2017年2月12日夕礼拝
和田一郎伝道師
エゼキエル書36章26~27節
ガラテヤの信徒への手紙5章13~15節
Ⅰ.キリストにある自由
ガラテヤ書5章13節で、「ガラテヤの兄弟たちよ、あなた方は自由を得るために、キリストによって救われたのですよ。」と、キリスト者の「自由」についてパウロは語ります。私たちは、「仕える」とか「従う」という言葉を聞くと、束縛されたような気持ちになります。そうしたものから自由にされることこそが、自由なのではないか?と思うのです。けれども、そもそも人間は、神によって造られた者ですし、今も神の摂理の中にいるのですから、その神を信頼して生きることが、もっとも自由な状態です。教会に行かなくてもいい、神に背を向けてもいいというのが自由なのではありません。神から離れては、罪の中で生きる奴隷状態です。罪を清め、贖う力は神の業でしかありませんから、キリストと共に歩むところに、自由があるのです。
「神を信頼して生きることが、もっとも自由だ」と言いましたが、そういう意味では、イエス様が最も自由な方です。イエス様は父なる神と一つになっておられて、この方の命じられることを行なっておられました。その関係は愛に基づく自由があることを知る必要があります。
「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。・・」(ヨハネ福音書 5:19~20)
この父なる神、子なる神の固有な関係があるからこそ、イエス様は、愛と従順の関係において、本当の自由を私たちに与えることができる。私たちは本当に自由になれるのです。
「だから、もし子(イエス)があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」(ヨハネ福音書8:36)
キリスト者の自由とは、神との愛の関係がベースにあり、神に仕えるという関係の中での自由があります。これは人間の本来の姿です。人間が罪を犯す前の状態にあった、人間らしい自由の状態です。
Ⅱ.生き方
律法主義というのは、律法を守ろうとする事が、律法主義者を作り上げるのではありません。たとえば、私たちは十戒の中の戒めにあるように「父と母を敬う人」や「盗みを働かない者」や、「偶像礼拝」の戒めを守って、神社参拝を拒んだ人を批判することはありません。また日曜日を礼拝する日として、一生懸命努力することを律法主義だとして批判したりはしないでしょう。 律法主義者とは、律法を守った自分自身の行いを、自らを正しいと見なしたり、神の救いを受けるにふさわしい者だと、自分で定めることです。
また同時に自分の力、自分の正しさを誇る人は、他人の行い、他人の良し悪しを裁く目を持ってしまいます。キリストによって得られた自由なのに、自分自身を義として、他人を見て裁いてしまいます。まさしく、イエス様を陥れようと裁いていたファリサイ派や律法学者たちの姿です。律法を守るのが悪いのではない。律法によって人の罪が明らかになってしまう。それがガラテヤの教会にもあったようです。「互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。」(5章15節)と、パウロはガラテヤ教会の問題を指摘しています。
律法が悪いのではない、といいましたが、ではどうしたら良いのでしょうか? パウロは14節で「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」と、律法の本質をまとめています。イエス様は、マタイ福音書22章で、神を愛することを第1とされ、隣人を愛することを第2とされました。
「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ福音書22:37~38)
このように、第1に重要なのが「神を愛すること」第2に重要なのが「隣人を愛すること」としています。しかし、それは隣人愛が神への愛に劣っているという意味ではありません。神を愛することなしには、まことに人を愛することはできないと、イエス様はおっしゃっているのです。
私たちは、自分が神から愛されていることを自覚すべきです。弱さや欠点があり、神に対しても人に対しても罪深いのが私たちです。しかし、神様の私たちに対する愛は深く、確かなものです。独り子であるイエス・キリストを、十字架にかけてまで、私たちを愛し、罪と死から救ってくださったのです。そのように愛してくださっている神を、信頼して、その神に従って生きることが本当の自由です。パウロがこの5章で訴えている、キリスト者の自由です。
Ⅲ.「何を求めているのか?」
先日、映画の「沈黙」を見る機会があって、このキリストの自由について考えるところがありました。幕府による激しいキリシタン弾圧のあった長崎に、ロドリゴという司祭が来るのですね。当時としては司祭の地位にあった宣教師は皆、追放されるか殉教していたので、隠れキリシタンたちは、カトリックの中で重要な罪の告白をする告解をする相手の司祭もいませんし、正しいキリスト教の教理も教える人がいませんでした。しかし、命がけで信仰を守って、多くの人が「踏み絵」を拒んで殉教していきました。その中で殉教するのが怖くて、踏み絵を踏んでは逃げてばかりいる、キチジローという気の弱い男がいるのです。
キチジローは親兄弟が信仰のために拷問にあって死んでも、自分は踏み絵を踏んで逃げおおせるのです。そんなキチジローをロドリゴ司祭は許してくれて、告解もさせてくれて信仰を導いてくれようとするのですが、そのロドリゴたちを密告して、お金をもらいます。ユダのような存在です。仲間が信仰を守って惨殺されても、自分は踏み絵を踏んで、十字架に唾まで吐いて、生き延びる。自分の命惜しさに逃げるのなら逃げておけばいいのに、やっぱり信仰を捨てきれずに、何度も舞い戻ってくるのです。戻って来て、司祭のロドリゴに求めるのは告解です。罪の赦しを乞うのです。
キリスト教史の専門家の中には、当時の隠れキリシタンを、クリスチャンとは認められないとする人もいるようです。正しい教理を分かっていない。土着の宗教と混合して異教化していたとする解釈です。確かにキチジローは、十字架に唾を吐きかけるし、踏み絵は踏んで逃げる、どうしようもない信仰者です。しかし、彼に間違いなくあったのは「自分には罪がある。自分は罪人だ」という罪の意識です。正しい教理は分かっていなくても、神を愛し隣人を愛することが出来ていない自分を「ダメな人間だから憐れんで欲しい、この罪を赦して欲しい」そんな心の叫びが、キチジローの姿から、聞こえるようでした。神の喜ばれること、神が嫌われることを知らなければ、罪の意識は生まれません。もし、キチジローがキリストに「お前の罪は赦された」と言われたならば、彼は本当の自由を得たのです。
5章14節の「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉は、ガラテヤ書でパウロが、なんども繰り返してきた、「信仰によって救われるのだ、律法ではない」という議論を、「この一句で全うするのだ」と言って、ここで結論を出しています。そしてこのあと、救われた者の生き方を説いていきます。その生き方の根っことなっているのも、この「隣人を自分のように愛しなさい」という、偉大な一句に基づいています。
沈黙という映画の「沈黙」の題名の主語は”神様”です。信仰を持つ民衆が、殉教しても神様は彼らを助けない、声をかけない。黙っている。沈黙している。という意味です。いついかなる時も、行いによっては神の言葉を聞くことはできませんが、信仰によって、聖霊の力によって、神の言葉を聞くことができるのです。
わたしたちは、キリストの十字架によって、この自由と希望を与えられました。キリスト・イエスに結ばれていれば、失うことがない、沈黙されることもない、自由と希望があります。この一週間も、神の言葉を聞くことができますように、隣人を愛する生活の中で、耳を傾けたいと願います。お祈りをします。