2017年1月22日夕礼拝
和田一郎伝道師
出エジプト記19章3~6節
ガラテヤの信徒への手紙5章1~15節
Ⅰ.信仰の成長のために
クリスチャンとして、霊的に成長するというのは、子どもが成長することとよく似ているのです。江戸時代の躾の在り方に、「三つ心、六つ躾、九つ言葉、十二文、十五理で末決まる」というものがあります。この中でも最初の3歳までの「心」がとても大事でしょう。心がしっかりしていないと、その後の成長が難しいわけです。
信仰の成長も似たようなところがあります。この手紙が書かれた頃は、ガラテヤの人々がキリスト者になってまだ2~3年程でした。本当でしたらパウロのような先生がずっと面倒を見られたら良かったのですが、パウロは他の宣教地で働いていました。一見、順調にイエス・キリストを主と信じて、信仰生活を守っているようでしたが、間違った信仰理解をするようになっていたのです。
神様の恵みによる信仰だけで、義とされるという信仰の核心部分が整わないと、その後の成長が難しいのです。信仰によって救われた者は、信仰によって成長します。しかし、律法も必要だと受け入れたら、そのあとの信仰生活でも、ずっと律法を守っていく必要が出て来てしまう。イエス様が十字架で成し遂げられた救いの真理は、そんなものではないのです。十字架の贖いによって、それらの律法を守らなければならないという呪縛から自由にされたというのに、なぜ以前の奴隷のような状態にもどろうとしているのか。5章1節で「しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」と、パウロは言うのです。
Ⅱ.「自由」の身にされた
パウロは今日の聖書個所の1節で、「イエス様は自由を得させて下さったのだから…」と「自由」について切り出します。一般的な自由という意味とは少し違って、パウロはイエス様の贖いによる関係で、自由という言葉を使っています。それは罪と律法からの解放であり、死からの自由を表しています。人間が罪から逃れられない奴隷として生き、アダムの罪ゆえに死が私たちの中に入りました。この罪をキリストが十字架にかかり死なれた事で、負債が清算され、永遠の命が与えられました。従って、自由というのはキリストの救いによって成立し、キリストの愛ゆえの自由です。ですからこの自由は、神様から離れて何所へでも行ける自由などではなくて、イエス様が愛されたように、愛を持って互いに支えるという重荷を負い合うことへの自由です。
罪から自由になるためには、キリストの愛によってでしかなく、この自由にあずかるのはキリストへの信仰のみです。キリストへの信仰だけが、「罪」からも「律法」からも「死」からさえも自由になれるのです。この正しい信仰をもって成長していって欲しい。それがパウロの願いでした。
2節、この信仰に律法を付け加えるようなら、その後の信仰の成長が鈍くなる、といったものじゃない。成長が鈍るどころか、まったくキリストとは関係のない人になってしまう。4節で「縁もゆかりもない者」だとしています。キリストと関係のない信仰者であれば、以前のユダヤ教徒と同じで、613個もあった律法を行わなければならないのです。それを守り通せる人は誰もいないわけですから、成長どころか、一生罪の奴隷のままになってしまうのです。
パウロは5節で「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。」というのです。本当ならば、キリストを主と信じる者は、「義とされたことを喜んでいます」といってもよさそうなところです。しかし、パウロはここではそうはいっていない。義とされるということを何か既得権があるかのようには言わないのです。「義とされることを…待ち望んでいる」というのです。
救いという神の恵みを、自分のポケットに抱え込んでしまわないのです。上から与えられる、待ち望むという姿勢を崩しません。しかもパウロは「霊により」と、自分の力とか、自分の信仰の確信とか、そんなものではなくて、「霊により」つまり「神の力に支えられて」ということです。それが「信仰に基づいて切に待ち望む」という言葉につながっていくのです。もし律法によるのなら、「自分で行う」ことに主眼がいきます。しかし待ち望むという、ここにも律法主義的な救いとの違いが示されています。
