2017年6月25日
松本雅弘牧師
ホセア書11章1~9節
マタイによる福音書11章16~24節
Ⅰ.洗礼者ヨハネとイエス・キリスト
洗礼者ヨハネから派遣された弟子たちが去った後、イエスさまは、取り巻く群衆に向かって、洗礼者ヨハネという人物についてお話をされました。
ヨハネと主イエスは、ある意味で対照的な存在でした。ヨハネの周りには常に真剣さが漂っていたと思われますが、主イエスの周りは、何とも言えない喜びや楽しさが満ちあふれていたのではないかと思います。
ただ、ここで覚えて置かなければならないことは、洗礼者ヨハネと主イエスさまは決して対立していたのではない、ということです。
Ⅱ.イエスの呻き
主イエスの言葉はさらに続きます。悔い改めない町々を叱り始めるのです。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」と。
「不幸だ」とおっしゃる、イエスさまのこの言葉は呪いの言葉ではありません。原語は「ウーアイ」という擬声語です。痛みの時、悲しみの時、思わず口から飛び出す呻きと叫びを表わす言葉です。
「ウーアイ、コラジン。ウーアイ、ベトサイダ」と、身を切られるような思いをもってイエスさまは呻いておられます。「ああ何と言うことだ」と呻かざるを得ない状態だったのです。
ここでイエスさまは、傍観者的に「ああ不幸だ」と嘆いておられるのではななく、この厳しい言葉の延長線上に、その不幸を引き受けてくださった主の十字架が立っていたのだ、とある説教者は語っていました。
Ⅲ.憐れみに胸を焼かれる
今日は旧約のホセア書11章を読みました。ここには神さまの愛がありありと描かれています。預言者ホセアは、紀元前750年頃に北イスラエルに遣わされた預言者でした。預言者であったホセアは、自分自身の結婚において悲劇的な経験をしました。それは妻の不貞です。
最初、彼は不貞を犯した妻を律法に従って裁かなければならないと苦しみます。ところが、まさにその時、神の言葉が臨むのです。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。…主が彼ら(イスラエル)を愛されるように」(ホセア3:1)
ホセアはこれに従うのですが、その結果、主なる神の心にある痛みを、自らが体験させられることになります。
イスラエルの民は主なる神の愛する花嫁です。その花嫁が夫である主を捨て、他の神々の許へと走ってしまう。しかも、それはイスラエルの歴史において、一度ならず、繰り返し起こっているのです。その時、神の心に激しい痛みが生じるのです。
誓約を破った花嫁イスラエルを、主なる神は離縁するかと言えば、決してそうしないのです。何故なら、それほどまでにイスラエルを愛していたからです。愛しているがゆえに、神ご自身が痛み苦しむ。その結婚の契約に忠実であるがゆえに、焼かれるような思いをもってイスラエルを待つのです。
預言者ホセアも淫行を重ねる妻との関係を通して、主なる神さまの、愛ゆえに経験する嘆きや呻きを思い知らされていきます。
ところが、花嫁である神の民はこうした神の愛を理解しません。そればかりか本当に自分勝手な歩みをし、そのために今にも滅んでしまいそうになるのです。
主はそうしたイスラエルをご覧になって、一度は滅びるがままにしようと思われるのですが、しかしそう考えた瞬間に、もう居ても立ってもいられなくなり、「「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。/イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。/アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。/わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる」(ホセア11:8)と叫んでしまうのです。
ここに出て来るアドマ、ツェボイムというのは、ティルス、シドン、ソドム同様に町の名前です。しかも、このホセアの時代に、すでに滅んでしまった町の名前です。
神さまは、すでに滅んでなくなってしまった町を、1つひとつ思い起こしながら、愛するイスラエル、エフライムが同じように滅んでいくのを黙って見ていることは出来ない、と言われるのです。
