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主日共同の礼拝説教

御霊によって歩みなさい

2017年2月26日夕礼拝
和田一郎伝道師
詩編143編7~12節
ガラテヤの信徒への手紙5章16~24節

Ⅰ.御霊によって、信仰によって

パウロは、御霊によって歩むということを、信仰によって生きるということと同じものとして語っています。5章5節「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいる」と、霊と信仰を並列においているのです。これまでパウロは律法と対比させて、信仰だ、信仰によって義とされるのだと語ってきましたが、その信仰に生きることと、霊によって生きることを同じように勧めています。そうすれば肉の欲望を満足させることはないのだと。ガラテヤ書の5章でパウロが霊と対比して肉と言っているその「肉」という言葉の意味は、罪の奴隷となり、本能的な欲望のままに生きる「人間」の本質を指してます。ですから聖書において、肉は人間の罪との関係において語られます。罪の性質をもった肉的な存在の人間と、神様が送ってくださった聖霊とを今日の聖書個所は比較しています。

Ⅱ.肉と霊

当時のユダヤ教の教えなどと、パウロが教えていたこととの違いは、聖霊である御霊の存在です。イエス様が天に昇られた後に、神様が送って下さった聖霊が、私たちの中に生きていることです。そもそも生まれながらの罪人である私たちが、救われたいと願ったり、イエス様を信じたりすることが出来ること自体がまさに、聖霊が私たちを内側から変えてくださった結果にほかなりません。
「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(Ⅰコリント12:3)
しかし、17節でパウロが言うように「肉と霊とが対立し合っているので、私たちは自分のしたいと思うことができない」と言うのです。
私たち人間には、神から与えられた生理的欲求があります。食欲や性欲や、人に認めてもらいたい、自分が必要とされたいなどの欲求もあります。これらは神様が与えられたものであり、それ自体は悪いものではありません。しかし、私たちには罪を持った肉の性質が残っています。そういうわけで、神の御霊によって与えられたものと、自分の肉から出てきたものと、どちらもがあり、私たちの中で対立しているのです。
具体的に肉と霊とはどのような形で、人に現されるのか?パウロは生活の中で現われる「肉の業」と「霊の結ぶ実」を19節から23節で並べて示します。
19節の「肉の業」はギリシア語では複数形で書かれています。ですから、ここに書かれているように、さまざまな形で現われます。しかし、22節の「霊の結ぶ実」は単数形で、その本質は一つです。最初に書かれている「愛」がその本質です。この愛には様々な側面があると、このリストから分かります。
肉の業とされていることは、誰でも良くないと思うはずです。そのような性質を変えたいと思うはずです。そう思っていてもほとんど失敗してしまいます。新年に決めた抱負のほとんどは1月末で破られます。それは肉の業を自分の意思を奮いたたせて変えようと努力しているからではないでしょうか。そんな時、自分は意思の弱い人間だという思いだけが残ります。実際には、人間の意思は脆弱なものです。意思は何かを選択する能力はありますが、人を変える力には乏しいものです。人間の意思に影響を与えるものには3つの要素があります。「心」と「身体」と「環境」です。私たちの感情は浮き沈みがあるものですが、高まったり沈んだりする感情は「意思」に影響を与えます。身体に不調や疲れが蓄積すれば、身体は感覚をとおして「意思」を揺るがします。そしてなにより、社会状況や人間関係などの環境の変化によって「意思」は振り回されます。そのような不安定な「意思」に頼って肉の性質を変えようとしても、失敗に終わるのは、その人が弱いのではなく、方法が悪いのです。自分は変わりたいと宣言することによっては、決して変わる事ができません。「霊の結ぶ実」とはイエス様に似た者の姿です。自分の意思でイエス様に似ていくことは出来ません。キリストに倣おうとする者は「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」(コロサイ3:2) と勧められています。

