カテゴリー
主日共同の礼拝説教

重荷の担い手

2017年3月12日
夕礼拝
和田一郎伝道師
民数記11章14~18a節
ガラテヤの信徒への手紙5章25節~6章5節

Ⅰ.偽善者

私は以前「あなたは偽善者だ」という風に言われたことがあります。その言葉は長い間、わたしの中に残っていました。何故、忘れずに残っていたかというと、ひょっとしてそうなのかも知れない、と思っていたからだと思うのです。その人は私が表面を囲っていて中身とは違うという意味で言ったのだと思います。それは確かに当たっていると思うフシがあったのです。勿論私も、短気に腹を立てたり、人を恨んだりもするわけです。これって偽善と言えば偽善なのかな?と、思っていました。
先週の日曜日は、渋沢教会の60周年の記念礼拝に出席したのですが、説教された生島先生がこんなことを、おっしゃっていました。嫌だなと思っている人がいるとします。その人に対しても、笑顔で「ようこそ」って言うようにするのは、御霊に導かれているって言うのです。パウロが「御霊によって歩みなさい」と言ったことです。その人の事が好きになれないどころか、どうにも嫌いなのだと思っていても、無理をしてでも笑顔で「ようこそ」って言うようにする。二回目は最初よりも無理しなくて言えるようになって、ずっと続けていると自然と「ようこそ」って言えるようになると言うのです。だんだん変わっていくのです。やがてそういう振舞いをする人が、いつでも、誰にでもそういう風に言える人に変わっていく。それは聖霊がその人を変えようとしているのだと仰っていました。もし「好きでもない人に笑顔を向けるなんてできない」、「腹の中で思ってもいないことを、そのまま口にするなんてしたくない」と思う人と、片や、無理にでも穏やかに笑顔を向けようとする人がいて、聖霊がその人を変えようとしているのなら、どちらの人が変わりやすいですか? 最初は無理して笑顔を作っていたかも知れないけれど、何度も繰り返していると、そのうち慣れてくる、でもそれは慣れてきたのではなくて、聖霊が働かれている。と言うのです。
パウロが、25節のところで「霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう!」と、前向きな考え方で勧めている生き方って、クリスチャンの生き方のことなのです。
ですから、イエス様を知る以前に、自分は偽善者じゃないかと思っていた私に、表と裏を使い分けてごまかして生きていくのではなくて、本当にそういう人間に変わっていきたいと思っているのなら、それは完全じゃなくても御霊に従って生きる、キリストに似たものに近づこうとするキリスト者の生き方なのだと思えて、ほっとする思いがありました。
26節を見るとガラテヤの教会では、どうやら内輪もめや争いごとがあったようです。しかし、パウロは互いに妬んだり、挑み合うことは聖霊の働きではない。聖霊の働きを邪魔することだと、この手紙で勧めています。

Ⅱ.過ちに対して

ガラテヤの信徒への手紙6章は最後の章になりました。「もしだれかがあやまちに陥ったなら」という言葉があります。これは、故意に罪を犯し続けている人ではなく、間違って罪を犯してしまった人のことです。その時に、パウロは 5 章で話した「御霊に導かれる」原則を話しています。御霊の人であればその実の表れは「柔和(5:23)」でありました。御霊である人が、罪に陥った人を柔和な心で正してあげなさい。こうして、互いに愛をもって仕えるというキリストの律法を全うさせなさいということです。
ここで取り扱われている問題は、私たちクリスチャンが、あやまって罪に陥ってしまった兄弟に、どのように接していけばよいのか、ということです。すでに自分がやってしまったことで傷ついている人を、さらに指摘する必要はありません。むしろ、その人が回復することができるように、助けてあげるというのが私たちの役目です。パウロは、「柔和な心で」と言っていますが、罪を犯して傷ついている人に対して、私たちは、言葉を選び、主から励ましとあわれみの言葉を話すことができるように祈り、そしていっしょに祈ってあげることが必要です。
もし、罪を犯しても、悔い改めない人に対しては、イエス様が弟子たちに語られた原則があります。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か取税人と同様に見なしなさい。」(マタイ18:15-17)ここで大事なのは、二人、三人の証人とあるように、自分が見聞きしたものが果たして正しいのか、その判断を一人で決めないことです。複数で慎重に話し合うことが大切です。それは飽くまでも、その人を立ち帰らせるためのものだ、ということです。
パウロはここで、「あなた自身も誘惑されないように気をつけなさい。」と言っています。だれかが罪を犯してしまったとき、私たちが柔和な心で接することができるようにするのは、むしろ自分もまったく同じ罪を犯してしまう者だと知らなければいけません。そして、ますます、自分の弱さのために神からの助けを祈らなければいけません。そして、人を非難している時に、実は自分自身がそれと同じ罪に近づいていることがしばしばあるからです。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。」(マタイ7:3-4)。むしろ、同じ罪があるからこそ、その人に厳しくなるのです。

Ⅲ.重荷を負う担い手

「互いに重荷を担いなさい」と言っています。ここの「互いに」という言葉がとても大事です。クリスチャンの信仰生活は、それぞれが独立して一人で神様との関係を大切にして生きるのではありません。または、自分の悩みが解決されることだけを求めて教会に来るのでもありません。孤立するのでもなく、依存するのでもない、「互いに重荷を担いあう」関係がクリスチャンには必要なのです。「コスパ」という言葉を最近よく耳にします。コストパフォーマンスの略で、費用と効果を比べた度合いのことで、かけた費用に対して効果が高い場合「コスパが高い」、逆の場合は「コスパが低い」といいます。この言葉が使われるというのは、恐らく損をしたくないという思いが根底にあるのでしょうね。
「互いに重荷を担いあう」なんていう考えはコスパが悪い教えだと思いますね。「家族同士なのだから重荷を担いあおう」と言っても、結婚や子育てもコスパが悪いのです。一つ与えたら一つ見返りを受け取るなんて期待していたら、家族は崩壊です。恋人どうしでも友人でもそうでしょう。ようするに相手にしてあげた事への見返りを期待していたら、その関係は続きません。とくに自分が間違いを犯して、自分の罪に傷ついている人が、何の見返りも要求されず、御霊の実にある柔和な態度で、神様の前で正しく歩めるように成されたなら、何かを与えられた人はどう思うでしょうか? そのような無償の助け合いこそが、パウロの求める「互いに重荷を担いなさい」という事です。最後の5節で「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」とあります。これは神様の前で自分自身の生き方について責任を負うということです。ある人はこの重荷を次のように例えました。「この重荷というのは、荒波の中を進むヨットが、荒波の中でも倒れないで真っすぐに走って行くために必要な、船底にある重りのことだ。」としていました。私たちが人生の荒波に襲われても、倒れてしまわないために、なくてはならない重りです。
神様は私たち一人一人に、自分しか負うことができない責任を与えています。その責任からくる重荷は、本当に自分らしい人生を送るために、なくてはならないものなのです。
わたしたちの中で神様に必要とされていない人はいません。
私たちはお互いを必要とする者たちとして、柔和な心を持って互いに愛し合い、仕えあうようにとイエス様に招かれた神の家族の一員です。この一週間も御霊によって生かされ、御霊に導かれて、兄弟姉妹と心を一つにして信仰の歩みを続けたいと願います。