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主日共同の礼拝説教

主イエスにとっての成人式

2017年1月8日
成人のお祝い
松本雅弘牧師
詩編84編1~13節
ルカによる福音書2章40~52節

Ⅰ.ユダヤ社会における成人式

イスラエルにも成人式がありました。男子は「バル・ミツバ」、そして女子は「バット・ミツバ」と呼ばれる儀式です。男子は13歳、女子は12歳でそのお祝いをします。
「ミツバ」とはユダヤ教の律法のことで、ユダヤ社会における成人の条件は、この律法を十分に理解しているということにありました。
今日の聖書の箇所は、イエスさまが成人を迎える前年に、過ぎ越しの祭を祝うためにエルサレム巡礼に行き、その帰りに起こったエピソードが記されています。
今日は、今年成人を迎える方たちを祝福する「成人のお祝い」を、この礼拝の中でおこないます。イエスさまにとっての成人式について思いめぐらしながら、聖書の教える大人になることの意味について、ご一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.成人式を控えた人の子イエスの葛藤

この時、イエスさまは12歳で、成人式を翌年に控えた年齢でした。そのイエスさまが、もうすでに誰もが成人として認めてもよい程、いや、むしろ周囲の人々を唸らすような深い律法理解を示していたのだ、ということを、この聖書個所は伝えています。
ここで注意していただきたいことは、当時の12歳の男子は、現在の12歳、小学6年生とは比べものにならない程、精神的な面で大人であったという点です。当時の12歳は、すでに色々な責任を任されていたことでしょうし、翌年の13歳には、ユダヤ社会で大人の仲間入りを果たすわけですから、それなりの自覚を持って生きていたことだと思います。
エリクソンという心理学者は、私たち人間の成長を「8つのライフサイクル」に分けて説明しています。それによれば、今日のテーマである成人、つまり私たちが大人になるということは、「8つのライフサイクル」のうちの第5段階、すなわちが、「アイデンティティーの確立」ということが、大人になる上での条件、青年期の課題なのだと考えています。わかりやすい言い方をすれば、「自分が何者であり、
何をしたいのか」が分かるということです。
シンプルな社会では、例えば、バンジージャンプのような儀式を経て、もう次の瞬間、大人になると言われます。ところが、今日の日本のように、高度に発達し、しかも複雑な社会においては、「自分が何者であり、何をしたいのか」の答えを見つけるのが本当に難しくなっていると言われます。
「8つのライフサイクル」によれば、この第5段階は、12歳から25歳と言われますが、最近の社会においては、場合によっては35歳から40歳くらいになってもまだまだ、そうした「自分探しの旅」、「自分が何者であり、何をしたいのか」という2つの問いに対する答えを見つけるのが本当に難しくなってきているように思います。
今日の聖書箇所に戻りましょう。ここで1つ、基本的なことを確認しておきたいと思います。それはイエスさまも100%人間であられた、ということです。もちろん、イエスさまは100%神さまです。
キリスト教の基本教理に「二性一人格」という教理があります。イエス・キリストは真の神であり真の人であるという教えです。
これはなかなか分かりにくい点だと思います。つまりイエスさまは私たちと同様に、マリアに乳を飲ませてもらい、ヨセフの保護がなければ生きてはいけない限界を持つ人間として成長されたわけなのです。そのことの証拠として、52節には「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」とあり、「知恵が増し」、「背丈も伸び」という知的、身体的成長ぶりを伝えています。
祭りに来る前のイエスさまは、成人式を控えた男子としてナザレの村で生活をしていました。当然ですが、イエスさまも、人間であれば誰でもが経験する、先ほどのエリクソンが提示した、青年期特有の課題、すなわち「自分は誰で、どのような存在なのか、自分は何をしたいのか」という問いに対して、自分なりの答えを見つけようとする、そのような時期を歩んでおられたことだと思います。
そしてこの時期になると私たち誰もが経験することですが、子どもにとって絶対的なモデルである両親の姿の中に、弱さや欠点を見つけ出すようになるのです。
大人であるはずの両親の言動に「子どもじみたもの」を感じてしまい、失望感を味わう経験をするものです。当然、社会との接点も拡がり、今まで持っていた「大人」というモデル自体も崩れてきます。実は、そうしたプロセスを経て、私たちは次第に人間として自立していくわけです。
これが、ユダヤ社会において成人式を控えた人間イエスさまの心の中にあった葛藤であり、その時期の課題だったのではないかと考えられます。
このことを踏まえて、49節のイエスさまの言葉の背後にある、その思いに注目したいのです。ここでイエスさまは、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と言っています。神殿を指して「自分の父の家」と呼んでいるのです。
この発言は何を意味しているか。それは、この時、イエスさまが母親マリア、そして父親ヨセフに訴えたかったことは「神殿こそが、自分の父の家なのだ」ということです。もっと言えば、「自分の父は神であり、自分は父なる神の子なんだ」ということです。
この発言はご自分は神の御前で礼拝を捧げ祈る中、自分にとっての本当の父親が神であり、そのお方との関係の中で自分が一体何者なのかを改めて確認することができた、そういう発言に聞こえて来るわけです。
ここで大切なことは、まさに1年後に成人式を迎える若者として、「自分はいったい何者なのか」という、大人になる上で取り組むべき大切な問いかけに対する答えを発見した時の発言であったということです。

