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ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教

愛のコミュニケーション ―愛がなければ、言葉は通じません

2017年7月9日
ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章1~7節

Ⅰ.ある父親の経験

あるお父さんの話です。そのお父さんには1つの大きな悩みがありました。子どもたちのけんかでした。ただ女の子同士ですので取っ組み合ったりするのではなく、3歳のお姉ちゃんが妹をいじめるのです。見かねた父親はお姉ちゃんを呼んで、「あなたはお姉ちゃんなのだから、弱い者いじめをしてはいけません」と叱りました。最後に、「わかったか」と確認すると、お姉ちゃんはしょぼんと頷きました。
しかし、お説教から解放されて5分も経たない内に、また同じことが始まります。父親は悩みました。わずか3歳の娘の心ひとつ導くことの出来ない自分の無力さに、父親は途方に暮れました。そして、どうしたかと言えば、「この子は私に似ない悪い子になってしまったのだから仕方がない」とレッテルを貼り、自分を納得させたのです。
しかし、ある時ふと考えました。下に妹が生まれるまでは、お姉ちゃんは自分ひとりでお母さんを独占していた。お母さんのお膝もおっぱいも、です。お母さんと一緒に歩いている時でも、知り合いのおばさんに会えば、「かわいいお嬢ちゃんね」と頭を撫でて貰っていました。
ところが、ある日突然、下の子が生まれ、事態は一変しました。大好なお母さんのお膝もおっぱいも妹に取られてしまう。町を歩いていてもおばさんたちは、乳母車の妹を見て、「ああ、何てかわいい赤ちゃんでしょう」と言う。誰も「かわいいお姉ちゃんね」と言ってくれない。赤ん坊が生まれてから、そうした経験をずっとしてきたのです。
ここまで考えて、お父さんは急に娘が不憫に思えて来たのです。しかも「悪い子」というレッテルまで貼ってしまった。そこで、父親はどうしたかと言うと、その子に向かって、「おいで、抱っこしてあげよう」と言ったのです。
お姉ちゃんはびっくりした顔になりました。もじもじしながらも、抱っこされに来ました。母親の柔らかい膝には比べようもない、毛むくじゃらの膝でしたが…。お父さんは、いつものように説教したり、しかったりするのではなく、優しく話をし、そしてまた、話を聞いてあげたのです。その結果、あれほど父親をイライラさせた、妹いじめはパッタリと止んだのです。奇跡のようだった、とその父親は証ししていました。

Ⅱ.愛がなければ言葉が通じない

今日の聖書個所は「愛の賛歌」と呼ばれ、よく結婚式でも読まれる御言葉です。そしてここには、「愛」という言葉が様々な言葉に言い換えられて出て来ます。愛するということを「忍耐強い」と言い換えたり、また「情け深く、ねたまない」ことが愛することであり、「自慢したり、高ぶったりしないこと」、「礼儀をわきまえる」ことも、相手を愛する事であり、「自分の利益を求めないこと」、「いらだったり、恨みを抱いたりしないこと」が愛することなのだと表現されています。そして、「すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(7節)とまとめられていきます。これが「愛」だ、と聖書は教えているのです。
一言で言えば、愛とは相手を信じることです。今の時点では、まだ明らかになっていない相手の可能性をも、そのことを信じて待つこと、これが聖書の教える愛です。
「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ」(1節)と言って、ここに「異言」言う言葉が出て来ます。
「異言」とは特別な言葉を指しますが、単純に「言葉」と置き換えて読んでもいいでしょう。ここでは、何を言おうとしているのでしょうか。
たとえば、天使の言葉のような素晴らしい言葉を語ったとしても、そこに愛がなければ、どんな言葉も通じませんと言っているのです。ほんとうに痛いところを突かれる言葉だと思います。
「強い者が弱い者をいじめていいのか」と、3歳のお姉ちゃんにお説教をしたお父さんの証しではありませんが、「強い者が弱い者をいじめてはならない」というのは正論です。お父さんは正しいことを言っています。でも、女の子には通じませんでした。5分も経たない内に、いじめは繰り返されたのです。しかももっと陰湿なかたちで…。ですからお父さんは悩みました。
今日の御言葉について、私は「ほんとうに痛いところを突かれる言葉だと思います」と申しましたが、これは、私たちが日常よく経験することではないでしょうか。
自分の言っていることは絶対に筋が通っている。それなのに相手がそれを聞こうとしない。相手に伝わらないのです。ですから、先ほどの父親はそのような場面で我が子に「悪い子」とレッテルを貼り、自分なりに納得しようとしたのです。
場合によっては、私たちは、相手がひねくれているからだ、とか、このことを理解する能力がないからだ、と相手のせいにしてしまうことがあるのではないでしょうか。
言葉が伝わらない理由は、相手が、私に愛されている、と思っていないだけのことなのです。自分のことを振り返れば分かることですが、自分のことを愛し、受け入れてくれる人の言葉でなければ、それがどんなに素晴らしい言葉であっても聞きたいと思わない。耳を傾けたくないものです。
先ほどお話しした父親は、賢い方だと思います。最初は我が子にレッテルを貼りました。けれども、ある時ふと「何か理由があるかもしれない」と思ったのです。
それが、今日の聖書が教える「信じる」ということです。7節に「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」とあります。この主語は「愛」ですから、相手を信じるとは、愛のひとつの現れ方、愛情表現の仕方です。
「もしかしたら何か理由があるかもしれない」と思ったということは、言い換えれば、「私はこの子をもう一度信じてみよう」ということです。それは愛する心の姿勢でしょう。すると不思議なことに、そう思って考えてみると、確かにそこに理由が見えて来たのです。下に妹が生まれてきた結果、自分を取り巻く環境が180度変化したという上の子の経験、それが見えてきたのです。

