2017年1月1日
松本雅弘牧師
申命記7章6~13節
コロサイの信徒への手紙3章12~17節
Ⅰ.愛という装いを身にまとって生きる年にしたい
今年の主題聖句として、コロサイの信徒への手紙3章16節が与えられました。神さまは素晴らしい御言葉を私たちに備えてくださったと思います。
この御言葉を読む時、まず第1に「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」という勧めが目に飛び込んできます。今年は、信仰生活の5つの基本④「主にある交わりに生きる」をテーマとして過ごしていきます。私たちの「主にある交わり」とは、キリストの言葉、すなわち聖書の言葉を豊かに宿す交わりです。そのような豊かな交わりを祈り求めていくように、という教えの言葉です。
私たちを成長させるための手段として、神さまは何故「主にある交わり」をお用いになるのでしょうか。それは、箴言27章17節に「鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される」とありますように、御言葉なるイエスさまが、私たちを訓練なさる方法、それが「主にある交わり」によるからです。
Ⅱ.三位一体の神さまの素晴らしさを表わす統一性と多様性
一昨年4月から「ファミリーチャペル」を始めました。これは、こども園や教会学校の保護者の方たちにイエスさまのことをぜひご紹介したいと考えて始めたのです。ここでは特別賛美に加え、「ゴスペルソング」と呼ばれる『讃美歌21』以外の賛美も、礼拝に導入しました。戸惑いを覚える方もおられたかと思います。
そのような中で、昨年夏過ぎに「2017年の主題聖句」として、このコロサイの御言葉が示されました。その時、「ファミリーチャペル」を始めたことで、高座教会の私たちが、今、体験していることが、私たちだけの経験ではなく、実は、初代教会でもすでに取り組んでいた課題であることを知らされたのです。16節では「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」と言われています。ここに「詩編」「賛歌」「霊的な歌」とあるように、初代教会では、少なくとも3つのジャンルの賛美歌が用いられていたのです。その結果、賛美のこと、そして当然、礼拝スタイルも含むさまざまな葛藤が教会の内部に生じていたのでしょう。
その実情を踏まえてパウロが示した問題解決の方法は、多様性を否定してひとつにまとめていくのではなく、むしろ多様性を受け入れる寛容さを身に着けた教会として成長していくという方向性でした。
「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」という多様性と共に、それに対して、パウロは15節で「一つの体とされたのです」とキリストにある一致を説いています。
私たちはキリストにあって1つなのです。そして同時に、キリストの体にはそれぞれの部分があるように、神さまに対する応答の仕方、賛美の仕方も、すでにコロサイの教会において多様性が認められていたということでしょう。
私たちの神さまは三位一体の神であり、父・御子・聖霊という三つのご人格を持ち、なおかつ唯一の神であることから、その「三」という数字が示す多様性、「一」が示す統一性という両方のご性質を帯びた神がお造りになった世界、そこには統一性と共に多様性がちりばめられた世界でもあるということです。まさに教会も、その中に含まれるわけです。
Ⅲ.愛という装いを身にまとうこと
その多様性を認め合うために必要なこと、それが「すべてを完成させるきずなとしての愛」だとパウロは説いていきます。
教会は成長するにつれ、当然そこには男女のちがいがあり、また、ちがった背景から救い出された者が集うということがあり、世代間のちがいもあるでしょう。
そうした異なる私たちが一つとなって神さまを礼拝する時に、当然、ちがいが対立の原因になりやすいのです。ですから、神さまがそれぞれのクリスチャンをそのあるがままの姿で受け入れてくださったように、私たちも愛をもって互いに受け入れ合うようにと、パウロは勧めるのです。そしてその時、具体的に必要となる愛の形が「寛容さ」という愛です。
この説教の準備をしている時に、「キリスト者学生会のニュースレター」に目が留まりました。そこに「若者を教会へ」というタイトルの青山学院大学の藤原淳賀先生の巻頭言が掲載されていました。興味深く、また考えさせられる点が多くありましたのでご紹介します。
