2016年12月4日
第二アドベント
松本雅弘牧師
イザヤ書30章15~22節
ルカによる福音書1章24~38節
Ⅰ.「神にできないことは何一つない」
今日、私たちに与えられている聖書箇所には、有名な「受胎告知」の出来事が記されています。ここには、汲みつくすことの出来ないほど多くの恵みが隠されているのです。
今日は、天使ガブリエルとマリアとのやり取りを通して、2つのことを考えてみたいと思います。
Ⅱ.マリアが示した信仰者としての模範―主のはしためとして生きる
まず第1は、マリアは自分のことを「主のはしため」と見ていた点です。
「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』」(2:38)
今日の箇所を読んで改めて教えられたこと、それは神さまのご計画、神さまのお働きは、私たち主の僕、主のはしためたちの参加を必要としているということです。
「あなたのご計画通りに私をお用いください。私を生かして用いてください」、「私たちを通してあなたの御心が実現しますように」という祈り、願いに導かれて初めて、神さまの御計画が実現する道が拓かれていくということです。
誤解を恐れずに言えば、マリアのようなはしためたち、また僕たちの参加や手伝いなしには、神さまのご計画は実現しないと言えるのかもしれません。
マリアはそのような信仰者としての模範を私たちに示してくれたように思うのです。つまり、マリアは、自分の願い通りに生きることを明け渡しました。言葉を添えるならば、「私も自分の人生のシナリオを描いて来ましたが、でも、主よ、あなたのシナリオが私にとって最善です。ですから、あなたのなさる通りで結構です」と、ここでマリアは告白しているのです。
そしてその結果、ある意味で、自分の思い通りにはいかないという経験をしていきました。
この時のマリアのことを思い巡らしてみたいのですが、彼女は婚約期間中でした。自分のこれからのことについて、さまざまな願いを持っていたことでしょう。ところが、そのような時に、「そうはいかない」神さまの言葉が入り込んできたのです。
その御言葉に応答し、その御言葉が自分の人生において実現するようにという祈りが、マリアの心の中に生まれたのです。
Ⅲ.冒険としてのマリアの決断
2つ目のことは何でしょうか。「お言葉どおり、この身に成りますように」という祈りは、大きな決断を前提とした祈りだったということです。
私たちの毎日は計画と決断の連続だと思います。今日はジュニアチャーチの皆さんも礼拝に来ていますが、例えば、ジュニアチャーチの皆さんでしたら、中学、あるいは高校を卒業した後のことを思い描くでしょう。中学を卒業したら、どこの高校に行こうか。あるいは行きたいか。高校を卒業したら、どういう進路に進もうかと計画を立てます。そして決断をします。
学校を卒業すると、今度はどういう職業に就こうかと考えます。また、結婚のことも考えるでしょう。そのようにして、私たちは人生の節目、節目で計画と決断を繰り返しているのです。
進学や就職、結婚といった大きな決断もありますが、毎日の生活の中でも、小さな幾つもの決断をしながら生きている面もあるでしょう。
仕事をしている人で、とくに責任のある立場に立たされれば、自分で決断しなければならない場面にしばしば出合うことでしょう。そして、決断には、その結果を委ねる側面が必ずあるように思うのです。言い換えると、決断する私たちは、常にある種の冒険を強いられるということです。
以前、高座教会に来られたK先生が「神の冒険としてのアドベント」という言葉を使われました。実は「アドベンチャー・冒険」は、この「アドベント」から来ている言葉だそうです。
「飼い葉桶と十字架は初めから一つである」と言われますが、神さまの冒険の結果が、飼い葉桶であり十字架でした。
とすると、この神さまに従って歩んで行く私たちには、時に、アドベンチャーと言われる冒険のような歩みが強いられるかもしれません。
マリアの決断はまさに冒険だったと思います。この時のマリアの年齢について聖書は沈黙しています。ただ聖書学者によれば、たぶん10代の娘だったろうと語ります。まだ世間のことが分からない、若い娘だったことでしょう。これから結婚しようとするヨセフに頼り、彼に全てを任せて生きていこうと考えていたのではないでしょうか。そうしたマリアにとって、夫となるヨセフも知らないのに子どもを授かってしまう。それはマリアにとっては想像もつかないような世界に足を踏み入れることになるのです。
