2017年7月2日
松本雅弘牧師
ホセア書10章11~12節
マタイによる福音書11章25~30節
Ⅰ.イエスが祈った言葉
悔い改めのない人々に対して、呻くような声で迫られたイエスさまでしたが、その後、心を父なる神に向けてお祈りをされました。それが今日の御言葉です。
「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました』」(マタイ11:25)
この言葉は、現存している本当に貴重なイエスさまの祈りの言葉です。
Ⅱ.祈りとは神と一緒にいること
私たちが「祈り」という時、それは願い事をかなえる手段のように考えることがあります。ですから願い事がなければ祈りません。イエスさまはそうした祈りを「異邦人の祈り」といって戒められたのです。
祈りって何でしょうか。それは神さまとのやり取りです。「神さまとの交わり」です。
やり取りと言いながら、一方的に話をし、言いたいことを言い終わるとさっさと切り上げてしまう。これは「やり取り」とは呼べません。それと同じように、「父なる神さま」、あるいは「イエスさま」と呼びかけた後、立て続けに自分の願い事を訴えて、それが終わると「アーメン!」と唱えて、一方的にイエスさまとの会話を終了させてしまう。自分の祈りが、そのような祈りになっていないだろうか、と思うこともあります。もしそうだとしたら、とても失礼なことをイエスさまに対してしたことになります。
子どものお誕生日が近づき、父親が子どもに訊ねました。「誕生日のプレゼントに何が欲しい?」。
そうしたら、「プレゼントはいらないから、一日一緒に居てほしい」と答えたという話がありました。
子どもにとって、お父さんと一緒に過ごす時間が本当に喜ばしいものであるように、神さまは、私たちと一緒に過ごしたいと願っておられるのです。神さまと一緒に過ごす時間、それが祈りです。イエスさまにとっても、父なる神さまと一緒に居る時間、神さまとの交わりを確認する時が祈りでした。
イエスさまは27節で、「父のほかに子を知る者はなく」と語っておられます。真の理解者のいないこの地上にあって、唯一の理解者である父なる神さまと交わることが、イエスさまにとって本当の安らぎの時だったのではないでしょうか。実は、ここに祈りの本質が何であるかが示されているように思うのです。
Ⅲ.主イエスが祈ったこと
イエスさまは、25節で「あなたをほめたたえます」と祈った後、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」とおっしゃいました。
神の国の素晴らしさや奥深さ、そこに至る救いの道を理解するには、世間の知恵は何の役にも立たないと、父なる神さまに語られたのです。
子どものように素直になって、心を開いて聴こうとする時に、不思議なことに「その知恵は向こうから私たちの手の届くところまで降りて来てくれる」と、ある説教者は表現していましたが、まさにそうした知恵なのです。
父なる神さまを知るのはイエスさまだけではありません。父なる神さまを示すためにイエスさまが招かれる者、すなわち「子が示そうと思う者」たちがいる、とイエスさまの祈りは続きます。
この幸いな恵みに与っているのは、今日もこのように礼拝に招かれている私たちです。この礼拝に居ること自体が、神さまの招きによる出来事なのです。
「子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」とイエスさまは祈られました。この礼拝に私が居ること、このことはまさに、イエスさまが「示そうと思われた」からに他ならないのです。私たちは、まさに「子が示そうと思った者」として、今日も礼拝に招かれているのです。
Ⅳ.キリストにある安息
弟子たちがイエスさまの祈りを、聖書にこのように記しているということは、主が声に出して祈られたからだと思います。
そして、この祈りの後に、主ご自身が示そうと思った人々の心に届くように、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と語られました。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも」と言われたのは、この言葉に反応する人は誰でも、ということです。これを聞く私たち全てに対する主からの呼びかけの言葉です。
