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主日共同の礼拝説教

ふたつの宝、ふたつの目、ふたりの主人   ―クリスチャン・スチュワードシップを考える

2017年2月26日
松本雅弘牧師
詩編23編1~6節
マタイによる福音書6章19~24節

Ⅰ.消費主義社会を支える偽りの物語―モノが幸せを運んでくる

私たちの身の周りには広告が溢れています。その商品を手に入れたら、お腹の脂肪が消えてなくなりますよ、とか、そのクリームを塗れば10歳若返った肌があなたのものになる、とか。このクルマのハンドルを握り、アクセルを踏めば、人生最高の瞬間を手に入れることになる、とか。もう様々です。
専門家によれば、私たちは60歳になるまでに2百万以上のコマーシャルを見るそうです。それを計算すると、ざっと6年間にわたり、1日8時間、毎週7日間、ただテレビでコマーシャルを見ている時間に匹敵する。これは物凄い時間です。そうした広告に洗脳された私たち現代人が生み出した文化を、一般に「消費主義文化」と呼びます。
脳の専門家に言わせますと、私たちが欲しい物を手に入れた時に、脳の中に「ドーパミン」と呼ばれる、人間に喜びの感覚をもたらす化学物質が分泌され、その結果本当に幸せを感じるというのです。ただ問題は、その人を行動に駆り立てた物語は残るのですが、モノを手に入れた時の幸福感は時間と共に消えて行くということです。

Ⅱ.消費主義文化を支える(虚栄心と)貪欲を理解する

今日の聖書箇所を見ていきましょう。イエスさまの教えに耳を傾けていく時、イエスさまはこうした消費主義文化を支える私たちの心には、実は虚栄心と貪欲という欲望が隠されていると、指摘しているように思います。
「虚栄心」とは、周りの人々をハッと思わせたいと思う欲求。一方、「貪欲」とは金銭や物質に対する過度の欲求です。満たされているのに、それ以上に何かを欲する思いです。一般には、倹約家と浪費家は対照的な人たちと考えられますが、実は同じ信念、同じ物語を生きているというのです。それは「使うにしろ、貯めるにしろ、要はお金こそが人を幸福にする」という信念です。倹約家と浪費家は、両者とも「貪欲」に陥っているということです。
世界一の富豪と呼ばれていたジョン・D・ロックフェラーは、ある時、新聞記者に「自分は幸せでもなく、また満足もしていない」と語ったそうです。それを受けて記者が、「では、いくら手に入れれば幸せになれ、また満足しますか」と質問したそうです。ロックフェラーはその質問に対して、「あともう少しあれば…」と答えました。
私たちをモノやお金に向かわせるのは、心の中にある不安感や恐怖心だと、イエスさまは教えます。それは「自分は独りぼっち、孤独だ」という思いです。
確かに生活の中に神さまを見出すことが出来ない、つまり神のご支配の外で生活しているのであれば、私たちは孤独であり、自分の手でどうにかしなければなりませんから、当然、不安や恐れが心を支配することでしょう。
そうした私たちの心に、サタンは囁くのです。「お金があなたを幸せにします。安心を保障します。お金はあなたを成功者にし、力をもたらしますよ」と。確かに、通帳の残高が多い方が安心は安心です。綺麗な服を着、かっこいいクルマに乗り、素敵な家に住むことは幸福感をもたらすでしょう。そのために必要なのはお金ですから、「お金が幸せにします」という物語は、ある面、当たっています。
私たちが新しい服や家電、クルマを買うならば、確かに脳の中でドーパミンは分泌されるでしょう。しかし、その喜ばしい感覚も、しばらくすると薄れてしまいます。ただ私を突き動かす、心に刷り込まれた「お金が全て」という物語だけは残っていますから、その偽りの物語に私自身は追いまくられて行くのです。

