カテゴリー
アドベント ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教

神を教える―人生に確かな土台を築くために


2016年12月11日 第三アドベント
ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
マタイによる福音書7章24~27節

Ⅰ.「全人的成長」-「高座みどり幼稚園ミッションステートメント」から

高座みどり幼稚園は「ミッションステートメント」の中で、「子どもたちの全人的な成長を祈り求め」ることを謳っています。この「全人的な成長」という言葉ですが、例えばルカによる福音書2章52節には「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」とあり、ここに幼子イエスさまの知的、身体的、社会的、そして霊的成長ぶりが報告されています。

Ⅱ.人間の霊的側面―聖書の人間観

「霊的成長」と言った時の「霊的」いう言葉はあまり聞きなれない言葉のように思えます。ところがWHO(世界保健機関)は「健康の定義」に、この「霊的」という言葉を使っているのです。このことは、人間が身体的、精神的、社会的存在であると共に霊的な存在でもあるという考え方が世界基準になっているということでしょう。
ではこの人間の霊的な側面とは何を意味するのでしょうか。
ギリシア語で「人間」を意味する「アンスロポス」は、元々「上を見上げる存在」という意味です。そして当然、上を見上げる時の「上」とは永遠なる生ける神のことを意味します。つまり「人間が霊的な存在である」とは「上を見上げる存在だ」と言う意味なのです。
聖書によれば、神は人間を良いものとして創造されました。神さまから「あなたは大切な人です」と語りかけられている存在、それが私たちです。ですから、人間はそうした者として生かされて、神さまからの「あなたは大切な人です」という語りかけを受けて生きる時、本当に人間らしい生き方が出来るのです。
ところが、その神さまとの関係が途切れると、本来、神さまからの愛をもって埋めなければならない心のすき間を、私たちは別の何かをもって埋めようとするのだと、聖書は教えます。その別の何かとは、マタイによる福音書4章で、サタンがイエスさまを誘惑した時に提示した3つのものがそれを表わしています。1つはパンに代表される様々な持ち物、2つ目は人々からの称賛や評価、3つ目は権力、力です。そうした代用品によって心のすき間を埋めようとしてしまうのが私たち人間です。でもそれらはあくまでも代用品にしかすぎません。心のすき間を埋めることができるのは、神さましかおられないのです。聖書はそのように教えています。