6節「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではない」といいます。確かにパウロは「割礼」そのものを論じているのでもありません。パウロがテモテを伝道旅行に連れて行くに時にも、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けました。救いの条件として割礼を否定していましたが、ユダヤ人の習慣としか認識しなければ、パウロが「福音のためなら、わたしはどんなことでもする」と、その自由さ、柔軟さの中で、テモテに割礼を授けていました。
Ⅲ.愛によって全うされる
6節で「愛の実践を伴う信仰」と、訳しておりますが、口語訳では「尊いのは、愛によって働く信仰」となっています。愛の実践がないと、信仰がないように誤解してしまいがちですが、そうではありません。信仰は愛を生み出すものです。というのは、信仰は何よりも自分という自我から解放されることだからです。
7節以降から、「いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか」と、ガラテヤの信徒たちを惑わすユダヤ人を真っ向から非難しだすのです。しかも12節では「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。」とまで激しく言い放ちます。その前の11節のところで、パウロは「兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。」というのです。パウロは、自分の先輩ともいうべきエルサレム教会に対して、割礼は必要ない、大切なのはただ神の恵みだけを信じる信仰だと言ってきた事で、迫害を受けてきたのです。そして「十字架はつまずきだ」とパウロはいうのです。福音を信じるということは、十字架を信じるということです。しかし、その十字架を信じるということは、そうやすやすと信じられるものではないでしょう。それは神の子であるキリストが、無力にも十字架で人の手によって殺されてしまうかのようです。神の子がそんな屈辱にあって、それが救いに導くことになるなんて、これは人の知恵からすると愚かに見えるわけです。しかし神様はこの世の、人間の高ぶった知恵を、愚かにさせるためにそうなさったのです。この世は、人間の知恵で神を知ることはできないからです。
Ⅳ.愛によって全うされる
パウロは13節から、愛がすべてを包摂していると、まとめています。パウロは、先ほどの割礼そのものを否定したのではないと言いましたが、同じように、律法についても、救いの手段としては否定してきましたが、律法を大切にすることを否定したわけではありませんでした。14節「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされる」と、イエス様の十字架の愛というものが、律法すべてを満たしていると言っています。「隣人を自分のように愛しなさい」というのはレビ記19章の偉大なる言葉です。
Ⅴ.善いサマリア人の愛
イエス様もこの言葉を重視しました。「善いサマリア人」の話しの前に、律法学者が、「どうすれば永遠の命がもらえるか」と質問した時に、「隣人を自分のように愛しなさい」という律法に書かれている言葉のとおり「あなたもそのようにしなさい」と言われました。しかし律法学者はさらに質問したのです。「では私の隣人はだれですか?」と聞いたのです。「わたしの隣人は誰か?」その相手は誰か?と質問したのです。「隣人を愛せよ」とは、「隣人」という特定の人物がいるのではないですね。私の助けを必要としている人、私の助けを待っている人がいたならば、その人が「私の隣人」であって、相手がどんな人でも隣人です。「隣人を愛しなさい」という戒めは、「私の助けを必要としている人がいるならば、誰であっても隣人になる愛を持っているかどうか」、それを律法学者、そして私たちに問いかけてくるのです。「隣人は誰か?」ではなく、私が「隣人」になるのです。親切なサマリア人は、強盗に襲われて重傷を負ったユダヤ人を助けて介抱して「隣人」となりました。見て見ぬ振りをした祭司やレビ人ではなく、よりによって嫌われていたサマリア人が、その人の「隣人」になりました。モーセの十戒をはじめとする、613個もあるという律法は、「隣人を愛する」、その「隣人になる」ことで、すべて全うされるのです。イエス・キリストの十字架によって、全うされたのです。この隣人愛の律法が、キリストによって贖われた、私たちキリスト者が従うべきことです。自らを愛するように隣人を愛する時、キリストの愛を知っている私たちは、神様にも人にも、喜ばれる歩みを地上で実践することになるのです。