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主日共同の礼拝説教

その人は誰ですか?-信仰生活の基本②

2017年1月29日
和田一郎伝道師
詩編100編1~5節
ヨハネによる福音書4章1~26節

Ⅰ.はじめに

今日の聖書個所で井戸があった場所は、サマリアという地域です。登場人物の二人、水を汲みに来たのはサマリア人の女、イエス様はユダヤ人です。同じイスラエルの子孫でしたが、ユダヤ人はサマリア人と大変仲が悪かったのです。その事の発端は、イスラエル王国が南北に分裂したことから争いは始まりましたが、バビロン捕囚から帰ってきたユダヤ人はエルサレムの神殿を再建しようとしました。そこでサマリアの人々も手伝いたいと申し出ました。
しかし、それをユダヤ人が断ったことによって、サマリア人は自分達の山に神殿を独自に作ったのです。同じ神を信仰し、同じ救い主を待ち望んでいたのですが、敵対していたのがユダヤ人とサマリア人だったのです。ちなみに今でもサマリア人という人たちは、千人にも満たないそうですが、その地域に住んでいるそうです。

Ⅱ.水をめぐって

サマリアを避けて遠回りをするのが、当たり前だったにも関わらず、あえてイエス様はサマリアを通るルートで旅をしていました。サマリアのシカルという町の井戸のかたわらで、イエス様は腰を下ろして休憩されました。疲れていたのです。イエス様は完全に神でありながら、完全に人ですから私たちの疲れや痛みも、知識としてではなく、同じ「人」として、共に喜び悲しみ、疲れも知ってくださる方だと知ることができます。
そこに、サマリアの女が水を汲みに井戸に来ました。時間は正午とありますが、こんな暑い時間に水を汲みに来る人はいません。人目を避けて水を汲みに来る事情がありました。イエス様は女に「水を飲ませてください」と頼むのです。すると「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」と冷たい反応です。

Ⅲ.壁をこわす

当時は公の場で男から女に声をかけることはなかったという当時の常識がありました。また、イエス様が、女に声をかけた時、弟子たちは、食べ物を町に買いに行っていたように、ユダヤ人はサマリア人に、何かを頼んだ時は必ず代価を払いました。世話になりたくなかったのです。「あの人にはお世話になりたくない」という感情の表れです。ですがイエス様は「水を飲ませてください」と、頼み事をしたのです。自ら負い目を負う立場をとられたのです。ここから、人種的にも宗教的にも厚い壁があった、それも900年以上も続いていた、ユダヤとサマリアの隔たりをイエス様は壊していくのです。しかも、上からの支配的な力ではなくて下からの、へりくだる力によって壁を壊していきました。
10節で、イエス様は、あなたが神様の事を本当に分かっていて、さらに今「水をください」と言った人が誰だかわかっていたら、あなたの方から「生きた水」をくださいと言うでしょう。とびっくりするような事を言ったのです。イエス様が言った「生きた水」というのは「霊的な水」で、飲み水のことではないのです。霊的な話しに切り替えているのですが、女の人は分かっていないのです。ですから11節で「あなたに水をくださいと頼んでも、水を汲む物を持っていないでしょ? 先祖のヤコブが遺してくれた井戸の水よりも、もっといい「生きた水」を、あなたがくれるなんて、あなたはそんなに偉い人なんですか? まさかそうじゃないでしょ? というニュアンスです。イエス様が向けた霊的な話しには無関心で、物質的な水にしか興味を持てませんでした。
イエス様は霊的な話しを続けます14節「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と、イエス様は霊的な水と物質的な水を比較して、「物質的な水はいずれまた渇くが、わたしが与える霊的な水は、渇かない。それどころか永遠の命が得られる」と違いを説きます。
しかし、女は「もう水を汲みに来なくていいようになるなら、そうして欲しい」と、現実的なことにしか、興味を示せません。そこでイエス様は、話しを変えました。「あなたの夫を呼んで来なさい。」と聞くと、「夫はいません」と女の人は答えるのです。するとイエス様は「そのとおりだ、あなたは5人の夫がいましたね」と言うのです。結婚と離婚を繰り返して、しかも今は、夫ではない男と住んでいる。イエス様は初めて会ったのに、ピタリと言い当てたのです。それがこの女の人の現実でした。人目をはばかるように水を汲みに来るような生き方をしていた。霊的な渇きがあったのです。イエス様は私たちの心の底を見ている方ですから、この女が霊的な渇きに目を向けるように、ズバリと言ったのです。女は「あなたは預言者ですね」と、イエス様に対する態度が、少しずつ変わってきています。