Ⅲ.父なる神との関係の中に自分を位置づける

私たちは誰でも完璧な両親によって育てられたわけではありません。実の父親なり母親から、良いものも、そして場合によっては、悪いものも引き継いで今の自分になっています。しかも、親との関係において様々な葛藤やトラブルも経験します。
実の親から虐待を受けた人は、事ある毎に「自分は本当に生きていていいのだろうか」と自問せざるを得ない日々を過ごし、また、「こんな親に育てられたから、こんな自分になってしまった」という思いが、いつまでも心を支配する。その結果、親からなかなか離れられず、自立できない自分がいる、という証しを聞いたことがあります。
それでは、どうしたらいいのでしょうか? 答えは「イエスさまに倣う」ことです。イエスさまは神殿に行き、神さまに心を向けるようにして礼拝なさったのです。
それと同じように、私たちも礼拝に出て、語られる御言葉の前に、「肉親を超える神という存在との関係から、今の自分を受け取り直す」、「神との関係において自分自身を位置づける」ことです。
分かり易く言えば、神さまが私をどのように見、どのように受けとめておられるのか、そのことを御言葉から受け取り直すことです。イエスさまが、神さまとの関係において自分自身を見出し、神さまとの関係の中で答えを見つける時、それが、イエスさまにとって、大人になる決定的な経験となったように、私たちにとっても、そのことが大人になる上で、とても大切な経験となり、本当の意味での成人式となるということなのです。
私たちは、一人ひとり異なる経験を経て今の私になっています。人に愛され、また、傷を負わされることもあります。家庭の事情も異なるでしょう。
そのような私たちですが1つだけ共通点があります。母親や父親、場合によっては育ての親からもらえなかった「最も根本的な愛」、それが、肉親や育ての親を超える最も大きな存在、すなわち神さまから来るということです。
何故なら、私たち一人ひとりは、神さまに造られ、神さまに愛されている存在だからです。特定の親から生まれ、育てられるのですが、でも根本的には神から生まれ、神に育てられた私たちです。神こそが私の本当の親であり、私は神の愛する大切な子どもです。これが聖書の教えるアイデンティティーです。
イエスさまは神殿の中でそれを知ったのです。だから、私たちもまた、自分の過去の境遇を嘆く必要はありません。
私たちは神に造られ、神に育てられた神の子です。この神においてこそ、本当の意味で満たされる経験が出来る。このお方においてこそ、本当の意味で自分を見出すことができる。1個の人間として歩み、生きることが許されているからです。

Ⅳ.神の愛を知る―愛する人へと成長するために

この後、イエスさまは、ここまで苦労して育ててくれた両親に対して、感謝と尊敬をもって仕えて行かれました。そして私たちも同じです。場合によっては、両親との和解や仲直りが必要なことがあるかもしれません。これは、神さまに立ち帰って初めて動き出す恵みだと思います。
神さまとの関係で自らを知る。それをこの年も大切にしていきたいと願います。お祈りします。