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アドベント 主日共同の礼拝説教

産みの苦しみ

2016年12月11日 夕礼拝
和田一郎伝道師
イザヤ書1章2~10節
ガラテヤの信徒への手紙4章17~20節

Ⅰ.はじめに

前回の箇所でパウロは旅の途中で病気が悪くなった事で、ガラテヤという町に滞在することになり、人々の心を信仰へと動かすことができました。それを見ますと何が益とされるか分からないものだと思います。一見つらい出来事も、神様はそれを超えたご計画をもっています。パウロの熱心には感染力がありました。しかし、同じ熱心でもそれがどこから来たものなのか?パウロがガラテヤを離れた後、パウロの教えとは違うユダヤ主義の伝道者がやって来ました。
17節「あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。」

Ⅱ.「熱心」に惹きつけられてしまう誘惑。

私たちの人間的な目から見ると、自分に対して熱心に接してくれる人がいると、ついつい嬉しく思ってしまいます。ですから、その「熱心」に惹きつけられてしまう誘惑があります。そのような熱心さには、一見、自分の満足を満たしてくれるようなものがあるからです。そういった熱心さに向き合った時、私たちは試練として試されているのかも知れません。イエス様も荒れ野でサタンと誘惑に遭いました。
「この世のすべての国々とその栄華を見せて、もし悪魔を崇拝するなら、この世の栄華を全部あなたに差し上げましょう。」という誘惑です。私たちにも、目の前にあること、すぐに得られる結果を見せて、イエス様の言葉を気にしなくてもいいと誘い込みます。けれどもイエス様に従う道は、得てして患難があります。キリストの教えとこの世の価値観は反対であることが多いのです。ですから忍耐を必要とします。それらを通して練られた品性、希望が与えられるものです。
18節にあるように、パウロと一緒にいる時は正しい信仰があったのに、パウロのような指導者がいなくなると、途端に別の行動を取ったのです。信仰者は、自分が福音の真理に従って歩んでいるのかを吟味する必要があります。
19節は、パウロの正直な思いが現されています。自分とガラテヤの人たちを、親子の関係にたとえて「もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいる」と言っています。これはもう一度、救われていないという前提で福音を語らなければいけない、初めからやり直しだということです。

Ⅲ.聖徒の堅忍  キリストを主として歩む“道”

一度イエス・キリストを信じて、信仰を持った人が、まったく信仰生活から離れてしまうことがあります。「以前はクリスチャンだったけど、今は違う」と言ったりする人がいます。しかし、これはカルヴァンが主張したことですが「聖徒の堅忍」といって、一度救われた人は絶対に滅びないのです。イエス様は「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(ヨハネ福音書10:28 )と、おっしゃった通りです。しかし、信仰をもって日々生きている人と、そうしていない人とは、歴然とした違いがあります。善い交わりや御言葉からの養いがないわけですから、恵みの違いは明らかですし、歩むべき道が分からなくなってしまう。ガラテヤの信徒は、そういった間違った道を歩もうとしていたのです。
「道」という漢字は、「首」という字に「しんにゅう」がついてできた漢字です。「しんにゅう」は人が歩いて行く姿を表しているそうです。「首」とは何かと言うと、「かしら」ですから、すなわち私たちの頭、イエス・キリストが共に歩いて下さる人生になります。そしてその人生が、「かしら」なる「主」によって歩くときに、本当の道ができるといいます。
20節でパウロは、どうしていいのか「途方に暮れている」と言わしめる状態でした。以前、一緒に語り合った時のように親しい語調で、懇切丁寧に教えたいところですが、彼らは信仰理解だけではなく、パウロの使徒としての権威も疑ってしまい、パウロとの関係自体も危うくなっていました。すぐさまガラテヤに飛んで行って話しをしたい。パウロの苛立ち、ジレンマが現れています。

Ⅳ.「クリスチャンの交わり」

ガラテヤの信徒は、かつてパウロのことを、まるで神の使いでもあるかのように、接してくれていました。それなのに、今度は熱心に言い寄るユダヤ主義者の教えに傾いて、パウロの事を信頼しなくなっていました。
ボンヘッファーという、ドイツの神学者は『共に生きる生活』という本の中で、信仰者の交わりは、あくまでキリストにあっての友だと言うのです。その友を、自分の愛をもって規制したり、強制したり、支配したりする誘惑から、友人を自由にしなければならないのです。その友はキリストに愛されています。私と出会う前からイエス様は友に対して、決定的に行動されていたのですから、私は友人をキリストのために自由にするべきですし、規制したり、強制したり、支配したりする誘惑から友人を自由にしなければならない。私たちはキリストの為にある者として、出会うべきであると、ボンヘッファーは言うのです。それがキリストにあって友であるという意味です。

Ⅴ.「産みの苦しみ」 19節

私たちは、本当の主を信じたことで、新しい命が与えられ、生まれ変わりました。イエス様はニコデモというファリサイ派の議員と、ある晩、こんな事を話されました。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と。しかし、ニコデモは「もう一度母親の胎内に入って生まれることができましょうか?」という、ちょっとちぐはぐな会話をしました。罪の中に生きていた、古い私たちが、新しく生まれることができる。その為の、産みの苦しみを担ってくださったのはイエス様です。イエス様は神の身分でありながら、私たちの救いの為に、産みの苦しみを担いに、この世に、来てくださいました。それがクリスマスの出来事です。神の身分である方ですから、わたしたちの罪を、言葉で宣言すること、「赦します」というみ言葉で、一瞬で赦すこともできたかも知れません。しかしイエス様は、そうはしませんでした。私たちの中で生きることを選ばれ、私たちの為に苦しむ事、そして死ぬことを選ばれました。なぜでしょう?
それは、そこに神の愛が示されているからです。苦しみや痛みの中に、神の愛が示されています。神様はあらゆる力を備えた全能の神です。それと同時に愛の神様、愛そのものが神です。愛なる神様は痛みや苦しみを知らなかったり、無関心であったり、まして痛み苦しみを感じない方ではありません。十字架の痛み苦しみ、そして死の恐怖を、人が感じるのと同じように担うという、救いの道を選んでくださいました。人を支配したり統治する力ではなく、痛み苦しみという弱さのうちに完全に現わされました。私たちの命を新しく産みだす十字架の苦しみ、これ以上に大きな愛はありません。

Ⅵ.まとめ

パウロはガラテヤの信徒たちに、感情を込めて、自分の心情を訴えました。それは、信仰をどうか失わないで欲しい、新しい命を得るために、イエスキリストが担ってくださった、痛み、苦しみを知れば知るほど、信仰から離れた兄弟姉妹への思いは強くなります。教会から離れている、尊い命。その命にもイエス様の、優しい眼差しが、注がれています。
「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ福音書22:32) アドヴェントのこの時期に、イエスさまのご降誕と私たちの救いの為に、産みの苦しみを担ってくださった事を覚えながら過ごしたいと思います。お祈りします。