私は、このホセア書に現された主なる神さまの姿を見ながら、あの放蕩息子の父親の姿を思い浮かべました。息子たちへの愛の故におろおろする父親の姿です。ユダヤ社会においては、絶対的な権威を持った父親です。それが、息子を失っておろおろし、弟息子が戻っ来たら来たで、兄息子が不機嫌になり家に入ろうとしない。父親はそうした兄息子を説得するために再び家の外に出て、そこでもまたおろおろ始めるのです。
主なる神さま、全知全能の神であられるお方、何があっても動じないはずであるお方が、このホセアを読む時に、なんだかおろおろしているように見える。全く神らしくない。でも、どうでしょう。これが私たちの主なる神、真の愛の神さまの御姿なのです。
神学者小山晃佑は、こうした神さまの愛を表現して、神の愛は「落ち着かない」と語ったそうです。神さまは「激しく心動かされ、憐れみに胸を焼かれる」が故に、愛の神は落ち着かない。おろおろされるのです。そして、しばらくし、平静をとり戻した後に語られた言葉がホセア書11章9節なのです。「わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。/お前たちのうちにあって聖なる者。/怒りをもって臨みはしない。」(ホセア11:9)
Ⅳ.十字架につながる決意
マニングというカトリックの司祭がいました。彼は、司祭になるにあたって、誰か聖人の名前を採るようにと言われ、友人レイ・ブレナンを思い起こしてその名前をもらい、ブレナン・マニングという名前で司祭として活動した人です。
実は、レイとマニングは幼馴染で同じ町で一緒に成長した親友同士でした。学校も共に行き、そして戦時中のこと、共に戦地に赴きました。入隊し訓練を受け、前線に派遣されたある晩、防空壕の中で幼い頃の思い出話をしていた、その2人の所に突然、火を噴いた手榴弾が投げ込まれて来たのです。最初に見つけたレイが、マニングの方を見たかと思うと、持っていたチョコレートバーを投げ捨て、咄嗟に火を噴く手榴弾の上に覆い被さったのです。一瞬の出来事でした。手榴弾は爆発し、覆いかぶさったレイは即死し、一方、マニングの命は助かったのです。
戦争が終わって何年かの後、マニングは親友で、しかも自分を生かすために犠牲になったレイの母親の家を訪ねました。お茶を飲みながら夜遅くまで話をしていた時、マニングは心の中にずっと抱えていた1つの問いを母親に向けて尋ねました。「レイは僕のこと愛していただろうか」と。すると、それを聞いたレイの母親は突然ソファーから身を起こし、〈何を今さら! 何で分からないのか!〉と言わんばかりに、彼の顔の前に人差し指を突き出し、上下に振りながら、「イエス・キリストと同じよ! あなたのためにしたのよ! 他に何が出来たというの!」と、大声で言ったのです。その瞬間にマニングは、生ける神の臨在を経験し、目の前に、十字架のイエスを指さす母マリアの姿が思い浮かんだ、というのです。
「神は、ほんとうに愛してくださっているのだろうか」と疑いを持ちながら十字架の前に立つ者に対して、大声で、しかもはっきりと、「彼は、あなたのために、これ以上ほかに、何か出来たというの!」と、十字架上に釘づけにされた息子を指さしながら語っている、イエスの母マリアの姿だった、というのです。
私たちは、「神は本当に私を愛しておられるのだろうか」、「私は神にとって大切な存在なのだろうか」、「神は私のことを心に掛けておられるのだろうか」などと、疑いを抱くことがあるのではないでしょうか。私たちのこの問いかけに対して、マリアは「彼は、あなたのために、これ以上ほかに、何か出来たというの!」と、十字架上のイエスを指さすに違いないのです。私たちの主イエス・キリストは、このホセア書に記されている御言葉を実現するために、十字架にかかってくださったのです。
「わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。/お前たちのうちにあって聖なる者。/怒りをもって臨みはしない。」
この言葉は、神さまの大きな決意です。そしてこの決意こそ、イエスさまの十字架につながる決意でした。このキリストの救いの御業、そこに表わされた愛を心から信じ、このお方に従って歩んで行きたいと願います。
お祈りします。