Ⅲ.霊的な訓練

イエス様は弟子達との生活の中で見本となるように、朝一人で、静かな場所で祈っていました。一人で祈っている時、それは一人ぼっちで祈っているのではありません。聖霊がわたしたちに祈るように働きかけ、祈りの中で私たちを導き、そして私たちのことを執り成して祈ってくださいます。静かな時間を確保して、短く聖書を読み、心を静めて、神様に心を向けることをディボーションと呼びます、生活の中でディボーションの時間をとる事で、わたしたちを霊的に造り変えてくださるのは聖霊の働きです。
もう一つ大切なことはクリスチャン同士の交わりを保つことです。パウロとバルナバはクリスチャン同士の交わりから、宣教旅行に送り出されました。彼らが礼拝し、断食をしていると聖霊が語りました。断食というのは霊的訓練です。食事を断って静まって、神様に心を向けていました。その彼らに聖霊が働いて、パウロとバルナバを宣教へと送り出しました。クリスチャン同士の交わりから離れては、信仰生活を守っていくことはできません。自分の「意思」に頼るのではなく、聖霊が働かれる生活を続けることが必要です。12使徒がイエス様と過ごした3年程の訓練期間は、そのような日々であったことでしょう。24節にある「キリスト・イエスのものとなった人たち」という人は、そのような生き方をして喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制そのような「愛」のさまざまな側面を、人々に現わしていきました。

Ⅳ.「何を求めているのか?」

今高座教会で行っている「エクササイズ」というプログラムは、そのような霊的な訓練を学んで実践するプログラムです。その中に次のような話しが書かれていました。それは肉の業に生きていた人が、教会の小グループの集まりの中で、次第に変えられていった、ある男の人の話しでした。
その男の人は、ある日出張で同僚と二人で飛行機に乗って帰るところでした。しかしフライトの予定が遅れるというアナウンスがありました。数時間が経ってから、ついにその便が欠航になったと聞かされました。それは、こんなに待たされたあげく、家にも帰れずにその地で一晩をつぶさなければならないことを意味していました。さらに彼らは乗り換え便の予約の為に、長い列に並ばなければならなかったのです。長い列で待ちながら応対している女性職員に人々がきつく当たっている様子を見ていました。誰もが不満を誰かにぶつけたかった、そんな思いを、その職員は一人で受けていました。そしてその男の人に順番が回ってきました。すると彼はその職員を見て、まずこう言ったのです。「あなたにきつく当たることはしませんから」と笑顔を向けて言いました。職員はそのとたんに表情が穏やかになって「有難うございます」と答えました。そのやり取りは、はたから見ていて気持ちの良いものだったそうです。さらに彼は手続きを終えた後も、リラックスして過ごしていました。彼と一緒にいた同僚は言いました。「僕たちの付き合いは長いけど、以前のキミだったら激怒して職員に怒鳴っていたじゃないか」と言いました。彼は答えました。「まったくそのとおり。実はボクは変わったんだ。自分は何者なのか、こんな時にどうあるべきか、どこに立って生きるべきかを知ったのだ。ボクの中にキリストが宿っていて、そのお方に生かされていることに気づかされた。もちろん思い通りにならないこともあるけれど、欠航になった飛行機は、どうすることも出来ないよ。」
彼が空港で見せてくれたものは「霊の結ぶ実」以外の何物でもありません。彼は歯を食いしばってがんばって、笑顔をむけたのではありません。自分の「意思」を奮い立たせて、親切な人になったり、寛容な態度をとれたのでもありません。これらはあくまでも聖霊が結んでくださった「実」なのです。彼は今日の聖書個所24節にあるように、肉の欲望を十字架につけてしまって、キリスト・イエスのものとなったのです。

Ⅴ.まとめ

ハイデルベルク信仰問答の第1問は「あなたのただ一つの慰めは何ですか。」です。答えは「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました…そうしてまた、御自身の聖霊により…この方のために生きることを心から喜び、またそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。」
それが、キリスト者である私たちの、ただ一つの、そして完全で限りない十字架の慰めです。今週の水曜日、3月1日は「灰の水曜日」です。苦しみの末に架かられたイエス・キリストの十字架が、わたしたちの唯一の慰めであることに感謝して、御霊の実を生活の中で現わす者として歩んでいきましょう。お祈りをします。