Ⅳ.霊的な世界と地上的なものへの依存

サマリアの女は、物質的な水の事ばかりに、目がいっていて、自分の心が、霊的に満たされていない事に気付けませんでした。私たちの生活でも、目には見えない霊的なものに心を向けるよりも、目に見える現実に心を向けてしまうことが多いと思います。高座教会で取り組んでいる「エクササイズ」というプログラムも、霊的なものに心を向けるためのエクササイズというのがテーマです。「睡眠時間を確保する」とか、「瞑想」したり「生活のペースを落とす」といった忙しい生活の中で、できなくなっている事ばかりです。それが私たちの現実です。

Ⅴ.霊なる方と、霊をもって心をむける

しかし、この私たち人間は、霊的な存在として神様に作られました。霊である神様に、似た者として作られた。「霊的な心」というのは、自分の中にあるものを、神という大きな存在に求める思いです。御言葉を聞こうとする、祈ろうとする。それが霊的な心の状態で、そのように人は造られました。
「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(ローマ8章13-14節)
私たちは神の子とされた霊的なものに造られました。ですから20節以降から、イエス様は霊的に造られた私たちの礼拝の在り方を教えているのです。ユダヤ人とサマリア人は別々の山で礼拝していました。しかし、もう場所の問題ではない、どういうやり方で礼拝するかという形式の問題でもないのです。なぜなら24節で「神は霊である」と言います。この一言は、世のすべての目に見える偶像礼拝を否定しています。偶像に依存する先にあるものは霊的な死です。だから、まことの礼拝をするには「聖霊に満たされ」、救い主の贖いによって救われたという「真理」をもって礼拝しなさい。それが今、イエス様が来られたことによって、できるようになったのです。
サマリアの女は、まだ最後の大事なことが分かっていませんでした。それはその礼拝すべき方が誰なのか?ということです。26節で「それは、あなたと話をしている、このわたしである。」と告げられました。24節では「神は霊である」と言いましたが、そして「それはこの私である」と言うのです。この箇所はギリシア語では「エゴーエイミー」といって、直訳すると「私はある」となります。モーセが「神様あなたの名前はなんといいますか?」と聞いた時応えてくださった「わたしはある。わたしはあるという者だ」と、同じ言葉でイエス様は自分がメシアであることを示されました。
私たちは、霊的な心を持たなければ、「わたしはある」という方を、心にお迎えすることはできません。その方は私たちと共にあって、霊と真理をもって礼拝することを待っています。このサマリアの女は、キリストとの出会いによって、人目をはばかるような生き方から、解放されました。人間の知恵で神を知ることはできない。神様との霊的な生活をすることが、人間らしい生き方といえます。

Ⅵ.キリストと呼ばれるメシアが来られた

この出来事が突破口となって、異邦人にも福音は広がっていきました。当時歌われていた讃美歌の歌詞が、聖書のフィリピの信徒への手紙の2章にあります。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2章6-11節)
これは、まことの礼拝をするべき方がどのような方なのか? 短く、分かりやすい言葉でつづった讃美歌の歌詞です。おそらく手紙の行き届かない地域や、家庭でもこの讃美歌を歌って、礼拝すべき方を心に刻んでいたのではないかと思います。
今日は信仰生活の基本の一つ「礼拝に生きる」ことについて、御言葉から受け取ってきました。十字架で血潮を流された、霊である方を礼拝することを第一とした、生活を求めていきましょう。