私がもしマリアの立場に立たされたとしたら、「それは、困る」と思います。まずは、ヨセフが理解してくれるかどうか。そして、世間から何と言われるか分かりません。でもマリアは実に自由に、神さまに対して従順に決断していきました。
それは1つの冒険だったでしょう。しかしそうしたマリアの決断があったからこそ、私たち人類の、そして世界の救いのための御計画が実際に大きく動き出していったのです。一人の、まだ二十歳にもならない娘の決断によって始まった出来事でした。
天使はマリアに「おめでとう、恵まれた方」と呼びかけています。この「恵まれた方」とは「すでに恵みを受けた方」という意味です。
ある人は、この「恵まれた方」すなわち、「すでに恵みを受けた方」という天使の「呼びかけ」は、すでに神さまがマリアをお選びになっていること、マリアの決断に先立って、もうすでに神さまの決断があったことを示す言葉なのだと語っていました。
ちょうど何かの賞を受ける時のようです。まずは選ばれることが先です。その結果、「おめでとう」という挨拶が語られるのです。
この「おめでとう」という言葉も、ギリシア語を直訳すれば、「喜びなさい」という意味になります。「あなたに喜びがありますように。おめでとう!」という意味です。
ルカは、「マリア、神さまの愛の中に選ばれている者よ、おめでとう。あなたも喜びなさい」という天使の言葉によって、「喜びなさい」という神さまの思いを、このところに記録しているのだと思うのです。
「おめでとう」、「めでたい」という日本語、この「めでる」という言葉は、「実際に自分の目で見て本当にいとおしい」という意味があるのだそうです。神さまがマリアを、すでに慈しみをもって、いとおしいと感じながら見ていてくださっているということでしょう。神さまが慈しみをもってマリアを選び、めでられたのです。
御子を宿すということは、この時のマリアにとって、必ずしも喜びであったとは言い切れません。
この先、マリアとヨセフが幼子イエスさまを連れて神殿に行った時、シメオンという名の老人が、幼子を見るなり神さまを賛美し、そして預言をしました。「シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った『御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。』」(ルカ2:34)
シメオンは、苦しみと悲しみの預言を語りました。マリアは、この預言の言葉のもとに、御子の子育てを始めなければならなかったのです。
この福音書を書いたルカは、そうしたことを承知の上で、しかも、それにもかかわらず、この苦しみの預言に先立つ、「おめでとう、恵まれた方」という天使の呼びかけによって、マリアが「神さまの愛の中にすでに選ばれている者」であることを記します。
神さまの恵みの決断、神さまの喜びを知らせる決断、その神さまの決断がまず最初にあって、私たち信仰者はそれを受けるように、神さまの恵みに応答し、決断していくのです。
私たちがどのような決断をする時にも、マリアと同じように、「お言葉」が先だってあるということです。そして、お言葉に心の耳を澄ませて聴いた者が、「あなたのお言葉どおりこの身に成りますように」という祈りをもって応答していくのです。
Ⅳ.神さまの決断に支えられ
神さまがお始めになられたお働きは、神さまの定めた時に必ず実現する。世界の片隅で始まった小さな幼な子の物語、これが世の終わりまで揺らぐことなく続いていくのです。そして、救いの完成にまで至るのです。
その最初の1頁、おとめマリアの決断をもって、神さまの救いの御業は実行へと移っていきました。
マリアを見るように、神さまは私たちをご覧になっておられます。慈しみをもって、いとおしいと感じながら見ていてくださるのです。
そして、私たちのために御言葉を用意し、家庭や学校、職場、地域で、神さまの救いのご計画の一端に参加するようにと私たちを召しておられます。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と、マリアのように、その召しに心から応答する者として生かされていきたいと願います。お祈りします。