明日は月曜日です。明日朝一番で大事な会議がある。難しいお客様に連絡を入れなければならない、という方もおられるでしょう。私たちは、そうした仕事のこと、家庭や学校のこと、場合によっては教会の奉仕や交わりも、時に重荷に感じることもあるのではないでしょうか。
イエスさまは、そうした重荷を感じる全ての人に向かって語りかけておられるのです。そして、ご自分の許に来るようにと招いておられます。
それでは、その招きの言葉を耳にした私はどうしたらいいのでしょうか。ここには、非常に具体的な導きが与えられています。疲れた時、重荷を負う時、そのままの姿で「わたしのもとに来なさい」と言われているのです。休息を得るために、そのまま私の許に来なさいということです。
ここで大切なことは、その招きに従ってイエスさまの許に行くかどうかということです。招きに応じるかどうかは、招かれた私の側の責任であり選択なのです。
さらに、「わたしに学びなさい」と、イエスさまの具体的な招きの言葉が続きます。「そうすれば」何が起こるのでしょうか。私たちの魂に安らぎが与えられるというのです。
人と接する時、特に初対面の場合に私たちは緊張します。普段着の私ではなく、少しカッコよく、よそ行き姿で背伸びして人と接することがあるでしょう。その結果、面会の後は疲れてしまいます。
しかし、主イエスの招きは、気取ったり、背伸びしたり、取り繕ったりする必要はないのです。ありのままの姿でいいと言われる招きです。
私が抱える幼さや弱さなど、イエスさまの前に隠す必要はありません。主は全てをご存知なのですから、そのままの姿で主の御前に出て行って構わないのです。小さな子どもが何も隠さないでお母さんの懐に憩うように、そうすれば、主は、幼子を抱く母親のように、私を受けとめ慰めてくださるというのです。
このようにしてイエスさまの許に行き、イエスさまから教えていただくのです。柔和で謙遜なイエスさまから学ぶのです。
そしてもう1つ、主は「わたしの軛を負いなさい」と言われます。軛とは荷物を引っ張る時に家畜の首にかける道具です。
2つの穴が開いていて、片方にイエスさまの首が入れられています。つまり、「わたしの軛を負いなさい」とは、すでに主が負っている軛のもう片方の穴に「あなたの首を入れてごらんなさい」という招きです。
その招きに従い、その穴に首を通し、難しい課題をイエスさまからいただいた責任として引き受け直すのです。すると不思議なことにその軛は負いやすく、その荷は軽い、と実感するのです。何故なら、孤軍奮闘であった働きを、イエスさまが共に負ってくださる、ということを経験するからです。
私たちの日常は軛に満ちています。私たちの働き、家庭、難しく感じてしまう人間関係もある種の軛でしょう。しかし「主よ、お願いします」と、主に委ねていく時に、その重い責任を主が共に負ってくださるというのです。ふと、横を見たら、軛のもう一つの穴に首を入れておられる主に出会うのです。
辛く感じてしまうことの1つは、私の辛さを分かってくれる人が誰もいない、というところにあります。でも誰か1人、そのことを知ってくれる人がいたら、それだけで支えられるということがあるでしょう。
イエスさまは私のことを知っていてくださるのです。いや、知ってくださるだけでなく、それは「わたしの荷、わたしの荷物」だと言われます。辛いと感じているその「荷」こそ、「一緒に担おう」と1人ひとりに与えられている、イエスさまからの特別な召し、召命です。
その責任を、主と一緒に引き受けて生きる時、心の中に、また私の周囲に、神の国が拡がっていくという約束です。
聖霊の助けによって心の目が開かれ、主が共におられるという現実を知る時、私たちは、どんなに忙しくても、余裕を持って、その召しを引き受けることができるのではないでしょうか。
イエスさまと一緒に汗を流すこと、また、時に、侮辱を受けることも含めて、イエスさまと経験を共有することです。
このことによって主との交わりはいよいよ深められ、強固にされ、真の安らぎへと導かれていくのです。お祈りします。