Ⅲ.土台をはっきりとする

今日の聖書箇所でイエスさまは2種類の生き方を示しています。1つは賢い人の生き方で、岩の上に家を建てるような生き方です。もう1つは愚かな人の生き方、砂の上に家を建てるような生き方です。
家を建てることは人生の大事業です。ですから一度限りの掛け替えのない人生のことをイエスさまは「家」にたとえてお話されたのです。ここで賢い人も愚かな人も、共に家を建てました。新築の家、そのどちらにも雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲い掛かりました。全く同じように、です。
ところがその結末は全く正反対です。片方はびくともしない。もう片方は倒れ、しかも倒れ方がひどかったのです。両者のどこが違うのかと言えば、それは土台でした。片方の土台は岩だったのに対して、もう一方は砂だったからです。
ところで、土台というものは普段は建物の下に隠れていて目には見えません。でも、いざと言う時に物を言うのが土台なのだと、イエスさまは言われるのです。
ここでイエスさまは、ご自身が話された教えのことを第一義的に土台として語っておられるのですが、その教えを丁寧に読んでいくと、その土台とは、神さまとの正しい関係、また聖書に基づく夫婦の関係、親子関係、人間関係、さらに自分自身との関係について、語っておられることが分かります。
「関係」そのものも、実際は目に見えないものです。しかも、生きていく上で非常に大切なのです。例えば、仕事において何年か経つと必ずといってよい程、責任が増えて来ます。当然忙しくなります。次第に仕事の楽しさも分かってきます。そのように目に見える働きや世界が拡がって来るのです。イエスさまはそれを家にたとえておられます。そして、その家を支えているのが土台です。その土台が、目に見える働きの世界が拡がって来るのと比例して地中深くにしっかりと根を張っていなければ、大きくなる建物を支えきれずに、何かの拍子に倒れてしまうことが起きますよ、というお話です。
教会では結婚するカップルのために、『二人で読む教会の結婚式』という本を課題図書としています。その本の中で著者がこんなことを言っていました。「よい夫婦になるための秘訣というようなものを、簡単に言うことはできないと思いますが、でもそれに近いものはあると思います。それは、『いつまでも夫と妻でいること』です」と。
ここで言う「よい夫婦になるための秘訣」とは、今日の表現を使えば、「しっかりとした土台としての夫婦の関係を築くための秘訣」と言い換えられると思います。そして、それを一言で言えば、「いつまでも夫と妻でいること」だと言うのです。
確かに「夫」という言葉も「妻」と言う言葉も関係を表わす言葉です。夫は妻がいるから夫ですし、妻は夫がいるから妻です。「妻はいませんが、私は夫です」という人はいません。当たり前ですが、夫というのは必ず「誰々の夫」ですし、その人が妻であるならば、「誰々の妻」となります。とすれば妻が自分を妻であると意識することができるのは夫の存在があるからで、その夫が遠くに行ってしまったら、もちろん物理的な距離ではなく精神的な距離のことを問題にしているわけですが、その夫が遠い存在となり、妻は自分を妻として意識できなくなることが起こり得ます。
そうなると妻はふと考えるかもしれません。「私は何なのかしら」と。そして周りを見回すとそこに子どもが居る。「ああ、私はこの子の母親なんだわ」と思います。そして良い母であることに自分の存在価値を見い出そうと努め、こうして母になった妻は子どもに全力投球し始めるのです。そして、これは「子どものため」と言いながら実は自分が良い母親である、という評価を得たいがための努力かもしれません。これは子どもにとってはとても迷惑なわけです。
また、夫が会社で仕事の責任が大きくなり、そこにまた喜びや充実感を感じ始める中どうしても仕事を第一にして物事が進むことが起こります。ここで夫は完全に会社員になります。その結果、「妻」が「母」になると言われます。
これは関係性の変化です。そして前と変わらず2人は同じ家に住み、同じように暮らしながら、夫婦が一緒に生きているのではなくて、会社員と母が同居しているだけになる。その結果、互いが「空気のような存在」になると言われます。
「関係」とは、元々は建物の土台に当たる部分ですから決して目に見えません。生活全体を支えるはずの夫婦という目に見えない土台が「空気のような」関係ならば、何かが起こった時に、簡単に崩れてしまうのではないでしょうか。そしてその崩れ方、倒れ方はひどいのです。
今まで、このファミリーチャペルで何度もお話してきましたが、子どもにとって一番幸いなことは、お父さんとお母さんが互いを大切にし合っている状態です。お母さんが、いくら子どもである自分のことを大事にしてくれたとしても、お母さんにとっての夫、子どもにとっての父親をないがしろにしていたら、子どもは少しも幸せになれないのです。いや、安心できません。心の中で、「ボクのことは後でいいから、お父さんのことやってあげて!」と言いたくなるでしょう。土台が危ういから、子どもは不安になるのです。

Ⅳ.賢い生き方を選び取る

今日の聖書の箇所でイエスさまは、この世界には賢い生き方と愚かな生き方の2つがあるが、あなたは賢いほうの生き方を選び取りなさい、とはっきりと勧めています。
今までに、神さまとの関係も含めて、夫婦の関係や家族の関係など、その関係を大事にしてこなかったことがあったかもしれません。もちろん、そうした過去にやってきたことを書き換えることは出来ないでしょう。やったことをやらなかったことにすることは不可能です。
でも、これからのことについては、これからどう生きるのか、そのことは私たちのこれからの選択にかかっているのです。その選択の結果、私たちはどのようにでも変わり得るのです。
イエスさまは、賢いほうの生きかたを選び取りなさい。聖書の言葉を行う人、生きる人になりなさい。それこそ岩の上に家を建てた賢い人なのだ、と教えています。ぜひ、こちらを選び取って行きたいと願います。お祈りいたします。