2017年3月5日
受難節第1主日
松本雅弘牧師
イザヤ書52章7~10節
マタイによる福音書10章1~4節
Ⅰ.弟子の多様性
イエスさまがお選びになった12弟子のリストを見ますと、実に多彩な顔ぶれです。10章2節には、「まずペトロと呼ばれるシモン」とあります。誰の名から書くか、とマタイは考えた末、アイウエオ順でも年齢順でもなく、弟子の名前を挙げるならばまずはこの人、という思いで最初にペトロの名を挙げました。
他にも「この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(ヨハネ20:25)と啖呵を切ったがゆえに、後に「疑い深いトマス」などと不名誉なニックネームで呼ばれることになったトマスの名前も出て来ます。
最後にはイスカリオテのユダです。福音書記者マタイは12人の名前を挙げながら、そうした主イエスの弟子選びの不思議さ、不可解さをアピールしているように思います。
イエスさまはガリラヤで伝道活動を始めました。そして、ここに出て来る弟子たちがその活動の中で、イエスさまに呼び集められたのです。
ペトロもアンデレもそうでした。あの日、イエスさまはガリラヤ湖のほとりを歩いておられました。そこに仕事中のペトロとアンデレがいたのです。その彼らをイエスさまは召されました。ペテロたちの方から、「弟子にしてください」と願い出たのではなく、あくまでもイエスさまが彼らに声をかけられ、弟子となるようにと招かれたのです。その時、彼ら漁師たちの方は、漁に夢中でしたし、真剣に網の手入れをしている最中です。イエスさまのことなど眼中にありません。彼らはイエスさまを見ていないのです。「今日は、不漁だ」とか、「もう、明日に期待するか」とか、「この網、大分古くなったから、新調しないと」とかで心がいっぱいでした。ペトロなどは家で熱を出していた姑の病気が気がかりで、「熱、下がったかな」なんて考えていたかもしれません。いずれにしても、そうしたことしか頭の中になかったのです。イエスさまのことは考えていませんでした。
でもイエスさまは違っていました。そうした彼らをじっとご覧になっていたイエスさまの、その眼差しに福音書記者マタイは私たちの心を向けさせたいのです。
例えば、著名なヴァイオリンの先生がどのようにお弟子をとるのでしょうか。そうした先生に見てもらうためには、その有名な先生のところにたどり着くまでが大変だと言われます。人の紹介を経て、やっとそのヴァイオリンの先生のところにやってきます。その時、先生は、紹介されてやって来た、その生徒のお手並みを拝見します。まずは自分の前で弾かせることでしょう。その演奏を聞きながら、その子の将来性や才能を評価することでしょう。そうした上で、最終的に弟子にするかどうかを判断するのです。
しかし、ペトロやアンデレ、ここに出て来る12人の弟子たちを召された時、またお選びになった時に、イエスさまはどのような目をもって弟子たちを御覧になったのでしょうか。
先ほどのリストに戻りますが、ここに名前が挙げられた12人の弟子たちを見る時、人間的に優秀であるとか、将来性があるとかは残念ながら言えません。みんな、ごくごく平凡な人たちです。つまりイエスさまは決して、私たちを評価し判断する目で見てはおられない、ということです。出来がいいから、優秀だからということで招いているのではないということです。
イエスさまは理由なき理由で、評価する目ではない目をもって一人ひとりを御覧になり、「わたしに従いなさい」と、弟子として招いてくださっているのです。そうしたイエスさまの優しさ、イエスさまの不思議さに圧倒される思いがします。
ですから、誇るものなど何もない。そして誇る必要もないのです。天才音楽家や、スカウトの目に留まった野球選手でしたら、その能力や将来性を評価されたのですから、誇れるでしょう。でもイエスさまの弟子であることは、まったく異なる基準によって選ばれているのです。
その理由は全く分かりませんが、「にもかかわらずの愛」をもって、この私に目を注ぎ、「わたしに従いなさい」と招いておられるのです。ここが大切なのではないでしょうか。