Ⅲ.イエスの物語-宝と目と主人

では、イエスさまは何と語っておられるでしょうか。今日の聖書箇所を見ますと、ここでイエスさまは、3つの例を挙げながら、「お金や物が安心や幸福をもたらす」という「偽りの物語」に代わる「福音の物語」、新しい生き方を説いておられます。
まず2種類の宝と、その宝の積み方です。その2つとは、「地上の宝」、「地上に宝を積むこと」、そして「天の宝」、「天に宝を積むこと」です。
地上の宝とはお金やモノです。それらは地上に積まれるために、盗まれたり、虫に喰われたり、錆びついてダメになることがあります。つまりその価値は一過性です。これに対してもう1つの宝が「天の宝」です。天に宝を積む時に、それは永遠に残ると言われます。
またイエスさまは対照的な、「澄んだ目」と「濁った目」の例を挙げてお語りになりました。イエスさまの時代、ケチで嫉妬深い人のことを「濁った目」と表現し、寛大さや気前の良さを「澄んだ目」を持った人と表現として使われたそうです。
イエスさまはさらに「2人の主人」の話もしています。この世の富と、神の国の両者を同時に追い求めることは不可能だ、というのです。

Ⅳ.貪欲への癒しをもたらす神の国の経済原則

このようにイエスさまは、天に宝を積むように、澄んだ目で神さまをしっかりと見、そして、神さまに信頼して生きていくようにと勧めておられます。正しい生き方を選択するようにとの勧めです。
それでは、私たちに預けられた時間やお金、また様々な賜物をどのように用いることを、神さまは願っておられるのでしょうか。
「エクササイズ」の著者は、その本の中でこんな体験を証ししていました。
ある人に3百ドルを貸したのですが返ってこないのです。私たちも経験することですが、借りたことは簡単に忘れてしまうものです。ところが不思議なことに、貸したことは決して忘れないのです。
著者も、貸したお金のことが気になって友人に相談をしました。「彼に電話して私に借金があることを伝えた方がいいと思うか」と。すると「きみ、そのお金が必要なの?」と、友人から問い返された、というのです。
確かに、今、そのお金が手元になくても、自分の生活は守られている。そう考える中で、「神さまはそれぞれに預けられたお金を動かし、必要としている人、困っている人を助けさせて下さるのだ。そして、賢い識別力をもって捧げられたお金は決して失われることはない。自分は3百ドルを失ったのではなく、それを捧げたのだ、神の国のために投資したのだ。しかも、投資した私自身が損をすることがないように、その後も引き続き私の生活を守り導いてくださっている、と知らされた」と証しをしていました。
この証しには後日談がありました。その後、お子さんの病気で多額の治療費が必要となり、貯金を崩しても、なお5百ドル不足していることに気付いたのです。ところが、不思議なことに、その日一通の手紙が届きました。匿名の手紙です。
封を切ってみると、メモと共に5百ドルの小切手が入っていたのです。そして「あなたがたのために祈っていて、これが役に立つと思って送りました」とメモに書かれていたのだそうです。
スミス先生は、「心配する暇すらなかった。神が私たちのお金を用いられる時、お金を入れ替えるようなものです。これが神の国の経済です」と、その著書に書いておられました。
神さまがお金や様々な資源を動かす時、それを預けている人々に、神さまご自身が働きかけられることを、聖書を読んでいくと知らされます。神さまの働きかけに応答した人が、進んでお金やモノを差し出す時、神様は、その人の生活に不足や必要が生じた時、必ずその必要を満たすように働いてくださるということです。
まさに、パウロがコリントに宛てた手紙の中で、「あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。」(Ⅱコリント8章14節)と記したように、です。
ダラス・ウィラードは、「神の国の解決法は、倹約家になることでも、また周囲の必要に無頓着になることでもなく、むしろシンプルになることだ」と語っています。そのシンプルさこそが、何を手元に残すか、何を手に入れるかを選択する上で、影響をもたらす心の態度なのだ、というのです。そして、シンプルさを求めるライフスタイルは、実は、私たちの心の在り方の表れでもあるのです。
富は神から預けられているもので、富を神のように扱ってはならない、とイエスさまは教えておられます。
神さまは、神の国と神の義を求めるために、信仰の冒険をもって、聖書の教える用い方によってあなたの富を用い、私が神であることを試して御覧なさい、とおっしゃるのです。
富についての正しい物語、その福音の物語を、私たちの心の深いところにしっかりといただいて歩んで行きたいと思います。
神さまから預けられている金銭や時間、また賜物の忠実な管理者、クリスチャン・スチュワードとして生きることを通して、ぶどうの木であるキリストにつながり、実を結ばせていただきたいと心から願います。お祈りします。