〈「若者を教会に」というテーマをもらった。「若者が神のもとに来るようにするにはどうすればよいだろうか」と問うているなら、それは誤った問いである。なぜか? 若者は神のもとに来たいからである。イエスさまのもとには大勢の人々が押し寄せていた。イエスさまのことが好きだった。イエスさまの愛を、受容を、清さを、力を見、惹かれていた。若者に限らず人々はイエスさまのもとに来たい。人々は真理を求め、善を求め、美を求め、清さを求めている。人々は光を求め、そして愛を求めている。それは神のご性質である。神によって造られた人々は、まちがいなく神を求めている。青年は神を求めており、神のもとに来たいと思っている。しかし、教会に青年がいない。なぜか? 教会がキリストの体となっていないからである。教会が教会となっていないからである。教会が分離主義者のパリサイ人の集まりのようになっており、「変な変わった人」の集団になっているからである。教会が現実主義者のサドカイ人の集まりのようになっており、聖書は持っていても他の世の団体と変わらない「もう1つの集まり」になっているからである。正しい問いは、『「人々が、また青年が、教会に来ることを押し留めているものは何か?」である。
文化とは有限なものであり、時代と共に変わるものである。文化は自然的なものの上に、人間の手が加わり生み出される。長い時間の中でその特定の地域、時代性を反映している。文化とは常に相対的なものであり有限なものである。ある特定の文化を聖なるものとして絶対化することはできない。相対的なものの絶対化は、即ち偶像礼拝である。教会文化が、人々をイエスさまから遠ざけることがある。ある特定の楽器を使い、ある特定の形式を行うことが由緒正しく正真正銘の礼拝であると考える事は誤りである。特定の賛美歌集のみを神聖視する事。特定の服装を聖なるものと考える事。特定の屋根の形をした礼拝堂を本物であると考える事。これらも誤りである。何をもって、それらを正統で特別に聖なるものと考えるのか? それらは多くの場合、イエスさまの時代になかったものではないだろうか。それはあなたの「好み」であり、あなたの都合である。礼拝とは、神に捧げるものであり、神が何を求めておられるかを第一に考えなければならない。礼拝は、あなたの好みで、あなたの満足のために行うものではない。賛美には、パイプオルガンを使ってもいいし、アカペラでもいい。ギターを使ってもいいし、竪琴でもいい。大切なことは、その状況で神を最も崇めるために、相対的である文化のどの音楽を用いるかを考えることである。(中略)
今までのキリスト者や教会の努力があり、また海外のキリスト教の遺産ゆえにキリスト教に対するよいイメージがある。人々は、機会があれば教会に行ってみたいと思っている。しかし、教会に来た時に、教会に愛がなく、受容の雰囲気がなければ、人々は二度と教会に来ない。教会はキリストの体であり、神の性質を反映していなければならない。イエスさまはどんな理由があっても、人々がご自分のところに来た時に、彼らを受け入れられた。
病の癒し、食べ物、優しさ、赦し。どんな理由であっても、ご自分のところに来た人を受け入れ、その必要を満たし、彼らを父なる神の方へと導いて行かれた。そのように生きる教会には神は青年を送られるのである。〉
私は、創立70周年を迎える高座教会の現状と重ね合わせながら読ませていただきました。そして、次のような問いが与えられました。
教会内で少数派である若者たちをどのように受けとめていくか。いや、若者たちが生き生きと信仰生活を送るために、上の世代である私たちに今できることは何なのか。こうした問いかけは、今の高座教会にとって、大変重要な課題のように思わされたのです。
Ⅳ.愛という装いを身にまとって生きるための秘訣―神の愛に包まれる経験
最後にもう一度、コロサイ書の御言葉に戻ります。
ここでパウロが語っていることをひと言で表わすならば、「愛という装いを身にまといなさい」ということです。
私たちクリスチャンにとって「愛の人になる」ということ、これはエクササイズのテーマでもある「キリストに似た者となること」であり、私たち一人ひとりが祈り求めていくべき大事な目標なのだと改めて知らされます。
私たちはすでにキリストの十字架と復活の恵みによって、「神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている者」です。ですから、すでにそうされた者としてキリストから離れずに歩むように、それが「信仰生活の秘訣だ」とパウロは教えています。
「主にある交わり」の中で訓練を受けた弟子ヨハネも「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(ヨハネの手紙一4:19)と言って、「ぶどうの木であるキリストの愛の内に留まる」ことで、愛の人になりなさい、と勧めたのです。
新しい年、「主にある交わり」の中で成長し、愛という装いを身にまとって生きる年となりますように。お祈りいたします。