Ⅱ.隔ての壁
12弟子の名前のリストに戻りましょう。ここにシモン・ペトロとヨハネがいます。この2人は最後の最後までライバル関係にあったようです。さらにもう一組、対立が起こりかねない2人がいました。徴税人マタイと熱心党のシモンです。この2人はその立場上、油と水のような存在でした。徴税人はローマのために税金を集める者でした。しかもローマ帝国の権力をバックに自分の取り分を上乗せして儲けていました。一方の熱心党、これは政治結社です。ローマ帝国の支配に武力をもってでも対抗し、いつかローマ権力を追い出してやると意気込んでいた政治的グループでした。将来、神から遣わされるダビデの子・メシアがやって来たら、イスラエルは解放される。その戦いのためには、命や財産も惜しまず捧げる覚悟をもっている人、それが熱心党の人たちでした。つまり超愛国主義者です。ですから熱心党からしたら、敵国ローマの手先になって、ユダヤの同胞をローマに売り渡すようなことをしている徴税人たちは、もっての外の存在でした。
イエスさまは、この油と水のようなシモンとマタイの2人を同じ日に12弟子集団に召されたのです。私たちの言葉で言えば、主イエス・キリストを中心とする「主にある交わり」の中に呼ばれたのです。
お互いの存在を決して認めず、反目し合っている彼ら2人を、同時に、自分のもとに、12弟子の1人として、それぞれ招かれたのです。これは常識では考えられないことだった思います。お互いの間には溝があり、壁や偏見がありました。ところが、イエスさまは、ご自身の名においてその両者を同じ交わりの中に招かれているのです。
つまり、このイエスさまの弟子選びの中に、すでにイエスさまが実践しようとされた和解の福音、平和の福音が体現されていた、ということなのです。違う者、いや場合によっては敵対し合う者同士が、主にあって共に生きる可能性が、ここにあるのです。
Ⅲ.隔ての壁を壊すキリストの十字架
先週、アカデミー賞の授賞式で、ハリウッドの俳優たちからトランプ大統領批判が飛び出し、それが新聞やテレビで報じられました。ちょうど同じ日に、安倍首相夫人が名誉校長として名を連ねた学校法人の幼稚園で、子ども達による「宣誓の言葉」が報じられ、私は耳を疑いました。
いずれの政治家も壁を作ることに熱心です。ティリッヒは「私たちが壁を作るのは、私たちの心の中に壁があるからだ」と言いましたが、心の中の疑いや恐れ偏見が、外側に壁となって現れてくるのです。これはイエスさまの十字架と全く正反対です。
パウロは次のように語っています。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ2:14~16)
パウロはここでユダヤ人と異邦人の壁を問題にしましたが、こうした壁はユダヤ人と異邦人の間だけではありません。私たちの周囲にたくさんあります。国家間の壁、民族間、宗教間、経済的な格差の壁。日常的にも世代間や親子間、夫婦間の壁なども経験することがあります。イエスさまは十字架において、その壁を取り壊そうとされたのです。ご自分の痛みと犠牲を引き換えにして和解を成し遂げたのです。
Ⅳ.和解の福音の実践者としてのイエスの弟子たち
12人の弟子たちのリストを見る時、極めて異質な者同士の集まりであることに気づかされます。実際にイエスさまをお金で売るようなイスカリオテのユダも含まれているのです。
最初から爆弾を抱え込むような決意をもって、そのような人たちが同じ日に、同じ仲間に召されたという事実の中に、和解の福音を宣教していく弟子たち自身が、まずその和解の実践者として生きるようにというイエス・キリストの願いが込められていた12弟子の御召しだったのではなかったか、と思うのです。
イエスさまは、ご自分の愛する12弟子が、その交わりにおいて和解の実践に生きること、さらにまた、その彼らを用いて、和解と平和の福音を世に広げていこうとされたのです。
いま私たちは和解の食卓を共に囲むように招かれています。「主が受け入れてくださるから、私たちも互いに受け入れ合おう」という主の召しに生きる者でありたいと願います。お祈りします。