではないか、と心配でたまらなかったのです。さらに彼の家庭にはもう1つの特徴がありました。それは引っ越しの多い家庭だったということです。仕事の関係で仕方ないと言えばそれまでですが、Kさんの心の中には、〈いつ引っ越すかも分からない〉ということで、落ち着いて友だちを作ることも出来ず、さらに「心のふるさと」と呼べる場所を持つことが出来なかったのです。
面談を重ねる中で、さらに、こんなことも分かってきました。それはKさんの中に、「していいことと、してはいけないこと」の「境界線/バンダリー」が曖昧だったのです。Kさんは「適切なしつけ」を受けずに育ってしまったことがその原因でした。それは、どういうことかと言うと、彼の両親は、自分の機嫌のいい時には何でも大目に見て甘やかせる、しかし、両親が険悪な状態の時には、その怒りの矛先がKさんに向かって来るのでした。

Ⅲ.しつけとは?―「躾け」と「仕付け」

「しつけ」とは結構難しい問題だと思います。「しつけ」という言葉を漢字ではどう書くでしょうか? パソコンで、「しつけ」と打って変換キーを押すと「躾」という字が出てきます。そしてその後に「仕付け」という漢字が出てきました。
「躾」と書くほうは和製漢字だそうです。漢字の作り方を見ても、これは「人からどう見られるか」が問題になる「躾」という字です。
「躾」は、どうしても人からの見た目を大事にします。私たち日本人が考える「しつけ」とはこちらの場合が多いのではないかと思われます。
よく耳にする言葉ですが、「そんなことをしたら、誰々さんに笑われるよ」というのは、正に「身に美しい」と書くしつけ方です。周囲の目をもって行動を抑制するわけです。
聖書が言うところの「しつけ」は、英語で言えば、弟子という言葉から来た「ディスプリン」という意味です。つまり弟子にするという意味の言葉です。
イエスさまの弟子とは、イエスさまに代わって遣わされて行き、その場で、師であるイエスさまに代って働きをした人のことを弟子と呼ぶわけです。
つまり周囲がどうであろうと、「やるべきことをやる」という人に育てることを、聖書は「ディスプリン」、すなわち「しつけ」と言うのです。決して、人の前にどう見られるかではなく、人が見ていても、見ていなくても自らの良心に正しいことをしていくことを目標にすることです。
逆説的に聞こえるかもしれませんが、子どもたちが確かな安全感覚や、また自分が大事に扱われているという実感を持つためには何らかの制約・ルールが必要で、そうしたルールを持たない家庭で育った子どもというのは、概して不安定であることが多いと言われます。
両親がそうしたルールや制約を設けてくれるということは、一見、不自由さや窮屈さを与える印象を持ちます。とくに子どもたちは、友だちの家と自分の家を比べて、親に要求を押し付けてくることがよくあります。しかし他方で、こうした、その家のルールがあることによって、子どもたちは、両親が自分に無関心ではなく、自分のことを真面目に考えてくれているという、そうした点で、「安心感」の意識を与えると言われています。これがしつけられた子の幸せです。

Ⅳ.神さまに愛されているように

ある専門家が「子育ての原則は2つだけ。何が正しいか何が正しくないかを分かるように教えることと、正しくないことをすればきちんとしかること。これだけをきちんとやれば、それでよい。子どもに対する愛情に負けて叱ることを控えるのは、子どもを憎むことだ」と語っていました。
大事なのは正しいことを首尾一貫して分かるように教えること。そのためにその場の親の気分で、ある時は許し、ある時は怒るとか、父親と母親の基準が違うことがないようにすることです。
私たちの日常の生活を見ていくと、クリスチャンであるなしに関係なく、多くの人たちが聖書の言葉を基準にしているという現実があるのではないでしょうか。そして、聖書の中には、正しいこと正しくないことの基準となる言葉があります。そして、その中に聖書の中の聖書と言われる言葉があるのです。それはヨハネによる福音書3章16節です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」これが全ての基準です。この言葉こそ、子どもたちを、そして私たちを祝福される神さまからのメッセージです。
子どもたちがこのことを実感できるように。そして、そのためには、まず私たち親自身が神さまの愛を知ることができるように。それが全ての始まりとなります。
お祈りします。