Ⅲ.私に出来ることは何だろう?

以前、礼拝でお話した「レタスの話」を思い出しました。
どうしても理解できない行動を取る人に出会ったら、その人のことをレタスに置き換えて考えてみなさい、というアドバイスです。
愛することが難しい相手である場合、あるいは好きになれる理由を見つけることが出来ないような場合、好きになれない理由を挙げ連ね、相手を責めたりしても仕方がないので、ちょうどレタスを見る時のように、その人が育った背景、受けてきた教育、家庭環境などを理解しようとする。あるいは今置かれている状況を見て行こうとする。すると不思議と難しいと思ったその人に対する見方が変わり、ほんの少しずつですが、その人に対して優しくすることが出来るようになるというのです。

Ⅳ.愛のコミュニケーション

ある方が、「子どもは親の愛を食べて育つ」と語っていました。「子どもは親の愛を食べて育つ。たびたび親の心の扉を叩いて『ボクを愛してくれていますか』と確かめるのだ」と。
確かに、そうだな、と思います。この「ボク(あるいは私)を愛してくれていますか」という問いかけの仕方は年齢により、また人それぞれでしょう。ですからその問いかけに、どのようにして応えるか、どのように愛を伝えようかと、苦労し、方法を考えることが多くなると思います。でも、それも愛するということの大切な一部です。そして、愛を必要としているのは、子どもだけではなく、親もそうですし、伴侶もそうです。
このことを考えるために、7節を見てみましょう。「すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」とあります。この御言葉は、「愛」が主語ですから「愛」という主語を入れて読みなおすと、こうなります。「愛は、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。
「愛している」とは「相手を信じることだ」と教えています。そして、「すべてを望み」とありますから、まさに「信じる、ということは、希望を失わないこと」でもあるのです。そして、「すべてに耐える」のです。つまり、私たちが信じて、希望を失わないでいようと思ったら、その時必要なことは、忍耐だからです。
ですから、聖書は、「愛はすべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」と語ります。
ある人が、「信じる」ということについて、こんな説明をしていました。
信じるとは、盲信とは違います。現実を正しく見た上で、その人を信じること、そして望みを失わないのです。だから忍耐する。これが愛だ、というのです。
私たちも、信じて、望みを失わず、忍耐をもって見てもらう時、相手の心が伝わってくるのです。言葉が通じてくるのです。何故でしょうか? そこに愛があるから、です。
神さまからこのように見ていただき、その愛に気づく時に、私たちの心に、神様の愛が、神様のみ心が必ず伝わってくるのです。
お祈りします。